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2007年12月

2007年12月31日 (月)

師走のたわごと

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師走であるけど、特にブログネタがあるわけでもない。
熊本のKさんや五日市のたぬきさんは積極的に外界に打って出ようというタイプだけど、わたしときた日にゃひがな1日、机の前でぼんやりというタイプ。
雪も降りそうにないしなあ。
この機会にわたしのブログについて説明でもしとくか。

わたしのブログの名前は 『大沢村便り』 という。
副題として 「魑魅魍魎あるいは絶滅危惧種と暮らす」 となっている。
チミモウリョウってなんだ、絶滅危惧種なんてどこにも出てこないじゃないかと不審に思われる人がいるかもしれない。
じつは、わたしの住んでいる街には “村” という行政単位はないのである。
ところがここに住みついたころ、わたしはこの土地の自然の豊富さに吃驚した。
もちろん都心から近距離にあってという但し書きつきだけど、カワセミやヤモリやシマヘビ、ホタル、メダカなどの小動物、ガマやワサビ、ザゼンソウのような植物、そしてカヤ葺き屋根の農家など、現在では希少となった武蔵野のおもかげがいたるところにころがっている。
これではどうしても村という言葉を使いたくなってしまう。

竹林のなかの細い坂道を歩きながら、わたしはぼんやりと考えた。
(おおげさな言い方になるけど) この魑魅魍魎のように信じがたい風景は、人間の不断の努力によって維持されているものであって、そうした努力がなければたちまち不動産屋や土建屋の手で失われてしまうものだろう。

つまり、わたしのいう魑魅魍魎あるいは絶滅危惧種というのは、特定の動植物をさすのではなく、人々の努力によって維持されている、この土地のそうした貴重な風物のことなのである。
わたしがブログを書こうと考えた理由は、子供のころに見たなつかしい風景にくるまれていることの幸福感からである。

来年もまたこの魑魅魍魎、絶滅危惧種について、いろいろと報告していければと念じつつ、とりあえず07年のブログを閉じることにしよう。

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2007年12月30日 (日)

勧酒

正月が近く、しばらく休みなので、おもいきりのんびりしようと、昨夜はダイコンとサトイモを煮た。
それが煮えるあいだ、ゆっくり長湯でもするつもりで、そのへんにあった本をかかえて風呂に入る。

わたしの部屋は本だらけなので、かかえる本に不自由はしないけれど、昨晩たまたまつかんだのは、以前このブログでもふれた山本健吉の「こころのうた」。
300ページあまりの文庫本である。
この本の中には60人ほどの詩人の作品が紹介されている。

湯につかりながらひろい読みしていたら、井伏鱒二の「勧酒」という詩が目についた。
原詩はカナ書きなので、勝手にひらがなに直すと
  このさかづきを受けてくれ
  どうぞなみなみつがしておくれ
  花に嵐のたとへもあるぞ
  「さよなら」だけが人生だ

知ってる人はもちろん知ってるだろうけど、これは井伏鱒二の創作ではなく、中国の漢詩を訳したものである。
原詩の原詩はこういう感じ。
  勧君金屈巵
  満酌不須辞
  花発多風雨
  人生足別離

意味は同じでも井伏流に翻訳すると、じつにひょうひょうとした人生の味わいのようなものが感じられてしまう。
漢詩では、だいたい味わいを感じるほど、わたしはそっち方面に詳しくないんである。

湯から出ればダイコンとサトイモが煮えている。酒もある。
少なくともこの一週間ばかりはあふれるばかりの開放感もある。
わたしはこの詩を自分にむけることにした。
煮っころがしを食べながら、ひとりで対酌するのもわるくない。

パキスタンではプット元首相が暗殺された。
社会は不穏だし未来は不安であるけど、さて来年はどんなトシになるのかね。

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2007年12月28日 (金)

鉄道旅行と反日思想

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ちょっとしつこいんじゃないかというのは、昨夜、NHKが放映した 「関口知宏の中国鉄道大紀行」 のなんとかいうバラエティー番組。
鉄道紀行はとっくに終わっているのに、NHKはこの番組をだしガラになるまで活用しようとしているらしい。
そうはいっても、中国に関わることならなんでも関心をもつわたしのことだから、つい半分ぐらい観てしまった。
半分というのは、日々の糧を得るために不承不承、仕事に行かなければならなかったから。

ネットで 「中国鉄道大紀行」 についていろいろ調べてみて、驚いたのは、中国へ行くと反日思想でなぐられたりすることはないんですかという質問がけっこう多いことである。
ほかにも、あれはやらせだろう、あんなに気楽にいろんな人からモノをもらったり、仲良くなれるわけがないという意見もある。

しかし、中国に10回以上も旅行して、ひとりで上海からカシュガルなどへ長距離列車の旅をしたわたしに言わせれば、中国の鉄道の旅はまったくあの番組のとおりだったというしかない。

