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2009年9月

2009年9月30日 (水)

ケガ

ゴキブリみたいに夜中に台所でごそごそやっていたら、ガラス食器を割ってしまい、そいつで小指の先をざっくり切ってしまった。
血がだらだらで、さあ困った。
流しやカーペットの上は、殺し合いでもあったような凄惨な光景である。
さいわい救急車を呼ぶとか、病院へ行くとかいうほどのものじゃないけど、バンドエイドで抑え込むには傷は深そう。
こういうとき男所帯の、それもずぼらの典型みたいなわたしの部屋には、応急処置の小道具がなにもない。
バンドエイドと赤チンぐらいはあっても、ガーゼや包帯もない。

仕方がないからタオルを指にぐるぐるまいて、夜中にコンビニに行く。
包帯がないというので、消毒用濡れタオル (こういう便利なものも世間にはあるのである) と新しい清潔なタオルを1枚買ってきて、ひとりでしこしこと手当てをする。
なにかの映画で、主人公の殺し屋がひとりで自分の傷の手当てをする場面があって、男の孤独をひしひしと感じさせるなんて批評する人がいた。
うん、ちょうどあんな感じだなと、なんとなくニヒルな気分になる。
ちょうどいい。ブログのネタに困っていたところだ。

即席のニヒルなまま、血はどうやら止まったようだけど、傷ついたのが右の小指なので、右ききのわたしはトイレでしばらく紙の使用に難儀しそうである。

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2009年9月28日 (月)

変人政治家

NHKの朝の番組で、自民党の総裁候補3人が討論しているのを観た。
3人の中でめだったのは河野クンで、他の谷垣クン、西村クンの2人がどっちかというと伝統的、保守的な自民党の政治家という感じなのに対し、この人はひょっとすると小泉クンの後継者に足る変人政治家かもしれないと思ってしまった。

変人政治家というのは誉め言葉である。
伝統的、保守的な自民党というと、どうしても不埒なというイメージで、それを打ち破るのが変人というものである。
つぎの選挙では、なにか大きなポイントを上げる突発要素でもないかぎり、国民の健全なバランス感覚が働いて、今度は民主党が苦戦するかもしれない。
かりに自民党が勝利した場合、ザマみろ、やっぱりオレたちのやり方のほうが正しかったんだということで、ふたたび官僚政治、企業との癒着などが復活してしまうおそれがある。
そういうときに、昔のままの自民党じゃだめだという変人政治家の存在は貴重なものなのである。

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空気人形

立川の昭和記念公園でコスモス祭りをしているというので、ついでに映画でも観るつもりでぶらぶらと出かけてみた。
まず映画館にいき、時間を確認してみたら、つぎの回の上映開始まで1時間半もある。
ちょうどいいや、そのあいだにコスモスを見てこようと、とりあえず映画のチケットだけ買っておいて、公園に行ってみた。
公園に着いて遠くを眺め渡してみたが、コスモスらしきものはぜんぜん見えない。公園の中にある有料ゲートを入ってもまだ見えない。
案内板を見たら、コスモスはこのゲートよりさらに2キロも奥のほうだそうだ。
あらためて昭和記念公園の広さにおどろいたけど、それはともかく、2キロも往復していたら映画の開始に間に合わない。
とうとうコスモスはあきらめて、この日は映画を観るだけにした。したがってこのブログを飾るはずだったコスモスの写真はなし。

M006

映画は「空気人形」である。
映画の宣伝によると、これはダッチワイフ (現代ではラブドールというそうだ) のことで、その人形が人間のこころを持ち、本物の人間に変身する話だそうだ。すごくイヤラシイ映画のようなので、男のわたしとしてはぜひ観たかった映画である・・・・・・・

結論を先にいうと、最近映画館で観た映画としては期待にそぐわぬイヤラシサ。
主演しているのは韓国の女優さんらしいけど、目がぱっちりのスリムな体型で、まあ、お人形さんにはぴったりなんだけど、新進のアイドル・タレントに演じられるような役ではないから、あちらのアダルト女優なのかもしれない。
そう思って調べてみたら、そんなことはなくて、けっこう実力派、ヤル気まんまんの筋金入り女優さんらしかった。
日本にはこういう勇敢な女優さんが不足しているってことかしら。そういえば、とても広末涼子に演じられる役じゃないな。

アイディアはおもしろいし、女優さんもわるくなかったけど、映画そのものは早送りで(いやらしいところだけは常スピードで)観たくなる映画だった。
ラスト・クレジットを眺めていたら、映画の原作は業田良家のマンガということがわかったから、ほんとうならこれだけでも注目に値する映画のはずだけどねえ。

