2007年9月30日 (日)
テレビでF1レースを見ていたら、富士サーキットは大雨で、いつになってもペースカーがひっこまない。
これじゃあ本レース開始まえにガス欠じゃないかと心配になってしまう。
現在のF1レースじゃ燃料補給の回数も制限されているんじゃなかったっけ?
待ってるあいだに昨日見た事件でもブログに載せることにする。
昨日、車で買い物にいって、駐車場に車をとめて横断歩道を渡っていたんだけどね。
信号待ちをしている車列のまえに、路地からガダルカナルの生き残りみたいなじいさんがミニバイクで飛び出してきた。
ノーヘルで、バイクをかたむけて、さしずめ老人暴走族ってな具合でカッコいい。
カッコいいのはそこまで。
信号待ちをしている車列のいちばん先頭に白バイがいたもんで、アッというまに御用になっちゃった。
だいたい交通量の多い、取締りのきびしい東八道路で、ノーヘルってのは無謀すぎるんじゃないの、えっ。
おそらくあのじいさんの時代には、まだヘルメット着用は義務じゃなかったんだろうな。 気のドクといえば気のドク。
買い物をすませて帰りに見たら、まだ白バイのまえでぺこぺこと謝っているじいさんがいた。
ところでまだF1はスタートしないぞ。 おかげで便所にも行けない。
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寝ぼけまなこで朝刊に目を通してみたら、一面トップが 「沖縄11万人抗議」 になっていた。
このブログでも以前ふれたことがあるけど、大戦中に日本軍が沖縄県民に対して集団自決を強要したこと、それが文部省の検定で、日本史教科書から削除されたことに対する抗議である。
要するに強要はあったのかなかったのかということだが、わたし個人としてはあったという意見である。
個人の自由な意見を毛嫌いし、みんなで渡ればこわくないという体育会系体質に嫌悪感を感じているわたしは、生きて虜囚の辱めをうけずを戦陣訓にしていた当時の日本軍が、自分たちが死ぬのに、同胞 (だと思っている) 県民が生きのびるのを見過ごすわけはないように思ってしまう。
ニュース・フィルムで見たのだが、制止する米軍の目の前で海に身を投ずる民間人にすぎない母子は、いったいなぜそこまで追いつめられたのか。
はっきりした言葉による命令があったかどうかではなく、そこまでに至るプロセスの中で、米軍への恐怖心を植えつけたり、自決のための薬物や爆弾を用意しておくようなことがあれば、これも強要と解してすこしもおかしくはない。
最近よく警察官の不祥事がおこる。
それで処分された警察官は辞職するのが恒例になっているようだけど、オレは辞めないといえるのかどうか。
警察官と沖縄県民を同列にはおけないが、そういうことも強要といえるのではないか。
わたしは中国や韓国 (や朝日新聞) が問題視している、日本軍による残虐事件を鵜呑みにしているわけじゃないが、そうした問題への敵がい心がこんな形で噴出するとは思っていなかった。
相手のねつ造に対して抗議するのは当然としても、だからこちらもねつ造でというのは日本のとるべき態度ではない。
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2007年9月28日 (金)
かってビルマという国があった。
わたしが子供のころ読んだ航空戦記漫画 (わちさんぺいの作品だったかな) に、密林の上を飛ぶ戦闘機群の絵があって、そこに 「日本軍は破竹の勢いでラングーンの空にせまった」 という説明がついていた。
まだ戦争をカッコいいものと信じていたわたしは、胸をときめかせてページを追いかけていたものである。
その後、ビルマはミャンマーという国になり、いま世間を騒がせていることはご存知のとおり。
ミャンマーは仏教国であり、もしも民主的な国家の建設に成功していれば、タイのように、おだやかな人心と美しい風景で外国人を魅了する、東南アジア屈指の観光立国になっていたと思われる。
旅行好きなわたしとしては、軍政のおろかしさを残念に思わないわけにはいかない。
この国でデモ取材中の日本人カメラマンが射殺された。
その映像がテレビで流されたというので、見逃したわたしはただちにユーチューヴ (YouTube) を当たってみた。このさい著作権うんぬんなんか言っちゃいられないのである。
ショットの瞬間はちょっと微妙だが、たしかに銃を持った兵士のすぐわきで倒れるカメラマンが映っていた (ユーチューヴさまさまだな)。
故意の射殺かどうかの議論はべつにして、このカメラマン長井健司さんの生き方に共感をおぼえる。
生死を賭けた取材ではないけど、わたしも中国を旅行しているとき、なんとかして日本人がいちども行ったことのないところへ行ってみたくて仕方がなかった。
いつかブログで触れるかもしれないけど、青海湖の近くにある、外国人立ち入り禁止のデリンハという街へ乗り込んだのはそういう理由である。
戦場カメラマンが危険な地域へ乗り込むのも、その悲惨さを伝えたいという欲求以外に、誰も見られない現実というものを、自分の目で見てみたいという欲求があるのではないかと思うのである。
長井カメラマンは死んだとき50歳、独身だった。
この人もわたしといっしょで、家庭や平穏な生活よりも、自分が見たいものを見ることのほうに人生の価値を見出す人間のひとりだったらしい。
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「日本山名辞典」 をながめているうち、発見した新知識をいくつか。
奥多摩にある鷹巣山 (たかのすやま) を、わたしは鷹巣山と書いたり鷹ノ巣山と書いたりしてきたが、辞典でははっきり 〔鷹巣山〕 に分類されている。
鷹ノ巣山という見出しもちゃんと別にあるので、これは根拠のあるものらしい。
同時に鷹巣山という山は、鷹ノ巣山も含めると、日本国内に15もあるということがわかった。
深田久弥は 「日本百名山」 の中で駒ケ岳という山名の多さにふれているので、ついでにそれも調べてみた。
むろん駒ケ岳の場合はなになに駒ケ岳と地名を冠したものがほとんどだが、それは全部で (こまがだけという読みのものまで含めると)18ある。
なるほど、かなり多い。
しかし駒ケ岳が1位というわけではない。
わたしが何度か登ったことのある八ヶ岳・天狗岳の項を読んでいたら、天狗岳も負けず劣らず日本国内に18あることがわかった。
こちらは読みの違うものの応援など求めていないのである。
このあたりからだんだんむきになってきて、さらに数の多い山名を探してみた。
どんな名前が多いだろうと考えて、まず思い浮かぶのは、赤岳、黒岳、丸山など、色や形を簡潔にして直接的に表現した名前である。
山の名前というものは本来、地元の人たちによって自然発生的に名づけられたものがほとんどだろう。
だとすれば見たままの色や形で呼ばれたものがほとんどではないか。
結果は赤岳が4つ、黒岳が11 (ただし “くろたけ” と読むもの、“玄岳” と書くものがひとつづつあり、語源はいっしょだだろうからこれも含めた)。
丸山にいたってはなんと81もあって (“円山” も語源は同じだろうから、これを含めるとさらにプラス10) これが日本の最多山名だろう。
さてひまつぶしに丸山 (円山も) を駒ケ岳と比較してみるが、悲しいことに丸山は小兵ばかりで、千メートルにみたないものが81中68もある。
最高は赤石山脈にある丸山で2373メートル。
最低は石川県にある丸山で、たった63メートルしかない (こんな山まで見つけてきた辞典の緻密さには恐れ入る)。
緻密といえば、この辞典の丸山は北海道だけで45を数え、そのうちにはロシア領とされるエトロフ、クナシリ島の丸山まで記載されている。
駒ケ岳のほうのいちばん高いのは3760メートルで、これは北岳よりも高い。
北岳より高いというと、山に詳しい人はあれっと思うだろうが、この駒ケ岳は富士山の一峰の名前である。
純粋の駒ケ岳としては甲斐駒の2966メートルが高いが、辞典の記述・解説量では2956メートルの木曽駒が圧倒的に長い (行数にして前者は17行、後者は64行)。
81の丸山の標高を合計してみると67946メートルであるが、いっぽう18の駒ケ岳の合計は31057メートル。
平均すると丸山は839メートルにしかならないが、駒ケ岳は1725メートルになる。
この両者に勝敗をつけるとしたら、さあ、どうする?