反日思想らしきものに出会ったのは、たとえばある列車の中で、中国人の学生から、どうして日本はアメリカの肩ばかり持つのかと訊かれたことぐらいしか思い出せない。
そのときもこちらの立場を説明して (相手に通じたかどうかはわからないけど)、最期は気持ちよく別れたのである。
硬座 (自由席) などに乗ってこちらが日本人だとわかると、むしろまわりの人気者になってしまう場合が多い。
いろんな人が話しかけてくるし、中にはコレ食べないかと食べ物をすすめてくれる人もいる。
「関口知宏の中国鉄道大紀行」 の描写はまったく事実だと思う。

インターネットには中国を旅してきた人の紀行記があふれている。
そういうものを読んでみるだけでも、中国の旅に政治問題が介在することはほとんどないということがわかるだろう。
これから中国へ出かけようという人にアドバイスするけど、治安についても中国以上に不安な国はいくらでもある。
中国で日本からの善良な旅行者がおびえる必要はまったくないといっていい。

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2007年12月25日 (火)

オスカー・ピーターソン

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ジャズ・ピアニストのオスカー・ピーターソン氏が亡くなった。
わたしはこの人のアナログ・レコードを 1枚持っている、というか、1枚しか持ってない。
ジャズのほうではかなり有名な人なので、ジャズを聴きはじめたころ試しに買ってみたのだが、あまりおもしろいと思わなかったのである。

わたしはロックのほうからジャズに入った人間である。
ビートルズから始まって、しだいにクリームやブラッド・スエット・アンド・ティアーズ、アル・クーパーのジャム・セッションのようなジャズっぽい演奏を聴くようになり、そのあげくにジャズに興味を持つようになったのである。

だからジャズというものはクリームに代表されるような激しいインタープレイばかりなのだろうと思っていた。
ところがオスカー・ピーターソンの演奏は、インタープレイと呼べるものではなく、たんにピアノやベースのソロが交互に出てくるだけだった。
わたしは失望して、それっきり彼のレコードは買わなかった。

じつはジャズの演奏では彼のようなスタイルがいちばん多いのだが、上記のようなロックの演奏を聴きなれたものにとっては、はなはだ迫力に欠けてしまう。

その後いろいろなレコードを聴いて、ピーターソンのようなスタイルの演奏の中にもけっこうおもしろいものや迫力のあるものがたくさんあることを知った。
たとえばジャズ・メッセンジャースやエリック・ドルフィーなどが、交互にソロが出てくるようなスタイルながら、迫力のある演奏をしているし、マイルス・デイビスも静かだけど傾聴に値する知的な演奏をしている。

だから、わたしがオスカー・ピーターソンにもどることがなかったのは、ほかの理由かも知れない。

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2007年12月24日 (月)

ライブハウス

クリスマス・イヴにひと足早いけど、連休の夜にひとりで家でぼんやりしていても仕方がないので、吉祥寺へジャズを聴きにいく。

SOMETIMEのこの晩の出演は、ボーカルにピアノとベースのトリオ編成。
ジャズであるから、この三つは対等の関係である。
最初にピアノとベースがデュオで3曲ほど演奏した。
その後登場したSという歌手は、脱色でもしてるのでないかぎり、いくらか白髪のまじったベテランらしい女性だった。
わたしにはなじみのない曲だったけど、クリスマスソングを含めたジャズ・ナンバーを数曲歌った。

ベーシストは (いくらか頭髪のうすくなった後ろ姿しか見えなかったけど)、ときどき横顔を拝見したところでは、作家の浅田次郎みたいな感じの人だった。

わたしの目をひいたのはピアノを弾いているDという人である。
痩身で眼光するどい老職人のようなイメージの人で、ニットの帽子をかぶったまま、ほとんど不動の姿勢でピアノを弾く。
わたしの位置からは胸から上しか見えないから、その手先が激しく動いて、躍動感のある音をつむぎ出しているとは信じられない。
不思議な光景だった。

音楽を聴くだけならCDのほうがいいのだが、ライブハウスの楽しみは、臨場感とともに、演奏者の人となりを観察できるところにあるのである。

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2007年12月23日 (日)

宴会

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昨夜はわたしの部屋でパーティをやった。
パーティといってもイタリア料理にワインなんていうようなカッコいいものではなく、色気なしの野郎ばかり4人の集まりだから、大根や里芋を煮て焼酎をくらうという山賊の宴会みたいなもんである。

料理はわたしが一手に引き受けるかわりに、参加者は全員が飲み物を持参する決まりである。
中のひとりは資産家のせがれで、なんでも自分の部屋に高級洋酒を多数隠匿しているらしいから、おい、それ1本持ってこいよと催促して、まあ、酒だけは浴びるほどの分量がそろった。

テーブルを囲んで最近の不景気な社会情勢を論じたり、自分たちのおかれた状況についてぼやいてみたり、誰かが持ってきたイヤラシ系の映画を観たりと、ぐだぐだと深夜まで呑み続けたが、料理はともかく、酒のほうは思ったよりはかどらなかった。
わたしたちもそろそろ自制して呑まなければならないトシになったようである。

窓の外ではしとしとと雨音がし、映画の中では女優さんがあへあへとあえぎ、宴会の席ではベジタリアンのわたしに肉はないのかと文句をいう輩がいる。
そんなクリスマスの前のささやかなパーティでありましたとさ。

