2011年5月31日 (火)
陸前高田について書いたとき、グーグルの航空写真は震災後の写真を使っていると書いたけど、釜石も同じらしくて、写真をじっとにらんだら、東前町というところに大きな貨物船が乗り上げていた。
さて、その船は現在はどうなっただろう。無事に海にもどっただろうか。

釜石には新日本製鉄の大きな工場があり、なんだかやたらに工場の多い街という感じだった。
街のあちらこちらでケーブルやパイプがぐちゃぐちゃにからまり、その上に、これは港から工場へ原料や燃料を運ぶベルトコンベア用だろうか、長い回廊がはしっている。
工場はいずれも開店休業中のようだった。
ただ、工場の被害にはこちとらあまり興味がないもので、そんなものを横目に見ながら、まず釜石港の北岸のはずれまで行ってみた。
この日は南西の風が強く、海面はいわゆるウサギが飛ぶという状態で波立っていた。
そんな海岸でぼんやり対岸をながめる。目の前にも破壊された防波堤がある。



つぎに市内の方向へ引き返した。
釜石の地図はぜんぜん頭に入ってなかったけど、帰京してから確認したところでは、魚市場のある浜町とよばれる地域だったようだ。
このあたりも町全体が津波に押し流されたような惨状で、写真を撮ったのは震災から 1カ月半後であるのにもかかわらず、あちらこちらにまだ漁船、作業船が打ち上げられていた。
道路わきの街灯や電信柱もぽっきり折れている。
コンクリートの厚い防波堤を破壊する津波にあっちゃ、電信柱なんてストローみたいなもんだろうなと思う。
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2011年5月30日 (月)
この日はどこかで泊まるつもりだったけど、東京を出るとき、どこも宿の予約をしてなかった。
なんでも被災地では観光客が激減して、業界も困っているそうだから、なんの、ホテルなんぞ行き当たりばったりで不自由しないだろうと思ったのである。
ところが、まず被災地では海辺のホテル、民宿などが壊滅状態だ。
大船渡の近くの高台にある、無事だったビューホテルでことわられ、釜石市内のわりあい海からはなれた宿へ行ってみたら、やっぱり震災のために休業していた。
なんといってもすでにゴールデンウィークが始まっているのである。
うーんと考えたすえに、釜石から50キロほど離れた遠野市に行ってみることにした。
遠野は 「遠野物語」 で知られた観光地だから、ここなら宿はたくさんあるに違いない。

そういうわけで遠野に着いたのが午後の4時すぎ。
最初に南部神社のすぐ下にある大きなホテルへ行ってみた。
大きなホテルなら部屋数も多いだろうと思ったけど、フロントで尋ねると、最高級のVIPルームしか空いてませんという。しかも朝食だけしかつかなくて、えらく高いことをいう。
ほかに当たってみますといって、駅の観光案内に行ってみたら、こちらでは格安のユースホステルがひとつしか空いてませんという。 しかも相部屋だそうだ。
いよいよとなればなんだっていいけど、いよいよとならないうちは、わたしもなかなか往生際がわるい。
わたしが男性のひとり旅だから敬遠されているのかもしれないと思い、駅前の小さな旅館をちょくせつ訪ねてみた。
旅館のおかみさんはなかなか親切で、車で30分ほど離れた温泉なら空いているかもしれないといい、わたしの目の前でわざわざ電話してくれた。
しかし、やっぱり空いてないというから、敬遠されているのではなさそうだ。
わたしにはVIPルームかユースホステルかの選択肢しかないということになってしまった。

で、どっちへ泊まったかなんてことはどうでもいいけど、翌朝わかったことは、遠野市あたりにもボランティアが大挙して押し寄せてきているということ。
朝食のときにわたしのまわりでメシを食っていた男女は、関西からきた消防団員たちのグループだった。
自衛隊も市中にたくさんの部隊が駐屯していたから、ま、わたしの出る幕じゃなさそうである。
写真は、いちばん上が遠野市の俯瞰、つぎの2枚は早瀬川の河川敷で見た小隊規模の自衛隊で、このほかに運動公園には補給部隊も含めたもっとずっと大規模な部隊も駐屯していた。


ひと休みついでに、遠野から釜石までの区間で見かけた、こころが癒されるような素朴な農村の写真も3枚ばかり紹介してしまう。
このあたりはまだまだサクラが満開だった。震災なんてどこにあったの?ってなモン。
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2011年5月28日 (土)
大船渡の惨状については、わたしが撮影してきた映像があるので、それを観てもらおう。
いずれもせいぜい 1分ぐらいのショート・フィルムなので、仕事や家事のさまたげにはなりません。
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2011年5月27日 (金)

大船渡の漁港にある海産物倉庫では冷凍されたサンマの廃棄作業が行われていた。
出荷直前のダンボール箱に詰められたサンマを、箱から出して大きなダスターボックスに詰め替えていた。 もったいない。畑の肥料にでもなるんだろうか。
サンマだから彼らの本分はもちろん、大根おろしを添えた塩焼きか、せめてカバ焼きであるべきで、それがむなしく生ごみとして処理されるなんて、いったいオレたちの存在はなんだったのだと、サンマたちが形而上学的問題に悩んでいないという保証はない。
訴えるようなサンマの目を見ていると、しみじみそう考えてしまう。
倉庫で箱詰めされた海産物なら処理も楽だけど、あっちこっちで生ものの魚が大量に土砂と混じっているそうである。
わたしが見た範囲でも、海がだいぶはなれた農家の庭に、網に入ったままの牡蠣が打ち上げられていた。 世が世であれば、ポン酢かなんかでありがたくいただいたものを。

