2008年1月31日 (木)
寒いぞ。いつも出勤前にシャワーを浴びるんだけど、風呂場が寒い。 昔、ひとりで冬の北海道をさまよったことがあるんだけど、そのときのことを思い出した。 オホーツクの沿岸にある北見枝幸という町で駅前旅館に泊まったら、風呂場に氷が張っていたっけ。 まあ、貴重な旅だったなあと、わたしはこういう体験を前向きにとらえちゃうのである。
貴重といえば、このときのわたしの旅は、今ではもう誰にも体験できないものになった。 というのは、このとき乗った深川から名寄までの深名線や、浜頓別あたりのローカル線は、みんな廃止されて現在はないからだ。 深名線は朱鞠内湖のそばの山の中を走るんだけど、雪の上にケモノの足跡がたくさんあって、日本の野生もすてたもんではないと思ったり、肉眼でもはっきり見える雪の結晶に感心したり、みんな忘れられない思い出だ。 青春まっただ中のころだったけど、旅のとちゅうで知り合った女の子たちも、いまじゃそれ相応の年齢になっているはず。 ああ、寒い風呂場からいろんな連想が働いちゃうもんだ。
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知り合いがライカのフィルム・カメラ (M7) を貸してくれた。 ライカといえばブランド・カメラである。 クラシック・カメラで、もう製造されてないのかと思ったら、まだ新品がちゃんと売られていた。
値札をみてビックリし、外に持ち出さないで、部屋の中でしこしこと使うことにした。 だいたいわたしはブランドなんてものに興味がないのである。 グッチもプラダもヘルメス (エルメスだっけ?) も興味がないし、買う金もない。 いくらライカが有名でも、日本のニコンやキャノンより性能的にまさっているとは思えない。 まさっているなら、なぜ世界中のカメラマンが日本のカメラを使うのか。 と、屁理屈を言ってみたけど、わたしには好奇心というものがある。 ライカのブランドとはいかなるものか。どんなカメラなのか。 そりゃ使ってみなくちゃわからない。
で、ありがたく借用して、いろいろいじくりまわしてみることにした。 こういうわたしであるから、ブランドというものに幻惑されるはずがなく、性能以上にライカを買いかぶるわけもない。 逆にいうと、わたしぐらいライカを語るにふさわしくない人物はおらず、わたしぐらいライカを使うに不適切な人間はいないのである。
まずフィルムの装てんでうんざりした。 ニコンやキャノンの一眼レフだって、かならずしも装てんしやすいとはいえないけど、M7のややこしさはどうだ。 これじゃまず、突発事件に対処しなければいけないニュース記者たちが、日本製カメラにとって替えたのも当然だろう。 つぎに焦点のあわせ方のむずかしさである。 といっても、この点はライカの責任ではなく、そろそろ眼のほうがくたびれてきたわたしのほうにある。 最近の進化したオートフォーカス・カメラのせいでもある。 いろいろケチをつける人もいるだろうけど、現在のオートフォーカスに文句をいえる人はあまりいないはずだ。 いったん自動焦点になれると、プロでもそれに逆らうのはむずかしい。 わたしなんか一眼レフをさっさと放り出して、最近はもっぱらバカチョンカメラばっかり愛用している始末である。
もちろんライカ・レンズやブランドを今でも信奉している人はいるだろう。 ややこしさをむしろ楽しみに転換しているマニアもいるだろう。 そういう趣味はわるいものではない。 ポンコツ・バイクをこつこつと修理するのが楽しいという人もいることだ。 つまりこのカメラは人を選ぶのである。 せっかちなわたしが選ばれなかったことはいうまでもない。
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2008年1月29日 (火)
前日に続いて今日も朝日新聞が 「東アジアの150年」 というシリーズを載せている。 今回はベトナム戦争がテーマだけど、あくまで韓国が関わった部分だけが取り上げられていて、米軍やベトナムについてごちゃごちゃいう記事ではない。 ざっと読んでみたけど、とくにいちゃもんをつけたくなるような気になる箇所は見当たらない。 なぜかと考えたら執筆者が違っていた。 記事全体から、アノ朝日新聞のポリシーに反するような部分も読み取れるんだが、いいのかしらね。
今日の記事では、韓国はベトナムに、米国に次ぐ規模の軍隊を送り込んでいたとある。 当時の韓国の事情もあったらしいし、これについて他人が何かいう筋合いのものではない。 ベトナムではお定まりの虐殺があったという。 それも韓国軍の手で。 戦争だからそういうこともあっただろうと、これも韓国の問題で、わたしがここで怒り狂う問題でもない。 韓国だって人のことをいえないじゃないかという気にもなれない。 ただ、中国や韓国の軍隊の残忍さについては、ずっと古い儒教の体質も根本に原因があるんじゃないかと、ほんの少しだけ思ってしまう。
ベトナム戦争については、米国のWGBHボストンというテレビ局が、ひじょうに優れたドキュメンタリーを制作した。 これは戦争終了後に米越双方から取材、当事者の意見や当時の実写フィルムから構成された、客観的なベトナム戦争の記録である。 この番組はわたしにとって宝物みたいなもので、今でも全13巻がDVDに焼きなおして家にある。
悲惨さは遠い過去の話になり、わたしが思い出すのは、B52爆撃機から投下されるナパーム弾の鮮烈に美しい画面だけになりつつある。 これ、ちとマズいけど。
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2008年1月28日 (月)
朝日新聞がときどき 「東アジアの150年」 というシリーズを載せていることは、このブログでも何回か触れている。 28日のそれは朝鮮戦争についてだったけど、また朝日新聞流の偏見が感じられるので、ひとこと言いたくなってしまった。
戦争はもちろん悲惨なものである。 そのひとつの例として、この記事の中では、ソウル郊外の高陽市にある、戦争中の虐殺現場のことが取り上げられている。 朝鮮戦争が一進一退の展開をしていたとき、韓国軍がここで 「敵に協力した」 という名目で153人の農民らを殺したのだという。 このあとにも 《冷戦下のイデオロギー対立を背景に多くの惨劇を招いた》 という文章があり、米軍による虐殺事件も起きたとある。 さらに、朝鮮戦争前後の民間人虐殺の犠牲者は100万人に及ぶとみられる ~ 軍人出身の大統領のもとでは遺族は沈黙を強いられたと、文章は続く。
これらは真実だろうから文句を言うことはないけど、この新聞記事は、同じように、あるいは韓国軍以上に凄惨な虐殺をおこなった北朝鮮についてはひと言も触れていない。 この記事を読むと、悪いのは韓国と米軍であって、北朝鮮ではないと信じる人がいても不思議ではない。