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2007年12月21日 (金)

宇宙人

町村官房長官がUFOに言及したら、今度は防衛相が悪ノリして、宇宙人がきた場合、自衛隊を出動させるべきかなんてほざいている。
本気で言ったのか冗談で言ったのか知らないけど、わたしはそんなもんいるわけがないという信念の持ち主である。
かりにいたとしても、わたしが生きているあいだに訪日でもしてくれないことには、いないのと同じではないか。

科学者のカール・セーガンが、自著の中で、宇宙人の存在する確率について書いていた。

彼はまず、宇宙は無限といっていいくらい広大であるから、宇宙人のいる確率はかなり高いと仮定して、大きな確率数をあげてみせる。
そのあと彼はさらにいろいろな条件を加えていき、消去法でこの数字をどんどん減らしていって、最期にはこの確率はほとんどゼロに近い数字になってしまう。
なんでそうなるかというと、宇宙人の存在を信じる人のほとんどは、宇宙は広大無辺である、だからその中に人間と同じような生命が存在しないと考えるほうがおかしい、と考えている。
しかしそう考える人の多くが、宇宙の横のひろがりだけを問題にしているのである。
宇宙には時間という縦のひろがりもある。

人類が地球に誕生した時期については諸説があるらしいけど、誕生したあとしばらくは野獣と同じような生活をしていて、文明とよべるものが発達してから数えると、せいぜい数十万年ぐらいしかたっていない。
数十万年といったら、宇宙が誕生してからこれまでの永遠ともいえるような時間の中では、ほんのまばたきするぐらいの瞬間にすぎない。

だから問題は、UFOで飛来できるほどの近距離に、いまこの瞬間に、地球人と同じような生命が存在する確率がどのくらいあるかということだ。
そりゃほとんどゼロに近いんじゃないかと計算したカール・セーガンは、それでも宇宙人の存在を信じていたようだけど、残念ながら彼の生存中にケネディ空港に宇宙人がまい降りることはとうとうなかった。
けっきょく彼にとっても宇宙人は存在しなかったのである。

宇宙人が地球にやってきたとしたら、なんせ何光年の時空を飛び超えてやってくるくらいだから、相手はそうとう強いはずである。
クラスター爆弾や地雷、原爆ぐらいじゃ太刀打ちできそうにない。
最期はH・G・ウェルズの小説みたいに、バイキン頼みってことになっちゃうんだろうか。

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2007年12月19日 (水)

音楽というものは

ネット通販で注文してあったレッド・ガーランドのCDが届いた。
わたしがいちばん聴きたかったのは、この中の 「セント・ジェームス病院」 なので、なにはともあれ、その曲を聴く。

・・・・・・・・・・
わるくない。
わるくないけど、うーん、なにがなんでも聴かなくちゃというほどの演奏とは思えない。
オリジナルがすばらしい歌は誰が歌ってもすばらしい場合が多いと書いたばかりだけど、たしかにそのへんのバーで、彼女といっしょにしっとりと聴くにはいい演奏だ。
しかし名うての演奏家が演奏してるんだから演奏がいいのは当然である。
しかし、たましいをゆさぶられるような演奏というよりは、イージーリスニングみたいにも思えてしまう。
イージーリスニングとの違いは演奏者の顔が見えることぐらいか。
たましいをゆさぶられるというと偉そうに聞こえてしまうけど、たとえばアニマルズの歌った 「朝日のあたる家」 なんかに比べると、どっちがすばらしいかは一目 (一耳?) 瞭然だ。

こういうことはよくある。
ジャズの演奏者の大半は、テクニックもセンスも言うことなしの音楽家であるけれど、ろくな音楽教育も受けていない英国のチンピラ・ミュージシャンの歌のほうがずっといいということが。
それで思いついた。
レッド・ガーランドの 「セント・ジェームス病院」 は、ロックを20曲ばかり立て続けに聴いて、いささか脳みそが疲弊したときに聴くと、癒しの効果がバツグンなんじゃないか。

いろんな効能があるもんだな、音楽ってのは。
これが1800円なら安いド。

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2007年12月17日 (月)

ふたつの番組

先日、BSで 「アメリカン・ミュージック・アウォード2007」 が放映された。
これは、言ってみればアメリカのレコード大賞みたいな番組である。
そのすぐあと、今度はNHKで 「ワーキングプア」 の第3弾が放映された。
中味はぜんぜんちがうけど、どっちにも関心のあるわたしは、両方を同じDVDデッキに録画しておいた。
今日になって、このふたつの番組を交互に再生しながら観てみたんだけどね。

「ミュージック・アウォード」 のほうではいきなり冒頭から、キンキラキンのミニスカートの美人や、メタル・ファッションで足長バッタみたいな姉ちゃんが、はなやかなスポットライトの下で歌って踊って飛び跳ねて・・・・・ 
番組を切り替えるとこちらでは、大学でIT技術を学んだあげく、失業してマクドナルドでアルバイトをする悲惨な中年男性の映像だ。
ことわっておくけど、両方とも同じアメリカの話だかんね。
「ミュージック・アウォード」 の世界がはなやかであればあるほど、いやぁ、もうじつに馬鹿馬鹿しくなっちゃうよなあ。

