2010年3月31日 (水)
春は思わせぶりに足踏みしているみたいだけど、散歩に出かければこの季節の風物詩のツクシン坊を見ることができる。
ツクシがスギナの花だということは誰でも知っている。
あまり鑑賞にたえない花だけど、食材にはたえるようで、ネットで探すとツクシのレシピなんてのもたくさん見つかる。
ツクシご飯やツクシの卵とじなんて美味しそうだけど、わたしはまだツクシを食べたことはない。
おしたしはいつもスーパーのホウレンソウで作るのである。
わたしの散歩道でも、ツクシを見つけるのはむずかしくない。
たまに草むらに首をつっこんでいる人を見かけることがあるけど、あれは食材としてのツクシを採っているのかもしれない。
ただそんなに数が多いわけではないから、イヌの散歩や頭上のサクラばかりに気をとられていると見逃してしまう。
その程度だと思っていた。
ところがコンビニに買物に行ったとき、たまたまある場所でツクシの大群落を発見してしまった。
あるところにはあるものだ。
場所は近所の園芸農家の畑のわきである。
これだけあれば食材として十分だけど、人さまの敷地だからむやみに入って摘むというわけにはいかない。
このツクシたちは幸せな場所を見つけたものである。
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2010年3月30日 (火)
トルコ旅行の付記みたいになるけど、わたしはその旅で、帰りの飛行機からながめたロシアの荒涼とした雪景色が忘れられない。
機内のモニターで見ていると、飛行機は乗り継ぎのモスクワを出たあと、シベリアの上空を飛んでハバロフスクに接近していた。
窓から見えるのは一面の白い世界である。
そんな中を蛇行する、あるいは無数に枝分かれした大河が流れているのが見える。
1月から2月にかけての旅だったから、もちろん川面はまっ白に氷結しているのである。
わたしは冬のシベリアに思いをはせる。
この厳寒の世界に、キツネやウサギ、イタチ、テンのような無数の生きものが生息していることを疑わない。
死んだようなこの世界こそが、現在では世界中でもっとも多くの野性が見られるところだということを信じて疑わないのである。
わたしの部屋にロシア民謡のCDがある。
その中の 1曲 「アムール河の波」 は、わたしにこうしたシベリアの原野を思い起こさせる。
歌の後半で、いっしゅん歌声がとぎれ、やがてふたたびかすかなコーラスとなってわきあがってくるところが、まるでタイガ (針葉樹の森) の奥から聴こえてくる妖精たちの歌声のようである。
わたしが飛行機の中から見た大河は、アムール河そのものだったようだ。
その岸辺に立ってみたいものだと切実に思う。
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2010年3月29日 (月)
キャンザス州ホルカム村で牧場主の家族4人が惨殺されたのは1959年のことである。
と書けば、ピンとくる人は多いはず。
作家のトルーマン・カポーティはこの事件に注目し、くわしい取材をして、「冷血」 という小説を書いた。
現実にあった事件をドキュメンタリーふうに小説にしたので、これはノンフィクション (創作ではない) ノベルと分類されるそうである。
小説の分類なんかをゴタゴタいうつもりはないけど、なんで 「冷血」の ことを書くかというと、テレビから録画しておいたものの、観る時間がなくてHD内にほうっておいた映画 「カポーティ」をようやく観たからだ。
じつをいうと、わたしはこの映画を公開当時に映画館でも観ている。
あまりおもしろいと思った記憶がないんだけど、テレビで放映されたものを観て、やっぱりおもしろいとは思わなかった。
映画 「カポーティ」 は小説の映画化ではなく、小説を書いたカポーティの心理に重点が置かれていて、殺人や絞首刑の場面も出てくるけど、大きなヤマ場があるわけでもなくたんたんと進行する。
そういう映画がわるいとはいわないけど、殺人者のひとりに同情してしまう作家の心理といわれてもよくわからなかったし、売りモノが主演のP・シーモア・ホフマンの、そっくりさん演技だけってんじゃあねえ。
刑務所で熱を出した囚人に作家が水をやって友情をはぐくむとか、囚人に面会中にそのかたわらを死刑囚が絞首台にひかれていくなんて、米国じゃホントにそんなことがありかいと納得できない部分もある。
一見すると思わせぶりな芸術作品のようだけど、これもわたしのキライな、優等生がつくったまじめ一方の未熟な作品にしか思えない。
ユーモアのかけらもないってやつだ。
わたしは原作の 「冷血」 を読んだあと、作家のカポーティに興味をもって、彼の自伝を読んだり、伝わってくるスキャンダルに耳をそばだたせたりした。
スキャンダルが不思議ではないくらい、カポーティは破天荒な作家だったようである。
ヘタすると彼の生きざまはその小説よりもおもしろかったかもしれない。
「カポーティ」 にも作家の講演会の場面などが出てくるけど、ユーモアのある会話をそのまま映像化するなんて誰にでもできることだ。
「カポーティ」 は2005年の比較的新しい映画だけど、小説のほうはとっくの昔に映画化されている。
リチャード・ブルックス監督が1967年につくった 「冷血」 である。
監督はこの映画で、じっさいの殺人犯に似た無名の俳優を起用して、モノクロで徹底的にリアルな映像にこだわった。
こちらは殺人者の軌跡と心理が描かれていて、なかなか見ごたえのある作品になっていた。
ユーモアがないとはいわせない。
添付した写真はじっさいの犯人たちで、左がスミス、右がヒコック。
原作の 「冷血」 は、全編が思わずこぶしをにぎりしめるような緊迫感に満ちているけど、最後の3ページほど (新潮文庫による) で、すうっと肩の荷が下りたように平和な光景で終わりになる。
わたしはこの部分で、エミリー・ブロンテの 「嵐が丘」 のラストシーンを思い出した。
主要登場人物がすべて幕あいに姿を消したあと、あとに新しい人生を迎えようとする若者たちの未来が暗示されて終わるのである。
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2010年3月28日 (日)

行ってきました。
土曜日はもとの会社の同僚の送別会、今日はあの3D映画の 「アバター」 を観に。
「アバター」 は、まあ期待にそぐわぬアホらしさ。
CGを使ったSFアクションのドンパチ映画だし、監督がジェームズ・キャメロンだし、なにしろ今の米国映画だし、期待するほうがムリってなもん。
そんなに期待しないなら行かなきゃいいんだけど、知り合いがどうしても観たいっていうもんで。
ま、映画の新しい技術ってのにも関心があるからね。
けなしてばかりいちゃ気のドクだから、ほめるところも挙げておくけど、まず未来のコンピューター等のデザインの秀逸さ(戦闘ヘリや火器のデザインはどっかで見たようなものばかりだけど)、登場するさまざまな大道具、小道具の凝り加減など、これはとてもひとりじゃできない。
大勢のスタッフが頭をしぼったにちがいない。
また羽のはえたトカゲみたいな怪獣にまたがって、絶壁から大空に飛び出すシーンの浮遊感や飛翔感は、胸がスカッとするくらい爽快。
それにしても出てくる怪獣がなんで爬虫類型ばかりなんだろね。
大勢のスタッフが頭をしぼったのは、映画のテーマもそう。
ただのアクションじゃ尊敬されないし、アカデミー賞ももらえない。
なんか崇高な主題をというわけで、自然保護や原始的生活こそ大切だなんてテーマをひねくり出した。
しかしラストのCGばっかりの、あいかわらずのあり得ない、ご都合主義のドンパチがすべてを帳消し。
ま、ジェームズ・キャメロンだからなあ。
3D映画としては、この技術はけっして新しいものではない。
わたしは20年も前にディズニーランドで観たことがあるし、CGが軌道に乗り始めたころ、新宿でも観たことがある。
自然や古い生活を蹂躙する現代文明を、崇高な主題で批判しようというなら、どうしてもっとゆったりした映画にしなかったのかと思うけど、これはようするにわたしの世代が現代の基準からじょじょにズレているということらしい。
こういう映画が好きだというテレビゲームっ子のお若い衆。
キミらの未来はキミらのものだ。
それが最悪のものであってもわたしら責任持たんよ。
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2010年3月26日 (金)
前項でわたしは絵が上手いんだということを強調した。
さて、添付したイラストは、わたしが所属している団体のホームページのために、3Dソフトで描いたものだけど、じつはこの絵は最初はペン画にする予定だった。
それも素描による簡単なペン画で、ヘタに見えれば見えるほどいいという感じにするつもりだったものである。
手近な例でいうと、わたしが講読している朝日新聞の夕刊に連載中のしりあがり寿さんの絵みたいなのが理想(彼の絵がヘタというわけじゃないんだけどね)。
そんな幼児が描いたような素朴なタッチの絵を、文章のあいだにさりげなく置く。
絵を見た人が、ひと呼吸おいてからニンマリする。
これがわたしの理想だけど、やってみたら簡単そうでむずかしい。
