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2010年9月

2010年9月30日 (木)

皇帝制度

ジョンウン君の後継問題についてニュースを観ていたら、NHKは北朝鮮の有名なニュースおばさん、なにか重要な発表があるたびに出てくるおばさんだけど、彼女が原稿を読むさいの目の動き、顔の動きまで分析していた。
ジョンウン君の名前を読みあげるときは、その動きに他の人間とのあきらかな違いがあって、これはジョンウン君の偶像化が進んでいることの証拠だろうなんていう。
やれやれ。
あちらのアナウンサーも大変だ。
最高指導者やその後継者に対して、うっかりぞんざいな言い方をしたら、それだけで死刑か強制収容所送りにされちまうのだろう。

むかし読んだソ連の話を思い出した。
スターリンが演説を終えたあと、議場にいわあせた全員が拍手をする。
しないと不満分子と思われて死刑、もしくは収容所送りだ。
だからみんな必死で拍手をする。 ずっと拍手する。 えんえんと拍手をする。
誰がいちばん最初に拍手をやめたか、それも不満分子と見なされる可能性があるからだそうだ。
おかげで拍手がいつになってもやまないなんてことが、じっさいに何度もあったそうである。

えらい人の名前の読み方まで、ひとつまちがえると不敬罪だなんて、戦前の日本にもそんなことがあったけど、ソ連が崩壊したいま、北朝鮮は秦の始皇帝かられんめんと続く恐怖の皇帝制度を現存させている国だってことで、世界遺産に推挙されてもいいのではないか。

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2010年9月29日 (水)

コクゾウムシ

ご飯をたく。
現在の日本はいちおう文明国なので、まっ白いお米である。
お米をとぎながら昔のことを思い出した。

子供のころ、米びつの中からお米をくみ取ろうとすると、お米の中に小さな黒い虫がまじっていた。
これはコクゾウムシ(穀象虫)といってお米の中にわく害虫である。
大きさは、せいぜい2、3ミリで、米つぶ自体の大きさとたいしてかわらない。
なぜ穀象というかというと、アップ写真で見ればわかるけど、象のように鼻が長いからである。
実物を見たい人は、たとえば以下のページから。
http://www.petippai.com/insect/catalog/138.html

白いお米の中の黒い虫だから、見つけるのはかんたんで、お母さんや子供たちにとって、こいつを探すのはご飯をたくまえのセレモニーみたいなものだった。
ネットで調べたら、食品害虫、混入異物、不快害虫なんて分類になっていた。
彼らも好きこのんでこんな生き方をしてるわけじゃあるまいに、気のドクな話だ。

しかし最近じゃこの虫を見たことがない。
わたしが10キロのお米を消耗するにはかなりの日にちがかかるんだけど、それでもわいたってことはないから、日本ではこいつも絶滅危惧種のようである。
環境庁に進言したいけど、こういうのをレッドブックに載せようっていう機運は、ぜんぜん盛り上がらないと思う。
人間は身勝手な生きものである。

ネットで調べたら、コクゾウムシがいるお米は無農薬の証明で、外国産のお米の中に入れるとこの虫はすぐに死んでしまうのだそうだ。
つまり安全食品のバロメーターみたいなものではないか。
いやいや、やけっぱち人生のわたしが、いまさらコクゾウムシのわいたお米を食べたいってわけじゃありませんけどね。

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2010年9月28日 (火)

犯罪行為

先日、某宗教団体の勧誘員と近所のファミレスで話したことはこのブログに書いたけど、いやはや彼女らの無知にはおそれいった。
べつのカルト宗教をひきあいにして、それに似ているねといってみたら、激しく抗議する。
自分たちはぜったいにカルトではないと信じているらしい。
話の内容を詳細に語るとどこの宗教団体かわかってしまい、うちのご本尊さまをアホ扱いするのかって抗議が殺到しそうだ。
しかもカルトってのは話してわかる相手ではないそうなので、サリンでも噴霧されたらたまらないから、適当にボカして書くと・・・・・・

なんでも日蓮サマが (ほれ、もうわかってきたでしょ)、むかし首を切られそうになったとき、どっかから電光が飛来して、首切り役人が腰を抜かし、まわりの侍たちはひれ伏して拝んだのだそうだ。
ああ、映画で観ましたよ、長谷川一夫だっけ。 でもあれはフィクションでしょ。
新田義貞の剣 (つるぎ) 投ぜし古戦場とおんなじようなもんでしょうというと、若いお嬢さん2人は、新田ナニガシって誰ですかといいだした。
いまの若いモンは新田義貞を知らんかねえ。
これこれしかじかと説明すると、当然ながら日蓮サマの件は真実で、新田義貞のほうは伝説だと、それも強情に言い張る。

しまいに、これを読めばわかりますといって小さな冊子を押し付けてきた。
読まなくったってアホらしいことはわかるけど、ま、わたしもヒマだから、あとで寝るまえのヒマつぶしに目を通してみた。

日蓮サマはどうか知らないけど、現在のこの団体の会長さまは右翼系のヒトらしく、自虐史観はケシカランなんてことにかなりのページを費やしている。
だいたい自虐史観なんて現代でも右と左でごたついている論争のひとつで、どうして宗教団体がそのいっぽうの肩入れなんかするのか。
いっぱしの宗教のつもりなら、そんな些細なことはぜんぶ超越して、世界中のみなさん、まままま、ケンカはやめて、なんでもいいから仲良くしましょうとでも言いそうなものだけど。
これだけみてもロクなものでないことは明白。

信者のみなさんに言っておくけど、カルトというのは無知につけいるもの、世間の暗い部分を強調して、悩みや迷いをかかえた人のこころの中にするりと潜りこむものだ。
わたしは彼らを無視するからかまわんけど、こんなものを他人に吹きこもうってのは、そりゃ犯罪行為だぜ。

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2010年9月27日 (月)

白熱教室

昨夜は 「ハーバード大学の白熱教室」(日本版) というテレビ番組を観た。
以前テレビ放映されて話題になった、マイケル・サンデルという政治哲学の教授の授業を、日本でもういちどやってみようという、いかにもNHKらしい番組だけど、なかなかおもしろかった。

わたしは以前放映されたアメリカ版をそっくり録画して持っているけど、これは米国の名門大学であるハーバード大学の、まるで公開討論会のような授業のようすをそのまま番組にしたものである。
サンデル教授が大勢の生徒相手に挑発的な問題を提起して、白熱した授業をくりひろげる。
この大学ではほんらい授業のようすは非公開なんだそうだけど、あんまり人気があるのでテレビ放映に踏み切ったんだとか。

