« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »

2008年5月

2008年5月25日 (日)

内職あけ

115

ここ1週間ほどかかえていた手間のかかる内職がようやく一段落。
雨が降ったせいもあって、この土日はほとんど部屋にひきこもり。
うっ屈を吹き払うために、今夜は部屋で、のんびりイッパイやるかってなもん。
肴がコンビニの枝豆ぐらいで物足りないが、そこはそれ、落語にもある。
「何もなけりゃヌカミソをかきまわせ、なんか出てくるだろう」
そう、自家製のぬか漬けをやっているわたしのところには、漬物だけはいくらでもあるのである。
ちとわびしいが、贅沢はいわない。
部屋には音楽もある、書物もある、録画した映画も観きれないくらいある、内職からの開放感もあるし、脳みその中には思考するための無限の空間もある。
あ、また貧乏詩人のまけおしみみたいなこと言っちゃった。

写真は、近所で4、5日まえに見かけたきらわれ者の鵜。
足輪をつけているから、まんざら無宿者ってわけじゃなさそう。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月19日 (月)

中華思想

SAPIOという雑誌で、マンガを連載している小林よしのりさんが、今回の最新号から中国をテーマにした連載を始めるらしい。
真摯な研究なら、それはそれでけっこうなことだけど、第1回を見たかぎりでは、どうも公平で客観的なものとは思えなかった。
彼もまた 「中華思想」 という便利な言葉を用いて、はじめから中国を偏見で見ているようである。

彼にかぎらず、中国を攻撃する人のあいだに中華思想を問題にする人が多い。
中華思想というのはよしのりさんに言わせると
 その中心が中国というような生易しい感覚ではない。
 中国以外はすべて「化外の地」という思想

だそうだ。
ほんとうだろうか。

たしかに漢、唐のような古い王朝時代から、最近では清の時代の中国まで、そうした思想は連綿と続いていたようである。
しかし清の時代になって、自分たちが世界の中心であるという思想は、海を越えてやってきた欧米列強 (そして日本) によって、完膚なきまでに叩きのめされた。
日清戦争とそれ以降の歴史は、中国人自身に中華思想などというものが無意味なものであることを思い知らせたはずだ。
いまの中国の若者は、地球が丸いことも、その上に多くの国があり、とっくに月にまで到達した米国やロシアという大国があることもちゃんと知っている。
そういう状況下で、自分たちが世界の中心であると考えている人間がいるとは、わたしにはとても信じられない。
わたしもこの国がたくさんの問題をかかえていることはよく知っているし、チベットを引き合いに出して中国を非難するのは民主主義国の権利でもあるけど、これは中華思想とはまったくべつの問題であると思う。

お願いだからこの言葉を使うのだけはやめてくんないか。

| | | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年5月18日 (日)

カルガモのヒナ2

114

前日に続いてカルガモ便り。
前日はヒナの数が3羽だったけど、今日見た家族は5羽のヒナ。
わが家の近所ではいまカルガモのヒナ・ラッシュだ。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

カルガモのヒナ

113

散歩に出るたびにその距離がだんだん短くなっていくようで、体力のおとろえが気になるところだけど、散歩にはそれなりのよろこびもある。

今日は、今年はじめてカルガモのヒナを見かけた。
3羽だけだったけど、このかいわいにもヒナたちの天敵は多い。
さて無事に育つことやら。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月14日 (水)

大先輩

112

先日の日曜日に先輩の家に遊びに行ってきた。
この先輩は自宅に、カラオケセットや電動マージャン台まで備えた自分専用のバーを持っていて、壁ぎわにずらりとワインや洋酒をならべ、ひじょうに優雅に暮らしている人である。
このたびはドラムセットを導入して、ボケ防止にいいんだと、しょっちゅうドシンガラガラとやっているらしい。
うらやましいが、わたしにできるのは、せめて写真を撮ることぐらい。
アート・ブレイキーもまっ青だって、ご機嫌の先輩である。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月13日 (火)