ところで添付した写真はネットでみつけたものだけど、これって人形なんだろうねえ。
もしかすると生身の人間かもしれないし、わからなくて悩んでいます。

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2009年9月27日 (日)

義務化

鳩山クンが日本の温室効果ガスを25パーセント削減すると大見えを切ったことについて、心配だなあとこのブログにも書いた。
日本の産業界でも景気を後退させると非難の声が上がっているという。

これを聞いてふと思い出したことがある。
産業界の懸念というのは、じつはあまりアテにならないのである。
かって自動車の安全対策が問題になったことがある。
ひじょうにきびしい安全対策が義務化されたときも、日本の自動車産業は口をそろえて、そりゃ無理だ、××年までにそんなことできるはずがないと、ぶつくさ文句をたれた。
車の排ガス問題でも、最初はいろいろきびしい条件を並べたてられて、メーカーは不満たらたらだったはずである。
ところがそれがどうしても避けられないとみると、日本のメーカーは、もちろんひじょうな努力をしたのだろうけど、世界に先んじてなんとかそれをクリアしてしまった。
おかげで日本の車はいまや世界の最先端規格になっている。

つまり産業界の言い分なんか無視して、さっさとそれを宣言してしまうという鳩山クンの方針は正しいかもしれないのである。
役人でもメーカーでも、上からぴしりと命令されると、ぶつぶつ言いながらもそれに従うという哀しい習性を持っているものなのだ。

これはきつい挑戦であるけど、先に目標を掲げれば、日本の産業界はなんとかかんとか温室効果ガスの25パーセント削減という目標を達成してしまうかもしれない。
電池自動車だってなんだって、本当に追いつめられれば、すぐにでも本格的なものを作り上げてしまうんじゃないか。
必要なのはハングリー精神みたいなもので、それができるなら、日本は本当に世界のリーダーになれるだろう。

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2009年9月24日 (木)

我々はどこへ行くのか

ゴーギャンの絵を観てきた。
国立近代美術館で公開されていた 『我々はどこから来たか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』 という大作である。

変人同盟の大先輩であるゴーギャンを、もちろんわたしは好きだけど、その絵はあまり好きじゃない。
理由は、彼の描くタヒチの女性があまり美人ではなく、どっちかというとグロテスクに見えるということらしい。
人間の美醜なんてそれを見る者によっていかようにも解釈できるというから、わたしの見方は邪道なんだけど、女性はやっぱり美人のほうがエエ。
そんな無理解なわたしにも、たとえば 『かぐわしき大地』 なんてタヒチの絵は傑作だという気がする。
タヒチに行くまえの 『浜辺に立つブルターニュの少女』、『ヤコブと天使の争い』 なんかも好きである。
しかし 『我々は・・・・・』 は、なんか混乱のようなものがうかがえて、傑作と思えない。
ということはこのブログでも書いた。
あとはやっぱり現物を観るっきゃない、ということも書いた。
それで東西線に乗って出かけたのである。

現物はさすがに、予想していた以上に根性をいれて描かれているようだった。
ゴーギャン本人も傑作のつもりで描いたといっているそうだから、これはやはり傑作なんだろう。
しかしこの絵を仔細にながめると、部分的に、どうみてもデフォルメと思えない奇妙な人物などが目立つ。
ゴーギャンは人物の手足を極端に大きく描くことがよくあるけど、それとは異なるようで、大画家に対してはおそれ多いけど、どうも彼は正確なデッサンがニガ手な人ではなかったかと思えてしまうのである。

この絵の意味をめぐってはさまざまな意見があるそうである。
わたしも考えてみたが、絵の両側にいる赤ん坊と老婆が、誕生と死を意味していることはすぐわかる。まん中の人物がリンゴをとるアダム (かイヴ) であることも、なんとなくそうじゃないかなという気がする。
しかしそれ以上のことは、ゴーギャン研究者でもないわたしにはサッパリ。
死んでしまったゴーギャンにいまさら聞いてみるわけにもいかない。
そうかといって作家や批評家の意見にかたっぱしから耳をかたむけるほどわたしは熱烈なファンでもない。

個展で意外に思ったのは、『我々は・・・・・』と同じような絵、似たようなポーズの人物、動物などが、ほかにもたくさん描かれているのを知ったことだった。
『我々は・・・・・』 は、そうした絵の集大成だったらしい。
ゴーギャンの書簡や書きつけによると、彼もそう考えていたらしいことがうかがえる。
この絵を描き終えたあと、彼は自殺を図っている。
それが未遂に終わったあとで、彼は、サイズはもっと小さいけど、ふたたび同じような構図の絵を描いているのである。
ゴーギャンにとって、生きているかぎり画業の終着駅はなかったのだということを、『我々は・・・・・』 という絵は証明しているように思える。
つまりこの絵はけっして完成作品ではなかったのではないか。
彼もけっして満足していなかったのではないだろうか (あくまでわたしのロマンチックな妄想だけど)。
だから、ひたむきに絵を追求し続けた彼の死は、ヘーラクレースの死のように、ようやく「悩み多き人生の終わり」であったことをわたしは疑わないのである。

