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2010年12月

2010年12月30日 (木)

1年のしめくくり

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このブログを読んで、わたしのことをひきこもりの後期高齢者なんて思う人が、いないと思うけど、ひょっとするといるかもしれない。
自分でもときどきそんなふうなことを書くからいけないんだけど、ほんとにそうだろうか。
ちと検証してみよう。

わたしは今年1年にかぎっても、2月のトルコをはじめとして、数えてみたら、国内のあっちこっちを泊まり込みで5回も旅行をしている。
その中にはむかしの仲間との山登りもあるし、日帰りでは高尾山に登ったこともある。
浅草までスカイツリーの見物に行ったこともあるし、美術館にミュシャの絵を見学に行ったこともある。
映画も 「アバター」 や 「宇宙戦艦ヤマト」、「ぼくのエリ」 など何本も観に行っているし、ジャズを聴くために何度もライブハウスへ通っている。
人ごみのきらいなわたしが新宿までエイサーというお祭りを観に行ったこともあるし、月にいちどは仲間たちと飲み会もある。
こんなことを列挙すると、ひきこもりどころか、わたしは好奇心いまだ衰えずの、けっこう外向きの人間ということになるんじゃなかろうか。
他人に同情されるどころか、うらやましいほどの自堕落、退廃的な生活をしているのではないか。

それなのによけいな心配をされるのは、ふだんのわたしがあまり人と交遊しないからだろう。
世間にはケータイなんてものがあるけど、わたしは電話が大キライで、そんなものはこっちからかける場合だけあればいいという考えだから、相手からの電話はたいてい無視してしまう。
それじゃ肉親に不幸があった場合など、困りゃしないかという人がいるかもしれないけど、ひとむかし前の日本人はみんなそういう生活をしていたのだ。
ケータイが発明されたおかげで、むかしよりも現代のほうが家族の結びつきが強くなったってことはゼッタイにない (と思う)。
ケータイなんぞどぶに捨てちまえ!だ。

こんな調子で、何度電話してもぜんぜん出ないから、知り合いからまで、あいつはひきこもりじゃあるまいかといらん心配をされる。
いらん心配だ。 よけいなお世話だ。 わたしに同情なんていりませぬ。
世間の風はきびしいのだ。
寒風にさらされているホームレス諸氏や、職のない若者にどうか同情してやっておくんなさい。

本日より田舎に帰省しますんで、ブログの更新もそのあいだお休みします。
そのあいだ、数少ないわたしのブログの愛読者のために、わたしの古い知り合いの水着写真を紹介してしまう。
本人たちに了解とってないけど、彼女たちがこれを見ることがあれば、たぶん失われた青春の日々をなつかしく思い出してもらえるんでないか。

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2010年12月29日 (水)

北方四島

北方四島の問題は解きようない設問のようである。
2島でガマンしとくかといえば日本の首相のクビが飛び、4島を一括返還すればロシアの大統領 (もしくは首相) のクビが飛ぶ。
日本にすればあちらの不法占領だという大義名分があるけど、不法を行ったスターリンはすでに亡く、戦争なんか知らないよという世代がどんどん増えている。
南京大虐殺について、現在の日本人に責任をどうのこうのといわれても困るようなものじゃないか。

おたがい絶対に歩み寄れないあいだに、ロシアは力をたくわえ、日本は相対的におちぶれてゆく。
このままでは日本のほうがじり貧になるのは目にみえている。
だからその前にわたしはひとつのアイディアを提案しておく。
ま、北方四島に利害関係のないわたしのことだから、あまり本気にされても困るけど。

ラチの明きそうもない交渉を続けているよりも、島をさっさと海底トンネルでつなげてしまえ。
国後島と北海道のあいだなんて本州と北海道より近いじゃないか。
稚内とカラフトもつながりそうだし、そうなればカラフトとシベリアもほんのひとまたぎだ。
千島列島なんか上空から見ると、まるでカムチャッカ半島とつなげてほしいといってるみたいに点々と島がならんでいる。

これらをみんな橋かトンネルでつなげてしまって、ロシア人の日本訪問はビザ不要ってことにする。
すると当地のロシア人たちだって、モスクワまで買物に行くより、札幌や新幹線のある東京のほうが楽だってんで、みんなこっちに来る。
デパートも儲かるし、温泉もうるおうだろう。
ようするに名よりも実を取るってやつだ。
なにしろ北方4島と北海道は近いのである。
ヒグマの2、3頭もトンネルをつたってくるかもしれないけど、そういうのは旭山動物園で国賓待遇にすればよい。

北方4島あたりは豊かな漁場なのだ。
それをロシアのものにしておくのは損だという意見もあるかもしれない。
しかし魚やカニなんてきわめて単純な頭しか持ってないのである。
北海道の沿岸にたくさん漁礁をつくり、定期的に餌をまけば、海の中に国境があるわけじゃなし、魚もカニもみんなこちらの沿岸に引っ越してくる。
わざわざ寒い思いをして遠くまで漁に出る必要はなくなるのである。
なにしろ北方4島と北海道は近いのだ。
自然保護の発言はますます無視できなくなっていて、クジラしかり、クロマグロしかり、チョウザメしかり、スケトウダラしかり、将来は天然の魚なんてみんな禁漁になるに決まってるのだから、そうなると北海道沿岸で完全養殖をする日本のひとり勝ちである。

