スズメおどし
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2、3日まえの新聞に今回の選挙に対する識者の意見がいくつか。
この中でわたしが同感と思ったのは、作家の矢作俊彦さんの意見で
「支持はダブルスコアで民主党なのに、その主要政策はあらゆる世代で期待されていない」 「国民的な期待は、ただただ 『チェンジ』 にあるのでしょう」
「どうせ歴史はAをBに取り換えるようには変化しない」 「一度破壊して、はじめて別の何かが生まれる」 というもの。
いろいろあるけど、まあ、こんなところじゃないかしら。
民主党が政権をとってもなんの展望も見えるわけじゃないけど、とにかく一度は政権交代をという乱暴な民意で、今回の選挙では政権の交代は確実にみえる。
ここ数日は新聞にさまざまな分野からの要望ばかり。あちら立てればこちらが立たず、こちら立てればなんとかってやつで、すべての要望に応えていたら日本はまちがいなく破産だってくらい。
なんでこんなにお金がかかる社会になっちまったんだろうと、わたしもその原因についてじぃっと考えているんだけどねえ。
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地道に生きているわたしじゃありますけど、たまには飲んで騒いで、いい気持ちで部屋にもどることもある。
ベッドに倒れ伏して、ひと眠りのあとに目をさますと、まだ夜明けには間があった。
頭がくらくら。 と、中原中也か、熊本のKさんのごとき苦い述懐。
いくら若い娘の裸体にあこがれてはみても
考えてみたら・・・・・
わたしの列車は遠くに去ったあとだった。
わたしの列車は遠くに去ったあとだった。
作家の永井荷風も、わびしいひとり住まいの屋根の下で、知性と性欲をもてあまし、こんなぼやきを発していたんじゃあるまいか。
※中原中也については、7月31日のこのブログ記事を参照のこと。
熊本のKさんは、このブログにときどき登場する酒乱ぎみの芸術家さんのこと。
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前項で山城新伍さんの死を一種の理想的な死に方と書いたけど、その追記。
老人ホームで孤独死がなんで理想なんだという人がいるかもしれない。
それはわたしの偏屈な性格と、異常なものの考え方によるのである。
わたしは人生についていつも懐疑的で、幸福というものをすなおに信じていない。
よく年賀状や暑中見舞い、自分のブログなどに家族の写真なんか載せてよろこんでいる人がいるけど、わたしはどうもああいうのがニガ手である。
そういう人はたぶん底抜けに楽天的な人で、幸福というものをすなおに信じているオメデタイ人なんだろうと思ってしまう。
わたしは自分の人生が有意義なものだったとは思わないし、死んだあとはきれいさっぱりと人から忘れられたいと考えていて、自分の葬儀や墓にまったく興味がない。
葬儀屋さん撲滅運動の先兵みたいな人間なのである。
だから山城新伍さんが、娘からまで絶縁されて孤独死したと聞いて、きれいさっぱりもそこまで徹底すれば気持ちイイと思ってしまったのである。
わたしと同じ群馬県出身の詩人・萩原朔太郎の人生は意義のあるものだったけど、彼自身はその晩年に悔悟の気持ちのほうが強かったようだ。
彼も山城新伍さんの死を理想的だというのではないか。
わが草木とならん日に
たれかは知らむ敗亡の
歴史を墓に刻むべき。
われは飢ゑたりとこしへに
過失を人も許せかし。
過失を父も許せかし。
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週刊文春に先日亡くなった俳優・山城新伍の最後のインタビュー記事が載っていた。
わたしにはほとんど関心のない世界の人だったけど、その最後はわたしのような人間の末路の典型のようで、気にしないわけにいかない。
俳優だったころはけっこう有名な人だったのに、晩年は老人ホームで、家族にもみとられることのない孤独な死だったそうだ。
ただインタビューに答える彼の口ぶりは、てんたんとして、もう仕事にも友人にもいっさい未練はない、このまま消えてしまいたいなどと言っていたそうである。
そんな彼だけど、自分の娘だけにはもういちど会いたいと願っていたらしい。
ところがどういういきさつがあったのか、娘さんのほうではゼッタイに会いたくないといって、ホームに連絡先も教えなかったそうである。
まあ、これだけの記事だけど、わたしには人間にとって一種の理想の死に方に思えてしまうのである。
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いよいよ総選挙が公示である。
考えてみたら、わたしのブログが開設されてから、衆議院の解散てのは初めてじゃないか。
議員さんたちにいろいろ言いたいことはあるけど、選挙の結果に影響を与えてはいけないので、しばらく政治的発言はつつしむことにしよう。
バカいってんじゃねえよ。
おまえのブログぐらいで選挙に影響が出るわけねえだろ!