漁港のわきのいくらか高くなったところに線路があり、そこに2両連結の列車が停まったままになっていた。
線路がさびついているところをみると、震災の日からそこに停車したままであるらしい。
こういう列車は、ほうっておくと鉄道マニアのためにプレートやハンドルを盗まれて、ハダカにされてしまうそうである。
こういうのも火事場泥棒というのだけど、鉄道マニアの諸氏はちゃんとわかっているのだろうか。
見上げると、近くの送電線にゴミがひっかかっているのが見えた。
へえ、あんなところまでと、鉄道マニアでないわたしはまたべつのところに感心する。
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2011年5月26日 (木)



大船渡の市街地も広大な戦場のようだった。
港に三角形の大きな、もとは展望台だったらしいモニュメントがそのまんまで建っていたのが痛々しかった。
この近くにも鉄道がはしっていたから、わたしは写真を撮るために高いところに上ってみた。
津波は線路をいともかんたんに超えたらしく、海側も陸側も建物はあとかたなく消え失せていた。
かろうじて原型を保った民家のかたわらに、サイレンのついた鉄塔が立っていた。
このサイレンは震災の当日に、おそらく津波の到来を告げたものと思われる。
しかし、いったいどれだけの人が高台に避難できただろう。
たとえばわたしがこの街の住人だったとしたら、わたしはどっちかというと呑気なほうだから、そうか、津波か、じゃ2階に避難しようってな調子で、2階でようすをうかがっているうちに、これは予想以上に大きいぞと思ったときにはもう手遅れで、けっきょく家もろとも流されてしまった可能性が高い。 ヤバイ。

被災地を見下ろす高台に幼稚園があった。
建物は被害をまぬがれていたけど、とても本来の役目は果たせてないようで、園児も保育士もいなかった。
その場所からながめると、すぐ足もとの空地で中古車屋が店を出していた。
並べられているのは軽四輪が主で、震災で車がみんな流れてしまったあとだから、需要が多く、よく売れているらしい。
それでも感心なことに便乗値上げということはあまりないようである。
車にかぎらないが、むかしならこういう災害があると、かならず品物を買い占めて儲けようという不埒な輩が出たもんだけど、なにしろ現在はインターネットの時代だ。
どこの誰それや、なんという企業が便乗値上げをしたなんてことは、ただちにネットを通じて世間に広まり、不買運動の対象なんぞにされかねないから、そういうケシカラン輩が輩出するチャンスはあまりないのである。 ザマミロ。
大船渡は地方都市なので、人々はみな顔なじみってこともあるから、あくどい商人が暗躍する余地はもともとないんだろうけど。
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2011年5月25日 (水)
この旅ではあちらこちらで多くの素人カメラマンや家族連れに出会った。
中には廃墟のまえで記念写真を撮っている者もいた。
これじゃ物見遊山じゃないかと、わたしが出発するまえに、無関係な人間がのこのこ出かけることを非難したわたしの知り合いは、こういう不謹慎な態度を言ったのだろう。
さすがにディズニーランドへ行くつもりで被災地を訪問した家族連れはなかっただろうと思うけど、わたしはそんな家族のために弁護を買って出ようと思う。

柳田國男の 「遠野物語」 は三陸海岸をふくめた、岩手県全域にまたがる民話や伝承を集めた本で、その中に津波の話も出てくる。
出てくるばかりか、それは数あるエピソードの中でも、もっともわたしの印象に残るものであるということは、このブログの07年8月31日に書いたことがある。
大津波で妻を失った男が、霧の晩に海岸で死んだ女房と出会う話で、まるで 1幕ものの舞台劇のように、簡潔に、男女の哀しい運命を語っているというものである。
「遠野物語」 は明治の書物だから、そこに描かれた津波は 1896年の明治三陸震災のものと思われるけど、これでわかるとおり三陸海岸は過去に何度も津波に襲われてきた。
にもかかわらず、人々はそんな過去からぜんぜん学んでこなかった。
いや、学んだからこそ、巨大な防波堤・防潮堤を築き、最新の予知システムを備え、過去にはありえなかった最強の防御態勢をしいていたんじゃなかろうか。
そうやって満を持して?待つ人々のところへ、津波は想定をはるかに超える巨大さで押し寄せた。

これはどういうことか。
人々のこころの中に、どこか驕りのようなものがあったということじゃなかろうか。
今回の震災では、自然をあなどることのおろかさ、文明の驕慢さをつくづく知らされたんじゃなかろうか。
家族連れで被災地を訪れた人たちは、人間の文明なんて自然のまえではじつにはかないものなんだということを、今度こそ小さな子供たちにしっかりと見せつけて、後世への教訓としてもらいたいものである。
物見遊山といわれようとなんといわれようと、これなら被災地への旅も意義があったといえるんじゃあるまいか。
ちと苦しいかな。
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2011年5月24日 (火)
2011年5月23日 (月)