北方4島には地下資源があるかもしれないので、それをロシアに明け渡すのは損だという人もいるだろう。
かりにあのへんの海底に石油や天然ガスが埋蔵されていたとする。
その場合、最近アジアのどこかの新興大国が東シナ海でやっているように、こちら側の領域からパイプを伸ばして、そういうものをちゅうちゅうと吸い上げてしまう手がある。
なにしろ北方4島と北海道は近いのだ。
ロシアが文句をいったら、資源は誰のものかという問題を提起し、それが国連で延々と議論されているあいだに、急いでちゅうちゅうタコかいな。

すこしまえの新聞に、ロシアとポーランドが接近なんて記事が載っていた。
このふたつの国のあいだにはカチンの森という抜きがたいトゲがある。
にもかかわらず現世代の指導者たちは、もう第2次世界大戦の問題にこだわるのはやめようということで、新時代を築こうとしているようにみえる。
日本もいつまでも過去にこだわらずに、さっさと政策転換をしないと、ますます世界の寵児になるだけのような気がしてしまう。
そりゃ経済大国なら寵児でもなんでもいいけど、時代は変わっているんだよねえ。

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2010年12月28日 (火)

与謝野クンの不運

民主党と連立をはかった与謝野クンの目論見はとん挫しちゃったようだ。
わたしは与謝野クンを、頼りない与党、野党のセンセイたちの中では、かなりまともな政治家と考えているので、ちょっと残念な気がする。
とはいえ、いまの民主党につけるカンフル剤はもうないような気もするから、彼の連立が成功しても間に合ったかどうか。
平沼クンみたいな党利党略の政治家と組んだのが与謝野クンの失敗だけど、かといって自民党の中にも居場所がなかったとすれば、彼は時節からはみだした不運な政治家ということになるのかもしれない。

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師走ぼやき

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26日の朝日新聞は、1面と2面と3面までつぶして 「個から孤へ」 なんて特集だ。
アパートで孤独死する人のなんと多きことよ、来年はそれがますます増えるだろうという記事だけど、考えてみればわたしもアパートのひとり住まいだし、これは真剣に考えなければいけない問題かもしれない。
といったって、考えるってなにをどう考えるのか。どうすれば孤独死がふせげるのか。

先日、用事があってデパートに行ったら、階段のおどり場のベンチにつくねんと座り込んでいるおばさんが数人。
手になにも持ってないから買い物に疲れた人ってわけじゃなさそうだし、どうやら家にいると光熱費、暖房費がかかるというんで、いくらか暖房のきいているデパートのおどり場で時間をつぶしている人たちらしい。
男なら叱咤激励するのもいいが、女の人じゃどうすればいいのか。

女の人の場合は男運で人生が決まってしまう場合が多い。
結婚しても亭主が甲斐性のない男だったら、いや、べつに暴力をふるうとかいうわけじゃないけど、つまりありふれた小市民的人物で、安い給料で人生を終えるような人だったら、奥さんが必死に働いたってどうにもならないんじゃないだろうか。
亭主なんかに頼らないですむような特技をもった女の人がどのくらいいるだろう。
だいたい昨今は若者でも仕事がないくらいだから、ふつうのおばさんたちは、けっきょく生活防衛のためにデパートへ毎日出勤するしかない。仕事をするためじゃなく光熱費、暖房費を節約するために。

今朝の新聞に出ていた、生活保護をもらっているひきこもりの若者なんか、仕事をさせると他人よりワンテンポ遅い性格で、生きる資格がないなんて自分で信じてしまって、ひきこもりの現在はブログに思いを書き込むだけがゆいいつの生きがいだそうだ。
これじゃわたしのことを言われているみたい。
わたしの場合は生活保護をもらってないだけもうすこしマシだけど、この幸運はたまたま彼よりも早く、いい時代に生まれただけじゃないのかって煩悶してしまう。

夕刊にはサッカー協会の岡野俊一郎最高顧問の記事が連載されていた。
この人の人生はサッカーひとすじで、ほとんどぶれたことのない堂々としたものだったらしい。
もちろんそこには多くの努力があったんだろうけど、負け犬みたいな当方としては、努力できること自体が天賦の才能だったんじゃないのかと思いたくなってしまう。
努力という言葉は知っていても、性格や能力や家庭の事情で、それをする以前に挫折する若者のほうがはるかに多いのだ。

さて来年はどんな年になるのか。
ワンテンポ遅い若者には、なにかべつの才能がひそんでいる場合が多いけど、そうした才能をひろいあげ、活用してくれる社会がくるだろうか。

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2010年12月27日 (月)

ウォーキング

散歩にいく。
こう書くとジジ臭くていけない。
これからはウォーキングに行くと書くか。
それとも自然観察や博物探査に行くと書いたほうがいいかしら。

歩いていると、うしろからバタバタとどこかの青二才が追い越していく。
全身をトレーニングウエアでつつんで、オレって健康に気を使ってんだもんね、そのへんのくたびれたおじさんとは違うんだもんね、オレには輝かしい未来があるんだもんねと主張しているみたいで、ひじょうに不愉快。

ばかやろめが!
わたしだってむかしはジョギングや水泳をしたもんだぞ。
しかし、いくら頑張ったって人間いつかはかならず寝たきりになる。
それが遅いか早いかのちがいだけじゃないか。
そう確信して運動はぴたりとやめた。

わたしの知り合いのおじさんなんか、若いころスポーツをして体をきたえ、ついでにお酒を飲みすぎて、年とってからクモ膜下出血で倒れちゃった。
なまじ丈夫だったせいで、植物人間になったままいつになっても死ねないで困っている。
ほんとに困っているかどうか、本人は意識がないからわからないけど、まわりは困っているんじゃなかろうか。

健康と不健康の存在意義について、屈折した思いをいだいて歩いていると、そのうち後ろからどたどたとものすごい足音をたてて、金髪の娘が追い越していった。
欧米人の娘だから、とうぜん短パンにむき身のなま足だ。
こういうのはぜんぜん不愉快ではない。
がんばってほしい。

