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2011年4月

2011年4月30日 (土)

さすらい

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明日から出かけるので、ブログはお休みです。
旅行かって訊かれそうだけど、そうじゃありません。
それじゃあ仕事かっていわれると、そうでもない。
期間も、3、4日か、あるいはゴールデンウィークいっぱいになるか、今のところさっぱりわかりません。
つまり何がなんだかわからないけど、とにかく出かけてしまうのです。
こういうことは若いころよくありました。
ある日とつぜん目的地も定めずに家を出る。
いわば青春の彷徨 (さすらい) というべきもので、わたしみたいないいトシこいたおっさんがいまさら実行すべきものではないんですけどね。
今年はそれがこころのうちにむずむずと。
ま、また帰ってきたら、無事に帰ってきたら、このブログで報告しましょう。

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2011年4月29日 (金)

いちゃもん

週刊新潮を読んでいたら、東京大学のなんとかいう準教授が書いた 「日本史教科書・再読ドリル」 という連載ものの記事が目についた。
今週は徳川家康についての文章で、歴史好きなわたしのことだからどれどれとおおいに関心を持って読んだけど、こりゃ納得しかねる文章だ。

こんなふうな文章である。
『関西人であることを誇りにしていた司馬 (遼太郎) の、家康嫌いがうかがえる評価だ』
『家康の先見の明を示す最大の事例が、江戸という場所の選定である』
つまり、司馬遼太郎は大阪府生まれだから、関東 (じっさいは愛知県) 人の徳川家康がキライであり、その家康の偉さは江戸という場所を首都に定めたところにあると、準教授サンはいうのである。

わたしは司馬遼太郎の 「街道をゆく」 のファンだけど、この作家が関西人であることをことさらに誇りにしていたとは思えない。
「街道」 の中には、自分が関西人であることで、商売が上手だろうと初対面の人から思われることに閉口している部分もあるくらいだ。
徳川家康についても、とくに嫌いとか好きとは書いてないはずである。
昭和の軍人たちについてはかなり辛辣なことを書いたこともあったけど、明治維新より前の歴史上の登場人物に対しては、信長も秀吉も家康も、そこにただ存在したという客観的評価しかしていない (とわたしは思う)。

家康が江戸 (関東) に首都を置いたのも、家康の考えではなく、むしろ秀吉の提案だったそうである。
「街道をゆく」 にそのへんの事情が書かれていて、あるとき秀吉が連れションに家康を誘い、ふたり並んで小便をしながら、あなたは江戸を開いたらどうかと提案するくだりがある。
小便をしながらなんていうといかにもフィクションみたいだけど、当時は秀吉の天下がようやく定まったころで、いかに重臣として地位をかためつつあった家康でも、自分で勝手に領地を決めるわけにはいかなかっただろうから、秀吉の提案というほうが話がわかりやすい。
将来、好敵手になりかねない家康を、秀吉は自分の勢力圏の近畿から、できるだけ遠くへ追いやるという魂胆もあったと考えてもいい。

もちろんその後の江戸の繁栄は、家康の領地政策やインフラ整備によるところが大きいけど、このようなことは当時の大名ならたいていはやっているから、彼の場合は秀吉も想像しなかった江戸という土地の利便さと、秀吉亡きあとの戦略や幸運もあったのではないか。

むしろ準教授サンのほうが、わたしは関東人だからと余計なことを書いて、やたらに家康を持ち上げている。
これは歴史を書く人の態度じゃない。
先輩の作家に対する尊敬の念がさらさらうかがえないし、どうもこの準教授サンは、他人の成功をすなおに喜べない人のようだ。
こういう人に教わる学生の人格が心配になってしまう。

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2011年4月28日 (木)

夏日

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ああ!
今日はもう夏日みたい。暑い。
わたしなんか散歩にもうTシャツだ。部屋にもどればまっ裸だ。
今年の夏は節電が大事だってことだけど、4月でこれじゃ、わたしみたいな人間がはたして生きて夏を越せるのかどうか、いまから不安。

写真はそろそろトウの立ってきたナノハナとヒナゲシ。
夏目漱石の 「虞美人草」 ってのはヒナゲシのことらしい。
わたし、漱石は好きだけど、この小説は凝り過ぎってところがあって、むずかしくっておもしろくなくて、いまだに完読していません。

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2011年4月27日 (水)

やれ!

菅クンが被災者をお盆のころまでにすぺて仮設住宅に入れると大見えを切った。
国土交通省の幹部は、できることとできないことがあるといって頭をかかえているそうだ。
頭をかかえるのはお役所的反応で、できませんというのは役人根性のあらわれである。
役人に××をできますかと訊くと、責任逃れもあって、むずかしいですなんてことを必ずいう。
ごたごたいうな、やれっというと、不承不承でもやるのが役人なのだから、とにかく菅クンのように先に目標を決めてしまうことだ。
秀吉の墨俣城のように、ひょっとするとなんとかお盆に間に合わせてしまうかもしれない。
間に合わなくても、急ごうとせかせる効果はある。
まだ菅クンの使い道はあるではないか。

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2011年4月26日 (火)

すこし安心

今朝の新聞を読んでいたら、「国と東電、並んで会見」という見出しが出ていた。
原発事故では、当初、東電と原子力安全委員会や保安院などの組織がべつべつに会見を開き、情報が重複したり食い違ったりして、それがまたウソだと糾弾される原因になってきたから、これからは一元化するってことらしい。
なるほどねと思ったら、同じ新聞に、一元化されると今度は国による情報のすりあわせや組織間の関係不透明化なんてことが生じるんじゃないかと心配する記事が。

うーむ。
これが民主主義国日本の現実なんだよね。
問題は会見のやり方ではなく、誰かがこうだといえば必ずべつの誰かがああだという、いつになっても話がまとまらない民主主義の弊害なんだけど。
戦争も災害もない時なら、そりゃ民主的でけっこうなことでげすよ。
しかし、こんな緊急時にいったい何をしてんのさと言いたくもなるでしょ。
わたしがちょっとまえのこのブログで、菅クンの独断専行、おおいにやるべしといったのはこのことなんだよな。

事故発生まえまでは、保安院なんて有名無実で、なんの権限も持たされてなかったそうな。
わたしとしちゃ、保安院や原子力安全委員会を、原発の監視という本来の役目にもどすのが先決問題で、そういうところの乱立する意見を公平に聞いていれば、おのずと真実はわかってきそうなもんだから、一元化なんてしようがしまいがどうでもいいというスタンス。
ところが世間には、マスコミや一部専門家の意見をおおいに参考にしちゃう人が多くて困る。

国や東電はウソばかりつくという意見は、これホントなの?
事故のあと、米国やフランスの、学者、専門家、企業、消防隊、無人偵察機などに助言や応援や出動を求めているんだから、そういう状態で何かウソをつけるのかね。
ウソをつくというより、当初は混乱して正常な判断ができない、正しい発表ができなかったというのが正解とちがうか。
もちろんお役所化した東電に、初めのうちなんとか恥ずかしい部分を隠したいという姿勢もあったみたいだけど、これほど大きな事故になって外国の注目をあびる状態になったら、もはやウソをつくのは不可能でしょ。

最初は安全だなんていっといて、後になってからレベル7だなんて、これがウソでなけりゃなんだという人もいるかもしれないけど、わたしはいちおうチェルノブイリをリアルタイムで知った世代だ。
消防士何人かがほとんど即死みたいな状態だったソ連の原発事故と、福島が同じなんて、いまだにちょっと信じられない気分。
これってもしかすると、日本をいまだにチョンマゲ、芸者の国、極東のどこかの独裁国と同じような非民主主義国と考えている欧米の、とりあえず過大に評価しとけっていう外圧とちがうか。
ウソもごまかしもありません、日本は米国にまけないオープンな国で、言論の自由も保障されています。
ウソをついたってすぐマスコミにかぎつけられます、ってなんで言ってやらないの。

