2011年3月31日 (木)
この日の団体ツアーは午前中で終わりである。
午後からオプションでハーバークルーズなんてものが設定されていたけど、それに参加しない客のほとんどがヴァレッタ市内での解散を望んだ。
わたしも解散派で、みんなと別れたあと、わたしはただちにヴァレッタのあるシべラス半島の先端をめざした。
市街地のさらに先には聖エルモ砦という要塞がある。
べつに要塞を見たいわけじゃなく、とにかく岬のとっつきまで行ってみたかった。 岬の先端から海をながめてみたかった。
そんなところになにかおもしろいものがあるとは思えないけど、そこに山があるからっていう登山家みたいな心境である。
わたしもいちおう登山家のはしくれのつもりなのだ。
ずんずん歩いていくと、ヴァレッタの市街地をめぐる外周道路に出た。
この道路より先にいく道はないかと探しているうち、警察学校のわきに岬にむかってのびる道路があることがわかった。
そこにはいちおう門がある。
門前をいったりきたりして逡巡していると、子供を肩車した黒人が入っていくのがみえたから、かまわんだろうと入ってみた。
たちまち門衛につかまって追い出されてしまった。
途方にくれてさらに歩いていくと、なにやら立派な入口のある 「国立戦争博物館」 というものがあった。
こんなものに興味はないけど、ひょっとすると博物館の裏口から半島のとっつき方向へ出られるかもしれないので、入ってみることにした。
イスラム勢力との戦争に明け暮れたマルタだけど、この博物館の展示対象は第二次世界大戦のものである。 つまりアレック・ギネス主演の映画 「マルタ島攻防戦」 のときのものである。
映画は観てないけど、第二次世界大戦でマルタは連合国の重要な補給基地になり、また英海軍の拠点として枢軸国側の海上輸送をおびやかしたとある。
当然ながらドイツ、イタリアの空襲にあい、ガイドのYさんの話では、この戦争で英国に落とされた全爆弾をうわまわる量の爆弾が降りそそいだそうである。
すごかったんだろうなあとは思うけど、ヴァレッタをはじめとしてあちこちに古い建物が残っているところをみると、ドレスデンや東京ほどじゃなかったみたいだ。



せまいところにごちゃごちゃと、高射砲や機関銃や当時の軍服や、穴のあいたヘルメット、ジープ、飛行機まで押し込んだ、なんか骨董屋みたいな博物館だった。
マルタのものというより、英国が自分の戦績を記念するためにつくった博物館のようである。
裏口から半島のとっつきへという期待もむなしく、館内をぐるぐるまわって、けっきょくまた入口にもどってしまった。
あまりやる気がなかったせいで、写真もろくなものがない。
この博物館についてはわたしより詳しいブログをもっている人がいるから、詳細はそっちを参照したほうがよい。 彼も写真の撮影には苦労したようだ。
http://navgunschl.sblo.jp/article/30821717.html
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2011年3月30日 (水)

今週の土曜日に仲間を集めて花見をする予定だったのに、まだぜんぜんサクラが開花してないので延期にしたばかり。
ところがぶらぶら散歩に行ったら、おおっとビックリ。
わが家の近所は知る人ぞ知るサクラの名所なんだけど、ほとんどの木にまだ花がついてない状態なにのに、1本だけご覧のようなサクラがあった。
都内でも気象庁の開花予想に背をむけて、とくべつに早く咲くサクラというのがあっちこっちにあるけど、花の世界にもヘソまがりサクラってのがあるらしい。
いちばん下の写真が近所の標準的サクラで、もうホント、温かい息でも吹きかければ、たまらずに開花してしまうそうなせつない状態なんだけどねえ。
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ヴァレッタの市内に入ると、道路は碁盤の目のように縦横に走っていて、ひじょうにせまい。
当然あちこちに万国共通の進入禁止の標識がある。
しかしこの国のドライバーはそんなものは遵守しないのだ。
いちばん上の写真は、進入禁止に果敢に進入しようという車。
そのつぎは、せまい通りで何度も切り返して方向転換しようとするドライバー。
道をふさがれたわたしはそれをぼんやり眺めていたけど、ようやく方向転換を終えたドライバーと顔を見合わせてにっこり。 車のボディに映っている2本足はわたしのものである。
なんでせまい通りで方向転換なんかするのかと思うけど、べつにパトカーに見つかったわけじゃなさそう。

じゃパトカーがいないのかというと、ちゃんといるのである。
3枚目の写真はマルタのパトカー。
平和なマルタでも彼らが取り締まる交通事故はありうる。
いちばん下は、何者かにぶつけられて倒れた公衆電話。 ラッセル・ブロックバンクなら、当然女性ドライバーを犯人にしたマンガを描くだろうなあ。
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2011年3月29日 (火)


マルタには自動車産業がない。
とうぜん走っている車はぜんぶ外国からの輸入車だ。
ただ、ネコバスで知られる路線バスなんか、あれはエンジンだけどこかから輸入して、ボディはマルタで架装したのかもしれないななんて、個人的には考えている。
というのはマルタの路線バスがあまりに時代を超越していて、いまどきEUのどこにもネコバスなんか作っている国はなさそうだから。
この国では造船が主要産業らしいから、その気になればバスのボディぐらい作れるんじゃないか。

バスは後まわしにして。
マルタで自家用車がどのていど普及しているのかしらないけど、いちばん多いのはプジョーやフィアット、ゴルフといったフランス、イタリア、ドイツなど欧州の小型車。
車ばかり見ていたわけじゃないから、この国の車事情について断言するのはちと危険だけど、もちろん世界を席巻する日本車も多いようである。
そんなマルタで見かけた車の写真をならべる。
上からプジョー、日本でももはや大衆車のBMW、究極のミニカーであるスマート。
小さな島ではスマートなんか便利だと思うけど、その一方で大家族主義とは相いれないような気もする。
つぎは欧州産のフォードが2種。 米国産の大型車はあまりないようだ。
いくらおとなりの国の車といっても、そもそも高速道路がないし、時速300キロも出る車ではどこへ行くにも 10分以内に着いてしまう国だから、格差社会の象徴のようなフェラーリやランボルギーニはないみたい。
欧州産の最後は英国のタクシー仕様車だけど、これは道路ぎわに放置されていたもので、現在は使われていないようだった。


つぎに日本車だけど、トヨタ、ホンダ、ニッサンの作業車、そしてなぜか人気のあるスズキが2台、スバル。
道路がせまくて坂道の多いマルタでは小型の四駆が人気があるのは当然かも。
ジムニーの前にはプリウスがいる。 のんびりしたマルタでも省エネに積極的な考えをもつ人はいるらしい。
日本ではそうとうに古いスバルの後ろにいるバンも、日本でよく見かけるハイエースかなんかで、この写真だけ見たら日本のどこかの街角とまちがえそう。
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2011年3月28日 (月)
昨日は用事があって吉祥寺まで出かけたんだけど、ぶらぶら歩いていたらとある民家の壁ぎわに、どこかで見たような花が咲いているのを見つけた。
これは、あの、マルタの野山をいちめんに彩っていた黄色いカタバミじゃないか。
へえ、マルタじゃ雑草だったけど、すでに日本にも園芸種として来日していたんだね。
じつは渡来したのは江戸時代だっていうから、そんなことを知らなかったこっちがアホかもしれないけど、それじゃあってんで調べてみたら、名前はオキザリス・セルヌア (オオキバナカタバミ) ということがわかった。
マルタ島について書いたブログはたくさんあるけど、雑草の名前まできちんと調べたものはあまりない (と思う)。
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2011年3月27日 (日)

あの日、部屋がグラグラゆれたので、とりあえずベランダに出てみたけど、そのあとわたしが何をしたかというと・・・・・・
地震というものは最初の揺れがいちばん危険で、それさえしのげればあとはそれほどじゃないということを聞いていたから、部屋にもどって、おちつきはらって、まずテレビを観た。
現在では中継カメラ、監視カメラが社会のあらゆる場所に設置されているから、わたしは以前からいつか大津波の実況中継を見ることになるだろうと予想していて、大きな地震があるとかならずテレビを観るのである。
地震直後は震源地やマグニチュードの報道ばかりだったけど、まもなく津波の一報が入り始めた。
最初は釜石からで、港の岸壁を波が越えていると思ったら、大河のような奔流の中を車がオモチャのように流されていくではないか。
この時点でこれはとんでもない災害になると確信した。