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2010年12月24日 (金)

ジャニスのソノシート

わたしがブログにジャニスのイラストを乗せたすぐ翌日に、NHKでジャニスの番組が放映された。
これはすごい偶然であって、けっしてわたしがNHKの内通者ってわけじゃない。
1週間の番組予定表を見ればこの日にジャニスの番組があることはわかるけど、そんなもの見たおぼえがない。
偶然というのはいちどしかないのがふつうだから、ジミヘンの番組の放映予定はないみたいだ。

わたしはジャニスの伝記も読んだことがある。
若いバンドメンバーを強引に犯しちゃうなんて、ぜんぜん恥じらいのない大胆な発言や行動が、まるっきり想像どおりのジャニスだったけど、そんなことはさておいて (人間は正直なほうがいい)、この伝記本にはソノシートがおまけについていた。
ソノシートってのは、まだレコードが高価だったころに流行った、ビニールのぺなぺなの安いメディアだけど、ここにボニー・ブレムレットと対話している音声、およびジャニスの歌う 「セント・ジェームス病院」 が収録されていた。
どこで録音されたのかわからないけど、おおかた個人が安い録音機で録音したものだろう。
音はわるいけど、この歌はひじょうに魅力があるし、彼女の他のレコードではけっして聴くことができないから、いまではわたしの宝物のひとつになっている。

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2010年12月23日 (木)

マンガの2

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脳みそを使わないネタをもうひとつ。
これもむかし描いたマンガにちと手を加えただけ。

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2010年12月22日 (水)

マンガ

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新しいパソコンを研究中です。
ブログなんか書いているヒマがないんで、またマンガでお茶をにごしておきます。
マンガを描いているヒマはあるのかっていわれちゃいそうですが、これはずっとむかし描いたものにちょいと手を加えたもので、脳みそはぜんぜん使ってないのです。

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2010年12月21日 (火)

カニ

なんかお手軽なブログ・ネタはないかと新聞をみる。
世間にいろいろと事件やもめごとは多いようだけど、「お手軽」というキーワードをつけると、なかなかふさわしいネタはないようだ。

夕刊の14面を2/3ぐらい占領して、ズワイガニむき身50本1万1千円とか、生タラバのむき身1キロなんぼとか、でっかい広告が載っていた。
カニはたまに飲み屋や回転寿司で食べるけど、べつに直販で買いたいとも思わない人生をおくってきたから、高いのか安いのか、ほんとに美味いのかどうかよくわからない。
日本は模造ガニの製造では世界一らしいから、わたしが食べたカニの何パーセントかはそれだったかもしれないし。
そのうち北海道へでも本場のカニを食べにいくか。
暖かくて、どうも本気になれない師走だよな。

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2010年12月20日 (月)

師走の夜のジャズ

ジャズを聴きにいく。吉祥寺のライブハウスである。
この日の出演はどんなグループかなとあらかじめ調べてみたら、ピアノトリオ+1という編成で、ボーカルにチャリートという歌手が加わっていた。
チャリートというのはどんな人かなと、さらにネットで調べてみたら、美人女性歌手らしい。
これじゃ行かずにはいられないと、あいかわらずわたしは不純だけど、やっぱり美人は得である。
これでスタンダード・ナンバーでも演ってくれればいうことなしだと思う。

じっさいのチャリートって人にはこれ以上触れないけど、演奏は最近この店で聴いたJAZZの中ではなかなか聴きごたえのあるものだった。
わたしは最近の日本のジャズ・シーンをよく知らないんだけど、店がほぼ満員だったのは彼女の人気によるものかもしれない。

このボーカルを支える、というか彼女と渡り合うトリオのピアニストは、山谷のドヤ街を腹巻にステテコでよたっているタイプの男性。
こういう人がピアニストであることがジャズのおもしろさ(じっさいに腹巻をしてたみたいだぞ)。
残りのベーシストとドラマーはまだ若そうな人で、ベースも快調だし、とくに若手のドラムは元気があって、聴いていても気持ちがいい。

夜は10時に就寝することに決めている品行方正かつ忙しいわたしは、例によって第1ステージしか聴いてこなかった。
このステージの最後の曲では、のりすぎたドラマーを歌手が手で制する場面もあり、これは演出かもしれないけど、いや、熱気に満ちた、じつにJAZZらしい演奏だった。

ということで、いい気分でまた師走の街にちどり足。
こんなふうに日曜日の夜に、ライブハウスでバーボンをかたむけながら音楽を聴いていられるのも、わたしがまだ現役で仕事をしているからだろうなあとつくづく。

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2010年12月19日 (日)

新しいパソコン

新しいパソコンが届きました。
いま必死でセッティングをしてますがね。
あっちこっち小手先だけみたいな変更があって、使いにくいったらありゃしない。
ウインドウズXPのころのまんまで、わたしゃなにも不自由はないんだけど。

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2010年12月17日 (金)

3D新聞

わたしの家では朝日新聞をとっている。
朝、夕両方をとっているから、なかなか熱心な朝日の愛読者である。
ときどき他の新聞の勧誘員がくるけど、ウチは朝日しか読まないといって追い返してしまう。
なんで朝日にこだわるかというと、読売よりは反体制的だそうだし、ときどき自虐史的な、ふざけんじゃねえ、朝日!といいたくなるような記事を書くから、そういうことがあったらブログで反論しようと思っているのである。

