2009年7月31日 (金)
中原中也は最初、本格的な詩人をこころざして、当時の芸術革新運動だったダダイスムにのめりこみ、いくつかの難解な詩を発表しているけど、わたしはダダイスムなんてものに興味も理解もないので、そのころの彼の詩で好きなものはあまりない。
彼が本領を発揮するのは、ダダイスムなんてややこしいものから脱却し始めたころからである。
それでもこのころの歌でわたしの好きなものを挙げると、たとえば 「朝の歌」 の最終節
ひろごりて たひらかの空
土手づたい きえてゆくかな
うつくしき さまざまの夢
また「逝く夏の歌」の終わりの部分
風はリボンを空に送り
私は寡て陥落した海のことを
その浪のことを語らうと思ふ
騎兵連隊や上肢の運動や
下級官吏の赤靴のことや
山沿ひの道を乗手もなく行く
自転車のことを語らうと思ふ
ここにあげた詩の断片は、べつに意味がどうのというわけではなく、ただなんとなく口ずさむのが好きなのである。
彼がややこしい理論や崇高な目標をかなぐり捨てて、ぼそぼそと虚無ややけっぱちの心境をうたい始めると、がぜん魅力的な詩が多くなる。
以前、新聞に中原中也の未発表の詩が発見されたという記事が載ったことがある。
「夜更け」 という詩で、わたしはその記事を切り抜いて保存しておいた。
夜が更けて帰ってくると
丘の方でチャルメラの音が・・・・・・
夜が更けて帰ってきても
電車はまだある
・・・・かくて私はこの冬も・・・・
夜毎を飲むで更かすならひか・・・・・・
かうした性(さが)を悲しむだ
父こそ今は世になくて
夜が更けて帰ってくると
丘の方でチャルメラの音が・・・・・・
電車はまだある
夜は更ける・・・・・・
この詩がほんとうに中原中也の詩なのかどうか、その後結論がどうなったのか知らないけど、ここにはアル中患者が呑んだあと悔悟しているような、彼の詩を知る者にとって一目瞭然の個性がある。
たぶん彼の作品にまちがいないんじゃないか。
中原中也の詩をひきあいに出したけど、初期の理屈っぽい難解な詩よりも、こうしたわかりやすい詩のほうが世間の評価が高いということは、芸術家をこころざすすべての人が考えなければいけないことだと思う。
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2009年7月30日 (木)

時間がねえというんで、また 10分で仕立てるブログ・ネタ。
先日テレビで放映された 「勝利なき戦い」 って映画。
朝鮮戦争を描いたアメリカ映画である。
まじめに観ていないのでストーリーや出来についてはさっぱりワカランだけど、感心したのは時代考証の確かさ。
さすがは米国映画で、出てくる兵器、主として小銃だけど、これがすべて朝鮮戦争当時に使われていたものばかり。
米軍兵士の主力火器はM1ライフルだし、中共軍の短機関銃もじっさいに朝鮮戦争で使われていたもので、ほかにも当時の火器がいくつも出てくる。
もっともこの映画自体が朝鮮戦争が終わって間もないころに作られているので、武器が当時のものであるのは当然なんだけど。
M1ライフルについては、わたしはじっさいに撃ってみたことがある。
かって海上自衛隊にいたころ、当時の主力火器が米軍お下がりのM1で、自衛官は年に何回かの実射訓練が義務化されているから、いやおうなしにぶっ放したってワケ。
慣れてくればけっこうよく当たるなかなか高性能の銃なんだけど、難点は平均的日本人には重すぎることだ。
訓練中に教官が機嫌をそこねると、ささげ筒の姿勢で庭を一周してこいなんていわれてしまう。
これはきつかった。
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2009年7月29日 (水)
ここに載せた絵は英国の画家アーサー・ラッカムの作品で、「不思議の国のアリス」 の挿絵であることは誰にでもわかる (2番目はたぶん白雪姫)。
「不思議の国のアリス」 を描いた画家は、原作者のルイス・キャロルを筆頭に、アリスの原点のようなテニエルや、日本の画家もふくめて数えきれないくらいいるけど、絵の魅力からいったらラッカムがダントツ (だとわたしは思う)。
じつはわたしがラッカムという画家について知ったのも、なにかの本でたまたま目にした 「不思議の国のアリス」 の挿絵が最初だった。
子供向けのような他の画家のアリスにくらべると、大人が見てもうなるような美少女のアリスであることに感心してしまった。
原作者のL・キャロルにはロリコンという説がつきまとっているけど、だとしたらラッカムの絵はそういう点まで原作に忠実だったんではないかと、余計なことを考えてしまう。
当時はなかなかこの画家のほかの作品を見ることができなかったけど、ネット時代の今では、ネットの中に彼の絵をたくさん発見することができる。
ラッカムは1939年に亡くなっているから、そうとう過去の人だけど、彼の描いた女性たちの魅力は、ミロのヴーナスのように永遠に不滅のようだ。
ネットで見つけたほかの絵も紹介するけど、こういう女性や少女がキライという人がいるだろうか。
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2009年7月28日 (火)
近いうちにゴーギャンの大作 『我々はどこから来たか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』 という絵を観にいきたいと思っている。
そんな話をしたら、知り合いがゴーギャンの書いた 「ノア・ノア」 という岩波文庫を貸してくれた。
書いたといってもこちらは絵ではなく文章なのだが、わたしは彼の大作についてちょっとおかしな感想を持っていたので、さっそく大急ぎで読んでみた。
わたしはゴーギャンという画家が好きである。
ただし彼の描いたタヒチの絵はあまり好きではない。
それでもほかの絵がそれなりの完成度を見せるのに対し、『我々は・・・・・』 はなんか混乱のようなものがうかがえる。
この絵は生まれてから死ぬまでの人間の人生がテーマらしいけど、そんなへ理屈抜きに全体をながめると、混迷と無秩序みたいなものしか感じられないのである。
わたしの持っているのが安い画集なのがいけないのか、南海の理想郷にしちゃ明るさがないし、これがゴーギャンの到達点としたら悲しいなァと思う。
もちろん現実にはタヒチはけっして理想郷ではなかった。
それはゴーギャンにもすぐにわかったはずである。
「ノア・ノア」 は彼の最初のタヒチ体験記なので、島での生活や交遊関係、島の神話についての記述などがあるだけで、少なくともこの本からは、『我々は・・・・・』 という絵から受ける混乱の原因は見つからない。
ウームと、岩波文庫と安い画集だけじゃいくら考えてもわかりそうにないから、あとはやっぱり現物を観るっきゃないようである。
現物を観れば、これはきわめて健全でほがらかな芸術作品であると、ひょっとして感想が180度ひっくり返るかもしれない。
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2009年7月27日 (月)
知り合いに奇妙な経歴をもった女性がいる。
詳しいことは書かないけど、創作活動にたずさわる、芸術家のひとりといっていい人である。
彼女はグレン・グールドが好きなようなので、わたしの持っているグールドのDVD映像を貸してやった。
ついでに、やはり持っていたライプチヒ・バレエ団の公演をとらえた映像も。
この女性の創作活動というのは、人形浄瑠璃の現代版というべきものだそうで、それならまんざら演劇に関係ないものでもないから、彼女はきっとバレエにも興味があるだろうと、これはわたしの勝手な想像だけど。
ライプチヒ・パレエ団について、ブログでなにか書きたかったわたしにとってもいい機会だ。
わたしが持っていたライプチヒ・バレエ団の映像は、2005年6月の公演のもので、亡くなった演出家ウーヴェ・ショルツにささげられたものである。
わたしはバレエの歴史や理論に詳しいわけでもないけど、まあ、一種の現代バレエなんだろう。
映像の中に黒い衣裳の3人のダンサーが、静かなピアノ曲にあわせて、まるであやつり人形のように、一見ぎこちないダンスを踊るシーンがある。
