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2009年1月

2009年1月31日 (土)

訂正

前項の訂正。
やや小太りなんて書いたら、これを読んだ人は開高健さんみたいなタイプを想像するんじゃないか。
わたしゃ、作家でいうと椎名誠さんみたいなタイプだかんね。
ほれ、言葉使いも似てるでしょ。
そ、モテるタイプ。

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メッキ

喫煙せず、やや小太りの人は長生きの可能性が高いとテレビが報じていた。
わたし=喫煙せず、ややメタボの傾向あり。
つまり長生きするらしい。
これで地位や財産や、若いメカケの2、3人がいれば言うことなしなんだけど、世の中あまくないな。

オバマさんが大統領に就任したばかりだけど、アフリカ系最初の大統領だということで、日本でもマスコミ (と付和雷同型の人たち) が大騒ぎをしていた。
わたしはへそ曲がりだから、そういう騒ぎには加わらない。

雑誌SAPIOの最新号を読んでいたら、冒頭に、ブッシュ2世も就任したとき、親子2代の大統領ってことで大騒ぎされたという記事が載っていた。
だから言わんこっちゃない。
鳴り物入りで登場した大統領や首相が、たちまちメッキがはがれて、ボロくその対象になるっていうのは現在の世界的傾向なのだから、むやみにありがたがるのはけんのんである。

SAPIOっていう本は右翼系の雑誌と信じられているから左翼系の人が読むことはないだろうけど、公平客観的なものの考え方をするには、どんなタイプの本でも読んでおく必要がある。
わたしは読み終わったSAPIOを、所属する団体の事務所に積み上げておくのだが、あまり積極的に読んでもらえてないらしいのが残念だ。

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2009年1月30日 (金)

倉敷の宿

前項の 「街道をゆく・夜話」 の中にもうひとつ興味のある宿屋が出てくる。
こちらは倉敷にある古い屋敷をそのまま利用した宿で、縁起を手短かに紹介すると、戦後の農地解放で家屋敷を手放さなければならなくなった大地主が、屋敷をみだりに改築しないこと、宿屋として使用することを条件に、知り合いの娘に建物を安くゆずったのだそうだ。
作家の文章によると、年期のはいった蔵造りのホンモノの民芸旅館だそうである。

こういう宿にも泊まってみたい。
ただしこの文章は書かれたのが1964年で、前項の坊津の宿屋を訪ねたときや、そもそも週刊朝日に 「街道をゆく」 が連載されはじめたときよりずっと古いのである。
そんな宿屋が今でも残っているだろうか。
鉄筋コンクリートになってないだろうか。
ただ、そうとうに格式のある建物をそのまま使ったようだから、みだりに改築していない可能性もある。
文章の中に宿の名前は出てこないけど、倉敷にある百年以上をへた蔵造りの宿ということで調べればわかるかもしれない。

というわけで、またネットで検索してみた。
どうやらこれらしいという宿屋を見つけたが、坊津の宿屋がエコノミークラスだったのに比べ、こちらはわたしのような貧乏人はぜんぜん相手にしてもらえないハイグレードな宿屋のようだった。
倉敷は遠いからな。
そんなほうまで行くヒマはねえよというと、負け惜しみに聞こえてしまうだろうか。

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2009年1月29日 (木)

坊津の宿

朝日新聞は司馬遼太郎の 「街道をゆく」 を骨までしゃぶるつもりなのか、本屋で同じタイトルの文庫本を見つけた。
作家はとっくに死んでいるから、新しい 「街道をゆく」 が出るはずがないんだけど、これは作家があっちこっちに寄稿した文章の中から、紀行記らしき雑文をかき集めて、「街道をゆく・夜話」 という似たようなタイトルをつけたものだった。
「街道をゆく」 に心酔しているわたしとしては、そういう本でも買わないわけにいかないのである。

寄せ集めの文章でもなかなかおもしろいのは、作家の知識と技量、それにわたしの歴史好きによる。
この本にもいろいろ新知識が多いけど、くだらない話題をひとつ。

作家はこの雑文のひとつで薩摩 (鹿児島) の坊津というところに泊まっている。
泊まった宿というのがなかなかユニークで、電気屋さんが宿屋も兼ねているような家だったそうだ。
『風呂場へ降りるときはせまい急な階段を降りるのだが、和船の胴の間へ降りていくような気がする』 というのがこの文章の中の記述。
風呂は五右衛門風呂だったともある。
それでもサービスはわるくなく、近所の女性がわざわざ民謡を踊ってみせてくれたそうだ。
旅好きのわたしとしては、こんな文章を読むとむずむずである。