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2009年9月23日 (水)

宇宙戦争

M004

テレビで 「宇宙戦争」 という映画を放映した。
これはH・G・ウエルズの古典的SF小説が原作で、ずっと昔にも映画化されたことがある。
わたしはずっと昔のほうの映画を観たことがあるけど、当時はまだ大人が常識をそなえていた時代なので、あまり残酷なシーンは映像化してはいけないという暗黙の了解があったのか、この小説のいちばん怖い部分は省略されていた。
今回放映されたのはスピルバーグのリメイク作品で、スピルバーグといえば子ども向けの映画でも、眉をひそめるような残酷シーンを平気で持ち込む監督だから、その怖い部分が平然と映像化されていた。
つまり地球を侵略する宇宙人がじつは吸血性の生き物で、人間をとらえて自分たちの餌にするというシーンである。
この部分があるゆえに小説 「宇宙戦争」 はひじょうに怖かった。 子どものころにこれを読んだわたしは、夜中にオシッコに行けなくて困ったものである。

「宇宙戦争」 が書かれたのは100年以上も前だけど、そんな古いSFをいま映画化するのは、バカでアホで迷監督のスピルバーグでなければ無理だっただろう。
進歩した宇宙船で宇宙空間をわたってきて、地球人との戦争でたわいなく勝利を収めるほどの宇宙人が、なんで細菌に対する備えをしてないのか。
現在ではNASAの科学者は、月や火星に探査船を送るとき、そこから人間にとって害になる細菌を持ち返らないように、また不用意に地球の細菌を送りこんでしまわないよう厳しいチェックをするのである。
したがって宇宙からの侵略者が地球の細菌のために死滅するというどんでん返しは、100年以上も前のSF小説だから通用した結末で、いまどきの映画でそれをやるのは・・・・・・ やっぱりスピルバーグはアホだってことの証明なのである。

添付した画像はアホの 「宇宙戦争」 より。

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負担

鳩山クンが国連で演説して、日本の温室効果ガスを25パーセント削減すると大見えを切った。
このこと自体はわるいことじゃないし、新聞も 1面2面でトップ扱いだけど、ホントに大丈夫かいと心配になってしまう。
ネット・ニュースによると、温室効果ガスの削減というのは、「日本が高い目標を掲げれば、他の国はおもて向き拍手し、影ではひそかに笑う」 というむずかしい問題なんだそうだ。

途上国の削減努力への資金援助なんかも約束しちゃって、この問題じゃオレんちがリードするって姿勢はなかなかのもんだけど (さすがは日本の新首相と喝采する人がわたしの知り合いにもいそうだ)、日本の 1世帯あたり年36万円の家計負担という試算について、みんなちゃんと承知しているんだろうか。
わたし自身は、温室ガスの削減問題で先進国に負担がかかるのもやむを得ないと考えているけど、鳩山クンは一方で、日本が誇る省エネ技術、つまり温室ガスの削減も含む技術に知的所有権があるなんて主張をしている。
そんな省エネ技術で途上国からお金を儲けて、それで途上国への援助をまかなおうってんじゃ、けっきょく自分たちが温室ガスの削減費用を払わされているだけじゃねえかと、途上国が文句をいうのもわかるし、鳩山クンの人間性を判断するのに苦しむよなあ。

文科相はアニメの殿堂を建てないなんて言いだして、これはわたしもそんなもん必要なのかと思っていたくらいだから、たいした功績じゃないけど、八ツ場ダム建設中止を宣言した国交相にしても、中止でこれまでの建設費がムダ、住人への補償が必要と、とにかく新政権がなにか言いだすたんびに、あらたにお金がかかるというのは困ったモン。

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へたな短歌

243

年寄りが熱を出したというので、とりいそぎ帰省してきた。
そっちのほうは新型インフルエンザでもなかったし、熱も無事にひいたようなので、まずひと安心。

田舎に帰るためには、わたしの場合とちゅうで利根川を越えなければならない。
わたしの郷里のあたりの利根川はひじょうに幅広く、景色は雄大である。
今回添付した写真は俳句より短歌にふさわしいので、(がらじゃないのは承知のうえで)しみじみと歌ってみる。
  大利根の河原にいまも秋の風
           コンクリートに石の堤に

いや、けっしてふざけているわけじゃないんだけどね。

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2009年9月22日 (火)

