2018年7月16日 (月)

コンサート

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昨日は近くにある亜細亜大学まで、吹奏楽のコンサートを聴きに行ってきた。
部屋にいても暑いし、ほかに無料でできるヒマつぶしもなかったので。
学生の演奏会かなんてバカにしちゃいけない。
中学生のブラスバンドだってすばらしい場合がある。
音楽理論にまるで詳しくないわたしのこと、ここはあくまで脳ミソの直感による感想を。

コンサートの場所は大学の構内にあるホールである。
亜細亜大学に入るのは初めてだったけど、ホールも含めてなかなか立派だ。
どんなものかサッパリわからんだから、早めに行ってみたら、最後まで空席があったからあわてる必要はなさそうだ。

プログラムは1部、2部編成で、コダーイとかリムスキー・コルサコフなんて名前があったので、これはクラシック主体のコンサートだろうと思った。
馴染みのない曲ばかりのなかに「You Raise Me Up」という曲があり、タイトルからしてポピュラー曲らしい。
「ノートルダムのせむし男」という曲もあって、これはディズニーのアニメからの曲だというけど、わたしは聴いたことがない。

はじっこのほうにピアノやコントラバス、複数の打楽器が並ぶけど、中心になるのはトランペット、トロンボーン、チューバ、ホルンなどのまばゆく輝く金管群に、フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、サクスホーンなどの木管群で、総勢40人ちかい管楽器奏者がステージに勢ぞろいだ。
わたしはジャズはたまに聴きに行くけど、管楽器のフルオーケストラ演奏をナマで聴く機会はほとんどないから、これは興味深かった。

ある演奏ではとくべつに解説があって、めずらしい楽器が参加しますとのこと。
耳のわるいわたしには、解説がよく聞こえなかったけど、これはツィンバロムというものらしい。
どんな楽器が出てくるかと思ったら、マージャン卓みたいなかたちをした楽器で、ユニークなのは、耳かきのお化けみたいな2本のピックで、卓上の弦をはじくところ。
こんなおおげさなものではないけど、耳かきを見て、わたしはむかし中国に行ったとき、シルクロードで聴いたウイグル族の民族楽器を思い出した。
たかが耳かきにしては、意外に思うほど大きな音が出るのに感心したものである。
帰宅したあとで調べてみたら、ツィンバロムはハンガリーの民族楽器だという。

最初にこの楽器のデモンストレーションがあり、単独で聴いたその音は、ジンタの響きのように哀愁を感じさせるものだった。
ステキだなと思ったものの、管楽器主体の演奏のなかでは、ああ、また耳の遠いわたしには、猛獣のあいだのカナリアの声を聴くみたいで、この楽器の音を聴きとるのに苦労した。
ツィンバロムの抜けたほかの演奏では、なにしろわたしは音楽を、耳ではなく体で聴くほうだから、とくに問題はなかったけどね。

小休憩をはさんで2部になると、ゲストのトロンボーン奏者が加わって、まずこの楽器による協奏曲。
トロンボーンは顔のわきにスピーカーをつけているようなものだから、わたしにも問題はなく聴こえ、ジャズでもおなじみの楽器だからおもしろかった。

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演奏は2時間ほどで終わったけど、いちおうアンコールがあり、指揮者が呼び戻されて、2曲ばかりプログラムにない曲を演奏した。
たまげたのはこの2曲だ。
それまでのお行儀のよい演奏とちがって、これはジャズかロックを思わせる特大の派手な演奏だった。
指揮者の合図で奏者がいっせいに立ち上がり、聴衆に向かって大音量の音の洪水をあびせかけるのは圧巻としかいいようがない。
最初からこんな演奏をすればいいのに。

最後の曲では一種独特の、拍子木を打ち鳴らすようなリズムが加わって、ロック大好き人間のわたしには、ブラスロックの先駆者シカゴの 「I`m a Man」 を聴くようだった。
同じ曲だという確証はないけど、管楽器オーケストラがシカゴの曲を演奏することは、あっても不思議じゃない。
演奏者が客席にまで下りてきて、いやもう、聴衆と一体になっての盛り上がりよう。
タダで聴いちゃ申し訳ないなと、後ろ髪ひかれる気分で大学をあとにした。