絵の上手い人間がヘタな絵を描くのだから、簡単なことだろうと思ったけど、どうしてどうして。
ヘタに描くことはできても、肝心の味わいがどうしても出ないのである。
米国の雑誌なんかには、よく単純な線で描かれたひとコマ漫画が載っているけど、あれは絵の意味だけではなく、絵そのものがかもし出すユーモアが効いているのだ。
何枚か描いてみて、とうとうわたしは放り出した。
3Dソフトで描くほうがよっぽど簡単だ。
しかしそれでは味わいという点で、素朴なペン画に遠くおよばないのである。
たかがマンガというなかれ。絵はむずかしい。
この絵をたとえば、やはり朝日新聞に時事マンガを描いている山田紳さんが描いたらどうだろう。
わたしはこのマンガ家も高く評価しているけれど、やっぱりわたしの頭の中にある絵とはどこかイメージが違うのである。
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先日、わが家に滞在していた芸術家くずれの熊本のKさんと、酒を酌み交わしながらいろいろ雑談したとき、芸術で食っていくのは大変だという話が出た。
Kさんの上京の理由は旧知の彫刻家の病気見舞いということで、この彫刻家はその道ではかなり有名な人らしいけど、やはり大邸宅にふんぞり返って老後を安閑と暮らせているわけではないらしい。
Kさん自身も生来の手先の器用さで、笛やペンを作ってなんとかその日をしのいでいるといった塩梅で、イヌやネコと左うちわで生活しているわけではないのである。
芸術家にあこがれる若者は多いけど、創作活動によろこびを見出すならまだしも、経済的にワリが合うなんてゼッタイに思わないことだ。
Kさんと話をしていて、わたしも悲観的になってしまった。
わたしの場合これから芸術の世界に乗り出すには遅すぎるから、せめて老後のなぐさめに春画でも描くか。
思い切りいやらしいマンガを描いてホームページに載せる。
これは自分への回春効果もありそうだし、世間にはいやらしいものが大好きというご仁が多いというから、アクセスが殺到して、コマーシャルをつければ年金の足しになるかも。
アマイ、アマイ。
わかっている。これはまあ、夢である。
わたしはマンガ家をこころざしたことがあるので、マンガを描くならまあまあの腕だと思っている。
添付したイラストはボールペンでさらさらと、20秒くらいで描いたものである。
ヘタな絵じゃねえかという人がいるだろうけど、本来はエンピツで描いてきちんと墨入れをするもので、そうやって完成したものは、とってもスバラシイ女の子の絵になるはずである。
なんでこんな絵をブログに載せたかというと、じつは次回の記事のための伏線だ。
つまり、わたしは絵が得意なのである、ということを承知しておいてほしいのである。
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2010年3月24日 (水)
古い日本の風景をよくうたった銀行員上がりの詩人、田中冬二に 「鷽鳥 (うそどり)」 という作品がある。
ネットで検索してみたけど、引っかからなかったから、あまり世間に知られている詩ではないのかもしれない。
雨降れ 雨降れ と
山で鷽が雨をよんでゐる
山は雨になる
峠の雪が消えはじめる
その雪の中に かたくりの花が咲いてゐる
雨降れ 雨降れ と
里へ来てまた鷽が雨をよんでゐる
里は雨になる
雨に障子をとざしている家
軒下で鶏があそんでゐる
あんずの花がさいてゐる
その花が鯉を飼ってゐる池の面に
うつってゐる
麦は八九寸にのびてゐる
あんずの花の中で鷽がないてゐる
民話調というのか童話調というのか、素朴で愛くるしい詩である。
今日みたいな雨の日にぴったりの詩かもしれない。
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2010年3月23日 (火)
わたしのアパートの階下に金髪の若者が住んでいる。
彼は日本の国籍を持っているんだけど、そのへんの事情についてあれこれいうのはひかえることにして、ざっくばらんにいうと彼はもともとはロシアの人である。
その彼がいまロシアに里帰りしている。
そしてあちらからメールをくれる。
わたしは以前中国にも知り合いがいて、内陸の蘭州というところからしょっちゅうメールをもらったことがある。
かって鉄のカーテン、あるいは竹のカーテンの向こうにあった国々から、ほいほいと気軽にメールが舞い込むなんて、なかなか開けた世の中になったもんである。
ただし、わたしは中国語はちょぼちょぼ、ロシア語なんてまるっきりわからない。
中国語の場合は字引きを引きつつ、自分でなんとか翻訳していたけど、あちらのメールを日本語に翻訳し、こちらの返事をまた中国語に翻訳しなくちゃならないので、ひじょうに面倒くさかった。
ロシア語の場合は、じつは金髪クンも子供のころに日本にやってきたので、あまりロシア語は得意じゃないのである。
そこでローマ字でメールのやりとりをすることにした。
だいたい、ロシアのパソコンに日本語環境が備わっているかどうかわからないから、これはお互いに都合がいい。
わたしにとってずっと昔からロシアはあこがれの対象だった。
金髪クンはサンクトペテルブルクの近郊に住む親戚の家に滞在しているそうだから、そのあたりの写真でもじゃんじゃん送ってほしいけれど、やっこさん、カメラを持ってないらしい。
こちらからは日本の風物をとらえた写真をどしどし送ってやるつもりだけど、残念なことである。
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2010年3月22日 (月)
ようやく嵐が過ぎ去ったという感じ。
数日まえの3日間ばかり、わたしの部屋にこのブログでときどきふれる熊本のKさんが泊まっていた。
彼は挫折した芸術家で、絵なんか描かせるとなかなかいい仕事をする人である。
また楽器を使わせると玄人はだしの腕前を見せたりする。
手先の器用さでもって、現在は竹でペンを作ったり、お神楽用の笛を作ったりして生計を立てているという。
詳しいことは彼のホームページを参照のこと。
http://ekaki.ina-ka.com/
ただ、この人の欠点は酒に呑まれちまうってことだ。
それも呑みすぎて留置場にたたっこまれ、気がついたら病院の精神科にいたってんだから、ハンパじゃない。
つまり芸術家のひとつの典型であると、わたしはそんな彼に理解をしめす、この世界でゆいいつの人間かもしれない。
常識的でまっとうな人生というものがキライなわたしは、こういう人間のサンプルにおおいに関心がある。
留置場や精神科なんて経験したことがないもんで。
で、彼が上京するのに宿がないというから、家に泊めてやることにしたのだった。
Kさんはヘビースモーカーでもある。
呑みつぶれて寝タバコでもやられたらたまらないので、彼を泊めるのは3日が限度。
アル中につける薬はないってのがわたしの信念だけど、上京中のKさんは暴風雨のようにあばれまくった。
へべれけになった状態で、かたっぱしから知り合いに電話をし、そのうちの何軒かにはじっさいに押し掛けて酒を要求したそうである。
なるほど。映画や文学に登場する呑ン兵衛そのものだなとわたし。
さすがに終わりのほうでは息切れがしたみたいで、自己嫌悪にでもおそわれたのか、しょぼんとしてしまい、冷静な観察者のわたしは、中原中也もこうだったんだろうなとウイスキーをちびちびやりながら推察する。
もちろんこの酒はKさんに呑ませないのである。
友人たちは大変だったろうと同情してくれたけど、Kさんが退去してふたたび静かな日常をとりもどしたわたしは、またバーボンをちびちびやりながら考える。
大変なことは事実だったけど、かりにどこかのまっとうな人間が泊めてくれといってきたらどうか。
ちゃんと結婚して、家庭を持って、子供を大学にやって、定年退職をして、毎日やることがなくて退屈しているような人間を泊めるよりは、ずっとマシな3日間だったんじゃないだろうかねえ。
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前項に続いて、萌えいずる春のいぶきの具体例を3つばかり。
いちばん上はイヌフグリ。
1年中咲いているような気がする、めずらしくもない小さな春の花ですが、このブログで紹介するのは初めてなんですね。
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2010年3月21日 (日)
昨夜は地鳴りのような風の音で目をさましてしまった。
ガラス窓をすかして外の闇を見つめると、庭の竹やぶがわさわさと揺れ、大きなケヤキの木までゆらりゆらりと身もだえをしているのが見えた。
うーんともの思いにふける。
ロマン・ローランの小説に、雷鳴の夜に不遇な人々の人生を思いやるような一節があったと記憶しているけど、ちょうどあんな感じ。
といってもわたしは博愛主義者ではないし、ロマン・ローランの小説を読み通したわけでもない。
単細胞の頭で、昼間はあんなにおだやかな日だったのにと思う。
散歩コースにはツクシが顔を出し、川面にのばしたバラの枝には新芽がのびていたけれど、そういうものが嵐の中でもみくちゃにされているんじゃなかろうかと考える。