昨日は宮沢賢治の命日だったそうだ。
わたしは賢治の熱烈なファンだけど、命日まではおぼえていなかった。
ここはやはり何かひとつ、彼についてふれておかなくちゃいけないだろう。
しかし彼について語る書物、語る人々は巷にあふれている。
そんな中でわたしの書くべきことが何か残っているだろうか。
うーんと考えたけど、原稿料をもらえるわけでもないブログに頭を使っても仕方がない。
ここは彼の詩の中ではあまり世間に知られていないけど、わたしの好きな詩をどかんと紹介しておくのが、手間もヒマも頭も使わなくていい。
開墾地で働く馬の死と、それを葬る貧しい農民家族のようすを描いた 「馬」 という詩で、平易な表現の中に悲しみがそくそくと伝わる佳作である (とわたしは思う)。
  いちにちいっぱいよもぎのなかにはたらいて
  馬鈴薯のやうにくさりかけた馬は
  あかるくそそぐ夕陽の汁を
  食塩の結晶したばさばさの頭に感じながら
  はたけのへりの熊笹を
  ぼりぼりぼりぼり食ってゐた
  それから青い晩が来て
  やうやく厩に帰った馬は
  高圧線にかかったやうに
  にはかにばたばた云ひだした
  馬は次の日冷たくなった
  みんなは松の林の裏へ
  巨きな穴をこしらえて
  馬の四つの脚をまげ
  そこへそろそろおろしてやった
  がっくり垂れた頭の上へ
  ぼろぼろ土を落としてやって
  みんなもぼろぼろ泣いていた

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2009年9月19日 (土)

またSAPIO

近所のコンビニが置かなくなってしまったせいで、最近読む機会がへってしまったSAPIOという雑誌を、ひさしぶりに読んでみた。
今回は美智子妃殿下についての特集号で、皇室についての話題に多くのページが割かれていたけど、わたしは妃殿下については、たぶん世間の大半と同じ気持ちをもっているだけなので、それにはふれない。

それよりも、このあいだの選挙についての記事がなかなかおもしろい。
櫻井よしこサン (右派の論客である) と民主党の中堅議員2人が対談していて、櫻井サンは憲法改正や集団的自衛権について、ずけずけと民主党の考えの説明を求めている。
彼女は女だてらの好戦主義者で (ほめてんだよ)、民主党の友愛主義とは相いれない部分がある人だから、さてどうなっちゃうのか。
それでも相手がなんとか話を合わせているのは、民主党の中にも右派的人物がいるってことか、相手が女性なので遠慮したってことか、対談が血まみれにならないように、あらかじめ民主党の中の思想信条の合いそうな議員を選んできたせいか。
民主党の中にもいろんな考えの人がいるようだけど、それはまあ、いいことだろう。

べつの記事の中にこんな文章も。
民主党が社民党や国民新党を優遇しているのは、つぎの参院選挙をにらんでの深慮遠謀であるとか。
つまり参院選挙でこの両党の協力がほしいものだから、とりあえず優遇しておいて、選挙で勝利をおさめたら、はい、それまでヨということらしい。
考えてみると、選挙で惨敗した政党が新政権の中で重要な地位を占めるというのがおかしな話なんだけど、それなら納得がいく。

ふざけた話だなんて怒ってみてもはじまらない。
こんなことは政治という魑魅魍魎の世界では当たり前のことなんだろう。
いささか現実ばなれした社民党の福島瑞穂サンは、櫻井よしこサンと美人として共通、思想として対極にいる人だけど、この2人を足して2で割ると理想の女性になるんだけどなあ。
やっぱり田中美絵子チャンあたりに成長してもらうしかないか。

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2009年9月17日 (木)

不安

新聞に 「早くも政労会見」 ということで、鳩山新総理と連合の会長さんが手をにぎりあっている写真が載っていた。
連合は民主党の強力な支援団体だってことだけど、政権と労働者の団体が仲良くして社会がよくなった例があっただろうかと、取り越し苦労かもしれないけど、ちょっと不安を感じてしまう。
こんなことを書くと、とんでもないヤツだと非難ごうごうで、ブログが火をふいちゃうかもしれないが、まあまあ、個人のたわごとだと思って読んでほしい。

わたしは小林多喜二の 「蟹工船」 も読んでいるし、大正や昭和の初期に、政権と資本家が結託して、労働者を悲惨この上ない状況に陥れたことをよく知っている。
なにより、わたしも生まれついての労働者のひとりなのである。
それなのに新総理と連合の会長さんの仲良し会見をみて不安になるのは、戦後の日本では労使の関係が、いくらか資本家のほうに有利であったとはいえ、まあまあいい関係を保ってきたと思うからである。