そうか。
日本のマスコミって、机の前で政府の発表をうのみにするだけで、ウォーターゲート事件みたく、自分で真実を追求しようって気概をさらさら持ってないからねえ。
うちの朝日新聞なんか、先日の地方選挙の結果を報じるのに、原発反対派で当選した全国でもめずらしい町議さんや、やっと最下位で当選した反対派の村議さんを持ち上げ、賛成派のほうは今回は主張を控えていたなんて、微妙に反対派の肩をもつ誌面作りだ。
やっぱ、真実は自分で見極めるしかないみたい。 だまされんぞ。

それでも地方選挙で、躍進すると思われた反対派が思ったほどのびなかったのは、現状では原発をやむをえず受け入れざるを得ないという、日本人の冷静な判断の結果のようで、すこしは安心してます。

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2011年4月25日 (月)

竹久夢二

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土曜日の夜に風呂に入りながら司馬遼太郎の 「街道をゆく・本郷界隈」 を読んでいたら、むしょうに本郷あたりを歩きたくなって、昨日の日曜日は本郷・根津のあたりをぶらついてきた。
※写真は東京大学構内の三四郎池と根津神社のツツジ。

赤門から東京大学の構内に潜入し、三四郎池のわきから弥生門に抜けると、出たところに立原道造記念館と竹久夢二美術館が寄り添うように並んでいる。
同じような資質の詩人と画家だけど、どっちかを見るとしたら、やはりビジュアル系の竹久夢二である。
両方観ればもっといいんだろうけど、時刻はすでに午後4時をまわっていたもんで。

夢二美術館では、常設の夢二の作品のほかに、この日は藤田ミラノという画家の特設展をやっていた。
この画家は、女の子の絵で人気を博したという点が夢二と共通しているってことらしいけど、わたしには抒情という点でもの足りない。
もうちっと悲しみみたいなものがないとなあとつぶやいて、とりあえずミラノさんのほうは無視。

夢二については、常設の美人画のほかに、この日は 「花をえがく・花をうたう」 という彼の描いた花の絵の特集がされていた。
紺地に花を白抜きしただけの単純な色彩の絵がステキだったけど、これだけでは誰が描いたのかわからない。やはり夢二の場合は美人画である。
彼の作品の中には室之津懐古や平戸懐古なんていう懐古シリーズの絵があって、これなんか絵のタイトルだけで、もうどこか悲しくなってしまう。
本郷の美術館に展示されていたものは、古い雑誌の表紙や挿絵が多かったけど、そのくすんだ作品がくすんでいるだけで、もうたまらないくらい悲しみを感じさせる。
人間が単純すぎるんじゃねえかっていわれてしまいそうだけど、抒情ってのはこうこなくちゃ。

夢二は画家であると同時に、いまでいうイラストレーター、グラフィックデザイナーともいえる人で、この職業が女の子に絶大な人気のあることは、大正時代も同じだったらしい。
そこへもってきて若いころの夢二はなかなかハンサム、待てどくらせど来ぬ人をなんて宵待草の歌詞でもわかるように、詩人としての素養もあったから、これじゃ若い娘がほうっておかない。
けっして女をもてあそぶというタイプではないし、相手にいれこんでしまうところが欠点だけど、そういうわけで、若いころの夢二はなかなかのプレイボーイだったようである。

ただ、館内に夢二の最晩年の写真も飾ってあって、それはわたしが想像していた夢二とはちがっていた。
わたしは夢二がもっと若くして亡くなったとばかり思っていたけど、死ぬ直前の彼はすごくおじいさんのように見えた。
多くの女性と浮名を流したプレイボーイの末路がこれだなんてと、わたしはまたも悲しみにつつまれてしまったのである。

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2011年4月24日 (日)

からくり

よく、むやみに外国の制度やシステムを礼賛する人がいる。
一例をあげると、英国のタクシーはひじょうに素晴らしいということがある。
これは事実らしいけど、ロンドンのタクシー運転手はどんな場所でも知らないところはないらしい。
それにひきかえ日本のタクシーは、あれはナンダということになる。
でもちょっと待ってほしいんだけどね。

そんなに英国のタクシーが優秀なら、その資格試験はとっても厳しいんだろうなあ。
ロンドンでタクシーの運転手になるのは、上級国家公務員になるくらいむずかしいのかもしれない。
そんなにむずかしい試験をパスしたくらいだから、さぞかしロンドンのタクシー運転手の収入はいいんだろうなあ。
もちろん試験が厳しければタクシーも少ないはずで、そうなれば個々のタクシーの稼ぎがいいのは当然だけど、日本でこれと同じことをしたらどうなるか。
金曜日の夜や雨の日なんか、乗り場に延々と客がならぶことにならないか。
迷惑をこうむるのはいったい誰なのか。
英国のタクシーは優秀だとほめる人は、そういう点もきちんと説明してほしい。

こんなことを書いたのは今回の原発事故を見ていて、ふと思ったことがあるからである。
事故のあと、あっちこっちでドイツが比較に出されることが多い。
ドイツでは原発の数が日本と比較にならないくらい少ない。
ウィキペディアによると、日本は原発の数が、建設中、計画中のものも含めれば69、ドイツは17だそうだ。
しかも今回の日本の事故を受けて、原発推進派のメルケルさんは方針を変更、どっちかというと原発を減らそうって考えになったとか。

わたしも気になったんだけど、日本とドイツは同じ自由主義国で、先進国としても同じていどのレベル、ポルシェやベンツを持ち出すまでもなく、技術大国としても似ている点が多い。
ドイツで原発を減らせるなら日本でもできるんじゃないか。
あちらが17基で間に合っているなら、日本だって10基ぐらいでやっていけるんじゃないか。
そう思ったけど、ドイツを比較に出そうって人にかぎって、じっさいにドイツがどうやって電力をやりくりしているのか、そんな肝心なことにはふれない人が多い。
いくらがんばったって無い袖はふれないのだから、どこかにカラクリがあるはずなのである。

こういうことはマスコミにもきちんと説明する責任があるはずだけど、うちでとっている朝日新聞を読んでいるかぎりでは、なかなかそんなことはわからない。
ちなみにこのカラクリについては、ネットで調べるとあるていど見当はつく。
ついでにメルケルさんの方針転換についてもちと疑問符がつく。
言えるのは、現実はキビシイってことのようである。

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2011年4月23日 (土)

田原サン

今朝の新聞に田原総一郎サンが 「首相に失望」 という記事を寄せていた。
このブログ前項のわたしの意見にガチンコする記事だ。
わたしは田原サンにうらみも不満もあるわけじゃないけど、対立する部分を吟味してみる。

田原サンも当初は、前代未聞の大震災という非常事態では、与野党の連立内閣を組んで、とりあえず首相は菅クンでもかまわないと考えていたそうだ。
ところが菅クンのこれまでの振る舞いをみているとと記事は続き、たいした目的もなく災害の現場に飛び、東電に出向いて怒鳴りつけたりするのは組織のリーダーといえないと書く。

こういう論調は以前からあった。
混乱している最中に首相にやってこられては現場がメイワク、そんな余裕があったら官邸で指揮にあたれってことは週刊新潮も書いていたけど、なにしろ新潮の書くことだから、首相が官邸に引っ込んでいたら、なぜ現場に行かないのかと正反対のことを書いたに決まってる。

わたしは指揮官が現場に行くことは大切なことだと思っている。
米国大統領もときどき、抜き打ちに最前線を訪問して兵士を鼓舞しているではないか。
現場に行かなければ見えないものもあるだろうし、国をあげて被災地を支援しているという姿勢を示すことにもなるだろう。
官邸に閉じこもっているよりよっぽどいい。
だいたいテロの標的になっている国じゃあるまいし、天皇の行幸みたいに迎えるほうが大騒ぎするほうがおかしいと、そういうことは菅クン自身も言っていた。