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2010年3月19日 (金)
決着のついたクロマグロ騒動のその後をテレビで観ていたら、ヨーロッパのテレビ局の中には 「最大の消費国・日本の勝利」 なんて報道しているところがあった。
今回の否決の原因がどこにあるのか考えず、ただ自然保護や資源の浪費というわかりやすい観点からのみ考えて、また日本を自然破壊、資源浪費の張本人よばわりする人が増えるんじゃないか。
これじゃあいくら日本がエコ技術の先頭に立ってもどうにもならない。
日本ではクロマグロの完全養殖や、他のさまざまな方法で自然や資源に気を使っているんだということを、もっと広く宣伝するようにしないと、ますます日本人ギライという外国人が増えるだけに思えて仕方ない。
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今朝の新聞を読んでおどろいた。
クロマグロの件である。
ここ数日の新聞を読んでいるかぎり、取引禁止は確実なものと思っていたけど、あっとおどろく逆転劇だ。
「米国やEUは域内の漁や貿易を確保しながら、途上国には輸出するなといっている。 こんな勝手な言い分はない」
これは禁止に反対したリビアの言い分だそうだけど、これほど明確な反対理由があるのに、新聞はそうしたことを報道してこなかった。
結果がわかってから、中国が影響力を行使したとか、ミナミマグロの養殖が盛んなオーストラリアも将来の懸念から反対にまわったなんて、いろいろ否決の理由をならべているけど、もうちっとしっかりしてくれよと、これは新聞に対する注文である。
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2010年3月18日 (木)
SAPIOという右翼雑誌に載っていた映画評を読む。
日本のなんとかいう作家が、悪徳刑事を主人公にした米国映画について批評しているんだけど、ついこの作家に同情したくなってしまった。
彼はわたしより年上だけど、まあ、同じ団塊の世代といっていい人である。
そういう人が昨今の米国映画の批評をしなければならないなんて、いくら商売とはいえ因果なものだ。誉め言葉を探すのに、さぞかし苦労したんじゃあるまいか。
この映画に登場するのはドラッグ中毒の刑事だそうだ。
若いカップルからヤクをまき上げたり、高級娼婦におぼれたり、バクチに金をつぎこんだり、警察の情報をもらしたり、実生活ではアル中の父親に悩まされたりと、まあ、かなりどうしようもない刑事らしい。
しかし、そんな人間のくせに奇妙に正義感が強く、さえない顔をしているくせに犯人逮捕で実績を上げる・・・・・・・・んだそうだ。
ちょっとひねったつもりかもしれないけど、こんなストーリーを聞いただけで、また例によってマンガチックなアホらしい映画なんだろうという確信を持ってしまう。
フランスかイタリアの映画ならまだしも、なんせニコラス・ケイジ主演の米国映画だからなあ。

部屋にあった 「アスファルト・ジャングル」 という古い映画のDVDを観てみた。
この映画にも悪徳警官が登場するけど、こちらはノミ屋に手入れの情報を流してささやかなワイロを稼いだり、上司から小言をくらってしょぼくれたり、最後は情報をもらしていた相手とトラブルになって共に刑務所行きになってしまうといった塩梅で、はるかにリアリティある人物として描かれていた。
映画も素晴らしいけど、この映画でケンカっ早いヤクザを演じたスターリング・ヘイドンてのはいい役者だったよなあ。
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2010年3月17日 (水)
わたしのまわりにも中国ギライという人がいる。
なんだかわからないけど、とにかく中国が嫌いなんだそうだ。
たいていは一党独裁の共産主義がなんとかと理屈を並べるけど、少なくとも現在の中国よりひどい国はいくらでもある。
一種の人種差別じゃねえかと思ってしまうけど、こういう人は自分たちの置かれた状況を冷静にながめたことがあるんだろうか。
最近のクロマグロの国際取引禁止なんて騒ぎを見ていると、禁止に賛成する人たちは、いちおうは資源保護なんて名目をあげているようだけど、ホントにそんな高尚な問題かいと皮肉りたくなってしまう。
中にはクロマグロをパンダやシーラカンスと同レベルの絶滅危惧種にあげようなんて話もあるそうだ。
昨夜の 「クローズアップ現代」 でも取り上げていたけど、研究次第でサケのような完全養殖も可能とされる魚がなんで絶滅危惧種なのか。
日本を叩くよりもWWFに金でも出して、そういう研究をどんどん発展させたほうがいいと思うんだけど、どうもそういう問題じゃなさそうだ。
この世界にはなにがなんでも日本人がキライという人がいて、日本人をいじめられるなら理由なんてなんだっていいと考えているんじゃないか。
トヨタ叩きのほうは経済戦争の側面があるけど、クロマグロやクジラの問題は、わたしにはそんなふうに見えて仕方がない。
よその国のあそこがキライだ、ここが気にくわないなんてほざいていると、いつのまにか自分たちも他国から、なにがなんでもキライという存在になっているかもしれませんぜ。
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2010年3月16日 (火)
鳩山 (弟) クンが新党結成だなんて騒いでいるけど、どうもこの人は押し出しのよさで損をしているな。
どっしりとしたこのタイプを見ていると、まるっきり古いタイプの政治家の典型のように思えてしまう。
どうせやるなら渡辺クンや河野クンに騒いでほしかったね。
小泉クンも客寄せパンダを自認するなら、そういう若手グループの中でやってほしいねえ。
国民はつぎの参院選挙で投票すべき政党を選びあぐねているんだから、思い切った若手だけの政党にはつけ入るチャンスじゃないか。
ときどき思うんだけど、わたしは変人を売りものにしているけど、じつはきわめてまじめで常識的なヒトなのかもしれない。
映画や音楽に関してわたしの趣味はきわめて健全だと思うし、政治についてもほんとうは保守的なのかもしれないし、ケータイや絵文字なんて使う気にもなれないし。
変わっているのはそんなわたしみたいな常識人を非常識とみる世間のほうかもしんない。
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2010年3月15日 (月)
昨日は免許証の更新に行ってきた。
行くまえに知り合いからメールがきて、ちゃんとネクタイをしめて行きなさいとのこと。
わたしは冠婚葬祭以外にネクタイなんかしめたことのない人間だ。
なんの、と口ごたえをしようと思ったが、このへんは知り合いのほうが常識人で、わたしの常識は世間の非常識である。
それでネクタイをしめて出かけた。
ネクタイには、しょっちゅうしめている分にはそうでもないけど、たまにしめるとぜんぜんサマにならないという法則がある。 ヤレヤレ。
8時半から受け付けだというからぴったりその時間に行ってみたら、すでに3、400人ぐらいが列をつくっていた。
その中にネクタイなんてひとりもいない。
ウソだろう。人間がこれだけ集まってひとりもいないなんて。
わたしもそう思ったので、首をのばして必死に探してみたけど、いない、いない。
どっちを見ても、そうさな、場外馬券場の群衆みたいなフランク (といっていいのかどうか) な人ばかりだ。
そんな中には上下だらしないジャージーのトレパンのおっさんも混じっていて、こちらのほうがわたしよりずっと雰囲気に馴染んでいた。
めずらしく常識人であろうとしたわたしのもくろみは、現実のまえに、いや試験場の行列のまえに無残に砕け散って、かえってわたしの非常識がめだってしまったというわけだ。
くそ、つぎの更新を見ておれ。
とぼやきつつ、うらうらとした春の陽の下をぶらぶらと帰ってきた。
わたしの家は府中の試験場から徒歩で40分ぐらいなのである。
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2010年3月14日 (日)
今朝の新聞の川柳欄に 「そのうちに箸をやめろときっと言う」 だって。 あはは。
と笑っている場合じゃない。
資源保護のためにEUもクロマグロの捕獲禁止に傾いているそうで、日本のトロはそのうちに食べられくなる。
トロを食べなくても死なないから、わたしはあまり悩まないけど、こんなことが続くとホントに箸も禁止になりかねない (日本も気を使っていて、最近は成長の早い竹なんかを材料にしているのにね)。
マグロについては、ようするに天然のマグロを獲るからいけないので、完全養殖されたものならいいらしい。
完全養殖ってのは、卵からふ化させて親まで育てたもののことである。
よくサケの卵に精子をぶっかけている写真や映像を見るでしょ。 あれだ。
天然のマグロの稚魚を捕らえて、これを親まで育てるぐらいのことは現在でもやっているそうだけど、これでは完全とはいえないのである。
すでに海で泳いでいる稚魚を獲るのでは、やはり資源の枯渇につながってしまう。