白熱教室にはいろんなテーマがある。
大勢の人の命を救うために少数の人を犠牲にすることが許されるかとか、アメリカ・インディアンをたとえにして土地略奪に正義はあるかとか、じっくり観ているとひじょうに興味のあるテーマばかりである。
生徒にいくつかの回答からひとつを選ばせ、それに解説や批評を加えてゆくということで、サンデル教授自身のスタンスがわかりにくいけど、最近ではめずらしいアメリカの良心といっていい人のようだ。

「富は誰のもの」 というテーマではビル・ゲイツやマイケル・ジョーダンなどが引き合いに出される。
彼らが大きな報酬を得るのは妥当かどうかという問題だけど、日本版ではイチローが彼らの代わりになる。
イチローは米国大統領オバマさんの42倍の稼ぎがあるのだそうだ。
これが妥当かと訊かれたって、わたしみたいな貧乏人には、そもそも話のスケールがピンとこない。

アメリカ版をぜんぶ観ると12時間もかかる。
いくらおもしろくても、こんな長尺番組をあとでまとめて観ていると、内容の硬さ、気まじめさにへきえきすることもあった。
へきえきしていたのはわたしだけじゃないようで、教室のはじっこのほうで女学生があくびをしている場面もあったから、すべての学生が白熱していたわけではなさそうだ。

だいたいわたしは、文章を書くときにはわりあい冷静でいられるけど、会話となると、こういえばああ言う、ああいえばこう言うといった即答の才がない。
学生のころのわたしは病的にひっこみ思案で、人前で発言するほどの勇気はぜんぜんなかった。
こういう生徒は生きている資格がないんじゃあるまいかと、わたしは小、中、高校まで一貫して悩んだし、いまでも自分の存在についてうじうじと考えこむことが多い。

またよけいな話に脱線したけど、アメリカ版の白熱教室に参加していた、きらきらと輝くまばゆいばかりの学生たちを見ていて、複雑な気持ちもある。
彼らは米国の名門大学のエリートたちである。
しかしイラク戦争をおっぱじめた大統領のスタッフや、金融危機をまねいて現在の米国の悪評をひろめた財界の立役者たちも、ほとんどがかってはどこかの大学のエリートだったはずだ。
それも、たぶん積極的な、うじうじと悩むことのないタイプで。
だからわたしはうじうじ側を代表して、お願いしてしまう。
白熱教室に参加していた学生たちが将来の米国をせおって立つのはかまわないけど、この教室で授業の主要テーマだった JUSTICE=正義、公正ということを、いつまでも忘るることなかれと。

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勧誘

夜になってヒマつぶしにパソコンに向かっていたら、若い娘から電話。
お話がありますという。
まるっきり知らない相手でもないから、近所のファミレスで会ってみたら、某宗教団体の勧誘だった。
そういうものにはぜんぜん興味がないのだけど、向こうは若い娘2人だから、でれっとしてお話をうかがった。
いろいろゴタクをならべるけど、ぜんぜん感心しない。
そんなことより現世のご利益を楽しむほうがいいんじゃないですかと、ベッドもお風呂もあるわが家に誘ってみたが、まるっきり相手にされなかった。
未知の未来より、現実の現在を楽しむほうが、人間よっぽど幸せになれそうな気がするんだけど。

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2010年9月26日 (日)

また尖閣諸島

また尖閣諸島問題だ。
船長の釈放について、民主党以外のすべての政党が政府を攻撃しているみたいだけど、文句をいうのは簡単だ。
しかし現実に、ありとあらゆる対抗措置をとらんとする中国に対して、これ以外の方法をとれる政党があるんだろうか。
アメリカだって自分のとこが不景気だもんだから中国の機嫌を損ねたくないし、フランスだって不買運動なんか起こされないようにビクビク。
いまの中国に対抗できる国は世界のどこにもありそうにない。
ましてトヨタも三越も資生堂も、レアアースも中国頼みの日本においておや。

今回の件では中国の恐怖がありあり。
これじゃ北朝鮮とたいして変わらないじゃんと思いたくなるくらい、ルール無視、なんでもありの強引さが目立つけど、いくら資源確保が急務とはいえ、そりゃ中国にとってもいいことじゃないよなあ。
今回の事件後、アジア全域と米国や欧州にまで中国への警戒心がめばえちゃった。
これを機会に日本は中国以外の国と仲良くすべきじゃないか。
インドや東南アジアの各国も、中国の脅威をありありと感じたことだろうから、これはそんなにむずかしくないはず。
いずれの国も日本の資本進出は垂涎のマトなのだし。

外交のひけつは、ひとつの国ばかり相手にするのではなく、両天秤をかけられるような国をつねに持つことである。
そんなことは外務省の役人にはとっくにわかっていて、レアアースについても他の国からの調達を真剣に考えていたらしい。

問題は日本の政治家が、政権をとることや代表争いに汲々としていて、長期的な戦略に目がいかないことだな。
選挙目当てに官僚支配の打破なんていっちゃってるし。
クロマグロの例もそうだけど、日本という国はなにか問題が起きるまでは、いちばん楽でかんたんな方法しかとらない傾向があるみたい。
それではいけない。
つね日ごろから、不買運動に対してはインドやベトナムで即バーゲンのできる態勢をととのえ、中国国内の日本の企業やデパートは周囲を鉄条網でかこい、中国へ旅行する日本人にはアフガン旅行並みの危険性を予告し、中国産のレアアースなんか使わずにすむ技術を真剣に考えるべきだ。

将来をにらんでみよう。
中国は日本が戦後半世紀以上かかった先進国への道を、それよりずっと短い期間で成し遂げようとしている。
おそらくあと10年、遅くても20年で、中国の生活レベルは先進国なみになる。
ということは労働者の人件費も先進国なみになるということで、これでは中国に工場を建てる意味がなくなってしまう。
しかも中国は自国の製品をすべて自国で消費しなければならない。
よそに輸出したくても、中国が大量に生産した製品、値段も先進国なみになった製品を引き受けられるほどの人口をかかえた国はどこにもない。
日本にとっての中国は、中国には存在しないのである。

わたしは専門家じゃないから詳しいことはいえないけど、自分とこで作った工業製品を自分とこだけで消費していて、その国の経済が成り立つのか。
なんの、中国。そのときになって泣いても知らんからなと、いまはじっとガマンの一手なのだ、わたしゃ。
そのとき日本はとっくに四肢をもがれちゃっている可能性もありそうだけど。

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2010年9月25日 (土)

