ノーベル賞
日本の学者が受賞したり、中国の反体制詩人が受賞したりと、今年のノーベル賞はいろいろ話題が多いみたいだけど、わたしのこころの中にはどこかにわだかまりがある。
けっして日本人の受賞に水をさすわけじゃないけど、ノーベル賞というものにどこか不純なものを感じているからである。
その理由のひとつは、この賞が受賞者が生きているかどうか、つまり授賞式に参加できるかどうかを受賞資格にしていることだ。
ノーベル賞の選考委員たちは授賞式を一種のお祭りと考えていて、ゲスト(受賞者)が参加できなければ意味がないと考えているらしい。
英国の科学者ヘンリー・J・モーズリーは、周期律表という科学の基礎となるような重要な発見をしたにもかかわらず受賞しなかった。
それは彼が授賞式以前に戦争で死んでいたからである。
つまり授賞式に参加できなかったからだ。お祭りのゲストになりえなかったからだ。
科学の発見や発明にはもちろん優劣がある。
この発見のほうがこちらの発見より重大だということはあるけれど、モーズリーの原子番号の概念は誰が見ても第一級の発見だった。
にもかかわらず選考委員たちの頭の中には、いかにお祭りを見栄えのいいものにするかという意識しかなかったようだ。
だいたいノーベル賞には物理と化学の賞があるのに、なぜ天文や数学、人文地理などの賞がないのかと、このへんはSF作家アイザック・アシモフの受け売りになるけど、もっともなことじゃないか。
世界各国の持ちまわりみたいな文学賞や、その時々の西側の都合による平和賞もおかしいし、そんなものは即刻廃止して上記の部門を設けるべきじゃあるまいか。
わたしが米国の惑星探査機ボイジャーの功績に吃驚したことは、ちょっとまえのこのブログに書いたけど、人類史上はじめて巨大惑星とその衛星の素顔をあきらかにしたNASAのチームが、なんでノーベル天文学賞に値しないのか。
あれはひょっとすると、映画 「カプリコン」 みたいな米国のデッチ上げかもしれないと疑いをもったのか・・・・・・ ナルホド。
いや、そんなことに感心しちゃいけないな。
みなさんもNASAの発表した写真で、もういちどあのときの感動を味わってチョーダイ。
そんな調子であるから、新聞やテレビが今年のノーベル賞授賞式がどうしたこうしたという報道をしても、わたしはあまり関心がもてないのである。
| 固定リンク | 0
「揚げたてニュース」カテゴリの記事
- いいのか(2025.02.10)
- 心配なし(2025.02.07)
- わたしの夢(2025.02.07)
- トランプ流の続きの続き(2025.02.06)
- トランプ流の続き(2025.02.05)
コメント