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2018年7月15日 (日)

秘境×鉄道

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昨夜はBSで「秘境×鉄道」という番組を観ていた。
鉄道による海外の紀行番組で、案内役はくたびれた関口知宏クンに代わって、若手の古原靖久クン。
個人的には仲川希良ちゃんあたりがやってくれるともっといいんだけど、世界の秘境にある鉄道に乗るのが目的の番組なので、若い娘が案内するには危険すぎるってことなんだろう。

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今回の秘境はシルクロードというから、わたしの行ったところが出てくるかと思ったら、同じシルクロードでも中国から国境を超えたタジキスタン、カザフスタン、キルギスタンといった中央アジアの国々が舞台だった。
中国の新疆ウイグル自治区もそうだけど、これらの国はみんなイスラム国家で、風景や女性の服装をながめているかぎり、新疆とほとんど変わらないから、ついなつかしい気持ちで観た。
ここに載せた写真は、すべてわたしのアルバムから。

わたしは新疆ウイグル自治区を旅しているころ、カザフ人やキルギス人も見たことがある。
中国は世界一の多民族国家ということで、自国の中にたくさんの他の民族を抱え込んでいるのである。
もっとも名札を下げているわけではないから、相手の民族籍がわかったのは、言葉のボキャブラリーが少ないわたしが、知り合った相手にやたらに出自はどちらでげすと尋ねたせいだ。

新疆で知り合ったウイグル人と話をしてみた。
彼は日本語ガイドをしていたから日本語はペラペラだ。
このへんには他の民族も住んでいるそうだけどと訊くと、カザフのやつらは山の上に住んでますという。
客観的な立場のわたしとしては、“やつら”呼ばわりにびっくりしたけど、中央アジアの民族感情がすこしは理解できたような気がした。

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その新疆にある天池という大きな湖に行ったときのこと。
この湖は高山のいただきにあり、周辺に住んでいるのはカザフである。
ウイグルが平地で農耕にいそしむのに比べ、カザフは山中で牧畜にいそしんでいるということだった。
これはあくまで中国国内のカザフの場合で、国境を越えたカザフスタンは日本の七倍の国土を持っているというし、いまではさまざまな仕事に従事し、都会に住む者も多いはずだ。

カザフは女性でもたくみに馬を乗りこなす。
もっとも山のなかでは、馬より便利な乗り物は思いつかない。
平地に住むウイグルは、みんなロバ馬車で、女性が馬にまたがっているのを見たことがない。
天池を見物に行って、わたしも馬に乗ってきたけど、すぐ下の写真はそのときの女性馬方さん。

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ウイグル人は日本人とはあきらかに容貌が異なり、インド系というか、パキスタンやアフガニスタン人のような顔をしている。
これに比べるとカザフ人のほうは、日本人、というか、モンゴル人のような顔が多かった。
もっとも中には金髪碧眼までいて、長い歴史のあいだの複雑な混合を物語っている。
昨夜の番組を観ていると、タジク、キルギスも似たような感じで、年配の女性なんか、そのまま日本に持ってきても違和感がないように思えた。

そんなキルギスには驚くような風習があって、嫁さんはみんな誘拐されてきたのだそうだ。
そんな奇習についてはこのブログにも書いたことがあるけど、仲川希良ちゃんあたりが行ったら、誘拐されて現地妻にでもされていたかもしれない。
でも誘拐されてきた女性も、現在は文句もいわず幸福に暮らしているみたいだから、げに女性心理はわからない。
下の写真は天池の近くの農村でみかけた女の子ふたりだけど、彼女らの世代はおしきせの結婚から脱却するのではないか。

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はっきりいって、最近のアフリカよりも中央アジアの国々のほうが遅れている感じ。
古原靖久クンは政治にまで踏み込まないけど、駅員や乗客のなかには顔をかくす者もいたし、馬に乗るカザフスタンの草原散策は軍人の案内つき。
仔細に観ると、まだまだ隠しごとの多い国々であるような気がして、それがなおさらわたしの興味をひく。
わたしが30年若ければ、今度はこのあたりをさまよっていたものを。
グローバル社会からずれていればいるほどおもしろいというのが、わたしの信念なのである。