この日の夕方からわたしは、NHKと民放を問わず、津波のニュース映像を蒐集することに執着した。
わたしは映像というものに関心があるので、以前の米国の同時多発テロのときもそうだったけど、こういう大きな事件があると、できるだけたくさんの映像を集めておくことにしているのである。
今回の津波にしても、そのうちNHKが特番を制作することはわかっているけど、あとから編集されたものでは、あまり生々しすぎる映像をカットしてしまう場合が多い。
発生直後のニュースというものは、ときどきその配慮が足りなくて、人間が溺れたり車がペシャンコになる映像をそのまま放映してしまう場合がある(かもしれない)。
釜石の映像では、津波が押し寄せる中で、建物の屋上に数人の女性が取り残されているものがあった。
映像が途切れた時点ではまだ建物はもちこたえていたけど、この後の惨状をみると、この建物が無事であったかどうか確証がない。
ひょっとすると、この建物が崩壊する場面まで映像は続いていたかもしれないのだ。

こうした災害をふせぐための対策って、いったい何をどうすればいいんだろう。
被災地では過去の津波の被害にこりて、過去に体験した最大級の津波にも耐えられる防波堤を建設しておいたところもあったという。
ところが想定以上の津波でそれがやすやすとクリアされてしまった。
これではどうにもならない。
今回の津波にこりて、今回の津波よりずっと高い防波堤を作ったとしても、それがまた想定以上の津波におそわれない保証はあるだろうか。
人間の抵抗をあざ笑うような、千年にいちどの津波なんて聞くと、どこかの知事さんのように、天罰だとでもいいたくなってしまう。
写真は津波とは関係のない、例年通りのわが家の近所の風物詩で、過去に紹介したことのあるものばかりなので、いちいち説明しません。
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2011年3月26日 (土)
こちらはもうすこし人間的な風景。
っつうか、趣味のわるさの証明みたいだけど。
最初は路上の移動式八百屋さん。


続く3枚は、世界遺産の古い建物にもちゃんと人間の生活がアリマスっていう証拠写真。
いいですねえ。 デ・シーカ監督のイタリア映画の傑作があとからあとから思い出されちゃう。
みっともないから干すなとは、行政もいいにくいようです。
中国なんか路地に入ると洗濯物が窓から満艦飾でもっとすごかったけど、最近はうるさくなったみたいだ。
そんな中国の文化センターもありました。
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2011年3月25日 (金)
2011年3月24日 (木)
汚染された野菜は廃棄処分だって。
どうしてそうすぐに棄てるという発想が出てくるんだろうね。
地球上にはまだまだその日のオマンマにも事欠く人がたくさんいるっていうのに。
そりゃ、これからたっぷり未来のある子供や若者に、そういうものを食べろとはいいませんよ。
しかしいるでしょ、世間には。
この不景気に、安い給料やとぼしい年金をやりくりして、毎日を暮らすのに四苦八苦の中高年が。
そういう人のために、棄てるつもりの野菜や魚なんかを、スーパーで安く放出しようという発想は出てこないんかねえ。
放射能ホウレンソウ。 いいじゃないの。
原発マグロ。 おもしろいじゃないの。
わたしも若者とはいえないかもしれないけど、艱難辛苦の人生に耐え、不撓不屈の精神で、数々の汚染物質を体内に蓄積してきた男だ。
何年先だかわかりもしない放射能の影響より、寿命が先にくるに決まってるじゃねえか。
棄てるくらいなら、ぜひ 「中高年専用特別大奉仕」 って商品をならべてほしいねえ。
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じつは半年ぐらい前まで、わたしはマルタ島について何も知らなかった。
知っていたのは映画で 「マルタの鷹」、「マルタ島攻防戦」 というのがあったこと、ハーブ・アルハートに 「マルタ島の砂」 って曲があったなってことぐらい。
これらについてはすでに、あまり旅行の参考になりそうもないとブログに書いた。
で、あらためてマルタの歴史について勉強してみることにしたけど、いったいわたしみたいな素人がエラそうなこといって誰が聞いてくれるだろう。
だいたいネット上には、勉強をする、それを発表する、そして他人の賛辞をかちえたいという素人研究者がいっぱいいるから、わたしがくだらないことを書くよりそういうものを読んでもらったほうが早い。
あまりあてにならないとされるウィキペディアにも、「マルタ共和国」 という言葉で検索すると長い記述が見つかる。
で、わたしのマルタの歴史のお勉強はネットに丸投げである。
以前にも書いたけど、調べりゃわかることはいちいち触れないのがわたしのポリシーだ。
ただひとつ、気になったことで、なおかつつまらないことを挙げると、オスマントルコの軍隊を撃退した聖ヨハネ騎士団の戦争について。
騎士なんていうと、映画好きのわたしはつい 「アレクサンドル・ネフスキー」 や 「エル・シド」 なんて映画を連想してしまい、槍や弓矢、サーベル、投石機、はしご、まさかり、ハンマー、ノコギリの戦争だったんだろうと思ってしまうけど、ヴァレッタ包囲戦は1565年で、これは日本では織田信長がそろそろ頭角をあらわしていたころである。
ということは、ヨーロッパではすでに銃が戦争に使われていたはずで、マルタ包囲戦も騎士たちによる古典的で優雅な殺し合いではなく、開拓村とそれを攻撃するインディアン戦の様相を呈していたんじゃないかしら。
またマルタのあちこちで、建物の前や海岸に大砲がそなえつけられているのを見るけど、オスマントルコは大砲もかなり使ったらしいから、こうなると鎧、兜なんかほとんど役に立たない近代戦争ということになってしまう。
ウィキペディアで 「聖ヨハネ騎士団」 を検索したら、のちに描かれたマルタ包囲戦の絵が載っていた。
この絵には銃や大砲がぜんぜん描かれてないけど、画家というものはロマンチックなものであるから、彼もそういうロマンもへったくれもない兵器の存在を信じたくなかったのかもしれない。
騎士団の宮殿の前で、わたしもいろいろ妄想にふけってしまうのである。
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2011年3月23日 (水)


騎士団長の宮殿もヴァレッタの著名な観光ポイントなので、誰もが見物に行くところである。
現在は大統領の公邸や議会として使われているので全部見られるわけじゃないけど、いくつかの部屋をのぞいてみたかぎりでは、すくなくとも室内にかぎれば、巨大なシャンデリアと大理石のタイルの部屋や、赤い絨毯のしきつめられた部屋なんか、日本の国会議事堂よりはるかに立派だった。
わたしは日本の国会も見物したことがあるからまちがいない。
あちらこちらに騎士の時代の甲冑がならべてある。
昼間、大勢で見て歩くぶんには問題ないけど、人の寝静まった深夜にここを歩くのはかなりコワそう。
子供のころ読んだミステリー小説に、鉄の甲冑、しかも全身から針が飛び出して敵を殺すという甲冑が、博物館から抜け出して殺人をくりかえすというのがあった。 あれも怖かったな。
いずれの甲冑も、こんなもの身につけて動けるのかよといいたくなるような鉄のかたまりである。
映画 「エル・シド」 には、こんな甲冑でかためた騎士が、馬上で長い槍をもって突きあうシーンがあるけど、当時はウマも頑丈でなければつとまらない。
宮殿内に博物館があるそうだけど、今回は見逃した。
あまり積極的に見たいと思わないから、どうでもいいけど。
部屋中がタペストリーで飾られた部屋もあった。
撮影禁止だそうだけど、大きさはともかく、描かれた絵はわけのわからない南洋のマンガみたいで、そんなにケチる気持ちがわからない。
このへんでもう、ついて歩くだけでだいぶ疲れた。
騎士団長の宮殿にあったものは、わたしにとって興味のないものばかりなので、見るほうもぜんぜん熱が入らない。
ある部屋に、たぶん英国のエリザベス女王と思われる肖像画がかかげてあった。
たぶんというのは、若いころの、まるでエヴァ・マリー・セイントかキャサリーン・ヘップバーンみたいな美人に描いてあったから。 古いね、わたしも。
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2011年3月22日 (火)