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2007年9月27日 (木)
なんか前項の記事にトラックバックが二つばかりついたぞ。
ひとつはエロサイトへの勧誘で、もうひとつはハートプリンちゃんて女の人のブログで、少しはまともなものかと思ったら、商品の宣伝みたいだ。ま、ロクなもんじゃないな。
この一見まともふうは、無害なようだから、しばらくこのままにしておくか。
エロサイトは、見たい人もいるかもしれないんで、もう少しこのままにしておき、その後は削除します。
ところで喜多嶋舞って、美人だけどワタシゃ知らなかったね、ぜんぜん。
くれぐれも自己責任で見てやってくださいナ。
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「日本百名山」 を書いた山岳紀行作家の深田久弥は、じっさいに山に登らなくても、書斎で山について思索にふけっているような人も、立派に登山家の資格があるといっている。
どうせ、どんなに元気な人だって、いつかは歩けなくなる日がくるのだ。
わたしも登山が好きだが、最近だんだん書斎派になってきた。
わたしの場合、年齢じゃなく、なまけ者だっていうのが原因なんだけどね。
ちょっと前までNHKの 「小さな旅」 が、登山シリーズで山の番組ばかりやっていて、部屋でそんなもんばかり観ている自分がなさけない。
わたしの部屋に 「コンサイス日本山名辞典」 という小さな辞典がある。
活字中毒のわたしはこれにもいちおう目を通してみた。
すると山に興味のある者にとってはこいつはなかなか有用、楽しみのある本であることがわかった。
収録されている山の数はひじょうに多く、富士山からはじまって、八ヶ岳の高見石や、甲武信岳の一突岩にすぎない鶏冠山のような山まで載っている。
石川県の丸山という山なんか、たった63メートルしかないそうだ。
うれしかったのは、詩や歌に登場する山については、その作品名や作者名、歌なども解説されている点である。
ほかにも知名度のある山については、山名のいわれや関わりのあった事柄について、いちおうの解説がされていて、茅ケ岳の項にはちゃんと、山岳紀行家・深田久弥終焉の地であると解説がされていた。
山岳紀行作家は登山中に倒れたのである。 なんて幸運な死に方だったろう。
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2007年9月26日 (水)
NHK3Cでシューマンをやるというんで録画しておいた。
あとで観たら、なんとかいう指揮者となんとかいうオーケストラによる演奏で、ピアノにはマルタ・アルゲリッチが出演していた。
この人はクラシック界ではめずらしい妖艶な美女のひとりで (ただしだいぶ昔の話だけど)、若いころ、日本の雑誌がアルゼンチンまでインタビューに行ったら、ちらかったままの部屋から艶然とあらわれたそうである。
芸術家の余裕がそうさせるのか、もともとだらしない性格なのかわからないけど、そんな飾らないところがわたしは好きである。
南米の美女の御多分にもれず、ひじょうに情熱的な人で、結婚歴3回、離婚歴も3回である。国際コンクールで自分の押すピアニストが選からもれると、その場で審査員を辞退するという硬骨の人でもある。
大の日本びいきで日本での活躍も多い人だが、彼女のレコードで好きなのは、妖艶なころにシューマンの幻想曲を演奏したもので、これはまあ、クラシック・レコードとしては、かっこいいジャケット写真にもよるところも大きい。
ネットで検索してみたら、リハーサル中なのか、くわえタバコで演奏している写真もあったけどな。
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おお、今度は福田康夫サンが新総理だって。
わたしにはなんだっていいけど、群馬県が生んだ4人目の総理大臣だそうだ。
群馬出身の以前の総理には、新総理の親父の福田赳夫サン、老いてまだ元気の中曽根康弘サン、なんだか影のうすかった小渕恵三サンがいる。
今回の康夫サンで終わりかと思ったら、まだあとに中曽根康弘サンの息子でしぶい二枚目の弘文クンもいるし、小渕さんの娘で美人の優子チャンもいる。
この二人が総理を勤め終えるころには、弘文クンや優子チャンの子供も成長してさらに後釜をねらっているだろう (優子チャンて独身じゃなかったんだね、ガッカリ)。
忘れていたけど、わたしももともとは群馬県の出身なんだよなあ。
いいのかねえ。 群馬県が二世、三世議員輩出の代表みたいになっちゃって。
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2007年9月25日 (火)
自民党の新しい総裁になった福田康夫サンについて、派閥の産物だ、自民党はまた旧来の派閥政治にもどったという人がいる。
だけど、もうすこしようすを見たらどうなのか。
英国のサッチャー首相が後継にジョン・メージャーを選んだとき、世間の誰もが、新首相はサッチャー路線を忠実に引き継ぐだろうと思った。
ところがメージャーはまもなくサッチャー路線を修正し、もと首相をして 「彼は男になった」 といってなげかせた。
福田康夫サンもひょっとすると男に変貌するかもしれない。
旧弊な派閥政治に復帰するようなことがあれば、その先になにが待っているか、新しい総裁が知らないわけではないだろう。
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2007年9月23日 (日)

またビデオの編集なんてことを始めちゃったので、ブログのほうがちょっと手抜きになっている。
熊本のKさんは、今度は竹で筆作りを始めたようだ。
筆といえば、わたしははじめての中国旅行で小川荒野さんという画家と知り合ったことがある。
彼の画集を見せてもらったが、どっちかというと五日市の 「森のおじさん」 好みのメルヘンチックな絵といったところ。
筆のタッチが独特なので、これは何で描いているんですかと訊いてみたところ、割りバシを削って、それに直接絵の具をつけて描くんだそうだ。
いろんな絵があるもんである。
また著作権がどうのと言われると困るけど、じっさいに見てみないことには話にならないので、ネット上でみつけた彼の絵を1枚だけ引用してみる。
小川荒野さんは、はたしてわたしのことをおぼえているかな。
あのとき上海や無錫で、いっしょにツアーから抜け出して、あっちこっちの路地や屋台をうろうろしたもんだけど。
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2007年9月21日 (金)