ダンサーはそれぞれが勝手に踊っているように見え、ときどきそのうちのひとりがピタリと静止する。
それでも他の2人は踊り続け、舞台から消えたり静止したりを交互に繰り返す。
ダンスそのものがひとつの小さな音楽を見るようだ。
べつにライプチヒ・バレエ団に特別な興味があったわけじゃないんだけど、たまたまテレビで放映されたものを録画しておいたら、その中にこの映像があったというわけだ。
いまではこれはわたしの宝物のひとつである。
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友人に誘われて 「いま新疆ウイグル自治区でなにが起こっているか」 というセミナーに参加してきた。
以前チベットに関する似たようなセミナーに参加したことがあるけど、参加者全員が中国はケシカランの大合唱で、それも根拠が自分たちに都合のよい事件ばかり採用したあげくのものだったので、まるでカルト宗教の集まりのように感じたことがある。
今回も似たようなものである可能性が高いので、正直いって参加は気が重かった。
それでも、相手の言い分にも耳をかたむけるという自分の立場を証明するために、不承不承出かけてみたのである。
たまたま昨日の朝日新聞で、世界ウイグル会議主席のラビア・カーディルさんという人が発言していた。
この人の置かれた立場からすればその発言内容はやむを得ないものだろうけど、客観的第3者のわたしからすると、ちょっと偏向しすぎていて理解しにくい発言といわざるをえない。
漢族とウイグルの民族間の憎悪は、わたしはじっさいに現地まで出かけて見てきたくらいだから理解できるが、中国政府が少数民族を弾圧ばかりしているというのは言いすぎだと思う。
改革開放以前の中国は、現在の北朝鮮のようなところがあって、国家による犯罪行為のようなものもあったようだけど、現在の中国はなんとかして米国なみの自由な先進国になろうと努力している。
そうではないという人もいるだろうけど、しばらく前には中国共産党の幹部でさえ、共産党に未来はないなどと言いきっていたくらいだ。
教育やインターネットの普及がすすめば、一党独裁など存続できるはずがないし、現実にいまの中国はそれが崩壊する方向に進んでいるようにみえる。
個人的には、なんとか国をまとめたまま軟着陸をはかる中国政府を、もうすこし長い目で見守るべきだというのが、わたしの立場である。
配られたパンフレット、セミナーの講師さんたちの発言、そうしたものを読んだり聞いたりしているうち、だんだんわたしは頭に血がのぼってきた。
講師のひとりが聴衆に向かって、若い参加者もいることを嬉しく思いますと発言していたけど、わたしは世界中でいかに大勢の若者がカルト宗教の影響を受けていることかと、暗澹たる思いにかられないわけにいかない。
それでも手にしたペットボトルを投げつけなかったのは、たんにわたしにそんな勇気がなかったからだけど、そういえばカルト宗教に毒された人の目をさまさせるのは、家族にさえむずかしいことなのである。
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2009年7月26日 (日)
土曜日は友人に誘われて、新宿で開かれた沖縄のエイサー祭りを見物にいってきた。
ぜんぜん知らなかったけど、今年でもう8回目になるお祭りだそうだ。
去年の夏に沖縄に出かけて、国頭村 (くにがみそん) の大綱引きを見てきたばかりのわたしにとって、その関係者との1年ぶりの邂逅でもある。
エイサーとは沖縄の伝統的な盆踊りだそうで、太鼓やかけ声の入る勇壮なものである。
それが新宿の歩行者天国いっぱいに展開して、たまたま沖縄本土のような暑い日だったけど、おおいに楽しめた。
そのうえ帰りに沖縄特産のやぶきた茶をいただいてしまった。
おまけに安室奈美恵ちゃんみたいな沖縄美人の写真まで撮らせてもらってしまった。
だから言うわけじゃないけど、亜熱帯の美しい海だけが沖縄じゃない。
今でこそ写真や映像でおなじみだけど、バンダナや変わった頭巾、独特の脚半など、日本の伝統的衣装とはまったく異なるいでたちの踊り子たちを見ていると、沖縄には日本本土とはまったく異質の文化、文明があったことを確信しないわけにいかない。
勇壮な太鼓のひびきも、21世紀の今日に、琉球という国家がゆうやく自分たちの存在を主張しているように聴こえてしまうのである。
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2009年7月24日 (金)
職業作家じゃないんだから、たまにはブログを休んでもいいんだけど、書きたいこと言いたいこと、いちゃもんつけたいことは山ほどある。
しかし今日はそんなもの書いている時間がないので、なにか10分ぐらいで書けるブログネタはないかと新聞を見る・・・・・・・といいつつ、録画してあった映画を横目でちらほら、晩メシも作らなくちゃいけないし、ホントに10分で終わるのかよ。
金曜日の夕刊は映画の宣伝ばかりだ。
この中に 「バーダー・マインホフのなんとか」 という映画のタイトル。
バーダー・マインホフって聞いたことがあるなあ。
たしかFBIに射殺された米国のギャング団じゃなかったっけと思ったら、ぜんぜん違っていた。
これは西ドイツのテロ組織で、たしか彼らが活躍していたころ “バーダー・マインホフ・ギャング” と官憲から名指しされていたので、30年代に米国を震撼とさせた “バーカー・カービス・ギャング” などと混同していたらしい。
ま、ドイツ赤軍が活躍した70年代も遠くなりにけりだからな。
同じく映画のタイトルで 「クララ・シューマンのなんとか」 というものも。
こちらはすぐにわかった。
ホロヴィッツのピアノで 「クララ・ヴィークの主題による変奏曲」 は、わたしのかっての愛聴曲だったもので。
また聴こうと思ったら、そうでした。
わたしのアナログレコードは全部ひとにやってしまったあとなのでした。
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2009年7月23日 (木)
NHKがシリーズで放映していた 「マネー資本主義」 という番組が終わった。
わたしはこの番組を、録画してまで見続けてきたんだけど、米国の金融関係者や金融工学について語る学者の言い分を聞いていると、カチンとくるところがいっぱい。
なにか書いてやろうと思うけど、腹がたって冷静な意見をまとめられそうにない。
この番組の中でわたしがいちばん納得できたのは、人間のこころをゆたかにする方法を、数式化しようとすることが間違っているという日本の学者の意見だ。
わたしは景気のいいときもわるいときも、金融商品の取り引きなんて、大掛かりな賭博だろうぐらいにしか思わなかったから、そんなものを利用した利殖なんてものに興味もないし、手を出すこともなかった。
こういうご時世だから、おまえはアホかという声も聞こえないじゃないけど、これだってひとつの行き方である。
夏目漱石は貧乏だったけど、あまりお金儲けには興味がなかったようで、「我輩は猫である」 の中に、主人公の苦沙弥先生のところへ、いまは財界人のはしくれになってる教え子がやってきて、しきりに株をすすめる場面が出てくる。
明治の一時期は日本の発展時期と重なり、株をやれば誰でも儲かるような時代だったらしい。
しかし苦沙弥先生は気のない返事しかしない。
苦沙弥先生が漱石の分身であることは周知の事実で、先生の反応は漱石の反応であるといっていいのである。
漱石が株に興味を示さなかったのは、たぶん理屈ではなしに感覚でもって、労働をともなわない金儲けというものに疑問を感じていたからにちがいない。
資本主義でお金を儲けるのがなぜわるい、証券という紙っぺらを右から左へ動かして利益を上げるのが、パソコンをクリックするだけで画面の株を売り買いするのがなぜわるいと聞かれても、いまのわたしに反論をこねくり出すヒマはないけど、明治の知識人がもっていた見識というものには、なにかすがすがしさを感じてしまうのである。
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2009年7月22日 (水)