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アオサギ

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冬になるとわが家の近所にいろいろな鳥がやってくるが、今日はアオサギを見かけた。
アオサギはかならずしも冬鳥とはいえないけど、わが家の近所では、まあ、めずらしい鳥の部類である。
めずらしいといえばカモメも飛んでいた。 正確にはカモメかウミネコか、そのへんの確実な種類はわからないけど、とりあえずこれも、まあまあ、めずらしい鳥である。

冬になって木の葉が落ちたので、フィールドはオープンになって、たとえばモズが小枝の先で尻尾をたてにふるわせているのなんかも見ることができる。

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2007年12月16日 (日)

注文ミスの2

前項の注文キャンセルについて、その日のうちにキャンセル了解のメールが届いた。
けっこう信用できる業者なんだね、HMVって。

ところでわたしが注文したライトハウスのCDというのは、日本では発売されてない輸入盤のようである。
それがこんなに簡単に買えるんでは、ネット通販がやみつきになりそう。
欲しいCDをかたっぱしから注文してみるか。

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注文ミス

音楽についていろいろ調べていたら、むかし聴いて感心したライトハウスというバンドのライブ演奏のCDがネット通販で買えることがわかった。
で、HMVという業者から注文しようとしたのだが、この業者の注文手続きはややこしい。

以前、注文しようとして、ややこしいので中止したはずのCDの記録がそのまま残っていて、そっちは解約しようとしたのに、解約手続きがわからず、先に進んだらもうそれだけで2枚とも申し込むことになってしまった。
あわててメールで、1枚は注文ミスですという訂正を送っておく。
しかしこういうことになると業者は聞く耳を持たない気がする。
2枚持ってこられても 1枚しか受け取らないからな。
これじゃインチキ・アダルトサイトじゃないか。

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2007年12月15日 (土)

アニマルズ

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ひさしぶりに YouTube をのぞいてみた。
ビートルズの映画では、たしか 「レッツ・イッツ・ビー」 だけがDVDで発売されてない。
なにか契約問題があるらしいけど、YouTubeを利用すれば、ビルの屋上での即席コンサートの模様など、なつかしの場面を見ることができる。

ついでにあちこちのぞいてまわっているうちに、アニマルズの2006年コンサートの映像が見つかった。
アニマルズといえばもちろん 「朝日のあたる家」 で、このコンサートでもそれを歌っている。

わたしは若いころ、デビューしたばかりの彼らを映画で観たことがあるんだけど、猫背でステージをうろうろと歩きまわるエリック・バートンを見て、こりゃほんとにアニマルだなと思ったものである。

2006年コンサートでは、さすがにこのアニマルも老いたようで、立っているのがしんどいのか、椅子に座ったままボーカルをつとめていた。
だいぶ太ったバートンは、ゴリラが白いシャツを着て座っているみたいで、まだまだ野獣の貫禄はある。
若い女性ギタリストなんかしたがえて、うらやましいこと。

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熊日のKさん

熊本のKさんが田舎暮らしを始めて半年たった。
彼の田舎暮らしも軌道にのったみたいで、わたしのブログ記事 「セント・ジェームス病院」 に彼がつけたトラックバックによると、彼が熊本で開始したアルカイック工房が、地元の熊日新聞に写真入りで紹介されている。
彼はじつは芸術家にありがちな喜怒哀楽のはげしい人なんだけど、この写真でみると、定年退職をしたあと、のほほんと悠々自適の生活を楽しむおちついた熟年おじさんに見える。
だまされちゃいけないぞ、みなさん。
といいつつも、どこか彼の生活をうらやむゲージツ家くずれのわたしなのである。

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2007年12月14日 (金)

セント・ジェームス病院

一般にはあまり有名じゃないけど、ジャズのスタンダード・ナンバーといってもいい 「セント・ジェームス病院」 という曲がある。
わたしがはじめてこの曲を聴いたのはサッチモの歌によるもので、哀愁をおびたメロディにいっぺんにとりこになってしまった。
サッチモはこの歌を何度も吹き込んでおり、彼の相棒のジャック・ティーガーデンの歌もなかなか味があって捨てがたい。
めずらしいところ (わたしが持っているもの) ではジャニス・ジョプリンの海賊版みたいなレコードもある。
最近のわたしがよく聴いているのは、カントリー歌手のラトルスネーク (がらがらへび) アニーさんが歌っているものである。

だいたいにおいて、「サマータイム」 や 「黒いオルフェ」 などのように、オリジナルが素晴らしい歌というのは、誰がうたっても素晴らしい場合が多い。

あんまり素敵な曲なので、わたしは歌詞を翻訳してみようと考えた。
ときどきこういう無謀なことをするのがわたしのわるいクセで、ろくに英会話能力もないわたしに、スラングや特殊な用法の多い歌の歌詞を訳すなんて、どだい無理な話なのである。

