会津藩のその後
司馬遼太郎の歴史紀行 「街道をゆく」 をはじめて読んだのは1975年のことである。
たまたま旅行中に、駅で週刊朝日を買い、そのなかにこれが連載されていることを知ってからである。
それ以来、作家が1996年に亡くなって連載が断絶するまで、わたしが週刊朝日をひたすら買い続けたのは、ただただこの紀行記を読みたかったからである。
ありがたいことに週刊朝日に連載中から、このシリーズは文庫本としても読めることになった。 貧乏アパートに文庫本で43巻がずらりと揃っているのはなかなか壮観である。
この本の魅力について書きたいことは山ほどあり、ありすぎとてもいちどに書ききれないので、例をあげつつ、おいおいこのブログでふれていくことにする。
たとえば日本人なら誰でも新撰組のことを知っている。
もうすこし詳しい人なら、新撰組が幕府の直属ではなく、幕府の命をうけた会津藩の直属組織だったことを知っているだろう。
明治維新で薩長による新政府ができたとき、維新まえに薩長の志士たちを多く殺傷した新撰組の、その直属の上司だった会津藩はとりつぶされてもおかしくなかった。
じつは会津藩はとりつぶされていない。
それじゃあどうなったのかと、ここから先の会津藩の運命を知っている人はあまりいないんじゃないか。
「街道をゆく」 の41巻にはこのあたりの事情が出ている。
わたしもこの本を読むまで知らなかったけど、会津藩は藩ぐるみ、青森県の下北半島に移住を命じられ、移住した藩士たちは厳寒の地で、政府の支援もなく、塗炭の苦しみをなめたとある。
そんな事情もあって、いまでも会津若松市と下北半島むつ市は仲がいいらしい。
この話にはさらにおまけがあって、かって長州萩市から会津若松市に、(維新の敵対関係を解消して) 仲直りしましょうという提案があったとき、会津若松市はむつ市の意向もありますからといって婉曲に断ったそうである。
「街道をゆく」 には、こうしたこころ温まるエピソードがたくさんあるのである。
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コメント
会津藩といえば、西南戦争のとき南阿蘇村で戦死した元会津藩家老・佐川官兵衛という人がいたそうで、南阿蘇村商工会ではその足跡をたどる「佐川官兵衛ウオーク南阿蘇2007」を開催し参加者を募集しているという記事が熊日に掲載された。
官軍の官兵衛は「鬼官兵衛」と恐れられた一方で、村の子供をかわいがるやさしい面もあったことから、村民やファンで顕彰会を組織、今も慕われている。コースは、官兵衛が陣を構えた同村吉田の明神池名水公園から、戦死した同村河陽の西南の役公園までの約15Kmをウオークするのだそうだ。
農村である南阿蘇村・村民の官軍びいきが伺える。
投稿: いなかもん | 2007年7月18日 (水) 21時04分
「街道をゆく」にはじつに多くの歴史上の人物が登場します。
その大半は、この本によってはじめて名前を知ったような、いわば歴史に埋もれていた人物なので、佐川官兵衛さんもどこかに記述があるかもしれないと思って探してみたんですが、なにぶん巻数が多いので、ちらちらとページをめくってみたぐらいでは見つかりませんでした。
そのかわり豊後・日田街道(大分県)という巻に、とちゅうで見かけた看板についての記述がありました。
「ここはミヤマキリシマの群生地でありました」というだけの看板なんですが、その山のミヤマキリシマは盗掘のためにひとつ残らず消滅してしまったそうで、看板の簡潔な文章が、そのまま社会と文明に対する痛烈な皮肉になっているというものです。
「街道をゆく」は、チャンチャンバラバラを追っかけるような単純な歴史紀行記ではなく、こうした社会時評にもなっているのです。
いなかもんさんも高森町の貴重な自然にようく注目していてください。
投稿: 酔いどれ李白 | 2007年7月19日 (木) 17時05分