百閒先生
関川夏央の 「汽車旅放浪記」 を読んでいたら、内田百閒のことが出ていた。
内田百閒は自分の家の戸口にこんなことを書いておくほど、皮肉屋のユーモリストだったそうである。
世の中に人の来るこそうれしけれ とはいうもののお前ではなし
百閒が鉄道が大好きだったかどうかは意見の分かれるところだけど、この人は 「阿房列車」 という列車の乗車記を書いている。
紀行記ではなく乗車記であるところがミソだけど、はじめてこの本を目にしたときは 「阿房列車」 の意味がわからず、わたしもむかし乗ったことのある安房方面の列車 (房総線) のことを書いた本かなと思った。
ところがこれはじつは 「あほうれっしゃ」 と読む、人をくったタイトルの本だった。
わたしは旅が好き、旅に関係のあることならたいていのものが好きだから、この本も読んでみたはずだけど、あまり記憶に残っていない。
関川夏央サンによると、なかなかおもしろい本だとあるのに、なんでそれが記憶に残ってないんだろう。
内田百閒は夏目漱石の門下生で、「阿房列車」 のほかに、「冥途」 という夢みたいな (じっさい夢なんだけど) 短編ばかりを集めた本がある。
「冥途」 を読んだのは漱石の 「夢十夜」 を読んだあとだったので、ははあ、百閒先生、こんな小説ならオレにも書けると思いやがったなと感じた。
漱石の 「夢十夜」 は、人間の潜在意識にまで踏み込んだ傑作だと思うけど、なにしろ夢の中の話だから、根拠を問われることもない、苦情がくるわけもない。
マネしようと思えば似たようなものは誰にでも書ける。
しかし漱石の作品にあった曖昧模糊とした夢の特質、走っても走ってもその場からぜんぜん動けていないというような本物の恐怖が、目がさめるととたんに雲散霧消のどんでん返し、そんな特質を巧みに文章化することは、凡庸な作家にできることではない。
自分は積んである薪を片っ端から彫って見たが、どれもこれも仁王を蔵しているのはなかった。ついに明治の木にはとうてい仁王は埋っていないものだと悟った。それで運慶が今日まで生きている理由もほぼ解った。
自分が百合から顔を離す拍子に思わず、遠い空を見たら、暁の星がたった一つ瞬いていた。
「百年はもう来ていたんだな」 とこの時始めて気がついた。
書かれている内容が深刻な割には、結末は夢からさめたようにあっけない。
潜在意識については他の多くの批評家にまかせるけど、わたしが 「夢十夜」 で技巧的に感心するのはこんなところである。
「冥途」 を読んで、潜在意識をもたない百閒さんに潜在意識が書けるはずがないでしょと、ちょっと乱暴な見立てだけど、それがそののちわたしの百閒に対する偏見になってしまった。
彼の本が印象に残らないのはそれが原因かもしれない。
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