そんな声も聞こえてきそうだけど。
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わが家の近所に 「武蔵野の森公園」 という新しい公園が整備中である。
この公園の中には人工の池があって、いまそこでカルガモとバンが子育てのまっ最中。
人工の池といっても、いつのまにか岸辺にアシやガマが茂り、野鳥たちにとっていい隠れ場になっているのである。
カルガモのお父さんは子育てなんかやらないけど、バンのほうは夫婦でなかよく子育てをしている。
そのせいか、カルガモのほうはヒナが2羽しかいないが、バンのほうはヒナだけで6、7羽もいるみたいだ。
ヒナにはなかなか近づけないけど、親のバンはわりあい警戒心がなくて、人間のすぐ近くまでやってくる。
そういうわけでコンパクトカメラで撮ったのがこのバンの写真。
本格的な望遠レンズがつかえるカメラを持っていないので、ヒナの写真はなし。
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8月15日は終戦記念日だったけど、ぜんぜん戦争を体験していない若輩のわたしには、ウッドストック音楽祭から40周年の記念日である。
ありがたいことにわたしはこの歴史的な音楽祭をリアルタイムで観た世代だ。
もちろん映画で観たんだけど、その衝撃は大きかった。
演奏された音楽もすごいけど、そこに集まる大群衆のものすごさ。
主催者の想定を超えた米国のあらゆる人種、老若男女、ヒッピーからかたぎのサラリーマン、皮ジャンの暴走族まで集まり、道路は大渋滞、セックスとドラッグが横行し、大雨が降ってみんな裸になっちゃって、柵をぶっ壊し、もともと有料だったコンサートを、主催者があきらめて無料にしてしまい、病人、ケガ人の支援のために軍隊まで出動する騒ぎになった、いまや伝説のロック・コンサートである。
これはたんなる音楽コンサートを超えた、ひとつの社会現象だなということを、若輩のわたしもまざまざと感じたものだった。
この音楽祭はドキュメンタリー映画化され、さらにDVD化され、それと同時に最初の映画ではうわさでしかなかったキャンド・ヒートやジャニス・ジョプリンの映像が追加された。
ありがたいことであるけど、そんなジャニスももうとっくに故人である。
ジャニスだけではなく、ジミ・ヘンドリックスも死んだし、ほかにもこのコンサートに出演して、すでに故人になったミュージシャンはかなりの数に上るんじゃなかろうか。
じつはわたしは映画の公開当時、出演者のほとんどをあまりよく知らなかったんだけど、映画の中の彼らがあまりに強烈な印象だったので、たとえばサンタナのようにその後熱心なファンになり、ジミヘンのようカリスマになってしまったミュージシャンもいる。
虎は死んで皮を残す。
それにしても音楽家というのは幸福なものだ。
わたしが死んでもわずかな貯金も残らないだろうけど、DVDやCDがあるかぎり彼らは永遠に不滅なのである。
ウッドストックの映画でも、最後にジミヘンがサンキューという。
そのあとでボョーンとギターがかすかにカラ鳴りをする。
そんな些細な部分までが、いつまでも記憶に残ってしまうのである。
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2、3日まえにテレビを観ていたら、NHKBSで南米の密林の奥に住むなんとかいう原住民を取り上げた番組をやっていた。
民放のこの手の番組にはかなりいいかげんな、デッチ上げみたいな番組が多いので、NHKならそういうことはないだろうと、大きな興味をもって観た。
なんでもこの原住民はいまでも男女がまっ裸で暮らしているそうで、まだ想像を絶する原始的な生活をしているらしい。
ナレーションもことさら抑えた口調で、意味ありげに進行する。
知らない人がみたら文化人類学的にもひじょうに貴重な番組であると思ってしまうだろう。
しかしわたしは疑り深いのである。じっと画面のすみずみを凝視する。
ほったて小屋みたいな住居のかたすみにダンボールが積まれているのが見える。
原住民の何人かは腰ミノではなく短パンをはいている。
ダンボールも短パンも先進国の製品であるように思える。
うーむである。
たぶんこの原住民は、ふだんはあまり原住民らしからぬ生活をしていて、先進国のテレビ・クルーが撮影に来ると聞くと、あわてて原住民的生活を演出するのではないか。
女たちは、えっ、またかいとボヤきつつ、いそいでまっ裸になるのであろう。