珈琲

インスタント・コーヒーの瓶をさかさにして、机の上でトントンと叩く。
なにをしているかというと、暑い夏のあいだは麦茶ばかり飲んでいたので、飲まずにおいたコーヒーが瓶の中で固まっちゃったのだ。
そいつを粉末状にもどすための儀式である。
考えてみると、毎年季節の代わり目におんなじことをしているみたい。
これは俳句の季語に使えそうだ。
  かたまりし また珈琲を とんとんと
このあとに以下の言葉を付け加えれば短歌にもなるぞ。
        わびしき居間に ものおもふころ

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2010年9月24日 (金)

耐性

涼しくなるとあまりそんなことはないけど、暑い時期のついこのあいだ、ちょっとお腹の具合がおかしくなったことがある。
なにかわるいものでも食べたかなと思ったけど、その直前の食事は冷凍食品のチキン、野菜と果物などで、思い当たるものがない。
わたしの家の台所は、正直いってあまり清潔とはいえないから、ひょっとすると野菜を調理中に、まな板上にバイキンでもまぎれこんだかもしれない。
しかしそれが軽微な症状で終わったということは、普段のわたしにバイキンに対する耐性があったということである。
しかも重病にもならずにすんだのは、またひとつ耐性がついたということでもある。
なにしろわたしは10数年まえの、あの中国を放浪して生きながらえてきた猛者なのだ。
やっぱりふだんからバイキンに対する抵抗力をつけておくことは大切なことだ。
将来、強力で悪質なバイキンがまん延した場合、まっ先に死に絶えるのは、ふだんから清潔にこだわりすぎる若奥さんなどにちがいない。
あまり清潔にこだわるのもどうかと思う。

こんなことをぬけぬけと書くから、わたしんところにはいつになっても嫁さんが来ないんだな。

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資源は誰のもの

世間にはわたしが中国びいきだと信じている人が多いようだ。
原因はなぜかというと、わたしが日本人の意見を取り入れず、中国の代弁ばかりしているってことらしい。
そりゃそうだ。日本に住んでいると、どうしても周囲から聞こえてくるのは日本の意見ばっかりだ。
わたしはひとつの意見を一方からだけ聞くのが大キライで、そんな場合、どうしても少数意見の肩を持ちたくなってしまうのである。
で、尖閣諸島の問題だけど。

ネット・ニュースによると、中国で日本の観光客がいちゃもんをつけられて拘束されたらしい。
自国民の日本への観光を自粛させたり、日本からの交流団体をいきなりドタキャンしたり、キド類元素の輸出を停止するぞっておどかしたり、さすがのわたしもそこまでやるかって、中国の姿勢にあんぐり。
中国の言い分を代弁するなら
「日本はとっくに十分なくらい繁栄を謳歌しているではないか」
「わが国はせめて日本やアメリカなみの繁栄を達成するためにも、資源の確保がなにがなんでもの課題になっとるのだ」
「石油資源を埋蔵している尖閣諸島を、日本にだけ独占させておくわけにいかない」
ということだろう。

中国に理解あるわたしとしては、そんならいっそのこと、もっと雄大なキャンペーンを張って、地球資源は誰のものかという問題を提起したらどうだ、といらぬおせっかいをしてしまう。
地球上のすべての資源は、いったん国際的な資源管理機構にでも供出して、それぞれの国の人口比でもって再配分したらどうだろう。
これなら人口の多い中国やインドも文句をいわないだろうし、人口の多い国がたくさん資源を使うというのは理にかなっているようにみえる。
もちろんやらずぶったくりではいけない。
中国はレアアースなんてのもケチらずに供出しなければいけないのである。

まっ先に文句を言うのはアラブの石油産出国だろう。
「わが国には石油しかない」
「ほかにあるのは役に立たない砂の山と熱中症ぐらいのものだ」
「人口の少ないわが国は、人口比で資源を配分されたら生きていけない」
ごもっとも。
これについてはその国の住みやすさをポイント制にして、点数が少ない国にはそれだけ資源の取り分に配慮する方法もある。
これ以外にも、マグロはどうするとか、日本は水資源を出せなんて、いろいろむずかしい問題が噴出してくるだろうけど、このまま資源問題が民族問題のようなキナ臭いものになるよりマシじゃないか。

しかし公平に配分すると聞くと、それじゃ社会主義だってんで、ああ、また米国が反対してくるのも当然のなりゆきだ。
もっとも繁栄している国が反対のゴリ押しをするのでは、中国のゴリ押しを止められる者はどこにもいない。
こうなると、日本も科学の最先端をゆく立場を利用して、超ド級の核兵器でもつくって、それを後ろ盾にゴリ押し陣の隊列に加わるしかない。
現在のままじゃ、そう考える人が出てこないかと心配だ。

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2010年9月22日 (水)

想像の世界

朝日新聞の夕刊には、しりあがり寿さんの連載マンガが載っているけど、何日かまえのそれに、地球防衛家族の親父が息子にこんな話をするものがあった。
「この世界はすべておまえの想像かもしれないんだよ」
これをみてビックリした。
というのは、わたしもしょっちゅう同じことを考えているからである。
この世界、つまり山も川も海も、あらゆる動植物も、家も車も街も人間も家族も恋人も、地球も宇宙も、イラク戦争も太平洋戦争も、ピカソもモーツァルトも、シーザーも始皇帝も、ダーウィンの進化論もさまざまな宗教も、そしてしりあがり寿さんの連載マンガもひっくるめて、すべてわたしの想像の産物かもしれない。
それじゃあおまえは何なのだと言われそうだけど、まっ暗な空間に浮かぶ小さなICチップにすぎないんじゃないかと思うことがある。
これではSFだ。

なんでそんなアホなことを考えるのかというと、どうも最近、こうした考えに確証を与えるような、偶然にしちゃできすぎという体験がいくつもあるからなのだ。
どんな体験かというと、これがまた他人には理解できそうにないアホらしいことだし、これ以上話すと今度はオカルトになってしまう。
青少年に与える被害の甚大さを考慮して、わたしはこの話を封印するものである。
それで現在の心境をあいまいに語るとすればこんな具合になるだろうか。
わたしは宗教を信じない合理主義者のつもりだったけど、こんな体験をいくつかしたあと、人間は歳をとるほど信仰心がつよくなるっていう説も、なんとなく理解できるようになってきた。

人間はそのへんのただの動物のひとつで、生まれては死に、また生まれては死にを繰り返しているだけなのか、それともぜんぜんべつの実体のないものなのか。
死んだあとに、そのすべてがわかるような気がするので、好奇心のつよいわたしはその日が来るのを楽しみにしているのだ。
だからといってべつに急ぐ必要もない。
若くて元気なうちは、せいぜい自分のこの想像世界を楽しもうとも思っている。

