楽園の日々の2
以前このブログで、アーサー・C・クラークの 「楽園の日々」 という本についてブウたれたことがある。
題名からして、「スリランカから世界をながめて」 みたいな科学エッセイだろうと思ったんだけど、これはじつはクラークが青春をともにした 「アスタウンディング」 というSF雑誌について書かれたものだった。
だましたな、クラーク。 ひっかけやがったな、早川書房。
なんて書いてしまったんだけど、じつはその本はまだ手もとにあって、ヒマなおりに少しづつ読んでいる。
そして時間の経過とともに考えが変化しつつある。
SFファンにとってこれはなかなかおもしろい本である。
以前ブログに書いたときは、科学に通じた現代の作家が、いまから80年もまえに書かれたSFのまちがいや認識不足をあげへつらうのはフェアじゃないと書いた。
たとえば古いSF小説の中には、地球よりもずっと小さい惑星に、海があったり密林があったり、地球なみのたくさんの生きものが棲息しているなんて作品がたくさんある。
小さな惑星には水を保持するだけの重力はないのだ、水がなければ植物も動物も棲んでいられるはずがないのであるなんて理屈を、現代の作家であるクラークが得々として述べるのはどんなものか。
また古いSFには、人間が親指、もしくは顕微鏡サイズに縮小されて、ミクロの世界でさまざまな冒険をするという設定のものも少なくない (映画 「ミクロの決死圏」 もそのひとつだ)。
科学者でもある現代の作家のクラークは、登場人物が縮小されるとき、失われた質量はどうなるのかなんてむずかしい理屈を持ち出す。
これはどうみても公平じゃない。
アスタウンディング誌が創刊された1930年ごろにそんなことをいう人は、科学者も含めて、そんなにいなかったのだ。
そういうわけで 「楽園の日々」 を最初に読んだときは、節制のない本だなと思ったものだけど、そのうちにこの本のおもしろさは過去と現代の現実のズレであることに気がついた。
どうやらわたしもクラークに負けずおとらずのヒトのわるい人間らしく、彼がほじくる重箱のすみが、おもしろくてたまらないのである。
当時のSF作家たちも、自分の作品がずっと後世の読者たちに、こんな予期せぬ楽しみを与えるとは思ってもみなかっただろうなあ。
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