完全養殖なら、なにしろ親の体内にある何万もの卵から育てるわけだから、数もきちんとコントロールできるし、ヘタすると増えすぎて生態系をみだすことになって、国際世論も、お願いだからどんどんマグロを食べてと、日本に哀願するようになるかもしれない。
そこまでいくかどうかは別にして、マグロがどんどん高価なものになれば、いかなる労苦をしても割が合うはずだから、日本は官民あげて完全養殖の研究にとりかかるべきだな。
うん、トロの未来はけっして悲観的ではない。
シー・シェパードの裁判がどうなるかわからないけど、クジラも捕獲の全面禁止が近そうだ。
なに、こちらも完全養殖すれば文句はいわれないのである。
クジラの卵と精子を採取してかきまぜる・・・・・・
そういうわけにはいかないか。
クジラは哺乳類だから、サケやマグロと同じようにはいくまい。
こちらは上野のパンダみたいに人工授精ということになるだろう。
しかしウシやウマとちがってパンダは神経質で、雄と雌をいっしょにしてもなかなかその気にならないらしい。
クジラだってなかなか神経質そうだ。
パンダの場合は麻酔で眠らせておいて、そのあいだに人工的に授精させてしまうらしいけど、たとえばシロナガスクジラなんか寝かせるだけでも大変だ。
しかも生まれてくるのは1頭 (か、せいぜい2頭)だ。
これでは割が合わない・・・・・・ こともないか。
なにしろ1頭が巨大なので、無事に成長させれば、マグロの何百、何千匹にも相当するだろう。
問題は、マグロは可愛くないから食べるのに加害者意識は感じないけど、クジラを幼少のみぎりから育てれば、きっと愛情がわいて食べようって気がおこらないことかも。
とくに日本人は西洋人とちがって、動物に対してこころやさしい人種だからなあ。
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2010年3月12日 (金)
昨夜は、以前録画しそこなった 「ラスト・エンペラー」 が放映された。
映画の出来についてはすでにブログに書いたので、べつの話題。
「エンペラー」 の中で坂本龍一サンが演じていたのは甘粕正彦という実在の人物だけど、この人は無政府主義者の大杉栄を殺したり、満州で国策映画会社の理事長をつとめたりと、大戦前夜の暗い世相を象徴するような人物である。
彼は人生を一過性の蜃気楼のようなもんだと皮肉でながめられる人間だったらしく、終戦と同時に自殺してすべてをチャラにしてしまったから、ま、わたしはそれなりの人物だったんだろうと評価している。
彼の自殺は青酸カリによるもので、拳銃自殺の坂本龍一サンとはちとちがうなんてことはどうでもいい。
映画を観ていてわたしは、佐野眞一著の 「阿片王」 という本を思い出した。
この本には 「満州の夜と霧」 という副題がついている。
わたしは中国という国について、殷の時代から改革開放の現代まで、ほとんどすべてに関心があるので、これまでいろんな本を読んできたけど、戦前戦後あたりの上海や満州に関して、里見甫(はじめ)という名前をよく目にした。
「阿片王」は、上海で阿片王とよばれたこの男のドキュメントである。
里見甫は日中戦争のおりに、日本の軍部にかわって中国の阿片取り引きを一手に仕切った男として有名らしいけど、あまり正業といえない商売なので、まともな歴史の表面には出てこない。
ただ当時の中国では阿片の吸引所は郵便ポストと同じくらいあって、一般のあいだでの吸引生活もめずらしいことではなかったそうだから、本人はそれほど悪いことをしていた認識はなかったようだ。
この本では阿片王と称される時代の彼の人脈について、ひじょうにたんねんに書かれている (もっとも人脈の中の2人の女性について、たんねんすぎるきらいがないでもないけど)。
人脈の顔ぶれを見ると日本側だけでも、岸伸介や愛知揆一、児玉誉士夫、笹川良一や大川周明、石原莞爾、長勇など、政界、官界、軍人、実業界などのいかにもそれらしき黒幕的人物がずらりとならぶ。
とうぜんながら甘粕正彦の名前も出てくるのである。
わたしは日本軍が熱河省 (現在は中国の区画整理でこの省はなくなった) に進攻したことを知っていたけれど、これはじつは熱河産の阿片を独占しようという関東軍の謀略でもあったそうだ。
この本を読むと日中戦争が、一面では日本の軍部と中国の国民党政府による阿片戦争であったことがよくわかる。
甘粕正彦はいさぎよく自殺したけど、里見甫は戦後、戦犯として訴追されることもなく、天寿を全うした。
その葬式に集まった人々の顔触れをみると、彼らが生きた時代は悪党たちの時代だったなとしみじみ。
わたし自身は軟弱なヒトなので、そういう人たちの仲間に加わる資格はぜんぜんないけれど、こういう悪党のはびこった時代は、人間が矮小化し、生き方が固定化してしまっている現代より、ずっと生きがいのある時代だったんじゃないかと、ふと思ってしまうことがある。
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2010年3月10日 (水)
そういうことで、トルコの旅の終わり。
わたしはあまり団体ツアーというものを好まないのだけど、英語はニガ手だし、まったくはじめての外国にひとりでぶらりと出かけるほどの勇気もない。
しかし今回のツアーは、値段の安さからすればもうしわけないくらい充実したものだった。
あまり充実しすぎていて、スケジュールがハードなので、わたしはオプションのいくつかを棄権してしまったほどだ。
ウサギ小屋に住んでる日本人のわたしには、ホテルも悪くなかったし、食事についての不満は個人的なもので、大半の参加者は美味しいといっていた。
だから、食べ物についてはわたしの意見を参考にしてはいけない。
団体旅行で食事がステレオタイプになるのは日本国内でも同じである。
ガイドブックには美味しそうなトルコ料理の写真がずらりと並んでいるのだから、味については、あなたがちょくせつ行って確かめるしかない。
トルコの人たちがみんな愛想がよくて親切であるということは、肌で感じることができた。
これならひとりで出かけても問題はなさそうである。
わたしはいま部屋で、ガイドのギュダルさんからもらった、ナザールボンジュとよばれる1つ目玉のお守りをにらみながら、真剣にトルコへのひとり旅を思案しているところだ。
これからトルコ旅行に参加しようと考えているあなた。
わたしの場合、素晴らしい国だと思ったけど、あなたの場合はどうか。
それはひとえに、あなたがトルコにどのくらい関心があるかによる。
あなたがイスラムの国、ヨーロッパとアジアにまたがる異国情緒、そしてヒジャブで頭をおおったイスラムの女性たちの美しさに関心があるなら、わたしはトルコが素晴らしいところだということを、ぜったいに保証してしまうのである。
※写真は別れを惜しむかのように、雨ににじむイスタンブール市内。 歌謡曲の題材になりそう。
ちゃんとスターバックもあります。
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アヤソフィアには見どころがたくさんある。
聖母マリアの手形なんてものもある。
有価証券のことではない。
観光客がみんな手を入れてよろこぶものだというから、なんかオードリー・ヘップバーンの 「ローマの休日」 にも似たようなものがあったなと思う。
わたしはイタリアに行ったことがないけれど。
人間が入れるくらい大きくて、なにに使うのかさっぱりわからない大きな壺もあった。
ガイドのギュダルさんがちゃんと説明をしたんだけど、わたしは暗い場所でどうやってこれをカメラに収めるか、思案していたので聞きもらした。
石畳の傾斜した回廊もある。
車椅子の観光客のためのスロープかと思ったら、これはむかしの王様が馬に乗ったままモスクに参拝するためのものだったそうだ。
どうも、わたしの見学態度ははなはだ不遜でいいかげんなものだけど、仕方がない。
わたしは有名観光地の名所や旧跡にあまり関心がないのである。
ただ異国の街の中をぼんやりさまよっているほうが好きという、変人の観光客なのだ。
キリストのモザイク画のわきで、ギュダルさんがこの柱をごらんなさいという。
見るとピサの斜塔のように傾いた柱だった。
長い年月のあいだにアヤソフィアは徐々に傾いていて、専門家の説によると、60年以内にイスタンブールは大地震にみまわれて、この寺院も崩壊するといわれているのだそうだ。
他国の話だから日本人のわたしにはどうでもいいことだけど、そんな物騒な建物を平気で観光客に開放している神経がおそれいる。
ここでも自己責任ということを思い知らされるトルコのやり方であった。
ある場所では通路の大理石がすりへっているのを見た。
人間の足なんて微力なものだけど、1500年ちかい歳月が、点滴のように石を削り続けてきた証拠である。
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イスタンブールでブルーモスクに並び立つのがアヤソフィアだ。
両方とも伝統のある大伽藍というだけではなく、じっさいにこのふたつは隣り同士である。