当初、38度線を越えてソウルに達した北朝鮮軍は、政治家や公務員に対して自首をすすめ、名乗り出た人々をことごとく虐殺した。 軍人が戦争で殺されたのならまだしも、この虐殺の被害者のほとんどは民間人だった。 虐殺に関しては北朝鮮も同罪か、あるいはそれ以上のことをしているのである。
朝日新聞は朝鮮戦争においては第三者の立場である日本の新聞である。 客観的に歴史を書こうというならば、韓国軍の残虐さばかりではなく、北朝鮮の残虐さにも触れるべきではないか。 韓国も北朝鮮も相手への侵攻を考えていたとあるけど、考えるだけなら台湾の蒋介石もずっとそんなことばかり考えていた。 それを実行に移したのは北朝鮮である。 また、朝鮮戦争のことを書くのに、なぜ日本が大陸侵略のために作ったと、鴨緑江の橋のことに数行をついやす必要があったのか。
同じ紙面に北朝鮮の金日成と、韓国の初代大統領だった李承晩の経歴が載っている。 わたしはどちらも好きじゃないけど、朝日の書き方はおかしいと思わないわけにいかない。 李承晩は独裁政治をおこない、政権腐敗のために倒れたと書いてあるのに比べ、独裁政治に関しては李承晩をはるかに凌駕していた金日成のほうは、独自の思想をかかげて独裁体制をかためたと、わりあいあっさり書いてある。 これでは歴史に不勉強な昨今の若者が読んだら、李承晩は悪人だが、金日成は立派な指導者であったと考えてしまうだろう。 李承晩には、すくなくとも韓国の発展に寄与した部分があることは否定できないし、彼の失脚は国内の民主運動の成果だったのだから、彼が育てた民主化が彼を倒したといえる。 金日成は民主化の芽をことごとく摘み、反対派をかたっぱしから粛清し、朝鮮人民にとって現代まで続く悪夢のような社会を構築した。 ほんとうに非難されるべきはどちらだったのか。 何度読み返しても朝日新聞の書き方はおかしい。 わたしのような凡人でさえ、おかしいと感ずるような記事を載せる朝日新聞の意図はどこにあるのだろう。
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冬は東京湾もエサが乏しいのか、わが家の近所にもカモメが上ってくる。 カモにパンくずを投げるおじさんのまわりをひらり、ひらり。
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「世界残酷物語」 について書いたとき、ついでにアカデミー賞について調べてみた。 残酷物語の主題歌が歌曲賞にノミネートされた年 (‘63年) に歌曲賞を受賞したのは 「パパは王様」 というナンバーになっていた。 しかしわたしはこの曲について何も知らない。 シナトラなどが歌っていてそれなりよい歌らしいけど、映画の博識と勝手に自負するわたしが知らないところをみると、スタンダードなヒット曲にならずに終わった曲らしい。 アカデミー賞にはふつう5つの曲がノミネートされるんだけど、同じ年にノミネートされた曲の中でいまでも残るヒット曲といったら、残酷物語の主題歌 「モア」 と、ヘンリー・マンシーニの作曲した 「シャレード」 だろう。
シャレードについては、博識を自負するわたしが幼少のみぎりからよく聴いた曲である。 わたしの家は昔から貧乏だったけど、なぜかビクターのステレオが早くからあったので、当時からませガキだったわたしは、さっそくドーナツ盤のシャレードを買ってきて、すりきれるくらい聴いたものである (すりきれたのはたいていレコード針のほうだった)。 まだ映画は観てなかったし、その音楽も知らなかったのにわざわざ買ってきたのは、レコードのジャケットにオードリー・ヘプバーンの写真が使ってあったかららしい。 わたしは青二才の分際ですでに映画好きだったのであるよな。
オリジナルのシャレードは男女のコーラスによって歌われる曲で、歌のとちゅうで混合コーラスと入れ替わるようにわきあがってくる女性コーラスがなんともいえず素敵である。 さいわい歌詞カードがついていたものだから、わたしは歌詞の意味を知りたいと思った。 感情のおもむくままに、無謀な企てに挑戦してしまう性格も当時からのものであるのよな。 当然ながら劣等生のわたしに歌詞の翻訳なんかできるわけがなく、この企ては頓挫したのであるが、シャレードは有名なスタンダード・ナンバーなのでテレビなどで歌われることも多く、それにはたいてい字幕がついているので、ずっとあとになってからわたしはその意味を知ることができた。 引用すると著作権がうるさいので、一部だけを紹介すると、それはこんな詩である。 振り返ると あなたはもういない 暗い舞台の袖では 音楽が鳴り続けていた 悲しみのセレナーデ この胸の奏でる調べ 私は耳をかたむけ シャレード (パントマイムのような遊びの一種) を演じ続ける わきあがってくるような女性コーラスは、悲しみのセレナーデという部分である。 じゅうぶんアカデミー賞に値する音楽であるけど、マンシーニはこの前年と前々年にも受賞しているので、さすがに3回続けてはと見送られた経緯があるそうな。
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2008年1月26日 (土)
「世界残酷物語」 という映画があった。 1962年の映画だから、もう46年前の映画である。 世界中の奇習や残酷なシーンを集めたドキュメンタリー映画だけど、いま見かえすと、やらせやでっち上げが満載で、ほとんどの映像が真実とはいえないようである。 最近ではテレビもしょっちゅうこういうドキュメンタリーを放映しているし、情報は氾濫して世界はますますせまくなっているから、視聴者もなかなか簡単にはダマされない。 しかしこの映画の公開当時は、まだ自由な海外旅行もゆるされていないころで、この映画の内容をすなおに信じた日本人は多かった。
46年前という点を考慮し、マユにつばをつけて見る気があれば、この映画は文明への強烈な批判をこめた、それなりの傑作という評価ができなくもないのだけど、しかし、まあ、ふつうに考えれば、その後製作されたおびただしい映画に埋もれてしまうのが関の山のゲテモノ映画だっただろう。
しかしどこを血迷ったのか、このゲテモノ映画の主題歌が、なんとこの年のアカデミー歌曲賞にノミネートされてしまった。 ひじょうに美しい旋律をもったその主題歌 「モア」 は、その後歌詞がつけられて、スタンダードなポピュラーの名曲になってしまったので、今でも時々耳にすることがある。 耳にするたびにこの映画を思い出すので、わたしにとって、主題歌のおかげで 「世界残酷物語」 は永遠不滅の映画になってしまった。