皆既日蝕については前日のブログに書いたばかりだけど、いよいよ当日になった。
東京でも部分日蝕が見られるそうだけど、わたしの生活サイクルでは、その時間はいつも寝ていることが多い。
部分日蝕ていどで生活サイクルを狂わせることもないんじゃないのと、ぐっすり寝ていたから、世間の大騒ぎにはまったく気がつかなかった。
目をさまして録画してあった実況中継を観る。
悪石島はどうなったのか。
雨が降っている・・・・・・・
どころじゃない。
暴風雨だそうだ。ヒドイ。
大枚をつぎこんで出かけた人にはお気のドクとしかいいようがない。
東京では曇り空だったけど、あちこち雲のあいだから部分日蝕を見られた場所もあったようだ。
雲の間隙をぬってアマチュア天文学者が撮影した日蝕でよければ、熊本のKさんのブログにも写真が載っている。
http://warazouri.cocolog-nifty.com/blog/
積極的に見たかったのに見られなかった人は、皆既日蝕は26年後にまたあるそうだから、それに期待すればいいらしい。
ところでそのときまで生きているとしたら、ポンポンポン (電卓をたたく音)、わたしは××歳になってるよな。
そのときわたしはどこで寝ているんだろう。
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2009年7月21日 (火)
明日の22日は日本の一部の地域で皆既日蝕だそうだ。
わたしも見たいけど、一部の地域まで行く金がない。
無理にお金を工面して出かけても、雨でも降ったらどうなるのか。
なんか現地は大混雑だっていうし、どうせNHKが実況中継をするに決まっているから、ここはおとなしく加入したばかりのデジタル映像で見るにかぎる。
皆既日蝕というのは、地球から見ると太陽と月はほぼ同じ大きさに見えるので、月がぴったりと太陽をおおいかくすところから生じる現象だ。
月と太陽が同じ大きさに見えるというのは、これはじつはめずらしい偶然で、もし同じ大きさでなければ皆既日蝕にならない。美しい金環日蝕もありえない。
長い時間 (宇宙時間) で考えると、引力やチョウセキ力というものの作用で月はしだいに地球から遠ざかっているということなので、将来の月はもっとずっと地球から離れてしまい、見かけの大きさも小さくなってしまうのだそうだ。
人類がそれまで生存しているかどうかわからないけど、そうなったら今回の天文ショーは、うーん、蛇の目日蝕ということにでもなるんだろう。
わたしは科学者じゃないから、生はんかな知識をひけらかすと、世界中の博識家からどんな苦情がまいこむか知れたもんじゃない。
しかしまあ、この程度は一般常識なんじゃあるまいか。
ところで日蝕はずうっと過去にさかのぼって、それがおこった日を計算で割り出すことができる。
そこからおもしろい話がある。
紀元前600年ごろ、西アジアのふたつの国が戦争をした。
ところがある日、日蝕が始まって、なにしろ当時はまだみなさん迷信深い人たちばかりだったから、これを不吉なものと感じた両国は和睦をむすんでそれぞれの国に引き上げた。
計算によると、このころ西アジアで日蝕があったのはBC585年5月28日だそうである。
そういうわけで、このふたつの国が和睦をむすんだ日というのは、歴史上はっきりと日にちのわかる最古の事件なんだそうである。
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2009年7月20日 (月)
連休なのでドライブにでも行くかと考えていたら、例の高速道路千円とかいうやつで、道路が大渋滞だそうだ。
ビビっちゃってドライブは中止。
ほかにアテもないので、電車で開港150年祭の横浜に行ってきた。
民主党が政権をとったら高速道路はタダだというけど、せっかくつけたETCはどうなっちゃうのかしら。
若いころ横須賀に住んだことのあるわたしにとって、横浜は思い出のたくさんあるところである。
しかし、じつは山下公園や大桟橋など、若くなくなってからいちども行ったおぼえがない。
みなとみらいは仕事で10年ぐらい前にいちどぶらついたことがあるけど、高層ビルの乱立した都市なんかに興味はないので、2度と行きたいと思わずそれっきりである。
今回は、せっかく150年祭なんだからというわけで、お祭りの会場や赤レンガ倉庫なんてところも見てきたけど、感心したのはン十年ぶりかで見た大桟橋だった。
桟橋全体に帆船の甲板のように板がしきつめられ、それがクジラの背中のようにゆるやかに起伏しているのである。
起伏のてっぺんには天然芝の緑地まで作られている。
誰が考えたのかしらないけど、コンクリート舗装なんかに比べると、足の疲れが少ないし、見た目もいいデザインである。
天気のいい日に芝生に寝転がって、出入りする船をながめているのもわるくない。
この日は2隻の帆船と、「ぱしふぃっく・びいなす」 という豪華客船が停泊していた。
豪華客船に乗る金はないけど、船に乗って海を見たいと、若いころ海上自衛隊に入隊してしまったこともあるわたしは、いまでも海を見ているだけで幸せなのである。
大桟橋の中にはレストランやホールもあるそうなので、話のタネにお茶でも飲んでいこうと考えて、スロープになった通路を下ってみた。
スロープの床や外壁もほとんど板張りで、まるでクジラのお腹の中のようにぐにゃぐにゃとゆがんだイメージだ。
コンクリートとガラスの高層ビルに比べると、ずっとホッとするところである。
スロープを下ったところにトイレしかなかったので、そのまま出てきて、そのまま帰ってきてしまった。
それでも大桟橋はもういちど行ってみたいところだと思ってる。
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2009年7月19日 (日)
谷底に小さな吊り橋があって、道はそこで日原川の対岸に移った。
木々の梢やツタかずらが道のまん中にまで出しゃばり、大きなケモノの足あとや、フクロウにでも襲われたのか、カケスの羽毛が散乱している。
どうにも陰険な道である。
谷はどんどん深くなり、日原川はきつい流れの渓流となって、はるか下のほうを流れている。
鼻歌も出なくなってきた。
最近この道を歩いた人はひとりもいないようだったけど、奥多摩工業の採石場は対岸に見えているし、不安ではあるけれどいまさら引き返す気にもなれない。
この先に橋があればいいが、もしなかったら、わたしは永遠に人間社会に復帰できないかもしれない。
わたしがこの日に奥多摩を散策していることは誰にも言ってないから、山中で白骨死体になるまで発見されない可能性だってある。
途方にくれて歩き続けていると、とうとう道が土砂崩れで崩壊しているところへ出てしまった。
ターザンみたいなアクロバットをする気なら通れないこともなさそうだけど、はたしてこの先に道があるのかどうか。
これじゃあもう帰りのバスに間に合わないなと絶望的な気持ちになる。
ところがここで前方の木々をすかしてみると、斜面になにか灰色の石碑のようなものが見えた。
まず頭に浮かんだのは、採石場の殉職者の碑かもしれないということ。
運命のイヤ味だとしたら、ここにきわまれりところだ。
なんとか崩壊部分を越えると、石碑と思ったのは古い廃坑の入口を覆っている鉄の蓋だった。
それでもそこへたどりつくと、道はまだ続いていた。
ホッとしたのもつかの間、この先に目もくらむような吊り橋があって、これを渡らないかぎり人間社会へ復帰することはかなわないようだった。
橋は最近ではまったく使われていないらしく、ところどころ踏み板が腐って落ちていて、下のほうでは白い渓流が岩をかんでいる。
錆びたワイヤーロープにしがみつき、下を見ないようにしておそるおそる橋を渡ると、たどりついた先が奥多摩工業の敷地内で、ここでイヌを連れた人に出会ったのがひさしぶりに見る人間だった。
危険を感じたら引き返すのは山歩きの鉄則だけど、わたしは無謀な前進を続けて、なんとか遭難せずにすんだのである。
ま、運命の分かれ道はどっちに転んでもたわいないものだったようだけど。
バス停まで行ってみたら、ちょうど向こうからバスがやってくるのが見えた。