部落民の全員が、それっと、顔に串を刺したりイレズミを描いたり、建物のあちこちに猿の乾しモノや、いかにも原始的にみえる置物を並べる。
もちろんテレビや音響機器、アンテナなんかは大慌てで隠さなければならない。
携帯電話なんてもってのほかである。
まっ裸の女性が登場するシーンでは、さすがにそのままでは撮影できないというので、ほんのもうしわけみたいな腰ミノを巻いていたけど、それはおそらくテレビ局側が用意したものだろう。
いやはや大変なことだけど、先進国の期待にこたえることが、そして出演料を得ることが、彼らにとって外貨を手にするゆいいつの手段なのではないか。
そう思って想像をたくましゅうしながら観ると、南米の密林の中には一族総タレントの原住民がいるということがわかって、これはホント、ひじょうにおもしろい番組であった。
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おや、この人はまだ生きていたのかといっちゃもうしわけないけど、新聞にレス・ポールの訃報。
ちょっと古い時代のギタリストで、わたしはあまり詳しくないけど、エレキギターの創世記にいろいろ活躍した人だとか。
レス・ポール本人については 「世界は日の出を待っている」 という曲ぐらいしか思い浮かばない。
わたしがものごころついたころには、彼の全盛期は終わっていたし、わたしの青春時代にはほかに聴かなければならない音楽が洪水のように氾濫していたので。
そういうわけで、ここは彼の訃報によって誘発された思い出でも書いとこう。
レス・ポールとギブソン社の共同作業から生まれたレスポール・モデルというエレキギターは、さまざまなミュージシャンによって使われていて、フェンダー社のテレキャスターやストラトキャスターにならぶもっとも著名なギターになっている。
ふつうギタリストというものは、いろんなギターをとっかえひっかえして使うので、レスポール・モデルだけを使うギタリストなんて考えられないけど、それでもあえてレスポール使いというギタリストを選ぶなら、わたしの記憶に残っているのはポール・バターフィールド・ブルース・バンドにいたマイク・ブルームフィールドだ。
彼ももちろんいろんなギターを使っているけど、ロック畑では代表的なレスポール使いといっていい人かもしれない。
彼のエレクトリック・フラッグ時代のアルバム 「A Long Time Comin'」 の最後に 『Easy Rider』 という、ほとんどギターだけで演奏される短い曲があって、それがレスポール・モデルによるものなら、このギターは信じられないくらい甘い音を出す。
ジャズ界にはもっと大勢のレスポール使いがいそうだけど、わたしはミュージシャン個人のギターにまで詳しいわけじゃない。
ジム・ホールがひじょうに甘い音色のギターをよく使っているので、彼もレスポール使いかもしれない。
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昨日の夕刊の2面にどかーんとジャクソン・ポロックの絵。
ポロックは抽象絵画で一世を風靡した米国の画家で、アクション・ペインテイングなんて技法の絵が有名である。
アクション・ペインテイングというのは、絵の具をたたきつけたり、垂らしたり、ようするにアホらしくもけったいな抽象絵画のひとつである。
米国にはこういう絵の伝統があって、同じ絵を繰り返しただけのプリントや、地べたに描かれた落書きが芸術になっちまったりする。
このテの絵は、他人の思いつかないアイディアと、いちおう絵としてのまとまりがいくらかあれば、それほどテクニックも修練も必要がない。
ちょっと教えてもらえばわたしにだって描けるんじゃなかろうか。
わたしはこういう絵が好きじゃない。
Tシャツにプリントしておくくらいで十分である。
ポロックの絵も、最初はおもしろいと思ったが、すぐにどうでもよくなった。
そんなわたしがポロックの絵に出会ったのは、オーネット・コールマンのレコード・ジャケットが最初だった。
オーネットのフリー・ジャズのコンセプションが、ポロックの抽象絵画に通じるものがあったので採用されたらしいけど、この着想はわるくない。
フリージャズというのは、例によって、わたしにはむずかしい理論を言葉で表現できないけど、簡単な打ち合わせだけでエイヤッと始めて、だらだらとしまりなく続く演奏スタイルというか。
