文章というものは
たとえば伊藤博文という人がいる。
明治時代のえらい政治家で、朝鮮人に鉄砲で撃たれたこともある人だ。
こんな事件以外にもいろんなエピソードが本に書かれているし、古いニュース映像さえ残っているようである。
そんな人だけど、さて、現代のわたしたちが彼の人となりを知ろうと思ったら何がわかるだろう。
ほんとうの伊藤博文というのはどんな人だったのかということは、いまでは美辞麗句の底に沈んでしまってよくわからない。
えらい人だったなんていわれると反発を感じてしまう。
政治家としていろいろ功績があったとしても、ただエライという評価だけの人なんているのだろうか。欠点のない人がいるだろうか。
ずっとあとの政治家に田中角栄なんて人もいて、こちらはまだつい最近まで生きていた人だから、その人となりを知るのは困難じゃないけど、あと百年もすれば伊藤博文と同じような、なかば伝説の人になってしまうだろう。
宮沢賢治という人がいる。童話作家で詩人でもあった人である。
こちらは日本の政治に貢献があったわけでもないし、橋や道路を作ったわけでもない。
つまり形として残るようなものを何ひとつ残していない人である。
しかし彼の人となりを知ろうと思ったら、その作品を読めばよい。
彼がどんな考えを持っていたか、どんな悩みを持っていたか、ほんの些細なこころのひだまで、作品を読めばわかるのである。
まことに文章というものは偉大である。
わたしたちはずっとむかしの名もない兵士が残した万葉集の歌から、現代のわたしたちと同じようなな恋をした人、妻を慕う人、故郷をなつかしむ人などがいたんだなということも知ることができる。
それに比べたら、聖徳太子がどんな人だったかなんてことを、そのこころの動きまでちゃんと説明できる人がいるだろうか。
わたしはブログにしょうもないことを書きつづっているから、それを読めば百年後の人たちも、わたしという無名の人間のこころの動きを知ることができるだろう。
問題はこのブログが百年後まで残っているかどうかだけど。
うーん。
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