ここんところのOKCHANさんの発言を注意していると、中国への不信感は相変わらず根強いようだ(5月16日の午前の記事=日付をちゃんと書いておかないと、相手はたわいない記事でどんどんブログを更新してしまうので、いつの記事を対象にしているのかわからなくなる)。
こうなると一種のヘイトではないかとさえ思いたくなる。
だから、わたしみたいに正面からの反対意見は、おべんちゃらばかりのコメントより歯応えがあっていいんじゃないか。
いちゃもんのない意見はヌカに釘を打つようなものだよ。

表現の自由の保証された日本では誰が何をいおうと自由だ。
いまのわたしは自分の病気のことで手一杯で、他人のブログにまて口を挟んでいる余裕はないんだけど、やはり言っておきたい。
じつは家族のないわたしだけど、姪っ子がいて、最近その子供たちの写真を送ってきたばかりだ。
わたしは子供たちのために平和が未来永劫に続くよう願わずにはいられない。
“いられない”ではなく、それを守るのはわたしの義務だ。
父親の考えが息子に与える影響は大きいという。
わたしは危機感を抱いている.
けってしてOKCHANさんのスマートな息子さんが、父親の影響を受けやしないかという心配だけじゃない。
不信感にあおられて日中間に亀裂が走り、息子さんが二度と上海の食堂で中華料理を味わえなくなったらつまらんでしようが。
わたしだって機会があれば、また上海のレストランでビリ辛サトイモが食べたいし。
それでも、なにがなんでも中国への不信感を言いたいならそれはOKCHANさんの勝手だけど、まだつい100年ばかり前にはそんな勝手なことも言えない時代があった。
太平洋戦争の前は、日本政府に反対の立場なんてていいたくても発することが出来なかった。
私たちは長い平和か続いたおかげで、そういう暗い時代のことを忘れてしまった。
いまではそういうことを想像することもできない。
戦前の詩人小熊秀雄の「馬の胴体の中で」を読んでほしい(メンドくさがりのためにリンクを張っておいた)。
日本にファシズムが復興するのはそれほど難しいことじゃない。
みんながみんな、台頭する中国に対する不信感をいだき、それを誰かが煽ればいいだけだ。
ファシズムは国民の意見をすべて完璧に思う方向に向かわせようとする。
わたしのイヤなことの一番は、全ての人が同じ方向を向かされて、反対の意見を聞かなくなることなんだよ。
日本政府の片棒を担いで、中国への不信感をいうOKCHANさんさえ、いまのように自由にものを言えなくなる恐れがあるということだ。
だからわたしは執拗にOKCHANさんに抗議をして、世の中には異なる意見があることを説明しようとしてるんだ。
「それとも二十一世紀というのは新たな帝国主義の時代なのだろうか」と、OKCHANさんは書く。
そのとおり、いまの中国を見ていると、かつての植民地主義とは異なる、やらずぶったくりではない新しいウインウイン時代の始まりとなぜ思えないのか。
わたしはOKCHANさんがわたしのブログを読んでいると確信しているよ。
たとえ無視されても、昨夜のわたしのブログのアクセスは500プラスだ。
それだけの人が読んでくれるなら、わたしのブログもまったく意義がなかったわけじゃない。
最近のコメント