とんでもないという人は、諸外国の実情を見てみればよい。
なんのかんのといっても、資源を浪費し、地球温暖化に貢献するほど豊かな (?) 国は、アメリカやヨーロッパの先進国をのぞけばそんなにはない。
発展途上国では日本よりずっと貧しく、選挙で自由な意思を示すこともできない国も多いけど、日本では国民がその気になれば、政治家にお灸をすえることもまだまだ可能なのである。
不平不満は誰でももっていると冷静に考えれば、こういう社会を築いてきた労使の関係が、まあまあいい関係にあったといっても言い過ぎではないのではないか。

だからわたしはその一方だけに肩入れすることを、あまりいいことだとは思わない。
わたしが新政権に冷や水をぶっかけるようなことを言うのは、社会党や共産党の推薦する、つまり労働者よりのミノベ君が都知事をつとめた東京都や、もっと大きな事例ではソ連や中国の社会主義政権の例が念頭にあるからかもしれない。
労働者といえども完璧な人間ではないのだから、新政権に必要なのは、労使のどちらとも毅然とした一線を引くことではないだろうか。
冷酷だとか裏切り者と思われようとも、である。

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広島の思い出

7月31日のこのブログで中原中也の 「逝く夏の歌」 の一部を紹介した。
その中に 「山沿ひの道を乗手もなく行く自転車のことを語らうと思ふ」 というフレーズがある。
このフレーズはいつもわたしになつかしい思い出をよびさます。

かってわたしが海上自衛隊にいたころ、赴任先の広島・呉で、同期の友人と再会したことがある。
この友人はカネコといって、横須賀の教育隊で同じ時期に初年兵教育を受けた。
特別に親しいわけでもなかったので、その後それぞれの勤務地に別れて配属されると、それっきり交際も途絶えたのだが、数年後にわたしが呉の江田島にある術科学校に配属されて、街でぐうぜん彼と出会ったのである。

街で出会ったとき、カネコは当時流行っていたIVルックできめていた。
柄の半そでシャツにつんつるてんのコットンパンツ姿である。
対するわたしは (生意気にも) ロンドンあたりが発生源のモッズルックである。
ダッチボーイキャップにダブルのジャケットで、まるで雑誌から抜け出たよう。
似合っているかチンドン屋かはともかくとして、2人ともそのへんの自衛官には見えなかったことと思われる。

わたしたちはよく呉の街をぶらついた。
前から若い女の子の2人連れが来ると、カネコは、ようっと気安く声をかける。
知り合いかいと尋ねると、ぜんぜん知らない子だそうだ。
こんな調子で反対側の歩道にいる子たちにも、大きな声で呼びかける。
ナンパとすればこんなにストレートなナンパもないんじゃないか。
なにしろわたしたちが好青年だったころではあるし、世間にはヒマをもてあましている娘が多いとみえて、だいたい3割か4割の確率で女の子たちをお茶ぐらいに誘えた。
わたしひとりではとてもそんな勇気はないんだけど、カネコのおかげでわたしの呉における青春はまずまず楽しいものだった。

夏になるとよく江田島の海水浴場へ出かけた。
カネコは島内の弾薬庫の警備員として勤務していたので、わたしのほうが日曜日に外出許可が出ると、彼の勤務先まで訪ねてゆく。
弾薬庫で落ち合ったあと、弾薬庫の備品の自転車を持ち出し、2人乗りして海水浴場まで行くのである。
なにしろ若いころだし、1日中よく泳ぎよく遊んだものだ。

ある日、自転車に2人乗りしたまま、べつに目的もなしに島の奥のほうへだらだらと出かけたことがある。
そのうち夕方になってしまった。
ここで冒頭の中原中也の詩の登場である。
  風はリボンを空に送り
  私は寡て陥落した海のことを
  その浪のことを語らうと思ふ
    騎兵連隊や上肢の運動や
    下級官吏の赤靴のことや
    山沿ひの道を乗手もなく行く
    自転車のことを語らうと思ふ

この詩を読むたびにわたしは、夏の太陽が山の端にかかるころ、坂の多い田舎道で自転車を押していたカネコのすがたをなつかしく思いだす。
自衛隊を退官したあと、主としてわたしのずぼらからカネコとは音信不通になった。
わたしがもういちど会いたいと思う友人は多くないけど、彼はそのひとりである。
彼がこのブログを読む機会はないだろうか。

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2009年9月16日 (水)

ヘビたちのその後

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今年は初夏のころまでは散歩道でヘビをよく見かけた。
ほとんど散歩のたびに見かけるので、これじゃ蛍の里ならぬヘビの里になっちまうなと思っていたくらい。
ところが7月中旬を境にして、それ以来ぱたっと見なくなった。
ここ数日、天気のいい日は、わざわざヘビのいそうなところを重点的に観察に行くんだけど、もう2カ月ちかくいちどもヘビを見たことがない。