さっぱり意味がわからず放り投げようとしていたとき、パソコンの自動翻訳を利用することを思いついた。
しかしパソコンの翻訳というのは、あのウィキペディアよりさらにアテにならないものである。
まあ、それでも参考ぐらいにはなるだろうと、パソコン翻訳以外にも、ネットでいろいろ調べて、ようやくこの歌は死んだ彼女に会うために病院へ行く男の心境をうたったものであるらしいことがわかった (違っていたらゴメンナサイ)。

レッド・ガーランドがピアノでこの曲を演奏していて、これもなかなかいい演奏らしいから、CDを購入することにした。
ネット通販で申し込んで、2、3日中に到着するはずだ。

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2007年12月13日 (木)

ワーキングプアの2

ブログでワーキングプアについてふれたら、トラックバックがついた。
トラックバックというとろくなものがない場合が多いけど、このトラックバックはまじめなものらしい。
この問題に関心をもっている人が多いらしく、それをたどるとさまざまな論争の場に引き込まれる。

わたしは自分のブログだけで手いっぱいなので、論争に加わる気がないんだけど、先日に放映されたNHKの番組について、気のついたことをひとこと。
番組の中にまだ30代で、ゴミ箱をあさって週刊誌を集める男性が登場した。
彼がワーキングプアが固定化した社会システムに絶望して労働意欲をなくしたことには同情するけど、いくらなんでもゴミ箱あさりとは。
もうすこし若ければ自衛隊に入ればいい、建築現場の飯場に住み込んでもいい、生活は苦しいけど、たとえばタクシー運転手をしたって、ゴミ箱あさりよりはマシな生活ができるだろう。

じつはここに挙げた三つの仕事は、すべてわたしが経験したことのある仕事ばかりである。
そうやっていくらかでも人間らしい生活をしていれば、共稼ぎでもしようという相手にめぐりあうかもしれない。
すくなくともこの男性に関しては、絶望するにはまだ早いぞと思ってしまうのだ。
ほかにも同じように人生を投げた若者がいるなら、老婆心からわたしは彼らを叱咤激励する。

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ワーキングプア

この番組や、最新のSAPIOという雑誌でもワーキングプアが特集されているが、いや、ひどいもんである。
貧しい人たちはいつの時代にもいたけど、最近のそれは明日への希望がまったく見えず、貧しさが世代をこえて引き継がれるという救いようのない状態になっているという。
わたしは幸運なことに、なんとかその日の糧を得られるだけの仕事にありついているけど、しみじみと考えてしまう。

わたしも絵に描いたような「無能の人」で、学力があるわけでもないし、頼れるコネもない。
もしもこの時代に生まれていたら、わたしも間違いなくワーキングプアではないか。
幸運か不幸かを分けたのは生まれた時間の違いだけなのか。
なんでこんな時代になってしまったのか。
怒りをぶつける相手が見つからないのもよけい腹立たしい。

企業に文句を言おうにも、企業だって苦しいんだと言われればそれっきりだし、そのとおりでもあるらしいし。
国になんとかしろと言ってみても、わかっちゃいるんだろうけど、強権を発動できる政治家もいそうもないし、こんな時代になんとか仕事にありついている人たちは、誰も自分の権利を離そうとしないし、そのうち他人の年金を使いこんだりする人も出てきたりして。

なんとかしなくちゃ、何かしてやらなくちゃと思いつつも、けっきょく無能のまま、ベッドで煩悶するしかない自分が情けない。

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2007年12月11日 (火)

オーディオの2

前項でオーディオ特集についてふれた。
わたしの部屋には数百枚のLPレコードがあることも書いた。
だからわたしにとって、何万、何十万円もする音響機器はまだまだ意味があるということになる。

ところが世の中はうまくいかないものだ。
むかしのオーディオ・ブームのころも、わたしはずいぶん研究したもんである。
アンプはどこのメーカーの製品で、カートリッジはどこそこ、スピーカーはもちろんJBL、いや、究極のスピーカーは手作りにかぎるなんて、いろいろ夢想して楽しんでいたわけだ。

そのほとんどが机上の夢想で終わっていたのは、当時のわたしがすき間だらけの安アパートに住んでいたせいである。
いくら機械に凝ったって、それを聴くためのスペースに問題があったのでは、なんにもならないというわけだ。
そしてそういう悲惨な環境は、現在もあまり好転したとは言えないのである。
わたしもやはり、膨大なアナログ・レコードのお宝を抱き、うらみを抱いて成仏してゆく老人のひとりになるのか。

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2007年12月10日 (月)

オーディオ特集

ラーメン屋でラーメンをすすっているときでさえ、その気があれば、いろいろと情報を仕入れられるものだ。
わたしは読書魔なので、ラーメンを食べながら、そのへんに置いてあるすりきれた週刊誌なんかを拾い読みし、どこの女優が誰と別れたのなんていう新聞の三面記事みたいな情報を仕入れたりするのである。