海岸通りに廃車の集積場があった。
廃車置き場なんてものは地方にいくとよく見かけるけど、たいていは畑や住宅のあいだの空地なんぞに、ホコリだらけの古い車が積まれているという感じである。
しかし陸前高田で見たものは、積まれた車が徹底的にクシャクシャという点がちがっていた。
まるで日本車叩きにあって、よってたかってハンマーでぶっ壊された車のようである。
わたしは震災直後に大量の車が押し流されていくニュース映像を見て、これじゃあ車メーカーにとっちゃ震災特需が起こるんじゃないかと想像した。
ところがじつは、車の部品メーカーは東北にも多く、それらが壊滅状態になって、特需どころか製造もままならないという。
日本のメーカーは外国に生産拠点を移しているところも多いけど、それも日本からの部品の輸出が滞って、ヘタすれば外国企業にシュアを奪われそうだというから、メーカーにとっちゃ踏んだり蹴ったりだ。
ですから、いま車を申し込まれても、到着するのがいつになるかさっぱりわかりません、困ッテイマスと、これは近所のトヨタ販売店でわたしの車を担当しているS嬢の話。
ちなみにS嬢は、たまにこのブログにも登場するけど、ぽっちゃりしたまだ女子大生みたいな娘で、わたしは彼女のために新車をどさどさ購入してやろうといつも考えているのだが、先立つものがないので断念しているのである。
このブログの写真をよく見ると、天気のよくない日に撮られたものとよい日に撮られたものが混在してるけど、これは帰りも同じコースを走ったので、写真が2日間にまたがっているからである。
この旅では、往路は雨あがりのさえない日だったけど、帰りはとてもいい天気になったのだ。
しかも帰りは強風の吹き荒れる日だった。
こうなると陸前高田市は茶色い砂ぼこりにおそわれる。
津波の日も、人々がまず目にしたのは、海側から建物を押しつぶしながら迫ってくる猛烈な砂ぼこりじゃなかったろうか。
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2011年5月22日 (日)
今朝の新聞の投書欄に、原発事故後の東電の損害賠償を、電気料金の値上げでまかなうのはケシカランという意見。
最近こういう意見をよく目にするけど、こういう人たちはきっとこれまで東電の原発のお世話になっていないと断言できる人なのだろう。
電気料金の値上げに反対する人たちは、その一方で原発を廃止しろっていう意見を持っている場合が多い。
原発を廃止すれば(目下のところは)火力発電に依存することになり、化石燃料高騰のおり、やっぱり電気料金の値上げは避けられないのである。
週刊新潮には「電気料金38%上昇する!」なんて、一見オソロシそうな記事も。
しかし、なんで電気料金の値上げを怖がるのか。
電気が38%値上がりしたら、電気の使用量を38%抑えればいいだけの話ではないか。
だいたい煙草のときもそうだったけど、国民に禁煙を強制するいちばん確実でかんたんな方法は、タバコを値上げすることだった。
電気だってそうだ。
かけごえやスローガンだけじゃ、繁栄慣れした国民に、暑い日のエアコンを控えさせるのはなかなかむずかしいものである。
電気をがばっと値上げする。
これじゃたまらんと、みんながいやおうなしに節電にはしる。
1日に10時間エアコンを使っていた人は、6時間しか使わないようになる。
壁に断熱材を入れたり、わたしみたいに風呂場や便所で本を読む習性のある人以外は、各部屋の照明を落としたり、あるいは窓辺にゴーヤをぶら下げたりして、電気を使わずにすむようにいろいろ工夫をする。
国民あげてこんな姿勢にかたむくのは素晴らしいことではないか。
できることなら、国民にはせいぜい節電に努めてもらって、企業の電気料金は据え置くともっといい。
そんなことをいうと、電気料金の値上げに反対する人たちの中には、また資本家優遇だなんてさわぐ人が多いんだけど、企業の電気代が抑えられれば、日本企業は国際競争力を落とさずにすむし、たとえば家電メーカーはエアコンを安く売ることができて、日本人は暑い夏を無事に乗り切ることができると・・・・・・ なんだか循環論法みたくなってきたな。
とにもかくにも、試練のときは、また自分を見直す好機でもあるのである。
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2011年5月21日 (土)
震災まえの陸前高田には、防波堤が完備していたものと思われる。
思われるだけで、それがどんなものだったのか、部外者のわたしには想像することができない。
というのは、もちろんこのあたりが徹底的に破壊されちゃったからだけど、さいわいネット上の、たとえばグーグルの地図や航空写真を参照すれば、あるていどは想像できる。

そう思ってグーグルの航空写真をのぞいてみたら、陸前高田の航空写真はちゃんと津波のあとの写真にさしかえてあるようだった。
本来ならいちばん海ぎわにあったはずの道路は海になってしまっていた。
海岸にもお寺があったようだけど、海はその場所にまで入りこんでいるから、お寺も海の藻屑になっちゃったわけだ。