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2010年9月21日 (火)

ふたりの人魚

F001

「ふたりの人魚」 は上海を舞台にした、夢と現実が入りまじったような不思議な映画である。
この映画の公開当時、わたしは中国フリークで足しげく上海に通っており、自分が見てきた街がどんなふうに描かれているのかと、いろんな面で興味があった。
映画の内容は、声しか出てこない主人公とべつの男、そしていつか人魚に生まれ変わると信じている少女の三角関係みたいな愛憎劇だけど、人魚という抒情的なものから想像できないほど、映画はまるでプライベート・フイルムのような荒々しいタッチに終始する。

物語の柱のひとつは、声だけの主人公ともうひとりの若者が、水商売に手をそめている同じひとりの少女に恋をするというもの。
べつの物語が同時進行のようなかたちで現れるけど、そちらでは犯罪者グループに引き込まれた若者が、この少女とうりふたつの金持ちの娘を誘拐する。
ところが、娘は若者の手から逃れて蘇州河に身を投げてしまう。
逮捕されて刑期をつとめあげた若者は、またこの少女とうりふたつの娘と知り合い、同じ河で心中をしてしまう。
水商売をしている娘は、自分自身にそっくりな娘の水死体を見て衝撃を受けるのである。

こんなストーリーを説明したってさっぱり意味がわからない。
この映画は、内容は観衆の自由な解釈におまかせという現代詩のような映画なので、わたしはこう思うなんてことをべらべら吹聴しても仕方がない。
いえるのは、わたしは観終わったあと、しばらく茫然としてしまったということ。
わたしの世代の特権かもしれないけど、ジャン・リュック・ゴダールの映画に通じるような虚無感を感じたということである。

F002

ひとり三役を演じた少女役の女優さんはなかなか根性がある。
彼女は外白渡橋から蘇州河に飛び込むのである。
外白渡橋というのはかっての租界時代に、この橋のたもとに 「中国人と犬は入るべからず」 という立て看板があったことで知られる、中国人にとって屈辱的かつ不名誉な歴史的名所だ。
ここから飛び込むにはそうとうの根性が必要だ。
というのは、高さがあるというよりも、そこがえらく汚い河だからである。
映画を観ればわかるけど、この場面ではけっしてスタントなんか使っていない。
それだけ競争が激しいということかもしれないけど、中国の女優さんはほんとに大変だなと、変なところに感心してしまった。

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中国映画

国家にとっても発展期や円熟期があるように、映画についてもそういうものがあるようだ。
日本や米国、韓国、欧米先進国の映画は円熟期といえ、わるくいえばマンネリどっぷり、ある種のワンパターンが出来あがっているという感じ。
それに比べると発展途上国の映画の中には、ときどき思い切ったような斬新な映画がみられることがある。

わたしは中国の映画について言ってるんだけど、この国については、キライ、全部がキライ、なにがなんでもキライという人も少なくない。
公正な見方のできる人なら、これほど長い歴史があって、人間や文化の多様性のある国は少ないのだから、イデオロギーや国民性を映画の世界にまで持ち込もうとは思わないはずだけど。

そんなことはさておいて。
気ちがいじみた発展を続ける中国では、映画の世界でもおどろくほどの進化がみられる。
つい数10年前までは国家のプロパガンダみたいな映画しかなかったのに、改革開放以後だけでも、まず 「芙蓉鎮」 に代表されるそれまでの国家の統制を打ち破るような映画、ついで張芸謀などの世代による 「紅いコーリャン」 などの先進国からも絶賛される映画、そのつぎには 「ふたりの人魚」 のような次世代による新感覚の映画、最近では先進国と組んだ行きすぎと思えるアホらしい歴史大作と、わずか四半世紀のあいだにこれだけ目まぐるしく変化した映画界は、世界的にみてもあまりないんじゃなかろうか。

わたしは途上国の文化や歴史に興味がある人間なんだけど、中国映画の中には、「紅いコーリャン」 のように、おくれた自国の現状をありのままに映像化して、かえって荒々しいダイナミズムを生んだもの、「麻花売りの女」 のように先進国のものとはひと味ちがったユーモア作品、「變臉 この櫂に手をそえて」 のように、歴史的文化的にも興味深い人間生活を描いたものなどがある (わたしがじっさいに観たものだけを挙げているので、探せばもっとたくさんあるだろう)。

こうした中国映画の中から、先進国のマイナープロ作品のような 「ふたりの人魚」 という映画を取り上げてみよう。
なんでこの映画かというと、おもしろいってんで、わたしはわざわざDVDを購入して持っているからだ。

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2010年9月17日 (金)

お金の価値

2日前のこのブログで、とっくに忘れていたお金が本のあいだから出てきたってことを書いた。
そのことを知り合いに話したら
馬鹿だなあ。 そのお金を銀行に貯金しておいたら、26年のあいだに利子がついていただろう。
そうしなかったってことは、増えていたはずのお金が増えない。 つまり実質的に目減りしたってことじゃないか。

ま、そりゃそうだけどねえ。

かりに1万円を銀行に預けておいたとすると、利子がつく。
これは当然のことで、べつに嬉しくもなんともない。
利子で呑みに行こうって気にもならないし、本体の1万円もいつのまにか生活費にでも消えてしまうだろう。

それに比べて、お金のことをすっかり忘れていたとする。
ある日突然、あるはずがないと思っていたお金が、青天の霹靂で、タナボタ式に白日のもとにさらけ出されたとする。
これは嬉しいぞ。
よし、今夜はこの金を呑み屋でスパッと散財しようって気にもなるし、豊かな気分で 1日をすごせることはマチガイない。

いったいお金の価値というのはなんだろう。
銀行に預けておいた場合よりも、忘れていたほうが嬉しいってのはどういうことなんだ。
つい哲学的ケーザイ論を展開してしまいそうだけど、そんなものをこのブログで論じるには、相手のスケールが大きすぎるような気がするので、やめておこう。
そんなことより、出てきたお金の使い道を考えるのに忙しいのだ、わたしゃ。

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ボルネオ

最近のテレビでボルネオに関する番組がふたつ。
ひとつは 「世界の名峰」 というシリーズで、ボルネオにあるキナバル山 (標高4095m) のトレッキングを紹介するもの。
ボルネオというと熱帯のジャングルというイメージだから、キナバルも人跡未踏の山かと思っていたら、山頂まで過保護じゃないかといいたくなるくらい登山道が整備されていた。
危険な個所のクサリやロープはもとより、岩から岩へのつり橋や、岩場に足を置くステップまで打ち込んである。
これではそのうちエレベーターや身障者用のスロープも設置されるかもしれない。
世界の登山者の猛攻のまえに、自然のまんまの、天然無垢の処女峰なんてもはや存在しないことがよくわかった。