いったいどうしたのか。
まだ冬眠には早いし、ヘビの集団移住ってことも考えにくい。
彼らの世界にも新型インフルエンザが流行って、あたり一帯のヘビが死滅したなんてことがあるんだろうか。
合理的な原因を無理にこねりあげると、初夏のころまでは彼らの活動がわりあい活発で、それ以降は夜行性にもどるんじゃないかってことだけど、ものの本によるとシマヘビってのは昼行性と書かれたものもある。
どうもよくわからない。
そういうわけでヘビの近影がぜんぜんないので、キクイモと、茂みのおくにこっそり咲くヒガンバナの花でお茶をにごしておく。

政権交代で先行き鮮明ではないこんな世の中で、ヘビの心配なんかしていてどうするんだという声もあるかもしんないけど、前項でおわかりのように、わたしゃそっちのほうもちゃんと心配しております。

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2009年9月15日 (火)

静香クン

亀井静香クンが郵政担当相兼金融担当相だって?
民主党の人事のうちの最悪のものになる可能性が高いね。
彼は郵政民営化に反対する者のうちの最右翼だから、すべてがもとの黙阿弥になるに決まっている。
不景気の影響で改革について怨嗟の声は多いけど、ほんとうに郵政民営化をチャラにしてほしいというのが民意なんだろうか。
かりに民意だとすれば、今回の選挙で国民新党の綿貫クンももうすこし票を獲得してよかったんじゃないか。

たぶん民主党に対して、静香クンを郵政担当相にしてほしいという、どこかの利権団体からの猛烈な働きかけがあったにちがいない。
全国郵便局長会を味方にしたほうがあとあとの選挙で有利だってわけか。
これでは古い自民党と変わらないじゃないか、え、民主さん。

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2009年9月13日 (日)

イエロー・サブマリン

Ys

ビートルズのCDのリマスター版とかいうのがすごい人気である。
わたしはビートルズの曲のすみからすみまで知っている熱心なファンだから、そのCDに興味がないわけでもないけど、いい音響で聴くためにはいい音響設備が必要なことを知っているし、なにより、いま持っている音楽をもうひとつ買い揃えるほどサイフに余裕があるわけじゃない。
宝くじでも当たらないかぎり、彼らの音楽は若いころの感動とともに、思い出の中に封印しておくのが適切じゃないかと思っている。

そんなことよりネット・ニュースにちと気になる記事が。
1968年に公開された 「ビートルズのイエロー・サブマリン」 というアニメ映画が、ディズニーの手で3Dアニメとしてよみがえるらしい。
わたしがこのオリジナルの 「イエロー・サブマリン」 の絵を最初に見たのは、週刊文春か新潮か、この映画を紹介する週刊誌のグラビア記事だったけど、すでに地位を確立した有名作家のものは別にして、ひと目見ただけで強烈な芸術的センスを感じる絵というものは、そんなにたくさんあるわけじゃない。

だけど、「イエロー・サブマリン」 の絵を見たときはショックだった (添付した画像がそれ)。
なんてことのない絵じゃないかという人は、1968年にさかのぼって青春を体験してみればいい。
マンガ青年だったわたしは、それから公開までのほんのわずかな期間を一日千秋の思いで待ったものである。

Bea01

オリジナルのアニメを作ったのはジョージ・ダニングというカナダ出身のアニメーターで、なんでもアニメの詩人とよばれていた人だそうだけど、極端なデフォルメ、ゆたかな色彩感覚と斬新なポップ感覚、音楽と愛を融合させた当時のビートルズのポリシーぴったりのストーリーなど、ものすごい才能のある人がいるもんだと感動したものだ。

ここに載せた画像の左上にあるのが彼の写真。

彼は1979年に59歳で早逝したけど、写真をみると前頭部が出ていて、そういえば谷内六郎さんに共通する異常な天才の風貌だなあなんて思ってしまう。
こう書いてから、ふと気になって調べてみたら、谷内六郎さんもほとんど同じ年齢で亡くなっていた。
異常な天才の寿命というのはこのくらいなのか。

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2009年9月11日 (金)

ゴイサギ

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わたしのブログでは、これまで散歩コースで見かけるいろいろな動植物を紹介してきたけど、そこに新たな歴史をきざむ・・・・・・ といっちゃオーバーですけどね。
今日見かけたのはゴイサギ。
あんまりそんなふうには見えませんが、これでもむかしの天皇さまから五位の官職をいただいたエラい鳥さん (だそうです)。
それにしちゃ、なんかもうすこし胸をはって生きろよといいたくなってしまいます。