職員の撤退なんか考えていた東電を怒鳴りつけたことも、こちとら溜飲が下がる思いがして、なかなか気持ちイイことである。
これは民主党の菅クンだからできたことで、自民党のセンセイが怒鳴っても、アンタだっていっしょになって原発を推進してきたんでしょと、東電から逆ねじをくらうのがオチ。

田原サンの記事は、首相の個人プレーが目に余るなんて続く。
民主党議員を信用しないから信用もされないと書く。
しかし、これはいまに始まったことじゃない。
寄りあい所帯の民主党では、震災以前から内部のごたごたばかりで、民主党議員の中にも首相をよくいわない人間はたくさんいるから、そんなことをいまさら言ったって仕方がないのである。
むしろわたしは菅クンの独断専行ぶりを、このさいだけは好ましく思っているほうだ。

原発事故の記事を読むと、被災地とよく話し合って民主的にとか、もっと情報を早く公開しろなんて論調が目立つけど、民主的に話し合っていたら、対策を実行するまでに1年も2年もかかるんじゃないか。
そんなものがこの緊急を要する非常時になんの役に立つのか。
与野党とも党利党略にかまけているのはケシカランと思うけど、被害対策や復興政策については、かまわないから首相の一存でどんどん進めてしまえってのがわたしのスタンス。
つまりロシアのプーチン流だな。
もちろん間違いや失敗もあるだろうけど、誰がやったってスムースに出来るはずないんだから、そのつど修正していけばいいのである。
そういえば田原サンの記事でも、首相は辞めちまえって書いてあるのに、じゃ誰がつぎの首相にふさわしいかってことは書いてなかったゾ。

菅クン抜きの連立体制なんか画策していたら、また党利党略が先行して、被災地の住民が長時間ほうっておかれることは必至。
はっきりいうけど、いまの政治家の中に菅クンよりも絶対にマシなんて人物はひとりもいないのだから、ここで首相に辞めろといってる田原サンは、そのまま党利党略の政争に加担しているのとおんなじである。

昨今のマスコミ記事、専門家、批評家の発言について、世間とは異なるわたしの言い分がたくさんあるけど、今回はここまで。

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2011年4月22日 (金)

よくやってる

マルタ紀行が終わったら虚脱状態。
読みたい本も観たい映画も聴きたい音楽もないし、こんなときに旅行ってのもなあ。
原発事故には注目してるけど、あっちこっちからいろんな意見が出てきて、もうなにがなんだか。
あそこがケシカラン、こっちがイケナイと、政治家、評論家、専門家がうるさいけど、こんな未曾有の災害で、なにも迷わず、上手にさっさとことを運べる人なんているのかね。
わたしゃ原発事故についちゃ菅クンもよくやってると思ってるほうだ。
それにしても、ヘタなCG映画より、YouTubeで観る津波の映像のほうがスゴイ。

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2011年4月21日 (木)

矛盾

クレーン車が児童6人を死亡させた交通事故があったばかり。
亡くなった子供たちはかわいそうだと思う反面、どうも容疑者の若者を責める気にもなれない。
居眠りするような状況ではないから、この若者はなにか病気をもっていたらしいけど、そんな人間がどうして車の運転をするのかと文句をいうのは簡単だ。
しかし、とくに学歴もない、技術もコネもない若者に、職業の選択肢がたくさんあったとは思えない。
ひとりで生きるためにクレーン車の免許をとり、仕事はまじめにやって、自家用車なども持っていたところをみると、彼は彼なりに精いっぱいがんばっていたのだろう。
病気をもっていることを告白すれば、いっきょに仕事を失うことになり、この不景気な時代に、それこそホームレスにでもなるしかない。
これも常識で解決できない社会の矛盾のひとつ、白熱教室のサンデル教授が取り上げたくなるような難問ではないか。
わたしはこの若者に同情してしまう。

こんなジョーシキ論みたいなことを書くのも、テレビで観た彼の顔、そしてその生き方が、どこか若いころのわたしに似ているように思えたからだ。

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2011年4月19日 (火)

マルタ紀行/旅の終わり

さて最終章である。
わたしのマルタ紀行は今回で終わりである。
いったいなんだ、なんだ、このくだらない紀行記はと思った人が多いんだろうけど、最後にいくらか自己弁護、意義だってすこしはあったんだぜという理屈をひねくりまわすことにする。

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イギリスのヒースロー空港ではたくさんのイスラム教徒が働いていた。
空港の両替所でわたしにポンドの両替をしてくれた女性も、全身を黒い衣装でおおったイスラム女性だった。
マルタで乗った路線バスにも、まるで当たり前のようにスカーフ姿のイスラム女性が乗り込んできた。

最近の国際情勢をみていると、日本にいるわたしたちは、ついイスラムと自由主義は相容れないものと思ってしまいがちだけど、そんなことはない。
たぶんヨーロッパの多くの国で、極東の島国の人間が想像しないほどたくさんのイスラム教徒が働いていることだろう。
ぼんくらなわたしにだって、イスラム教徒を受け入れる政策と過激派への対策とのあいだで、ヨーロッパの国々はさぞかし苦労してるんだろうなあという感想ぐらいはある。

そういう現実をひとつ見ただけでも、世界観が変わってしまう。
新聞やテレビ、ネットを見ているかぎりでは争いやもめごとばかりに思えてしまうけど、大半の人々は仲良くやっているのだということを知るだけでも楽しいし、この世界にはいろんな人々がいて、なにごとをも平均化しようとするグローバル化に背を向けるように、それぞれの生き方を大切にしていることもわかる。

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この紀行記を書いているとき、日本では大震災と原発事故がおこった。
日本のような先端文明にどっぷりひたった国では、産業にインフラに、そして夏の涼しい生活に、とにかくやたらに電力を必要としているのだから、原発はやむをえず必要なものであると、事故の前までわたしも信じていた。
しかし、マルタの人々を見てきたおかげで、もうすこし別の生き方があるんじゃないかと思うようになった。

さいわいというか、日本はマルタよりはるかに素晴らしい四季と自然の景観がある。
観光立国として生きる条件にこれほど恵まれている国はないのである。
世界の最先進国が、アフリカや東南アジア、南米なんかみたいな観光立国ではかなしいという人もいるだろう。 観光立国では日本のような多くの人口は養えないのだという意見もあるかもしれない。
その一方で少子化や人口減少について悩む意見もある。
なぜ悩むのか。

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これまでと同じ生き方をしよう、これまでと同じ政策、生活環境を維持したままで生きよう、と思うから悩むんじゃないか。
わたしが言いたいのは、先進国と観光立国のはざまのような国家じゃだめなのかということである。
美しい自然を破壊してまでの幸福は追求せず、企業は生産性向上と品質向上の両方を同時に要求せず、暑い夏には車の窓を全開にして走るようなおおらかさを持ち、時間にしばられず、贅沢をきわめず、みんなで励ましあい、助けあい・・・・・・ これは震災の被災地で実行ずみだけど、そういう生き方ができないだろうか。 せめて模索できないだろうか。
のんびりゆったりしているマルタでも、野山に太陽の光と花は満ちあふれていた。
幸せというのはナンダロウと、わたしはいまも机の前でぼんやりと考えているのである。

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こんなことを書けば、なるほど、わたしの旅にもほんのちょっぴり意義はあったみたいだなって納得してもらえるんではないか。
という手前勝手な解釈をしたところで旅の終わり。
さて、つぎはどこへ行こうかと、わたしも懲りない男だ。