この旅に出かけるまえのわたしは、津波というものはせまい入江や湾のほうが高さを増すものだと信じていた。両側が山になっているようなところでは、波は圧縮されてより高くなる。
しかし、事実はそうであっても、そういうところではもともと民家が少ないから、被害もそれだけ目立たない。
陸前高田の惨状から、また認識を新たにした。
圧縮されない津波であっても、平地ではあらゆるものを広範囲に押し流してしまうから、被害は目にみえて甚大なものになるのである。
地図によると、この海岸には高田松原という公園があり、そのあたりに運動場や海水浴場、ショッピングセンター、道の駅、ミュージアム、ユースホステル、ドラゴンレールとよばれる大船渡線の線路などがあったらしいから、街の繁華な部分はほとんどこのあたりに集中していたといっていいだろう。
それがことごとく廃墟になり、鉄道は断絶し、いまその場所にぽつんとキャピタルホテルが建っている。
わたしはこの晩の宿を探さなくちゃいけないのだけど、とてもとてもこのホテルは泊まれる状態ではなかった。
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2011年5月20日 (金)
陸前高田のあたりで交通規制にひっかかってうろうろ。
よくわからないまま、大きな川にそって走っていると、対岸に竹ヤブがあるのが見えた。
竹はすべてまっ茶色に立ち枯れしていて、頭まですっぽり海水につかったことを物語っていた。
河川敷にも車が仰向けになっていて、さまざまなものの残骸がころがっている。
しかし、まあ、このころになるともうたいていのことでは驚かなくなっていた。
驚かなくなっていたと書いたすぐあとで驚くのもナンだけど、陸前高田の被害には度胆をぬかれた。
わたしはこの旅で、気仙沼、陸前高田、大船渡、釜石と、4つの都市の被害を見てまわったけど、陸前高田と大船渡の被害には息をのんだ。
この2つの都市は、気仙沼にくらべると、海岸の平たん部がずっと広い。
街の機能はその平たん部に集中していたようで、それがまさに原爆投下直後のヒロシマのように、見わたすかぎりの廃墟になってしまっているのである。
このブログの写真でもわかるけど、気仙沼では木造家屋は倒壊したものの、それ以外の建物は比較的原型をとどめているものが多かった。
しかし陸前高田では、海岸にまともなかたちの建物はほとんど残ってなかった。
震災が現実にあったことはよくわかったけど、それを飛び越えて、今度は震災の巨大さがありえない夢のように思えてきた。
いったいこれだけ大きな津波がくるなんて誰が想像しただろう。
震災のあと行政や電力会社の怠慢を非難する声があふれているけど、わたしは東京電力の傲慢な役人根性こそむしずが走るもの、それ以外については、それみたことかと誰かを責める気にはとてもなれない。
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2011年5月19日 (木)
菅クンが発送電分離をぶちあげた。
お、いいぞいいぞと思ってしまう。
これは自民党と企業の癒着構造の典型みたいなものだから、やっぱり民主党の菅クンでなければできないことだろう。
だいたい民主党がよくいう官僚支配の打破なんて、ホントにできるのかよと心配だったけど、電力業界の独占体質も官僚支配の一例といえないことがないのだから、この構造をぶっこわすことが、すなわち官僚支配からの脱却の好例ではないか。
これから業界の猛烈なまきかえしが始まるだろうけど、菅クンには最後まで初志を貫徹してもらいたい。
自民党はよけいな口出しをするんじゃないぞ。
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気仙沼から北上すると、最初にあらわれる大きな街は陸前高田である。
陸前高田のすこし手前で、街のはずれの高台に無傷のお寺があるのが見えたから、ちょいと寄ってみることにした。
無傷といってもそれは本堂だけで、石段の下の大きな石碑はぽっきり折れて転がっていた。
石段のとちゅうまで生垣が茶色く変色していたから、津波がどこまで到達したかわかった。
お寺の境内ではサクラがまだ花盛りだった。
境内は避難所になっていて、ちょうど炊き出しの準備をしていた。
わたしの顔がよっぽど物欲しそうにみえたのか、地元民らしいおじさんが、昼から餅つきをするから食べにきなという。
これではどっちが被災者かわからない。
石段の下の駐車場には青いシートでかこったお風呂場まで設置されていた。
ごていねいに 「成田の湯」 なんて看板までついている。
お湯はどこかから汲んでくるんですかと尋ねると、おじさんが自慢そうに、ほれ、ここにストーブがついているだろうと、東北なまりの多い言葉で説明してくれた。
お寺の石段からみると、さらに津波のすさまじさがよくわかる。
遠方に川が流れていて、河口に巨大な水門のようなものが見えたけど、それは津波に対してまったく無力だったようだ。
くわしい説明はまた写真ではしょってしまう。
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2011年5月18日 (水)
前項にわりあい信心深そうな人からコメントがついたから、観音様のクローズアップも載せておこう。
彼女をここに立たせたのは、おそらくどこかのマスコミのカメラマンだと思う。
無残な廃墟の中の、慈悲深い観音像なんて、こんな皮肉な写真もないからね。
立たせただけで、それから 1カ月ちかくも雨風にさらされたまま放っておかれてるんだから、立たせた人が信心深いとはちょっと思えない。
さて、わたしの北上はまだ続く。
ある港に寄ったときは、防波堤の内側に黒い瓦屋根がぷかぷかと浮いていた。
屋根だけらしかったけど、とりあえず手がつけられずにほうっておかれているらしい。それがあまりに原型をとどめているのが悲惨といえば悲惨。
その下に住人の遺体も放置されているんじゃあるまいかと、つい、わるい想像をしてしまう。
屋根の上にはカモメたちがノーテンキに群れていた。
この防波堤の外側では、岬の先端の松の木に漁船が何隻かひっかかっていた。
船頭多くして船山に登るなんてことわざがあるけど、船頭がいなくても船が山に登っちゃうことがあるんだね。