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2018年7月14日 (土)

今朝の新聞

今日のウチの新聞は、大雨の晩に自民党の幹部が赤坂で宴会をしていたと報じている。
写真まで公開されているから、これはマチガイない事実で、反体制新聞がこういうことを報じるのは当然のことだ。
モリカケに変わる新しいネタとばかり、ウチの新聞の報道にも熱が入るけど、その晩の気象状況と宴会を時間経過とともに詳しく記事にしたものだから、わたしみたいなアンチ朝日からすると、いろいろ当夜の状況が推測できておもしろい。

時間経過のほうは7月5日の11 : 00から始まっていて、この時間ではまだ菅官房長官の、過去の水害をひきあいに出して、この季節の大雨には注意しましょうという発言のみ。
つぎが13 : 20で、京都、大阪、兵庫の3県に避難指示が出たとのこと。
14 : 00には記録的大雨のおそれありということで、気象庁が「厳重な注意」を呼びかけ。
15 : 30に内閣府で、小此木防災相も出席して災害警戒会議。
16 : 00過ぎには、菅官房長官が大雨への警戒を呼びかけ。

この時点ではまだ今回のような、未曾有な災害になるとはだれも思ってなかったのだろう。
ま、雨や地震で大騒ぎしていたら、災害列島の日本じゃ政治家は務まらない。

安倍首相も参加した宴会が始まったのは、このあとの20 : 28からとやけにこまかい。
しかし反自民のウチの新聞が根ほり葉ほりで取材した記事だから、これは正確な時間と思われる。
そして、21 : 19には早くもお開きで、つまり宴会場に1時間もいなかったわけだ。
わたしみたいな凡人の宴会でも、3時間、4時間の飲み会はふつうだから、政治家ってのは酒によわいのかと思ってしまうけど、それよりも、おそらく刻一刻と情報が入ってくるので、こりゃマズイと、大急ぎで宴会を切り上げたというのが本当のところだろう。

その後の時間経過もまだまだ続くけど、この先は宴会出席者もみんなそれぞれの持ち場についただろうから、とくに問題はないと思われる。
問題があるとすれば、オレって首相と同席できるくらい大物なんだぜを吹聴したくて、この宴会の写真をツィッターに上げた西村官房副長官だな。
余計なことをしやがってと、身内の自民党からもボコボコにされているらしいけど、あとはこれをネタにした野党、マスコミによる政権攻撃がいつものパターン。
ところがケシカランの矛先を向ける立憲民主党も、枝野サンや蓮舫サンがその晩どこかで宴会をしていたそうで、ブーメランをくらうのもやっぱりいつものパターンだよな。
政治家っつうのは宴会も仕事の内らしいっすよ。

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2018年7月13日 (金)

夏の夜のミステリー

昨日は仕事に行こうとしたら、車がウンともスンともいわない。
バッテリーがあがっちゃったようだ。
買って4年半のプリウスなんだけど、ハイブリット車のバッテリーはものすごく高いと聞いている。
こりゃアカン。
GoProを買おうかどうか迷っていたけど、それどころじゃない。

でもJAFのサービス員に聞いてみたら、プリウスにはメインとサブのふたつのバッテリーがついていて、メインのほうがあがるってことはまずありません、サブのほうでしょうという。
サブのほうはふつうの車についているバッテリーと同じ扱いでいいそうだ。
なんだ、そうか、あはは。

原因はわからない。
過去の記録を調べてみたら、交換してまだ1年と3カ月ぐらいのバッテリーで、べつにルームランプをつけっぱなしということもなかったし、ほかにこころあたりもない。
トヨタに持ち込んで充電してもらったけど、そっちでも原因がわからないという。
真夏の夜のミステリーだな。
暑くて仕事をする気がおきないから、もっけの幸いで、深く悩んだりしないけど。

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2018年7月12日 (木)

第七の封印

日曜の夜はBSでバレエやオペラを放映する。
バレエはまだしも、オペラにはあまり興味はないんだけど、このあいだのそれはイングマール・ベルイマン監督の映画 「秋のソナタ」 をもとにしたオペラだというので、念のため録画してみた。