幸運

中国で大震災があって、悲惨なニュース写真や映像が流されている。
わたしごとで恐縮だけど、考えてみると、わたしももう人生をけっこう長く生きているほうなのに、これまでいちどもそんな大きな震災に遭ったことがない。
震災だけではなく、世界でこれだけドンパチがくりひろげられているのに、戦争も革命も反乱も見たことがない。
もちろんテロの現場に遭遇したこともない。
中国なら何度も行ったことがあるのに、わたしの行く先々で地震も洪水も暴動もおきたことがない。
べつに見たいわけじゃないけど、2人以上のたくさんの死体を見たことがない。
むかし自衛隊にいたころ、旅客機が海に墜落したことがある。
こういうとき自衛艦も災害派遣に駆り出されるのだが、たまたまわたしの乗り組んでいた艦はドックに入っていて出動できず、そのときも被災者を見ることはなかった。
交通事故ぐらいなら何回か見たことはあるけど、手足がぶっ切れたとか脳みそがはみだしたとかいう悲惨な事故は出会ったことがない。
凄惨な犯罪の現場にぶつかったこともない。
テレビや新聞、雑誌、パソコン上には、いつでもそんな血なまぐさい写真や映像が氾濫しているのに、どういうわけかわたしはそういうものを自分の目でちょくせつ見た記憶がぜんぜんないのである。
これは日本人ならふつうのことなのか、それとも幸運なことなのか。
幸運なことならそれはいつまで続くのだろう。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月10日 (土)

ブタ箱

熊本で田舎暮らしをしているKさんが、呑み過ぎてブタ箱放り込まれ、さらにいちじ精神病院に収容されたそうだ。
本人の不名誉になることだから、彼のブログを紹介しないけど、このてんまつを本人が自分でブログに書いているから、紹介したってかまわないかといろいろ悩んでいる。

彼はいろいろ多趣味な人で、絵を描かせるとみごとな絵を描くことは知っていた。
絵だけではなく、楽器もこなすのに驚いたことがある。
そっちのほうでもうすこし努力すれば、街のライブハウスでジャズ演奏に飛び入り出演ぐらいできたかもしれない。
楽器が素人の手なぐさみではない証拠に、最近では篠笛作りなんか始めて、これは地元の神楽愛好会などに評判がいいというから本格的である。

ほかにも山登りはする、釣りはするという、レオナルド・ダ・ウィンチみたいに多芸な人なんだが、欠点は喜怒哀楽が激しすぎることだ。
ただ、これは芸術家がポテンシャルを高めるのに必要な資質かもしれないので、欠点といっていいものかどうか。
うーんと考えてみる。

呑ん兵衛の芸術家は枚挙にいとまがないが、たとえばわたしがブログで使っている名前の元祖である中国の詩人・李白さんなんかどうだ。
彼は酒屋で呑みすぎて寝込んでしまい、天子の招きにも応じなかったという。
それでも咎を受けることはなかったというから、天子のほうもなかなかさばけている。

わたしはここでKさんに節制しなさいと常識的なことはいわない。
酒を呑んで前後不覚になるほど勇気のないわたしは、このつぎはわたしといっしょに呑んで、いっしょにブタ箱に入りましょう、わたしブタ箱というものを体験したことないもんでと言っとくか。

| | | コメント (0) | トラックバック (1)

2008年5月 9日 (金)

漢字

中国の胡錦濤主席が来日している。
ニュース報道を聞いて不思議に思った人がいないかしら。

アナウンサーは胡錦濤さんのことをコ・キントウと読む。
漢字を日本で使われているとおりに発音しているだけである。
これが韓国になると、たとえばまえの大統領の盧武鉉さんはノ・ムヒョンという。
むずかしい漢字だからわざわざ韓国読みをしているわけじゃない証拠に、金大中さんはキム・デジュンである。

漢字というのは表意文字なので、英語のアルファベットのように音をあらわしているのではなく、意味をあらわしているだけだ。
田という漢字は四角く区切られた田んぼをあらわし、木はそのまま木の形をあらわしている。
読み方がわからなくても、文字をみただけで意味がわかるという、なかなかのすぐれモノなのである。

つまり意味さえ通じれば、読み方はそれぞれの国、それぞれの民族が、どう読もうと勝手でかまわないということになっている。
だから中国では福田首相のことをフーテンと読んでいるはずだ。
そんな読み方をされて、日本の首相がよろこぶかどうかは知らないけど、本来はこれが漢字の読み方のルールである。