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2011年4月18日 (月)

マルタ紀行/マルタの鷹

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うんちくを語るほど詳しくないけど、マルタでワインはずいぶん飲んだ。
日本でいつも飲んでいるワインに比べると、いくらか個性がつよいもの、つまりエゴい味を感じるものが多かったような気がする。
といったって、ほんの4、5日の滞在でなにがわかるのか。
エゴいというのもたまたまそういうものに当たっただけかもしれない。

同行のメンバーからビールをすこし味見させてもらったことがある。
こちらも個性が感じられ、つまり軽めのラガーみたいだった。
日本はビール大国だそうだけど、女性むけに苦味を抜いた清涼飲料水もどきのビールが多いので、とくにそう感じたのかもしれない。

しかしとにかく、本物の呑ン兵衛でないわたしに酒の味についての話は手にあまる。
最後の晩に某有名日本食レストランで、マルタの鷹というワインを飲んだ話のほうが気が楽だ。
「マルタの鷹=MALTESE FALCON」 は、ハンフリー・ボガートの出演したハードボイルド映画である。 わたしの部屋にDVDがあるけど、傑作である。

じつはこの夜に手持ちのユーロが少なくなってしまって、どうしようか、もう 1回両替をしようかと悩んでいたら、同行のおばさんが、カードがあるでしょうと教えてくれた。
わたしは日本にいるとき、パソコンや音響機器などをクレジットカードで買ったことがあるけど、食事にカードを使うなんて発想がついぞなかった。
一方でパソコンを使うデジタル人間でありながら、もう一方ではカードもケータイもだめという矛盾した性格をかかえてるんだよ、ワタシゃ。
おばさんのアドバイスを聞いて、あ、そうか、そういう手があったかと安心して、それからは大船に乗ったつもりの大判ふるまいだ。
わたしの大判ふるまいなんてタカが知れてるけど、それでもこの晩は、カードなんぞ使いなれてるんだって顔をして、日本食レストランに繰り込んだのでありました。

映画のタイトルを冠したワインのほうは、ついお代わりをしてしまった。
お楽しみはこれからだぜ。
いや、そう思ったんだけどね。
ほろ酔い加減でホテルにもどるとき、同じツアー仲間の元気のいいおばさんたちには会いましたけど、ほかに妖しい美女もあらわれず、ボガートもどきはマルタ最後の夜を、部屋でひとりで枕をかかえてさびしく寝るしかありませんでしたとさ。

※ワインの写真がないので、某有名日本食レストランの前の海の写真です。

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2011年4月17日 (日)

マルタ紀行/石工さんたち

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わたしのマルタ紀行もそろそろ終わりが近づいた。
マルサシュロックから路線バスでヴァレッタまでもどり、この日はまた古い街並みをぶらぶらしたけど、もうあまり新鮮味を感じなかった。
わたしにとってマルタの古都や由緒ある教会を見物しているときよりも、漁港のマルサシュロックを気ままにふらついているほうが楽しかった。

これはいったいどういうことなのか。
うまく説明できないけど、つねに新しい体験を求めるわたしにとって、いちど見たものはもう興味が半減してしまうのかもしれない。
ヴァレッタもやっぱり観光地だから、どこかにええカッコしいのところがあって、そういうところが変人のわたしのこころに抵抗を感じさせるのかもしれない。
型にはまった生活から逃げ出したいという永遠のホームレスであるわたしにとって、ありふれた田舎町を、なんの目的もなしに、だらしなくただよっているほうが落ちつけるのかもしれない。

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ヴァレッタ市内で建物の建築現場に出会った。
数人の石工さんが、これまでいやというほど眺めてきた蜂蜜色のマルタストーンを組み上げていた。
石はあるていどの大きさに切られているけど、現場でさらに細かく裁断されて、それを人の力で積み上げるらしい。やり方はマルタ騎士団の時代とあまり変わってないんじゃないか。
わたしがカメラを向けると石工さんたちはうれしそうだった。
はなやかな観光地のかたすみで、こういう陽の当たらない仕事をしている彼らにカメラが向けられることはほとんどないのだろう。
でもわたしはこういう素朴な人たちが好きである。
わたしが観光地より、ただの田舎に魅かれるのは、これと同じような精神状態によるものかもしれない。

ヴァレッタでまだまだ興味がつきないものはこうした市井の人々の生活だけど、残念ながらわたしにはもうあまり時間がない。
この日はぼちぼちホテルにもどって、これまでのメモのまとめや、帰国の準備をしなくちゃいけないのである。

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2011年4月15日 (金)

再建設計

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コンビニでひさしぶりにフォーカスを見つけた。
それが毎週発行されていたころは、欠かさずに購読していた新潮社の写真週刊誌である。
今回は震災と津波を特集した緊急復刊号だ。
このブログの3月16日の記事でふれたけど、写真やドキュメンタリーに関心のあるわたしは、すぐにでも現地へ駆けつけたいと思った。
思っただけで断念したけど、焦燥感はいまでもある。
世間の報道カメラマンの多くにとっても、今回の災害にはかりたてられる何かがあったようで、フォーカスの現地報告はじつに生々しい。

現地からの写真をじっと見ていて思ったんだけど、まるで空襲直後のようにさら地になってしまった町の中に、ぽつんといくつかのビルが残っているものがある。
このへんは専門家に分析してもらうことにして、頑丈な鉄筋コンクリートの建物は津波に耐える可能性もあるってことのようである。

大津波のあと、もうこんなところには住めない、もっと高台に住宅を造ってほしいという声が聞こえるけど、海の近くというのはいろんな意味で生活しやすいところだから、このままあと4、50年も災害がなければ、のどもと過ぎれば熱さ忘れるっていうやつで、またぽつりぽつりと海に近い平地に民家が建つことになるんじゃないか。
いくら津波がコワイといっても海に近い土地を利用しないというのでは不経済だ。
わたしみたいな素人がいうべきことじゃないだろうけど、発想を転換して、積極的に海の近くに住むようにしてみたらどうか。

新しい町や都市の再建設計では、海の近くに耐津波補強(耐震補強以上の)をした、10階建てぐらいの頑丈な高層ビルをいくつも建てる。
形は円筒形にすれば津波の衝撃を緩和することができるから、この形がのぞましい。
建物の内部はスロープや耐水補強をしたエレベーター、エスカレーターなど、老人病人の移動に配慮したものにし、屋上にヘリポートを備えて、万一のさいの避難や支援に役立てるようにする。
高層ビルなんかいやだという老人や、平地に住みたいという人が一軒屋を建てるのは自由だけど、いざという場合、どこの民家からでも10分以内にこうしたビルに逃げ込めるよう、ビルを等間隔に配置する。
ビルの下のほうは商業施設とし、上のほうは住民の生活空間にすれば、ムダな箱モノということにならないし、基本的に円筒形である以外は、デザインは自由ということにすれば、まったく新しい未来的景観が生まれるんじゃないか。
こういうことをお上が強要すると、そりゃ社会主義だなんて騒ぐ人があらわれるかもしれないけど、そういう人には積極的に海から近い、津波に直撃されそうな土地をあてがっておけば、つぎの津波で一掃されるだろうから、世の中まるく収まって、うん、これはいいアイディアだ。

・・・・・・これ以上書くと無責任な提言と思われてしまうから、このへんでやめておくけど、海の好きなわたしは、海に近いという利点を放棄するのをあまりにもったいないと思うのである。

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マルタ紀行/バス特集

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このへんでマルタの路線バス特集だ。
マルタについて書かれたブログやホームページが、たいてい「となりのトトロ」に出てくるネコバスそっくりのバスがあるってことを書いているけど、規格とか標準とかいうものをまったく無視していて、まあ、とにかくマルタのバスはおもしろい。