アヤソフィアのほうは現在は博物館になっているけど、もともとは円形の屋根をもった大寺院で、わたしはてっきり、むかしからモスクだったのだろうと思っていたけど、じつはギリシヤ正教の大本山として造られたもので、イスラムとは無縁の建築だったらしい。
建物のまわりに立つミナーレとよばれる突塔もあとから加えられたものだそうだ。
ちなみに円形の屋根を持ちながら、イスラムと無縁の建物は日本もある。
神田のニコライ堂がそれで、これはロシア正教の建物だから、やはりビザンツ時代の影をひく東方キリスト教様式ということになる。
アヤソフィアが造られたのは西暦の540年ごろだというから、1616年に完成したブルーモスクよりそうとうに古い。
「歴史」 の項で勉強したけど、本来はまだイスラムが影もかたちもなかった時代の建物である。
その古さは古色蒼然とした建物からもうかがえる。
レンガもぼろぼろだし、天井の壁画もはがれ落ちている部分がある。
しかし内部はブルーモスクにひけをとらない壮麗なもので、ビザンツ建築の最高峰の名に恥じない。
まず建物がでっかくて天井が高いということがある。
やっぱり天井が低いと、信者が尊敬の念を抱かないということがあるのだろう。
その後、部分的にイスラム様式に改築されたというけど、まだあちこちにビザンツ建築の名残が見られる。
というと専門家の意見みたいに聞こえるかもしれないが、具体的にいえば、埋め戻されていたものがあとから発見されたキリストのモザイク画なんて、イスラムがそんな偶像崇拝をするわけがないから、これはイスラム以前のものであることが明白。
また素人のわたしが見てさえ、どうみてもイスラム様式とは思えない石柱が庭に並べてあった。
これもかっては建物の一部だったらしい。
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2010年3月 9日 (火)

順序がグランバザールと逆になったけど、かくしてわたしのトルコ旅行も、最後の1日と帰国日を残すだけになった。
最後の日はオプションとしてボスボラス海峡クルーズが設定されていたけど、やはり寝ているほうがイイというわたしはキャンセル。
すると前日は好天だったのに、この日は雪まじりの雨になってしまった。
やっぱりわたしはどこかツイてると思う。
そんなわけで最後の1日は朝の9時すぎまでたっぶり寝る。
目をさましたあと、オプション組と合流するまでまだ2時間ほどあったので、タクシーをつかまえて魚市場までひとっ走りしてくることにした。
魚市場は前日の観光からもどるとき、海岸通りにあるのを確認してあったのである。
小学生なみの英会話能力しかないわたしだけど、まずホテルの前に停まっていたタクシーの運転手に Fish market, OK? と訊く。
運転手が不審な顔をしたので、持っていた地図でこのあたりだと場所を指し示す。
これだけでちゃんと通じて、タクシーは走り出した。
走行中に運転手がしきりに何かいう。
魚が食べたいのか。魚を食べに行くのかと訊いているようである。
I want look とだけ答えてあとは無視。
何をいわれても Only look とだけしか返事をしなかった。
それでもちゃんと魚市場に着いた。べつに遠回りをされたわけでもなさそうだ。
魚市場の雰囲気は、近代的な建物に水はけのよいコンクリートの床と、築地とたいして変わらない。
マルマラ海に面した海岸にあって、建物の上にカモメが群れていた。
ただし上がっている魚の種類は、アジやボラ、ヒメジなど、せいぜい4、5種類ぐらいで、そういう点は物足りない。
マスかイワナのような川魚も扱われていた。
わたしが写真を撮っていると、市場の若い衆が集まってきて、オレも撮ってくれとにぎやかな騒ぎになってしまった。
それはそれで楽しかった。
ふたたびタクシーでホテルにもどる。
タクシーのメーターは30リラ (2000円ぐらい) を表示していたけど、市場で待っていたもらった分を含めて40リラ払った。
運転手は喜んでいたし、わたしの感じでは、走った距離からしても、日本のタクシーに比べるとずっと安かったから文句はない。
すこしは冒険心も満たすことができたし、これっぽっちの英語能力でもなんとかなるという証明もできたのである。
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グランバザールの中で警察官の不審尋問を受けること2回。
尋問はバザールの横のほうにある出入り口をのぞいたりしているときにやられることが多かった。
でもわたしは爆弾なんか持っていなかったから、軽く会釈されてすぐに無罪放免。
トルコもまったくテロリストに縁のない国とはいえないし、そういう連中が狙うにはバザールの人込みは絶好の標的である。
しかしわたしは、外国の警察に尋問されるというのも得難い体験だなあと、好意的に解釈するヒトである。
官憲が横柄な中国を何度も旅しているので、そんなふうに不運を幸運に、文句を忠告に、命令をお願いに、都合よく代えるすべを知っているのである。
顔がテロリストに似ているのかしらと、ちと気になるけど。
わたしは衣服はユニクロと決めているので、トルコくんだりまで来てそういうものを買おうとは思わないけど、ある店に縦じまのシャツがつるされていた。
なんとなくアフガニフタンのカルザイ大統領のケープを思い出した。
中国の新疆に住むウイグル人が矢がすりの模様を使うように、遊牧の民の中には特有のパターンを民族の象徴のように使っているものがある。
これもそうなのかなと思う。
みやげは買わない主義のわたしだけど、ちょっと気になったものがひとつ。
タバコを吸わないわたしには不必要な品物だけど、メアシャムとよばれる海泡石のパイプが、細かい細工のされた芸術品というべきもので、部屋の飾りに買っときゃよかった。
と、あとで思った。
意思薄弱な人間はいつもあとになって後悔する。
えらい哲学者のそんな警句があったような、なかったような。
時間がきて集合場所に行ってみたら、ツアー仲間がひとり行方不明になっていた。
ほかの人はちゃんと時間にもどってきたから、ワタシの説明がわるかったのではないでしょとギュダルさんはプリプリ。
やむを得ず彼を置いて出発することにし、かわいそうな添乗員のあやちゃんだけがあとに残ることになった。
迷子になった男性はひとりでホテルにもどっていたので、このあとの夕食のレストランで合流することができたけど、これからトルコ旅行でグランバザールを見物しようという人は、くれぐれもメインストリートからはずれないように。
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エジプシャンバザールの翌日には、グランバザールを見物した。
バザールというところは狭い路地が入り組んでいる場合が多いので、旅行のガイドや添乗員にとっては鬼門である。
しかしイスラムの国に来てバザールを見学しないのでは客が納得しない。
ガイドのギュダルさんから、グランバザールについて説明と注意がある。
このバザールには金細工のアクセサリーが多いですとギュダルさん。
わたしはそんなものに興味はない(もちろん金もない)。
バザールの中は迷路のようになっていて、メインストリートからはずれると、はじめての人はたいてい迷子になります。
集合時間に遅れたらほうっておいて出発しますと。
わたしはわりあい方向感覚はいいほうだと思っているけど、散会してひとりで歩き出すと、すぐにこれは大変なところに来たなと思った。
石造りの立派な門になった入口から入ると、まっすぐにアーケードになったメインストリート(というほど広くはないけど)があって、その両側にせまい通路がびっしり。
通路はさらに枝分かれしていて、おまけに店頭に並んでいるのは、こっちの気をそらすようなキテレツな品物ばっかり。
そんなものに気をとられているとわたしでも道に迷いそう。
しかしメインストリートさえつねに頭に入れておけば迷う心配はないのである。
わたしはつねにアーケードのある通りと自分の位置を把握しているようこころがけた。
そのうえであっちこっち見てまわる。
前日のエジプシャンバザールが生活に即した食品などが多かったのに比べ、こちらはアクセサリーやお菓子、調度品、衣類など、やはり観光客相手の品物が多いようだった。
市場のまん中には公共水道がある。
大理石の立派なものであるけど、トルコでは生ま水は飲むことができない。
そのかわり、自動販売機こそないものの、市場のあちこちに立ち飲みスタンドがあってチャイを売っている。
トルコ式の碁をしている人もいた。
ルールがわからないのでこれは説明のしようもない。
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2010年3月 8日 (月)
イスタンブールにもどってきた日にはエジプシャンバザールを見物した。
ほんとうはグランバザールのほうが大きいのだけど、そっちは観光客相手のバザールに堕落して、地元の人たちが利用するのはもっぱらこっちのバザールなんだそうだ。
エジプシャンバザールは、旧市街と新市街をむすぶガラタ橋のたもとにあり、イェニ・ジャーミィというモスクのわきにあるのでわかりやすい。
モスクまえの広場は大勢の群衆で、トウモロコシや甘栗の屋台が出ていた。
なぜかアタチュルクの肖像をあしらったトルコ国旗を体にまきつけたおじさんも。