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2009年9月10日 (木)

郵便局長会会長サン

朝日新聞が 「新政権・わたしはこう見る」 という連載をしているけど、今朝のそれでは郵政民営化について全国郵便局長会会長という人が発言していた。
もう読まなくて内容がわかっちゃう立場の人の発言だけど、民主党が政権をとって嬉しさがありありというところ。
読んでいてむかっ腹が立ってきた。

冒頭に 「(支持してきた) 国民新党のナントカさんとカントカさんが落選したのは断腸の思い」 とあるけど、こういう立場の人が特定の政治家、政党を支持していいのか。
それをどうどうと公言していいのか。
これでは全国郵便局長会というのが利権団体で、この発言は自分たちの利権を守るためのものであることを証明しているようなもんじゃないか。

予想どおり、郵政民営化のアラばかりあげへつらっているけど、たとえば
「郵便局長は地域に根を張って地域活性化や文化貢献を図る役割を担ってきた」
「民営化で事務量が増えてそうしたことができなくなり、コンビニと変わらなくなった」
これはひっくり返せば、予算無視で地域活性化や文化貢献を図っていたから赤字が積み重なったんじゃないかといえなくもない。
『事務量が増えて、コンビニと変わらなくなった』 というのも、それじゃあロクに仕事もしないで給料をもらっていたのかということになる。

民営商店であるコンビニは、郵便局長会なんぞの想像もできないくらい、血のにじむ思いで合理化を追求しているところである。
郵政民営化というのは郵便局長サンたちにもコンビニなみに働いてもらおう、赤字を消すためにはあるていどサービスの犠牲はやむを得ないという政策なのである。
利権団体にしゃりしゃり出しゃばってほしくないというのがわたしの気持ち。
日本には利権団体がゴマンとあるのだ。そんなものの言い分をすべて聞いていたら、日本は確実に破産だ。
民主党も本気で赤字解消、予算ねん出を図るなら、全国郵便局長会会長サンのゴタクなんぞは無視して、その脳天に正義の鉄槌を振り下ろすべきである。

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和風は河谷いっぱいに吹く

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近所の里山では、さわやかな秋空の下、田んぼにイネが重そうに穂をたれている。
こういう風景を見て、ブログに何を書くかというと、じつは以前から書きたかったことがあるのである。

アメニモ負ケズの詩人・宮沢賢治の理想は、挫折したことのほうが多かったようだけど、その詩 「和風は河谷いっぱいに吹く」 は、数少ない彼の理想主義の凱歌といわれ、わたしのもっとも好きな詩のひとつである。
ここでは農地改革に熱意をこめた彼の努力が、報われたさまがうたわれている。
といっても、これが現実にあったことかどうかは確かじゃないけど。

そんな細末なことは無視しても、今日のような秋空の下でこの詩を口ずさむのは楽しいことである。
長いのでほんの最後の部分だけを紹介するけど、この詩を読むときは末尾を上げて切羽つまったようにうたい終わるのがヨロシイ。
  あゝわれわれは曠野のなかに
  芦とも見えるまで逞ましくさやぐ稲田のなかに
  素朴なむかしの神々のやうに
  べんぶしてもべんぶしても足りない

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2009年9月 8日 (火)

ブログ

わたしは自分のブログにカウンターをつけていない。
どうせ自己満足みたいなもんだから、他人に読まれるかどうかなんてことは気にしないという主義だったんだけど、@nifty のココログというブログは、別の方法でアクセス回数やカウンターの数字を確認することができる。

9月8日現在でカウンターは29094を示しており、わたしはブログを開設したときゼロからスタートしたから、これは正直な数字である。
アクセス回数は少ない日で40、多い日で90ぐらいを推移し、8月9日には 177という数字を記録したことがある。
平凡な個人の、ぜんぜん宣伝もしていないブログとしては、多いのか少ないのかわからないけど、まあ、数字は気にしないことにしよう。

世間にはアクセス回数を増やし、カウンターの数字を上げることに血なまこになっている人もいるようだけど、アクセス回数を上げる方法はまめな更新につきるようである。
過去4カ月のアクセスの推移をみると、熱心に更新をした7月はアクセスもぐんと増えているのである。

世間のブログを見ると、読者のコメント、それに対する応答なんかがたくさんついていて、にぎやかで楽しそうなものもある。
ま、ちっとはうらやましいと思うけど、絵文字なんかがたくさん使われているところをみると、そういうブログはたいてい若い人のブログらしい。
とくに女の子のブログはコメントがつきやすいようだ。
そう考えると、知性と教養を必要とする (?) 大人のためのわたしのブログに反応がないのはやむを得ない。
女の子からコメントがつけば、大急ぎで返事を書くつもりでいるんだけどねえ。

