墓参り
身内の入院で帰省した。
わたしはお盆や中日にぜんぜん関心のないバチ当たりだけど、帰省したときぐらい殊勝な気持ちになってお墓参りをする。
わたしもそろそろいいトシなので、親父や親戚や友人知人など、だんだんお参りする対象も増えてきた。
彼らが天国 (や地獄) で語り合っているとは思わないが、墓参りは好きである。
チェコのノーベル賞詩人、ヤロスロフ・サイフェルトも同じようなことを書いていた。
わたしは墓地へ行くのが いつも好きだった
はじめは遊びに 栗拾いに
それからこころをかきむしる 墓碑銘を読みに
(中略)
初めの信じやすい 衝動にうらぎられて
わたしはもう 墓碑銘を読まない
墓石の上には茶色の栗の実が 音をたてて落ちている
ああ 栗の実を拾う少年は いまどこに
しかしわたしはまた墓地にいく
昔のように
古い塀づたいに歩いていけば ほぼその中ほどに
忘れられたひとつの墓が 見つかる
この詩は新聞からの引用で、ちとぎくしゃくしているけど、わたしの意識の反映であると思えばあまり気にはならない。
わたしがわざわざお盆や中日に墓参りをしない理由は、なんといってもその静けさにある。
墓のわきで満開に咲くサクラをながめたり、まわりの畑をぶらついて、青い麦の上を風がさらさらと渡っていくのや、黄色いナノハナ、ホトケノザ、ツクシンボウなど、おびただしい野の花をながめたり。
以前にも書いたけど、あの世など信じていないわたしは、自分自身と語るために墓参りをしているように思う。
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