いま総裁選の公開討論会を観てます。
なんだかんだ言われてるけど、自民党もちったあ進歩してんですね。古い政治家、たとえば田中角栄サンだとか竹下登サンみたいな派閥の領袖が、公開討論会をしてる図なんてぜんぜん想像できないもんな。
想像していたとおり、福田サンのスマートぶりと麻生サンの歯切れのよさの、がっぶり四つってところ。
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2007年9月19日 (水)
BSの 「関口知宏の中国鉄道大紀行」 を観ていたら、洛陽と鄭州という街が出てきた。
洛陽はこのブログでもふれたけど、知り合いの女医さんがいるところで、わたしも何回か訪れているところである。
ここには敦煌の莫高窟とならぶ有名な仏教遺跡の龍門石窟があり、おお、あの仏像は見たことあるぞって、ついなつかしい気分になった。
鄭州も上海から西域に向かう鉄道の中間点にあるので、何回か立ち寄ったことがある。
わたしが行ったとき、たまたま大きなデパートが開店したばかりで、広場でセレモニーが開かれていた。
奥地から出てきたばかりらしいチベット族の若い夫婦が、目をパチクリさせて、これをながめていた。
彼らは巨大なヤクの頭蓋骨を所持しており、そのままデパートに入っていこうとして、警備員にそんなものをかついで入られちゃ困ると静止されていた。
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うちの近所の公園に、平べったいドームのような建造物がある。
コンクリート打ちっぱなしの無骨なもので、どうも公園にそぐわない。
これはナンダと思ってたら、いつのまにか周囲に柵や立札ができ、これが戦時中の格納壕であることがわかった。
太平洋戦争末期に、米軍の空襲から、数少なくなっていた日本の飛行機を隠匿するためのものだったそうだ。
壕のわきに日本陸軍の戦闘機、飛燕の模型も展示された。
飛燕であることは説明を読まなくてもわかる。
なぜなら、わたしは小学生のころプラモデルに凝っていたので、当時の日本の戦闘機としてはめずらしい、メッサーシュミットのような、スマートな鼻っつらを忘れるはずがないからである。
この公園に出かけるたびに、思いがけないところで古い友人の墓石に出会ったような気分がする。
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2007年9月18日 (火)
友人に誘われてコンサートに行ってきた。
福生の喫茶店で、ピアノとベースだけのデュオ・コンサートである。
ベースを弾いているのは、わたしも知っている別のバンドで活動をしているGさんで、今回は奥さんとふたりの 「天笑楽」 というバンドでの出演である。
この編成はジャズではめずらしくないが、Gさんはいつものエレキ・ベース以外に、はじめて見るチェロを持ち出してきた。
別のバンドではエレキベースを弾くGさんしか見たことがなかったので、わたしはいくらか驚いた。
なんでもサン・サーンスの 「白鳥」 が弾きたくてチェロを弾き始めたんだとか。
絶望的なくらい音楽に無知なわたしは、あとで訊いてみた。
ベースとチェロでは共通点がありますかと。
わたしはロックやジャズで使われるエレキ・ベースを念頭において訊いたのだが、Gさんに言わせると、エレキ・ベースからチェロってわけにはいかないが、ウッドベース、つまりコントラバスからチェロに切り替えるのはそれほどむずかしくありませんとのこと。
そういゃ、大きさが違うだけだもんなとわたし。
演奏曲目のいくつかからしても、Gさんはもともとクラシック畑の人のようだ。
このつぎはカザルスの 「鳥の歌」 やエルガーの 「チェロ協奏曲」 に挑戦してもらいたいものだ。
この日のGさんはギター、ベース、チェロと使い分け、奥さんのほうはピアノのほかに、アコーディオンを弾いた。
ま、同じようなキーがついているといえなくもないけど、一方は水平でもう一方は垂直だ。
ピアノとアコーディオンの切り替えはむずかしそうだなと、あいかわらず音楽オンチのわたしは思ってしまうのである。
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2007年9月16日 (日)
夜になって部屋で琉球泡盛の久米仙でイッパイやろうとしていたら、ふと今日はパソコンの勉強会がある日じゃなかったけと思い出した。 わたしみたいな者でも、いちおう講師ということになっているんである。
勉強会は昼間だ。 夜になって思い出したって間に合わない。
いや、スイマセンと主催者に電話してみたら、相手も飲み屋で酒を呑んでいるところだった。
このつぎは前日にメールちょうだいねとお願いして、一件落着したけど、どれだけタノシイ勉強会であることかは、この一件だけでもおわかりでしょ。
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2007年9月15日 (土)
昨夜NHKが放映した 「赤い翼」 という番組を見た人がどのくらいいるだろう。
これはエンジンつきのパラグライダーから地上を撮影する矢野健夫カメラマンの、二回目の番組である。
前回は中国の青海湖あたりが撮影対象だったため、そこへ行ったことのある私は興味をもってこの番組を観た。
たちまちこの優美な乗り物に魅了されてしまった。
モーター・パラグライダーで撮影された映像は、まさに鳥の目の世界である。
ヘリコプターで撮影したものとどこが違うのかと訊かれると返事に窮するけど、おそらくより地上に接近できること (湿原のアシが撮影者の足にふれそうなくらい)、負荷が少ないぶん騒音も少ないだろうから、野生動物を驚かすことなく撮影できること、画面が左右にゆらゆらとかたむきながらの映像が、ほんとうに鳥になったような浮遊感を感じさせてくれることなどだろうか。
昨夜はお相撲さんの黒海のふるさとグルジアから、旧ソ連領ウクライナをめぐるモーター・パラグライダーの旅。
グルジアの人々がひじょうな親近感をもって、パラグライダーに手をふる。
パラグライダーはそうした人々の頭上すれすれを飛ぶ。
ヘリコプターではこうはいくまい。
青海湖では菜の花畑だったが、ウクライナでは地平線の彼方にまでひろがるヒマワリ畑の上を飛ぶ。
クローズアップされたヒマワリの上を旋回するパラグライダーの映像にうっとり。
グルジアやウクライナまで行けそうもない旅行好きなわたしにとって、「赤い翼」 はまさに一石二鳥の好番組だった。