瓦礫の中には、貯金箱にでもなっていたらしいお人形さんが転がっていた。
その可愛らしさから、つい持ち主に小さな女の子を想像しちまうけど、彼女はどうなっただろう。 無事でいてくれればいいが。
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2011年5月17日 (火)
ずっと昔のアメリカ映画によると、原発でメルトダウンが起きた場合、溶けた核燃料は原子炉格納容器の底をつきやぶって地表に落下し、大地を溶かし、どんどん溶かし、どんどんどんどん溶かし、ついに地球の反対側にまで達するそうである。
そんなことになったら大変だなと思っていたら、なんとなんと、とっくにメルトダウンは起こっていたそうだ。
なんだ、そうか。たいしたことないじゃねえか、メルトダウンなんて。あはは。
と考えちゃいけないんだよねえ、世間の大勢にさからってまで。
大勢にさからうのが好きな当方としては、いま真剣に悩んでいます。
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ドイツと日本は似たような工業立国である。
にもかかわらず、ドイツでは原発の数が日本よりずっと少ない。
ドイツでできるなら日本でもできるんじゃないかと、そのへんが疑問でネットで調べてみたら、ドイツはじつは電力を周辺国から輸入しているなんて記事が見つかった。
なんだ、そうか。 そういうしくみがあったのかと納得していたら、最新号のCAR GRAPHIC誌に、まるっきり正反対の記事が載っていた。
CG誌によるとドイツは電力の輸出国だそうである。
えっえっえっと悩んでしまう。
いったいどっちなんだ。
ドイツが数少ない原発で輸出できるほど電力に余裕があるなら、日本だってできそうなもんじゃないか。
こういうときはわたしはまず背景を洞察する。
CG誌の記事は、ドイツに在住している日本人環境ジャーナリストの発言をもとにしているという。
環境ジャーナリストなら当然原発反対の立場の人であると思われる。
であるなら、そのぶん、CG誌の記事も割り引いて考えなければならない。
この記事にはレトリックがあるんじゃないか。 つまりごまかしがあるんじゃなかろうか。
というのも、つまりワタシは、現時点では原発ほど効率的に電気の需要量をまかなえる技術はないと信じているもので、もちろんワタシは素人だから、そうじゃないという人がいてもかまわないけど。
そう考えると、CG誌の記事はちょっと楽観的すぎるような気がしないでもない。
この環境ジャーナリスト氏にいわせると、ドイツは原発を全面廃止し、近い将来に再生可能エネルギーだけで電力をまかなえると本気で考えているという。
しかしそれが可能なら、技術大国である日本だってとうぜん考えていなくてはならない。
日本だって太陽光や風力、波力でも火山力でも念力でもいいけど、そんなうまい方法があるなら、ちゃんと研究はしているはずである。
他国が成功したら、それからおもむろに真似をして、たちまちお株を奪ってしまえばいいさという、日本流の安易な考えはとりあえず除去しておくことにしても。
こんなことをいうとすぐに、日本では原発が政治家の利権と結びついているから、なかなか他の研究が進展しないのだという人がいる。
しかし、利権構造というものが政治家と切っても切れないものであるなら、なにも原発だけが利権じゃないはずだ。
かりに太陽光発電を、原発の供給量をまかなうほどに設備しようとしたら、たとえばソーラーパネルを日本中をおおうほど並べなければならないだろうし、送電線や蓄電所などのインフラ整備にも膨大な費用がかかるだろうから、たちまち政治家の利権と結びつくことは必至だ。
再生可能エネルギーが利権と結びつくなら、政治家だってわざわざ危険な原発にしがみつく必要はないんじゃなかろうか。
わたしは原発を擁護するためにこんなことを書いているわけじゃない。
再生可能エネルギーの研究はどしどし進めるべきだと思うし、日本の政策、生活、日本人のDNAの中に節電という考えがしっかりと根をはって、電力の必要量が激減するのなら、原発なんてものはどんどん廃止してもらって結構だ。
ただ世間には、マスコミや他人の言葉に同調して、ヒステリックにわめきたてるだけの人が多いような気がするので、つい水をぶっかけたくなっちゃうのである。
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大理石海岸をあとにしてさらに北上を続ける。
とちゅうでまたいくつかの小さな港に寄ってみた。
ある場所では国道をまたいで内陸部にまで津波の痕跡が残っていた。
海から陸地に向かって細長い平地がのびていて、津波はその平地の最深部にまで押し寄せたらしい。
民家などひとつも残っていない。
国道のわきに破壊されたマルニというスーパーがあった。
赤い天幕がぼろぼろになってぶらさがっていた。
車を停めて国道わきの被災地を歩いてみる。
廃墟の中に、どこかの報道カメラマンが見つけて、写真のモチーフにしたらしい仏像が立っていた。
神も仏もない災害地にぽつんとたたずむ観音様の像である。
うーむと、複雑な気持ちでわたしもそれを写真に収める。
わたしみたいなバチ当たりが災害に遭うならわかるけど、この地方の人たちになんの罪があっただろう。
人間の運命を決めるのはいったいなんだろう。
だいたいこの観音様だけど、震災後 1カ月以上もほうっておかれてるってことは、持ち主も流されてしまったのではないか。
そうだとすると観音様自身も、津波で身寄りのない境遇になってしまったということになる。
なんだ、なんだ、なんだ。
遠藤周作やベルイマンじゃないけど、“沈黙” という言葉がぐさりと胸につきささるぞ。
わたしがお坊さんだったら、まちがいなく宗教不信になるところだ。
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2011年5月16日 (月)
とってもイヤらしい映画だというので、期待して観てきました、「ブラック・スワン」。
いやらしいところもあったけど、これがあの「レオン」の美少女かっていうナタリー・ポートマンが、歳相応のおばさんになっていたにはガッカリ。
かたき役の不良娘のほうがよっぽどわたしの好みなんだけどね。
もうこれだけ読んだだけで、まじめな映画ファンにそっぽを向かれそうな映画評だけど、最近の陰鬱な映画、ユーモア欠如の映画に、ワタシ、へきえきしているもんで。
この映画については、最初のうちはマザコンで自傷癖のある娘が、バレエを通して自我にめざめるという深遠な内容の映画かと思い、観終わったあとは、まあ、よくできた部類のホラー映画じゃないかと思うようになった。
一件落着してもなんかすっきりしない。
古い映画ファンの当方としては、ビリー・ワイルダーの喜劇作品みたいに、観たあと、じつに幸福な気分にさせられる映画を観たいと思うのだけど、当節はなかなかそういう映画に出会えないものである。
いっしょに映画館に行った知り合いが、ナタリー・ポートマンは偉いという。
女優なのにバレエまで習っちゃってというから、映画の実情にくわしい当方としては、ああいうのはね。
顔が見える部分だけ本人がやって、それ以外の場面、足先なんかは本職のダンサーがやってんだよと余計なことをいう。
映画の中で白鳥の王女が黒鳥に変化するところがあり、これなんかあきらかにCG (コンピューター・グラフィック) だから、ひょっとすると顔の見える場面もすべてCGかもしれない。
まさかそんなことはないと思うけど、即席のダンサーにつとまるくらいなら、本職はみんな失業じゃないかって気分もあるからねえ。
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わたしの目的は、リアス式海岸の奥にある小さな集落の被害を重点的に見たいということなので、気仙沼から海づたいに北上することにした。
途中に大理石海岸という標識があった。
わたしの目的からすれば、理想的な小さな海岸のようである。
国道からわき道に入り、のどやかな畑のあいだを海に向かって下る。
この海岸のそばには鍾乳洞や貝塚があったり、歴史以前から海産物の豊富なところとして知られていたらしい。
ただし、もともと人家の少ない小さな港なので、津波の被害はおどろくようなものではなかった。
山がすぐそばに迫っているから、警報が発せられ、逃げようという気持ちさえあれば、避難するのはそれほどむずかしくなかったようである。
沖には一隻の自衛艦が停泊しており、岩場にはカモメがとまっていた。
視線を遠くにやっているかぎり、あまりふだんと変わらない風景のように見える。
もちろん、視線を手もとに引き戻せば、被害の痕跡ははっきり見えてくる。
海のそばのつぶれた家のかたわらに、サクラなのかモモなのか、ピンク色の花が満開だったのが印象的だった。
持参した猫缶を食べさせる相手はいないかと注意してみたけど、そのあたりにネコもイヌも見当たらなかった。
海岸でぼんやりたたずんでいると、うしろからパトカーがやってきた。
こんな小さな被災地に用事があるようでもなかったから、ひょっとするとわたしのことを火事場泥棒とでも思ったのかもしれない。
そりゃまあ、不審者に見られても仕方ない人相風体をわたしはしてますけどね。
パトカーの中の警察官と顔をあわせると、雨が降ってますから気をつけてくださいと当たりさわりのないことをいう。
こんなところで警察官にたてつく理由はないから、アリガトウと、わたしもそつがない。
パトカーのナンバーを見ると宮城でも岩手ナンバーでもなかった。
県外からそうとうのパトカーが派遣されてきているらしい。
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2011年5月14日 (土)
気仙沼港をあとにしてまもなく、車は潮の干満の影響をもろに受ける、海から近い川の橋の上にさしかかった。
潮の引いた川の中にスクラップになった車が見える。
写真を撮ろうとして川にそったわき道に入ったら、あとから重機を積んだ自衛隊の大型トレーラーがやってきた。
追い出されるようにまたべつの道に入ってしまった。