機会があったらわたしも坊津のその宿屋に泊まってみるかと、名前を頼りにネットで調べてみた。
わたしはこんなふうに、たまたま何かのきっかけで目についたホテルや宿屋のその後を訪ねてみることがある。
以前、新潟の自在館という宿に出かけたのも、たまたま目についたネット上の古い写真がきっかけだった。

残念ながら電気屋さんはその後大改築されて、3階建て、鉄筋コンクリートのありふれた (どっちかというとエコノミークラスの) ホテルに変わってしまったようだ。
作家が泊まったのは1974年のことらしいから、ごもっともな話である。

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2009年1月28日 (水)

全国放送

27日の午前11時20分ごろ、なにげなしにテレビをつけたら、NHKの朝の番組の中に 「手書きの手紙を楽しもう」 というコーナーがあって、そこでいろいろな画材が紹介されていた。

ガラスペンのあとに、おお、どこかで見たような竹ペンが。
あれは間違いなく、熊本のKさん制作のバンブーペンじゃあるまいか。
すごい。 なんたってNHKだぞ。 全国放送の公共放送だぞ。

Kさんのブログを見ると、竹ペンだけじゃなく、篠笛の制作もいよいよ忙しそうだし、もう工房というより工場だ。
彼のブログを紹介して、またそういうものの注文が殺到して、社長兼工員の彼が過労死しても困るんだが、いちおう紹介しておこう。
けっしていくらかもらっているわけじゃないぞ。
http://warazouri.cocolog-nifty.com/blog/

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2009年1月27日 (火)

シメ

Photo

冬になると、夏のあいだは見られない野鳥がたくさん下野してくる。
下野という言葉は政治のほうで使われることが多いけど、ま、そんな些細な問題は無視して、ウチの近所の散歩道で見かける冬鳥には、カルガモ以外のカモの仲間たち (マガモやオナガガモ、コガモなど) がいる。
カモの仲間は近所の一大勢力で、ワイワイガアガアとやかましいくらいだ。

もうちっと静かな冬鳥はいないかと、散歩道を注意して歩いていたら、スズメ大の頑丈なクチバシをした小鳥を見かけた。
頑丈なクチバシというと、ウソ、シメ、ヒワ、イカルなんて、あまり鳥らしくないけったいな名前の一群の小鳥たちがいるけど、この日に見たのはシメ。
なかなかきれいな小鳥である。
野川公園の自然観察園の中にたくさんいるから、見るなら今のうちだ。
あったかくなると彼らはふたたび奥山の鳥になってしまうのである。
※写真はわたしが撮ったものではなく、ネットで見つけたもの。

小鳥が冬になると下野してくるのは、冬になると山に餌がなくなるからという説があるけど、奥山に餌がない季節は都会にもありそうもない (彼らが人間の残飯を食べるなら別だが)。
それよりも小鳥というのは体温調節がヘタで、冷え性なヤツが多いという説のほうが説得力がある、と思っていたら、ま冬の東京に出没するメジロを、ま夏の小笠原で見たこともある。
わからん。

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2009年1月25日 (日)

青空文庫

自分の知っていることは他人も知っているだろうとつい思ってしまうことはよくあるけど、最近著作権についてよそのホームページに講釈をたれたことがある。
相手から、わざわざ弁護士の見解を持ち出して、キミの考えは正しいようだなんて返事があった。
わたしはそんなにむずかしいことを言ったわけではないのでめんくらった。
著作権なんてそれなり分別をそなえた大人の常識ではないか。

昨日の新聞に 「青空文庫」 のことが載っていた。
とっくに知っている人もいるだろうけど、これは著作権の切れた作家の小説や随筆などを、ネットで無料で読めるもので、わたしのような活字中毒者にとってはじつにありがたいものだ (ネット上の文章が活字になるかどうかはさておいて)。