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ここんとこ、世間では自民党総裁選がかまびすしい。
自民党というコップの中の嵐だから、誰がなったって大勢に影響はないだろうと思ってるんだけど、影の男だった福田康夫サンが立候補することになり、人気が雪崩をうってってことになりそう。
福田さんのスマートぶりもわるくないが、わたしは麻生太郎サンの皮肉屋ぶりも好きなんだけどね。
冗談ひとつ言えないかわいそうな日本の政治家の中じゃ、歯にきぬきせぬその態度は貴重な資質とちがうか。
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2007年9月14日 (金)
熊本で田舎暮らしをしているKさんが、方言のむずかしさについてぼやいている。
たしかに方言の辞書ってのはあまり聞いたことがないけど、ネット上にはいくつかそういうものも見つかるので、Kさんにも機会をみつけて少しづつボキャブラリーを増やしてもらいたいものだ。
司馬遼太郎の 「街道をゆく」 には、熊本 (肥後) の県民気質というものが描写された箇所があるので、ちょっと紹介してしまう。
『肥後人は元来がモッコスで、一人一党で、統治者からみればじつに治めがたい集団であったらしい。
たとえば戦国期に諸国で統一の英雄というものが多く出た。関東の北条早雲、甲斐の武田信玄、尾張美濃の織田信長・・・・・・(中略)・・・・・・などがそうだが、肥後は武の国で英雄的資質をもった人物を多く輩出しながら、そういう統一者を自国人が推薦し、その人物を大きくさせることをせず、たがいに勇を競い、我を重んじているうちに戦国時代がすぎ、いつのまにか中央で豊臣政権ができてしまった』
そういうところが肥後人のおもしろさだと、この作家はいう。
また、江戸中期に細川重賢という名君が出て、肥後藩に藩校を興したとき、教授の藪孤山という人が、当時流行していた朱子学ではなく、古学を学問の柱にしましょうと献言したそうである。
朱子学と古学の違いはさておいて、その理由が
『ただでさえ肥後人は理屈っぽうございますのに、これに朱子学を与えれば火に油をそそぐようなものでございましょう』 ということだったそうである。
田舎暮らしでいちばんむずかしいのは、土地の人と親密な関係をむすぶことだと思うので、Kさんにはこうしたことを参考にしてがんばってもらいたいものである。
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野川の橋の下でなにやらカニ獲り用の籠を仕掛けている人を見た。
このへんで本職の漁師が成り立つと思えないから、この人も野川の生き物に関心をもっていろいろ研究しているのかもしれない。
ひょっとしたらホームページで研究の成果を発表しているんじゃないかと、いろいろ検索してみたが、野川の生き物を紹介するホームページは多いものの、この人のものかどうかはっきりわかるものは見つからなかった。
定年になった学校の先生みたいな感じの人だったけど、生き物を研究するのに、このくらい徹底的にやれば本格的である。
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2007年9月13日 (木)
NHKのBSで 「関口知宏の中国鉄道大紀行」 の後半が始まった。
後半では華北の鉄道をぐるぐるぐちゃぐちゃ廻って、最後はシルクロードのカシュガルまで行くらしい。
わたしの見た景色もたくさん出てくるだろう。
数えてみると、わたしが中国へ出かけたのは (香港と台湾もふくめれば) 18回になる。
わたしの中国旅行は基本的に鉄道であり、基本的に軟臥 (一等寝台) である。
なんで一等寝台にするかというと、日本と比べれば値段が安いこともあるけど、ひとりで旅をすることが多いので、軟臥なら荷物の保全に気を使う必要がないからである。
硬座 (二等自由席) なんかに乗った日には、荷物が心配でオシッコにもいけない。
とは言うものの、短距離区間なら硬座に乗ったことがあるし、張液という町では一等寝台が買えず、駅員の配慮で硬臥 (二等寝台) にむりやり乗せてもらったこともある。
三段ベッドのいちばん上から見下ろす気分はサイコウだった。
広大な中国であるからバスで移動したこともある。
とちゅうにあるなんとか峠を見るために、わざわざバスにしたのだが、武威という町から蘭州まで9時間もかかった。
何度も出かけていると、同じ区間を鉄道で行くのもかったるいってんで、西安から西域のウルムチまで、2500キロを国内線の飛行機でえいっと飛んでしまったこともある。
ヒッチコックの映画に出てくるような旧式の双発機を期待していたんだけど、最新式のジェット機だった。
中国では三峡下りのような船旅も有名だけど、わたしの乗った船というと、上海の黄浦江のフェリーぐらいしか思い当たらない。
そのかわりといっちゃナンだけど、黄河でラクダの皮をふくらませたイカダに乗ったことがある。
もちろんタクシーはいたるところで利用している。
田舎のほうへ行くと、これもビックリするくらい安いから、あっちこっちで一日貸し切りなんてことをよくやった。
だだっ広い砂漠のまん中で名所旧跡を見てまわろうと思ったら、タクシーしか方法がないのである。
タクシーもいろいろある。
上海のシトロエンから、田舎のほうではちっこい三輪車や人力タクシーなど。
バイクにも乗った。
西安の街で移動するのに、歩いていくには遠いし、タクシーじゃ近すぎると悩んでいたら、たまたまそのへんにいたバイク・タクシーから声がかかったもの。
広州の高速道路では、やけに二人乗りのバイクが多いので不思議に思っていたら、これもほとんどがバイクのタクシーらしかった。
敦煌やトルファンはそれほど大きな町ではなかったので、ここでは自転車をレンタルしてあちこちぶらぶらしていた。
ほかに乗ったものは馬車やラクダ、ウマからロープウエイ、リニアモーターカーなど。
中国はさすがに歴史の国であり、乗り物も過去から現代まで、いろんなものがだらしなく混在しているのだ。
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2007年9月12日 (水)

カタルーニャの鳥はピース (平和)、ピースと鳴くといったのは、チェロの巨匠バブロ・カザルスで、彼の編曲したカタルーニャの民謡が 「鳥の歌」。
わたしはこのライブ・レコードを持っているけど、ほかに、これはちょっと珍しい音源も持っている。
1992年のバルセロナ・オリンピックの閉会式で、この曲の演奏が実況中継されたとき、わたしはしっかり録画しておいたのである。
