牡蠣の殻
「牡蠣の殻」 というのは蒲原有明の、よく人口に膾炙した有名な詩である。
なんで人口に膾炙したかっていうと、この詩は高校の教科書に載っていたからだ (今でも載っているかどうか知らないけど)。
高校時代のクラスメートのひとりも、この詩の断片を教科書に書きこんでいたから、これに感動した同輩は少なくなかったと思う。
教師に、“遠野が鳩” ってなんですかと質問した者もいる。
昔のことだからはっきりおぼえてないけど、これはやさしいものの象徴ですと、たしか先生はそう答えていた。
わたしに影響をあたえたもっとも初期の詩だけど、ちょっと古風な文語文なのでわかりにくいところがある。
しかしその七五調の韻の美しさから、青二才のわたしは意味もわからないまま暗誦していたものである。
この詩についてブログに書くつもりで、念のため調べてみたら、わたしの知っている 「牡蠣の殻」 と異なる部分があることに気がついた。
ネットに載っていた詩は以下の通りで、これが本来の姿らしい。
牡蠣に殻なる牡蠣の身の、かくも涯なき海にして、
生のいのちの味気なきそのおもいこそ悲しけれ。
身はこれ盲目、巖かげにただ術もなくねむれども、
ねざむるままに大海の潮の満干をおぼゆめり。
いかに朝明、朝じほの色青みきて、溢るるも、
黙し痛める牡蠣の身のあまりにせまき牡蠣の殻。
よしや清しき夕づつの光は浪の穂に照りて、
遠野が鳩のおもかげに似たりというも何かせむ。
痛ましきかな、わだつみのふかきしらべに聞き恍れて、
夜もまた晝もわきがたく、愁にとざす殻の宿
さもあらばあれ、暴風吹き、海の怒りの猛き日に、
殻も砕けと、牡蠣の身の請ひのまぬやは、おもひわびつつ。
わたしがおぼえているのは、たしか第1節が
牡蠣の殻なる牡蠣の身の、かくも涯なき海にして、
ひとりあやうくかぎりある、そのおもひこそ悲しけれ。
となっていたように思う。
第2節以下も、わたしの記憶ではちがっている部分が何か所かある。
身はこれ盲目すべもなく厳のかげにねむれども、
ねざむるままに大海の潮の満干をおぼゆめり。
いかに朝明、朝じほの色しも清くひたすとも、
朽つるままなる牡蠣の身のあまりにせまき牡蠣の殻。
“遠野が鳩” の部分も、遠野が鳩のおもかげに似たりとてはた何ならむ、だったように記憶している。
理由はよくわからないけど、わたしの記憶ちがいでなければ、この詩には別バージョンがあるらしい。
象徴詩ということで、じゃ何を象徴しているのかと考えると、最近ちまたに増えているひきこもり症人間のこころのうちとでもいうか。
高校時代からわたしもそういう傾向があるので、ついしみじみ。
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コメント
いま、蒲原有明について小文を書いているのですが、有明は自分の作品をのちに改変しているのです。これが改悪で評判がよろしくない。朔太郎も最初はとても持ち上げて、あとで痛罵しているようです。
だからどちらが本物か? わたしは最初の作が本来の作品と信じたい。
また有明は、たしかに30歳を過ぎて、引きこもり気味であったようです。
投稿: うさ公 | 2014年10月26日 (日) 12時58分
うさ公さんのコメントだけでは、どっちが最初の作かわかりませんけど、わたしはあとでネットで読んだものより、自分の記憶の中にあるもののほうが好きですねえ。
え、わたし?
あいかわらず、ますますひきこもってます。
投稿: | 2014年10月26日 (日) 14時35分