この広場で説明を受けたあと解散して、あとは個人で勝手に見てまわることになった。
わたしは外国に行くと、市場と、駅の周辺だけはゼッタイに見たいという人間である。
なんでそんなところがと同行の人に訊かれたけど、市場ではその国のめずらしい産物が見られることが多いし、駅には大勢の人々が出たり入ったりして、現地の人々のなまの生活が見られる場合が多いのである。
わたしは人ごみの中をぶらぶら見物して歩いた。
巨大なチーズや生ハム、お菓子からカラフルな食器類など、いろいろなものが売られていて興味が尽きないけど、現地の人たちが買物をしているのをはたから眺めるのがまたおもしろい。
ある店でトルコの漬けものを発見した。
わたしは漬けものが大好きな日本人なので、おおっ、トルコにも漬けものがといたく感心してしまう。
またべつのところでは魚屋を発見した。売られていたのはクロダイ、ニシン、アジ、カレイなど日本でもおなじみのものが多い。
トルコ人は魚もよく食べる人種である。
しかし漬けものや魚では日本に買って帰るには不適切なので、みやげもの不買運動の推進者であるわたしは、けっきょく何も買わなかった。
またモスクの広場に出て、ガラタ橋を渡ってみることにした。
橋の上では大勢の太公望が魚釣りをしていたので、どんなものが釣れるのか知りたかった。
ところが橋のたもとへ行くための地下横断歩道が大混雑で、へたするとバスの集合時間に遅れそうだ。
とうとう橋を渡るのは断念して、また広場にもどってしまった。
橋の先にひときわ大きな塔が見え、これはガラタ塔というそうである。
1番下の写真の左上に見えるのがそれ。
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2010年3月 7日 (日)

パムッカレのホテルでも観たけど、イスタンブールにもどってからベリーダンスをもういちど観た。
そこで有名なダンサーのセマ・ユルドゥズ先生に出会ったことは前述したとおり。
せっかくだからそのさいのダンサーも紹介しておこう。
今度のダンサーはなかなか可愛い子ちゃんだ。
ダンスの合間に曲芸なんかあって、なんのはずみか、わたしがステージに引っ張り上げられて、ナイフ投げの標的にされたなんてことはお愛敬。
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わたしのトルコ紀行も終わりに近づいたけど、ただひとつ未練があるとすれば、セマーを見られなかったことだ。
セマーとは・・・・・・・・
ベリーダンスばかりがトルコの踊りじゃない。
だいたい中近東の人たちは踊りが好きなようである。
中国の新疆に住むウイグル人は同じトルコ系の人種らしいけど、彼らも結婚式、割礼の祝いなどですぐ踊りだす。
これはわたしがじっさいに見てきたことだから間違いない。
音楽も軽快で誰でも踊り出したくなるものである。
セマーというのはメヴレヴィー教団という、 イスラム一宗派の宗教儀式に使われる踊りである。
写真や映像で見たことのある人も多いだろうけど、白いスカートの男たちが、ものに憑かれたような表情でくるくるまわる踊りである。
メヴレヴィー教団というのは一種の神秘主義集団だそうで、見ているだけでもなかなか神秘的。
ただし最近では人気のある観光事業の一環に堕落したという説もあるようだ。
これはまあ仕方がない。日本だって獅子舞や御神楽に神秘性なんぞとっくに失われている。
※写真はネットで見つけたもの。
わたしはセマーが見たくてたまらなかった。
イスタンブールにもどったあとで、ガイドのギュダルさんに、この踊りを常設でやっているところはないかと訊いてみた。
ワカリマセンという返事である。
ガイドブックをみると、日曜日のみ公演をしているところがあるみたいだけど、週に1回では今回のツアーでは見学は不可能だった。
セマーを見たい人は出発前によく調査をしておいたほうがいいと思う。
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まだトプカピ宮殿のハレムにいますよ。
宮殿内のほかの建物についてもいろいろ説明されたけど、ハレム以外はほとんどをさっさと忘れてしまった。
男の興味をひくのはやっぱりハレムである。
ハレムの中のある1室に、イスラム・ファッションの女性2人のマネキンが展示されていた。
ハレムの退屈な日常を世間話でまぎらわす女性たちのつもりらしいけど、見ようによっては大奥の女中頭が、新参のお妾さんにハレムのしきたりについて説明しているようにも見える。
わたしはこんなふうにマネキンで当時の風俗を紹介する展示というのが好きじゃない。
どうせやるならハレムのトルコ風呂でも再現してくれればいいのに。
こんなことを書くと、わたしがいかに不真面目な見学者だったかということの証明みたいだけど、建物についていろいろ見どころもあったのである。
ただ専門的な知識のないわたしには、それについてなんて書いたらいいのかさっぱりわからないだけだ。
建物のあちこちに例の複雑細緻なイスラム模様が描かれている。
これはたしかに美しい。
しかし結論をいわせてもらうと、現在のハレムに人間の生活があるわけではないから、どこもかしこも殺風景で、派手な王宮生活を想像するのはむずかしい。
いっぷう変わった刑務所の見学をしているようだった。
そういえば、ここに収容されていた女性たちの生活は、男と隔絶、食事は小窓から差し入れという具合で、まさに刑務所のそれだったようである。
昼食は王宮の中にあって、ボスポラス海峡をのぞむテラスのレストランでとった。
この日も天気は快晴で、海をながめながらの食事は快適。
この店のウエイターは、日本の男性向けファッション誌のモデルみたいなイケメンだった。
そういえばカッパドキアの絨毯屋には、若かりしころのデイブ・スペクターみたいなのが働いていたし、トルコの男はハンサムが多い。
そんなことを考えながら、わたしはワインを飲んでいた。
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映画 「トプカピ」 はイスタンブールの、現在は博物館になっている宮殿から宝石を盗み出そうとする泥棒たちのお話。
で、わたしもどんな宝石なんだいと興味深々。
残念ながら宝石の展示してある宝物館は写真の撮影が禁止されていた。
ここででっかいエメラルドを見たけど、わたしは宝石なんてものに好奇心以上の関心がない人間なので、女盗賊のメリナ・メルクーリみたいに幻惑されることはないのである。
ただ、世界最大の宝石にしちゃ展示がいくらかおろそかみたいな気がしたので、あれ、ホントは盗まれてもいいような模造品の宝石かもしれないと思ってしまう。
かっての王宮を美術館や博物館にするのは、フランスのルーブルやロシアのエルミタージュに例があって、これもトルコがグローバル化した大人の国である証明になりそう。
ルーブルやエルミタージュは行ったことがないから知らないけど、トプカピ宮殿の内部はかなり広い。
中には皇帝の門だとか、謁見の間、宝物館、調理場などの付属施設が点在していて、王宮のハレムなんてのもある。
ハレムというとどこか男の胸をゆさぶる響きがあるものだ。
ガイドのギュダムさんの説明によると、ここには黒人の宦官が働いていたそうである。
なぜ黒人かというと、かりに宦官の中にまちがってオトコがまぎれこんでいて、彼がたまたまそのへんにいたお妾さんの誰かと浮気をしたとしても、生まれてきた子供を見ればすぐに浮気が発覚する。
その場合、ふとどきな黒人と妾は首を切られてチョンだそうだ。
非人間的な部分もあるアィディアだけど、トプカピ宮殿ではこのエピソードがよく記憶に残った。
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2010年3月 6日 (土)
モスク内部のある部屋に絨毯がしかれていた。
トルコ絨毯の最高級品はヘレケという製品だそうだけど、こんなところにあるのはその最高級品にちがいない。
部屋の広さからしたら、いったいナンボのものになるのか見当もつかない。
これはべつのところで聞いた話だけど、地方にあるモスクは個人が勝手に建ててもいいらしい。
しかしそこで働く聖職者はみんな国家公務員だそうである。
イスラム国家では聖職者のご威光は絶大なものがあり、国民の思想に影響をあたえることも大なので、問題のある聖職者はただちにクビにできようにとの配慮だとのこと。
さすがは政教分離のトルコである。
個人的にはもっとゆっくりブルーモスクの美術的鑑賞をしたかったが、あれよあれよと度肝をぬかれたばかりでは、なかなか冷静な判断はできないものだ。
やっぱりもういちど、ひとり旅でゆっくりイスタンブールに来たいと思ってしまう。
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人間には明日のことはわからない。
このトルコ紀行もさっさと上げてしまわないと、なにかの拍子にポックリいったら未練が残ってしまう。
めまいや吐き気は棚に置いて、さっさと話を続けよう。
イスタンブールのスルタンアフメット・ジャーミィという名前は、欧米人でも舌をかむらしく、この寺院はかんたんにブルーモスクと呼ばれる。
