曼珠沙華
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団塊の世代にとって米国を代表する俳優だし、出演した傑作快作は数知れずなので、ここでその業績をたたえても仕方がない (詳しく知りたい人はネットで調べろ)。
「ハスラー」 や 「ハッド」 のような硬派な作品もいいが、わたしの好きなのはジョン・ヒューストンと組んだ 「マッキントッシュの男」 や 「判事ロイ・ビーン」 など。
ベテランのゆとりを感じさせる巨匠のもとで、楽しそうに演じている彼が印象に残っている。
硬派の映画群とともに、どこかとぼけたタフガイって役どころもまた彼の真骨頂のようで、「動く標的」 の私立探偵も忘れがたい。
世間で評価の高い 「明日に向って撃て」 や 「スティング」 は、わたしにはイマイチ。
流行にのった軽薄な映画という感じで、こりゃ監督の資質の問題だな。
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ビデオの編集がヤマを越えたので、風呂場やトイレの中でのんびり本を読む。
ここ2、3日読みふけっているのは、手垢がついてうす汚れた 「月と六ペンス」 の新潮文庫版。
よく知られているように、これはサマセット・モームが画家ゴーギャンをモデルに書いたひじょうにおもしろい小説である。
あんまりおもしろすぎて、これは通俗小説であるといわれる。
本は通俗でも、書かれているのは通俗と正反対の生き方をした男の生涯である。
主人公は40にもなってから、地位や安穏な生活、俗世界のしがらみをさらりと投げ捨てて、流浪の果てにタヒチまでおし渡ってしまう画家である。
自慢じゃないが、わたしも他人との協調性ゼロ、世間から白い目で見られる偏屈な人間なので、この小説を初めて読んだときにはわが意を得たような気がした。
世間の俗物どもがなにを言おうと気にしてたまっか。
そういうわけで、わたしは結婚もせずに、自由きままに生きることに人生の目標を置いた、というのは言いすぎだけど、「月と六ペンス」 を読んでいくらか安心したことは事実。
ただ現実のゴーギャンと小説の主人公とは異なる部分も多い。
小説の主人公は、最後にたどりついた理想郷というべきタヒチで、彼のめざした芸術の最高点に到達して死ぬのだが、ゴーギャンのほうは晩年の大作 「私たちはどこから来たのか、私たちは何者か、そしてどこへ行くのか」 で、たしかに哲学的な高みにまで到達していたようだけど、それだけではなかった。
ゴーギャンがタヒチで描いた絶筆とされる絵は、フランス・ブルターニュの雪景色で、それは彼がけっして故郷を忘れたわけではないことの証明である。
そうした人間的弱さが、べつの意味でまたわたしを安堵させるのである。
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映画を観てきた。 「おくりびと」 という映画。
べつに観たくて観たわけじゃないんだけど、たまたま街に出かけて、ヒマつぶしに、ほかに適当な映画がなかったもんで。
音楽家として挫折した若者が郷里にかえって、納棺師という商売を始めるってハナシである。
納棺師というのは遺体に死に化粧をほどこして棺におさめるのが仕事で、そんな商売がいまでもあるのか、まあ、設定が山形県だからあるかもしれないと、このへんは強引に納得。
前半の1/3ぐらいは、コメディとしてマアマア。
とちゅうから、これでもかこれでもかとお涙ちょうだい物語になってしまうのに閉口した。
広末涼子はどうでもいいんだけど、準主役みたいなわき役の余貴美子サンについては、もっとタフですっとぼけた個性の持ち主にしてほしかった。
伊丹十三なら彼女はとうぜん山崎努のメカケということにしただろう。
まじめときれいごとばかりじゃ人間は描けんぜ。
お葬式というのは、あつかう人に才能さえあればいくらでもおもしろくなる題材なのにと残念である。
これ以上は論評に値しない映画なので論評しない。
「おくりびと」 を観て、わたしはむかし観たトニー・リチャードソン監督の 「ラブド・ワン」 という映画を思い出した。
この映画にも死に化粧師や葬儀屋が出てくるけど、こちらは資本主義や権威虚栄などをユーモアいっぱいで皮肉った傑作で、登場人物はいずれも誇張オーバーなくらい個性的、しかもヒロインがひじょうに魅力的だったので、わたしは今でもこの映画の一部を録画して持っている。
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沖縄から帰ってきて、あちらで撮ったビデオの編集なんか始めちゃっもんで、ブログのほうに手抜きアリである。
昨夜は階下に住む青年といっしょになって、夜遅くまで、映画や音楽や絵画、詩など、毒にも薬にもならないゴタクを論じ合った。
この青年は金髪で、ロシア生まれである。
それじゃあ名前はドフトエフスキーとかロストロポーヴィチというのかと思ったら、ミズノ君というきわめてありふれた日本名を持っていた。
日本の大学を受験するために勉強中だというが、わたしの部屋に居座って、なんでも吸収しようというこころがけはなかなか好感がもてる。