わたしが遭難しかけた山歩きのてんまつは以上のようなものだ。
トムラウシの大量遭難は悲劇だけど、わたしが日原街道のわきで遭難して、帰りのバスに乗り遅れたら、友人らはみんな喜劇であるとしか思わないだろう。
笑いものにならずヨカッタ。
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北海道のトムラウシで登山者の大量遭難死。
トムラウシといえば深田久弥の 「日本百名山」 にも数えられている有名な山だけど、現在では、まして7月の登山では、それほど危険な山とは思えない。
わたしも山は好きだけど、ベテランというほどのもんでもないから、この遭難について、装備が足りなかったとか、夏山をあまく見てとか、エラそうなことは言わないことにする。
遭難者にはどこかに運命の分かれ道があって、たまたま不運な道に踏み出してしまったということだろう。
わたしの友人には馬鹿者が多くて、山の中で道にまよって2日間ばかり同じところをぐるぐるまわっていたなんてのがいるけど、わたしは単独登山の愛好者で、頼れるものは自分ひとりという認識をつねに失わないから、地図なども丸暗記できるくらい研究してから登ることにしている。
そういうわけで迷子になるなんてことはあまりないけど、いちどだけ奥多摩で遭難?しかけたことがある。
その日、日原村あたりをぶらぶらしてから、バス停まで行ってみたら、帰りのバスまでだいぶ時間があるのに気がついた。
そんなら途中のバス停まで歩いちまえ。
そう考えて日原街道をてくてく歩いているうち、奥多摩工業のそばの新しいトンネルにさしかかった。
トンネルの中を排気ガスまみれになって歩くのはイヤだから、トンネルの外側をまわりこむ古い登山道をゆくことにした。
この道は廃道になっていて、立ち入り禁止の看板が出ていたようだけど、日原街道からはなれているわけでもないし、天気はうららか、風もない絶好のハイク日和だったので、看板は無視することにしたのである。
まもなく人間のこぶし大の砕石が山の斜面を埋め尽くしている場所へさしかかった。
横切るのは簡単そうだったけど、万一なにかのはずみで石がガラガラと崩れ始めたら、わたしは谷底の日原川まで押し流されて、そこで生き埋めになるかもしれない。
運命の分かれ道ってのはこういうところを言うのかも。
それまでのわたしの運命はそれほど幸運なものでもないみたいだったけど、まあいいやと、運を天にまかせて、冷や汗をかきながらそこを越す。
こんなガレ場が2カ所ほどあったけど、さいわい無事に通過してさらに前進すると、道はしだいに日原川の流れる谷底へ下りていくではないか。
しかしこのあたりの日原川はささやかな細流であるし、川づたいに下っていけば奥多摩町に出ることもわかっていたから、まだまだ悩んだり心配したりすることはなかった。
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2009年7月18日 (土)
今夜は調布の花火大会。
わが家から会場まで、自転車でもあればほんのちょいの距離なので、何年かまえにじっさいに多摩川まで見にいったことがあるけど、だいたい人ごみのキライなわたしが無理して会場までいく必要はないのである。
花火はわが家のベランダからも見えるし、ちょっと庭の木がじゃまだというなら、となりにあるグランドへ出てみるテもある。
そういうわけでグランドで撮った花火の写真がこれ。
花火の写真は、ネット上に傑作がごまんとあるけど、わたしがお見せするのは、そういう素晴らしい写真じゃない。
傑作を撮りたくてもコンパクトカメラじゃたいして期待できるわけでもないし。
幼いころの郷愁をさそう絵をたくさん描いた谷内六郎さんの作品に 「音のない遠い花火」 という絵がある。
山の向こうの遠い花火を見ていると、音は大気中で消えて花火だけが見えるという説明がついている。
わたしの写真は、そんな素朴でなつかしい花火のつもりである。
グランドには浴衣を着た子供たちもたくさん見物に来ていた。
今夜の花火は谷内六郎さんの絵のように、子供たちにとっていつかきっと、郷愁をさそうなつかしい思い出になるのだろう。
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わたしの視線はトッテモ強力らしい (それがいいことか悪いことかは、このブログ記事を終りまで読むとわかる)。
人ごみの中で、相手に悟られないようにさりげなく見つめているつもりなのに、見られている相手には気になるらしく、ふと見返されたりすることがよくある。
ひどいときは後ろから見ているのに相手がふりかえることもある。
先日は車の運転中、信号待ちで停まったら目の前の歩道をミニスカートのかわいい女の子が通った。
おっ、ステキだなあとじっと見つめていたら、その子が歩きながらぎろっとわたしをにらんだ。
車の中からでさえ、わたしの視線は彼女に感ずかれるくらい強力らしかった。
彼女の目は無言のうちにこう語っていた。
「いやらしい目で見てんじゃねえよ。 このスケベおやじ!」
いやはや最近の若い娘は、ひとのこころの中まで見通すらしい。 スイマセン。
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2009年7月17日 (金)
15日に 「風」 というブログ記事を書いたけど、そのときどういう連想からか、とつぜんラフマニノフのピアノ協奏曲第3番が聴きたくなった。
とはいうものの、わたしのアナログレコードは全部人にやってしまって、もう手もとにないのである。
聴きたくなるともういてもたってもというクチなので、やむをえずネット通販でCDを買ってしまった。
ラフマニノフの協奏曲第3番は数えきれないくらいCDが出ているけど、ついなつかしくなって、買ったのはホロヴィッツとフリッツ・ライナーの盤。
これはアナログレコードの時代にわたしが初めて買ったラフマニノフで、1951年録音のモノラル盤だけど、当時いろいろ調べてみたら、これが評論家のあいだでいちばん評判がよかった。
どこがよかったのかと聞かれると、音楽理論にサッパリのわたしは説明に窮してしまうけど、彼女にふられてひとり書斎で煩悶しているような雰囲気と、みんな世間がわるい、オレはわるくないと怒りをたたきつけるような感じが交互にあらわれる (とでもいっておくか)、とにかくすてきな曲だった。
あまりすてきだったので、慌てて、今度はユージン・オーマンディの指揮するホロヴィッツの同じ協奏曲を買ってしまったくらいである。
第二楽章の冒頭に、、まるでロシアの大地を思わせるような、ゆるやかな旋律の流れる部分がある。
この部分にかぎれば、わたしはユージン・オーマンディ盤のほうが好きなのだが、どうも 「風」 とラフマニノフを連想づけたのはこのあたりらしい。
添付した画像は、左ラフマニノフ、右のふざけているおじいさんがホロヴィッツ。
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2009年7月16日 (木)
わたしみたいな者のブログでも読んでいる人がいるとみえる。
たまには反響がないとつまらないけど、コメント書くならできるだけ冷静に願いたいね。
マイナーな言語にしているのは中国政府のウイグル語絶滅政策。
例えば中国には基本的にはウイグル語で教育する大学は存在しない。すべて北京語だけだ。
それ以上に露骨なのは、中国政府はウイグル人の子供を親から隔離して、漢族に育てさせることにより無理やりに北京語だけで生活させ、ウイグル語を学ぶ機会をなくしている。
要するに中国はウイグル語・ウイグル文化を絶滅させようとしているのだ。
前項のブログ記事についた 「やまかわ」 さんという人のコメントだけど、ウイグル語は国際的にはマイナーだと書いたら、マイナーにしているのは中国政府だときた。
じつはわたしは国際言語なんてものの定義をしらないので、ただ一般的な意味で言っているんだけど、かりに東トルキスタンが中国からずっと独立したままだったら、いまごろは、たとえば日本語などをさしおいて、ウイグル語が国際語になっていたんだろうか。