もともとの 「鳥の歌」 に歌詞がついていたかどうか知らないけど、この時はスペインのオペラ歌手ビクトリア・デ・ロス・アンヘレスによる歌つきの演奏だった。
これがすばらしく感動的で、歌声が消え細っていくにつれて、同時に聖火も消えていくシーンが、今でも脳裏に焼きついている。
この演奏がレコード化されてなければ、この音源はひじょうに貴重なお宝になるはずだけど、ヤフーのオークションに出すわけにもいかないし、どうもわたしには昔からお金持ちになる素質がないようである。
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世間には宮沢賢治のファンが多い。
わたしもいちおう彼のファンで、はじめて彼の童話を読んだのは小学生のころだから、年期はそうとう入っている。
それで宮沢賢治は童話作家だと、ずっと・・・・・ 青年期の終わりまで思っていた。
ところがある日、旅先で週刊誌を買ったら、それに 「噴火湾」 という彼の詩が載っていた。
遺憾ながら、わたしが宮沢賢治を詩人として意識したのはそのときが初めてだった。
それから彼の詩を読み始めたのだが、その作品の異様さにすぐ気がついた。
SF青年でもあったわたしがいちばん興味を持ったのは、多用される科学や博物学用語だったけど、それ以外にもこんな変わった詩があるだろうかってなもん。
ま、そのへんの理屈は専門書にお願いしてしまう。
なんとなれば、わたしは一介の詩の愛好家であって、評論家でも作家でもないからである。
彼の詩の中に 「青森挽歌」 という忘れられない名品があって、そこに 「女学生」 というワルツの曲名が出てくる。
賢治のというより、これはどっちかというと妹のトシ子さんの愛聴曲だったようだけど、攻撃的ファンというものは、こういう些細なところに関心を持ってしまうのだ。
わたしはさっそくレコード屋でこの曲の入ったレコードを買ってきた。
べつにそれほど素晴らしい曲とも思わなかったけど、賢治の時代には入手できる洋楽レコードはいまほど多くなかっただろうから、彼が手にいれたレコードをむさぼるように聴いただろうということは容易に想像できる。
これがあの宮沢賢治も聴いた曲かと、「女学生」 はしばらくわたしに一種の共感をもたらして、その後は押入れの奥にしまわれっぱなしになった。
どんな曲か聴いてみたい人は以下のホームページで聴けます。
http://homepage3.nifty.com/TAD/m_box.htm
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2007年9月11日 (火)
わたしは音楽が好きで、好きな音楽はジャンルを選ばない。
童謡や唱歌も好きである。
唱歌というと、最近学校でもあまり教えないのか、近ごろの若者はよく意味をとりちがえているというのが話題になる。
たとえば 「赤とんぼ」 の歌で、“負われて見たのはいつの日か” という歌詞を、“追われて” だと思っていたとか、「故郷」 の歌の “うさぎ追いしかの山” を、ウサギが美味しいと解釈していたとか。
下は詩人サトウハチローが作詞した 「うれしいひなまつり」 という童謡の2番なんだけど
お内裏様と おひな様
二人ならんで すまし顔
お嫁にいらした 姉様に
よく似た官女の 白い顔
べつに深く考えずにこの歌を聴いて、この歌詞をわたしは “お嫁にいった姉様に” だと思い、この歌はお嫁にいった姉をしたう (たぶん年のはなれた) 弟のさびしい心情をうたった歌だろうと思っていた。
そう考えても納得できるくらい、この童謡にはあわい悲しみの感情がある。
ところが本で調べると、お嫁に行ったのではなく、お嫁にいらしたという歌詞が正解らしい。
たしかに前後の歌詞を読んでみると、2番だけにそんな感傷がこめられているのは唐突で違和感がある。
どうやら同じ童謡に 「花かげ」 という歌があって、こちらはズバリ、お嫁にいった姉をしたう妹の歌である。
これもわたしの好きな童謡なのでイメージが重なってしまったようだ。
しかし、世間には “いらした” のままで、わたしの誤解と同じように解釈する説もあるらしい。
ネットで調べたら、やはりこの部分は、作詞者のサトウハチローが18歳で死んだ姉の追悼の意味をこめたんじゃないだろうかという意見がみつかった。
さてどうなんだろう。
そんな意見はともかく、わたしはこの歌が好きである。
うたうときはもちろん “お嫁にいった姉様に” という歌詞でうたう。
大のおとながぼんやりと中空を見つめて、(涙ぐみながら) 童謡を口ずさんでいるなんてあまりカッコいい景色じゃないけど。
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2007年9月10日 (月)
大沢村ではこういうものも作られている。
ただし市場におろせるほど大きくなるまえに秋がきてしまうかも。
食べるつもりよりも、暑さよけのために生垣にはわせているようである。
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NHKのBSで、時々有名バンドのライブ演奏が放映されるので注意しているんだが、8日の夜は小野リサさんのライブ。
新聞のテレビ版を見ただけではあまり詳しくふれてなかったけど、小野リサってのはたしかジャズ歌手だよなっていうだけで、いちおう録画しておいた。
あとで観たら 「アントニオ・カルロス・ジョビンに捧ぐ」 というテーマのライブだった。 つまりボサノバがメインのコンサートだった。
夏はやっぱりボサノバだってわけで、わたしはボサノバも好きである。
思い出すのはマルセル・カミュ監督の映画 「黒いオルフェ」 である。
この映画を観ていると、ブラジル人ていうのはみんなノーテンキなのかと思ってしまうくらい、みなさん、どこでもよく踊る。
リオのカーニバルの日なんか、街に到着するフェリーがまだ岸壁に着かないうちに、乗客全員が甲板で踊りまくっている。
この映画の主題歌は有名なスタンダード・ナンバーになった。
そしてその音楽を担当したのが、アントニオ・カルロス・ジョビンだった。
わたしはこのテーマ曲が好きなもので、テレビで誰かがこの曲を演奏すると、目についたものはかたっぱしから録画しておく。
それらのうちでいまでも残っているものは少ないけど、ジョン・ルイスら4人のピアニストが演奏するもの、5人のトロンボーン奏者によって演奏される映像などは、まだパソコンの中にとってある。
やはりジョビンの有名なスタンダード・ナンバー 「イパネマの娘」 は、クラシック畑の歌手エリー・アメリンクがうたったものを、こりゃおもしろいってんで録画した。
ジョビンの来日コンサートを録画したこともある。