最近では映画製作者の意図とはべつの意味で、この映画はわたしに複雑な悲しみを感じさせる。 何万羽もの海鳥が群れる南海の孤島、放射能に犯されて方向感覚を失った (とされる) ウミガメ、飛行機を自分たちの神さまだと信じるパプアニューギニアの原住民たち、そしてやらせの数々をすなおに信じていた観衆たちも含めて、わたしがはじめてこの映画を観たときから、いったいどれだけの年月が過ぎただろうということである。
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2008年1月25日 (金)
寒風の中、用事があって郵便局まで出かけ、帰りは野川のほとりをぶらぶら歩いて帰る。 この川には夏のあいだ、たくさんのカメやスッポンがいたものだけど、現在は1匹も見えない。 爬虫類が冬眠することぐらい知っているけど、それじゃどこでどう冬眠しているか、具体的なことになるとさっぱりわからない。 どこかそのへんに穴を掘ってもぐっているのだろうか。 土をかけたぐらいでは寒さをふせぐことはできないだろうから、カメにはそんなに深く土を掘る能力があるのだろうか。 そのへんをスコップで掘ってみれば、冬眠中のカメがごろごろ出てくるのだろうか。
わたしはヒマなときは、いつでもこうした不可解な自然の摂理について考察している (それでぼんやりして帰りにコンビニで買い物をするのを忘れた) のだが、世の中には考えてもわからないことが多すぎる。 誰かカメに発信機をつけて、うちの近所のカメたちが、冬のあいだどこにいるのか研究する人はいないだろうか。
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2008年1月23日 (水)
雪である。 午前中の降りようではまだ積もるかどうかわからない。 そんな中を外出する。といってもハガキを出しに行っただけだけど。 帰宅して渋茶をすすりながらぼんやり考える(ジジ臭えよな)。
わたしはこのブログ以外にもうひとつブログを持っていて、そっちは日々のアクセス数が数字で表示されるようになっている。 毎日、自分のブログをどのくらいの人が読みにきてくれるのかわかると励みになっていいんだが、どうも(ヤフー・ブログの)このアクセス数ってのはアテにならないようだ。 今朝の0時すこし過ぎにブログを見てみたら、アクセス数が1だった。これは、まあ、自分のアクセスもカウントされているのかもしれない。 そこでブログを更新したら、アッという間に数字は20か30になった。 夜中の1時か2時にブログを見ている人がそんなにいるかい? しかもわたしが更新するのを待っていたような。
更新したあとイップクして、そのあとでもういちどブログをのぞいたら、もうアクセスは50を突破。このあいだ1時間か2時間だ。 おかしいじゃないかよ。 考えられるのはわたしのブログの熱心なファンがいて、「お気に入りブログに登録」しており、更新があるとそれを自動的に探知するようにしているのかもしれない。 わたしはヤフーのブログのしくみについてよく知らないので何ともいえないが、それもアクセスとしてカウントされるのなら納得はいく。
世間にはアクセス数が増えるのを楽しみにしていて、やたらに他人のブログをのぞいている人もいるようだ。 アダルト・ブログなんかでは、宣伝のためにできるだけ多くのブログにアクセスするところもある。 のぞかれた人は好奇心でもってアクセスしてきた人のブログをのぞき返すから、そうやってどんどんアクセスが増えるということも考えられる。 しかしわたしはぜんぜん他人のブログに関心がない。 こちらから他人のブログをのぞきにいくことはほとんどないし、宣伝もしてないぞ。
わたしのブログをのぞきにきた人のブログをのぞき返してみたら、まだ記事がひとつしかないブログなのに、アクセス数は450になっていた。 おかしいんじゃないか。
昼ごろ見たら、わたしのブログのアクセス数は90になっていた。 この調子でどんどん増えるかというと、たいていの場合、ここから先はぜんぜん増えないのだ。 ブログの制作者を喜ばすために何か作為的なことをやっているんなら、おおきなお世話というもんだけどな。
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若いころ、わたしは列車の旅が好きだった。 旅に出るときはいつも文庫本を持っていく。 そんな文庫本がメモ代わりに使われることがある。 とちゅうで見たり感じたりしたことを、本の空白部分にメモっちゃうのである。
最近、古い文庫本の1冊をひさしぶりに取り出してみたら、後ろのほうに女性の名前と住所がメモしてあるのに気がついた。 寺西理恵という名前と、葛飾区のほうの住所、そして「またお願いします」というメッセージが、女性の筆跡で書き込まれていた。 ところがいくら考えても、この(たぶん若そうな)女性が誰なのか思い出せないのである。
「またお願いします」というんだから、何かお願いされちゃったらしいけど、いったい何をしてやったんだっけ。 色恋沙汰でお願いされたのなら、そういう女性についておぼえていられないほど、わたしの経験は豊富じゃないから、ひょっとすると缶ジュース代でも貸してやったのか。 いや、そのていどのことで、わざわざ本にお礼を書く人間はいるまい。
はて、誰だっけと、相手が女性だけに気になって仕方がない。 彼女がこのブログを読むことがあったら連絡してほしいものだ。 ただし、文庫本の古さからして、彼女が健在だとしても、もう子供はもちろん孫がいても不思議じゃないだろうから、いまさら色恋沙汰で問題が生じることはないだろうと思われる。 ザンネンというべきか。
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2008年1月21日 (月)
新聞を読んでいたら、センター試験を受ける学生たちが、高級ホテルに宿泊なんて記事が出ていた。 こういう甘ったれ息子と過保護の親の顔が見てみたいが、これもエントロピーの法則かなと考えてしまう。
エントロピーなんていうと学をひけらかすことになっちゃうが、わたしのいいかげんな解釈によると、これは物質を均等化させる力みたいなもんらしい。 つまりあらゆる物質には、つねに自らを均等化させようという力が働いている。 お湯はつねに周りの温度と同じになろうとし、その結果すぐにさめてしまう。 浸透膜で仕切った塩水は、となりから水をじゃんじゃん浸透させて、いつかただの真水になってしまう (これらの解釈について深く追求しないこと)。
お金持ちは息子を高級ホテルに宿泊させて、有名大学に進学させ、大企業に就職させ、自らの財産の維持を図ろうとするが、こういうバカ息子は財産を食いつぶすに決まっているから、彼らの財産はやがて一般的な貧乏人レベルに均等化されるのである。 つまり世間に再配分されるのである。 もちろん、一方で平らに均等化される財産があれば、別の場所でまた突出する財産もあるから、すべてのお金持ちが均等化されたマルクス主義のできそこないみたいな社会は永遠にやってこない。