さっそく検索してみた。
あるわ、あるわ。
日本では書物の著作権は作家の没年より50年だそうで、夏目漱石、森鴎外などの文豪はもちろんのこと、宮沢賢治、伊東静雄、久生十蘭などもとっくに著作権は切れているようだ。
ずっとさかのぼって源氏物語や方丈記もあるし、また坂本竜馬、榎本武揚など歴史上の人物が残した文献、変わったところでは日本画家の上村松園、軍人の石原莞爾らの文章、ジョージ (パパ) ブッシュの大統領就任演説や、土井晩翠の書いた 「漱石さんのロンドンにおけるエピソード」 なんていうめずらしい文章もある。

このままでは読みにくいという場合は、文章をそっくりコピーして、自分で好きなかたちに装丁しなおすテもある。
不景気でお金を節約しなくちゃいけないときに、ネットはいいヒマつぶしを提供してくれるものだ。

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2009年1月21日 (水)

オバマさん

オバマさんの大統領就任。
個人的見解だけど、この人の顔は威厳があるというわけではないし、さりとて庶民的というのでもない。
黒人に多いスポーツマンにしちゃ細すぎるし、芸術家や哲学者の顔でもない。
映画スターとしたら三枚目がふさわしいようで、うーん、なんか歴代大統領と比較すると軽いんだけど、顔以外の欠点は (今のところ) めだたないから、これから地位が顔をつくるかどうか、しばらく要注目だな。

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“冒険全集”

前項でむかし読んだ子供向けのSF全集の名前を 「少年少女世界科学名作全集」 と書いたけど、これは “冒険全集” が正しいようだ。

その後いろいろ調べてみたら、この中には 「希望号の冒険」 を含めて34のタイトルが揃っていた。
「両棲人間 1号」、「宇宙島の少年」、「緑の宇宙人」 なんて、なつかしい名前がぞろぞろである。
これをわたしはひとつ残らず読んだはずだけど、内容はほとんどおぼえていない。
おぼえていないのも当然で、この全集が発売されたのは1958年ごろだというから、まだわたしはものごころつくまえの鼻たれ小僧だったのである。

ネットで調べてみたかぎりでは、執筆者の中にハインラインはいてもアシモフの名前が見当たらない。
これもカン違いだったようだが、豪華執筆陣であることは変わらない。

子どものころに熱中して、わたしの人間形成にそれなりの貢献をしたはずのSF小説だけど、最近はほとんど読まなくなってしまった。
だてにトシを食ったわけではないわたしは、宇宙の現実というものに詳しくなっていて、取るに足りない地球人が、現在のままの姿で銀河系を飛び回るなんてことがアホらしくなってしまったのである。
となりの銀河まで、ちょいと上海あたりまで旅行するようなつもりになるなら、やっぱり 「2001年」 のスターチャイルドのようにひと皮むけなくちゃ。
銀河間を飛びまわれるようになっているなら、人間はもっとずっと上級の何モノかに進化しているだろう。
それを人間の言語で描こうなんて、不敬罪にあたるんじゃないかと思ってしまうのである。

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2009年1月20日 (火)

少年少女科学名作全集

先日わたしの所属する組織の新年会があってと、そんなことはどうでもいい。
わたしは組織なんてものにあまり興味はないのである。
もしも退屈するような集まりだったら困るなと考え、とちゅうで本屋に寄ってヒマつぶしのための文庫本を買っていくことにした。
ここで見つけたのがアーサー・C・クラークの 「楽園の日々」。
表題からするとスリランカにおける回想録のようなものらしい。
彼の小説は読むにたえないが (あくまで個人的には、だよ)、エッセイはひじょうにおもしろいと、これは自信をもっていえるので即ゲット。

帰宅して目を通してみたら、内容に偽りアリだった。
わたしはまた 「未来のプロフィル」 のような科学エッセイか、「スリランカから世界を眺めて」 のような雑多な随筆の寄せ集めを期待していたのだ。早川書房にはもうちっとあきらかなタイトルをつけろよと御忠告申し上げる。
ま、敵の策略にひっかかるほうがわるいけど。

この本はクラークが子供のころ熱中したSF雑誌についての回想である (少なくとも半分ぐらい読んでみたかぎりでは)。
ちょっとがっかりしたけど、雑誌のウラ話というのはそれなりおもしろいと言えなくもない。
クラークは1930年代のSF雑誌から説き起こして、彼なりの解説や皮肉を書き連ねているのだが、そんな昔の本を現代の作家 (それもアマチュアとはいえない科学者) がけなすについてはちょっとアンフェアな気がする。