しかるに韓国では、どういうつもりなのか、人の名前は彼が所属する国の読みにしたがうべきだと絶叫する人がいて、日本に猛烈に抗議をしたと聞いている。
漢字というものは表意文字でと説明したけど、人権や戦前の日韓併合なんかを持ち出されて、日本のマスコミは屈伏してしまったらしい。
おかげでわたしはいまだに現在の韓国大統領の名前がすらすらと出てこない。
日本が韓国人の名前を韓国読みするなら、韓国も日本人の名前を日本読みにしなければならないので、あちらでも日本人の名前の読み方がわからなくて困っている人がいるんじゃないか。
よけいなことをしてくれたものである。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 6日 (火)

水車博物館

111a 111b 111c_2

皮肉なことに連休最後の日はすばらしい五月晴れになった。
最後の日は部屋でのんびり休養するつもりなので、晴れてくれてもあまり嬉しくないんだよなとボヤきつつ、また散歩に出かける。

空は雲ひとつない晴天だ。
ホントに雲がひとつもないのかいと、この形容詞に疑いをもっているわたしが空を見上げてみたら、ホントにひとつもなかった。
前日までの煮え切らない天気がウソのようである。

わが家の近所には古い水車小屋が市の博物館になっていて、水車も復元されており、そのまわりは今まさに、俳句でいうところの万緑という季語そのものである。
この小屋は、今ではめずらしくなったカヤ葺き屋根の農家だが、6月からは改修工事に入るという。
連休最後の今日は見学者も多いようで、ボランティアの解説者が数人づつのグループを案内してまわっていた。

わたしもあとについて入ってみた。
で、今回は水車小屋の中をこのブログ初公開。
ほとんど木製の巨大な歯車や軸柱、単純な仕掛けで複雑な動きをする粉ひき機など、はじめての見学者に見るべきものは多い。
先人の知恵にしみじみと感動する、さわやかな日の散歩でありました。
http://www.city.mitaka.tokyo.jp/suisya/index.html

111d111e_2 

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2008年5月 3日 (土)

音楽好き

連休の後半が始まったけど、朝から雨だ。
2、3日まえの天気予報じゃ、この連休は好天気ってはずだったけど、予報ってのは時間とともにどんどん変化していくものなのねと、チクチク皮肉を言っておく。

熊本のKさんから、Kさん謹製の色あざやかな篠笛が送られてきた。
わたしはひどい音痴なので篠笛を吹くなんてことはできそうにないんだけど、音楽については人一倍興味を持っている人間である。
聴くほうならたいていの人にひけはとらないと自負するくらいだ。

若いころは楽器にもつよい関心があって、トランペットを買おうかなんて考えたこともある。
しかしドレミもわからない人間が、マイルス・デイビスになるのはとても無理ってことを自覚して、トランペットはやめた。

ギターが部屋にころがっていたこともある。
好きなギタリストは数えきれないほどいるけど、わたしがその末席に連なるのは、馬が念仏をおぼえるよりタイヘンと自覚して、これもやめた。
どうも根性も素質もぜんぜんないわたしであるのだけど、なんで楽器なんか買おうとしたのかというと、楽器というものはそこにあるだけで、なんとなく心をゆたかにしてくれる(ような気がする)からである。
才能のない音楽好きというのはそういうもんだと思う。

ひさしぶりに熊本のKさんのブログを紹介しておこう。
http://warazouri.cocolog-nifty.com/blog/
彼の篠笛は地元でずいぶん評判がいいようだけど、なにしろ1本1本が手作りなので、注文が殺到して過労死されても困るんだけど。

| | | コメント (1) | トラックバック (0)

2008年5月 2日 (金)

美少女

110a

大きな声じゃいえないが、わたしは美少女が大好きである (キライという人はあまりいないか)。

昨日は仕事の関係でとある街まで出かけ、仕事が終わったあととある飲み屋にくり出し、そこでとある美少女に出会った。
最近はこういう少女に出会ってもなかなか写真を撮らせてはもらえない。
小さい幼児であっても、可愛いってんでうっかりシャッターを切ったりすると、その親から痴漢変態というまなざしでにらまれてしまうご時勢である。
アマチュア・カメラマンにとっては未曾有の不幸な時代なのだ。

しかし昨日は、お客の要望はことわれないという彼女のよわい立場を利用して、強引にモデルをお願いしてしまった。
でも彼女はこころよく了解してくれた。
これがその美少女。
こういうご時勢であるから、彼女のことやお店の名前はあきらかにしない。
わたしに訊かれたって、わたしも何も知らないのよ。 彼女の名前や年齢なんか。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2008年4月 | トップページ | 2008年6月 »