いやあ、ヨタ話をでっち上げてウサ晴らしでもしようかと考えたが、けっきょく貧乏人の前途が暗澹たるものであることは変わんないな。
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2008年1月20日 (日)
昨夜のNHKのBSライブは 「ブラインド・フェイス」。 ちょっと驚いた。 というのは、このスーパー・クァルテットはロックの歴史に残るバンドだけど、1枚のレコードを残して短期間で解散してしまったので、わたしはそのライブ映像を観たことがなかったし、その演奏をとらえた映画があるとは思ってもなかったのである。
彼らが演奏をしたのはストーンズのライブでも知られたハイドパーク。 聴衆は10万人も集まったそうである。 タダだったからっていう理由もあるだろうけど、それだけ期待されたバンドであったわけだ。
映像を観るかぎりでは、レコードに含まれていた曲や新曲、ストーンズの曲まであるけど、クリームのようなワイルドな演奏を期待すると肩すかしをくらってしまう。 どこかギクシャクしてるぞ、おいってところ。 ロック・コンサートでは、どこでも踊りだしちゃうお調子者がいるけど、ここではなんだか無理しているみたいである。 映画の出来も、最近のライブの映画にくらべると、カメラワーク、編集などに稚拙なところがあってもの足りない。 40年前の映画じゃやむを得ないか。 レコードでは各プレイヤーの長いソロが聴ける DO WHAT YOU LIKE という曲にしても、肝心のギター・ソロが聴けない (クラプトンの心中やいかに)。
残念ながら、実力のあるミュージシャンがそろえば必ず素晴らしい演奏になるかっていうと、そうは問屋が卸さないことの証明みたいなコンサートになってしまったようだ。 放映のあとの東郷かおる子さんの解説もちょっと複雑そう。 しかし若々しいエリック・クラプトン、スティーヴ・ウインウッド、ジンジャー・ベイカーはこのころから年齢不詳のとこがあったけど、彼らのひとつの時代をとらえた映像としてはひじょうに貴重である。 団塊の世代としてはこのくらいは言っておかないと。
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2008年1月18日 (金)
南極の近くで日本の捕鯨船に環境保護団体の男2人が乗り込んで身柄を拘束されたそうだ。 海外の新聞によると、2人はロープでしばられて帆柱につるされたと、カリブの海賊のジャック・スパロウみたいな按配になっているらしい。 日本の新聞では、2人は日本語の辞書を持ち、テンプラが食べたいなどと、なんだか友好親善使節みたいなようすである。 わたしは日本人だし、クジラの肉は好物だから、日本には伝統的なクジラの食文化があってと弁解したくなるけど、なにはともあれ、仲良く話し合いをしてほしいものだ。 テンプラが食べたい2人にはクジラの竜田揚げなんかご馳走してやったらどうか。
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2008年1月17日 (木)
今日17日は阪神大震災から13年だそうだ。 わたしは13年前のこの日 (正確には18日) をよくおぼえている。 その日の朝、わたしは中国へ出発するために成田空港にいたのである。
成田空港の待合室にあるテレビが震災のニュースを伝えていた。 高速道路が崩壊し、あちこちで火の手が上がっていたが、飛行機は予定通りに離陸した。 わたしは政府の閣僚でも役人でもないし、関西にとくべつな知り合いがいるわけでもなかったから、それほど関心ももたずに空の人になってしまった。 目的地の中国・無錫をさまよっているとき、あちらこちらで、日本は大地震だそうだけど大丈夫なのかと質問された。 そんなこと言われたってどうしようもない。 本人が目の前にいるのだから大丈夫に決まっている。
そういうわけでわたしはノーテンキに中国をさまよい、阪神大震災の猛威についてほんとうに知ったのは帰国したあとである。 わたしの海外旅行はついていることが多いのだが、これもツキのうちに入るのだろうかと、今でもたまに考える。
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2008年1月16日 (水)
わたしは独身なので、食事の準備や洗濯やらを自分でやらなければならないし、新聞もすみからすみまで読みまくらなくちゃいかん、テレビのニュースもたまに観る、もちろん日々の糧を稼ぐために本業も手抜きはできない。 そこへもってきて寝るのも大好きだから、のんびりブログを書いていられない日がある。
ただいまブログで書きたいのは、先日BSで放映された河瀬直美監督の「殯(もがり)の森」について。 録画しておいてあとでのんびり観ようと思っているんだが、いま書いたとおり、忙しいのでこの映画ばかりじっくり観ていられない。 鍋で煮物をしたり風呂の湯をはりながら片手間に観ようとすめと、鍋はまっ黒に焦げつかしてしまうし、湯はざあざあとあふれる始末だ。 そういうわけで「殯の森」について書くのはもうすこし先になる。
そのあいだにも外国人が捕鯨船に乗り込んでロープでつるされたとか、なまはげが温泉に乱入してハダカの女の人にさわったとか、日々これ重大な事件が山積みだ。 浜のまさごは尽きるとも、ブログの種はなんとかってやつだな。
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2008年1月15日 (火)
わたしのブログにコメントやトラックバックをよそおって、商品の宣伝をする輩がおりますけど、これは宣伝だなと思えるものは、見つけ次第かたっぱしから削除いたします。 どうしても載せたけりゃ宣伝費払え、コノヤロ。
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昨日の休日は早朝からバスに乗った。 見るとあちこちで美容院がオープンしていて客がごったがえしている。 はてね。美容院てのはこんな時間からやっていたっけかねと不審に思いつつ、駅に行って、晴れ着のお嬢さんたちを何人も見かけて、あ、そうか、今日は成人式かとようやく思いついた。 わたしが成人式と縁遠くなって、もうそうとう経つから仕方がないよな。
早朝からバスに乗ったのは、むかしの山登り仲間から、柴又の帝釈天に初詣に行かないかと誘われたからである。 初詣はとっくにすませているんだが、たまに古い仲間と呑むのもいいだろうと、寒いなかを出かけてみたのだ。
柴又の帝釈天というとフーテンの寅さんのふるさとである。 寅さん映画にぜんぜん興味のないわたしが行ってみるのは初めてである。
