我々はどこへ行くのか
ゴーギャンの絵を観てきた。
国立近代美術館で公開されていた 『我々はどこから来たか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか』 という大作である。
変人同盟の大先輩であるゴーギャンを、もちろんわたしは好きだけど、その絵はあまり好きじゃない。
理由は、彼の描くタヒチの女性があまり美人ではなく、どっちかというとグロテスクに見えるということらしい。
人間の美醜なんてそれを見る者によっていかようにも解釈できるというから、わたしの見方は邪道なんだけど、女性はやっぱり美人のほうがエエ。
そんな無理解なわたしにも、たとえば 『かぐわしき大地』 なんてタヒチの絵は傑作だという気がする。
タヒチに行くまえの 『浜辺に立つブルターニュの少女』、『ヤコブと天使の争い』 なんかも好きである。
しかし 『我々は・・・・・』 は、なんか混乱のようなものがうかがえて、傑作と思えない。
ということはこのブログでも書いた。
あとはやっぱり現物を観るっきゃない、ということも書いた。
それで東西線に乗って出かけたのである。
現物はさすがに、予想していた以上に根性をいれて描かれているようだった。
ゴーギャン本人も傑作のつもりで描いたといっているそうだから、これはやはり傑作なんだろう。
しかしこの絵を仔細にながめると、部分的に、どうみてもデフォルメと思えない奇妙な人物などが目立つ。
ゴーギャンは人物の手足を極端に大きく描くことがよくあるけど、それとは異なるようで、大画家に対してはおそれ多いけど、どうも彼は正確なデッサンがニガ手な人ではなかったかと思えてしまうのである。
この絵の意味をめぐってはさまざまな意見があるそうである。
わたしも考えてみたが、絵の両側にいる赤ん坊と老婆が、誕生と死を意味していることはすぐわかる。まん中の人物がリンゴをとるアダム (かイヴ) であることも、なんとなくそうじゃないかなという気がする。
しかしそれ以上のことは、ゴーギャン研究者でもないわたしにはサッパリ。
死んでしまったゴーギャンにいまさら聞いてみるわけにもいかない。
そうかといって作家や批評家の意見にかたっぱしから耳をかたむけるほどわたしは熱烈なファンでもない。
個展で意外に思ったのは、『我々は・・・・・』と同じような絵、似たようなポーズの人物、動物などが、ほかにもたくさん描かれているのを知ったことだった。
『我々は・・・・・』 は、そうした絵の集大成だったらしい。
ゴーギャンの書簡や書きつけによると、彼もそう考えていたらしいことがうかがえる。
この絵を描き終えたあと、彼は自殺を図っている。
それが未遂に終わったあとで、彼は、サイズはもっと小さいけど、ふたたび同じような構図の絵を描いているのである。
ゴーギャンにとって、生きているかぎり画業の終着駅はなかったのだということを、『我々は・・・・・』 という絵は証明しているように思える。
つまりこの絵はけっして完成作品ではなかったのではないか。
彼もけっして満足していなかったのではないだろうか (あくまでわたしのロマンチックな妄想だけど)。
だから、ひたむきに絵を追求し続けた彼の死は、ヘーラクレースの死のように、ようやく「悩み多き人生の終わり」であったことをわたしは疑わないのである。
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