とうぜん集金がくる。
わたしは新聞をすみからすみまで熟読するほうだから、まあ、文句もいわずに払う。
ずっと朝日をとり続けているから、ときどきワガママもいう。
洗濯洗剤ばかりじゃなく、たまには台所洗剤を持ってきてなどと。

先日やってきた集金の若い衆が、洗濯洗剤のほかに妙なものを持ってきた。
丸い穴がふたつ並んだ1枚の紙だけど、それを持って、3Dを知ってますかという。
3Dというのはいま流行りの立体画像・映像のことである、ぐらいのことはもちろん知っている。
ただしうちのテレビは3Dではない。

若い衆のいうのには、こんどから朝日新聞も3Dになりますんでとのことである。
たまげた。
朝日新聞は3D新聞になるのである。
最初は 1部の記事だけらしいけど、記事や写真が飛びだすらしい。
丸い穴が並んだ紙はそれを見るためのものだそうだ。
3Dの自虐史観なんてどんなものになるのだろう。
楽しみになってきた。 長生きはするもんだな。

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2010年12月16日 (木)

奇想天外

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散歩に行ってもつまらない季節だ。
川をのぞきこんでもコイぐらいしか見られない。
あっちこっちでサギやカワセミが魚を狙っているのを見かけるけど、彼らもさぞかしひもじい思いをしてるんじゃあるまいか。
冬の川はなぜつまらないのかと考えながら歩いているうち、想像を絶するアイディアが頭にうかんだ。

沖縄のサンゴ礁の海には、じつにさまざまな形の色彩ゆたかな魚たちがいる。
ああいう魚たちがうちの近所の小川に棲息していたら、これはもう、人生バラ色になるんじゃないだろうか。
たとえばマツカサウオなんて魚がいる。
こいつは伊豆あたりにもいるけど、金色の松笠のようなうろこにおおわれた魚で、夜になると発光もするから、夏の夜のホタルに匹敵する名物になることまちがいなし。
モンガラカワハギという魚もいる。体の模様がなんともいえずキテレツで、モンちゃんなんて愛称がふさわしいマンガチックな魚である。

現代ではDNA操作でいろいろな品種改良が可能らしい。
モンちゃんは30センチもある大きな魚だけど、ミニダックスやミニコリーをつくる技術で、ぜひ淡水性ミニモンガラなんてのを作ってほしい。
え、そんなハデハデな魚はすぐにサギの餌になっちゃうって?
それじゃあフグ毒でも持たせるとか。
生態系がだいぶ乱れそうだけど、楽しいから、ま、いいんじゃないか。

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2010年12月15日 (水)

大改造

ある日とつぜんマイクロソフトが
「OSの抜本的大改造をすることにしました」
「小手先だけの改造では、もうこれ以上利用者の要望に応えられません」
「3年間の猶予期間をおき、そのあと、現在使っているすべてのアプリケーション、および過去のデータは使用できなくなります」

さあ、世界中が大混乱だ。
おいおい、オレが集めた数千のアダルト画像はどうなっちゃうんだ。
オレが10年間つけていた日記はどうなるんだ。
MS (マイクロソフト) いわく。
「画像にしても文章にしても、JPEGやテキストのようなもっとも簡単な形式でのみ、改造後のOSに対応できます」

MSにしてみれば、大改造後のOSでまたコンピューター業界の主導権をにぎりたいところだけど、こうなると他のソフトメーカーが黙っちゃいない。
GOOGLEなんかはMSにとって替わろうとするだろうし、米国は自国のメーカーを保護しようとするけど、メーカー間のののしりあいをとめるすべはない。

もちろん欧州や中国、インドも黙っちゃいない。
OSという、いまや世界のあらゆる分野にかかわる基本技術を、米国だけが独占するのはケシカランということになる。
このさい世界基準の新しいOSを、20年50年後もみすえたOSを、国際プロジェクトチームの監視のもとに作るべきだという声が騒然となる。
こうなると各国のおもわくが火花を散らして、話がうまくまとまるはずがゼッタイにないから、以後パソコンのOSは、世界中の国が勝手に作ることになる。
そのさい必要なのはただひとつ、OS同士のコミュニケーションだけは確保するってことだけだ。

ビル・ゲイツ君はとっくにMSを退社して、慈善事業に専念しているから、彼に文句をいってもダメである。

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2010年12月13日 (月)

神秘の太陽系

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民放のBSで 「神秘の太陽系」 というBBC (英国放送協会) の番組をやっていた。
BBCの科学番組は素晴らしいということで定評があり、わたしもつねづね感心しているほうだから、録画してみた。

宇宙を扱った科学番組はNHKなどもよく放映しているけど、なんとなくひとつのパターンがあるみたいで、それがちと気になっていた。
こういう番組の場合、たいていは写真や映像をならべ、それについてナレーションや識者の解説が入るというものが多い。
ひどいのものになると、役者やお笑いタレントを進行係にしたものもあって、それだけでまともな科学番組と思えなくなってしまう (NHKがたまにやるのである)。

地上の動植物なら種類も生態も千差万別で、まだわたしの知らない事実がたくさんありそうだ。
しかし宇宙というと、化学組成やむずかしい数字をべつにすれば、すくなくとも視覚的にはわたしが知らない事実がそれほどたくさんあるとは思えない。
BBCの場合もそんなパターンなんだろうなあと、期待と不安がいりまじったような心境で観た。
しかし、さすがはBBCだ。
今回はBBCの科学番組でおなじみのデヴィッド・アッテンボローにかわって、ブライアン・コックスという若い科学者を解説係に起用し、わたしの不安を一掃するようななかなかおもしろい番組に仕上げていた。