帝釈天という名前からはお寺なのか神社なのか悩んでしまうが、縁起を読むと日蓮宗のなんとかかんとかと書いてあるから、これはお寺になるらしい。 寅さんのおかげで日本人なら誰でも知っているお寺であるけど、お寺そのものとしては思ったより大きくない。 それでも、門やお堂をかざる彫刻は日光東照宮にひけをとらないような立派なもので、一見の価値はある。
彫刻もしくは見学者を風雨から守るためなのか、彫刻はガラス張りの通路を一巡しながら見られるようになっていた。 一巡しながら、寺のうらにある遂渓園という庭園も見学できる。 寒い日だったので靴をぬいで歩くのはちと辛かったが。
帝釈天から徒歩5、6分の矢切の渡しにも行ってみた。 寒風がひゅうと吹いていたので、渡しのすぐそばまで行くのは止めにして、江戸川の土手の上からながめると、観光客のために舟が行ったり来たりしているが見えた。 昔ながらに手こぎの舟だけど、エンジンもついているようだった。 向こう岸の舟つき場のまわりだけ竹ヤブが茂っており、なんとなく股旅の紋次郎サンが似合いそうな雰囲気が残っている。
土手の上から「山本邸」という瓦屋根の立派な日本建築も見える。 ちょっと興味はあったが、仲間たちの目標は、土手のわきの公園からエレベーターで下りられる「寅さん記念館」だった。
「寅さん記念館」は豪華な近代建築である。 わたしが寅さんに興味がないことはもうふれたけど、ひとりで「山本邸」まで行ってみるのもおっくうになって、ただ館内をふらふらしていた。
帰りにもういちど帝釈天にもどって、門前の店でイッパイやっていくことにした。 ここにはよく知られた料亭や名物料理もあるのだが、わたしたちが入ったのはモツ煮込みを売り物にする食堂だった。 どんな店に入るかを決定するのは、場に居合わせたメンバーのうち、いちばん財布の中身が軽い人間に合わせるのがわたしたちのルールである。
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2008年1月14日 (月)
NHKBSの音楽番組はじみだけど、ときどき珠玉のような掘り出し物にあたることがある。 たとえば以前放映された 「グレン・グールド/ロシアの旅」 という番組がそうである。
これは1957年に、カナダのピアニスト、グレン・グールドが、当時まだソ連とよばれていたロシアに乗り込み、聴衆のど肝を抜いたてんまつを、1時間ほどの映像にまとめたものである。 当時の (今でもそうかもしれない) ロシアは、クラシックやバレエの分野では、自他共に認める世界一の水準をもった国だった。 これは同時に、この国の聴衆は世界一耳の肥えた聴衆ということになるだろう。 ただ本国のカナダでさえ、文化大使として派遣するのに、グールドで大丈夫かいという声があがるほど、そのころの彼の知名度は低いものだったらしい。 だからモスクワでグールドのコンサートに集まった聴衆のほとんどが、たんなる好奇心と、日ごろロシアでは演奏を許可されていないピアノ曲を聴けるというので集まった人たちだった。
この聴衆が、コンサートの前半が終わって休憩時間になると、みないっせいに電話のところへ走ったそうである。 彼らは親戚知人にむかって異口同音に叫んだ。 「なんでもいいからすぐに飛んでこい」、「すごい演奏だ」、「すばらしいピアニストだ」 おかげでコンサートの後半が始まるころには、会場の周囲は新たに押し寄せた聴衆で身動きもできない混乱だったとか。 グールドもすばらしいが、これほどストレートに反応するロシアの聴衆もすばらしいとはいえないだろうか。 あるロシア人は述懐して、当時のロシアでソ連以外のものに堂々と拍手することが許された稀有の機会であったという。 音楽が政治を超えるものであることを、この映像は如実に物語っている。
この番組を見てわたしもすぐに走った。 いや、電話のところではなく、レコード屋へである。 ただ、わたしもクラシックはよく聴くけど、いろんな演奏を徹底的に比較するほどのマニアではないから、せっかく買ってきたグールドの有名な 「ゴールドベルク変奏曲」 にしても、その良さはさっぱりわからなかった。 それでもこの映像だけは何度もくりかえして観ている。 そこにある痛快感は、最近なかなか味わえないものだからである。
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ひさしぶりに散歩にいって2羽のカワセミが連れだって飛んでいくのを見た。 わが家の近くでカワセミはめずらしくないけど、2羽いっしょってのはめずらしい。 何かいいことでもあるかと思ったら何もなかった。
ただいま世間では石油類が高騰していて、わりあいひんぱんに車を使うわたしも頭がイタいところだ。 散歩しながらすばらしい解決策を思いついた。 といってもこれはわたしのアイディアではなく、ずっと昔の新聞の投書欄に乗ったよそのどこかの奥さんのアイディアだけど。
農家にブタがいる。 ブタは残飯を食べてまるまると太る。 その体内に脂肪が蓄積されていることは間違いない(ウチの奥さんもいっしょだなんて言わないように)。 つまりブタの体内では残飯が化学変化をおこして脂肪に変わっているわけだ。 だからブタをよく研究すれば、残飯から石油が作れることも間違いがない。
これを読んで瞠目。 なんでこんな素晴らしいアイディアに気がつかなかったのか。 日本じゃブタが少ないけど、たとえば資源獲得に血まなこになっている中国なんかに教えてやれば感謝されるのではないか。 あそこの国には、たしかブタも多いはずだし。
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2008年1月13日 (日)
台湾の選挙で国民党が圧勝とある。 わたしは台湾の歴史にもすこしは詳しいので、内省人と外省人の確執やらについても知っているけど、とりあえず今回の選挙には関係も興味もない。 ただ国民党の総統候補、馬英九さんの名前について変なことを考えた。
中国で馬という名前はイスラム教徒を表すということが、何かの本に書いてあったような気がする。 馬の中国語の発音は日本と同じくマで、この名前はマホメットのマからきているというのである。 そういえば、新聞の写真で見る馬英九さんは、どこか欧米人みたいな顔をしていた。 イスラム教徒かどうかは知らないけど、彼の先祖の中にはそういう人もいたのじゃないだろうか。 選挙に興味はないけど、わたしはときどき妙なことに興味をもつのである。
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2008年1月12日 (土)
新聞に寺田寅彦についての記事が載っていた。 寺田寅彦というと、わたしは読むまえにちょっと注意をする。 「足摺岬」 などの作品で知られる、同じような名前の昭和の作家がいるからである。