わたしはもとになった映画のほうは観たことがある。
ベルイマン監督の映画は、どれもひじょうに哲学的で、難解でもあるんだけど、「秋のソナタ」 については、母と娘の確執を描いた現代劇で、ぜんぜんおもしろくなかったと正直に告白しておこう。
最後まで観るのが苦痛で、途中で放り出したので、もちろんオペラのほうも途中で放り出した。
だいたい日ごろからオペラなんてものには縁がないので、ここではわたしが最後まで観通すことのできた 「第七の封印」 という映画について書くことにする。
いえ、けっして感動したとか、素晴らしかったなんてエラそうなことをいうつもりはないんだけどね。

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「封印」 のほうは「ソナタ」 より古い作品で、十字軍の遠征から帰国する途上の騎士が、死神と出会う場面から始まる。
迎えにきたのかと問う騎士に、そのとおりだと死神は答える。
死神を演じている役者は、これは1956年の映画だからCGではないし、地のままの顔で不気味な雰囲気がいかにも適役(1枚目の画像)。

騎士がちょっと待ってくれというと、だれでもそういう、待つことはできないと、死神はさすがに自分の仕事に忠実だ。
なんとか時間稼ぎをしようという騎士は、相手にチェスの試合を申し込む。
死神というのはむかしからチェスが好きなんだそうだ。

こうして彼らがチェスをしているあいだに、同時進行というかたちで、騎士は旅を続ける。
つまり時間稼ぎをしている騎士と、時間稼ぎのおかげで先に進める騎士の、ふたつの設定が同時に描かれるわけで、話はなかなかややこしい。
難解であることはまちがいないけど、それでもこちらの作品には、まだわたしを飽きさせない見どころがたくさんあるので、最後まできちんと観ることができた。

見どころというのは、当時の旅芸人の生活ぶりや、因習にとらわれた農村のようす、疫病を怖れる人たち、魔女の疑いをかけられて火あぶりにされる娘など、暗い中世の時代風俗がリアルに描かれていたこと。
しかしそういう見どころは、ストーリーとして重要ではなく、観念的なものの積み重ねとして描かれる。

わたしは以前にマルタ島というところに行って、教会の壁に斬首されるヨハネの縁起でもない絵がかかげられているのを見たし、また街のあちこちに骸骨のような、死をモチーフにした飾り物が多いのに気がついた。
これは当時の騎士たちの、死と隣り合わせの過酷な状況を物語るものだそうだ。
イスラム教徒たちとの戦いからもどる騎士も、当然多くの死を見てきたはずで、映画のなかの彼は神の存在に疑問をいだいている。
わたしみたいな凡人でさえ、東北大震災の現場でそう感じたくらいだから、これは外国でもよくある疑問なのだろう。

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この映画のなかに神はいちども姿をあらわさないけど、主要登場人物である死神の姿で、あるいは行倒れの巡礼、疫病払いの行列、火刑に処される娘、ペストで死ぬ男など、死の象徴はいたるところにあらわれる。
姿を見せない神をなんとか信じようとする騎士に対して、そんなものはおりませんと、彼の従者はあくまで冷静だ。
うん、この従者の考えはわたしに似ているな。

芸人一座の座長と鍛冶屋の女房の浮気という、民話のような寸劇をはさんで、騎士はようやく妻の待つ自分の城に帰り着く。
古い城の食堂で騎士と同行の人々が食事をしているところへ、チェスの決着をつけた死神があらわれる。
神も仏もないものかと、苦悶する騎士。
最後まで、そんなものはありませんの従者。
ベルイマン監督は、古い宗教観と無神論者を対比させるつもりでこの映画を作ったのかもしれない。
わたしもすこしまえに、いくつかの法事が重なって、儀礼ばかりにこだわるそのやり方に、無性に反発をおぼえたばかりだ。
これはもしかしたら、わたしみたいな偏屈のための映画なのかも。