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これらのバスはEUの規格に合わないってんで、年内にすべて廃車にされるとか。
わたしは思うんだけど、マルタていどの大きさの島なら、いっそのこと全部電気自動車にしてしまう手がある。
省エネの見本だし、観光立国のお手本になれるんじゃなかろうか。

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2011年4月14日 (木)

マルタ紀行/路線バス

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マルサシュロックからの帰りは路線バスに乗った。
英語のわからないわたしだから、乗るまえにいろいろ考えた。
大きな都市から地方の小都市にいくバスを見つけるのはむずかしくっても、その逆ならたいしたことはないだろう。
マルサシュロックを出るバスは、そのほとんどが首都のヴァレッタへ向かうにちがいない。
問題は混雑している場合、わたしみたいな人間がもたもたして運転手や乗客に迷惑をかけることだけど、朝夕のラッシュ時間帯の首都圏ならともかく、マルサシュロックのような田舎町でそんな混雑があるとは思えない。

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そういうわけで自信をもってバスに乗ることにした。
予想どおりバスはがらがらだった。
わたしは 「ヴァレッタ、OK?」 と必要最小限度の言葉を発し、手のひらに小銭に載せて運転手にさしだした。
バスの料金なんてさっぱりわからないけど、フェリーに乗ったときと同じで、この方法なら運転手が勝手に必要な金額をとってくれるのである。

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1番上の写真はバス停のようす。
やってきたのが上から2番目の写真のバスで、グロテスクだけど、新車に見えなくもない。なかなか楽しいバスではないか。
いちおうワンマンバスだけど、機能一点ばりの先進国のバスとかなりちがうから、こういう点ではなかなか興味深い。
3番目から7番目までの写真はバスの内部。
運転席の横の赤い箱は料金箱。
天井に2本のひもがはられていて、降りるときはこれを引っ張るとブザーが鳴るようになっていた。
運転手はいかにもベテランという感じの大きなおじさんで、私服のままで仕事をしていた。ネクタイは運転席のわきにかけてあった。
そのおおらかさが、絶大な安心感とどこかほのぼの感に満ちている。

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エアコンなんかついてなかったから夏はそうとうに暑いだろうけど、日本の原発事故とその後の電力不足を思えば、こっちのバスのほうが省エネに配慮した未来志向の車じゃないかと思う。
因果関係をずるずるとたどっていくと、エアコンがなければ我慢できないという国民をかかえた国では、原発は必要悪ということになってしまう。
そういう国で原発反対を叫ぶのはオカシイということになってしまうのである。
今年の夏の日本では節電がおおいに問題になるだろうから、せめて空気のよい田舎では乗り物はエアコンを使わず、マルタのバスのようにすべての窓、そしてドアまで開けっ放しにして、さわやかな天然クーラーを最大限に活用しながら走ったらどうか。

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最後の3枚の写真はバスからながめた景色。
「田舎のバスはおんぼろぐるま」 って歌がこぼれちゃうようないい景色。 これで若い娘の車掌がいればいうことなしなんだけど。

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2011年4月13日 (水)

マルタ紀行/マルサシュロック再訪のおまけ

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えいやっと、マルサシュロックで水揚げされていた魚の写真をずらっと並べる。
興味のない人には迷惑でしょうけど、正真正銘の地中海産ばかり。

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マルタ紀行/マルサシュロック再訪の3

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そのうち欧米人の観光客がぼちぼちやってきた。
彼らもマルサシュロックの青空市場が目当てだったのかもしれないけど、それほど失望しているようではなかった。
彼らの大半は老人で、古い街並みや石の神殿を観てまわるよりは、暖かな日差しの下でのんびり海をながめているほうがよっぽど楽しいのだろう。

老人たちといっしょに日なたぼっこをしているうち、沖から小さな漁船がもどってきた。
これから水揚げをするかもしれないから、急いで岸壁でその船をまちかまえる。
それまで岸壁でごろりと横になっていた老犬が、よったりと起き上って、わたしと同じように漁船を迎えに出た。

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船に乗っていたのは老漁師と、彼の娘か息子の嫁でもあるのか、ジヤージーの上下に長靴をはいた30代くらいの女性である。
港に着くと女性はさっさとどこかへ行ってしまったが、老漁師はそのまま船に残って網から獲物をはずしはじめた。
漁の規模としてはせいぜい刺し網ていどで、獲物もたかが知れているけど、港で水揚げを見ていておもしろいのは、いろんな魚がいっしょくたにかかる定置網や刺し網などで、一本釣りや延縄などだと、獲れるものはだいたい決まっているからおもしろくない。

どれどれと、わたしは老人の手もとをのぞきこむ。
この船の獲物はヒメジ、アジ、キス、ニシン、ホウボウ、カサゴ、小型のハタ、タコなどの小物ばかりだった。
わたしが伊豆の海で見たことのある魚ばかりで、当然かもしれないけど、さすが地中海っていうような怪魚、珍魚はいなかった。

それでもこういうものを見ているのはとても楽しかった。
ヤケクソで海辺のベンチにすわったなんて書いたばかりだから、さぞかしマルサシュロックに失望したんだろうと思う人が多いかもしれないけど、それは反語で表現しただけで、じつはこのあてもなくこの漁港をふらついていたときが、わたしにとってマルタでいちばん楽しい時間だったといっていいくらいである。

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2011年4月12日 (火)

マルタ紀行/マルサシュロック再訪の2

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まぬけなわたしはマルサシュロックをぶらつく。
朝市はやってないんですかと尋ねたとき、そのへんにいた漁師が、魚がほしいのか、魚屋ならあっちにあると教えてくれた。
魚の買い出しにきたわけじゃないけど、どうせヒマなんだし、どんな魚が獲れるのかあくまで追求しようというので、教えてもらったほうへ行ってみた。

ちょっと裏通りに入ると、マルサシュロックはつまらない町である。
新しくも古くもない中途半端な住宅が並んでいて、人通りは少ないし、学校へ行っている時刻なのか、走りまわる子供たちの姿もない。
だいたい日本でもそうだけど、地方の漁師町なんて、平日の裏通りはたいていそんな静寂がみちているものである。

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道路ぎわに保冷車が停まっていて、かたわらの路地から中年男女が出入りして、カチンカチンに凍った大きな魚の積み下ろしをやっていた。
これが教えられた魚屋らしいけど、看板も出てないし、店頭に魚がならべられているわけでもない。
なにか感想をといわれても困る状況なので、写真もろくに撮らずに町の中をぼんやりとひとまわりしてまた港にもどってしまった。

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港の岸壁の上を歩きながら足もとを見ると、この朝網からはずされて、そのまま放置されたカニやゴカイなどの死骸が落ちている。
自然愛好家にとっては、こういうものの中にもおもしろいものが見つかることがあるものである。
と、そんなゴミみたいなものを漁っているのもわたしだけのようだった。

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ある漁船のわきで漁師が小型のサメを解体していた。
そばへ寄ってシャークとつぶやくと、漁師は無言でうなづいた。
フカヒレならともかく、サメなんてあまり上等な料理になりそうもない。 マルタの人はどうやって食べるのだろう。 カマボコなんてあんのかしらと思う。

このあとはヤケクソで、海辺のベンチにすわって時をすごした。

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2011年4月11日 (月)

マルタ紀行/マルサシュロック再訪の1

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なんでマルサシュロックにばかりこだわるのか。
この日のオプションに予定されていたゴゾ島についてあらかじめ調べてみたところ、ここは石の神殿ばかりが売りモノのようだった。
石を積み上げた神殿は、すでにハジャーイム神殿を見たばかりだし、考古学者ではないわたしにはぜんぜんおもしろいと思えなかったところである。
そんなものより、漁港でいろいろな海産物を見ているほうが楽しい。

