被災地への旅/まほろばの国
一関で東北道をおりて一般道にはいると、まもなく前方に太陽がのぼった。
まだ雨上がりの雲は切れてなかったから、ぼんやりとした赤い日輪である。
まわりは日本人ならだれでも癒されるような、おだやかな山村風景で、わたしはすぐにこの地方が遠野物語や宮沢賢治のふるさとであることを思い出した。
そういえば賢治に 「日輪と太一」 なんて作品があったよなと思う。
早朝のきよらかな風景の中の日輪から、いよいよ神さびた国にやってきたなという実感がひしひし。
いてもたってもいられなくなったわたしは、震災そっちのけで車から下りてみた。
畑のあいだに小川が流れていて、ケロケロとカエルの鳴き声がした。
土手にはツクシンボウがたくさん顔を出していた。
こんな平和で美しい土地が未曾有の災害に遭うなんて。
平和というのは悪なのか、美しいというのは罪なのかとつぶやいてしまう。
じつは出発まえに悩んだことがある。
現地に行ってみて、災害の痕跡がひとつもなかったらどうしよう。
そんなバカなといわれそうだけど、まじな話、わたしには今回の災害がどこか実感として感じられない部分があった。
親戚知人に今回の津波で亡くなった人はひとりもいないし、東京で暮らしているかぎりわたし自身の日常もまったく変化はない。
毎日毎日マンネリぎみの生活をしていて、いささか頭がぼんやり。
これはいったいなんだ、テレビや新聞をまきこんだ、わたしを陥れようとする壮大な陰謀じゃないかと、これじゃオカルトかSFになっちまうけど、どうしても現地を見るまでは半信半疑というところがあったのである。
そんなことを考えながら走っているうち、とうとう気仙沼の市街地に到着した。
朝の7時ごろで、街はようやく目覚めたころ。
商店のまえでははき掃除をしている人もいる。
まだこのあたりには災害のかげもかたちもない。
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