まあ、そんな手前勝手な解釈はやめておこう。
暗い一方の映画のなかで、騎士と別れて別行動をとる芸人夫婦は、明るい未来を象徴しているように思えるけど、これもその気になれば理屈はいくらでもつけられる。
しかし、いくら立派な理屈をこねても、どうせわたしには1円にもならないし、そんなものを無理にひねくり出さなくても、わたしは映像を目で追うだけで満足してしまったのだ。
「第七の封印」 はそういう見方、つまりひとつひとつの出来事を無理に意味づけなくても、全体として無神論者の代弁をしてくれる映画のように思えてしまう。

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映画の最後に、旅芸人の妄想として、死神に先導されていく人たちが映る。
興味をもってわたしなりにメンバーを分析してみたけど、先頭に大鎌を持った死神が立ち、あとは騎士、従者に使われている娘、従者、鍛冶屋、鍛冶屋の女房、最後尾に竪琴を持った芸人一座の座長という順番らしい。
全員が異なるポーズで、踊るようにひかれていくというのが印象的だった(添付した3枚目の画像)。

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2018年7月11日 (水)

ひさしぶりのミント

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わが家の庭にハーブのミントが茂っていること、それを焼肉にトッピングしようとしたら、いつの間にかひとつ残らず刈られてしまっていたことは、このブログに書いたことがある。
この植物は、根絶やしにするのが困難なくらい繁殖力が強いそうで、 わたしはそれがどのくらいのものか、増えるようすを記録しようとしていた矢先だったのに。

ネットで調べると
「雑草より強いといわれるくらい繁殖します」
「庭植えにしている場合は、他の植物の領域まで侵すくらい繁殖します」
「管理に自信がなければぜったいに地植えしてはいけません」
などと書いてある。
そういえば以前に何本かを摘んできて、コップに挿しておいたら、茎のとちゅうから新しい根が生じて、いつまでもぴんぴんしていたのに驚いたこともあるな。

おまえはヒドラか宇宙人かってとこだけど、そんなに繁殖力が強いなら、まだ死滅したわけではなさそうだ。
今日ベランダから見下ろしてみたら、地面から新芽が出ていた。
整地されてきれいになった庭だから、たくさんの雑草と競争して、これから彼がどれだけ勢力範囲を広げるか楽しみだ。
◯で囲ったのがミントの新芽。

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2018年7月10日 (火)

バディーブリージング

タイの洞窟閉じ込め事件は、マスコミは大変そうなことをいってるけど、それは失敗するわけにいかないから慎重になっているだけで、現実はそんなに大騒ぎするほどのもんじゃなさそうだ。
ダイビングに思い入れを持っているわたしは、タイの事件をその道のプロたちにおまかせして、またそれに凝っていた当時の思い出を語ってしまう。

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まだ必ずしもライセンスの必要ではない時代だったので、当初のわたしたちは無免許で潜り始めたんだけど、だんだんその必要を感じてきて、顔なじみになっていたショップでライセンスを取得することにした。
取得するためには講習を受けなければならない。

ここでわたしたちはバディブリージングということを教わった。
これは水中で空気ボンベがカラになった場合、他人のボンベをふたりで共用して、具体的にはひとつのマウスピースを交互にくわえて、なんとかしのぐ方法である。
未経験者にはむずかしそうに思えるかもしれないけど、水中でマウスピースやマスク、果てはボンベをはずすこともたまにあることだから、ベテランダイバーにはそんなに大変なことでもない。
わたしの仲間には、前夜に大酒をくらって、翌日のダイビングで苦しかったものだから、海底にボンベをおっぽり出して帰ってきたのがいる(あとで全員で探しに行った)。
バディブリージングのような間接キッスは、わたしたちは男ばかりで、気色わるいということでいちどもやったことがなかった。
ほんと、いいかげんなダイバーだったよな。

今回のタイの事件の救出劇はバディブリージングの応用ともいえる。
なんにせよ、熟練のダイバーが関わっていることだ。
うまくいけば、今日の夜までに全員救出ということになっているかも知れない。

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2018年7月 9日 (月)

わたしの頭

わたしの頭はパソコンか。
いえ、処理速度がそんなに速いという意味じゃない。
どうもここんところぼんやりしちゃって、毎日同じこと、たとえばブログの更新なんかを繰り返しているぶんにはいいんだけど、ちょっと場違いなこと、たとえば税金の支払いや健康保険がどうのこうのと考えだすと、めっきり処理速度が遅くなる。
えい、面倒だとリセットすると、再起動するのにまたやけに時間がかかる。
CPUもメモリも時代もんだものな。
うちのパソコンと人間の認知症は同時進行で始まっているみたいだ。