この番組は、現時点での宇宙の最新データと映像を使った番組だけど、惑星や衛星について説明するのに、いちいち地球の似たような環境をとりあげてみせる。
たとえば、土星の環が氷の粒であることを、わざわざコックス君をアイスランドの氷原に立たせて説明する。
温室効果で水を失った金星については、水びたしのインドの密林をひきあいに出し、活火山のある木星の衛星イオについては、エチオピアにある火山のふちに立つ。
生命の環境への適応力を説明するためには、深海探査艇に乗って数千メートルの海底まで潜ってみせるのである。
こんなふうに解説者が地球上のいたるところに飛んで、そこで実例を見せながら説明するというのは、アッテンボローのときと同じだけど、視聴者に興味を持たせるのにひじょうに効果的である。

番組の中にいまでも火星上で活躍を続けている探査機が出てきた。
砂の上に探査機のキャタピラ跡が残る砂漠の風景は、一見すると地球上の砂漠と変わらないように見えるけど、わたしはそこがいっさいの生きもの、目に見えないバクテリアすら存在しない無機的な砂漠であることを知っているので、その映像がしみじみと印象に残った。

※添付した画像はここに書いた文章の一部にかかわるものだけど、さて、いったい何だろう。

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2010年12月11日 (土)

ノーベル賞の受賞式

日本人が受賞した今年のノーベル賞の受賞式をテレビでやっていた。
水をさすつもりはないけど、観ていてあまり楽しいものじゃない。
かりに、わたしがノーベル賞をもらったらどうだろう。
あり得ないけど、かりにあり得たとする。

わたしは人前でスピーチなんかするのはキライだから、まして世界中から注目されていると考えたら、とてもとても根岸さんみたいに、ユーモアをまじえたりゅうちょうなスピーチなんかできるはずがない。
英語が話せないことをこのさい無視しても、だ。
最近記憶力が減退しているから丸暗記もムリだろうし、むりやり喋らせると、ノーベル賞についての疑惑と改革なんてものを言い出すかもしれないし、そのうち自分でもなにがなんだかわからなくなって、ステージで童謡唱歌を歌いだすかも。
晩さん会だって緊張してスプーンやワイングラスを落っことすかもしれないし、やんごとなき淑女をかたわらにはべらせて、優雅な会話もぜんぜん自信がない。

日本人の恥をさらすようなもんだから、まず賞そのものを辞退してしまうんではないか。
そんな心配をしなくても、ノーベル賞はお祭りだから、わたしにかぎらないけど、屈折していて陰険で、お祭り向きじゃない人間は、あらかじめ選考の過程でふるい落とされているんじゃないだろうか。
三島由紀夫がノーベル賞をもらえなかったのも、事前審査で、式場でアジ演説でも始められたらヤバイということだったかもしれない。

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2010年12月10日 (金)

カリン

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カリンである。
じつにみっともない実である。
かたちもみっともないし、枝の先っぽだとか、本来は実るべき場所じゃないようなところにひょっこり実っちゃったり、葉が落ちたあとにいつまでもだらしなくぶらさがっていて、どことなく定年退職して家族にジャマ者扱いされているおじさんの悲哀のようなものを感じてしまう。

それでも食べて美味しいなら可愛げもあるが、どうも果物というには抵抗があるようで、カラスや小鳥たちも見向きもしないようだ。
名前そのものは女の子の名前みたいで可愛らしいけど、植物にはだいたい和名というものがあるはずなので、調べてみたら、ものすごくむずかしい漢字だった。

別名で木瓜とよばれることもあるそうだけど、この名前はほんらいボケという別の種類の木の名前である。
さらにマルメロという木の実があって、これもカリンと呼ばれているとかで、もう何がなんだかわからない。
まったくもってみっともない実なのである。

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2010年12月 9日 (木)

勝手にしやがれ

パソコンというものは便利だし、楽しいものである。
わたしはパソコンを仕事や趣味に、わりあい多方面で活用しているので、とくにそう思う。

ところが最近こんな例にぶち当たった。
わたしの知り合いがパソコンを買おうかどうか迷っている。
もちろんわたしとしては、目いっぱいにパソコンの素晴らしさを吹聴することになる。
文章は書けるし、年賀状も暑中見舞いも作れるし、いろんな計算もかんたんにできる。
写真を保存したり加工したりもできるし、音楽も聴けるし、DVDも観られるし、絵も描けるんだぜ。
その気になれば作曲だってできるし、映画だって作れちゃう。
インターネットを駆使すれば、メールや意見を発信できるし、わからないことを調べるにはヘタな百科辞典より威力を発揮するよ。
タダでテレビ電話もできるし、買物までできちゃうんだ。
そればっかりじゃない。ニュースや国家の機密情報なんてものも新聞より早く読めるし、いやらしい画像や映像は見放題。
わたしはやらんけど、ゲームもできるそうだ。
とにかくこんな素晴らしいものはないぜと。

ところがこの知り合いは文章なんか書く趣味はないという。年賀状は業者にまかせてしまうという。
写真の趣味もないし、絵を描く才能もなさそうだ。
もちろん映画もめったに観ない。
音楽はたまにカラオケぐらいやるらしいけど、とくに熱中するほうでもない。
なにか調べる必要も感じないし、ネットで買物もしそうにない。
パソコンを必要とすることをなにひとつやりそうもないのである。
いまどきそんな人間がいるのかといわれそうだけど、そういう人はけっこう多いのじゃあるまいか。

さあ、困った。こうなるとパソコンなんか、なんの役にもたたないただの箱だ。
やけっぱちでわたしはいう。
えい、くそ。部屋のインテリアとしてもなかなかいいもんだぜ、テレビのとなりに並べておくと、知的な人間になった気がする、パソコンてもんは。