そんなことはさておいて、この文庫本はわたしの子供時代の記憶をよびさました。
早熟だったわたしも、小、中学生のころから本のあいだのシミみたいに図書館に入りびたり、もちろんSF小説もその重要な食欲の対照だったのである。

そのころ雑誌の広告に目をとめたことがある。
それは近々発刊されるSF全集の宣伝であって、「赤い惑星の少年」 だとか 「希望号の冒険」 などというタイトルが、わたしの胸を激しくゆさぶった。
ただ全集をそっくり買えるほどわたしの家は裕福ではなかったので、しばらくは指をくわえて地団太ふむしかなかった。
まもなくそれがそっくり学校の図書館に並んだ。
それを見つけたときのわたしの興奮が想像できるだろうか。
ああ、当時の学校の図書選定の正しさよと、わたしはいまでも教職員の皆さんに感謝しているくらいである。

このときのSF全集はいったいどんなものだったのだろう。
ひょっとするとモノ持ちのいい人がいて、古書としてネット・オークションにでも出品しているかもしれない。
図星だった。出ていた!

これは講談社が出した 「少年少女世界の科学名作全集」 というもので、これの 1~15巻をそっくりオークションに出した人がいる。
あいにくわたしは小、中学生向けの本を今さら読もうとは思わないが、現時点で16万円の値がついているから、興味のある人は早いもの勝ちだ。
子供向けのSF全集だけど、執筆者はアシモフやハインラインなどそうそうたるものなのである。
この中に、核戦争で死滅した土地から家族がヨットで船出をするという内容の 「希望号の冒険」 が見当たらないのは、わたしの記憶違いだろうか。

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2009年1月19日 (月)

3羽の烏

わたしは鼻たれ小僧だった時分からレコードを買い始めた。
今から40年以上まえに買ったレコードが今でも手もとにある。
ピーター・ポール&マリーのLPで、ジャケットのすみに当時交際していた彼女のサインまで入っている。

なつかしい、なんてことはどうでもいいけど、これを購入したころ、LPレコードの値段はだいたい2000円前後だった。
よく卵が物価の優等生といわれるけど、その点ではレコードのほうがうわ手をいく。
考えてほしい。
レコードの値段というのは40年、50年まえと現在でほとんど変わっていないのだ。
現在ではレコードはCDに変わったけど、その1枚の値段はやはり2000円前後だろう。当時と現在で、かりに平均物価が10倍になったとすれば、当時のLPレコードは2万円もしたことになる。

つまり昔はレコードというのはひじょうに高価なものだったのだ。
ご多分にもれず、フォークソングも好きだったわたしは、清水の舞台から飛び降りるような気持でPPMのレコードを買ったわけだ。

気もそぞろに帰宅し、さっそく針を落としてみたら (そう針だったんだよ、当時は)、ちょっとわたしの期待していたものと違っていた。
わたしは 「時代は変わる」 、「500マイル」、「風に吹かれて」 などが入ったベスト・アルバムのつもりで買ったんだけど、これは歌手の語りや聴衆の歓声などが入ったコンサートのライブ・アルバムだったのだ。
当時のわたしはスタジオできちんと録音された音楽ばかりを聴いていて、ライブ演奏というものを聴いたことがなかった。
おかげでいささか違和感があり、失望した。

がっかりしてしまったけど、買ったものは聴かないわけにいかない。
何度か聴いているうちにこのLPに入っていた 「3羽の烏」 という歌がえらく気にいってしまった。
これは英国の古い民謡らしいけど、畳みかけるように繰り返される Down-a-down, Hey! Down-a-down というフレーズがつよく印象に残る悲しい歌である。
あとでこのライブ・レコードはなかなか傑作であると思うようになった。

なんでPPMのことを持ち出したかというと、つい最近、テレビで彼らのコンサートが放映されたからだ。
上記のレコードと同じ時代のモノクロ映像だったけど、この中でも 「3羽の烏」 が歌われている。
レコードは文字どおりお蔵入りになっていたのだが、おかげでひさしぶりにホコリを払って針を落とすことになった。

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2009年1月17日 (土)

ワイエスの訃報

アンドリュー・ワイエスの訃報。
わたしの好きな米国の画家で、その個展を2カ月ほど前に見てきたばかりだけど、まあ、人間は永遠に生きていられるわけではない。
個展会場の解説やNHKの番組を見たかぎりでも、いつかは来るものが来たという感じである。