わたしは少数民族の言語絶滅政策なんてもんがあるのかどうかも知らないけど、すくなくともわたしが新疆を旅した1997年から2002年ごろは、大半のウイグルはウイグル語を使っていた。
本屋に行ってみたら、ワンフロアがそっくりアラビア文字の本ばかりで、装丁がすてきだったので、ひとつ買ってきたかったくらいだ。
中国には基本的にはウイグル語で勉強する大学は存在しないそうだけど、それはたぶんその通りだろう。
中国は多民族国家なので、ウイグル語の大学、チベット語の大学、モンゴル語の大学、もっと少数の民族のための大学をすべて作るわけにもいくまいし、中国をひとつにまとめようとしたら、やはり基本的には北京語の大学へ行くようにとなるのは仕方がないことだろう。
この点では民主主義の優等生とされる米国も同じことじゃないかねえ。
米国で高学歴や高い社会的地位を得ようと思ったら、白人、黒人、アジア人、どんな国の出身者でも、基本的に英語をマスターしなければならないでしょ。
だからこれだけで、中国政府が少数民族の言語を絶滅させようとしていると断定するのはオカシイと思う。
中国政府はウイグルの子供を親から隔離し、北京語だけで生活させ、ウイグル語を学べないようにしているそうだけど、ホントにすべてのウイグルの子供を隔離しているのかね。
これを政策としてやるためには、徹底的に、そうとう大規模にやらなければ意味がないだろうけど、インターネット大国の中国であまり聞いたことのない情報だなあ。
ひょっとすると、ウイグルの優秀な子供を選抜して、特別な教育を受けさせているってことじゃないかね。
そうだとすれば、その教育がたまたま北京語だったとしても、選ばれた子供にとって不幸な出来事だろうか。
頑固なイスラム教のもとで、グローバルという言葉の意味も知らず、砂漠の農耕民族として一生を送ることとどっちがいいだろう。
わたしは確信しているけど、北京語で教育を受けたくらいでウイグルのアイデンティティが失われることはないだろうし、将来東トルキスタンが独立することがあれば、そうやって教育を受けたウイグルの子供たちが国を背負う人材になるだろう。
ちょうどかっての日本がアジアで行った (そして挫折した) 教育政策を、今度は中国がそっくりなぞることになるんだろうなと思っているよ。
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2009年7月15日 (水)
また新聞が新疆ウイグル自治区についてステレオタイプの記事を書いている。
中国の味方をする気はないと何度もことわるけど、あまり無神経な記事には腹がたつ。
今朝の新聞にこんな記事が・・・・・・
ウルムチ市の西部にあるウイグル族の住む貧困地域と、その背後にそびえる漢族の高層ビル街を対照させて、ウイグルと漢族の経済格差はかくもひどいとあった。
ウイグル族は仕事もろくにない悲惨な生活を強いられ、不平不満をつのらせているという。
じつはこうした古い住宅地域は、蘭州や西寧などを旅していて、わたしもあちこちで目にした。
土で作られた民家とせまい路地が迷路のように入り組んでおり、映画や小説に登場するカスバみたいなので、わたしも大きな興味をもって、わざわざ写真を撮るためにそうした地域をブラついたことがある。
しかしこうした格差は中国政府の民族政策のゆえだろうか。
わたしの知っているかぎり、中国政府が少数民族を不平等な待遇においている事実はない。
中国政府はむしろ少数民族にひじょうに気をつかっていて、さまざまな優遇政策をとっているはずである。
ただ、親のこころ子知らずで、新疆に乗り込む漢族の中には、一攫千金を求める山師のような人間が多いことは事実だ。
彼らがウイグル人のこころを逆なでしていることは十分にありうるだろう。
そうしたアホな個人はさておいて、ウイグルがまずしいのには理由がいくつか考えられる。
たとえば上海にある国際企業がウルムチに進出したとする。
この企業で働くためには中国語 (漢族の言葉) や英語が不可欠だ。
利にさとい漢族なら、こういう企業で働くために必死になって英語をマスターするだろう。
しかしウイグルにかぎらないけど、一般にイスラム圏の住民は英語の習得に不熱心だ。
漢族のあいだでは英語がブームになったことがあるけど、ウイグルのあいだでそれがブームになったことがあるだろうか。
ウイグルの言語は歴史のあるものだと思うけど、残念ながら国際的にはマイナーな言語なのである。
中国語や英語がわからなければ国際企業で働くことはできない。
グローバルということを理解しなければ現代社会で通用しないのに、そうしたことに関心をもたないのではいつになっても貧しいままだ。
イスラムの文化や宗教に敬意を表するけど、それに縛られてばかりいるのではなく、もうすこし柔軟な考えを選択しないといけないのではないか。
貧しいまま不満をつのらせていたのでは、原理主義者たちにつけこまれるだけである。
わたしはウイグルの人々が好きなので、こういうことを彼らのために言いたいのである。
また新聞も少数民族に同情しているようにみせて、じつは反感をあおるようないいかげんな記事を書くべきではない。
え、朝日新聞。おまえのことだよ。
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まだ青い稲田の上をさらさらと風がわたってゆく。
わたしは風を見るのが好きである。
風が目で見えるのかと疑問をさしはさむ向きには、いまの季節の田んぼに行ってみればよいと答えておく。
田んぼでなくてもいい。草原でも海の表面でもいい。風を見ることのできる場所はけっこう多いのである。
宮沢賢治の「風の又三郎」の中に、風を擬人化したすばらしい文章がある。
嘉助という少年が山の中で道にまよい、霧にまかれる場面である。
風がススキの穂をゆらし、草の葉からしずくのおちる音が聞こえてくる。
そこで賢治はこう書くのである。
風が来ると、すすきの穂は細いたくさんの手をいっぱいのばして、忙しく振って、
「あ、西さん、あ、東さん、あ、西さん、あ、南さん、あ、西さん」なんて言っているようでした。
不安にかられる少年を無視して、ススキがざわざわと風にゆれているようすを、詩人でもある宮沢賢治はみごとに擬人化している。
わたしは詩人でも童話作家でもないから、なかなかこんなふうなすばらしい表現はできないけど、稲田の上をわたってゆく風を見ていると、いろいろもの思うことがある。
現在のわたしたちが失ったものはたくさんあるけど、この風だけは、大昔の、自然が自然のまんまであったころから、やはり草木をゆらして通り過ぎていたにちがいない。
人間が稲という植物を育てはじめた弥生時代、やはりわたしのような人間が、ぼんやりと、田んぼのふちで風をながめていただろうと思ってしまうのである。
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2009年7月14日 (火)
このブログで取り上げるには遅きに失した感があるけど、わが大沢村は新撰組のふるさとである。
わたしの散歩コースのとちゅうに龍源寺というお寺があって、ここに新撰組の局長・近藤勇の墓がある。
近藤勇について書かれた書物は多いので、その世間の評価もおおむね定まっているようだけど、しかし、しかしヘソ曲がりのわたしは世間の評価というのがキライである。
真実はヘソ曲りにしかわからないものなのだ。
近藤勇はほんとうに冷徹剛勇でならした佐幕派の侍だったのだろうか。
同じ新撰組で副長を務めた土方歳三は函館の五稜郭で討ち死にしたけど、勇のほうは流山で捕らわれて板橋で斬首された。
京都で薩長の志士たちの屍をきずいた新撰組は、薩長連合の官軍(わたしはこっちのほうが賊軍ではなかったかと思うことがよくある)による最大のお尋ね者で、つかまれば処刑されることはまず間違いなかった。
それを心得ていた土方歳三は捕縛されるよりも散華するほうをえらんだが、勇はおめおめ捕縛され、しかもものの本によるとそのとき偽名を語っていたともある。
しらばっくれていればわからないと思っていたのだろうか。
どうも剛勇の侍にしてはみっともない。