というわけでまたマルサシュロックに行くことにしたんだけど、そんなわたしは変人なのか、まっとうなのか。
世界遺産の古都にきて漁港を観てよろこんでいるのはわたしだけだった。
2日前のマルサシュロック・オプショナルツアーに参加したのは、規定人数にすれすれの7人だけで、それもすべてのオプションに参加しようという人たちだったらしく、自由行動の日にわざわざ漁港に行こうという人はひとりもいなかった。
またくりかえしてしまうけど、地方の物産を知ることは、世界遺産を見るのにおとらないくらい大事なことなのに残念なことだ。

ところで漁港というものはたいてい朝が早いものである。
水揚げのようすを見たかったら、できるだけ早朝に行くにかぎるけど、そうかといってあまり早すぎては、店はひとつも開店しておらず、観光客もひとりもやってきてないかもしれない。
そういうわけでホテルで朝食をとったあと、順当に9時ごろ出かけることにした。
往路のタクシーについてはすでに書いた。

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マルサシュロックに着いたのは9時半ごろだった。
着いてみてがっかりした。
朝市でもやっているかと思ったら、港はがらんとしていて人影もない。
そのへんの人に尋ねたら、朝市は日曜日だけだよという。
2日前に来たときは観光客や買いもの客でごったがえしていたけど、考えてみればあれは日曜日だったのだ。ウカツ。

えい、くそっと思ったけど、仕方がないので、しばらく港をぶらぶらすることにした。
天気はいいし、こんな日の港というものは散策しているだけでも楽しいものである。

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2011年4月 9日 (土)

マルタ紀行/交通事情

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ネットでマルタについて調べていたとき、この国をレンタルバイクで走ったという人のブログを見つけた。
そんなものがあるならレンタカーもあるんじゃないか。
そう思ってきょろきょろしていたけど、HARTZ も AVIS もジャパレンも、看板をひとつも見なかったし、わナンバーの車は 1台も見なかったから (当たり前だ)、そのへんはしかとわからない。

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この国は英国と関係が深いので車は左側通行である。
これならプロ級ドライバーのわたしには簡単に運転できそうだ。
前項で運転は好きじゃないと書いておいて、そのすぐあとにプロ級ドライバーというのは矛盾しているようだけど、じっさいにわたしは運転のきらいなプロ・ドライバーなのである。
詳しい説明はしないけど、そういうことも現実にあると強引に主張しておく。

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左側通行というものの、マルタでは交差点の走り方に日本とちがう部分もある。
こちらのたいていの交差点は時計まわりのロータリーになっていて、これはランダバウト方式というそうだけど、信号がない。
車は停止せずに交差点に進入し、ロータリーをまわりながら目的の通りに達したところで交差点を出ていくのである。
原則として右側から走ってくる車が優先だそうだ。
慣れれば簡単そうだけど、慣れないうちはめんくらってしまいそう。
外国で、たとえ接触事故でも、やった日には目もあてられないから、やっぱり運転はやめておいたほうがいいかも。

※上から3番目の写真は、正規の警察官なのかどうかわからないけど、交通整理をしていたヒト。

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2011年4月 8日 (金)

春先の花たち

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ようやく春らんまんかと思ったら、今日はまた寒いやね。
サクラが咲いたところで、わが家の近所で見かけた今年の春先の花の特集だ。
上左から右へ、カタクリ、キクザキイチゲかな、フクジュソウ。
中左から右へ、シロバナタンポポ、ザゼンソウ、スハマソウ。
下左から右へ、タチツボスミレ、ヒトリシズカ、ニリンソウ。

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マルタ紀行/タクシー

今回の旅の実質的な最終日になった。
翌日は朝いちで帰国のために飛行場行きなので、もう観光なんかしているヒマはないのである。
この日はオプションでゴゾ島終日観光というものが設定されていたけど、わたしはそれを無視した。
無視するとまる 1日自由行動ということになるので、わたしは迷わず、またマルサシュロックへ行くことに決めていた。

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マルサシュロックまでタクシーを飛ばすつもりである。
あらかじめガイドのYさんに訊いておいたところ、マルタのタクシーにはメーターがついておらず、料金は 10分走って 10ユーロが見当だという。
呼べばホテルまで迎えにくるだろうけど、そんなことをフロントに説明するのがメンドくさいので、自分でヒルトンのそばまでタクシーを探しに行ってみた。

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朝からロータリーに2台のタクシーが並んでいた。
前にいたタクシーの運転手は若い男性で、マルサシュロックまで25ユーロ (3000円ぐらい) と答えたから、まあ、そんなもんだろうと納得した。
じつは前日にも、たまたまホテルの前にいたタクシーに訊いてみたら、やはり25ユーロだったのである。
どうも観光目的の場合、協定料金のようなものがあるらしい。

マルタのタクシーはベンツが多い。
他の車種もあるにはあるけど、圧倒的に多いのはベンツである。
ベンツというとやたらありがたがる人がいるけど、わたしはヘソ曲りだし、そもそも運転なんて好きじゃないから、このとき乗ったベンツにも特別な感動はない。

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車の中で運転手と会話してみた。
彼の歳は21 だという。
名前を訊くと、なんとかかんとかといって、フランスの名前だと自慢そうに説明した。
そんな自慢をされても、いちど聞いただけではさっぱりわからない。 アラン・ドロンとかベルモンドって名前じゃなかった。
ベンツはいくらするのかという質問には50万という英語が聞きとれたけど、これもユーロなのかなんなのか単位がわからない。
キミの車かと訊くと、当然という顔をする。
マルタのタクシーには、屋根にTAXI の表示があるものの、会社名のようなものはどこにも書いてないから、ほんとに彼の個人タクシーかもしれない。
マルタのタクシーって儲かるんだねと、カタコトの英語でヘタなお世辞をいっておく。

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2011年4月 7日 (木)

マルタ紀行/タコ料理

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ホテルにもどり、この晩は近所のレストランで食事をすることにした。
英語ばっかりのメニューをながめたら、オクトパスという文字が見つかった。
オクトパスがタコのことであることは、英語の苦手なわたしにもなんとかわかったから、こいつを注文してみた。
ふだんのわたしもタコ刺しなんか好きだから、これは食文化の比較研究になるかもしれない。

出てきたのは足まで含めてげんこつぐらいの大きさのタコを、なんと表現したらいいか、ボイルしてミートソースをまぶしたとでもいいか。
こいつが2コ、お皿の上にひっくり返って出てきた。
見本でも置いてあればけっして注文しなかったと思うけど、出てきてしまったものは食べざるを得ない。 さいわいなことにわたしは好きキライはあっても、海産物ならホヤでもナマコでも、たいていのものが食べられる男である。

ナイフで足をばらばらにして、フォークで食べた。
食べづらいけど味はまあまあ。 2コとも残さず食べてしまったから、まあまあ以上だったかもしれない。
でもやはり日本人のわたしはタコ刺しのほうが好きである。

タコを食べているわたしを、店のウエイターがちらりちらりと観察しているのがわかった。
なんとなく日本代表になったみたいで、責任を感じてしまう。
しかし、この晩のわたしが盛大にチップを払ったと思ってはいけないのである。

※タコの写真がないから、お店の写真を 1枚だけ。
人間が写ってないからほんとにマルタかいといわれそうだけど、けっして西麻布あたりのお店の写真でごまかそうっていうつもりじゃありません。

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2011年4月 6日 (水)

マルタ紀行/スリーマ

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フェリーに乗って、着いたヴァレッタの対岸がスリーマという町のある半島である。
いちばん上の写真はフェリーから見たスリーマ。
そのつぎはフェリー桟橋の近くに待機するタクシーの群れ。 みんなベンツ。