寺田寅彦は夏目漱石よりすこしあとの明治の作家で、作家というより本職は科学者だった人である。 新聞の記事は、彼と最初の妻との悲しい運命を書いたもので、うーん、この作家にはこんなこともあったのかと、わたしにもいくらかの新知識をもたらしてくれた。 だが、同時にこの作家は滑稽な連想ももたらしてくれる。
夏目漱石の 「わが輩は猫である」 の中で、水島寒月クンはユニークで愉快な人物として描かれているけど、この寒月クンのモデルになったのが、当時漱石の家に入りびたっていた若き寺田寅彦だからである。 ドングリのスタビリチーを論じてみたり、モチを食べて前歯を折っちゃったり、研究に使うガラス玉を豆つぶみたいに磨きつぶしたりと、猫の中で描かれる寅彦クンは抱腹絶倒の対象である。
「猫」 とこの新聞記事は、同じ人物の極端な両側面に光を当ててくれる。 寺田寅彦はユニークで、やさしいこころをもった人だった。 これは明治の日本人に共通する特質だったかもしれないけど。
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数日まえの新聞に、ある有名な女性バイオリニストが、霊感商法で問題になっている団体の宣伝に利用されていたという記事が載っていた。 記事によると彼女はわりあい冷静な人のようだけど、数年前に手首を痛めたとき、この団体の経営する健康相談に行ってみたら、手のひらをかざしてもらうだけで腫れがひくような奇跡をみせられて、つい深みにはまったらしい。
このバイオリニストは最初プラシーボ効果を疑ったとあった。 プラシーボ効果については、わたしもなにかの本で読んだことがある。 その本では「美人の看護婦さんからもらった薬はよく効く」という表現がされていた。 プラシーボ効果というのは、つまり暗示のようなもので、この薬はぜったいに効きますといわれて飲まされると、世間には、ついほんとうに効いてしまう素直な病人が多いらしい。 この効果は科学的にも証明されているそうである。
新興宗教や霊感商法はこういうものを最大限に利用するから注意したほうがいい。 100人の患者の中に、たまたまひとりだけプラシーボ効果で治っちゃったという人がいれば、ウチのなんとか様のおかげですと、そればっかりを大々的に宣伝するに決まっている。
手のひらをかざして病気を治すという行為については、ずっと昔、わたしの友人でもおおいに吹聴している輩がいた。 わたしはヘソ曲がりの無神論者だから、そんな話を聞くとまず疑ってかかる。 何かほかに病気を治してしまった原因はないだろうかと、とりあえず晩メシ抜きで考え込んでしまうのである。
しかし哲学的でも形而上学的問題でもあるわけないから、結論なんか出るはずがないので、終いには、偶然だろうとか、たまたまもう治る時期になっていたんだろうでチョンである。 神さまのお仕事だとすれば、そんな手品みたいなことをして喜んでいる神さまって、いったいナンダと考えてしまう。 ほんとうに神さまなら、地中海をまっぷたつに割ってみせるとか、イスラエルとアラブの仲をとりもつとか、世界のエイズ患者を一掃するとか、そのくらいスケールの大きなことをしなくちゃいけない。 それも無料でね。
神さまがお布施を要求してきたり、営業に精を出すようだったら、おかしいと思わなくちゃ。 神さまってのは、その気になれば1億円の宝くじを当てることぐらいお茶の子さいさいのはずだろ。
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2008年1月11日 (金)
トシがばれちまうので、あまりごちゃごちゃ言いたくないんだけど、おとといの夜のBSライブは 「ブラッド・スウェット・アンド・ティアーズ (BST)」。 金管楽器を前面に押し出して、一世を風びした米国のロック・バンドである。 最初にこのバンドを作ったのは、才人アル・クーパーで (ぎんぎらぎんのアリス・クーパーではアリマセン)、彼について話し始めると、マイク・ブルームフィルドとの有名なジャム・セッション・バンドなどに及び、話が尽きないので省略。
BSTはジャズとの境界にあるバンドで、いま考えると必然的なものだけど、当時は革新的なバンドと呼ばれた。 なにごとも早いもん勝ちだから、同時期に登場したシカゴやチェイス、ライトハウスなどをさしおいてブラスロックの先駆者といわれている。 いわゆるジャズとは異なり、グループとしてのまとまりを保ったまま、各所でジャズ的なソロが聴けるので、楽器同士のかけあいや対立にスリルを感じるわたしとしては、名人が順番にソロをとるだけの単調なジャズ演奏に比べると、こっちのほうがずっとおもしろいと感じた。 彼らの誕生から (えっ、もう) 40年たつけど、その考えはいまでも変わっていない。
このバンドにルー・ソロフというトランペッターがいて、彼がソロをとったマック・エビル変奏曲は、まさに白熱のジャズ演奏である。 ロックはもともと感情にストレートに訴える力を持っているけれど、そういう点では数多いジャズの演奏の中にも、これほどの名演奏は少ないといえる。
テレビの映像でも、ボーカルとソロフのトランペットのかけあい、それに続くトランペットの長いソロが白眉だった。 レコードに比べるとちょっともの足りないけど、ま、レコードのほうはいつでも聴けるし。
あまりこのトランペットが素晴らしかったので、ルー・ソロフってどんな人だいと写真をよく見たら、頭のうすくなった背のひくい男性だった。 このコンプレックスが彼をして、演奏家としての不断の努力を怠らせなかったんじゃあるまいかと勝手に想像してしまう。 ゴメンナサイ。
添付した画像の中の、ルー・ソロフはいちばん左の人。
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わたしはこのブログ以外に、もうひとつブログを持っているけど、そっちは日々のアクセス数がちゃんとわかるようになっている。 どのくらいの人が自分のブログを読んでいるのかがわかると、励みになっていいい。
このアクセス・カウント。 どこまで信用していいのかちょっと不審な点もあるし、アクセスした人がブログの記事までちゃんと読んでいるかどうかわからない。 わたし自身、どんな人がアクセスしてきたのかなと興味をもって、訪問者のブログをのぞいてみることがあるけど、肝心の記事まで読むことはめったにない。 そういうわけなので、ほんとうにブログの記事まで読んでいる人は、アクセス数の2/3から、せいぜい半分ぐらいじゃないかと推測している。 かりに半分としても、最近のわたしの (もうひとつの) ブログを読んでいる人の数は、多い日だと50人ぐらいになることもある。 まったくの素人の駄文にこれだけの読者がいるってことはありがたいことだ。