しばらく前だけど、写真について知り合いと話したことがある。
彼は、ホントかウソか、写真専門学校に通ったことがあるそうで、写真について、それがいい写真かどうかは本人の主観による、つまりAがいいといってもBはそうでもないというかもしれない。
だから、優劣はつけられない、みたいなことをいった。
もっともらしく聞こえるけど、これではすべての写真について傑作などありえないと言ってるようなものである。
わたしは写真展や雑誌でいい写真を観るのが好きで、たまたまネットなどでいい写真を見つけると、最高の絵画に出会ったような幸福な気分になる。
そんな写真でも、この知り合いにいわせればつまらないと感じる人がいるかもしれないということになってしまう。
たとえば前項で取り上げニューヨークタイムズの報道写真だけど、もちろんニュースや国際情勢に関心のない人にとってはつまらない写真だろう。
しかし、それは見る人の無知・無関心に原因があるのであって、この報道写真がつまらない、傑作ではないということにはならない。
世間には見る人の主観なんてものを超越した、すばらしい写真というものが、まちがいなく存在するのである。
こんな知り合いとムキになって話しても時間の無駄だと思って、わたしはさっさと矛をおさめてしまったけど、考えてみると彼にこんなことをいわせたのは、この文章のように、わたしが写真について日ごろからエラそうなことをいうのが気にいらなかったからのようだ。
むずかしいところである。
これはすばらしい写真なんだよと主張するだけで、他人の反感をかってしまうなんて。
※ここに載せた写真が傑作といってるわけじゃありませんよ。
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ニューヨークタイムズのネット版に報道写真が載っていて、先日の大津波の災害写真にすばらしいものがたくさんあったから、ヒマつぶしに今夜またのぞいてみた。
すると、ニューヨークタイムズの関心は大津波からふたたびリビアにもどったようで、こんどはアフリカからの写真がずらりと276枚。
いずれもため息が出るようなすばらしい報道写真である。
ここで紹介したくなるけど、なにしろ本家本元みたいなものだから、著作権がうるさいんだろうなあ。
文句をいわれるのを覚悟の上で1枚だけ紹介してしまう。
興味をもった人はネット版のニューヨークタイムズを見てやってねと宣伝したら、すこしはお目こぼしがあるんじゃないかと期待して。
カダフィの強権政治がイカンとか、多国籍軍が介入したとか、しばらくリビアの混乱から目をはなせないけど、これらの写真をながめると、イラクのフセインもそうだったけど、タフで不屈の精神をもった砂漠の民を統治するのに、強権以外の手法があったんだろうかと悩んでしまう。
わたしごときが悩んでもなんの解決にならないことはよく承知しておりますが。
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ヴァレッタの聖ヨハネ大聖堂には、カラヴァッジョの有名な 「聖ヨハネの斬首」 という絵がある。 写真撮影はもちろん禁止なんだけど、ネット上にはこの絵が氾濫している。
いいのかい、著作権はと心配になっちゃうけど、カラヴァッジョ本人から告訴されるおそれはなさそうだから、わたしもそのうちのひとつを引用する。
ご覧の通りの絵である。
ずいぶん片寄った絵じゃねえかという人は芸術がわかってないのである。
わたしの撮った写真にも、主題を片寄せて空白をいっぱいにとったものがあるので、こういうのがすばらしい構図なのだ。
あまり幸せを感じない絵だけど、 これは新約聖書の中の、聖人ヨハネが首をはねられる場面を描いたものである。
そのころサロメという踊りの上手な娘がいて、この娘は少々サドッ気があったのか、おつむがよわかったのかよく知らないけど、母親からヨハネの首をもらってきなさいといわれて、いいわよと安請け合いしちゃった子である。
画面左はしの、踊り子というより女中か小間使いにしか見えないのがサロメで、これからかかえたお皿の中にヨハネの首を入れ、持って帰って母親に見せようという魂胆。
現代の女の子なら卒倒しかねない残酷な場面だけど、当時は人間の首はいともかんたんに胴から離れたらしく、肉屋でニワトリの首を絞めてもらっている図と考えても大差ないみたい。
劇的な場面だからサロメを描いた画家は多いけど、それぞれその時代の風俗で描いたものだから、聖書の時代の踊子には見えないサロメが多いの対し、モローとビアズリーという2人の画家のサロメは、聖書の風俗に忠実かどうかはべつにして、ひじょうに官能的で魅力的である。
どうも話がサロメのほうにばかり行っちゃうな。
3段目の画像は、同じカラヴァッジョが描いた 「斬首」 のつぎの場面。 こちらの絵ではサロメが正面を向いており、なかなかの美人であることがわかる。
人間がほとんど実物大に描かれているこんな不吉な絵を、教会に飾ろうという神経がわからないけど、これもガイドのYさんは明快に解説する。
これはカラヴァッジョがマルタ騎士団のために描いた絵であり、当時の騎士たちは敵対するイスラム勢力と連日命をかけた戦いを続けていた。
彼らが死をおそれないように、死ねば自分たちも聖ヨハネのおはします天国へ行けるのだと、勇気を鼓舞するための絵なんだそうである。

そういわれてみると、大聖堂のまわりには骸骨のような死をモチーフにした彫刻もめだつ。
これらはすべて当時の騎士たちのおかれていた、死と隣り合わせの過酷な生活を物語るものだそうだ。
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2011年3月21日 (月)

聖ヨハネ大聖堂について、いまさらなにを書くことがあろうか。
ってわけで、その歴史や華麗さの公式的説明はぜんぶはしょってしまう。
ガイドのYさんの説明を残さず録音しておけば、すばらしい解説になったはずだけど、そのつもりで持っていった ICレコーダーはとっくに故障していたもんで。
ここでは入場者にヘッドホン型のレシーバーを貸してくれる。
最初はテープに録音された解説を聴くものかと思っけど、そうではなくて自分たちのガイドの説明を聴くものだった。
大聖堂の中は各国の団体ツアーが入り乱れているので、そんなところでそれぞれのガイドが声を張り上げたら、神聖であるべき聖堂が地獄の窯のような騒動になってしまう。
それを防ぐために、レシーバーで自分たちのガイドの声だけを聴くことができるのである。
もっともほかに気をとられることの多いわたしは、ややこしい説明の大半をすぐ忘れてしまったけど。


それでもわたしの雑感だけをいくつか述べてみると、おもてからみると特別に立派には見えない大聖堂であるけれど、内部の金箔や大理石を使用した壮麗さだけは誰の目にも一目瞭然。
日本でいえば安土桃山時代の豊臣秀吉に影響を与えた (かどうかは知らないけど)、黄金大消費の金ピカ寺院である。
戦争の最中にこんなものを造る余力があったのか、宗教戦争のさ中だからこそ造る必要があったのか、費用を捻出させられた市民はたまったものじゃなかっただろうなどと、いろいろ考えさせる建物だ。
騎士たちの出身地ごとにいくつかの礼拝所がある。
いろんな文様が描かれた床のタイルの下は墓になっているそうなので、そういうものの上を平気で歩く神経をもたない日本人は、歩くのにもいささか注意をしなければならない。
死者の上は平気で歩くくせに、つまらないことにはなかなか厳格で、ニットの帽子をかぶったままのわたしは、不敬であると注意をされてしまった。
Yさんの説明でいくつか記憶に残ったものでは、たとえば壁画に描かれた人物に、絵からはみだして壁にまで影が描かれたものがあり、それがために人物が画面から飛び出して見えるものがある。
いわゆるだまし絵で、いま流行りの3DですねとYさんはいう。
また壁に取り付けられた天使像のトランペットが長すぎて、わざわざ壁をけずったものがあった。
天使にトランペットがなくちゃさまにならないけど、壁をけずるのはそれほどでもないということは、わたしにもよくわかる。
大切なことはおぼえてないくせに、こういう漫才のネタみたいなことは、わたしはよくおぼえているのである。
だいたい外国旅行に行った場合、派手さやもの珍しさに幻惑されて、そのものの本質を見失いがちだ。
今回のわたしも典型的なそれで、だからいちど行ったくらいではワカラン! もういちど行きたいと思うのである。 あまりエラそうな御託は述べないことにするのである。
トイレにも行ってみた。
カギもないお粗末なトイレで、入っていますと答えるヒマもなく、神父さんにドアを開けられてしまった。
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2011年3月20日 (日)