トラは死んで皮を残し、画家は亡くなって絵を残す。
彼が描いた不遇な女性の絵は、これからもずっとこころ寂しい人たちを励まし続けるにちがいない。

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2009年1月14日 (水)

チェチェンの女の子


新聞記事ばかりひろっているみたいだけど、今朝の新聞に載っていたチェチェンの最新報告に関心がある。
チェチェンというと、ついこのあいだまで独立をめぐって、大家のロシアと血で血を洗う独立闘争をしていた国である。
日本で見ていると、死者16万人などといわれてそうとうに乱暴な戦争だったように思えてしまうけど、その紛争を主題にした映画を見ていたら、ロシア人の母親が紛争地で捕虜になった息子に会うため、バスで出かけていくシーンがあった。
なんか現地では意外とのんびりした戦争だったのかなと思ってしまう。
そのチェチェンでは、現在は穏健派のなんとかいう大統領が、とりあえず独立は封印して、平和的な国家建設に務めているらしい。

新聞にはチェチェン国立大学の女子大生の写真が載っていた。
この国はいちおうイスラムの国なので、頭にスカーフをまいている。
イスラムの女の子が魅力的であることは、かって何度もシルクロードを旅したわたしもよく承知している。
中国の西域の女の子たちもスカーフをまいている子が多い。
顔をすっぽり覆ってしまうのは言語道断だが、スカーフを頭にまく程度なら、かえって女の子は魅力的にみえるものである。
であるのにこのチェチェンの女子大生は、スカーフの強制はイヤなんてほざいているらしい。モッタイナイ。

わたしが関心をもったのは女の子のスカーフではなく、血で血を洗う紛争中にくらべると、現在のチェチェンの女の子ははるかに開放感にあふれていることだ。
そこでつい独立闘争というものについて考えてしまう。
権力者が強圧的独裁者であったり、政府が腐敗汚職まみれといった場合はべつだけど、連邦の一員として認められているような状態なら、紛争と平和とどっちに価値があるだろう。

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2009年1月13日 (火)

中国の女優論

新聞を読んでいたら、中国の女優コン・リーさんの発言が取り上げられていた。
彼女は 「赤いコーリャン」 や 「秋菊の物語」 などで知られる国際的な女優だけど、シンガポールの富豪と結婚して中国の国籍を捨てたそうである。
このため中国人から裏切り者などと罵倒されていたらしいが、おおきなお世話よ、わたしが自分で決めたことにいちいち釈明なんかしないわと反論したという。

政治家が冗談を言っただけでも大騒ぎになる国の住民としては、ここまで開き直った発言はかえって気持ちがいい。
中国の女優さんは、国際的に有名になると外国人と結婚する例が多いようだ。
わたしの好きな寧静さんもアメリカ人と結婚したし。
これは中国の共産党政権にイヤ気がさしてということもあるだろう。
自分の国の未来にあまり期待していないということかもしれない。

このコン・リーさんの記事のとなりに、皮肉なことに現在の上海の繁栄ぶりが書かれた記事がどーんと載っていた。
上海港のコンテナ取扱い量は、東京、横浜、名古屋をあわせた量に匹敵し、いずれは世界一のシンガポールを抜くだろうという。
上海が世界一の港湾都市になり、中国の発展がシンガポールを追い越したら、コン・リーさんはどうするだろう。
あ、そうか。また中国の国籍にもどせばいいのか。
中国の女優さんがそんなにしおらしいと考えたこちらがバカなんだな、きっと。

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2009年1月12日 (月)

ロウバイ

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不景気だからお金のかからない趣味というわけで、散歩とブログに熱中することにする。
散歩は健康にいいし、ブログは脳ミソにいい (と勝手に信じてる)。

今日はぶらぶらと自然観察園まで足をのばした。
この季節に咲いているのはロウバイである。いま1月の12日だから、このブログにおける今年の花便りはロウバイをもって嚆矢とすべきのようである。
ほかに水仙も咲いていたが、こちらはつぼみの数からして、満開までにはあともうすこしかかりそうだ。
暗い世相だけど、春はまちがいなくやってくるつもりらしいですよ、皆さん。

※あとから追記。
この1週間後にもういちど行ってみたら、水仙はすでに終わりかけていたから、1月の12日の時点でも満開はとっくにすぎていたようだ。

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2009年1月11日 (日)