このあたりは気仙沼の鹿折地区というらしかった。
まわりをみて仰天した。
津波の爪痕がすさまじいだけではなく、この地区は火災にも襲われたらしい。
震災のあと各地で火災が発生したことは知っていたけど、道路が途絶した状態で炎をとどめるすべはまったくなかったようだ。
鹿折地区では町ひとつがそっくり燃えて廃墟になっていた。 その廃墟は映画「戦場のピアニスト」に出てきたワルシャワのゲットーを思わせた。
焼け跡はまだほとんど片付けられてなかったから、この地区だけでどれだけ多くの遺体が塵灰の下に埋もれているか想像もできない。

たまたまそのへんにあった歩道橋に上って、俯瞰写真を撮ることにしたけど、歩道橋の鉄のてすりもぐにゃりと曲がっていた。
津波に流され、火災に焼き尽くされ、鉄のてすりまで曲げられるなんて、まさに完膚なきまでやられたという感じ。
いったいナニが憎くてそこまでやるか。
歩道橋のてすりに寄せ書きのされた日の丸が掲げられていたのが、わずかななぐさめだった。
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2011年5月13日 (金)
2011年5月12日 (木)

左側に気仙沼の駅を見たあと、半信半疑で海に向かってゆるやかに傾斜した道路をゆくと、ついに破壊された民家が2軒ばかり並んでいる場所にさしかかった。
ちょっとどっきりした。
つぶれた民家の庭にくしゃくしゃになった乗用車が転がっていた。
好きこのんで庭に車を、それもスクラップを転がす人はいないだろうから、これは津波のせいとしかいいようがない。
このあたりから道路ぎわに、はっきり津波の影響と思える廃材や壊れた車が目につきはじめた。
もうまちがいはない。津波は現実にあったのである。
わたしを陥れようとする壮大な陰謀ではなかったのだ。
ひょっとするとつぶれた車の中にまだ犠牲者も閉じ込められているかもしれない。
ものすごいところに来たものであると思う。