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2009年9月 7日 (月)

停滞

そのうち旅にでも出かけようと思っている (と書くと、この不景気なご時世にオメデタイやつだと思われかねないが、なんの、わたしはじっさいに出発に至らないくせに、出かけることはしょっちゅう考えているのだ)。

困るのは留守中のぬか漬けと鉢植え植物の扱いだ。
鉢植えのほうは階下の金髪クンに、彼は植物が好きそうなのでおまかせしてもいいが、ぬか漬けのほうは日本人が相手じゃないと頼みにくい。
気軽に出かけるのは4、5日の旅行が多いので、そのていどならぬか漬けの表面に塩をふっておけばいいそうだ。
それ以上になると、ぬか床をいったん冷蔵庫に入れておけばいいとか、話がだんだんしちめんどくさくなってくる。
出かけること自体、まだ妄想にすぎないのに、まずぬか漬けあたりで旅が停滞である。 ヤレヤレ。

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2009年9月 5日 (土)

漁村

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ちょっと目的があって、ネットで漁村の写真を探していたら、たまたま見つけた写真がコレ。
最初は絵なのか写真なのかとめんくらった写真だ。
絵だとしたら、このブログのいちばん最初のころに紹介した、熊本のKさんのリトグラフを思わせる。

しかし絵ではなく、これは正真正銘の写真であるらしい。
撮影者のブログに撮影時の機材やメモが載っていて、画像修正ソフトも使われているようだから、正真正銘というのは間違いかもしれないけど。
くわしくは以下のブログを参照のこと。
http://dg1217.seesaa.net/article/113270104.html

写真に修正ソフトを使うのは邪道だという人もいるけど、ようは使い手の資質の問題だ。
まったく修正しない傑作を撮れる人がそれほどたくさんいるとは思えないし、結果的にいい写真、おもしろい作品に仕上がっていればかまわないというのがわたしのスタンス。

つげ義春の作品によく漁村が登場するけど、漁村というのは不思議な感覚に満ちていて、写真を撮るにはおもしろい被写体の多いところである。

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2009年9月 3日 (木)

風の盆歌

「おわら風の盆」 というのは、高橋治という作家の書いた 「風の盆恋歌」 で有名になったお祭りだそうである。
わたしはこの作家をよく知らないし、上記の小説も読んでないから、作品についてああだこうだいう資格がない (そのうち読んでやろうと思っている)。

ネット・ニュースに、この1日から 「おわら風の盆」 が始まったとあった。
写真で見ると編み笠にあでやかな浴衣の女性たちが踊っている。
その女性たちがみんな美しくみえるのは、編み笠で顔を隠しているせいかもしれないけど、なんでもひじょうに哀愁をおびたお祭りだそうである。
どんなものかじっさいのお祭りを見てみたいと思ったが、越中富山まで出かけるのは大変だ。
そういうときには YouTube を検索する。
大きな催しものなら、たいていはその映像が YouTube に載っているものである。
いやホント、便利な時代になったものだ。

そういうわけで、YouTube 上にこのお祭りの映像をたくさん見つけた。
浴衣の女性たちがむかしもこんなに美しかったかどうかはちと疑問だけど、三味線や胡弓をまじえたそのお囃しには、子どものころこのお祭りを見た人にとっては、たしかに夢の中から聴こえてくるようななつかしい響きがあるだろう。

現地まで行って見たいとむずむずするけど、たぶんもう遅いにちがいない。
お祭りがこんなに有名になってしまって、トイレに行けないほどの人ごみでスリに遭う可能性の注意書きまで出回るようでは、混雑のキライなわたしにはとても割り込めるところじゃなさそうだ。

まだこのお祭りが全国規模になるまえに、むかしながらの町屋の軒下で、まだ素朴なこのお祭りを観ることができた人、そして大人になってからそのお囃しをなつかしく思い出せる人は幸せである。
わたしの思い出の中にも故郷の盆踊り唄があるけど、それは 「八木節」 だからなあ。
ちょいと出ました、三角野郎が、四角四面のヤグラの上でぇだもんね。
聴く人にとっちゃそれなり情感のあるものだけど、ちょっと哀愁とは縁がなさそう。

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2009年9月 1日 (火)

どうなっちゃうのか

ヘソ曲がりのわたしがなんていうか楽しみにしているアナタ。
予想どおりの展開なんで、この選挙についてとくにいうべきことはありません。
ただ、ねえ。
今年は蚊が少ないってことをこのブログでも書いたことがあるけど、どこか頼りない新しい政権と一緒で、なんか不気味な胎動を感じちまうな。

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