もうひとつは英国BBCの 「ボルネオ・秘境の大冒険」 という番組で、こちらはボルネオの自然を守ろうという科学者チームの活動をとらえたもの。
科学者たちは哺乳類、鳥類、爬虫類、昆虫、環境、記録映画などの専門家で、穴の中からヘビをひっぱり出して保護したり、トイレで大きなサソリを発見して喝采を叫んだり、「蛇蠍のごとき」 とキラワレ者の代名詞みたいな動物を愛することでは人後に落ちない人ばかり。

わたしは自称博物学者のつもりなので、どっちの番組がおもしろかったかと訊かれれば、そりゃもちろん後者のほう。
キナバル山に完備された登山道をもつボルネオだけど、その一方で、これほど豊かで個性的な生態系をもつ場所はもうあまり多くないんじゃないか。
この番組の中には、目もあやなさまざまの昆虫たち、奇妙な色かたちをしたトカゲやカエルが登場し、オランウータンやゾウもまだ健在のようだし、自然愛好家で旅好きなわたしは、今すぐにでも飛んでいきたいくらい。
海辺のきれいなホテルに泊まって、プールのわきでトロピカル・ドリンクなんぞを味わうのもキライじゃないが、熱帯雨林の中のじめじめした木の洞の中や、腐りかけた木の葉が積もった場所に興味をしめす人間も、広い世間にはゴマンといるのである。

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2010年9月16日 (木)

つらぬけ

新聞の読者投稿欄を読んでいると、代表選は終わったのだからこれからは挙党態勢でとか、これまでのしがらみを捨てて小沢クンを重用したほうがいいとか、つまらない発言をする人がいる。
わたしは極論的にぜんぜんそう思わない。
あちらの顔をたて、こちらの顔に遠慮していたら、何も進展しないことは明白だ。
信任された代表は、他人に遠慮なんかせず、自分に反対する者はかたっぱしからぶった切ってでも、政策をつらぬいてみることだ。
小沢クンや鳩ぽっぽクンらにジャマされてたちまち行きづまる可能性もあるけど、和気あいあい政治がこのまま続いたって何も変わりゃしない。
考えてみれば、そういう強引手法はかっての自民党の変人宰相と同じやり方で、吉と出るか凶と出るかは紙ひと重だけど、国民がのぞんでいるのはそういう頑固なリーダーシップなんだと思う。
国民の支持があるうち、菅クンにはがんばってもらいたい。
やってみてだめなら、小沢クンでも自民党でも、試しにやらせてみる相手はまだいるんだから。

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2010年9月15日 (水)

もの忘れ

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調べものがあって書斎から、ふだんあまり使わない図鑑をひっぱり出したら、ページのあいだから1万円札と千円札が何枚か出てきた。
不測の災害にでもそなえて隠しておいて、そのまま忘れてしまったものらしい。
あわててほかの本もかたっぱしから探してみようと思ったけど、わたしの家の書籍類ははなはだ数が多いので、とてもそんなヒマはない。

それにしてもしまらない話である。
こういう人間がお金持ちになったという話は聞いたことがない。
うそかホントか、わたしの友人には、古い証券類を整理していたら数百万円が出てきたなんてイバっていたのがいるけど、彼もその後お金持ちになったとは聞いてない。

出てきた1万円札は聖徳太子のもの、千円札は伊藤博文と夏目漱石のものだった。
さっそくネットで調べてみたら、聖徳太子の1万円札は1986年まで発行されていたそうだから、とすると昭和61年。
伊藤博文の千円札は同じ1986年、夏目漱石は2007年まで発行されていたらしい。
もうろうとした脳みそを撹拌してみると、1986年に旧紙幣が廃止されたとき、将来値がつくんじゃないかなんてさもしい考えで、それ以前のお札を隠したような記憶がある。
ということは24年間も書斎の奥で眠っていたことになる。

さっそく海外旅行の足しにしてどこかへ行こうかなと考えたが、この金額ではたいしたところへは行けそうにない。
こんなことならもっとたくさん隠しておくんだったと、ホント、馬鹿なんだか利口なんだか。

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2010年9月14日 (火)

おひさしぶり

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さすがに今年の猛暑も峠をこえたようで、今日の散歩はもはや暑いというほどでもない。
やれやれ、というのはわが家の近所に棲息するヘビさんたちも同じのようで、ひさしぶりに彼らを見かけた。
それも2メートルはありそうなでっかいのを、同じような場所で2匹。
やっこさんたち、これだけ大きくなるためには、ウシガエル、カルガモのヒナ、同類などをたくさんまる呑みにしてきたことだろう。
YouTubeなんかには、ヘビがほかの動物を呑みこむ映像がたくさんあって、見始めるとついはまってしまいそう。

ヘビについてはよくわからない。
去年もそうだったけど、初夏のころは散歩に出かけるたびに見かけたヘビが、7月の中旬ごろからぱたっと見られなくなる。
原因がわからないけど、ヘビというのは見かけよりも暑さに弱いのかもしれない。
暑い時期は熱中症予防のために涼しいところでとぐろをまいていたものが、今日はそろそろ秋の気配を感じる気温なので、ついふらふらと迷って出たとか。
しかしそれなら秋になるとまたしょっちゅう見かけてもよさそうだけど、そんな感じでもない。すくなくとも初夏のころほどひんぱんには見かけない。

わからないことは宿題にして、とりあえず写真2枚。

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2010年9月13日 (月)

幸福

昨夜はNHKのBSが「伝説のギタリスト」という番組を放映した。
エリック・クラプトンやジミ・ヘンドリックスが出るっていうから録画してみたけど、なんか期待はずれ。
やたらめったら往年のロック・バンドが登場していたけど、わたしの興味があるのは上記の2人ぐらい。
古いフィルムもいくつか挿んであったけど、往年のロック・スターたちの現状紹介みたいで、おじさん化したかってのヒーローたちがぞろぞろ。
そんなものの断片をいまさら見たって仕方ない。
クリームの再結成ライブなんて、やっぱりBSで放映されたものを丸ごと録画しちゃっているし、ジミヘンだって録画したものや市販されているDVDを5、6枚は持っているぞ、わたしゃ。

それにつけても思うのは、わたしたちの世代は幸福だったってこと。
いまの若い人たちに、リアルタイムで見られるクリームやジミ・ヘンドリックスのようなロック・スターがいるんだろうか。