ただ純粋培養されたクェーカー教徒のような潔癖性がちと気になるので、これからも機会をみつけては、退廃的生活にどっぷりつかった不良中年のウイルスを移植してあげたいと思っている。
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用事があって吉祥寺へ出かけた。
ついでに井の頭公園をぶらぶらしてみたら、池のそばにヨツデ網で何か採っている人がいた。
バケツをのぞくとメダカ・サイズの小さな魚がたくさんいた。
水族館の人が飼育しているカイツブリの餌でも採っているのかなと思ったが、これはブルーギルの幼魚だそうだ。
ブルーギルというのは外来の魚で、つまりもともと日本にはいなかった魚だけど、ひじょうに繁殖力がつよく、在来の日本の魚たちの生態系を破壊してしまう困りモノである。
写真でごらんのとおり、網ですくっただけでいくらでも採れるし、岸辺から水面にその影が見えるくらいだから、相当な数がいることはまちがいない。
どうも御苦労さまですと、ほとんど徒労と思える駆除作戦に従事している人たちに敬意を表してその場をはなれた。
ネットで調べると上記のブルーギルの被害について警告するホームページがたくさん見つかる。
そうした警告記事にまじって、この魚の釣果を自慢する釣り師たちの記事も見つかる。
ブルーギルやブラックバスに代表される外来魚の問題では、ルアーフィッシング愛好家の有名なタレントなんかも絡んでいて、議論がいろいろかまびすしいようだ。
わたしも自然愛好家のはしくれだから、撲滅のために釣るのはけっこうだけど、楽しみのためにこれ以上外来魚を放流するのはやめてほしいと思っている。
外来魚はそのもともとの生息地に行けばいくらでも釣れる。
しかし日本古来のなつかしい魚たちは、ただでさえ数が少なくなっているんだぞ。
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ちかいうちガクジュツ研究のために沖縄へ行く予定だけど、それにあわせたかのように今朝の新聞におもしろくない記事。
それも1面トップだ。
『サンゴ七割消えた』 だって。
サンゴの問題はもう数年来のものだから、沖縄の海で異変が起きていることは知っていたけど、何もこの時期にねえ。
え、なんか恨みでもあんのか、朝日新聞は。
サンゴが死滅している原因はいろいろあるだろうけど、これだけ人間による災難が問題視されている現代にあっては、やっぱりいちばんの原因は人間さまの横暴なんじゃないかと考えてしまう。
数万年だか数億年だかの長い期間に、島でさえ形成してきた偉大なサンゴ礁が、気象の変化やオニヒトデぐらいで死滅してたまっかというのが、しろうと学者のわたしの意見である。
わたしが初めて沖縄を訪問したのは今から25年も前のことで、当時の沖縄のサンゴ礁は夢のように美しかった。
西表島でダイビングをしたんだけど、昼食時にとある入り江に上陸して休憩をした。
戦争中の桟橋が残るだけで、背景に広がるのは静まりかえった亜熱帯のジャングルのみ。民家など1軒もないところだった。
白い渚で素潜りしてみると、腰の深さぐらいの砂浜に、盆栽のような小さなサンゴや、座布団みたいなイソギンチャクがいくつもあって、そのまわりに美しい熱帯魚が群れていた (写真はネットで見つけたものだけど、ホントにこんな感じ)。
あれは白日夢だったのか。
夢のように美しかったサンゴ礁は、ほんとうに夢になってしまったのか。
わたしは期待よりも、おそれをいだいて沖縄へ行くことになってしまった。
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NHKのBSでポーランドの巨匠アンジェイ・ワイダの特集をやる。
その予告のようなかたちで、ワイダ監督のインタビュー番組が放映された。
彼の作品について彼自身が語るのを観るのはひじょうに興味深い。
この映画監督の代表作といえば 「灰とダイヤモンド」 で、どこの国の映画ベストテンでも上位に入る文句なしの傑作である。
ただし、難解な部分もあるので、よっぽどの映画好きでもないとお終いまで観るのはツライという映画だ。
わたしはそのよっぽどのなんとかに属する人間なので、テレビで放映された 「灰とダイヤモンド」 と、もうひとつの傑作 「地下水道」 などを録画しておいた。
観ている時間はあまりないのに、とにかく録画しておけというのは、映画好きのわるいクセだ。
「地下水道」 は第二次世界大戦のとき、ワルシャワで蜂起して、ドイツ軍相手に絶望的な戦いをいどんだレジスタンスの物語である。
冒頭に 『悲劇の主人公がそろった。彼らの人生の最後をお目にかけよう』 という非情なナレーションが流れる。
出だしから絶望的な気分にさせられてしまう映画なのである。
レジスタンスは下水道に逃げ込むのだが、ドイツ軍に追われてつぎつぎに殺されていく。
最後まで生き残った男女の兵士が、広い川をのぞむ排水口にたどりつくと、そこには鉄格子がはまっていた。
万策尽きた兵士は河の対岸をじっと凝視する。
そこに侵攻してきたロシア軍がいたのだが、彼らはレジスタンスを見殺しにしたのである。