オーネットの代表作 「フリージャズ」 は、管楽器2つにベースとドラムのクワルテットが2組並列という変わった編成で、じっさいにはそれぞれの楽器が順番にソロをとっていくという、通常のジャズ演奏とあまり変わらない演奏スタイルなんだけど、誰かがソロをとっているあいだも、ほかの楽器がやたらにちょっかいを出していて、お祭りみたいににぎやかな演奏になっている。
この誰がソロをとっているのかわからないような混沌ぶりは、たしかにポロックの絵に通じるものがある。
しかしまあ、ポロックの絵なんざ誰にでも描けるとバカにしちゃうけど、ジャズの演奏は技術、修練に加えて高度なセンスも必要だ。
ノリがいいこともあって、「フリージャズ」 はわたしの好きなレコードの1枚なのである。
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シネマ歌舞伎というものを観てきた。
これは歌舞伎の舞台を映画カメラで撮影して、歌舞伎を映画館で観られるようにしたものである。
バカいうなよ。 生で観ないで歌舞伎のよさがわかってたまるけえ。
わたしもそう思っていた、この映画を観る前までは。
ところがじっさいに東劇で上映中のシネマ歌舞伎 「怪談・牡丹燈籠」 を観て、認識が一大転換をした。
だいたい貧乏人のわたしが歌舞伎を観るとしたら、いちばん安い末席あたりがせいぜいで、オペラグラスでもなければ役者のこまかい表情なんかわからないにちがいない。
ところがシネマ歌舞伎なら、クローズアップや視点の移動など自由自在。
撮影したカメラはソニーのハイビジョンカメラだそうで、すみずみまでシャープにピントが合っており、構図や照明なども計算されつくしていて、耳の遠いわたしにもセリフがきちんと聞き取れる。
臨場感はおそらくヘタな席に座るよりずっとマシであると思え、帰宅したいまでも、生で観たのか映画で観たのか頭が混乱しているくらいだ。
この映画で感心した場面はたくさんあったけど、落語家の円朝 (牡丹燈籠の原作者である) を歌舞伎役者が演じて、本職はだしの高座演技を見せたのがおもしろかった。
このまま寄席に出演してもつとまるんじゃないかと思わせるほどだった。
これ以上に感心したのは、というより吃驚したのは、坂東玉三郎の演技である。
わたしは玉三郎という役者を新聞や雑誌を通してしか知らなかったので、動く演技を、しかもクローズアップで観たのは初めてだった。
劇の中に玉三郎演じるお峰という女房が、馬子から亭主の浮気の事実を聞き出す場面があるのだが、このさいの、なだめたりすかしたり詰問したりする玉三郎の演技が絶妙で、わたしはあっけにとられて口をあんぐり。
生で観る歌舞伎にもそれなりの長所はあるだろうけど、シネマ歌舞伎をけなす理由はぜんぜんない。
歌舞伎に興味のなかったわたしだけど、このシネマのおかげで新たな好奇心を喚起されてしまったくらいなのである。
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わ村上春樹を読む。
いまバカ売れの作家だそうなので、わたしも遅れをとっちゃいられないのである。
読んだといっても、最近の小説がニガ手なわたしのことだから、買ってきたのは「辺境・近境」という紀行記を集めた本だ。
つまらなかったら読んだあとで捨てても、文庫本だから惜しくない。
この紀行記に出てくる旅の目的地は、イースト・ハンプトン、日本の無人島、メキシコ、日本の讃岐、ノモンハン、アメリカ大陸、日本の神戸と、ぜんぜん脈絡のない世界の各地。
わたしみたいな旅好きにとって、旅の体験談というのは、目的地がどこでもたいてい興味あることだから、この本もおもしろくないはずがない。
腹がへっているとき讃岐のうどん紀行なんか読むと、お腹がぐうぐうなるくらいだ。
しかし正直な感想をいわせてもらうと、有名作家の紀行記では開高健におよばないし、モンゴルや無人島やうどんの食べ歩きでは椎名誠に (はちゃめちゃぶりで) およばない。
しかし春樹クンには春樹クンの世界があるのだから、ほかの作家と比較したって仕方がないだろう。
では春樹クンの世界っていうのはどういうものなのか。
メキシコに行ったとき、彼はヒマつぶしに読むために、リック・ネルソンの伝記を持参したそうである。
有名人の伝記ってのはたいていおもしろいものだけど、あいにくわたしはこの歌手にぜんぜん興味がない。
アン・ビーティーもオルグレンもブラックウッドも知らないし、D・H・ロレンスは読んでないし、ニュージャージーシ州のブリンストン大学の図書館も行ったことがない。
エルトン・ジョンも好きじゃないし、「シャーリー・ヴァレンタイン」 も、プレスリーの 「アカプルコの海」 も、観た記憶がない。