彼の奥さんと娘など、きれいな女性を5、6人連れての来日で、やはりNHKが放映したものだった。
録画したのは 8ミリ・ビデオテープで、その後ソニーがいきなりこのデッキの製造から手をひいたもんだから、300本もあったテープはそっくり不燃ゴミになってしまった。
しかもテープとプラスチック部分は、分けてゴミに出さなければならないのでひじょうに手間がかかった・・・・・・ 話がへんな方向にそれてしまったが、ソニーのやり方には今でも怒っている。
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2007年9月 8日 (土)
朝日新聞の土曜版に 「愛の旅人」 というシリーズが載っている。
これは古今東西のさまざまな著名人の恋愛をとりあげたもので、たまにおもしろい内容もあるから、最近はとんと恋愛に縁のないわたしであるけど、まあ、読み逃さないように注意しているものである。
9月8日のそれは島崎藤村と、彼が若いころ恋をした佐藤輔子 (スケコと読む) のエピソード。
島崎藤村というと、小説家でもあり詩人としても有名で、スケコさんとの恋も小説にしているくらいだけど、現実にはこの恋は最初からぜんぜん相手にされなかったもののようだ。
まあ、詩人なんてのは青白き文学青年の代表みたいなもんで、いまでいうオタクみたいな人が多いから、もてなかったとしても不思議じゃない。
まして北村透谷らと組んで、人生は恋愛だなんて叫んでいたんじゃ、もてないのもアタリマエ。
藤村とおなじタイプのわたしがもてなかったのも当然といえば当然か。
そんなこと言ったって、藤村は世間の認めないけっこうヤバい恋愛をしているじゃないかという人がいるかもしれない。
しかしそれは彼が有名になってからの話で、しかも相手はそう簡単に逃げられない弱みがあった。
そういう事件も小説のネタ探しが目的だとすれば、藤村もなかなかやるなという印象だけど。
文学青年のはしくれとして、わたしも藤村の小説 (「破戒」 あたり) を読もうとしたことがある。
ただし、ぜんぜんおもしろくない小説なんで、何度挑戦しても、だいたい1/5あたりでうんざりして投げ出してしまった。
詩のほうがまだましである。
藤村の詩の中にはわたしも愛唱するものがいくつかある。
ただ若菜集のような、スケコさんにふられたころの詩はあまりによく出来すぎていて、口ずさむにはいいが、感情がストレートにつたわってこない。
千曲川旅情あたりになると、今度はオタクとは正反対の、ひじょうに剛直で堂々としたものを感じてしまう。
女なんかに興味はねえよってな感じ。
島崎藤村という人はどうもよくわからない人である。
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ミズヒキソウです。
と、カタカナで書いたのでは本来のおくゆかしさが表現できません。
漢字で書くと「水引草」です。
こう書いてはじめて立原道造の詩のよさもわかろうというもの。
夢はいつもかへって行った 山の麓のさびしい村に
水引草に風がたち
草ひばりのうたひやまない
しづまりかへった午さがりの林道を
わたしは立原道造がとくに好きってわけじゃありませんけど、青春の一時期に、彼の詩のとりこになる人は多いみたいですネ。
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2007年9月 7日 (金)
前項で台風が関東近辺に上陸してフェーン現象でと書いたけど、書いた時点ではまだ上陸してなかったようだ。
上陸したのは夜半になってからで、台風の進路をみると、ちょうどわが家のま上を通過したようである。ヤレヤレ。
フェーン現象というのは台風のおひきずり現象であるから、それもこれからが本番である。
台風といえば、わたしはわざわざその最中に、奥秩父の笠取山という山に登ったことがある。
笠取山という山は山頂ふきんに広大な草原がある。
台風のとき、草原の草がいっせいに風になびいているんじゃないか、さぞかし雄大な風景だろうな、ぜひ写真に撮りたいなと考えたのが登山の動機だった。
で、三脚までかついで、ジムニーでたったひとりで出かけた。
合羽を着て蒸れながらようやく草原にたどりついたら、あたりに霧がたちこめ、風なんかそよとも吹かなかった。
あいにくそのときの台風は雨台風で、あまり風は吹かせなかったらしい。
しばらく期待はずれの景色をながめていたが、そのうち霧の中からギャーという得たいのしれない動物の叫び声がして、肝をつぶしたわたしはひゃあと山を駆け下りた。
※写真はそのときのものである。
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2007年9月 6日 (木)
台風が関東近辺に上陸して、時おり雨風が激しくなる。
先ほどもひとしきり驟雨があったので、どれどれ野川の増水はどんな具合だいと見物に行ってみた。
期待に反して (こんなもん期待しちゃいけないのだが) 増水はたいしたことがなかった。
フェーン現象でひじょうに蒸し暑い。
昨日、用事で吉祥寺まで出たついでに井の頭公園にある水生物園に寄ってみた。
ここは関東近郊で見られる淡水魚、水生昆虫などを集めた小規模な水族館で、展示生物は多くないが、そういうものに興味のある人にとってはなかなか参考になるところである。
台風近接の平日とあって、建物のなかは貸切りみたいに静か。
入ってすぐの大きな水槽にガマガエルみたいなものが浮かんでいた。
じつは、これは水鳥のカイツブリだった。
万葉時代から鳰 (ニオ) と呼ばれて、日本人にはおなじみの鳥である。
大きさはガマガエルくらいだけど、顔つきはなかなか愛嬌のある可愛らしい小鳥である。
水槽はガラス張りで、二羽のカイツブリが小魚を追いかけてパクリとくわえるのを、ま横から観察することができる。
水生物園にはほかにもハンザキ (オオサンショウウオ) やカミツキガメなどのスターがいるが、そっちは動いているところを見たことがないし、エサなんか食べてんのかどうか。
そういうわけでカイツブリは目下、水生物園ゆいいつの人気者であるようだ。
この鳥は井の頭公園の池にもめずらしくないので、双眼鏡があれば、水草を集めて作った巣や、背中にヒナをのせた子育てのようすなどをながめることもむずかしくない。
わが家の近所の野川にもたまに出没する。
しかし、野生の状態で水中シーンまで見られるもんじゃないから、水生物園の展示は貴重である。
ノーテンキな彼らをながめていると、切れやすい現代人にとって、いい癒し効果があるような気がするけど。