ずんずん進んで気仙沼港まで行ってみた。
港のまわりはマスコミ報道のままの混乱ぶり。
津波から1カ月半もたって、道路はわりあい走れるようになっているけど、壊れた民家や打ち上げられた船などはほとんどそのままだった。
陸上の建物に船がよっかかっている光景は、ふだんあまり見たことがないから、こういうのは非日常的光景といっていい。
港のまわりは非日常的光景のオンパレードである。
ま、詳しいことは写真を見てチョーダイ。
ちょっと違和感があったのは、こんな被害ありありの港に、ぜんぜん被害を受けてないフェリーが運航していたこと。
湾内にある大島という離島への観光船らしく、運航開始を復興のシンボルとするという気概らしい。
それはけっこうなことだけど、さすがに観光に行こうっていう人はあまりおらず、乗っているのはほとんどが仕事で島と気仙沼を往復する人たちらしかった。
もうひとつ違和感があったのは、遠方に見える岬の中腹にきれいな教会が見えたこと。
教会にかぎらず、お寺や神社なども高台にあることが多く、それらの多くは無傷なものがほとんどである。
神さまや仏さまはこうした災害を前にして、なにか反省することはないのだろうか。
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2011年5月11日 (水)
一関で東北道をおりて一般道にはいると、まもなく前方に太陽がのぼった。
まだ雨上がりの雲は切れてなかったから、ぼんやりとした赤い日輪である。
まわりは日本人ならだれでも癒されるような、おだやかな山村風景で、わたしはすぐにこの地方が遠野物語や宮沢賢治のふるさとであることを思い出した。
そういえば賢治に 「日輪と太一」 なんて作品があったよなと思う。
早朝のきよらかな風景の中の日輪から、いよいよ神さびた国にやってきたなという実感がひしひし。
いてもたってもいられなくなったわたしは、震災そっちのけで車から下りてみた。
畑のあいだに小川が流れていて、ケロケロとカエルの鳴き声がした。
土手にはツクシンボウがたくさん顔を出していた。
こんな平和で美しい土地が未曾有の災害に遭うなんて。
平和というのは悪なのか、美しいというのは罪なのかとつぶやいてしまう。
じつは出発まえに悩んだことがある。
現地に行ってみて、災害の痕跡がひとつもなかったらどうしよう。
そんなバカなといわれそうだけど、まじな話、わたしには今回の災害がどこか実感として感じられない部分があった。
親戚知人に今回の津波で亡くなった人はひとりもいないし、東京で暮らしているかぎりわたし自身の日常もまったく変化はない。
毎日毎日マンネリぎみの生活をしていて、いささか頭がぼんやり。
これはいったいなんだ、テレビや新聞をまきこんだ、わたしを陥れようとする壮大な陰謀じゃないかと、これじゃオカルトかSFになっちまうけど、どうしても現地を見るまでは半信半疑というところがあったのである。
そんなことを考えながら走っているうち、とうとう気仙沼の市街地に到着した。
朝の7時ごろで、街はようやく目覚めたころ。
商店のまえでははき掃除をしている人もいる。
まだこのあたりには災害のかげもかたちもない。
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2011年5月10日 (火)
今年のゴールデンウィークのはじめのころ、正確にいうと4月30日、わたしは深夜に東京を発って震災の被災地へ向かっていた。
女性にふられて死ぬつもりで最果ての稚内に行くのも旅なら、万単位の人が亡くなった被災地を見にいくのも旅である。
なんていいわけがましいことをいうのは、行くまえに友人知人たちから、物見遊山とどこがちがうのかといわれて、返す言葉がなかったからだ。
わたしが有名な報道カメラマンでもあれば、写真によって現地の悲惨さを世界に知らしめるなんてゴタクをならべるんだけど、とてもわたしにそんな力はないし、わたしのブログを見ている人の数はかぎられているからねえ。
でも、災害の被災地に行って芸者あげてどんちゃん騒ぎをしようって人はいないでしょ。
はっきりいえないけど、人間が一生にいちど体験できるかどうかという現場を見ておくってことに、何か意義があるんじゃないかしら。
どうせ家にいたってマンネリ&怠惰な生活があるだけだし、ごちゃごちゃいうまえにとにかく出かけてしまえと、今回ばかりはわたしも行動のヒト。
行くまえに考えた。
ボランティアをする予定はなかったけど、現地で空腹の被災者に出会うかもしれない。
そんなときラーメンぐらいはふるまえるように、車のトランクに簡易ガスコンロと鍋、割り箸などを用意した。
人間ばかりじゃない。飼い主を失ったイヌや身よりのないネコに出会った場合にそなえて、ソーセージやバターロール、猫缶も買いそろえた。
冷蔵庫の中にあった賞味期限切れの食物も、ちょうどいいやと放り込んだ。
こんなものを食わせたら、いくら被災者だって迷惑だろうけど、これはあくまでイヌやネコ用である。
道路情報によると、連休が始まって仙台あたりは渋滞がひどいらしい。
そこで東北道の仙台をとびこえて一関まで行き、そこから気仙沼を目指すことにした。
どちらかというと大きな都市よりも、複雑に入り組んだリアス式海岸の奥にある、小さな漁村集落の被害に関心があったもので。