本や音楽や映画に関しては、春樹クンとわたしではあまり趣味が一致しないようだ。
でもわたしのほうが世間の常識におさまらない変人なのだから、これでもって彼の本はツマラナイというのは自己中心的すぎる。
メキシコではたまたま出会った読者の女の子に、村上さんとメキシコは似合わないんじゃないでしょうかなどといわれている。
つまり多くの読者にとって、春樹クンはモダンでカッコいい、シティ派の作家という印象なのではないか。
それならわかる。
開高健や椎名誠はその対極にいる作家だからである。
それならわかる。
最近の若者はこういうスタイルが好きなんだろうという気がするからである。
というわけで、わたし自身にはあまりそぐわないが、本が売れる理由はわかるような気がした。
この程度じゃあまり鋭い批評とはいえないけど、徹底的にけなすほどつまらない本じゃないし、そうかといっておもしろいと絶賛するほど読みたい本でもない。
言えるのは、小説を買うのは当分お預けだということぐらいだ。
※この本については、わたしのもうひとつのブログにも関連記事があるので、興味のある方は下記アドレスからどーぞ。
http://blogs.yahoo.co.jp/libai036/MYBLOG/yblog.html
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もう2カ月も前になるけど、部屋にかざるために鉢植えのクロッサンドラ(かがり火という名札がついていた)という花を買ってきた。
この花はずっと以前にも買ったことがあるけど、あまりアブラムシもつかないし、水さえやっておけば次から次へと花をつけるので、わたしのようなずぼらには手のかからないありがたい花である。
と思って買ってきたのに、今回のクロッサンドラはどこを間違えたのか、こまかいアブラムシは発生するし、たくさんついていた花はひとつ残らず落ちてしまうし、穂のいくつかは黒ずんできてそのまま枯れてしまった。
どこか具合がわるいらしいと心配したものの、どうにもならずに、アブラムシを指でこそぎ落とし、せっせと水だけはやっていたんだけど、なんとなんと最近、また新しい穂がのびていくつか花がつき始めた。
わたしみたいな人間に飼われたのが不憫だけど、機嫌をなおして、まだしばらくは目を楽しませてほしいものである。
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大内宿を観てきました。
むかしの山登り仲間との恒例のキャンプ。
目的地の七ケ岳というのはなかなかきつそうな山なので、早々にリタイヤして、近くにあるこの古い宿場町を見物に行ったもの。
カヤ葺き屋根の民家がずらりと並んでいるのは、写真なんかでおなじみのところですが、やっぱりというか、観光テーマパーク化しちゃっていて、平日だってのに観光客がぞろぞろ、カヤ葺き屋根はみんなお土産屋に変貌していました。
そういうわけでヘソ曲がりの当方としては、民家の裏のほうとか横のほうとか、水路のわきの花だとか、そんなものばかりの写真を紹介しちまいます。
下の写真は夜のキャンプ場で、これから手づくりのカレーを食べようってトコ。
順番がちがうみたいだけど、まず腹ごしらえをして、それからおじさんたちの、見苦しくも盛大な酒盛りが夜を徹して続くのです。
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不測の事態でも生じないかぎり、明日から昔の山仲間とキャンプである。
この連中との登山やキャンプはこのブログで何回か紹介してるので、たぶんまたブログになにか書けるんじゃなかろうか。
先日街へ出かけたさいに、いま本がベストセラーになっているという村上春樹の本を、わたしもどんなものか試してみるつもりで1冊買ってみた。
といっても小説はあまりおもしろくないだろうから (べつに彼をけなすわけじゃなく、わたしは最近の小説というものをほとんど読まないので)、買ったのは 「辺境・近境」 という旅の紀行記。
文庫本なので春樹クンの取り分は微々たるものと思われる。
ま、おもしろかったらまた買うからね。
帰宅してぼちぼち読んでみた。
日本の作家は米国なんかとちがって、作家同士が相手をけちょんけちょんにけなすことがないらしい。
カポーティなんか読むとそのバトルはそうとうに激しいものがあって、これも切磋琢磨の一種なんだろうと思わせるけど、日本人はどうもおとなしいようだ。
そのくらいやってくれたほうが読者としてもおもしろいのに。