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2010年9月12日 (日)

小沢クン流

菅クンばかり応援しちゃってると思われるのはわたしの本意じゃないけど、すくなくとも彼のほうが現実主義的であるように思える。
つまり、できないことはできない、ないものはないと言い切れる政治家なんじゃないかということ。
ひるがえって小沢クンはどうだ。
代表選挙であいかわらずマニフェストは死守すべきだとか、沖縄の普天間問題の解決策(の腹案)はあるなんて言っているけど、そんなすてきなモノがあるなら、なぜ鳩山クンが総理のときにやらせなかったのかね。
鳩山クンはどうせ小沢クンのかいらいみたいな人だったんだから、彼の手柄にさせておいても、小沢クンの立場が強固になることはあっても、ゆらぐことはなかったはずだ。
民主党は約束を守る政党だってことで、参院選挙でも自民党なんか歯牙にかける必要もなかったはずなのに。
国民や沖縄の人たちに期待させて、落っことすとしたら、そりゃ罪だぜ。

彼のやり方がだんだん見えてきた。
なんでもいいから美味しいことを言っておけ。あとのことは政権を獲ってから、代表になってから、考えよう。
こういうのを剛腕と言う時代もあったのかもしれないけど、もうそんな昔流のやり方をしている場合じゃないでしょ。

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2010年9月 9日 (木)

うるさい

昨日はヤボ用で街へ出て、帰りにライブハウスでジャズを聴いてきた。
知り合いが3人ばかり同行して、最初はジャズに興味のある人間はいないんじゃないかと危惧したけど、全員がおおいに関心をしめし、案内役のわたしはまあまあひと安心。

SOMETIMEのこの日の出演はサクスホーンを加えたクァルテット演奏。
ピアニストは女性である。
メンバーに女性がいると、ついそっちに目が行ってしまうのがわたしの欠点だけど、この日のピアニストはロングヘアでスマートで寡黙な人。
つまならそうな顔をしてピアノの前に座っていた。
音楽はこれがジャズってなもんで、耳にここちよく、つい自然に聴き流してしまったけど、わたしたちが聴いていた中間ステージの最後の1曲なんか、ずいぶんスイングできて楽しかった。

台風の影響でふだんより客の入りがわるかったようだし、最近は禁煙者が増えているから、ライブハウスもむかしみたいに紫煙もうもうってわけにはいかない。
雰囲気的にはやはりいくらか不良っぽいほうがサマになりますけどねとわたし。
とはいうものの、わたしたちの中にも喫煙する者はひとりもいないのである。

知り合いのひとりが酒や食べものをじゃんじゃん注文するので、持ち合わせの少ないわたしは冷や冷やしたけど、支払いはいつも行ってる和風レストランの飲み代とたいして変わらなかったから、生の演奏つきとしてはまあまあ。
客が少なかったので、他人の迷惑をかえりみずにベラベラおしゃべりしていて、店のほうから注意されてしまった。
おしゃべりの本家の知り合いに言わせると、ジャズはおおいに騒ぎながら聴くものだそうだ。
しかし、外国じゃどうか知らないけど、日本人はジャズを聴くためにライブハウスにやってくる。
やっぱりあんまり調子に乗るのはほどほどにしたほうがエエ。

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2010年9月 7日 (火)

サギの白きこと

380

散歩にいく。
わたしが川をのぞきこむと、小魚たちがわっとクモの子を散らすように逃げていくのが見える。
魚というものは目ざといものであるらしい。
目を転じると、視野の中にたいてい1羽か2羽のサギが、魚を狙っているのが見える。
サギだからもちろんまっ白である。
うーんと考えてしまう。

サギはなぜまっ白なのか。
べつに暑さのせいで頭がイカれたわけじゃないけど、これは不思議ではないか。
あんなに目立ったんでは、魚たちは遠くからでもたちまち襲撃者に気がついて逃げてしまうだろう。
ダーウィンの進化論にしたがえば、魚をねらう鳥はみんな地味でめだたない色になっていなければならない。

ひょっとすると魚の目というものは、その構造上、白という色を識別しにくいのかもしれない。
そんならカワセミもゴイサギもカイツブリも、みんなまっ白になっているはずである。
それとも白いということは餌を獲るのに不利であることを差し引いても、それ以上のメリットがあるのだろうか。

考えられるのは伴侶を見つける場合の有利さである。
地味な鳥よりもまっ白なほうがメスには魅力的に写るだろう。
だから遺伝学的に考えても、サギはどんどん白くなるほうに進化してきたというのは、ムリすれば説得力があるといえなくもない。
しかしサギというのはオスもメスも、みんながみんなまっ白である。
これではやはり餌をたくさん獲れるほうが有利じゃないのか。
どうしてサギは進化論にすなおにしたがわないのか。

たんなる散歩からもこんなふうに深遠な思索ができる場合があるものである。
やっぱり暑さのせいでイカれたのかしら。

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2010年9月 6日 (月)

カメの赤ちゃん

379

暑いときに散歩するとサウナに入っているみたいで気持ちがイイ。
帰宅したあとのビールもうまい。
というわけで、今日もまた皮膚がちりちりと焼けるのを感じながら散歩にいく。

今日は散歩コースで小さなカメ、およそ3、4センチくらいのを見た。
甲羅の長さではなく、頭から尻尾までの長さである。
うちの近所にはカメやスッポンがたくさんいて、その数の多さからどこかそのへんで繁殖しているんだろうと思っていたけど、こんな小さな個体を見たのは初めてだ。
たぶんまだ卵から孵化したばかりなんだろう。

これだけ小さいと天敵も多いはずで、めったに見ないというのも、たいていはサギやナマズやウシガエルのお腹に消えてしまうんじゃないか。
しかし、よそではどうか知らないが、ウチの近所ではカメはまだまだ絶滅危惧種じゃなさそうだ。
カメは千年も生きるというし、あるていど大きくなってしまえば、カメを食べるほど歯の丈夫な動物は、このあたりにはいそうもないからねえ。

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官僚支配の打破

国政選挙でも代表選挙でも、よく官僚支配の打破なんてことを耳にする。
国民もワル乗りしちゃって、そうだ、そうだと喝采を叫んでいる人か多い。
でも、とまたわたしのヘソ曲がりが頭をもたげる。