大きな都市の被害はマスコミによって詳細に報道されている。
しかし、津波は大きな都市にも小さな集落にも、へだてなく襲いかかったはずなのである。
というわけで、わたしの小さな旅の始まりだ。
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2011年5月 9日 (月)
わたしは大相撲というものをナマで観たことがない。
たまたま現在は無料場所が開かれているそうなので、いい機会である、ひとつ出かけようかと思った。
しかしタダより安いものはないってんで、けっこう混雑していて、入場は抽選らしい。
やっぱりやめておこうと、わたしはあきらめがいいのである。
新聞によると八百長をふせぐために、今場所からいろいろ対策が講じられているらしいけど、なんかとってつけたような、こんなんで本当に効果あるのといいたくなるようなものばかり。
監査委員を増員するそうだけど、「委員はムダ話をしながら、がん首そろえてテレビを観てるだけ」なんて、新聞にはなかなか正直なところが載っている。
監査委が設置されてから36年間、いちども八百長が指摘されたことはないとも。
携帯電話の場所中持ち込みは禁止なんて、笑止以外のなにものでもないことは誰にでもわかる。
たしかに相撲の八百長を見抜くのはむずかしそうだ。
2人っきりの勝負だし、さあやるぞってファイト満々のポーズでもとられたら、もと関取さんにだってわからないにちがいない。
うーんと、わたしは相撲にほとんど関心がないんだけど、八百長撲滅について考察してみた。
野球のような団体スポーツでは、せいぜい投手にその可能性があるくらいで、八百長はむずかしそうだ。
いっそのこと、大相撲も団体スポーツにしてしまったらどうだ。
土俵を現在の5倍くらい大きくして、敵味方10人ぐらいの関取さんが、同時に入り乱れてのタッグマッチだ。
ひとりが勝ってもダメ、全員の勝ち負けの合計で成績が決まるのだ。
これなら自分が負けると他人に迷惑になるから、みんな必死で闘うにちがいない。
せまい土俵上で巨大な肉塊があいうつ、アイスホッケーを上回るような派手な試合ばかりで、観ているほうもこれはおもしろいぞ。
というのはもちろん冗談だけど、八百長撲滅対策がいつまで続くか、どうせほとぼりがさめるまででしょって、足もとを見られてるよ、足もとを。
※添付した写真は、また庭のタケノコ。 たった1日で1メートル成長したのにびっくり。
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2011年5月 8日 (日)
ベランダで洗濯していたら、ふと庭の木々のあいだにもっそりとそそりたつ黒いモノに気がついた。
3、4日前には気がつかなかったから、人目をぬすんで大急ぎでそそり立っちゃったものらしい。
黒光りして、ぶっ太くて、長くて、いや、じつに頼もしい。
去年の5月27日のこのブログでも紹介したけど、わたしんちの庭にはこの季節にタケノコが出るのである。
八百屋でちゃんと値段がつけて売られているんだからもったいないような気もするけど、うちの大家さんはタケノコを商品にしようって気はないようだ。
こんな大きくなってしまっては、もはや食品にはならんだろう。
竹細工を商っている熊本のKさんに、その材料としてわざわざ送ってやろうって気にもなれないし、かくしてタケノコは無駄に成長して、あまり目障りになると、怒り狂ったわたしにバッサリ切られる運命なのだ。
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2011年5月 3日 (火)
家にもどったら、オサマ・ビンラディンが殺されていた。
わたしはイスラムともテロとも直接的な利害関係はないから、べつにどうこういう気はないんだけど、やっぱりひと言いってしまう。
彼は逮捕されて米国市民のまえに引き出されることを望まなかったろうから、いさぎよく戦闘で死んだだろうけど、米国側からすれば、たとえ彼が両手をあげても、かまわないからその場で射殺しろってなもんじゃなかったろうか。
生きたままとらえてごたごたと裁判が長引くより、さっさと始末しちまえってことである。
人権もなにもあったものではないけど、たしかキューバのチェ・ゲバラのときもそうだったはず。
ゲバラは降伏したあとで、問答無用で射殺されたのではなかったか。
アメリカが悪いとはいわないけど、そんなら日ごろ人権なんてものを言わなければいい。
アメリカに逆らう者はかたっぱしからぶっ殺すと公言しとけばいいではないか。
まだそのほうがすっきりする。
世界のリーダーを自認する大国の、言うこととやることが違うから、イスラムだけではなく、こころある多くの若者から不信感を持たれるのである。
たしかにテロは終息に向かうかもしれないけど、アメリカが考えを変えないかぎり、無力感にうちひしがれるのはわたしだけじゃないだろう。
ヤケッパチで付け加えるけど、オサマ君とオバマ君の顔を比較すると、だんぜん哲学者ふうなのはオサマ君で、オバマ君は三枚目役者にしか見えない。
アメリカ大統領は馬鹿でもつとまるけど、テロの親分は馬鹿じゃつとまらないってことなんだろな、きっと。
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