わたしは出版社には義理も前借りも、そもそも関わりもないから、本音で本の批評をすることができる。
ブログはこういう点でも画期的なものなのだけど、さて、その活用法をきちんと理解している人がどのくらいいるだろう。
ただ、あまり露骨にけなすと、やっかみと思われかねない。
小説を書く能力もないくせに、売れている作家をねたんでいると言われかねない。
むずかしいところである。
と書いたところで時間切れ。
わたしはこれから家事やキャンプの準備をしなければならない。
「辺境・近境」 は山で読むことにしよう。
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銀座でイタリア料理を食ってきた。
なんかよくわからないけど、店の前にイタリアの国旗がだらりとぶら下がっていたから、たぶんイタリア料理のレストランと思われる。
メニューを見ると、なんとかのマリネだとか、かんとかのカルパッチョなんて料理がいっぱい。
さっぱりわからないから、注文は同行した知り合いに全部おまかせ。
白身魚のグラタンとシーサラダというものを頼んだ。
グラタンは、××が切れてますんでカジキでもいいでしょうかと訊かれ、もちろん、なんだっていいですと答える。
シーサラダというのは海鮮サラダのことかと思ったら、野菜しか入ってなかった。
これにワインを1本空けて、気分はもうセレブ。
おりしも今週はわたしにとってイタリア週間である。
フェリーニの 「8 1/2」 と、ヴィスコンティの 「山猫」 のテレビ放映があるのだから。
それにしたって、映画で観るイタリア人の食事風景ってのは、なんであんなににぎやかなんだろ。
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待てば海路の日和あり、ということかしらん。
DVDを買おうかどうかと迷っていたフェリーニの 「81/2」 がテレビで放映されるらしい。
難解な映画の代表みたいな映画だけど、世界のどこの映画評でもかならずトップテンに入る、たとえばオーソン・ウェルズの 「市民ケーン」 みたいな傑作である。
フェデリコ・フェリーニという監督は、一見するとこわもての実業家みたいな、かっぷくのいいおっさんで、ぜんぜん芸術家ってイメージじゃないんだけど、ちょいとほかに比肩する相手のいない偉大な映画監督だ。
わたしがこの人を好きなのは、難解な芸術作品ばかりではなく、「道」 のような過酷な現実をまっ正面から描いた作品、「アマルコルド」 のようなユーモアとペーソス、詩情ゆたかな映画も同時に作れる監督だからである。
どこかの国の映画のように、しかめっつらをしてこれが芸術でゴザイマスってのとはちがうのだ。
日本では寺山修司なんかもこの人を尊敬していたようだけど、映画監督だけではなく、詩人、作家、画家など、さまざまな分野の芸術家たちが仰ぎ見る巨匠なのである。
もっとも正直に告白すると、観念がすぎて、作品の中にはぜんぜんおもしろくないものもある。
フェリーニの理解者であるつもりのわたしも、最後まで観ないで放りだした作品がいくつかある。
しかし 「81/2」 は傑作である。
そうかいそうかいと意気込んて観ようって人には気のドクだけど、「81/2」 にかぎっていえば、そうそうお気楽に観られる映画ではない。
ストーリーなんてあるのかないのか、不思議なイメージがつぎつぎと現れるムズカシイ映画なのである。
うーむとずっこけた人には、わたし流のこの映画の鑑賞方法を紹介しよう。
わたしはこの映画を観るとき、いつも詩を読むときのスタイルで、つまり無理に意味を理解するのではなく、その持っている言葉の美しさや韻律に自然に身をまかせるようにする。
この映画でも、カルディナーレがきれいだな、ふてくされて踊るアヌーク・エーメがすてきだなと思って観ていると、いつのまにか最後の大団円 (文字通りの大団円!) になる。
道化師があらわれて、さあ、みんなで幸せになりましょうと叫ぶと、映画の登場人物だけではなく、観客のあなたもひっくるめて、みんながみんな幸せにされてしまう。
ウソだと思ったら、百聞は一見にしかずだから、レンタルビデオでもなんでもいいからまず観てみることだ。
なんともいえない不思議な映画、それがタダで観られるということなので、こういうときだけはNHKさまさまと、すなおに感謝してしまう。
つぎはぜひ 「アマルコルド」 を放映してほしい。 頑張れ、NHK!
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