古い映画を観る機会があった。
「モア」。
1969年の映画だから、さて何年まえの映画だろう。
とりたてて傑作でもないんだけど、ちょうどヒッピーだとかサイケデリックなんて退廃的文化が隆盛だったころの映画で、音楽を担当しているのがピンク・フロイド。
その音楽だってけっして素晴らしいというわけでもないんだけど、はて、それじゃあいったいこの映画のどこに魅かれるんだろう。
主役のミムジー・ファーマーがすっぽんぽんになるのがエエという人もいるかもしれないけど、すっぽんぽんならこのブログでも取り上げたバルドーのほうがずっと魅力的だし。
つらつら考えてみたが、主人公とヒロインがドラッグでよたっちゃったまま、夜明けの海岸で座禅を組んで瞑想にふける場面、ああいうものに感じいるだけの人並みの青春をわたしも持っていたということなんだろうなあ。
※写真はプライベートなもので、映画とは関係ありませんよ。
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シベラス半島の先端部分をしめるヴァレッタは、長いほうが 1キロ、せまいほうは600メートル程度のは小さい街だから、10分か20分も歩けばたいてい海岸につきあたってしまう。
こんな調子だから、半日も歩けば聖ヨハネ大聖堂や騎士団長の宮殿をふくめて、市街地のほとんどを見てまわれてしまうだろう。
市内は中国のいにしえの王城や奈良の平城京、あるいは東京の錦糸町あたりのように、道路が碁盤の目のように縦横にはしっているから迷いようがない。
街の中心をつらぬく朱雀大路 (メインストリート) はかなり広いけど、裏に入ると道路はひじょうにせまくて起伏もある。 したがって観光バスは進入禁止だけど、市内にはふつうに生活している市民もいるので、自家用車はおかまいなしに入ってくる。
この日はなにかお祭りの最中なのか、通りにリボンの飾り物やのぼりが掲げられていて、それが写真を撮るのにちょっと目ざわりだった。


ガイドさんに率いられて、まずアッパーバラッカ・カーデンという展望台に行く。
ガーデンという通り、きれいに敷きつめられたタイルの庭園に、アーチ型にくりぬかれた壁がそびえ、あちこちにベンチも置かれて、なかなか気持ちのいい公園だ。
ネットでマルタについて調べているとき、同じ場所から撮った写真をいくつも見つけたけど、これがここから撮ったもので、ヴァレッタにきた観光客なら誰でもかならず訪れる観光ポイントなのである。


ここからは前日に訪れたスリーシティーズの要塞が目の前に見える。
見晴らしは2段になっていて、写真なんかでみるとすぐ下の広場に大砲がならんでいるはずだけど、この日はなにかの作業中で、ブルドーザーが土を堀り返していた。
ここで撮られた写真には、いつも手前の海に停泊中の貨物船が写っていることが多い。
この日もちゃんと貨物船が停まっていた。
なにもないと殺風景であると、マルタ観光局が素人カメラマンのためにやとった船かもしれないが、どうせなら帆船にしてほしかった。
帆船にオスマントルコの軍勢でも乗せれば、これはディズニーランドになってしまう。


景色がいいというほかに取り柄のないところだから、またここで撮った写真をずらりとならべる。
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2011年3月19日 (土)
さて、ヴァレッタである。世界遺産にも指定されているマルタの古都だ。
とはいうものの、その成り立ちを調べてみると、建設されたのは1500年代の半ばすぎだというから、日本では織田信長の時代である。
これを古いというか、それほどでもないというか、ちょっと微妙なところだ。
わたしはここまでにすでにラバト、イムディーア、スリーシティーズという古い町や要塞を見てきたけど、さてどんなところか。

バスに乗ってヴァレッタの正門に行く。
ヴァレッタは例によって城郭都市なので、周囲を城壁に囲まれ、門がある。
門の前がまん中に噴水のあるバス・ターミナルになっていた。
お皿のような噴水をささえるのは下半身がヘビという3体の男性像で、彫刻はこれから市内でくさるほど見ることになるけど、ここにあるのはヨハネ騎士団の時代のものではなく、現代彫刻のようだった。
紳士淑女もおしかける観光立国であるから、彫刻の大事なところはイチジクの葉で隠してある。
バス・ターミナルにはたくさんのバスが集まっていた。
ここにはアニメ 「となりのトトロ」 に出てくるネコバスによく似たバスがあるということである。
わたしは宮崎アニメを観たことがないからよく知らないけど、もちろんこっちのバスのほうが1988年製作のアニメよりずっと昔からあるはずだから、真似をしたとすればネコバスのほうである。

バスの写真と乗車体験はあとまわしにして、とりあえず城門の前に行く。
門のすぐ外側がカラ堀になっていて、ここをのぞくと堀のまわりの石の壁から、かっての城壁の威容を知ることができる。
それは4、5階建てのビルぐらいある垂直の建造物で、塀と塀のあいだに通路があり、そこへ侵入した敵兵は、上からの大石で押しつぶされるらしい。
わたしは中国の西安で、やはり街を取りかこむ城壁を見たことがあるけど、あれに劣らない大きさだなと思う。
西安の城壁は街をぐるりと取り囲む正確な長方形だけど、ヴァレッタのほうが構造は複雑だ。
門そのものは正面に丸い楯のようものが2つついた、なんとなくモダーンな感じの建物だったから、とちゅうで修復されたか改築されたか、あるいはごしごしとよく洗われたものらしかった。
門のすぐ下にパン屋が出ていたけど、このパンもヨハネ騎士団の時代のものではなかった。
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2011年3月18日 (金)
これは戦争だ。
といったのは防衛庁、いや、防衛省の幹部。(スイマセン、人間が古いもんで)
ジャパン・シンドロームになりかねない福島原発の話だけど、やはり最後に頼りになるのは自衛隊である。
朝日新聞もそう書いているからまちがいない。
これは軍事機密かもしれないから、軽々にふれるのはナンだけど、わたしは海上自衛隊にいたことがあって、自衛隊が放射能汚染の対応訓練もしょっちゅうやっていることを知っている。
今回みたいな災難について、もっとも多くのノウハウ、そして対応能力を持っている組織は自衛隊以外にないのである。
この国では文民統制の文民のほうがはなはだ頼りないので、自衛隊が文民をさしおいて独自に軍備をみがいていることはうすうす知っていた。
それじゃヤバいんじゃないのという人がいるかもしれないけど、日本の自衛隊は常識をわきまえているから、革命や権力奪取なんてことにはならないと思う。
その文民さんから暴力組織なんて暴言をはかれた自衛隊が、いまこそ正義の味方であることを証明しようと、玉砕覚悟で闘っていることについては、ずうっと昔に自衛隊にいただけのわたしにも、遠くの遠くの親戚の活躍を見ているみたいで晴れがましい。
災害地では退役自衛官の非常召集も始まっているらしい。
わたしが乞われればもちろん応ずるつもりだけど、でもわたし、自衛隊の最新のライフルなんか撃ったことがないしなあ。
と案じていたけど、原発相手にライフルを撃つ必要はないか。
ここはもうお国のためだ。
かって聴いた自衛官哀歌という歌の中に、『二等海士とは、平時においては艦の防舷物となり、戦時においては士官の弾よけになる』なんて歌詞があったけど、わたしだってガス探知のカナリアぐらいには役にたつんじゃないか。
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西洋料理のニガ手なわたしだけど、マルタに自信をもってお薦めできる食べものがあった。
いやいや、海鮮料理じゃない。 地中海産マグロでもない。
そのへんの八百屋で買ったトマトである。
歓楽街?を一巡したあと、ヒルトンのまえのロータリーわきにあった八百屋でトマトを買ってもどってきた。
わたしは野菜が好きで、外国に行くときはわざわざ塩の小瓶をもっていく。
野菜といってもキャベツのようなややこしい形のものは、途上国ではまだ畑に人糞をまくところがあるので薦められないけど、トマトなら水でさっと洗うだけで食べられる。
そういうわけであっちこっち出かけて、八百屋があるとたいていトマトを買う。
こういうトマトはレストランで変に加工されたものよりも、塩をふって、生でがぶりとやるのがいちばんだ。
日本人は果物の品種改良については世界一の腕まえを持っているけど、野菜については生産の効率性、見てくれのほうにばかり目がいって、味のほうがおろそかになっているように思う。
トマトなんかその最たるもので、スーパーで売られているトマトは水っぽいだけである。
マルタのトマトは、みてくれはよくないけど、まさしくわたしが子供のころに食べた太陽の匂いのするトマトだった。
日本のお父さんお母さんにいっておく。
本物のトマトの味を知らない子供がいたら、それを教えてやるいい機会だ、マルタってところは。
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2011年3月17日 (木)

マルサシュロックのオプションからもどり、夜になってまた散歩に出た。
予備知識によるとマルタにはビーチ (砂浜) がほとんどないそうである。
ところがウェスティンホテルのまえを海にそって北上すると、その先のセントジョージズ湾のとっつきに、まあまあの大きさのビーチがあった (上の写真)。
夜だったので真夏のようすが想像しにくいけど、ダイビングショップや遊園地など、いろいろ娯楽施設もそろっていて、海水浴場としてにぎやかになりそうなところである。
反面、わりあい大衆向きの砂浜のように思えたから、あまり優雅なリゾートを期待するとちょっとがっかりするかもしれない。
ビーチを横目に見ながらさらに歩くと、この近くに大きなショッピングセンターがある。
わたしはマルタに買い物に来たわけじゃないから、ちょっとのぞいただけで出てきたけど、日本でもどこにでもある近代的なショッピングモールだった。