江戸城明け渡しのさいにも、新撰組なんかが江戸にいたのでは無血開城のさまたげになるという勝海舟のはかりごとで、軍資金を渡されて体よく江戸を厄介払いさせられ、しかもその軍資金を派手に呑んでパアッと使ってしまい、けっきょくどこにも行きようがなく、あとは落ち目の王将、ひたすら関東という盤上を逃げまわるだけ。
このていたらくを見ていると、腕っぷしは強いし、それなりチームをまとめる器量はあったかもしれないが、けっきょくそれ以上でもないし以下でもない、体育会系の親分みたいなヒトといった感じに思えてしまうのである。
わたしがヘソ曲りすぎるのか、それとも近藤勇の末路にはべつの理由があったのか、そのへんはよくわからないけど、歴史というのはちょっと視点を変えるだけで、ぜんぜん別のお話になってしまうものである。
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2009年7月13日 (月)
目をさましたらなにやらにぎやか。
都議選だけど、まるで国政選挙みたいな騒ぎ。
混乱自民党にきついお灸をすえようという民意はいちおう達せられたようだ。
シロート政治家集団の民主党じゃ、いつまたひっくり返されるかわからしまへん。
勝って兜の緒をしめなはれ。
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2009年7月12日 (日)
武蔵境と三鷹をむすぶ線路のわきを歩いていて、電車庫のあたりにさしかかったら、いっしょに歩いていた知り合いが、ここの跨線橋は三鷹市の名所なんだと教えてくれた。
三鷹駅近くの古くからある跨線橋だけど、幼児を連れた母親などがその上で通り過ぎる列車をながめていると、車掌が手をふってくれたり、パォーンと警笛を鳴らしてくれるのだそうだ。
なるほど、わたしが跨線橋に登ったとき、たまたま幼児と母親がいて、列車が警笛を鳴らして通りすぎた。
素朴で人間味の感じられる光景であるなと感心した。
この跨線橋にはこの近くに住んでいた太宰治も子供を連れてよく通っていたそうで、橋のたもとにそれについて書かれたプレートが設置されている。
遠いむかし、永島慎二だったか、宮谷一彦だったか、誰だったかはっきり記憶してないんだけど、抒情ゆたかな作品を描くマンガ家がいて、その作品の中にこの跨線橋が出てきた。
永島慎二もわたしに精神的影響を与えた作家のひとりだけど、すでに故人だ。
おぼろな記憶はさておいて、この橋の上で人生についてさまざまに煩悶した若者は多いんじゃないだろうか。
ちょうどたそがれ時だったのでよけいそんなことを考えてしまった。
たそがれ時だとなんでよけいそんなことを考えるのか?
理屈っぽいねえ、キミ。
人間がいちばん感傷的になるのが夕暮れ時だってことサ。
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2009年7月11日 (土)
この写真をよく見てほしい。
花にピントが合っていて、背景はいくらかぼけている(写真をクリックすると拡大写真になります)。
こうやって対象をきわだたせることを、写真の世界では被写界深度を浅くするという。
写真を撮るとき、プロの写真家ならかならず考慮する大切なテクニックである。
背景をどのくらいぼかすか、被写界深度をどのていどにするかは、ふつうは絞りの開閉で調整する。
ところでわたしがブログに載せる写真は、ほとんど某社製のコンパクトカメラで撮っている。
これはオートカメラで、絞りは手動で開閉できないのである。
厳密にいえば、撮影モードを「花を撮る」とか「動きのあるものを撮る」とか変えることによって、いくらかは調整できるらしいけど、わたしはそんな女の子向けみたいな機能は使ったことがない。
ちょっと写真に詳しい人ならだれでも知っていることだけど、オートカメラでも絞りを調整し、被写界深度を加減する方法はいくつかあるのである。
ズームレンズつきカメラならできるだけレンズの望遠側を使うこと、対象にできるだけ近づいて撮ること、朝とか夕方とか光のとぼしい時間に撮ることなど。
最後の方法はいつでも応用ってワケにはいかないけど、はじめの2つはどこでも簡単に応用できるテクニックである。
慣れてくればこの2つの組み合わせで、背景をどのくらいぼかすか自由に決められるようになる。
この写真や、6月17日のアジサイの写真は、そうやって撮ったものである。
老婆心ながら、この方法をこころえていれば、コンパクトカメラしか持ってないアナタも、明日からプロなみの写真?を撮れることになるのである。
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テレビで 「キング・アーサー」 という映画を放映した。
最近の歴史劇らしいので、たいして期待もしないで観るとはなしに観ていたら、なんかやけに騎士という言葉が出てくる。
あ、そうか。 アーサー王と円卓の騎士のことかと思い当った。
出てくる役者がみんな不精ヒゲの悪党づらなので、最初はどれが主人公だかわからない。
ようやくアレがそうらしいとわかった役者が、ひとりだけやたらにヒューマニズムをふりまわすので、もうそれだけでロクな映画でないことが明白。
全体に暗い色調の画面から、CGを多用してるんだろうなあと思ってしまう。
ところで 「アーサー王と円卓の騎士」 ってなんだっけ。
名前は知っていたけど読んだことがないもんで、シェークスピアの劇か、伝説なのか実在の人物か、実在としたらヘンリー8世の親戚かなんかか、それとも誰かの小説だったっけかと悩む。
調べてみたら、もともとは5、6世紀ごろの、半分伝説の人らしい。
騎士というと十字軍や百年戦争のころの印象なので、そんな古い時代に騎士なんていたのかいとまた悩む。
冒頭では主人公がローマ時代の武将のいでたち (ベン・ハーやクレオパトラの時代だ) で登場するので、ま、かなり古そう。
これに対抗する勢力は、かっこうからして北欧のバイキングみたいである。
サクソン人だそうだけど、勉強したことがないから、それがどこの国の人たちなのかもよくわからない。
最後の大規模な戦闘シーンでは、これにアマゾネス軍団みたいなのも加わって、もう何がなんだかさっぱり。
原因はブログの更新なんかやりながら、ときどき横目でちらちらとながめる不真面目なテレビ鑑賞方法にもよるけど。
ストーリーもよくわからないまま観終わって、この映画は歴史劇じゃなく、「ハリポタ」 と同様の荒唐無稽なファンタジーじゃないのかとまた思い悩む。
最近の若いもんはこういう映画が好きなのかねえ。
騎士の物語じゃ、わたしゃヘストン主演の 「エル・シド」 なんて映画のほうがいいけど。
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2009年7月10日 (金)
えいやっと、わが家の近所の魑魅魍魎たちを3つまとめて紹介しちまう。
虫や爬虫類のキライな人は、手で顔をおおって指のあいだからそっと見ること。
いちばん上はスッポン大王だ。
なにを食ってこんなに大きく育ったのか知らんけど、まわりのスッポンたちがふつうのイシガメぐらいの大きさだから、大王は座布団サイズ。
2番目は自分より大きなクモをつかまえたベッコウバチで、こちらさんは狩人バチとして知られている。
クモもだいぶ乱暴なやつとして知られているけど、このハチにあったらライオンに襲われたウシみたいなもん。
中枢神経を破壊されて、これから生きたままハチの幼虫のエサになるのだ。
乱暴者といったら、ヘビでも食べちまう人間がいちばんかもしれないけど、いちばん下は食われてしまうんではないかと草のかげでおびえるシマヘビちゃん。
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2009年7月 9日 (木)

ステレオタイプという言葉がある。
どんな意味かというと、たとえば中国の少数民族の問題を考えるとき、たいていの人がまっ先に考えるのは、中国は強権でもって少数民族を弾圧しているというものだ。
今朝の新聞に典型的な記事があった。
20年も前のことだけど、新疆ウイグル自治区を取材しているとき、こんな光景をしばしば目撃したと記事は書く。
漢族の運転手は車にウイグルを乗せたがらない。