官僚支配を打破するためには、大臣が官僚より頭がよくなくてはいけない。
頭はよくなくても、せめて政策については官僚より知識があるか、せめてせめて同じくらいでなくてはいけない。
相手はなにしろ、たいていが国立大出の俊英で、しかも自分の専門分野のプロフェッショナルばかりだ。
大臣のほうは、たまたま親が大臣だったとか、そのへんの市民運動上がりだとか、自己過信で立候補しちゃったって人間が多いのだ。
全部が全部そうだとはいわないけど、ま、たいていはそうなんじゃないか。

しかも政府の都合で、今日は少子化担当、明日は交通行政、あさっては財務関連なんて、ころころと専門が変わる。
これではとてもその道ひとすじのプロフェッショナルにはかなわない。
つまり官僚の手助けなしに、ほんとうに仕事なんかできるはずがないのである。

だから官僚支配の打破なんて絵に描いたモチだといってるわけではない。
長年ひとつの政党が政権を担っていると、どうしても政官の癒着が生まれる。
知らず知らずのうちに官僚の都合のいい政治をしているようになる。
政権が代わって、たとえば民主党が官僚支配の打破といってる場合、ようするにそれまでの自民党と官僚とのなれあい構造をチャラにして、こんどは自分たちのいうことを聞く官僚に入れ替えようと言っているにすぎない。
小沢クンあたりはそのことをよくわかっているはずだ。
官僚の中にも長期政権下で築いた権力構造や、いろいろ派閥抗争があったりするから、入れ替えがあればそれまで絶対的な権力をにぎっていた者が失脚する。
これはまあいいことだ。

でも注意をしなくちゃいけないのは、そうやって官僚を入れ替えても、新しい政権が長く続くと、また同じことが繰り返される。
そのうちにきっと癒着や権力構造が復活する。
だから政権がときどき交代するということは、そのたびにそうしたものをリセットする効果がある。
それ以上のものを期待してもダメである。
米国で官僚問題があまり話題にならないのは、しょっちゅう政権が替わるので、政官が癒着しているヒマがないんじゃないか。

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2010年9月 5日 (日)

中国で商売をするには

今日の朝刊から 「向龍時代」 というシリーズが始まって、第1回目の今日は中国で働く日本人についてあれやこれや。
取り上げられた人のおおかたが日本に見切りをつけ、新天地でそれなり生きがいをみつけた人だけど、中には四苦八苦している人もいる。
Nさんという人は上海でコーヒー豆の宅配を始めたものの、それまで使っていた現地スタッフにそっくり同じ商売を始められたり、顧客情報を盗まれたりでさんざんだそうだ。
だから中国人は汚いというべきか、日本人の考えがあまいというべきか。

邱永漢さんの本にこんなエピソードが書かれていた。
日中戦争のまえ、大陸で酒屋を始めた日本人の店のすぐとなりに、中国人が同じ酒屋を開いた。
日本人は当然利益を上乗せした値段をつけるのに、向こうは原価で売る。
原価で売ってどうやって食べていくのかと観察してみると、中国人の店では酒を梱包してきた木箱や、クッションに使われているワラを売って食いつないでいた。
これでは勝負にならない。
ヤケになった日本人が出血サービスなんかやって店をつぶしたあと、中国人の店ではそれまで日本人が売っていたと同じ値段で品物を売り始めた。

これは中国人が商売についてじつにシビアな考えをもっていることの証明である。
非合法な手段などを使わないかぎり、商売というものは相手を出し抜いたほうが勝ちなのである。

このブログの09年2月7日の記事に書いたことがあるけど、中国の上海に龍門賓館というホテルがある。
わたしがはじめて泊まった1994年には、このホテルは駅のすぐとなりという地の利を生かして、外国人向けの5つか4つ星の高級ホテルだった。
ところがその後、このホテルのすぐとなり、それも駅よりに新しいホテルが出来てしまった。
しかも大きさも形もそっくりというイヤラシサ。
もとからあった龍門賓館はたちまちさびれて、つまらない下級ホテルの仲間入りをしてしまった。
それでも中国人は泣き言をいわない。
やられたほうがわるいという考えが徹底しているのである。
中国で商売しようという者はそういう点をよく理解しておかなくちゃいけない。

逆にいえば、中国で商売しようという日本人は、管理システムや流通販路などの合理化を徹底して、誰にも真似できる部分はがっちり防御を固めてからいったほうがよい。
牛丼の吉野家は中国のあちこちで、まあまあ成功しているみたいだけど、牛丼なんかちょっと勉強すれば誰にでも作れる。
にもかかわらず、中国人の誰かが牛丼屋を始めて吉野家の牙城をおびやかすというわけにはいかないだろう。
そのへんをようく研究してみることである。

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2010年9月 4日 (土)

ネパールの蜂蜜採り

5月1日のこのブログで、自然科学や地理・人文科学の専門誌であるナショナル・ジオグラフィック誌 (以後NG誌) について、旅行のガイド本であるなんてことを書いたことがある。
たまたま古本屋でひろったNG誌の中に、ネパールの山中には蜂蜜を採って生計を立てている少数民族がいるという記事があった。
こんな記事を読むと、ついネパールまで行きたくなってしまうから、NG誌は旅行ガイドであるなんてこじつけたんだけど、昨夜のテレビを観ていたら、ほんとうにネパールまでこの蜂蜜採りの見学と実践に行っちゃった若者が出てきた。

彼は英国の養蜂業者で、おそらくこのNG誌を読んだことがあるのだろう。
あるいは、これはBBCの番組だったから、このテレビ局のスタッフの中にNG誌を読んだことのある者がいて、英国の養蜂業者とネパールの蜂蜜採りを対面させたらおもしろいと考えたのかもしれない。

養蜂業というのは箱の中にハチを飼って花の近くに置くだけだから、原始的採集方法にすこしケが生えただけで、たいていの国にある。
わたしは中国でもあちこちで養蜂業者を見たことがある。

ネパールのそれが他の国と異なる点は、蜜の採取方法がかなり乱暴だということだ。
NG誌の場合は高い木のこずえにあるハチの巣 (つまり天然もの) に、顔ネットひとつで果敢に立ち向かっていたが、この番組では高い崖のとちゅうにあるハチの巣に縄バシゴを使って肉薄する。
ハチだって馬鹿じゃないから、崖のとちゅうというのは、他の動物が近づけないようなオーバーハング部分にある場合が多い。
つまりひじょうに危険な採取方法なのである。

ネパール人たちは多少ハチに刺されてもおかまいなしのようだけど、英国人の若者はそうはいかない。
彼は完璧な防護服で縄バシゴにぶらさがって、ネパール式蜂蜜採りに挑戦するのだけど、見ているだけでもきつそうな姿勢、つらそうな仕事である。
感心したのは顔ネットの中に小型カメラをつけて、採集中の若者の表情までわかることだった。
おかげで汗みずくの、けっして楽しそうではない若者の顔までみんなわかってしまった。