そろそろホテルにもどろうと、近道を通ってホテルへ帰ろうとしたら、そのあたりの通りにピンクや紫のネオンがきらめき、ぴっちりしたジーンズの若い娘がたむろしていて、いくらかひわいな雰囲気があった。
おお、これはひょっとするとナニかなと思う。
タイのプーケットなんかに行くと、あそこも観光立国だから、あらゆる観光客の欲望に応えるために、あらゆる欲望発散のための道具立てをそろえた歓楽街がある。
マルタにそういうものがあってもおかしくないではないか。
ただしマルタの場合は、娼婦が立っているわけでもないし、飾り窓があるわけでもない。 オカマが微笑みかけてくるわけでもない。
タイのプーケットはそういうサービスが過剰すぎて、それはそれで人間観察のいい教材になるくらいだけど、それに比べればこちらは健全すぎてもの足りないくらいだ。
ディスコやカフェ、ゲームセンターの前にたむろしている若い娘たちが、そのすじの女性なのか、たんなる観光客なのかわたしには判別できなかった。
だいたい昨今の娘たちは、渋谷あたりだって、娼婦なのか女子高生なのかわからないのが多いから。
わたしの見たものがマルタの歓楽街とすれば、きわめて健全な歓楽街である。
わたしはマルタの夜の探求者ではないから、すべてを見てきたわけじゃないので、よく探せばほかにもっと派手な歓楽街があるのかもしれないけど、そういうものがあるとすれば外資系ホテルが乱立するセント・ジュリアン地区が第一候補だろうから、あんがいこれがマルタ最大の歓楽街かもしれないとも思う。
ま、いずれにしてもあまり期待しないこった。
いちばん下の写真はこのあたりにあったネット・カフェ。 雰囲気は 「時計じかけのオレンジ」 のミルクバーみたいだな。
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化石博物館から、つぎに 「マルタ会談の記念碑」 に寄った。
ガイドのYさんのジャーナリスティックな姿勢に拍車がかかりそうなところである。
マルタ島は冷戦終結のきっかけになったゴルバチョフとブッシュ・パパが会談をしたところで、記念碑は鉄でできた大きなモニュメントだ。
握手なのか、人が抱き合っているところなのか、どっちにしても和解を象徴したものなんだろうけど、Yさんもいうとおり、その後も世界の混迷は解消したとはいえない。
それでもこのモニュメントは 「むなしきマルタ会談の記念碑」 としてそびえている。
むなしいものを見てもつまらないので、記念碑のすぐそばの海岸をのぞいてみた。
のんびり釣りをしている人がいた。
こっちのほうが記念碑になりそうな平和な光景だった。
釣り人のかたわらの岩礁上に、スプーンみたいな形の、なにに使うのかわからないみぞが掘ってある。
アレ、なんだろう。 釣った魚を入れておく生簀にしちゃ手がかかりすぎてるし、ヨハネ騎士団のころのものかしらと、いろいろ悩みはつきなかった。
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2011年3月16日 (水)

不謹慎であることは百も二百も承知だけど、震災の報道を見て、現地に行ってみたいという気持ちがむずむず。
写真やドキュメンタリーに関心のあるわたしには、千載一遇のチャンスじゃないかという気持ちがぐるぐる。
添付した写真はネットで見つけたものだけど、災害現場には悲惨なものばかりじゃなく、おどろくべきもの、美しいとさえ思えるもの、滑稽さを感じさせるものなど、非日常的な光景が山積みなのだ。
ああ、行ってみたいなと思うけど、いまのわたしじゃ途中で行き倒れになるのが関の山。
現地の人に救助されたんじゃかえって迷惑。
遠くからじゃまにならないようにながめているのが、やっぱり一番いいみたい。
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マルサシュロックの帰りに化石博物館というところに寄った。
ヨハネやパウロよりもさらにさかのぼる時代、人間の歴史もまだ始まってなかった時代、氷河期やその後の温暖化の時代に、海水面の下降上昇によって多くの動物がマルタ島に取り残され、そのままここで独特の進化をとげたそうで、そうした動物の化石の博物館である。
わたしは以前ロバート・シルヴァーバーグの 「地上から消えた動物」 という本を読んだことがあり、その本の中に、かってモーリシャス島にたくさん棲んでいて、その後の大量殺戮で絶滅したドードーという鳥の話が出てくる。
時間の経過とともにドードーの存在そのものが疑問視されるようになったころ、この鳥がたしかに生存していたという証拠を探求する学者がこんな考察をした。
動物が死ぬとその骨はどうなるか。
たぶん雨に流されて川に運ばれるだろう。
最終的に骨がたどりつくのはどんな場所か。
こんな考察のもとに川の河口ふきんの地層を掘ってみたら、果たせるかな、大量のドードーの骨の化石が発見されたというのである。
マルタの化石博物館もやはり、かって川だったところの洞窟から大量に発見された動物の化石が展示されているのだそうだ。


入館してみると、いちばん目立つ場所にドードーの絵がかかげてあった。
骨しか発見されてない鳥だから、じっさいの形については諸説があるけど、最低限の共通認識はあるようで、好事家が見ればドードーであることはすぐわかる。
それは丸っこい七面鳥のような鳥である。
わたしは博物学に興味があり、壁ぎわにずらりと並んだ骨の化石に目をみはってしまうけど、残念ながらこんなものがあることにぜんぜん不勉強だったので、短時間の見学ではどうもあまり関心をもてなかった。
それでもマルタに古生物の博物館があることだけは、しっかりと脳裏にきざみこんだ。
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2011年3月15日 (火)
前項について、知り合いが、東電というのは役人じゃないでしょと、ものすごくつまらないいちゃもん。
そんなアホなことあるか。その体質はもろに役人そのものじゃないかと彼を怒鳴りつける。
民間企業だったらこんな不祥事を発生させたらすぐにつぶれてしまう。
トヨタやソニーだとか、デパートでも輸送会社でも、民間の会社なら死に物狂いで臨機応変の対応をとるだろう。
ぐずぐずと上からの指示を待つ、恥ずかしいことは隠蔽する、適切な対応をとる前に言い訳を考える、こういうのが役人体質である。
つまり今回の東電みたいなものをいうのである。
家に立てこもって省エネ生活に専念している当方としては、ほかにやることがないものだからブログもいよいよ快調だ。
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なんだ、なんだ、なんだ。
福島第一原発では役人たちの無責任に腹がたつ。
想定以上の震災だったというのはわかるとしても、想定以上の災害が発生したあと、なにひとつ有効な対応策をとれずに右往左往しているようにみえる。
ようするにマニュアル志向で、なんでも先達の行為をなぞっていりゃいいという、官僚のことなかれ主義がもたらした災害のように思えてならない。
こういうところの災害訓練なんて、おそらくいつもの想定内のマニュアルにそってやっていただけなんだろうなあ。
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日本の大震災に世界中から支援の手が。
米国はともかくとして、ロシアや中国まで。
こんな場合は当然だという声もあるかもしれないけど、たとえばロシアのプーチン大統領の 「いろいろ問題はあっても、日本はよき隣人だ」 という発言など、じつに毅然としていて胸にせまる。
個人的主観だけど、だいたいプーチンという人は、来日して柔道を披露したこともあるし、心情的に日本のファンなんじゃなかろうか。
彼 (メドベージェフも) はなんとか日本と仲良くしたいのだが、こちらのあまりの頑なな態度と、なにをいっても同じ返事のくり返しに、手がつけられないというところじゃなかろうか。
この震災がそうした両国のこじれた関係を改善してくれるなら、わざわい転じて福にしたことになる。
そう、わたしは北方領土のことを言ってるんだけどね。
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2011年3月14日 (月)

日本では築地の魚市場が欧米人観光客に大人気だそうだ。
日本人だけじゃないか、そういうところに興味をもたないのは。
ブランド商品や美味しいレストランにうつつをぬかすのは論外だけど、けっして名所旧跡ばかりを見てまわるのが観光じゃあない。
市場というのは現地の人たちの生活ぶりを観察する絶好の場所なのだ。