理由はヒツジの肉を常食するウイグルを乗せると車がヒツジ臭くなるからだそうだ。
なるほど。
それじゃ豚肉を常食する漢族を乗せるとどうなるかは、この記事では触れていない。
自治区政府の役人は、仕事でウイグルと組むのは御免だといっていたそうだ。
ウイグルは怠け者で責任感も乏しいからだという。
20年前といえば改革開放がようやく軌道に乗ったころである。
素朴な前近代的生活を続けてきたウイグル人に、いきなり近代的政策を押し付ければモタモタするのは当然で、このことは決してウイグルが怠惰という証明にはなるまい。
こうしたことを並べて、新聞の記事は、漢族の支配者然とした優越意識が鼻についたと書く。
どうもこの記事を書いた記者には、はじめから漢族はウイグルをバカにしている、漢族はウイグルを抑圧しているという先入観があったようだ。
わたしは新疆に何度も出かけて、たしかにウイグルの漢族に対する反感のようなものは肌で感じたけど、それでも大半の人々は文句もいわずに平和に暮らしていた。
愚劣な個人は別にして、政府が組織だってウイグルを差別しているような事実を見つけることもなかった。
20年前はいざ知らず、現在では自治政府内で働くウイグルの数も多いはずである。
ひょっとすると、20年前ではいまさら確認しようがないから、それを最初から計算にいれてこの記事を書いたのか。
現状を公平にながめれば、中国政府は少数民族に対してハレ物にさわるような姿勢でのぞんでいるというのが事実のようにみえる。
今回のウルムチの騒乱に当局は軍隊を繰り出したが、これもウイグルを弾圧するというより、対立する両者のあいだに割って入ったというのが正しい見方だろう。
それなのに新聞記事の最後は、「中国政府が力づくの弾圧で、民族の声を消すことがあってはならない」 と結んでいる。
こういうのをステレオタイプというのである。
20年も前の見聞を持ち出して、結果的に民族間の対立をあおっているようなものだ。
えっ、朝日新聞。おまえのことだよ。
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昨夜テレビで放映された 「プライドと偏見」 は、英国の女流作家ジョイン・オースティンの小説の映画化。
わたしがこの本を読んだのは、すくなくとも30年以上まえである。
そういうわけで詳しい内容はよくおぼえてないんだけど、200年ほどまえのイギリスを舞台にした、何んてことのないお話だったと記憶している。
そういっちゃ身もふたもないけど、激しい恋や劇的な展開があるわけでもなく、結婚だの男のうわさ話だのに明け暮れる、そのへんのいい家の娘たちの物語。
ところがこれがじつにおもしろい。
おもしろいけど、なにしろ何んてことのない小説だから、普通ならわたしの目にとまったかどうか。
この本を読んでみようと考えたのは別の方面からの刺激による。
わたしはサマセット・モームの熱烈なファンである。
このモームは自分で世界の十大小説なんてものを選定していて、その中にオースティンの 「高慢と偏見」 も入っていたのである。
モームが絶賛するくらいだからおもしろいんだろうと、読んでみたら本当におもしろかったというわけ。
日本でも、たとえば最近の女流マンガ家なんかに、おっとりしているようで、平凡な人間の日常を、辛辣な、そしてするどい洞察眼でえぐるような才女がたくさんいるけど、オースティンもそんな感じである。
で、映画は録画しておいたけど、映像がキレイなのはよくわかった。
ただ、文章で読んでおもしろいものを、映画にしてもおもしろいかっていわれると、うーむである。
いま忙しいのでじっくり観るのは後まわしにしよう。
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2009年7月 8日 (水)

シルクロードとして知られる中国の新疆ウイグル自治区がキナくさい。
わたしはそこへ3回も行ってきたことがあるので、あの地にはとくべつな思い入れがある。
ウイグル人にも中国にも肩入れすることなく、自治区が独立して東トルキスタンという単独の国家になった場合を想像してみよう。
東トルキスタンというのは中国に組み込まれるまえのこの土地の名称で、楼蘭を探検したスワン・ヘディンの著書にもそういう名前で出てくる。
住人のほとんどはイスラム教徒のウイグルである。
砂漠の国なので人口は極端に少ないが、天然ガスなどの資源は豊富であるとされる。
どうも地下資源というとイスラム圏にばかり集中しているようだけど、住みにくい砂漠で苦労して生きてきた民族への、神様のささやかな贈り物かも。
そういえば住みやすい日本には温泉ぐらいしか湧かないもんな。
資源が豊富なだけに、東トルキスタンの権力をにぎったものは莫大な富を手にすることができる。
問題はその富が民主的に、公平に、教育や福祉やインフラ整備に使われるかどうかだ。
ウイグル人は素朴な農耕民族だけど、他のイスラム国のように、部族の長や宗教指導者に率いられる部落社会である。
国際的に通用する民主主義がどんなものか、きちんと理解しているかと訊かれるとちょっとこころもとない。

今回の暴動事件の舞台となったウルムチという街の周辺には、ウイグル以外の民族も住んでいる。
わたしもじっさいに見てきたが、たとえばカザフやキルギス、回族などがいる。
カザフとウイグルはひじょうに仲がわるい。
東トルキスタンの指導者がもしウイグル人なら、カザフを公平に扱うかどうか。
他の民族のために富を公平に配分するかどうかってことになるけど、わたしにはあまり期待できないような気がする。
チベットにはダライ・ラマというカリスマ的指導者がいるけど、ウイグルにはそんな強力な指導者はいないので、独立のあと、権力、すなわち富をめぐって熾烈な争いが起こりそうな気がしてならないのである。
熾烈な争いはとうぜん、他の民族をまきこむ血なまぐさいものになるだろう。
民族浄化とまでは行かないとしても、サダム・フセインのような独裁者が、力づくで国内を抑え込まないかぎり収まりがつかないのではないか。
しかもまずいことに、この国はタリバンやアルカイダといった、テロリストを多くかかえるアフガニスタンに接している。
東トルキスタンが混乱すれば、多くのテロリストに絶好の活躍場所を与えることになる。
だから本音では、国際社会はけっしてこの国の独立を支持しないだろうし、残念だけど、素朴で愛すべきウイグルの人々にとって、バラ色の未来どころか、現在よりましな社会さえ来るとは、わたしにはちょっと考えにくいのである。
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2009年7月 7日 (火)
ヘビ嫌いの人にとっちゃ申し訳ないけど、ここんところヘビの話題が多いみたいである。
散歩道でヘビの抜けガラを見つけた。
ヘビというのは暑いと、いえ、暑くなくても、ときどきは皮を脱いじゃうのよね(このジョークは以前にも使ったような気がする)。
抜けガラをじっと観察すると、目ン玉の表面までずるりとぬいじゃっている。
人間もこうやって老化した皮膚をぬいで若返れればイイナと思う。
脱いだあとのさっぱりした中身のほうも紹介しとこう。
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2009年7月 6日 (月)

映画を観てきた。日本映画で 「剣岳・点の記」 という映画。
鳴りもの入りの日本映画にロクなものはないというのが相場だけど、この映画は登山をテーマにした映画で、日本アルプスの風景がたっぷり出てくるというから、山好きのわたしの関心をひいたのである。
じつはわたしも剣岳 (つるぎだけ) には登ったことがあって、ここに掲げた写真はそのときわたしが撮ったもの。
映画はユーモアのかけらもなし、優等生が撮ったような固っ苦しいものだったけど、期待通り、山の映像のすばらしい映画だった。
オーソドックスなカメラワークも、せせっこましいCG映画ばかりの昨今では、むしろ好ましかった。
剣岳の初登頂は、ある人物をのぞけば、明治時代の日本陸軍内の陸地測量部によるとされている。