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フェリー桟橋のあたりもにぎやかだけど、ここから 10分ばかり歩いてひと山越えると、セント・ジュリアン側の海岸に出る。
海岸に出ると、あとはわたしの泊まっているホテルまで、せいぜい2キロか3キロなので、歩くのにちょうどいい距離だ。
しかも、この海岸ぞいにはタイルが敷きつめられた遊歩道が完備していて、とちゅうに公園があり、遊戯施設があり、トイレもあるので、家族連れの人、のんびり散策する人、あるいは健康志向でジョギングがかかせないなんて人にもってこいのところなのである。

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そんな遊歩道をぶらぶら歩いて、海辺のスタンド・カフェで休憩した。
コーラを飲みながら、まわりの人たちを観察してみる。
女性にあまり美人がいないなと思う。
美人がいないどころか、老いも若きもやたらに太った人が多い。
外国の女優さんはスマートだけど、これじゃスマートというだけでりっぱに女優の資格になるんじゃないか。
そんなことを考えていたら、目の前を小錦みたいに太った男性がどたどたとジョギングしてきたから、彼のりっぱな体型をじっとながめた。
わたしが立ち上がって出かけようとすると、彼は後ろからどたどたと追い越していった。
しばらく歩くと、また前方から彼がどたどたと走ってくるのに出会った。
さすがにこのころはお互いに親近感が湧いていて、彼がにやりと目くばせをしたので、わたしもにやり。
それっきりだったけど、なんか国際的な友情を結んだような気がしてしまう。

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スリーマは新しいリゾートなので、夏になればカンヌやニースのように水着の美女が闊歩するのではないだろうか。
海岸は砂浜ではないけど、水はとてもきれいだし、あちこちに岩場が平らに切り開かれて、そういうところで昼寝をしているアベックなどもいたから、海水浴も可能なんじゃないか。
そう思っていたら、ある場所に 「流れが強いので危険」 という看板が出ていた。 ザンネン。
でも水着の美女というのは、たいていは泳ぐつもりで水着を着ているわけじゃあるまい。
とちゅうにはプールもあり、日本の女子高のように目隠しなんて野暮なことはしてないから、夏にまた再訪しようかなんてけしからんことを考えてしまう。

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2011年4月 5日 (火)

マルタ紀行/フェリー

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この旅に出発するまえ、わたしは念入りに研究して、ホテルのあるセント・ジュリアン地区からヴァレッタまで、おおむね3~4キロぐらいだろうと踏んだ。
そのていどならトレッキング派のわたしに歩けない距離じゃない。
歩いてやろうじゃないかと意気込んでマルタにやってきたものの、現地でじっさいにながめてみたら、たちまちその気が失せた。
じっさいの距離は4キロぐらいかもしれないけど、ながめた感じでは10キロ、20キロ彼方って感じである。

地図をみると、ヴァレッタのあたりは湾がややこしく入り組んでいるけど、セント・ジュリアン地区からスリーマという町のある半島を経由して、そこで海を渡ることができれば距離はかなり短縮できそうだ。
こういうところにはたいていフェリーや連絡船があるものである。
調べてみたらやっぱりフェリーがあった。

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というわけで、ヴァレッタのあるシべラス半島の先端をきわめ、カルメル教会を見物したあと、そろそろホテルにもどるつもりで、わたしはフェリー乗り場へ向かった。
フェリーは30分に 1本くらいの割で出ているようで、料金はものすごく安い。
しかしマルタの通貨に不慣れなわたしは、手のひらにコインを乗せて差し出した。 こうすれば相手が勝手に料金を徴収してくれるから、あとで路線バスに乗ったときもわたしはこのスタイルだった。

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乗船してみると、乗っているのは欧米人観光客ばかりである。
しかもがらがらだったので、全員が上甲板のベンチに座った。もちろんわたしもそうした。
対岸のスリーマまでせいぜい 15分である。
天気がいいので、風に吹かれる上甲板はとても気持ちがよかった。

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とちゅうでフェリーは古そうな要塞の残るマノエル (=MANOEL) 島をかすめる。
双眼鏡を用意していたので、この島を拡大してながめた。
大きな建物がいくつも残っているけど、ほとんどが廃墟のようで、ようやくひとつの建物に旗が上がっていて、まわりに数台の、これはピカピカの現代の車が停まっているのが見えた。
建物は古いものばかりのようだからりっぱな観光資源になりそうだけど、現在は軍の基地に使用されていて、公開はされてないらしい。

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スリーマに近づくと、こちらは派手な現代風の建物ばかりである。
建物のあいだに茶色い古そうな教会が見えたけど、これ以外は世界遺産もへったくれもない新しいビルばかりだ。
古い街ばかり見てきたあとだから、いくらか新鮮な気分で上陸することになった。

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2011年4月 4日 (月)

対応

新聞を読んでいたら、東電がぼろくそに叩かれているという記事。
そりゃ叩かれても仕方ないってこともあるけど、社員に危害がおよぶ可能性もあるってんで、社員寮の表札から社名を消したりしたという。
するとたちまちネット上に
「さすがは隠ぺいのプロだな」
「こういうことになると対応がじつに早い」なんて書き込みがあふれているそうだ。
他人の不幸を笑っちゃいけないけど、なんかおもちろい。

ところで、これはけっして東電の味方をしようってわけじゃないけど、今度の原発災害について、新聞に行政や監督官庁や東電の責任を問う声がひじょうに多い。
その大半が結果論みたいで、へそ曲がりの当方にはちと気になる。
原発に対して過去に何度か警告が発せられていたのに、何も対応しなかったという声もあったけど、対応というのはどういうことか。

たとえば東京の芝公園に東京タワーという大きなテレビ塔が立っている。
大震災がきたらこれが倒壊して大被害が出るかもしれないから、いまのうちに耐震補強をしたらどうかと、わたしが警告を発したらどうなるか。
タワーの管理者は一笑にふして、あれは想定される震災にじゅうぶん耐えるように立てられているからダイジョウブというだろう。
想定以上の震災がきたらどうするかと、わたしがさらにしつこく追求したとする。
そんなことをしたらとんでもない費用がかかってしまう、東京タワーも営利を追求する民間企業なのだから、想定外の災害についてあらかじめ対応していたらキリがないと返事されるのがオチだろう。
しかもこの先1000年ぐらい、そんな想定以上の地震なんて来ないかもしれないのである。
1000年もあったら東京タワーは全面廃棄、スカイツリーをしのぐテレビ塔に建て直しされているかもしれない。

以前、歩道橋に大勢の群集が押し寄せて、橋が落ちて大勢の死傷者が出たことがあった。
するとたちまち警察が責任を問われる。
そういうことにならないように、事故が起きるまえにお金をかけて橋の補強をしておけばよかったということだろうか。
いつおこるかわからない事故に備えて、ありとあらゆる場所に税金をつぎこんで対応をしておけばいいってことだろうか。

東電の対応に問題があるってことはわたしも認めるけど、それは隠ぺいしたり、事故後のへたくそな対応や、社長はどこにいるんだといいたくなるような無責任な役人的体質についてであって、事故以前の対応については、わたしはそれを非難する意見にちょっと疑問を感じているのである。

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マルタ紀行/カルメル会の教会

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半島のとっつきから移動し、フェリー乗り場を確認したあと、ふたたびヴァレッタ市内へもどる。
フェリー乗り場からすぐ目のまえに、イスタンプールの巨大モスクのような丸屋根をもった寺院が見えるので、それを見物していくつもり。
この特徴のある寺院は、マルタ島の写真によく登場するのに、観光コースに含まれてない。
それはなぜだろうという疑問があったのである。

なにしろ目の前だから道をまちがえようがない。
そう思ったのがいけなかった。
坂道の石段を登り、建物が軒を接するせまい通りを歩いて、このへんのはずだと思って行ってみたところに、あれほど目立つ丸屋根が見当たらない。
つまり建物が入り組んでいるので、ま下に行くとかえって見えなくなってしまうのである。
のんべんだらりんと歩いていたわたしもイケナイけど。