外観からすれば、すぐとなりにある、やはり有名な寺院 (現在は博物館) であるアヤソフィアよりもずっと安定していて美しい。
中に入ってみるとその壮麗さに度肝をぬかれるほどだ。
筆舌に尽くせぬ美しさだ。
筆舌に尽くせないものを文章で表現するのは不可能だというのは、椎名誠サンの本で見つけた言いまわしで、もちろん小説家でもないわたしがそんな無謀なことをするわけがない。
イスタンブールのモスクについては書物でもネットでも調べられる。
調べればわかることはいちいちふれないのがわたしの主義なのである。
だいたい専門的なことをわたしのブログに書こうというのがそもそも間違いだ。
せめて写真をと思ったけど、モスクの内部はたいてい暗い。
わたしはこの旅の写真をすべて、コンパクト・デジカメで、三脚も使わずに撮っている。
暗いところでそういうずぼらな状況では、芸術写真はともかく、絵ハガキみたいなわかりやすい写真はなかなか撮れないのである。
そういう弁解がましいことは別にして、仏教寺院がキモをつぶすぐらい壮麗であるというのは、どこの国でもたいてい同じだけど、これは信者をして敬虔と畏怖の念を起せしめなければならない事情から、どうしてもハッタリをかます必要があるということだと思われる。
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昨日は夜になって突然のはげしいめまいと吐き気におそわれて、友人の車で病院にかつぎこまれてしまった。
持つべきものは友達かなと、日ごろ不義理の帝王みたいなわたしでも考える。
病院でだらしなく点滴器につながれたまま、いろいろ検査をされた。
手先の動きや瞳孔の検査をしたところをみると、病院でもまず脳溢血 (脳出血) の疑いをもったようである。
しかし手先は正常に動くし、目の焦点もきちんと合う。
言語が不明瞭なのはいまに始まったことじゃアリマセン。
だいたい日ごろからウサギみたいに野菜ばっかり食べて、たまには散歩もして健康に留意しているこのわたしが、脳溢血なんか起こしてたまっか。
それじゃあCTスキャンをしますかと看護師さん。
ええ、お願いしますと、ワタシ。
治療費がかさみそうだけど、無罪をはらすためにはこのさいやむを得ない。
CTスキャンも問題はなかったそうだ。
それじゃあいったいなんなのだ。
ひょっとすると絶望的な状態なんだけど、本人に告知してショックを与えるのをためらってんじゃねえか。
いいんですよ、はっきり言ってもらっても。
死はつねに枕辺にありって心境ですからね、とくに最近のワタシゃ。
いやいや、それなら家族の連絡先ぐらい聞くだろう。
なにも聞かれないまま、めまいと吐き気止めの薬をもらって、はい、帰宅していいですなんて言うはずがないではないか。
ああ、また死に遅れたよ。
すまんな、先に逝った友人たち。
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2010年3月 5日 (金)
新しい世界宗教のイスラムが誕生するのはビザンツ時代の後半のことで、やがてアナトリアはその波に飲み込まれる。
もうひとつ肝心なのは、トルコ人がトルコに侵入するのは、イスラムの勃興以降の11世紀ごろということである。
それまでトルコ族はトルコに住んでいたわけではないのだ。
ビザンツ帝国の衰退後、セルジュークというあまり興味のもてない王朝をへて、オスマン・トルコの時代が始まる。
セルジューク時代の末期には例のモンゴル軍の侵略を受け、アナトリアもだいぶ混乱したようだけど、やがて幾多のごたごたのすえにオスマン王朝が興こって、トルコは版図を最大のものにし、ヨーロッパ・キリスト教世界を震撼とさせる大帝国に成長するのである。
震撼させるだけじゃなく、平和的に見れば、欧州と文化的、経済的にさかんに刺激しあった豊かな時代だったといえるかもしれない。
イスタンブールのスルタンアフメット寺院 (ブルーモスク) やトプカピ宮殿などはこの時代に建てられたものだそうな。
このオスマン王朝の時代は、その末期においてわたしの時代とつながっている。
いや、わたしがそんな昔に生まれたっていうわけじゃないんだけど、わたしは映画が好きで、若いころ観た 「アラビアのロレンス」 はこの時代の最末期を舞台にしているのである。
ロレンスによって陥落させられるアカバの要塞を守備していたのはオスマントルコの軍隊だったのだ。
というわけで、映画好きにはこの時代はそろそろ自分の時代みたいな気がしてしまうのだ。
ロレンスの活躍のせいかどうか知らないけど、このあとオスマン王朝は崩壊し、「アタチュルク」 の項でふれたムスタファ・ケマルの共和制トルコになって現代にいたる。
というのがおおざっぱなトルコの歴史である。
この程度で勉強とはおこがましいけど、それでもぜんぜん知らないよりは、すこしは観光の手助けになる (かもね)。
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わたしはトルコが好きだけど、なぜ好きかと訊かれると、うーん、わたしの興味があるイスラムの国だから、エキゾチックな魅力のある国だから、先進国ではない国だから、という程度の漠然とした理由しか上げられないようだ。
しかしそんな国はほかにもあるので、あまり説得力のある理由にならない。
そこでドロ縄式にトルコの歴史について勉強してみた。
あくまでドロ縄式なので、間違いがあったらご容赦、ご忠告を。
アナトリア (トルコのアジア側) の歴史は新石器時代から始まるけど、これはわたしの興味の対象外なので無視。青銅器時代も無視。
最初の統一王朝であるヒッタイトも今回は無視。
ペルシア帝国の時代あたりからそろそろ興味を持たなくちゃいけないのだけど、この時代についてはトロイもエフェスの遺跡も、わたしはギリシヤ側から見た歴史のほうに興味があるだけだ。
アナトリアを征服したアレキサンダーの帝国も、どっちかというと彼の故国の歴史に興味がある。
なかなかトルコへの興味がわかないのが困ったもんだけど、わたしが関心をもつトルコはビザンツ時代から浮上してくる。
この時代にはじめてイスタンブールが王都と定められ、この紀行記の最後になって登場する観光名所の大伽藍は、これ以降に建てられたものが多いのである。
ただ肝心なのは、まだビザンツの初期にはイスラムは影もかたちもなかったということだ。
わたしはドーム型の屋根をイスラムの象徴のように思っていたけど、これはじつはビザンチン建築から始まったもので、もともとはキリスト教 (主として東方の)の建築様式だそうだ。
イスタンブールのアヤソフィア寺院 (現在は博物館) も、最初はギリシヤ正教の大本山として建てられたという。
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2010年3月 4日 (木)
翌朝は6時から食堂車で朝食である。
同じ列車にべつの日本人の団体が乗りこんでいて、そっちと30分交代で食事をするのだそうだ。
この時間はまだ外はまっ暗である。
朝食のとき、添乗員のあやちゃんから、トルコの列車は何時間も遅れることがありますとまたおどかされる。
時間にきちょうめんなのは日本のJRだけと心得ているわたしは、はあ、そうですかってなもんだけど、それでも今回はいちおう時間通りに走っているそうである。
外国の鉄道にしちや感心なことではないかと思う。
食事を終えるころ、ようやく空が白んできた。
個室にもどって窓から外をうかがうと、左側に湖のようなものが広がっている。
汽船が浮かんでいるところをみると、これは海らしい。
カモメが飛んでいる。
まもなく片側の空が赤くなってきた。
わたしにとって印象の深い、忘れられない夜明けである。
夜行列車で体験する夜明けというのは、いつ見てもたまらないくらい旅情にあふれているものなのだ。
市内に入ってからちょっとぐずぐずしたけど、やがて大きな駅に到着して、わたしにもわかるトルコ語で、イスタンブル、イスタンブルという放送が。
イスタンブール到着は日程表通り、朝の7時半だった。
わたしたちが到着したのはトルコのアジア側の駅ハイダルパシャである。
この日も好天気で、朝の太陽がまぶしいくらい。
ちょっと予定が変更になって、この日は最初にスルタンアフメット・ジャーミィ、通称ブルーモスクとよばれる大寺院を見物することになった。
この寺院はヨーロッパ側にあるので、いちどボスポラス海峡を渡らなければならない。
ちょうど通勤時間帯ということで橋は大渋滞していた。
しかしガイドのギュダルさんは平気な顔をしていたから、これはめずらしいことではないらしい。
停滞しているわたしたちのバスの横を、2両連結のベンツのバスがすいすいと走りぬけていく。
ここには他車はいっさい入ることのできない本物のバス専用路があるのである。
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アンカラ・エクスプレスの朝食にも甘いお菓子のデザートがついていた。
トルコ人にかぎらないけど、イスラムの国では甘いものが好きなようである。
酒はなくとも、食事のあとかならず甘いデザートが出る。