またまた不景気のハナシ

わたしはトヨタの車に乗っているんだけど、先日トヨタの営業マン、いや営業ウーマンから電話がかかってきた。
このウーマンは大学出たてみたいな可愛い娘で、わたしとは浅からぬ関係なのだ。
といっても誤解しちゃいけない。
わざと誤解させるような書き方をするわたしのほうもいけないが、つまり彼女はこの店でわたしの担当なのである。

その娘が、もうすぐ車検ですけど、新しいクルマ買いませんかだって。
そりゃ世が世であれば、わたしだって可愛い娘のためにひと肌もふた肌もぬぐ覚悟はありますけどね。
いま不景気、それも半端じゃない不景気なの。
クルマ買うどころか、いまある車をいかに長く使うかと悩んでいるところだもんね。

それにしたってこの電話1本から、世界のトヨタまで苦境におちいっている様子がまざまざ。
ふだんなら若い娘がわたしみたいなモテない男にわざわざ電話してこないぞ。

年が明けて、仕事始めから1週間。
ぼちぼち不景気の全貌があきらかになってきたようだ。
このブログでも非正規雇用を擁護したり、政治がわるいなどとほざいているけど、それどころじゃない。
いよいよ自分のケツに火がついてきた。
10年ぐらい前にバブルがはじけたときも不景気だったけど、今回の不景気はそれを凌駕、超ド級といっていいほど惨憺たるもののようである。
わたしは自営業みたいなことをしているけど、論より証拠、売り上げの推移が10年前と今回の不景気の違いをありありと証明している。
わりあい幸運にきたわたしの人生がはじめて体験する事態である。

不景気のときはどうするか。
金を使わないことである。
経済評論家の森永卓郎さんは、パンの耳をかじってでもこの危機を乗り越えろといっている。
わたしは競馬もパチンコもやらないし、食も細いほうだし、ペンと紙さえあれば退屈しないという、非活性的かつチマチマした生き方をしているから、まあ、そういう生き方には強いほうかもしれない。
スイトンでも食いながら、またヒマつぶしに似顔絵でも描くか。
なんか戦後の焼け跡派みたくなってきたな。
そういや、野坂昭如さんはいまどうしているんだろ。

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2009年1月 9日 (金)

床屋の経済学

床屋に行ってきた。
以前にも書いたような気がするけど、無口で小心者のわたしは、小一時間ばかり自分のアホ面と向いあっていなくちゃならないのが苦痛である。
苦痛をまぎらわすため経済問題について考える。

床屋さんというのはどのくらい儲かるものだろうか。
この日、わたしが拷問にあっていたあいだに、先客は2人、あとから入ってきた客がひとり。
わたしを含めれば2~3時間ほどのあいだに4人の客である。
たいして上等な頭じゃないが、わたしの理髪料金は4千円だった。
ほかの客も同じだとすれば、全部で 1万6千円の稼ぎだ。
もちろん床屋は朝から晩まで営業しているのだから、この日はほかにもまだ客が来るだろう。
1日の客が、少なめに見積もっても10人はいるのではないか。
10人いれば4万円。
1日4万円とすると、1カ月 (20日営業したとして) 80万円である。
80万円! 

ためしに床屋の出費はどのくらいあるのかと考えると、必要なものは化粧品がちょぼちょぼ。
ほかに小道具がたくさん必要なようだけど、これらはいちど買っておけば末長く使えるものばかり。
理髪料金は床屋さん組合のカルテルがあるみたいだし、不景気だといってほうっておいていいものでもないだろうから、客が途切れることもない。
お医者さんみたいに、どこか切り間違えたといって補償問題に発展することもなさそうだ。
うーむである。

この床屋はお父さんと息子で営業していて、80万円が実質的な家族の月収である。
この不景気に1家族で収入がそれだけあったら、お父さんとしてはかなり胸をはって生きていけるのではないか。
いいなあと、不景気の波にもみくちゃにされているわたしとしては、羨望のタメイキ。
問題は、朝から晩まで椅子に座った客につまらないお世辞を言ってなくちゃいかんことで、これさえなければわたしもこのつぎは床屋の修行をするところなのだが。

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2009年1月 8日 (木)

