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2009年7月14日 (火)

近藤勇

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このブログで取り上げるには遅きに失した感があるけど、わが大沢村は新撰組のふるさとである。
わたしの散歩コースのとちゅうに龍源寺というお寺があって、ここに新撰組の局長・近藤勇の墓がある。
近藤勇について書かれた書物は多いので、その世間の評価もおおむね定まっているようだけど、しかし、しかしヘソ曲がりのわたしは世間の評価というのがキライである。
真実はヘソ曲りにしかわからないものなのだ。

近藤勇はほんとうに冷徹剛勇でならした佐幕派の侍だったのだろうか。
同じ新撰組で副長を務めた土方歳三は函館の五稜郭で討ち死にしたけど、勇のほうは流山で捕らわれて板橋で斬首された。
京都で薩長の志士たちの屍をきずいた新撰組は、薩長連合の官軍(わたしはこっちのほうが賊軍ではなかったかと思うことがよくある)による最大のお尋ね者で、つかまれば処刑されることはまず間違いなかった。
それを心得ていた土方歳三は捕縛されるよりも散華するほうをえらんだが、勇はおめおめ捕縛され、しかもものの本によるとそのとき偽名を語っていたともある。
しらばっくれていればわからないと思っていたのだろうか。
どうも剛勇の侍にしてはみっともない。

江戸城明け渡しのさいにも、新撰組なんかが江戸にいたのでは無血開城のさまたげになるという勝海舟のはかりごとで、軍資金を渡されて体よく江戸を厄介払いさせられ、しかもその軍資金を派手に呑んでパアッと使ってしまい、けっきょくどこにも行きようがなく、あとは落ち目の王将、ひたすら関東という盤上を逃げまわるだけ。
このていたらくを見ていると、腕っぷしは強いし、それなりチームをまとめる器量はあったかもしれないが、けっきょくそれ以上でもないし以下でもない、体育会系の親分みたいなヒトといった感じに思えてしまうのである。

わたしがヘソ曲りすぎるのか、それとも近藤勇の末路にはべつの理由があったのか、そのへんはよくわからないけど、歴史というのはちょっと視点を変えるだけで、ぜんぜん別のお話になってしまうものである。

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