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ぐるりとそのあたりを一周してようやくたどりついた寺院だけど、遠目には派手なくせに、近くで見ると地味な建物である。
観光客などひとりもやってこない。
ここの内部の写真を撮り、見学記を書けば、ひょっとすると本邦初公開になるんではないかと期待をして、入口の前で中をうかがっていたら、後ろからきた紳士がさっさと入っていった。
わたしも続いて入っていこうとしたら、くだんの紳士は入ってすぐのフロアで、床にひざをついて正しい礼拝の姿勢をとっている。
とても真似できそうにないので、とうとう入ってみるのをやめてしまった。

わたしはこの旅に出発するまえにマルタの事前調査をして、この寺院はカルメル会の教会であるということを知っていた。
しかしカルメルだかカラメルだか知らないけど、無神論者のわたしにはそれ以上のことはわからない。
ウィキべディアに記述があるので、興味のある人はそれを見るヨロシである。

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※いちばん下の写真はカルメル教会の下の通りで撮ったものだけど、お母さんと息子か、姉と弟なのか、男女の2人連れが戸締りをしてこれから出かけようというところ。
いったい何屋さんなのかね、この家は。

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2011年4月 3日 (日)

ヘビ

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ヘビさんが出てきました。
出てきたというより、こっちから見つけたというのが正解のようだけど。

わたしの散歩道のとちゅうにある石垣の水抜き穴の中には、よくヤモリやヘビなどの魑魅や魍魎さんがひそんでいることが多いので、注意していたら、ある穴の中からじっとこちらを見つめる目が。
それっと写真におさめのがコレ。
ストロボをたいたほうは後ピンになっちゃったけど、ぞろりと長いのがおわかりでしょう。
以前見たものは小さな子ヘビだったけど、今回のはかなり大きい。
これから穴の中で卵でも産もうってのかもしれない。

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マルタ紀行/マルタの海辺

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半島のとっつきの海岸の磯でしばらくぼんやりした。
背後には城壁が圧倒するようないきおいで迫っている。
よく見ると城壁の岩のすきまにも雑草が顔を出していた。 つわものどもが夢のあとというのは、西洋でも通じる言葉のようだ。

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足もとの岩の上にどこかの観光客が彫ったのか、英文字が刻まれていた。
日本人の中にはノートルダム寺院に落書きをした人間がいたけれど、観光地に自分の名前を記録したいという人間はどこの国にもいるようである。
それが大きな問題になった日本と、しょうがねえ奴らだなですんでしまったフランスじゃ、発覚したあとの対応がだいぶちがうけど。

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また足もとの岩の中に、棘皮動物のものらしい化石がたくさん埋まっているのを発見した。
化石というにはちょっと新しそうにも見える。
比較的新しい時代にマルタで大きな噴火や地殻変動でもあったかなと考えてみたけど、そんな話は聞かないから、これはほんとうにマルタ騎士団や聖ヨハネよりはるかに昔のものなんだろうか。
足もとは天然岩のように見えるけど、ひょっとするとこれは城壁が建設された当時のコンクリートのようなものかもしれない。
そんなものがあったということや、そのくわしい製法はわからないけど、そういうものを練るときにまぎれこんだウニやヒトデの残骸のように見える。
どうも化石や博物学や、たとえば宮沢賢治が好きな人なんかには、興味のつきない海岸だ。

近くに釣り人もいた。
ナニが釣れますかと訊いてみたかったけど、英語で質問するのはむずかしそうだし、魚の名前なんか答えられてもわかるわけがないからやめておいた。
岩の上にパンくずがちらばっていたから、この釣りの餌はパンのようだった。
スイカを餌にする釣りというのを聞いたことがあるけど、それに比べればパンのほうがまともである。 魚よりハトがよろこんでいたみたいだけど。

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岩礁の上から海をのぞきこむ。
さすがは地中海のはしくれで、水はなかなかきれいである。
足の長いクラゲがただよっていたけど、こういうのは危険なタイプだ。
どうも大聖堂や要塞よりも、こういうものにひかれてしまうのがわたしの欠点である。

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そろそろ帰ろうと、来た道をひきかえす。
岩礁からいちおう道路とよべる道あたりまでもどると、そのあたりの海岸に釣宿のようなほったて小屋がならんでいて、アヒルがうろうろしていた。
そんなほったて小屋の前で幼児が海をのぞきこんでいた。
岸壁上から海面まで2メートルぐらいある。
キミ、そんなところにいちゃあ危ないよと (日本語で) 声をかけたら、小屋から若い父親が出てきて、わたしを見てにっこりほほ笑んだ。
にっこりはいいけど、この調子じゃ年に5、6人は、海に呑まれる子供がいるかもしれない。
マルタもやはり自己責任の国である。

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2011年4月 1日 (金)

お互いさま

週刊新潮に極右政治評論家の櫻井よしこさんが、今回の震災に国際社会から支援があったことについて書いている。
彼女は共産主義がなにがなんでもキライという人だから、同じ支援でも米国の支援はひじょうにありがたいと好意的に書き、ロシアや中国の支援はなにか裏があるんだろうと疑いの眼で見ている。
困ったモン。
疑うなら米国の支援だって、あの国は原発大国だから、日本の震災が原発政策に影響を与えちゃ困るというおもわくがあることぐらいわかってなくちゃいけない。
だいたい日本だって、支援は受けるけど北方四島や尖閣諸島は別問題と、あいかわらず頑固だからお互いさまじゃないか。

櫻井よしこさんのページのすぐつぎに、高山正之という人が記事を書いていて、こちらはよしこさんよりさらに過激で、うん、読み物として読むぶんにはシジョーにおもしろい。

ところで同じアパートに住んでいるロシア系の金髪くんが、原発災害におびえて、バイクで西日本に逃亡したままだ。
いまごろどこで何をしてるやら。

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マルタ紀行/半島のとっつき

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「戦争博物館」 から半島のとっつきをめざして歩き続ける。
半島の北側に出て、城壁の上をはしっている外周道路から見下ろすと、海ぎわに駐車場があってたくさんの車が停まっているのが見えた。 そこへ下りる道があるらしい。
近くまで行ってみると、外周道路の下をくぐって海岸に出るトンネルがあった。

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海岸の駐車場からながめると、城壁の下に細い道路がのびていて、それが城壁の先端をまわりこんで向こう側に消えている。 その先は磯づたいの歩道になって半島のとっつきに続いているようである。
そこまで行ってみようと考えた。
そんなところに歴史的な何かがあるわけじゃないだろうけど、とにかくそこへ行ってみたい。 何があるのか知りたいというのが好奇心というものである。
さいわい好奇心につき動かされているときのわたしは、疲れをしらない男なのである。

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歩きながらながめると、対岸はスリーマという新しいリゾートのある半島になっていて、なにやらマンションのような建物が見える。 ヨットや漁船が出入りしているのも見える。

そのうち道路がとぎれるあたりまでたどりついた。 ここから先は岩礁の上をたどる歩道になってしまう。
この日は海もおだやかだったけど、荒天の日には潮をかぶりそうな道だ。
こういうところを歩くとき注意をしなければいけないのは、行きはよくても潮が満ちてくると帰れなくなってしまう場合があるので、潮の干満によく注意をすること。

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やがて城壁を大きくまわりこんだ。
半島の向こう側にあるはずの防波堤が見えてきたから、ここが半島のとっつきにちがいない。
やったぞ。 ついにわたしは半島の先端をきわめたぞ。
と喜ぶほどのものじゃないけど、すこしは達成感がある。 だいぶくたびれた。

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