アフリカ

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本箱を整理していたら、古いBRUTUSが出てきた。
現在でも続いているけど、写真を多用した情報誌で、「黄金のアフリカ」 という、アフリカ西海岸を特集した1983年の号。
いまから25年前の本だけど、情報誌の古い本というものはながめていてなかなかおもしろい。
写真や記事から当時の世相をうかがい知ることができるから。

そのころのわたしは世界中を放浪したいという熱に冒されていて、まあ、じっさいにはお金、会話能力、勇気など、いろんなものの不足で思うにまかせなかったのだけど、こういう本を片っぱしから読みふけって、机上の空想旅行にふけっていた。
アフリカには今でも行ってみたいと思っているけど、世間はますますの不景気だ。
そんな大それた夢がこれからの人生で実現するかどうか。

この雑誌に特集されていたアフリカの西海岸、つまりセネガルからマリ共和国あたり一帯は、いちおうイスラムの国ということになっているけど、いかにもアフリカらしいおおらかさに満ちた、ひじょうに魅力的なところである。
わたしはセネガルのタムタム奏者をあつかった映画を観たことがあり、この地方の女性に美人が多いのにおどろいた。
どのくらい美人かということは、この雑誌に載っていた現地の少女の写真が証明している。

また、わたしはニジェール河を行き来する人々や、漁師を描いた映画も観たことがあって、この河のほとりに生きる人々の生活に大きな興味を持っていた。
雑誌の中にはマリの市場の大きな写真が載っている。
穀物を入れた大きな籠が並び、大勢の人々が群れている。
いますぐにでも出かけて、人々のあいだをぶらついてみたい光景である。

ニジェール河にそってゆくと、砂漠の中に、かって黄金の都とたたえられたティンプクトウという町があったという。
世界遺産にも数えられている古い町なのだが、残念ながら現在ではあまりそのこん跡は残っていないそうだ。
それでも、このいかにも現地語の町の名前がますますわたしをひきつける。
シルクロードの楼蘭もそうだけど、幻の都なんてものは、机上の旅行者にはこたえられないロマンなのである。

ただ25年のあいだに世界情勢はだいぶ変わった。
アフリカというとついわたしたちは、槍と楯をかまえた裸の黒人が、ライオンやゾウを追いかけている光景を想像してしまうけど、ニュースや映画で背景をじっと注視していると、じっさいには中国や中近東のおくれた地域より、最近のアフリカのほうがずっと先進国化されているような感じがある。
ただしアフリカではその後も各地で紛争や内乱が続出し、特に9.11の同時多発テロ以降は、イスラム圏の (わたしが見たいと思っている) 古い地域は、西側の観光客が安心して歩ける場所ではなくなったところが多い。
魅力的なイスラム圏の国々が自由にぶらつけなくなったということは、返す返すも残念だ。
ブッシュばかりを責めても仕方がないけど、なんでこうなっちゃったのか。

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2009年1月 7日 (水)

報道写真

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ケビン・カーターという報道カメラマンが撮った1枚の写真が、世界にショックを与えたことがある。
内戦のスーダンで、飢餓のために地面につっぷす少女の背後で、餓えたハゲタカがその死を待っている有名な写真だ。

報道写真は、時としていかなる演説や文章よりも雄弁に語る場合がある。
昨日の新聞に載っていた写真もそういう意味ではショックだった。
ここに載せた写真は、ここ数日のパレスチナ・ガザで撮られたものだが、写っているのは戦争当事者の大人ではない。なんの罪もない子供たちである。
わたしはこの写真を見て、怒りのあまり涙が出てきた。
なんとかならないのかと、地団太踏むばかりでなんにもできない自分が歯がゆい。

「ハゲタカと少女」 のケビン・カーターはその後自殺した。
原因は写真ではなかったようだけど、彼の名前はたった1枚の写真で永久に残るだろう。
彼が写真で訴えた子供たちの悲惨さはいまなお解消していないのだ。

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2009年1月 5日 (月)

自然の摂理

野川のほとりを散歩していたら、ほふく前進をしている大きなネコを見つけた。
なにか狙っていやがるなとその前方をみると、数メートル先の岸辺で数羽のコガモが無心にえさをあさっていた。
危ないなと思いながらそのまま観察していると、ネコははじかれたように一閃、小さなしぶきが上がったとみえたら、もう1羽のコガモが口にくわえられていた。