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2010年12月 8日 (水)

坂の上の雲後半開始

鳴り物入りの 「坂の上の雲」 の後半が始まったというので、観てもないのにどうのこうのといわれるのはシャクだから、いちおう録画してみた。

最初のほうに義和団事変だと思うけど、日本兵、ロシア兵のあいだで逃げまどう中国の民衆が出てきた。
同じアジア人だから助けてと叫ぶ中国人、もったいぶったカッコいい日本人、残酷なロシア人と、これ以上わかりやすい設定はないんじゃないかという描き方。
欧米映画、日本映画をとわず、最近は、いったいどんな層のためにこんなバカバカしいものを作ったのかといいたくなる映画が多いけど、これも同じ。
コンピューター・グラフィックが発達して、この映画のような大掛かりな特撮もわりあいお手軽に作れるようになったものの、制作者側のテーノウ (低能) 指向はいかんともしがたい。

ロクなもんじゃないことをあきらかに確信して、早送りで観ていたら、えらく美人のロシア娘が出てきた。
おおっと、この場面だけまた正規のスピードで観る。
わたしもロクなもんじゃないけど、こうなるとアホらしさを追求するために、やっぱ次回も観てしまいそう。

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ひどい話のさらに続き

また追跡調査をしてみた。
わたしのパソコンはまだ国際輸送中だそうだ。
輸送開始は6日だったそうだけど、いったいぜんたい月か火星で組み立てたのか。東南アジアとすれば筏かカヌーで運んでるのか。
早くしてくれよな。

今日も暖かい。
あったかいってのはいいけど。
世界の首脳、外交官が本音じゃどんなことを考えているのか、そんな知りたいことを知らせてくれたアサンジ君も捕まっちゃったし、金星探査機もあさっての方角に飛んでいっちゃったみたいだし、今日も元気で生きていこうって気にぜんぜんなれない。

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2010年12月 7日 (火)

ひどい話の続き

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なんたる暖かさだ。
わたしなんか部屋の中でTシャツ1枚だぞ。
散歩に行ったらもうスイセンまで咲いていた。 1輪だけだけど。

注文したわたしのパソコンは、追跡調査をしてみたら、ただいま日本に向けて国際輸送中だそうだ。
おおかた東南アジアあたりで組み立てたんだろうけど、そんな大騒ぎするようなパソコンか。
さっさとせんかい。
わたしがパソコンで株の売買でもしていたら、とっくに2、3億の損失を計上していたかもしれない。

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2010年12月 6日 (月)

ノーベル賞

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日本の学者が受賞したり、中国の反体制詩人が受賞したりと、今年のノーベル賞はいろいろ話題が多いみたいだけど、わたしのこころの中にはどこかにわだかまりがある。
けっして日本人の受賞に水をさすわけじゃないけど、ノーベル賞というものにどこか不純なものを感じているからである。
その理由のひとつは、この賞が受賞者が生きているかどうか、つまり授賞式に参加できるかどうかを受賞資格にしていることだ。
ノーベル賞の選考委員たちは授賞式を一種のお祭りと考えていて、ゲスト(受賞者)が参加できなければ意味がないと考えているらしい。

英国の科学者ヘンリー・J・モーズリーは、周期律表という科学の基礎となるような重要な発見をしたにもかかわらず受賞しなかった。
それは彼が授賞式以前に戦争で死んでいたからである。
つまり授賞式に参加できなかったからだ。お祭りのゲストになりえなかったからだ。

科学の発見や発明にはもちろん優劣がある。
この発見のほうがこちらの発見より重大だということはあるけれど、モーズリーの原子番号の概念は誰が見ても第一級の発見だった。
にもかかわらず選考委員たちの頭の中には、いかにお祭りを見栄えのいいものにするかという意識しかなかったようだ。

だいたいノーベル賞には物理と化学の賞があるのに、なぜ天文や数学、人文地理などの賞がないのかと、このへんはSF作家アイザック・アシモフの受け売りになるけど、もっともなことじゃないか。
世界各国の持ちまわりみたいな文学賞や、その時々の西側の都合による平和賞もおかしいし、そんなものは即刻廃止して上記の部門を設けるべきじゃあるまいか。

わたしが米国の惑星探査機ボイジャーの功績に吃驚したことは、ちょっとまえのこのブログに書いたけど、人類史上はじめて巨大惑星とその衛星の素顔をあきらかにしたNASAのチームが、なんでノーベル天文学賞に値しないのか。
あれはひょっとすると、映画 「カプリコン」 みたいな米国のデッチ上げかもしれないと疑いをもったのか・・・・・・ ナルホド。
いや、そんなことに感心しちゃいけないな。
みなさんもNASAの発表した写真で、もういちどあのときの感動を味わってチョーダイ。

そんな調子であるから、新聞やテレビが今年のノーベル賞授賞式がどうしたこうしたという報道をしても、わたしはあまり関心がもてないのである。

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2010年12月 5日 (日)

紅葉

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今年は紅葉がきれいである。
なんでも夏のあいだの猛暑のせいだそうだ。
せっかくだから近所で撮影した紅葉の写真を4枚ばかり。
プロの写真にゃおよぶべくもないけど、コンパクトデジカメでも逆光をうまく活用すればこのていどには撮れる。
ただ、1枚目のようにデータ量の多い景色はコンパクトに不向きなんだけど。