ホテルの朝食のバイキングでは、山盛りのデザートが一大勢力になっている。
わたしは中国の西安で回族 (イスラム教徒) の居住区を見てまわったことがあるけど、酒はひとつも売ってないくせに、甘いお菓子だけはふんだんに売られていた。
これで女性は家でおとなしくしていろというのでは、結婚後の女性は太る一方ではないか。
じっさいに太っている女性は多い。
これでは健康にもよろしくないはずだ。
なぜイスラム教では甘味をひかえるようにとの教えを垂れなかったのか。
酒を禁じて、そのうえお菓子もでは暴動がおきると考えたのか。
これでは国民健康保険 (そんなものがあるのかどうか知らないけど) の支出がバカにならないだろう。
国家の将来のためにも損失ですと教えてあげようと思ったけど、よけいなお世話かもしれないからだまっていた。
※写真は甘味とりすぎみたいなトルコ女性だけど、太ったってそれがナンボのもんじゃいという姿勢がほれぼれするくらい立派。
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2010年3月 3日 (水)
トヨタがリコール問題で叩かれて、米国だけじゃなく中国でも謝っているけど、不思議と日本国内からは修理だ、補償だという声が聞こえてこない。
日本人はちゃんとわかっているんだよね。
今回の問題がいわれのない米国の難癖だってことを。
米国じゃ集団訴訟なんて言い出してるらしいけど、日本国内では、たとえばプリウスはタクシーとしてすでに何万キロも走行しているのに、危険な事例なんて聞いたことがない。
あちらには日本以上に、風評に乗ったり、このさいいくらかでもと考える人が多いらしい。
この程度の問題でゴタゴタ言ってるんだったら、アメ車はどうなんだと、ま、できるわけないけど反論をしたらどうなるだろう。
米車の欠点をあげつらって、こんな反論をしたりすると、今度は輸出障壁だなんて言い出すに決まっている。
米国はそういう国なのである。
最近の車はコンピューターのかたまりだ。
ブレーキの欠陥を指摘されても、それが具体的な部品や機械の欠陥ならともかく、フィーリングの問題というんじゃメーカーだって対処するのはむずかしい (文句を言うほうは楽だ)。
航空機でも着陸時離陸時に電子機器を使うと、異常や誤作動が出る場合がアリマスなんていう。
人間が機械を進歩させようとすると、予想もしないことが生じる可能性があるのは事実だけど、だからといって進歩を止められるものでもない。
先端技術の危うさについては、わたしたちがある程度リスクとして認めておくべきじゃないだろうか。
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アンカラ駅で出発前に添乗員のあやちゃんから、アンカラ・エクスプレスは車内がひじょうに狭く、着替えもできませんとおどかされていた。
列車に乗り込んでみたら、じっさいにはぜんぜんそんなことはなかった。
中国の特急に比べれば狭いけど、それでも個室の中には冷蔵庫や洗面台さえついている。
狭いというのは期待しすぎないようにとの予防線だったようだ。
ひとりでツアーに申し込んだわたしは、列車でも個室をひとりで占領することができた。
トルコの列車はいちいち発車の放送をしません、ぼさっとしていると置いていかれますと、これもあやちゃんのおどかし、ではない。ホントである。
列車が静かにアンカラを出たのは夜中の10時半。
日本のように親切(が過剰)な放送はないのである。
さて個室では、ベッド・メイクをする車掌に米1ドル相当のチップを払えば、あとは自分の天下だ。
もちろんわたしは下着だけになってひっくり返った。
子供がよくベッドの上で足をバタバタしてるでしょ。
悲しみのあまり足摺りをしたのは俊寛坊主だけど、わたしは楽しさのあまりベッドで足摺り。
気分はもう5、6歳の子供である。
ときどき起き上がってノートパソコンを打つ。
電源は車内から無断で拝借した。
これは違法かもしれないけど、それで列車が転覆したって話も聞かないから、まあ、いいんじゃなかろうか。
ホント、なんて贅沢な旅であることか。
これが昼間の旅で、景色が見えればいうことなしだけど。
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2010年3月 2日 (火)
やれやれ。
やっとへきえきのオリンピックが終わったか。
わたしのトルコ旅行もいよいよ佳境だぞ。
ガイドのギュダルさんがトルコの国内問題についてふれたことがあった。
トルコの東部にはクルド族という少数民族がいて、このうちの過激派が反体制組織をつくってテロ活動をしている。
組織のリーダーを捕らえるのにトルコ政府がどれだけ苦労したか、なんとか捕らえたものの、外国からの干渉もあって処分保留のまま刑務所に入れっぱなしだとか。
ギュダルさんの話はもちろんトルコ側に立ったものである。
日本では大国と少数民族の問題になると、かならず少数民族の側に立つ人たちがいる。
しかしトルコの場合、これまでも見てきたとおり、異教徒の遺跡や文物もきちんと保管管理していて、こういう点ではグローバル化された大人の国といっていいし、ほんのわずかの異教徒 (キリスト教徒やロマと呼ばれるジプシーなど) にも国民としての権利を認めている国である。
トルコとクルドの問題は軽々には論じられないようだけど、たとえばわたしが読んだ記事の中には、トルコ政府が単一民族主義をとって、クルド族の文化や言語の使用を禁止したのがケシカランと書かれたものがあった。
しかし米国だって、国をまとめるために国民のすべてに英語を使わせている。
人口比でいえば絶対的に少数の民族が、大国の中でごねるのがつねに正当化されるのだろうか。
少数民族の文化や言語を守るためにはべつの方法もありそうなものだ。
少数民族については、その多くが、どっちかというと遅れた伝統的な生活を順守している場合が多い。
それはそれでわるいことではないけど、文化的生活や教育という点で、どうしても大国に遅れをとる。
そんな自分たちの遅れている原因を他人のせいにするのはどんなものだろう。
自分たちの土地には石油が出る。 あれを独占できれば自分たちはもっと豊かになれるという発想では、たんなる利権争いではないか。
地続きの大陸に生まれ、どうしても他の民族と混在して生活をせざるをえないものなら、その社会の中でまず自分たちの社会的地位を高めるための努力をするほうが先決問題じゃないだろうか。
手前みそになっちゃうけど、明治時代の日本は欧米列強に伍するために、国家としてのレベルを高めようと悲しいくらいの努力をした。
その努力のかなりの部分が若者たちへの教育にそそぎこまれた。
悲惨な民族紛争やテロ行為を見るたびにわたしは、被害意識過剰の少数民族のみなさんに、ほかの方法がきっとあるはずだと叫びたくなってしまうのである。
抑圧や迫害が目にあまるものならまだしも、わたしは現在の状況ではクルド族の擁護をする気になれない。
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2010年3月 1日 (月)
世界遺産のカッパドキアに別れを告げて、アンカラへ向かう。
トルコの首都は、ついイスタンブールと思っていたけど、じつはアンカラだった。
カッパドキアを離れるころ、太陽はバスの前方に沈んだ。
美しい夕焼けを見ながらぼんやり考える。
パムッカラの石灰棚もカッパドキアの奇岩も見て、トルコの名所について話のタネぐらいはできたけど、わたしがほんとうに見たいのは古い町並みや住人の生活ぶりなので、そういう点ではいくらか消化不良な点も残った。
それを解消するにはトルコ旅行のリベンジしかないけど、わたしはそんなにしょっちゅう海外旅行をしていられる身分じゃない。
サイフの中味とも相談しなくちゃならないし。
しかし今回の旅を下見だとすれば、トルコはひとりでもわりあい気楽に来れそうな国である。
個人旅行で再訪しようかと思うけど、問題はわたしが英語がニガ手ということだ。
帰国したら、いまから英語学校にでも通うか。
それにしても英語圏に生まれた人は幸せだ。
英語ができればわたしだって、作家のモームみたいに世界を見て歩いたものを。
あ、英語じゃなく、やっぱり問題はサイフの中味か。
トルコを英語圏に引き入れる決意をしたアタチュルク (初代大統領) はやっぱりエライ。
この国がアラビア文字にこだわっていたら、ヨーロッパからの観光客のかなりの部分が訪問をためらっていたのではないか。
石油の出ないイスラム国として、発展もかなり遅れていたかもしれない。
こんなことをぐだぐだ考えながらバスにゆられる。
アンカラに到着したのは夜の9時ごろ。
暗くてはっきり見えなかったけど、この街はわざわざ首都として造られた新しい都市のようで、道路も広く街もすっきりしているように思えた。
イスタンブールに比べると人間臭さに欠けるような印象である。
べつに泊まる予定じゃないからなんだっていいけど。
このツアーではアンカラには泊まらない。
ここから夜行の特急列車でイスタンブールへ向かうのである。
今回の旅もいよいよ最終章だ。
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