やれやれ。
気のドクだけど、川のこちら側にいるわたしにどうしようもない。
ネコはコガモをくわえたまま、のっしのっしとものかげに姿を消した。
これが自然の摂理というものだ。
残酷だけど自然界ではこんなことは日常茶飯事だ。
油断したほうがわるいのだ。
わたしにできることは、カモのために瞑目すること、獲物をオモチャにするネコの習性があまり発揮されないように祈ることぐらいしかない。

ただ新年そうそう、平和なわが家の周辺でこんなものを見たのにちょっとショックである。
カメラを持っていなかったのも残念だな。
と、わたしも図太い男だけど。

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2009年1月 4日 (日)

アラビアのロレンス

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知り合いと2人で、リバイバル上映されている 「アラビアのロレンス」 を観てきた。
すでにテレビでも何度も放映されているし、DVDも持っているくらいだから、うんざりするくらい観た映画だけど、劇場の大画面で観るのはひさしぶりだ。
ちなみにこの映画くらい大画面がふさわしい映画はあまりない。

映画館でまわりをながめたら、やっぱり年配の観客が多かった。
みんな青春時代にわたしと同じ感動を共有した人たちのようである。
わたしがこの映画を最初に観たのは20代のはじめで、ストーリーや背景を勉強してなかったものだから後半は眠くなってしまった。
昨今の “わかりやすい” CG大作をみなれた人には、あらかじめストーリーや背景を勉強しておかないとちょっとつらい映画でもある。

なにはともあれ、今回 「ロレンス」 を観て、まず感じたのは、あれ、画面が思ったより汚いなということ。
これは日ごろDVDを観慣れているからで、映画館では同じ映像を思い切り拡大してしまうせいらしい。
写真でも映画でも拡大すれば画質が粗くなるのはやむをえないことだし、昨今のDVD映画は、テレビで観たとき最適の画質になるよう調整がしてあるからのようだ。

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じつは2度目に観て以降、この映画をつくったD・リーンは人種差別主義者ではないかと長いあいだ考えていた。
彼の作った映画では 「戦場にかける橋」 でもそうだけど、英国人がいちばん素晴らしく、日本人やアラブ人は遅れた人種だみたいなものが感じられたのである。
そういうわけで彼の映画にわずかばかり否定的な感想をもっていたことも事実である。

あらためて 「ロレンス」 を観て、そんなことはないとまた考えを改めた。
この映画では英国の狡猾な二枚舌外交や、多くの部族の寄り集まりで、けっしてまとまらないアラブの現実もきちんと描かれている。
第一次世界大戦のころは、アラブ人の文化の程度もこれが現実だったのだろう。

映画の後半でロレンスが、男色家のトルコ軍司令官から屈辱的な扱いをうけるシーンがあるけど、映画ではそれが具体的に描かれていないだけに、説明がないと初めてこの映画を観る人にはロレンスの心境の変化がわかりにくい。
しかしまあ、これを具体的に表現するわけにはいくまいから、そのへんはロレンスの伝記でも読んでもらうとして、この映画がけっして (ついこのあいだ観てきた馬鹿映画の「レッドクリフ」みたいな) 単純な英雄賛歌ではないことは明白である。
いったいいつから、映画は人間の感情を表現するものではなくなってしまったのだろう。

映画の内容について仮に不満を述べる人がいたとしても、何がなんでも素晴らしいのが、映画の中に登場する雄大な砂漠の風景である。
灼熱の砂漠を背景に、蜃気楼の中からベドウィンのアリが登場するシーン、複葉機が低空でアラブのテントを爆撃するシーン、落伍した兵士を救出したロレンスが地平線のかなたから帰還するシーン、トルコ軍の占領する港湾都市アカバを騎馬軍団が急襲するシーン、有名な鉄道爆破のシーンなど、忘れられない名場面の数々がわたしを陶然とさせる。

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アラビアの国王がロレンスに向かって、“あなたも砂漠を愛する英国人なのか” という場面があるけど、この点だけはわたしもロレンスの心境がよくわかる人間のひとりだ。
わたしも砂漠が見たいばかりに、中国のシルクロードに4回も出かけた砂漠マニアなのである。

添付した画像は、とっても雄大すぎる砂漠のシーン、かげろうのもえる地平線から族長のアリが登場するシーン、そして都市アカバをウマとラクダで急襲するシーンだ。

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