映画の制作当時、ポーランドはソ連の勢力下にあったために、公然とロシア軍を非難することはできませんでしたとワイダ監督はいう。
対岸にいたはずのロシア軍は映画に出てこないが、その方向を見つめる女性兵士の表情に、ワイダ監督は、大国のおもわくに翻弄されるポーランドの悲しみを暗示させたのである。
名作であるけれど、パイレーツだとかハリポタと違うからな。
いまどきの若いもんがこういう映画を観たがるかしらん。
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ジュリアナ東京から一転して、こんどはまじめな国際問題。
NPT(核不拡散条約)に加入していないインドに、NSG (原子力供給国グループ) が原則をまげて核協力だそうだ。
NPTやNSGなんて略称ばかりでわかりにくいけど、ようするに核をもって開き直っちゃった国に、米国を筆頭とする核保有の既得権国が屈伏したということらしい。
これだから北朝鮮も核を持ちたがるのである。
開き直っちゃったインドはパキスタンと仲がわるかった。
最近いくらか改善されたとはいえ、もともとこの両国は犬猿の仲だ。
そのパキスタンでは、暗殺されたプットもと首相の旦那が、棚からボタモチで大統領になったばかりである。
新聞によるとこの人は政治を商売とカン違いしている人だそうで、ワイロを取るのがうまかったから、あだ名がミスター10パーセントというらしい。
そういう大統領のいる国が、インドに対抗して、すでに核兵器を持っている。
さて、どうなるか。
双方が核兵器を持っているから抑止力が働いて、万一という事態にはならないだろうけど、パキスタンの周辺はテロの温床みたいなところだ。
パキスタンがうちもインドと同じにしろと開き直っちゃったら、米国はどうするつもりだろう。
オリンピックじゃ中国に金メダルの数で負けるし、サブプライムもまだまだ解決の見通しがないし、こないだまでの世界の盟主も頭が痛いよなあ。
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ジュリアナ東京が一夜限りの限定で復活したそうだ。
わたしも昔はよく出かけたものだ、なつかしいなアというのはウソで、業界の人でもなく、そういう知り合いもいないわたしは、そんなトコぜんぜん行ったことがない。
行ったことがなくても世相や時事を知ることに熱心なわたしのことだから、ジュリアナ東京がどんなところかぐらいは知っていた。
写真などで見たこともある。
週刊朝日で西原理恵子がリポートを書いていたのを読んでみたら、お立ち台で踊るボディコンの女の子たちは下着をつけてなかったそうだ。
これじゃディスコじゃなく、派手か地味かの違いだけの、ようするにストリップ小屋じゃないかと思い、いつか現物をながめたいと熱望するわたしの先手をうって、そのうち小屋は幕を下ろしてしまった。
おそらく桜田門あたりから指導が入ったものだろう。
ザンネン。
復活したジュリアナ東京では、女の子はちゃんと下着をつけていたようである。
ネットに写真が載っているから、そのへんに興味のある人はじっくり調べてみたらよかんべ。
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日曜日は調布のよさこい祭りを見物にいく。
ところでこの祭りはいったいなんだろう。
よさこいとくれば播磨屋橋だけど、よさこいソーラン、スーパーよさこい、黒潮よさこいなんてのもあるらしい。
よさこいソーランなんていわれると、いったいどこが発祥の地なのかもわからない。
この祭りは本場の高知県にあり、ソーランがつくのは北海道、スーパーがつくのは東京原宿で、黒潮がつくのは千葉県銚子。
わたしの近所の調布市でもやっているし、ネットで調べたら富山、浦和など、どうも日本全国で大流行の祭りらしい。
原宿のスーパーよさこいの写真を見たことがあるけど、なんか派手な衣装をつけた若者が乱舞という感じで、伝統的な盆踊りや豊作祭りとはぜんぜんちがうようである。
お盆の浴衣がけや阿波踊りがそのままやってきたような衣装もあれば、どこか古代の卑弥呼みたいな衣装、鳶のももひきがけや、フィットネス・クラブの運動着みたいなスタイルもある。
また大きな旗をふっている者もいて、これなんか火事場のまとい振りか、甲子園の応援団ふう。
いったいなんだなんだ、これはというわけで、出不精なわたしが、たまたま近所のよさこい祭りにのこのこ出かけたわけである。
調布のよさこいは原宿に比べると、出演者の平均年齢がだいぶ高そう。
それでも老人会の日本舞踊に微笑みをおくり、ピチピチギャルのパフォーマンスに瞠目して、こりゃ平和社会の建設になかなか効果アリとみた。
ようするに起源も由来もまるで関係なくて、昨今のうっ屈した市民都民をつかまえて、気のすむまで踊れ踊れと欲求不満のガスを抜く、それがよさこい祭りなんだろう。
しかしこれはわるいことではない。
昔の農民の秋祭りなんてのも、年に一度のウサ晴らしみたいなところがたしかにあったのだから。
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