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わたしにとって、本は読むものであって売るものではない。
読み終わってこれは不要と思った本は、ひとからげにしてゴミとして出してしまう。
本を売るためにわざわざ万引きまでする輩からみれば、さぞかしモッタイナイことと思われる。
そういうわたしも、いちどだけモッタイナイと思ったことがある。
以前中国に凝って、いろんな本を読みあさっていたことがあった。
新刊書だけではもの足りなくなって神田の古書街まで出かけてみた。
たまたまある本屋で、アグネス・スメドレーの文庫本を見つけた。
アグネス・スメドレーは日中戦争のころ、中国に渡ったアメリカの女性ジャーナリストで、国民党、共産党双方から取材し、魯迅や内山完造、ゾルゲ、尾崎秀実とも交わり、当時の上海にあった通信社の局長、松本重治の日記などにも登場する人物である。
彼女は悲惨な幼年時代をおくった人で、そのためか抑圧された弱者に肩入れする傾向がつよく、中国では共産党の代弁者のようなところがあった。
現在の新中国はその労に報いるために、エドガー・スノーらと並べて、北京に彼女の墓を建てているそうである。
彼女の文庫本はいくつか出ていたけど、わたしが見つたけたものは、すでに絶版になったらしく、どこの本屋でも見たことがなかった。
わたしは感激して、中味も見ずに購入してしまった。
絶版本ということで値段は安くなかったけど、もともと文庫本だから、高いといってもたかが知れている。
帰宅して読んでみたら、これは中国に渡る以前のスメドレーの自伝であって、中国に関する記述はほとんどなかった。
期待したようなものではなかったのだ。
それでこの本は一読しただけでゴミ扱い、そのうちどこかへ紛失してしまった。
しかしあとで考えた。
アグネス・スメドレーに興味をもって、彼女の本を探し求めているマニアがほかにもいるかもしれない。
売値なんかどうでもいいが、そうした人のために、この本はまた古書店の本棚にさし戻すべきではなかったかと思うのである。
ああ、モッタイナイ。
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2007年9月 4日 (火)
野川でひさしぶりにナマズを見た。
スッポン大王と同じテリトリーに大きなナマズが棲息していたんだけど、最近とんと見かけなかったので、誰かに釣られちゃったのか、それともたまに出没するカワウに呑みこまれたかと心配していたのだが、今日やっこさんをひさしぶりに目撃。
今年の野川は魚影がじつに濃い。
野川というのは5キロほど上流の湧き水が、このブログでもふれた崖線という地面の段差にそって、多摩川へそそいでいる小さな川である。
場所によっては腰ぐらい深いところもあるけど、たいていは小学生でもジャブジャブと渡れるていどの細流だ。
10年ほどまえには夏の渇水期に水が干上がって、たくさんのコイが死んだことがあるけど、今年は豊穣の川である。
水は絶え間なく流れ、コイは別格としても、メダカからオイカワ・サイズの魚まで、どこで川面をのぞきこんでも小魚が群れているのを見ることができる。
地方の農村に行ったって、これほど魚の多い川はあまりないんじゃないだろうか。
いったいどんな魚がいるのかと関心をもっているのだが、岸辺を散歩しているだけでは、コイ以外の魚を見分けるのはむずかしい。
オイカワという魚は、婚姻色のオスは特徴がきわだっているので見分けやすい。
メダカも近くに寄れさえすれば見分けやすい魚である。
野川そのものの中にはいないが、近くの水田にはドジョウもいる。
ほかにも何種類かいるようだけど、7、8センチのスマートな魚たちについては、なかなか識別できない。
双眼鏡でのぞいてみたら、胴体の横に黒い縦線が入っている魚が見えた。
図鑑でちょこっと調べてみたところ、カワムツに似ているようだけど、たしかなことはわからない。
そのうち井の頭公園の水生物園に行って調べてみるか。
こういう魚を写真に撮るのもむずかしい。
淡水魚というのは灰色の保護色になっているものが多いので、上から撮ったのでははっきり写らないのである。
こんなふうにいろいろ自然について考えながら、ぶらぶら散歩するのは楽しいことである。
これでお腹がへっこめばもっといいんだけどねえ。
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仕事を終えて帰宅したら、わたしのブログに釈由美子チャンからトラックバックがついていた。
釈由美子チャンといえば、NHKの 「英語でしゃべらナイト」 に、このあいだまで出演していたカワイ子ちゃんのタレントではないか。
なにかの間違いではないかと思ったら、なにかの間違いだった。
トラックバック先のブログをよく見たら、由美子チャンじゃなく、ファンが作ったブログだそうだ。
わたしゃ、そんなもんに興味ないぞ。本人のブログならまだしも。
期待して損した。
それにしても、わたしのブログと釈由美子チャンのどこが関係あるんだろ。
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2007年9月 3日 (月)
新聞を読んでいたら、警察官が発砲犯を取り逃がすという記事が出ていた。
なんでも最初に警察官が男とアパートの前で入れろ入れないと押し問答をしていたら、部屋の中で発砲があり、ベランダ側から警戒していた警察官が重症。
重傷者を救護しているあいだに発砲犯は逃走し、警察官がそっちに気をとられているうちに、最初の男も逃げてしまったとか。
わたしなんぞの浅知恵では、最初の男に手錠でもかけて、とりあえず身柄を確保しておいて、それからそっちに気をとられればいいのにと思ってしまうけど、そんなことをした日にはまた新聞が人権侵害だと騒ぐに決まっている。
そうやって騒ぐくせに、新聞を読むと、犯人が逃走してしまったことに気がつかず、2時間もアパートを包囲していたと、警察を非難する論調がしきり。
警察も立つ瀬がないよなあ。
手錠ぐらいでガタガタいうこたぁないでしょ。
人違いだったら、どうもスミマセンで、警察のマーク入りのタオルでも進呈して、それでチョンてことになんないもんかね。
警察のマーク入りのタオルなんて貴重品だから、ヤフーのオークションで高く売れるかもしれないし、迷惑をこうむった相手も納得するんじゃないかねえ。
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2007年9月 2日 (日)

いまや遠い昔のことになるけど、じつはわたしはマンガ家を志していた時期がある。