ここに上げたのは市場でとらえたショットで、いちばん下はポーランド人観光客。
写真を撮らせてねといったら、チップちょうだいといわれてしまった。 貧乏旅行の途上だったのかしら
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2011年3月13日 (日)
今回の旅で、わたしが個人的にぜひ見たいと思っていたのはマルサシュロックという漁港である。
世界遺産がたくさんある国に行って、なんで漁港なんか見なくちゃいかんのだという人がいるかもしれないけど、わたしは日本にいるときも、旅のとちゅうで道の駅なんてものがあると、かならず寄ってみるくらい地方の物産に関心がある人間なのである。
地方の物産を見ることは、歴史を知るのと同じくらい価値のあるものなんだけど、そう考える人が少ないのは残念なことだ。
そういったものの、やはり興味のない人が多かったとみえて、ここへのオプション・ツアーは規定の参加者が集まらず、添乗クンが日本まで問い合わせて、旅行会社の温情で7人でようやく実現したオプションだった。
マルサシュロックはヴァレッタから10キロぐらいはなれた、南にむかって開いた港である。
ガイドのYさんの説明では、マルサシュロックのマルサは港のこと、シュロックはアフリカからの熱風のことだという。
フォルクスワーゲンにシロッコという車があるけど、これもたしか同じ意味。
わたしはこの町のことをテレビ番組で知ったんだけど、にぎやかな青空市が開かれ、興味のつきない場所だったので、ここだけはぜったいに見たいと思っていた (後日、わたしはひとりでもういちど出かけるのである)。
昼食をすませてから行ったので、マルサシュロックに着いたのは午後の2時ごろ。
駐車場は買い物にきた現地の人や外国からの観光客で大混雑だったけど、肝心の魚を扱う市場のほうはそろそろ店じまいの時間だった。
それでも野菜や果物、雑貨などの露店がたくさん出ていて、これはなかなかおもしろかった。
どんなふうにおもしかったかということは、また写真をずらりとならべて説明を省略。
まずマルサシュロックはこんなところという写真。
続いて市場のようすと、そこで売られている品物の写真を3回に分けて紹介することにする。 魚は少なかったけど、野菜や果物などわたしには興味いっぱいの品々である。
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2011年3月12日 (土)
人間というのは悲しいものである。
災害大国に住んでいるからといって、いつくるかわからないものにいちいち対応しちゃいられない。
いつかは噴火するだろう、いつかは土砂が崩れるだろう、いつかは大津波が押し寄せるだろうと心得てはいても、やはり火山のふもとに住み、崖の下に家を作り、海岸で暮らすのである。
大震災で亡くなった人には気のドクだなあと思いつつも、わたしはやはり散歩にいく。
そんなのんきな生活にいくらか罪の意識がないでもないけど、まわりを見ればやはりテニスに興じている人たちもいる。
東京に住む人の大半にとって、震災は遠い世界のできごとらしい。
足もとに今年はじめてのツクシンボウを発見した。
自然界にとって人間の消滅などほとんど気にする必要のないものなのだ。
もうすぐサクラも咲くだろう。例年とまったく変わらないままに。
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この日はスリーマという町の海岸にあるレストランで昼食になった。
スリーマは、海岸にそってタイル敷きの立派な遊歩道が続き、とちゅうにレストラン、カフェなども充実した、近代的なリゾートが売りものの新しい町である。
わたしは西洋料理の攻勢に対処するため、日本から箸を持参していた。
おかげで料理の中に含まれていたコーンやグリーンピースの粒粒もひとつ残さず、ちゃんとひろって食べることができた。
上流階級さんは豆をフォークの背に乗せて食べるそうだけど、わたしにはとてもそんなサーカスみたいなことはできそうもない。 箸さまさまである。
ひょっとすると箸を使っているわたしを見た欧米人の娘が、東洋の神秘に感動して、それがきっかけで彼女と仲良くなれるなんてことは、ぜんぜんなかったけど、このレストランは海辺にせり出したカッコいい店で、ブーツをはいた黒髪のきれいな娘が働いていた。
彼女が給仕にきたとき、ちょっと写真撮らせてといってパチリ。
今回の記事はレストランやメニューやワインうんぬんではなく、ただこの娘の写真を紹介したかっただけという、じつにレベルの低いものであります。
写真は、箸を使うわたしとレストランの娘。 あとの2枚はレストランのまわりの気色。

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2011年3月11日 (金)
いまテレビを観ているんだけど、今回の地震のすさまじさがあらためてまじまじ。
中でも仙台平野に押し寄せる津波のおそろしさはどうだ。
民家や車両、漁船などをふくんだ巨大な泥流が、おだやかな農地のひろがる平野をゆっくりとのみこんでゆく。
テレビを子細にみていると、避難しようと走っている車が津波に押し流される映像もあった。
乗っていた人はどうなっただろう。
それだけの惨事がありながら、わたしはまたしても平然とブログを書いている。
いったいなんだ、なんだ、なんだ。人生とはいったいなんなのだ。
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地震ですよー。
つい最近ニュージーランドで何人も死者が出たばかりだから、こりゃヤバいとわたしもベランダに避難。
テレビで観ていたら大津波も発生しているようだ。
大きな港がこれでは、せまい湾なんかもっと津波は大きくなっているはずだ。
全貌があきらかになったとき、もっと大きな被害が出てるんじゃなかろうか。
それにしても、これだけ中継機器が完備した現在、いつかは大津波の実況中継を観ることができるだろうと思っていたけど、今日のそれがそうだったのか。
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EUの支援とおせっかいで道路はよくなったものの、ガイドのYさんの説明によると、この国では公共事業にあまりお金を使いませんとのこと。
小さな島なので、鉄道や高速道路は必要ない。
険しい山や大河があるわけじゃないし、台風もないので、日本で問題になっているダム建設など不要だし (地震はあったそうだ)、そもそも災害に備える必要がないのだそうである。
気象も温暖で物なりもよく、生活がしやすいので、人々があまり金銭に執着しない。
税金は所得の30~45パーセントぐらいで、けっして安くないけど、福祉先進国の北欧諸国ほどではないし、そのうちの 10パーセントは年金に充てられるから、国民も文句はいわないのだそうだ。
英国の影響で労働者の権利意識が高く、労働時間は厳守、残業もほとんどない。 これは、じつは企業に残業代を出す余裕がないからだってことだけど。
日曜出勤は倍の給料を支払わなければならない規則で、そういえばこの日のYさんも日曜出勤である。
家族はデ・シーカの映画なんかによく描かれるイタリア式大家族主義で、たまたま子供のできない夫婦がいた場合、アフリカあたりから養子をもらうことがふつうに行われている。
どんな子供でも平等に育てられるべきだという考えが徹底していて、養子が黒人の子であってもいっさい差別はしない。
マルタの人々は本当にゆたかなこころで生きていますとYさんはいう。
聞いていると確かに、マルタというところは天国みたいに思えてくる。
幸せですかと訊かれてはいと答える国民は、大発展をとげた中国でさえ数パーセントしかいないそうだけど、マルタの数値はかなり高そうだ。
問題があるとすれば、いま世界を席巻しているグローバル化の大波というやつで、人間の欲望を目覚めさせるこの波が、マルタを浸食することはないだろうかと心配になる。
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2011年3月10日 (木)
ソマリアの海賊が日本に引き渡されるそうである。
そんなもん引き渡されても困るというのが日本政府の本音だそうだ。
なにしろ海賊をするくらいだから、教育もまともに受けてない若者たちが多いらしい。
生年月日や出生地を尋ねられると、22年前の雨季のころだとか、イチジクの木の下ですなんて真面目な顔で答えるらしい。
戸籍や住民票がたしかで、日本語やいちおう国際語をしゃべる相手しか裁いたことのない日本人には、裁判員裁判なんていわれても困っちゃうよな。
だいたい日本人にとってあまり実害の感じられない事件なので、アブグレイブ刑務所のイラク捕虜みたいに拷問をしてもメリットはなさそうだし、いきおい取り調べもおだやかなものにならざるを得ないだろう。
腹がへっただろうとカツ丼でもとってやった日には、こんなうまいものがこの世にあったのかと感激されてしまうかもしれない。
感激してべらべらしゃべられても、もともとしっかりした組織や綿密な計画があった事件じゃないから、たいして役に立ちそうもない。
極刑にするわけにもいかず、けっきょく何年か臭いメシを食うことになるんだろうけど、三食と水洗便所つきの生活は、彼らにとってなかなか快適な文化生活かもしれないし、これでは懲罰の意味がない。
アフリカ人だから、ひょっとするとマラソンやサッカーに天賦の才のある者がいるかもしれず、ム所暮らしのあいだにそっちの方面で頭角をあらわす者もいるかも。
すると日本の若い娘がほうっておかない。
日本人と結婚して日本国籍を取得し、出所後は映画のブッシュマンのように、文明国との断絶を売りものにしたお笑いタレントでもつとまりそうだ。
なんかほのぼのする事件だなあと思うワタシの態度のほうがよっぽど問題かも。
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バスで移動中、ガイドのYさんからいろいろ説明がある。
マルタには唯一の賭けごととして、英国の影響による競馬場がありますとのこと。
サマセット・モームの小説で揶揄されているように、英国人は伝統や慣習にこだわり、どこにでも競馬場をもちこむ人種である。 香港にも上海にも。
上の写真はウェスティンホテルのとなりにあるカジノだけど、こちらはふつうのマルタ人が入れるところではなさそうだ。
はたしてマルタ人がどのくらい競馬に熱中するかは聞きもらしたけど、彼らが熱中するものはほかにあるらしい。
Yさんが畑の中にある民家をさして、あれは花火工場ですという。
花火というのは想定外だったけど、マルタの人は花火が大好きだそうだ。
ブラジルの人が年にいちどのカーニバルで散財してしまうように、こちらの人も花火で派手に金を使うらしいから相当のもの。
年に数回は花火大会が盛大に催されるというし、これは騎士団のころからあるそうだから、伝統も日本の隅田川にひけをとらない。
盛大なのはいいけど、つい最近までマルタの田舎の道路は舗装もされてないひどいもので、加盟しているEUから苦情がきたそうである。
それでも道路の舗装に金を使うくらいなら花火のほうがいいというのがマルタ人だったそうだ。
Yさんがそんな話をすると、ツアー客のあいだから苦笑がもれた。
あんまり他人のこといえないなと、どこか似通った性格に思い当たったのかもしれない。
マルタでは男女の交際について欧米先進国ほどオープンではない。
若者が彼女をデイトに誘う場合、うちの村の花火を見にこないかと誘うのだそうだ。
花火には村中の人間が集まるから、ていのいいお見合いである。
そうやってじれったい手続きを踏んで、ようやくハッピーエンドになるらしい。
なかなかいい話ではないか。 「セックス・アンド・ザ・シティ」 の米国なんかに比べれば。
空港のそばにはドライブスルー形式のマック (米国のハンバーガー屋だ) があった。これもマルタで唯一のものであるという。
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2011年3月 9日 (水)