こんな具合にアクセス数が増えてくると、ときどきブログにコマーシャルをくっつけちゃおうかと考えることがある。 コマーシャルをつけて、スポンサーからなにがしかのお手当てを頂いている人も世間には多いらしい。 ただ、わたしは個人的にブログにコマーシャルをつけるのがきらいである。 なんできらいかというと、自分なりにデザインしたブログの表紙に、無神経に入り込んでくる他人デザインのロゴや画像が大っ嫌いだからだ。 だからコマーシャルをつけるなら、そのデザインもこっちにやらせろとスポンサーに言いたいやね。 自分のブログの表紙にマッチしたコマーシャルをと、わたしはけっこううるさいのである。
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2008年1月 9日 (水)
中国にいる知り合いがVCDというものを送ってくれたことがある。 これはビデオの入ったCDで、規格が異なるから日本のDVDプレーヤーでは再生できない。 しかしパソコンでなら観ることができる。 知り合いはわたしが旅行好きなことを知っているので、中国のあちこちの変わった風物をとらえたVCDを送ってくれたのである。
これを観ていたら、広州の近くにある開平という田舎町の奇妙な建物が紹介されていた。 最初観たときは、田んぼのまん中にぽつんと点在するこれらの魔法使いのお城のような高楼に、なんだなんだ、これはと度肝をぬかれたものである。 いろいろ調べて、これは海外で成功した華僑たちが故郷に建てた、華洋折衷の建物らしいことがわかった。
中国は世界最大の多民族国家なので、生活様式の多様性もおどろくべきものがある。 広東省、福建省あたりには客家という少数民族 (といえるかどうかわからないけど) が住んでおり、彼らの住居もその特異性で目をひく。
写真はネットで収集したものだけど、上は開平の華洋折衷の建物、下は客家の円楼とよばれる集合住宅である。
わたしには芭蕉や西行とおなじ血が流れているようで、こんな写真を見るといてもたってもいられない。 実物を目の前で眺めたい、いや、その中へ入ってみたいと、貯金通帳の残高をながめて思案投げ首のこのごろである。
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2008年1月 8日 (火)
もうすでに過去のバンドであることだし、深夜のめだたない時間帯であること、もう何度もテレビで放映されていること、DVDも発売されていることなどで、観た人はあまりいないんじゃないかと思うけど、昨夜のBSライブはローリング・ストーンズのハイドパーク・コンサート。 この映画はわたしも何度も観ているのだが、ひさしぶりに観ていささかの感傷アリ。 ミック・ジャガーの若いこと。 絶頂期といっちゃ語弊があるかもしれないけど、すくなくともストーンズのピークのひとつがこのコンサートのころ。 オリジナル・メンバーのブライアンが死んで、後釜に入った貴公子のような (ストーンズとして異質) ミック・テイラーが観られる映像でもある。
ストーンズにはほんの短期間しか在籍していなかったけど、わたしはこのミック・テイラーというギタリストに一時すごい期待をしていたことがある。 クリームが解散したあと、彼はクリームの一方の主役だったベーシストのジャック・ブルースと組んでバンドを作った。 ブルース・ギタリストで、経歴も似たところのある彼は、あきらかにエリック・クラプトンを意識していたようで、わたしも今度はテイラーとジャック・ブルースの火の出るようなコラボレーションが聴けるのではないかと期待した。 ところが不良の多い英国のバンドの中で、テイラーはかなりまじめで優等生だったらしく、なかなかそういう連中とうまくやっていけなかったようだ。 彼の経歴はストーンズの中でちらりと輝いただけで、とうとう名を残すような機会にめぐまれずに終わってしまった(これから名をなすにしちゃ、彼もそろそろ60になるはずである)。
ストーンズの 「悪魔に捧げる歌」 のライブで彼のギターソロが聴けるけど、流れるようなそのプレイを聴くたびに、かえすもがえすも残念という気がしてならない。
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2008年1月 6日 (日)
熊本のKさんがブログに釣りの記事を書いている。 彼が今回釣りに出かけた大分県佐伯市という地名を聞いて、なつかしい思い出がよみがえってきた。
わたしは昔、海上自衛隊の艦船に乗り組んでいたことがあるんだけど、佐伯市は自衛隊の指定寄港地であるので、艦(ふね)があちら方面に出かけたときは、ほとんどこの港に寄港した。 ここで新兵だったわたしはとんでもない失敗をしたことがある。
佐伯港には自衛艦がちょくせつ横づけできる桟橋がない。 それでいつも沖合いに錨泊して、陸上との連絡には内火艇という小型のエンジン船を使った。 写真はネットで見つけたもので、内火艇の乗員は艇長、機関員、船首員の3人である。 これで上陸する隊員の送迎や荷物の受け渡しなどをする。 新兵のわたしはバウメンという、内火艇の船首に立って見張りや係留をする役をやらされた。 最初はコワイが、なれるとカッコいいし、なかなか爽快な役目である。
佐伯港に錨泊していたある日、上陸していた艦の幹部 (艦長や副長など) の迎えにいけという命令が下った。 ただし艦から桟橋まで片道30分以上かかるので、もし予定の時間に幹部がもどってこなければ、つぎの便の時間まで桟橋でそのまま待機せよとのことである。 桟橋に着いてみると誰も帰ってきていなかった。 たまたまこのときの内火艇の艇長は呑ン兵衛で有名な人で、つぎの便まで時間があるから、それまで近くの飲み屋でイッパイやっていようと言い出した。 ここで他の2名の乗員が必死で止めるべきだったのだが、まあ、わたしも機関員もキライじゃなかったもんだから・・・・・・・
いい機嫌で桟橋にもどったら内火艇がなかった。 いっぺんで酔いがさめた。 桟橋といっても自衛隊専用の桟橋だから一般人は入ってこれないはずだが、誰かが乗り逃げしたのだろうか。 やがて沖から内火艇がもどってきた。 船首に青すじをたてて、怒りで顔をまっ赤にした当直士官が乗っているのが見えた。 つまりわたしたちがイッパイやっているあいだに幹部連が帰ってきて、内火艇の乗員がいないというので、勝手に操縦して艦にもどってしまったのである。 内火艇の乗員3名が、このあと1週間ばかり上陸止めというおしおきをくらったことは言うまでもない。
佐伯港の正面、はるか沖合いに水ノ子島という小さな岩礁があって、その灯台のおぼろな光芒とともに、わたしはよくこの、なつかしくも滑稽なエピソードを思い出す。
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2008年1月 5日 (土)
