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2009年8月22日 (土)

追記

前項で山城新伍さんの死を一種の理想的な死に方と書いたけど、その追記。

老人ホームで孤独死がなんで理想なんだという人がいるかもしれない。
それはわたしの偏屈な性格と、異常なものの考え方によるのである。
わたしは人生についていつも懐疑的で、幸福というものをすなおに信じていない。
よく年賀状や暑中見舞い、自分のブログなどに家族の写真なんか載せてよろこんでいる人がいるけど、わたしはどうもああいうのがニガ手である。
そういう人はたぶん底抜けに楽天的な人で、幸福というものをすなおに信じているオメデタイ人なんだろうと思ってしまう。
わたしは自分の人生が有意義なものだったとは思わないし、死んだあとはきれいさっぱりと人から忘れられたいと考えていて、自分の葬儀や墓にまったく興味がない。
葬儀屋さん撲滅運動の先兵みたいな人間なのである。
だから山城新伍さんが、娘からまで絶縁されて孤独死したと聞いて、きれいさっぱりもそこまで徹底すれば気持ちイイと思ってしまったのである。

わたしと同じ群馬県出身の詩人・萩原朔太郎の人生は意義のあるものだったけど、彼自身はその晩年に悔悟の気持ちのほうが強かったようだ。
彼も山城新伍さんの死を理想的だというのではないか。

  
わが草木とならん日に
  たれかは知らむ敗亡の
  歴史を墓に刻むべき。
  われは飢ゑたりとこしへに
  過失を人も許せかし。
  過失を父も許せかし。

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