ブルーグロットのつぎはハジャーイム神殿の見学。
マルタは聖書以前の遺跡も多いところで、これもそのひとつ。
巨大な岩を積み上げたもので、古い時代にどうやってこんな岩を積んだのか、どんな民族がなんの目的でなどといろいろ論争の的になっているみたいだけど、英国のストーンサークルだとか、イースター島のモアイ像、ナスカの地上絵だとか、地球上にはかって巨人が棲んでいたと思わないと理解できないような謎の遺跡はたくさんある。
あらかじめ調べてみたところでは、マルタやとなりのコゾ島には石を積んだり組み上げたりした神殿遺跡が多いそうである。
わたしは歴史や博物学に関心がないわけじゃないんだけど、石積みだけではおもしろがりようがない。
クレオパトラのような美人がいたとか、ローマのネロ、史記の紂王のような残酷な王様がいたという伝説でもあればまだしも、こちらの神殿はほとんどが謎のベールに覆われていて、ロマンチック、ドラマチックな想像をかきたてることもできない。
そういうわけであまり食指が動かないものだし、知識のないものに知ったかぶりをしても仕方がないから、正直におもしろくないと書く。
詳しく知りたい人は、ネット上に詳しいブログがたくさんあるから、そちらをドーゾ。

神殿の手前に近代的なビジターセンターがあった。
これも、きれいな建物という以外にわたしの興味をひかない。
興味をひいたのはまわりの気色である。
ビジターセンターのまわりは農地で、例によって黄色いカタバミなど、たくさんの花が咲き乱れていた。
こんな景色をみると、トレッキング派のはしくれであるわたしの血がさわいでしまうのである。
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2011年3月 8日 (火)

スリーシティーズからブルーグロット (青の洞門) へ行く。
これもマルタの有名な観光名所なので、ネット上にたくさんの写真が見つかる。
それがどれもこれも同じアングルなのは、現地に行ってみれば納得。
ブルーグロットは崖の上の見晴し台からながめることになり、なにしろまわりは絶壁だから、命綱でもつけないかぎり、撮影場所を選べないのである。
この日は海が荒れてますのでボートには乗りませんという説明があったけど、見ていたらちゃんと観光ボートが出ていた。
同じツアーのおばさんたちの中には、自由行動の日にあらためて個人的にボートに乗った人もいるそうだから、ま、このていどなら自主的な行動にまかせてもらったほうが気持ちがいい。
このあたりの海はとてもきれいだし、ブルーグロットもなかなかの奇勝だけど、こういうものは沖縄にもある。 岩のあいだをくぐり抜けるなら伊豆の堂ヶ島にもある。
そういうわけで、わたしが最初からながめるだけで十分と考えていた名所である。
わたしはきれいな海をみると、景色を堪能するだけではあきたらず、ぜひ泳ぎたいと考えてしまう人間だから、泳げないのでは魅力が半減してしまうのだ。
またこの海にはどんな生きものがいるだろうと、博物学方面の好奇心はひじょうにつよい。
そういう点ではボートに乗って、もっと近くで見たい気持ちもあったけど、自由行動の日にはマルサシュロックという漁港で、魚市場を見るほうを優先させていたもんで。
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2011年3月 7日 (月)
ニュージーランドの地震で日本人初の死者が確認されたとのこと。
富山のもと高校校長だった女性で、教職を定年で辞したあと、さらに外国語にみがきをかけ、将来は研究者として働きたいと語学留学のとちゅうだったという。
これを聞いてモームの 「弁護士メイヒュー」 という短編小説を思い出した。
この小説を読んだことのある人には察しがつくと思うけど、このもと校長の死に方は、人間の死に方としてはじつにみごとなものだといいたいのである、わたしゃ。
「弁護士メイヒュー」 の最後はこんな文章で終わっている (龍口直太郎訳・新潮文庫)。
『かれの生涯は成功だった』
『かれの生き方は、文句なしに完璧な姿なのである』
『かれは自分のしたいことをして、決勝点を眼のまえに望みながら死んだ』
『そして、目的が達成されたときの幻滅の悲哀などを味わわずにすんだからだ』
ほんとうはこの文章のまえに、「私の眼から見ると」 という言葉がある。
モームは皮肉屋として知られていたから、彼の眼で見られちゃたまらない。
たぶんこのもと校長さんのほうは、目的が達成されたときの幻滅の悲哀を感じることはなかっただろう。
その死は一瞬のことで、苦しみや痛みを感じる余裕もなかっただろうから、彼女は希望にもえたまま、そのすばらしい人生を終えたのだろうと思う。
えっ、わたし?
あいかわらずうじうじとだらしなく生きております。
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マルタはネコが多いと聞いていた。
しかし今回はそんなふうには見えなかった。ラバトでもイムディーナでもスリーシティーズでもネコが特別に多いとは思えなかった。
もちろんまったくいないわけではなく、たまには見かけたけど、とてもネコ王国というほどじゃない。
知らない人もいるだろうけど、日本の銀座のほうがネコの数はよっぽど多いくらいだ。
ネコがいないなんてことはこの紀行記の重要テーマではぜんぜんないのだけど、ネコの写真をたくさん撮ってマルタの猫写真集なんてものを作ろうと思っていたわたしには肩すかしだった。


ネコよりイヌのほうが多かったくらいだ。
朝、ホテルの近所を散歩していると、よくイヌを散歩させている人に出会ったし、マルサシュロックでは港で主人の帰りを待つ老犬を見た。
これは動物にやさしいというマルタ人気質にもよるのかもしれないし、飼い犬も旅行に連れていくという欧米人の性格によるのかもしれない。
あるいは、リゾート地で高そうなイヌを連れていると、なんとなくセレブになったような気持ちになれるという見栄っぱりが多いのかもしれない。 うん、こりゃよけいなことだけど。
そのあたりの事情はなんだかよくわからないけど、ここに挙げた写真はその貴重な数枚であります。
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2011年3月 5日 (土)