蜂蜜採りのあい間に、遠く雪山をのぞみ、棚田や田んぼのあるネパールの僻地の村のたたずまいが観られる。
山なりの屋根をもった木造家屋や、飼われているウシやニワトリを見ていると、どこか日本の山村に似たところだなあと思ってしまう。
密集したミツバチが天敵から巣を守るために、いわゆるウェーブという行為をするのもめずらしかったけど、こういう番組で伝統的な少数民族の生活を知るのも興味がつきない。

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2010年9月 3日 (金)

チリ落盤事故

夕刊にチリ鉱山の落盤事故の続報が出ていたけど、だいぶ地上とのコミュニケーションがとれてきたようで、最近の食事はストロガノフに桃のデザート、建国記念日には肉入りのパンとチリ産ワイン、せっけんやシャンプー、歯みがきも送られ、みなさん豊かで清潔な生活を確保しているそうである。
おまけにDVDを観たり、ゲームもできて、ローマ法王からは全員にロザリオが送られたとか。
これではそのうち、現在のわたしよりよっぽどマシな生活になってしまうんではないか。
現場はとてもアツイらしいけど、暑いのは今年の日本も同じだし。

同じ新聞に脚本家の三谷幸喜クンのエッセイも載っていて、彼は奥さん不在を口実に、毎日カップ麺ばかり食べているそうである。
わたしや三谷クンの生活と比べて、いったいどちらの生活が幸福なのかと考えると、またどこかの大学の白熱教室のテーマみたいになってしまうけど、ひとつはっきりいえるのは、こちらには自由があるのに対し、あちらにはそれがないということである。
わたしは、その気になればいつでも近所のコンビニまで出かけられるけど、落盤事故の被害者たちはそういうわけにはいかない。
わたしのような自由主義者にとってこれは決定的である。
いくらおいしい食事が食べられようと、とても現在ののんべんだらりん生活と、地下700メートルのシェルター生活を交換しようとは思わない。
えっ、どこか議論の主旨をはきちがえているって?
そうかねえ。

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2010年9月 2日 (木)

若乃花

新聞で若乃花さんの訃報を読んで頭がすこし混乱した。
最近の騒動でよく耳にするオールバックのハンサムボーイ貴乃花、その親父が死んだのかと思ったら、栃若時代をきずいた若乃花のことだそうだから、これはそうとう古い若乃花だなと、まあ、そのへんまでは角界のことにあまり詳しくないわたしにもわかった。
つまり貴乃花の祖父にあたる人なのかと思う。

この若乃花と貴乃花のあいだに、もうひとり若乃花って人がいたみたいだけど、その人についてよくわからない。
貴乃花の親父の先代貴乃花って人なら知っている。
マージャンが好きで、自分の家にまでジャン卓をそなえ、それが原因かどうか知らないけど、奥さんから離婚されちゃった人だ。
そんな父親を見習ったのか、彼の息子、つまり貴乃花の実兄の若乃花も離婚で横並び。

親子そろって離婚されちゃった両者だけど、この2人について最近はとんと情報がつたわらないね。
ナニしてんだろう。
と思っていたら、先代の貴乃花って人はとっくに亡くなってんのね。
祖父より先に死ぬなんて親不幸な人だと思ったら、なんと、この2人は親子でなくて兄弟なんだと。
つまり今回亡くなった若乃花は貴乃花のおじさんだったわけだ。

うーんと、まあわたしの頭の中ではわりあいきちんと整理できたつもりだけど、この文章を読んで頭が混乱した人がいても責任はとれません。
この文章のどこかに誤りがあっても謝りません。

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2010年9月 1日 (水)

誓いの休暇

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ブログを通じてある映画ファンとやりとりがあり、それがきっかけで 「誓いの休暇=BALLAD OF A SOLDIER」 という古いロシア映画を観ることになった。
合法かどうかは知らないけど、この映画は YouTube 上にアップされているので、誰でも観ることができるのである。
ただし困ったこともある。
YouTube上のこうした映画は日本人専用に配信されているわけではないから、英語圏以外の国の映画にはたいてい英語の字幕がついている。
わたしは英語の劣等生だから、そんなもの見せられたってわからない。
「誓いの休暇」 には、英語字幕さえついてなかった!
セリフが吹き替えてあるみたいだけど、どっちにしたってわからないのは同じなので、ここは画面をにらみこみ、想像力を駆使して理解するしかない。
さいわいおおざっぱなストーリーはわかっているのである。

この映画は、6日間の休暇をもらって母親のもとへ帰省する若い兵士が、人がよすぎて戦場で片足を失った兵士をその妻のところまで送ったり、赤の他人への荷物の配達を頼まれたりと、いろいろな事件にまきこまれ、ようやく母親のところへたどり着いたときには、もう帰営する時刻が迫っていたという、まあ、滑稽というかカワイソというか、オブラートに戦争否定のメッセージをこめたのどやかな映画である。
残酷なシーンを並べたり、声高に叫ぶばかりが反戦映画じゃあない。 わたしはこういうユーモアのある映画が好きである。

映画の冒頭に、田舎で息子の帰りを待ちわびる母親が登場する。
母親がたちつくす平野の彼方まで、ゆるやかにカーブした道が続き、道が消えるあたりにぽつんと1本の木が立っている。
このあたり、モノクロ映画だけど、黄金色に実った麦畑の続く、いかにもロシア風の田園風景が色彩ゆたかに想像できてしまう。

これは一種のロードムービーなので、随所にあらわれるロシアの風物がたまらなく美しい。
わたしはロシアという国にあこがれているので、とくにそう思うのかもしれないけど、兵士が乗り継いでゆく古めかしいSLが、もくもくと煙をはきながら白樺の原野を抜け、鉄橋を渡り、ゆるやかにうねる平原を越えていくさまからは、かぎりない旅情を感じてしまう。
兵士は貨物列車の中で若い娘と知り合い、ほのかな恋心をいだき、また途中で別れるのだけど、このあたりの抒情も、初恋 (わたしにだってあったのだ) のころを連想させて素敵である。
若い娘が列車の中で、自分のひざっ小僧をあわててスカートでかくすなんて、いまどきの映画じゃなかなか観られないシーンで、思わずどきどきしちゃうよな。
ひさしぶりにいい映画を観たなっていう気がする。

※添付した写真は、わたしが中国大陸を列車でひとり旅をしているときに見た夕焼けだけど、同じようなカットがこの映画にも出てくる。

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