最近、ビヨンセという女優さんのことを調べていたら、ニコ・ニコルソンという人のブログが目にとまった。
ニコ・ニコルソンはペンネームで、じっさいには日本人の女の子らしい。
詳しいことは彼女のブログでプロフィールを参照してもらうとして。
http://blogs.dion.ne.jp/nicholson/
わたしは仲間うちではそうとうの変人と思われているけど、たまたま見つけたこの人のブログ (のマンガ) を見て、そんなわたしでさえ、現代ではけっこう保守的な考えの持ち主だなと思わざるを得なかった。
彼女のハチャメチャぶりをひとつだけ紹介しよう。
著作権侵害だなんていわれると困るけど、彼女のブログを全部見ろというのも大変なので。
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朝日新聞が 「東アジアの150年」 という企画で、かなりおおがかりな特集を組んでいる。
なにしろアノ朝日新聞のことであるから眉にツバつけて読まなくっちゃいけないけど・・・・・・
先日はここに、日本人によって暗殺された朝鮮の王妃ミンビ (閔妃) のことが載っていた。
なにかと騒がしい日韓関係だけど、ともすれば日本人が無視しがちなこの王妃のことも、ちゃんと知っておかなければ片手落ちというものだ。
ミンビは李朝の第26代王・高宗の妃であると、これはウィキペディアに出ている。
彼女は日清戦争後の1895年に、当時朝鮮を支配下におこうと企てていた日本人に、王宮内で惨殺された。
他国の王宮に乱入して王妃を殺すような暴挙が許されるはずはないけど、原因となったのは彼女が親ロシア派の代表であり、親日本派である義父の大院君とも対立していたからである。
日露戦争をまぢかにひかえた日本としては、目ざわりな王妃を処分しておきたかったのだ。
李氏朝鮮というのは中国型の王朝で、日本の天皇制とはだいぶ異なる。
当時の日本は (まがりなりにも) 法治国家であり、制度としては立憲君主制で、天皇といえどもそのひと言で政治や法律を思うように変えられるわけではなかった。
中国型の王朝というのは、早い話が人治国家、ようするに国王のひと言で他人の首でもなんでもかんたんに切れる国なのである。
こういう国では、コネやおべっかで政治が決まるということもよくある。
中国や朝鮮の王朝では権謀術策がうずまき、王朝内部でさえ権力抗争が絶え間なかった。
韓国では最近ミンビの復権が目立つらしい。
ミュージカルや演劇の世界で、ミンビが明成皇后という名で、日本人に惨殺された悲劇の王妃として取り上げられているようである。
わたしにわからないのは、あれほど日本人に敵がい心をしめす朝鮮人が、日本の天皇制に対抗してなぜ李氏王朝を復活させなかったのか、いまごろ取り上げるならなぜこれまでそうしなかったのかということである。
北朝鮮は社会主義国だし、そもそも旧弊な王朝がとって替わっただけだから望むべきもないけど、韓国にはそうするだけの十分な時間があったんじゃないか。
これは、たぶん朝鮮人自身が王朝の本質をよく知っていたからではないかと、つい思ってしまう。
朝鮮の王朝は、国の発展を阻害し、民衆を抑圧搾取したいまわしい存在で (と、これはそのころ朝鮮を旅した客観的第三者である英国の女性イザベラ・バードも書いている)、官僚は汚職にまみれ、民衆のあいだには無気力が蔓延していた。
儒教の弊害について、ちょっと歴史を勉強した者なら誰でも知っているはずだ。
暗殺などという手段をわたしは肯定しないけど、ミンビも国民の血をすう吸血鬼のひとりであって、本来なら朝鮮民衆の手で倒されるべき存在だったのではないか。
記憶がそうとう薄れた昨今になって、韓国人が映画や演劇の世界で自らの王朝を美化するのは自由だが、それはあくまでフィクションであって、アノ朝日新聞がそれをまた自虐史観の宣伝に使うなら、これは捏造以外のなにものでもない。
当時の朝鮮がどんな国だったのかを伝えるのも報道機関の役割ではないか。
アノ朝日新聞にはぜひ正確な報道をお願いしたいものである。
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2007年9月 1日 (土)
前項で折口信夫にふれたおかげで、一冊の本の数奇な運命 (といっちゃオーバーだけど) を思い出した。
若いころ読んだ本に、山本健吉さんの書いた現代詩の入門書みたいな文庫本があった。
専門的な本ではないので内容はおおざっぱなものだけど、印象に残る文章があっちこっちにあって、わたしは旅に出るときなどにバッグの底にしのばせて、よく愛読していたものである。
そのうちどこかで紛失してしまい、こっちもべつに惜しいとも思わず、それっきり10数年が経ち、本のタイトルも忘れてしまった。
わたしのわるいクセで、こういう本をときどき読み返したくなることがある。
読みたくなるといてもたってもいられなくなる。
ところがすでに絶版になったらしく、本屋でいくら探しても見つからない。
古本屋や図書館などをあたってみたが、なにしろ名著や稀覯本という類の本ではないし、たかが文庫本であるからなかなか見つからない。
しかし現在はインターネットの時代である。
そのうちネット・オークションにあたってみることを思いつき、著者名と、出版社はわからないが、文庫本であったことだけをキーワードに検索してみたら、これかも知れないという本が見つかった。
さっそくいくばくかのお金 (文庫本だからたかがしれている) と引き換えにその本を手にいれてみたら、図星!
いや、しあわせな時代になったもんである。
本の名前は 「こころのうた」 という。
この本の中に釈迢空 (折口信夫) にふれた箇所がある。
釈迢空は詩人と民俗学者というふたつの顔のほかに、この本ではふれてないけど、性倒錯者というもうひとつの顔を持っていた。
生涯独身で通した彼は、藤井春洋 (男である) という若者を養子にとっているのだが、そのへんのことについてこの本はかんたんに記述する。
《(春洋) は能登羽昨の一の宮の社家の出であった。
「たぶの木の門」 のある家として、その生家はしばしば迢空に歌われている。》と。
藤井春洋は太平洋戦争中に硫黄島へ出征して、そこで戦死した。
《三月には、軍から全員玉砕の発表があった。万事休すである。
21年6月には、春洋との共著歌集 『山の端』 を編んだ。
24年7月には、能登一ノ宮の海辺の松林に、春洋の墓碑を建てた。
28年に、迢空自身も同じ墓に埋葬された。》
詩を解説する文章自体が、これもひとつの詩のように清明な悲しみをうったえてくる。
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