ラーメン屋じゃないけど、たまたま用事があって入った店で、用事がすむまでのヒマつぶしに置いてあった雑誌を読んでいたら、最新のオーディオ特集という記事が載っていた。

オーディオ特集というのはなつかしい言葉だ。
わたしの若いころはしょっちゅうマランツだ、JBLだなんて特集が、ふつうの雑誌にまで掲載されていた。
その道の専門誌まであったくらいだ (あっ、これは今でもあるらしいけど)。

最近こういう特集があまり見られないのは、原盤がレコードではなく、ほとんどCDになってしまったことと関係があるんではないか。
CDが初めて発売されたころ、純粋なオーディオ・ファンから総スカンをくらった。
やっぱり本気で音楽を聴くならアナログ・レコードにかぎるというわけである。
ところが悪貨が良貨を駆逐するのは世の習い、いつのまにかCD全盛の時代になり、さらに今では、ネットから音楽を入手して聴くのも大流行だという。
こうしたものを否定しては何も言えない時代になってしまった。

つまり原音がどんどん堕落していくのに、何万円もするアンプ、スピーカーに凝っても仕方ないという時代になってしまったわけだ。
かってアナログ・レコードでオーディオについてうんちくを傾けていたむきには、尻のへんがこそばゆい思いがあるんでないかと推察するが、それでもとにかく、ひさしぶりのオーディオ特集である。

わたしにとっては音響機器の特集はまだまだ意味がある。
なんとなれば、わたしの部屋には捨てるに捨てられないアナログのLPレコードが、数百枚 (最近数えてないから正確な枚数はわからないけど、最盛期には7百枚ぐらいあった) もホコリをかぶっているからである。
つまり高価な音響機器を楽しむための音源だけはそろっているわけだ。
かってのオーディオ・ブームのころから現在までの時間差を考えると、世間にはこういうお宝をかかえたまま、どんどん成仏していく老人が多いんだろうなと思う。

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2007年12月 9日 (日)

石川啄木

朝日新聞の夕刊に石川啄木のことが載っていた。
石川啄木は朝日新聞の記者だったことがあるから (最近のことじゃないけどね)、これは言ってみれば内輪ネタ。

朝日新聞には夏目漱石も在籍していたことがあり、彼の初任給は当時の朝日の社長よりも高かったそうだけど、啄木の場合は漱石ほど有名じゃなかったから、まあふつうの大卒並みだったとか。
啄木の入社は押しかけ入社みたいなところがあり、それを社長が太っ腹で認めちゃったらしいから、当時の朝日は、というより当時の企業というものは、社長や幹部の一存で社員の採否が決まることが少なくなかったようである。

わたしは石川啄木の歌が好きである。
若いころずいぶん彼に傾注し、その生い立ちや人生についても関心をもったもんだから、彼がだらしない呑ン兵衛で、どうにもこうにも救いようのない借金魔であったこともみんなわかってしまった。
それでもわたしは彼の歌が好きである。
品行方正で尊敬に値するような人間が、かならずしもいい詩を書くとはかぎらないのは、同じようにだらしがなくて、人生の脱落者みたいだった中原中也も証明しているではないか。

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2007年12月 8日 (土)

12月

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寒くなってくると、散歩に行っても春や夏ほどおもしろいものが見られない。
で、どうしても出不精になっちまうんだが、今日はひさしぶりに野川のほとりを散歩してきた。

この季節の花といえばツバキや山茶花ぐらいと、あいかわらずトキワサンザシの実の毒々しい赤が目立つぐらいのもん。

川の中の魚もめっきり減って、大きな態度でおよいでいるのはコイぐらいなものである。
カワセミの餌サイズの小魚もほとんど見られないから、やっこさんはどうしているのかと心配していたら、案の定、岩の上で来し方行く末について真剣に悩むカワセミを見かけた。
まあ、鳥の世界だけじゃなく、人間世界も不景気で、この年の瀬を越せるかどうかってみんな悩んでんのよね。

ノーテンキなのはこの季節に飛来するカモたちで、マガモ、オナガガモ、コガモなどが先住者のカルガモを押しのけんばかり。
日本にいるかぎり猟銃をブッ放されるおそれもないし、あろうことか、餌をまいてくれる奇特な人もいるからねえ。

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2007年12月 6日 (木)

日本の温泉

ブログのネタ切れで、やけっぱちになって、またどっかへふらりと旅にでも出るかと考える。
考えているだけならお金もかからないし、その割には楽しいことであるので、わたしはしょっちゅう机のまえでぼんやり旅について空想している。

冬はなんといっても温泉である。
行ってみたい候補が二つあって、ひとつは福島県の大内宿、もうひとつは群馬県の伊香保温泉である。
大内宿は古い茅葺の宿がずらりと並んで壮観であるし、民宿だから宿泊料もそれほど高くないようである。
伊香保温泉はずっと昔に行ったことがあり、石段のある街並みがなかなかレトロで気になっていた。
この両者とも雪でも降れば言うことなしだ。

この冬はまた由緒正しい日本の温泉でいこうと思う。
旅マニアにとって海外旅行ばかりが旅行じゃないのよね。

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2007年12月 5日 (水)