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ひどい話

ひでえ話だな。
ネット通販でパソコンを申し込んだことはこのブログに書いたけど、申し込んでから2、3日で届くんじゃないかと思っていたら、ただいま海外で製造中だそうで、配達は今月の21日ごろになりますだって。
これじゃレストランでステーキを注文したら、ただいま牧場で牛を育てていますっていわれたようなもんだ。
やっぱし国産のパソコンにしておくんだったな。え、DELL。おまえのことだよ。

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2010年12月 4日 (土)

キャビア

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同じアパートに住むロシア系の金髪クンがロシア産のキャビアの缶詰をくれた。
キャビアなんて、過去にどこかで食べたことがあるかもしれないけど、うーんと考えても思い出せない。
そんなめったに食べられない貴重な缶詰を目の前にすると、(たった 1個でも) なんかすっごく豊かな食生活をしているような気がする。

さっそく食べてみた。
食パンにバターを塗り、その上にのせて食べるのがロシア流だそうだ。
食べながら考える。

キャビアはチョウザメの卵である。
チョウザメというのは、これが淡水魚かといいたくなるようなヘンテコな形をした魚で、以前テレビの釣り番組で見たものは、体長が4、5メートルあって、トラックで陸に引っ張り上げていた。
うーんと考え込んでしまう。

釣り師が大物をねらいたくなる気持ちはわからんじゃないけど、野性の魚がこんな巨大になるのは、多くの幸運や偶然の積み重ねである。
さまざまな試練を乗り越えてきたそういう魚を、安易に殺してしまうのは大罪じゃないか。

ねらうなら、チョウザメの場合、1メートル以内のものにしてほしい。
そのクラスならまだあまり試練にぶつかってないから、数も多いだろうし、釣られた魚は幸運偶然が積み重ならなかったということで、すなおにあきらめて人間に食べられるのではないか。
最大クラスまで成長した魚については、人間はつねに尊敬の念を抱かなくてはいけないと思う。

こんなことを考えでいたので、キャビアはあまり美味しいと思えなかった。
こんなことを考えたのは、明日がわたしの所属する団体の健康診断の日で、今夜は呑み食い禁止のラマダン日だもんで、つい食べ物の話題になっちゃったのだ。

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2010年12月 3日 (金)

小惑星探査機はやぶさ

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一時の騒ぎは下火になってきたようだけど、小惑星探査機 「はやぶさ」 について、知り合いと話をしていたら、ちと気になることが。

はやぶさは宇宙空間を60億キロも飛行して無事に地球に帰還したとされる。
60億キロといえばものすごい距離である。
どのくらいものすごいかというと、太陽から地球までの距離が1億5千万キロで、60億キロといったら、太陽から、いちばん遠い惑星の冥王星までの距離ぐらいだから、この距離はわたしたちの太陽系の果てまでの距離といっていいかも。
この60億キロというのは往復した距離だから、片道は30億キロとしても、太陽から天王星あたりまでを往復してきた距離になるのである。

億キロなんて単位を使うとややこしいので、これからあと60億キロはたんに60キロということにして説明しよう。
こうすると数字がいよいよおおざっぱになってしまうけど、わたしはもともとおおざっぱな説明をしようとしているのだからかまわない。

億単位を省略すると、太陽と地球の距離は1キロ半ということになり、太陽と火星の距離は2キロになる (あくまで平均だけど)。
こうしたって60キロというのはものすごい距離だ。 片道30キロとしてもなかなかのものだ。
はやぶさを絶賛するわたしの知り合いは、この距離を直線距離と思っているらしい。
しかし、はやぶさはほんとうにそんな遠くまで行ってきたのだろうか。
はやぶさが目標とした小惑星イトカワは、変則的な軌道で太陽のまわりを公転しているけど、太陽からいちばん遠く離れたときでさえ、火星よりすこし遠くなるくらいである。
火星は、太陽をはさんで軌道上の正反対の位置にあるときでさえ、地球から3キロ半ぐらいしか離れてない。
はやぶさは7年間も宇宙を飛行していたというけど、じつはその大半は、地球や火星とあまり変わらない場所で、太陽を公転していたのじゃあるまいか。
飛んでいたのか、ただよっていたのかは別にして、太陽を一周すればその飛距離はそうとうのものになる。
60キロという数字は、太陽を何周かしていたあいだの飛距離をぜんぶ足したものじゃないのか。
もろもろを考慮すると、はやぶさは地球から、最高でもせいぜい4キロ、ここでまた億単位をつけるとすれば、4億キロていど遠くまで行っただけじゃないのか。

ことわっておくけど、60億キロ (もしくは30億キロ) が4億キロだったとしても、これではやぶさの功績に傷がつくわけじゃない。
宇宙の神秘がすこしづつ明らかになっていくのは素晴らしいことだし、生きているあいだにわたしはひとつでも多くの事実を知りたいと念願しているからである。
かって米国の惑星探査機ボイジャーが、木星や土星、その衛星の詳細な写真を地球に送ってきたとき、わたしはその奇跡ともいえる画像に吃驚した人間のひとりである。
なんの特徴もない平均的な地球人で、宇宙の歴史からすればほんのまたたき程度の時間しか生きていないわたしが、コペルニクスやガリレオはもちろん、ニュートンやアインシュタインさえ知ることのなかった、惑星や衛星の素顔を知る瞬間に立ち会えたということは、なんと幸運なことなのだろう。

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2010年12月 2日 (木)

ウィキリークスの2

かってイスラムのご本尊さまをバカにする(とされる)小説を書いて、いまでも世界中のイスラム教徒から命を狙われている作家がいるけど、ウィキリークスのジュリアン・アサンジ代表の場合は、自らすすんで標的を志願したことになるらしい。
世界にはウィキリークスのことを、本気で怒っていて、しかもやたらに銃をぶっ放す輩が多いから、彼の命はいまや風前のともし火だ。
そんなことになったのは彼がみずから種をまいたからである。
いったいどんな人なのかとテレビで観たら、見た目もパンクロックの歌手みたいだったから、その反骨精神は筋金入りなのだろう。