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2018年7月 8日 (日)

確率論

確率論について。
いまの時代に、天寿をまっとうしたといえるくらいの長い期間、戦争や飢餓をいちども体験せず、ウォシュレットのあるような最先端の文化を享受できる確率はどのくらいあるだろう。
それに加えて、大きな事故や災害にもあわない確率はどのくらいだろう。
東京に住んでいるとつくづくそう考えてしまう。
西のほうでは大雨で大きな被害が出ているのに、東京ではどこの世界の話だいという感じ。
東北大震災のときもそうだった。
テレビで見ると、現実に大きな災害があったのに、自分の身内や知り合いに、それで死んだとか家を失ったという人はひとりもいなかった。
その後もいくつかでっかい災害があったけど、みんなわたしにはかすりもしないや。

おまえだけじゃない。
日本に生まれた団塊の世代なら、その確率はひじょうに高くなるといわれてしまいそう。
それじゃもうひとつ条件を加えよう。
こういう時代にあって、心身ともに健康で、お金持ちになりたいとか、美人の嫁さんをもらいたいというムリな願望もなく、退屈しないていどの趣味を持ち、お迎えが来るならいつでも来いって開きなおれる確率はどのくらいあるだろう。

そう考えると、つくづく自分の存在は奇跡的みたい。
奇跡、奇跡を乱発すると、こないだ死刑になったどこかの尊師みたいに、オカルトになってしまうから注意しなくちゃ。

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2018年7月 7日 (土)

Stranger Than Paradise

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「ストレンジャー・ザン・パラダイス」という映画を観た。
公開当時いくらか話題になったみたいだけど、「ラスト・ショー」や「ニュー・シネマ・パラダイス」みたいな映画が連想され、あまり観る気が起きなかったのである。

二級酒を水で薄めたような、どうにもやる気のない映画だった。
ストーリーは、ハンガリーから米国にやってきた若い娘が、いとこの若者の部屋に転がり込み、部屋のなかで意味のない会話をし、いとこの友人を含めた3人でフロリダへドライブするというもの。

出てくる男ふたりがどこにでもいそうな若者なのはいいけど、まあ、やる気のないこと。
もしかしたらゴダールの映画のように、男女の反社会的な行動や、放埓な三角関係を描いた映画かもしれないと思ったけど、べつに彼らが銀行強盗をするわけでも、桃色遊戯にふけるわけでもない。
いまどきの草食系男子ならともかく、なにかを期待するわたしの世代にはぜんぜんもの足りない。

そのまえには、テレビで「荒野の用心棒」をまた観たけど、用心棒が悪党の家に押し入り、拳銃で5、6人をあっという間になぎ倒す。
倒れた悪党の横を、飼われていた子犬がキャンキャン鳴きながら逃げていく。
映画の出来はともかく、細かいところに凝るものだと感心したものだ。
ところが「ストレンジャー・ザン」では、お金がかかってないことだけははっきりしていて、とにかくあるものだけで間に合わせたという感じ。
気の利いたセリフや、おもしろい仕掛けはまったくない。

でもこのやる気のなさに、どこかぬるま湯につかっているような心地よさを感じることも事実。
たぶん映画が制作された当時もいまも、これでもかこれでもかと、向こうから押しつけてくる映画が多すぎたせいだろう。
そしていちばん大きいのは、寝起きみたいな髪型で、終始口数のすくないこの娘の魅力かも。
べつにイヤらしい場面がなくても、ただ魅力的なヒロインを見ているだけで楽しいという映画も、たまにあるのだ。

最後に娘はハンガリーにもどることにする。
いとこは追いかけて飛行機に乗る。
帰国したと思った娘は、3人が寝泊まりしていたモーテルにぼんやりともどってくる。
それでどうなったのか。
べつにどうにもならなかったんじゃないか。
最近なにごとにも覇気のないわたしは、こういうのがユーモアであるという屁理屈をならべて、この映画を賞賛しようとは思わない。

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