鄧小平

独裁者や独裁国家が嫌われるのは当然だけど、最近のアメリカのていたらくと、ロシアのプーチン大統領の強力なリーダーシップを見ていると、いろいろ思うところがある。

ひとつの好例がシンガポールという国である。
東南アジアの小さな多民族国家であって、華人 (中国系) 出身の首相が最高指導者として代々権力をにぎっている。
いちおう民主主義国家というたてまえだが、この国も独裁国家といえなくもない。
しかしシンガポールは、ASEAN内部でそれなりの発言力を持った、台湾、韓国とならぶ小さな大国である。
独裁国家でありながら、無知や貧困ともほぼ無縁のようで、国民はおおむね国の政策に満足しているようである。
もちろんシンガポールの首相は、さまざまな利害のともなう多民族国家を統治するのに、詭弁といいたくなるような政策をたくさん導入している。
詭弁というと言い方がわるいので、これは方便といったほうがいいだろう。

わたしがいいたいのは、独裁国家だから何がなんでもいけないのではなく、独裁者の資質のほうが問題なのではないかということだ。
世界には北朝鮮のようなタイプの独裁者が多いが、真に国家と国民のためを思う指導者なら、彼が独裁的権力を行使しても、そのほうが国民にとって幸せという場合がある。
シンガポールの首相、ロシアのプーチン、そして亡くなった中国の鄧小平などをながめると、いずれも個人の利益だけを追求する独裁者とはいえないようだ。

民主主義というのは政治に民意が反映されるシステムで、政治体制としてはこれが理想であるということはよく言われる。
日本のように国民の教育水準が高くて、民意がまとまりやすい国ならそれでもいいけど、


さ世の中には民主主義のなんたるかさえ知らない国民が多い国、また多くの民族がいりみだれて生活していて、てんでに勝手な要求ばかりする国家もある。
そういう国をひっぱるには、ガタガタ言うなと、強引な指導力を発揮したほうがいい場合もあるだろう。
だから問題は独裁者の資質にあるんじゃないかと、つい考えてしまう。

シンガポールはどちらかというと例外で、東南アジアの独裁政権はほとんどロクなものがない。
そうしたことを厳密に判断しながらも、わたしはやはりよい資質をもった独裁者もいるのではないかと考えてしまう。
つまり、わたしはプーチンが好きなのである、米国のブッシュよりも。

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2007年12月 4日 (火)

パソコン

日曜日にノートパソコンを見に行ってきた。
買うとしたら、予算は10万円以下である。
あまり多くないけど、この値段のノートはあるにはある。
ただしスペックはそうとうに低い。
でもまあ、低いのは覚悟のうえだ。
あくまでメインで使っているディスクトップがこわれた場合の緊急避難用パソコンで、インターネットとオフィスぐらいが使えればいいのだから。

ただ、これから買うのだから、やはりOSはVISTAということになるだろう。
問題はVISTAパソコンに、わたしの持っているたくさんのソフトが入るかどうかだ。
店員に訊いたら、いちおうVISTA対応版だけってことになっていますという。
ということは、わたしのソフト (総額では50万円にもなるんじゃないか) の大半はゴミということか。

ただ店員の言ったことをすべて信用していいものかどうかわからない。OSが変わるたびに、新しいOS対応版だけしか使えないといわれるのはいつものことだ。
XPの時もそう言われたが、わたしはかまわずに98時代のソフトをそのままインストールしてしまった。
そして、それらのほとんどが問題なく使えたのである。

ただXPからVISTAのヴァージョンアップについては、マイクロソフトも思い切った変更をしたという情報もある。
あせってVISTAパソコンを買って、もしも古いソフトが使えないとなったらかえって高いものにつく。

店員の説明では、いまでもXP版のほうがいいといって、わざわざXP版のパソコンを買う人も多いという。
もちろんパソコンはXPのほうが安いから、VISTAの対抗機としてはかなり強力な候補になる。

XPへのマイクロソフトのサポートは2014年で終わっちゃうということですけどねと店員はいう。
2014年ということは7年後だ。
7年あれば十分すぎるくらいじゃないか。
だいたいわたしのパソコンで、これまで5年間も使ったものはひとつもないのである。
例外は、いま部屋にあるもう1台のパソコン (WIN98) で、これは買ってからもう7年になるけど、仕事の大半はその後に買ったXPにおまかせしているから、完全にぶっ壊れればとっくに廃棄処分にされておかしくないパソコンなのである。
マイクロソフトのサポートなんかぜんぜん期待していないパソコンなのだ。

困ったことに、この98パソコンはいまでもけっこうすいすいと使えるので、棄てるに棄てられないのである。

この日は話を聞いただけで帰ってきた。
以前のわたしならパソコンに大金をつぎこむことにためらいはなかっただろうけど、現在のわたしはそういうことに懐疑的な人間なのである。
どうしょうかしら。

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2007年12月 2日 (日)

ヤキイモ

この混乱する世界、またサブプライムローンのこげつきでゆれる世界経済を目のまえにして、こんなノーテンキな話題をブログに書いていていいのかと、いろいろ悩んでしまうけど、じつはわたしの部屋には旧式な石油ストーブがある。