陸地測量部の登山は、正確な日本地図作成のため、山頂に三角点を置くためのもので、日本の名だたる山のほとんどは、民間の登山ブームがまきおこった大正時代には、すでに測量部によって登り尽くされていたようである。
「点の記」は、最後に残った地図の空白部分 (剣岳山頂) に三角点をきずこうとする陸地測量部の困難な闘いを描いている。
それだけじゃまじめすぎて映画にならないと考えたのか、測量部と初登頂を競う、出来たばかりの日本山岳会も登場する。
映画の中で道楽息子たちのお遊び登山と揶揄されている山岳会だけど、このリーダーの名前が最後になって小島烏水であることがわかった。
日本山岳史の黎明期に知られた登山家であり、また紀行作家である。
もちろんわたしは彼の本も読んでいる、なんてことはどうでもいいけど、「点の記」 の原作は山岳小説をたくさん書いた新田次郎である。
わたしはこの原作を読んでないのでわからないが、剣岳の初登頂をめぐって測量部と山岳会が競ったという事実は初耳だ。
ただ初登頂を競うという似たような事件は槍ヶ岳の北鎌尾根でじっさいにあり、映画ではドラマを盛り上げるためにそのあたりを粉飾したのではないかという気もする。
そもそも測量部の登山は純粋に地図作成という公務のためのものであって、民間の登山者に勝とうが負けようが関係ない。
負けるなとか、負けたのがケシカランと、陸軍軍人が大声でわめきちらすのは悪しき日本映画の伝統通り。
映画では測量部は山岳会に競り勝つのだが、“ある人物”には負けた。
測量部がようやく山頂に到達したとき、そこに古い時代の錫杖の頭を発見したのである。
やはり有名な山岳紀行作家の深田久弥によると
『古来登山者絶無と見なされていたこの峻険な山に、誰か勇猛果敢な坊さんが登っていたのである』 ということになる。
わたしは見たことがないけど、この錫杖の頭は、いまでも富山県にある立山博物館に行けば見られるという。
そんな剣岳も、いまでは危険な個所にクサリ場などが設けられ、誰でも容易に登れる山になった。
わたしが登ったとき、山頂は歩行者天国のようなにぎわいだった。
「点の記」を観て、そのおりの美しい北アルプスの風景がよみがえってきた。
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2009年7月 5日 (日)
ブログを観たり新聞の投稿欄を読んだりすると、あいかわらず、小泉元総理が改革なんかやったから、こんな時代になったという意見が多い。
わたしは変人同盟の会員だから、同じ変人の彼に肩入れする。
景気がいいときには政治家は改革を断行しなければならない。
これは逆説的に聞こえるかもしれないけど、景気がいまのように惨憺たるものになったら、当面の景気をなんとかしなくちゃいけないから、赤字国債でもなんでも乱発して、改革どころじゃないということになってしまう。
だから景気がよくて税収もタップリというときにこそ、政治家は将来をにらんで、日本の場合なら積もり積もった赤字をなんとかしなければならないと考えるべきなのだ。
そういうわけでわたしは小泉クンがやった改革を責める気にはなれない。
規制緩和にせよ、郵政民営化にせよ、みんな日本の赤字をなんとかしようという考えが基本にあったはずだから。
ただ、こんな未曽有の不景気が来るとは、彼もだれも想像してなかっただろう。
不景気なときには政治家はまたべつの対処を考えるべきで (現総理にできるかどうかは定かじゃないが)、現在の不景気の原因はむかしの総理がと安易にいうのはアンフェアである。
郵政民営化についてまじめに考えてみてほしい。
郵政省の特定郵便局長で組織する政治団体は、ずっと自民党にとってオイシイ票田であり続けた。
それを敵にまわしてを民営化を断行することに、(自民党議員である小泉クンにとって) いったいどんなメリットがあったのか。
国民の財産を投げ売りしたといったのは鳩山 (弟) クンだけど、同じことを言う人もいる。
そういう人にお尋ねしたい。
赤字を垂れ流しにしている 「かんぽの宿」 のような施設をほうっておけというのか。
続投を決めた西川社長個人に対する誹謗中傷はさておくけど、「かんぽの宿」 は破たん企業も同然で、売り手が売値を決められるようなものではなかった。
こちらからお願いして買い取ってもらうような状態だったのである。
ひとつかふたつは黒字の宿もあったかもしれないが、それだけは売らないといったのではムシがよすぎるし、そもそも商ルールに反するのではないか。
民主党であれ共産党であれ、その他の野党すべからくは、むしろ小泉クンのしたことを支持すべきで、それが国民の未来のために、また自民党全体への攻撃にもなることをわかっていないようだ。
小泉クンには日本の将来をにらんだ明確なビジョンがあったと思う。
変人の彼だからこそ、自民党の反対を押し切ってまでさまざまな改革を断行できた。
金融危機でそれがもとの黙阿弥になり、わたしたちは子供たちにふたたび赤字どっぷりの未来しか用意できなくなったしたら、かえすがえすも無念としか言いようがない。
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2009年7月 3日 (金)
散歩道では背丈ほどものびた雑草の刈り取りが始まっている。
水のうえには早くもシオカラトンボが飛び始めた。
わが家の近所では例年通りの季節の変化を見ることができるけど、新聞にはときどき気になる記事も。
ほとんどの人が気がつかないけど、今年はミツバチの数が少ないんだそうだ。
今朝の新聞の投稿欄には、野菜にたかる害虫も少ないという投書が載っていた。
害虫が少ないのはけっこうなことじゃないかという人もいるかもしれないけど、害虫というのは人間が勝手に決めつけたことで、虫にしてみれば天然自然のままにエサの野菜をかじっているにすぎない。
地球上の生命はどれも微妙な生態バランスの上で生きているのであり、それぞれに役割があると、害虫のいない自然界の恐怖をレイチェル・カーソンが 「沈黙の春」 に書いたのは1962年のことである。
虫がいなくなることはけっして歓迎すべきことではないのだ。
いまこの瞬間にも、地球温暖化に匹敵する危機が、ひそかにわたしたちの足もとにしのびよっているのかもしれないのである。
あ、わたし?
おいしいものは食べたし、海外旅行はしたし、いい本を読み、いい音楽を聴き、いい映画を観て、恋はしたし失恋もしたし、家族はいない子供もいない、もう何がおこったってジタバタしません。
※ケ・セラ・セラは映画の主題歌で 「なるようになる」 という意味。
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2009年7月 2日 (木)
人間の死ぬ瞬間を見たかったらYouTubeで、ネダ (Neda) という言葉を検索してみればよい。
ネダというのは、総選挙後のイランの混乱の中で、銃で撃たれて死んだ若い娘の名前である。
その死の瞬間の映像は、インターネットを通じてまたたく間に世界中に広まり、マスコミの大きな話題になったので、わたしも観てみた。
それ以来、ここ数日というものわたしはずっと彼女のことを考えていた。
あおむけに倒れたあと、彼女は救援にかけつけた人々の肩越しにじっとカメラのほうを見つめる (すくなくとも YouTube で見るかぎりそう見える)。
このすぐあとで彼女は大量の血をはいて死ぬのだが、カメラのほうを見たときにはまだ意識を失っていなかったと思われる。
しかしもがいたり苦しんだりしているようすはないから、あまり苦痛は感じていなかったようだ。
自分を撮影しているカメラを見て、彼女はいったいどんなことを思っただろう。
うすれていく意識の中で、そのとき人間はどんなことを考えるのだろう。
ネダは死んだことで、殉教者としてイラン改革派のシンボルになったが、わたしにはそんなことはどうでもいいことだ。
どんな宗教の、どんな神さまのご宣託を並べようと、権力闘争の本質はエゴと欲望の衝突にすぎない。
ネダの死はおだやかで苦痛のないものに見え、イデオロギーを超越した崇高ささえ感じられてしまうのである。
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