品行方正かつ常識的なヒトである?わたしは、最初のうちは国の機密情報を勝手にもらすなんてケシカランと思ったくちだけど、アサンジ代表のつっぱる姿勢を見ているうちに考えが変わってきた。
彼のやったことは、インターネットを人間の頭脳にたとえるなら、それが成長していく過程で、いつかかならず到達するはずの一点を示しているのじゃないか。

だいたい暴露される秘密というのはナンダ。
そんなに暴露されるのがイヤなのか。
イヤなら隠さなければいい。
イヤなら戦争なんかやめればいい。
イヤなら隠したくなるような恥ずべきことを一掃すればいい。
すべての人間が情報を共有してしまって、国家や国境をとびこえて、語り合い、手をつなぎあってしまえばいい。

人間が円満に世渡りをしていくためには、いろいろと隠さなければならない事情や事件があるもんだと、現実どっぷりのご高説をたれる人もいるかもしれない。
そんなもっともらしい理屈を聞きたいとは思わない。
わたしがいいたいのは、やがて人間という原始的な生きものの行動が、すべてコンピューターの知るところとなるんじゃないかということだ。
だれそれが昨夜路地で立ち小便をしたとか、あなたの今朝のウンコが軟便だったか硬便だったか、タレントのなになにチャンはなにがしクンとラブホテルでHをしたとか、そういうことがすべて誰もが共有できるネット情報となる日がくるんじゃないだろうか。
もはや隠すべき情報なんて存在しない。
わたしたちは人間をはるかに超えるインターネットという有機体の、たんなる構成物質になり、無能な炭素生物として身のほどをわきまえて生きていくのである。
おお、まるっきりSFじゃないかっていわれそうだけど、そのとおり。
わたしはこせこせした人間社会より、インターネットの未来のほうにおそろしいくらい畏敬の念を抱いているのである。

ジュリアン・アサンジという人がしていることは、ひょっとすると100年、いや50年後にはぜんぜんケシカランことのない、当然のことになっているんじゃないだろうか。
そうした未来をこの目で見たいけど、無理だろうな。そんなことより年金の心配をしなちゃならんもんな。

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2010年12月 1日 (水)

モヒカン族の最後

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昨夜のBS映画劇場は 「ラスト・オブ・モヒカン」。
最近は映画の配給会社にむかしのような詩人・文豪がいないとみえて、安直に直訳したカタカナの映画タイトルがめだつけど、これもそのひとつ。
「モヒカン族の最後」 という、わたしが幼少のみぎりからなれ親しんだ、有名なタイトルがあるのに残念なことだ。

幼少のみぎりからというのはオーバーじゃない。
わたしは小学校低学年のころ、杉浦茂という当時の人気漫画家が描いた、この小説の翻訳マンガを読んだことがあるのである。
マンガだけではなく、子供向けの翻訳小説も読んだ。
いずれもタイトルは 「モヒカン族の最後」 になっていて、この言葉に郷愁を感じる大人も多いんじゃないかと推測する。

モヒカン族というのは、米国東部の山岳地帯に居住していたアメリカインディアンの一部族の名前で、縦にまん中だけ残してまわりを刈り上げるという、その独特のヘアスタイルが有名だ。
アメリカインディアンでは、西部の平原に住むアパッチやシャイアン、スーなんてのがよく知られているけど、モヒカン族は東部の山岳地帯の部族なので、勢力範囲は異なっている。
しかるに映画 「ダンス・ウイズ・ウルブズ」 を観ていたら、スー族の住む平原にモヒカン族のようなインディアンが悪役として登場してきた。
これは実在したポーニー族ってことだそうだけど、恰好からしたらモヒカンみたいで、しかも悪党づら。
そんなのありかよってわけで、わたしはこれだけで 「ダンス・ウイズ・・・・」 がアカデミー賞に値しないと決めつけてしまった。ケビン・コスナーもきらいだし。

映画 「ラスト・オブ・モヒカン」 については、どこにモヒカン族が出ていたのっていいたくなるような駄作なので、論評はシマセン。

原作は初期の開拓時代をあつかったジェイムズ・F・クーパーの歴史小説で、子供のころはたんなる冒険活劇と思っていたけど、大人になったいま考えると、英国とフランスの植民地争いにまきこまれた少数民族の悲劇という読み方が正解のようだ。
読んだのがそうとうに昔のことなので、はっきり内容をおぼえていないけど、モヒカン族の最後の勇者が敵対する部族のために殺され、ついに一族が絶滅するラストシーンは、子供ごころにも悲しみを誘われたおぼえがある。
たしか勇者の象徴は胸に彫られたカメの甲羅のマークだった。

もうひとつおぼえているのは、植民地争いに敗れた英国の兵士とその家族たちが、砦を追われ、集団で移動中に、敵方のインディアンに襲われて全滅するシーン。
これはじっさいにあった事件だそうだけど、森を知りつくしたインディアンが、ひとりまたひとりと兵士たちを消していくさまがとても怖かった。

だからといって英国に同情する必要はない。
最終的に勝利をおさめ、現在のアメリカの主みたいな顔をしているのは彼らの末裔だし、植民地争いのカタがついたあと、彼らがやったことは協力的だったインディアンを始末することだったのだ。
現在、アメリカインディアンは、部族を問わずほぼ絶滅危惧種であるらしい。
つまり狡兎死して走狗煮らるってことになっているのである。

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