最近はファンヒーター式のストーブが流行りだが、旧式なストーブの利点は焼き芋が焼けることだ。
パソコンに向かいながら、ストーブの上にアルミホイルでくるんだサツマイモを載せておくと、いつのまにか焼き芋になっている。
女の子は焼き芋が好きだそうだ。
彼女らに言うけど、この冬は買うなら旧式のストーブにしておきなさい。
ファンヒーターじゃ焼き芋はできません。

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2007年12月 1日 (土)

友竹進一さん

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朝日新聞にジャック・マイヨールのことが載っていた。
マイヨールは知る人ぞ知るの有名なフリー・ダイバーで、人類史上初めて素潜りで 100メートルを超える記録を出した人としても知られている。
わたしもダイビングに凝ったことがあって、その名前はよく知っていた。
マイヨールだけではなく、ダイビングを通じて知り合った著名人は多い。
もっとも知り合ったといっても、ほとんどは名前を知ったとか、はたから望見しただけだけど。

ダイビングをする人なら伊豆にある海洋公園はよく知っていると思う。
もうだいぶ昔になるが、ここへ潜りに行ったとき、公園のフロントに雑用係りみたいなおじいさんが働いていた。
そんなエライ人には見えなかったけど、先輩のベテラン・ダイバーに教えてもらってびっくりした。

この人は友竹進一さんといって、日本におけるダイビングの先駆者みたいな人で、ジャック・マイヨールの潜水競技の立会人も勤めたことがあるという。
映画 「グラン・ブルー」 を観た人は知っていると思うけど、素潜りの潜水競技というのは、海底に垂直にたらしたケーブルづたいに、重りをつかんだダイバーがいっきに潜水していくものである。
限界まで達したと考えた競技者が重りから手をはなして浮上すると、重りは手をはなした場所にとどまるから、それを検証することで競技者が何メートルの深度まで潜ったかわかる。

へえ、すごいですねえと、素潜りではせいぜい5メートルぐらいしか潜れないわたしは感心した。
ところがこの競技には立会人というのがいて、彼はあらかじめ深海で待機していて、競技の確認、万が一競技者にアクシデントなどが生じた場合、救出にあたったりするのだそうだ。
えっ、それじゃそっちのほうが大変なんじゃないのと、わたしはさらにぶったまげた。

じつは立会人はタンクを背負っている。
こちらはスキューバ・ダイビングであって、素潜りではない。
だからといって誰でもできるわけではない。
ふつうのダイバーは空気の入ったタンクを背負っているが、立会人のような常識はずれの潜水をする場合は (たしか) 窒素を使うとのことである。
ジャック・マイヨールのように 100メートルも潜るとなると、そこはもう光の届かないまっ暗闇の世界である。
そんなところで待機している立会人の孤独を想像すると、えらい仕事があったもんだと思ってしまう。

最近ダイビングもご無沙汰しているので、友竹進一さんを見る機会もなかった。
ネットで調べたら、残念なことにすでに故人になられたようだ。ご冥福をいのる。
※写真は当時わたしが撮ったもので、撮られているのは友竹さんではなく、先輩のベテラン・ダイバー。

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ノートパソコン

パソコンの具合がわるいぞー。
昨夜なんか電源を入れたとたんに固まっちゃって、まだ何もしていないのに強制電源カット以外にやることがないっていう状態。
最近こういうことが多いんだよな。

パソコンが固まると、いっしゅん親の死に目に遭遇したような気分になる。
月末はいろいろと会計書類を作らなくちゃいけないのだが、パソコンがないとわたしは仕事がなにひとつ出来ないのである。
新しいパソコンを買えばいいのだが、ちょい待て。
まだ壊れたわけじゃないのである。 近いうちに壊れそうな予感があるだけ。
しかし壊れてしまうと、その瞬間からなにひとつ仕事ができないことも事実。

こういう場合はどうすればいいだろう。
リカバリでもしてみるか。
自慢じゃないが、わたしはリカバリの達人である。
ちょっと具合がわるくなるとすぐリカバリしちまうので、最近はマニュアルなしでもできるようになった。
エライでしょ。

しかしリカバリはひじょうなエネルギーを消耗する。
ほとんど1日がかりで、データをあっちへ移したりこっちへ移動したり、そのあげくにソフトを全部入れなおしだ。
それにリカバリしたって完璧にもとにはもどらない、ってことも知っている。
うーんである。

ほうっておいて、壊れてしまってから慌てるのもイヤだ。
さんざん悩んだあげく、仕事の補助として安いノートパソコンを買うことにした。
インターネットと、会計書類が作れさえすればいいのだから、性能なんかなんだっていい。
中古だってと思ったが、さすがにこの変転きわまりない世界で、型落ちということだけは避けることにした。
予算は10万円以下。
今日はいまから吉祥寺までノートパソコンの下見にいくことにする。
まだ風邪が治りきってないが、急がなくちゃいけない。パソコンは明日壊れるかもしれないのである。

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