新聞に小さな訃報が載った。イエジー・カワレロウィッチさん。 ほとんどの日本人にとって耳なれない名前だろうけど、映画好きにはなつかしい名前だった。 この人はポーランドの映画監督で、日本で公開された彼の作品は多くないけど、「影」 や 「尼僧ヨアンナ」 など、北欧、東欧の映画に共通する暗い映画がいくつか知られている。 わたしはそうとう昔にこの二つの映画を観た記憶があるけど、なんせややこしい映画なので、まだ子供だったわたしにきちんと理解するのはむずかしかった。 ただ、怖い映画だったということが子供ごころに焼きついていたので、大人になってからビデオであらためて鑑賞してみた。
「影」 はいくつかのエピソードが不可解なつながりをもって、最期に真相がわかるという一種のミステリー映画だけど、戦後のポーランドの現実と人間心理をリアルに表現した傑作だった。 この中にゲリラの親玉を殺害に向かう兵士の話がある。 ゲリラの親玉がロシアのプーチン大統領に似ているのがおもしろいが、そんなことはさておいて、ゲリラのアジトでじりじりと高まる緊迫感がすばらしい。 最近のゆたかな時代の映画から、こういう本格的なスリルとサスペンスに満ちた映画はほとんど絶滅してしまった。 歯ぎしりしている映画ファンはわたしだけじゃあるまい。
「尼僧ヨアンナ」 のほうはむずかしい哲学映画である。 そんなことをいうと、観たくないという人が多いだろうけど、ポーランドの女優さんもなかなか素敵である。 素敵な女優さんが太ももをチラリと見せるシーンがある。 もっとも哲学的に考察すると、これは女優さんの魅力というより、尼僧ファッションがそう見せるのかもしれない。 日本でも昔から尼さんは男をひきつけるとよく言われる。 話がだんだん変な方向にそれてきたが、わたしの言わんとすることは、「尼僧ヨアンナ」 は見ごたえのある映画だということである。 最近の人は見ごたえのある映画を敬遠する傾向があるので、そういう人にも観てほしいから、変な話題を出してみたのである。
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2008年1月 4日 (金)
朝日新聞の夕刊に 「ニッポン人脈記」 という連載があって、いま海にまつわる人脈が取り上げられている。 ここに益田一さんや中村宏治さんというなつかしい名前が出てきた。
わたしが昔ダイビングに凝ったことは、このブログの12月1日の記事でふれたことがあるけど、その時名前をあげた友竹進一さんと同じように、伊豆の海洋公園で何度か見かけた著名な御二方のダイバーである。
友竹さんも有名な古参ダイバーだったけど、益田さんは当時東海大学の先生で、すでに大御所というべき存在だったから、わたしのようなヒヨっ子ダイバーが直接話のできる相手ではなかった。 何度か海洋公園で遠目に拝見したくらいである。 残念ながらこの人もも3年ほど前に亡くなられたようだが、わたしの部屋にはこの人の作ったハンディな海中動物図鑑が今でもある。
当時からちょっと頭部のうすかった、お相撲さんのような体型の中村宏治さんも、海洋公園でよく見かけた。 この人が水中カメラと、並列にならべた2本のタンク2組を、ひとりでかかえて海に潜っていくのは圧巻で、プロの体力と根性に感動したものである。 なんでもこのタンクを背負い、接写レンズつきのカメラを構えて、海底の1カ所で、何時間もじっと撮影チャンスを待つのだそうだ。 小指の先ぐらいしかないような小さなエビや貝類のすばらしい写真は、プロがこういう執念でとらえたものである。
体力も根性もないわたしは、沖縄で女の子の写真なんか撮ってよろこんでいた。 これは沖縄の鳩離島という無人島にて。
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正月は田舎へ帰省してきた。 実家には兄貴とその娘が3人いたのだが、上の2人はすでに家を出て、居座っているのは末の娘のみ。
この姪っ子は新人類である。 はにかんだような言葉使いが頼りないことはなはだしい。 わたしがフッと息を吹きかけると、おっとっとっとと、5メートルほど後ろへ飛んでいってしまいそうである。
そんな彼女がいつのまにか国立大学の3年生になった。 この正月に帰省して彼女の部屋をのぞいてみると、乱雑な部屋にバイオリンやエレキギターが鎮座している。 おまえ、たしか病院の検査技師かなんかを目指しているんじゃなかったっけと、おじさんとしてはつい気になって声をかけてしまう。
でもまあ、趣味が音楽というのはわるくない。余暇にバイオリンを弾く検査技師なんてものがいるのも楽しいではないか。 おじさんがバイオリンの練達ぶりを判断してやろうと、メヌエットかなんかを演奏させてみたのがこの写真。
頼りないのかしっかりしてるのかさっぱりわからないけど、わたしは規格はずれのおじさんだから、人生という舞台を自由気ままに飛びまわる彼女のような生き方が好きである。 ワクにはまった優等生にはなってほしくないものだ。 それにしても、と考えてしまう。 老人が1年かかってやることを、若い者は1日でやってしまう。 大人と子供では、時の流れの速さになんと違いがあるのだろう。
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2008年1月 1日 (火)
大沢村には八幡様が二つある。 ひとつは大沢八幡で、もうひとつは古い八幡さまという意味の古八幡。 大沢八幡の縁起を調べると、もともとは古八幡の場所にあり、戦前戦後のごたごたで流浪して、昭和47年に現在地に移ったらしい。 もともと八幡さまがあった場所にも、八幡さまの分家が残ったからややこしくなってしまったけど、わが家の近所にあるのは分家のほうの古八幡である。 不公平にならないように、今年は本家と分家の両方に初詣することにした。
大沢八幡に初詣に行くのは、じつは今年が初めてである。 わたしの家の近くには、全国的にも有名な深大寺というお寺があるので、例年はそっちに初詣に行っていた。 深大寺の神さまが、今年もわたしのお賽銭をアテにしているのではないかと心が痛むが、もともとわたしは無神論者で、初詣もブログネタのつもりだから気にしない。 三が日に交通事故で死んでも、運が悪かったのだとあきらめよう。
昼間、買い物に行くとき見たら、大沢八幡では鳥居の下にワラを編んだ大きな輪が作られていた。 参拝者はこれをくぐってお参りするらしい。 これはおもしろいと思ったのだが、夜になってカメラをかかえて行ってみたら、輪は撤去されてしまっていた。 そのせいではないけど、古八幡で100円玉を賽銭にしてしまったので、大沢八幡ではポケットに50円玉しかなかった。 しかし、とくに何かをお願いしたわけでもないから、神さまも怒らないのではないか。
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