ヨットハーバーのそばまでもどり、のどかな港風景の陽だまりでしばらくぼんやりした。
どことなくのんびりした雰囲気があって、わたしは天気のいい日の港の風景が好きである。
山奥の農村もわるくないけど、たぷたぷと打ち寄せる波は、そのまま水平線の彼方にまでつながっていて、連想を無限にまで飛躍させられるからかもしれない。
夢見がちな女子高生にでもなったつもりで、ぼんやりと係留されているヨットの下をながめたら、ヤッコダイのような形の魚影がちらほらしていた。 クラゲもいて、わたしはこういうものに世界遺産以上の興味を感じてしまう。
港に係留されているのはヨットばかりじゃない。
マルタ特有のへさきがぴんと立ったカラフルなボートがたくさんあり、そのへんのおじさんみたいなのがぎーこぎーことこいでやってくる。
カラフルなだけじゃなく、船体のあちらこちらに唐草模様が彫られ、オールの軸受け部分に金色のライオンが鎮座していて、なかなか豪華なボートである。
よく見るとへさきに小さな目が描かれている。
「オシリスの眼」 といって魔よけの意味があるんだそうだけど、そういえばクレオパトラの船にも描かれていたし、東南アジアにもこういう伝統があったと思う。


こちらのボートは日本のようにオールを引くときに力をこめるのではなく、押すときに力をこめる。中国でもこの方式である。
港にはまたべつのおじさんたちが待ち構えていて、いい天気だねとか、景気はどうだいなんて声をかける。 日本の港でもよく見かけるのどかな光景である。
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2011年3月 4日 (金)
監視台のある公園から、ふたたびバスでヨットハーバーへもどる。
ハーバーのわきのサボテンの植え込みの奥に、マルタ人と英国軍人が手をにぎりあっている銅像がある。 これは軍人の服装からして、騎士の時代のものではなさそう。
現在のマルタは英国との結びつきが大きいのである。

ヨットハーバーの近くにバスを停め、セングレア市内を見物して歩くことになった。
セングレアも城郭都市なので、門があり、門の前に町の大きな俯瞰写真が出ていた。
これを見るとヨットハーバーと町の位置関係がよくわかる。


市内が建て込んでいるのはほかと一緒だけど、あちこちに歴史的な建物がある。
家の外壁に小さな紋章やマリア像などがとりつけられているのが目をひく。
マルタがかってフランスと、のちに英国と手を組んだのは、フランス人がマルタの貴重な文物を持ち出すことが多かったからだそうだ。
そういえばここにもロイヤルと書かれた赤い英国ふうの郵便ポストがあった。
歴史的な由来を説明したパネルが掲示してある建物もある。

ガイドのYさんが、ここはフランス騎士団のなんとか、こっちは英国のなんとかと熱弁をふるっているとき、わたしはそれまで疑問に思っていたことをぶつけてみた。
ネコがあまりいませんね。
この低レベルの質問に興ざめしたのか、彼女は、そんなもの、陽だまりにたくさん集まっていますよと不興げにつぶやいた。
しかし、これまで見たかぎりではけっしてネコが多そうではなかった。
いくら温暖な土地といえ、この手の動物は、やはり冬は家の中でストーヴのわきにでも丸くなっているのかもしれない。
どうもレベルが低いよなあ。
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2011年3月 3日 (木)

翌日の観光はスリーシティーズから。
マルタの地図をながめると、首都のヴァレッタのある半島にむかって、南東側から3つ (数えようによっては4つ) の半島が身を乗り出している。
この3つの半島をスリーシティーズというらしい。
わたしたちが行ったのはいちばん西側にあるセングレア (SENGLEA) という半島で、どんなところかと思ったら、ここも堅固な城壁にかこまれた要塞都市だった。
セングレア半島の根もとの、つるぎのように細まった入江にヨットハーバーがある。 無数のヨットが係留されていて、このへんはフランス映画の世界。
映画好きのわたしにはたちまち 「太陽がいっぱい」 なんて映画が連想されてしまう。


バスに乗ったまま、城壁の下を半島の突端までいく。
突端でバスを降りて、石段を登って城壁の上へ。
登りきったところが公園になっていて、ここには目と耳の彫刻がついた特異な監視塔がある。
なんで目と耳なのか、おおかた耳目をそばだててよく見張れってことだろう。
この公園はマルタ観光で観光客がぜったいに連れていかれるところで、この監視塔の写真はネット上にたくさん見つかる。
監視をするくらいだから、ここからの見晴らしは素晴らしくいい。 対岸のヴァレッタがよく見える。 この日は快晴だったからよけいだった。

すぐとなりの半島はヴィットリオーザ (VITTORIOSA) というそうだけど、そちらもがちがちの要塞である。
その城壁の下の岸壁に豪華な大型クルーザーがひっそりと停泊しているのが見えた。
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2011年3月 2日 (水)
海外旅行に行った人のブログを読むと、食べものについていろいろ書き込んでいる人が多い。
とくに女性にそういう傾向があるけど、海外ではつい精神が高揚してポイントがあまくなるって事実を考慮しないと誤解が生じる。
そういうわたしの味覚もかなり偏向しているほうだから、うまかった、まずかったは抜きにして、純粋に食べ歩きの体験だけを書く。
いくら西洋料理がきらいでも、まわりが横文字の店ばかりだから、自由行動のあいだもっぱらイタリア料理を食べた。
ホテルのあるセントジュリアン地区は外資系ホテルが集まっているところだから、レストランは数えきれないくらいある。
美味しい店を探すにはできるだけ混雑している店を探せばいい。
しかしわたしは英語ができないから、注文にもたもたして店に迷惑をかけたり、他の客の好奇の目にさらされるのもナンである。
そういうわけで、まずほどほどにすいている店を探すのにひと苦労。
ようやく見つけた店でマルタサラダとピザとワインを注文した。
マルタサラダというのは、ハムに野菜やピクルス、そのほか何かの漬物が載っているもので、量はかなり多い。
サラダとワインはすぐにきたけど、ピザはなかなかこない。
本場だから小麦粉を練るところから始めているんだろうと、つまり日本の手打ちソバみたいなもんだろうと、おうように構えてサラダをもぐもぐ。
ピザがいつになってもこないから、どうしたのと訊いてみた。
とたんに、まだ食べるつもりの、半分以上残っているサラダを持っていかれてしまった。
フランス料理式に前の皿が片付かないうちはつぎの皿がこないものだったらしい。
食事を終えたあと、考えた。
マルタのホテルはチップが不要だけど、レストランはどうなのか。
たぶん要らないだろうと思ったけど、これもひとつの経験だというわけで、よせばいいのにカッコつけて、25ユーロの料金のところ30ユーロ出して、お釣りはチップだといってやった。
ウエイターが感激のあまり抱きついてきた。
払いすぎたようだと腹の中で思い、その後のレストランでは2度とチップを払わなかった。
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2011年3月 1日 (火)
この日の観光はイムディーナで終わり。
ホテルにもどったあと、夜になってぶらぶらと散策に出た。
ヒルトンホテルの前を通ってセントジュリアン湾まで歩き、そのあたりでしばらく夜の海岸をながめてみた。
空気はひんやりと冷たい。
じつはマルタに出発する前に、どんな服装で行くかと悩んだ。
調べてみたかぎりでは日本より暖かいらしいけど、ネット上には毛糸の帽子を用意していったほうがいいなんて情報もあった。
さてどうするか。
そこでわたしは、寒さにそなえてトレーナーやヒートテック (ももひき) などを用意していった。
じっさいには、現地ではヒートテックなんか使わなかったし、昼間歩きまわっているときはコートもいらなかったくらい、トレーナーも脱いでしまったくらい。
ただし、わたしのツアーの場合、雨が多いはずの冬のマルタが好天続きだったこともあるので、いちがいなことを言うわけにはいかない。
まして寒がりの女性ではこうはいかないと思われる。
迷っている女性には冬用の服装で行くべきだと断言してしまう。
どうせ移動範囲のかぎられているマルタであるから、もし不要なら服はホテルに置きっぱなしにしておけばいいのである。
アメリカ人観光客の中には、この季節のマルタでも短パンというのがいたけど、あいつらは南極にでも短パンで行きかねない人種だから、あまり参考にはならない。
ただし、これはあくまで冬のまっ最中の旅の話。
夏になれば服装は成田空港から、もう水着だけあればOKで、熱中症対策のほうが重要と思われる。
つけ加えると、冬は傘も必需品であるらしい。
この季節のマルタは雨が多いという話で、事実わたしたちと入れ替わりで帰国したツアーは、連日雨にたたられたという。
わたしたちは毎日が晴れだったけど、こればっかりはわたしみたいに晴れ男がいるかどうかによるから、これもあまり参考にはならない。
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