2011年7月30日 (土)
このブログの7月18日の記事でふれたけど、うちの壊れたパソコン・モニター、あれまだ電気屋に預けっぱなし。
電話がかかってきて、どうしますかと訊く。
どうしますかっていわれたってどうしようもないでしょ。
そもそも2万2千円で買ったモニターである。
それが1年3カ月で壊れて、修理代が2万4千円だという。
こういうのも修理というのかどうか知らないけど、メーカーにとっては労せずして新しいモニターを買わせるようなものじゃないか。
さてどうすべきか。
いろいろ考えてみた。
わたしにとって手段は二つ。
2万4千円払って修理するか、修理をせずにこのまま廃てちまうかだ。
修理代が1万円くらいなら、たいていの人が泣く泣く修理をするだろう。 映らないモニターなんて、なんの役にも立たない粗大ゴミなのだから。
どうもメーカーに足もとを見られているような気がする。
修理をしなかった場合のわたしの損害はいくらになるだろう。
2万2千円のモニターでも 1年3カ月使用したということは、その間に減価償却した分もあると考え、仮にその償却分を6千円と考えると、実質的な損害は 1万6千円である。
修理をした場合の損害は、この 1万6千円プラス修理代の2万4千円で、4万円である。
ただしこの場合はちゃんと映るようになったモニターがあとに残るから、まるまる損するわけではない。
モニターの価値が本当はいくらなのかということがわからないけど、ここでは仮に修理代の2万4千円がそれであるということにしよう。
ということは、修理をした場合もわたしの損害は 1万6千円ということになる。
ただむずかしいのは、この計算に立腹係数や不安定未来要因がかかわってくることだ。
みすみすメーカーの言いなりになるのがくやしいという立腹係数は、人によって差があるけど、怒りっぽい人ならこれは×5、わたしのように物わかりのいい人なら×2という数字になるのではないか。
つまりわたしの場合、立腹係数を含めた計算では 1万6千円×2で、損害は3万2千円である。
さらに、またそのうち壊れるかもしれないという不安定未来要因を考慮すれば、損害はもっとふくらんでしまう。
で、どうしたかっていうと、修理するのはやめて、いらねえや、そんなもん。 持ってけ、ドロボーと叫んでチョン。
ああ、せいせいした。
このせいせい係数を考慮すれば、修理をしなかった場合のわたしの損害は実質的ゼロだ。
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2011年7月29日 (金)
司馬遼太郎の 「街道をゆく/壱岐・対馬への道」 の冒頭に、「キックツゴウガ」 という言葉が出てくる。
文字化けするパソコンもあるかもしれないから、とりあえずカタカナで書いたけど、漢字では “佶屈聱牙” と書く。
意味を広辞苑で調べると、堅苦しく難解な文章とあるけど、「街道をゆく」 の中では傲岸不遜と同じような意味に使われているようである。
ただ傲岸不遜というと、おごりたかぶって思い上っているという意味になりかねないが、作家がこの本の中でこの言葉をあてはめたAさんという人物は、ガンコ偏屈であるものの、いささか変わった個性を持っていて、他人からも慕われるところがあったそうである。
キックツゴウガのAさんは、この本の中で以下のように記述されている。
「晩年の彼は伏見のアパートに住み、ほうぼうの編集をひきうけて生活していたが、どういう仕事でもそれが天下の一大事のような物狂おしさで熱中した」
「若いころから協同者というものを持たなかった」
「他人のやることがすべて気に入らないためにすべて1人でやるたちで、女房さえ持たなかった」
なんでこんなことを書いたかというと、なんだかわたしのことを書かれているような気がしてきたからである。
わたしは自分がかなりの変人だと思っているけど、Aさんのような人がいたということは、わたしの性格がけっして世界でただひとつの個性というわけではなかったのだ。
この本に登場するAさんは、孤独のまま、ある日台所で倒れて亡くなってしまうのである。
わたしもそのうち風呂場で本でも読みながらオダブツかもしれない。
死んだらそのへんの石に 「佶屈聱牙」 と書いて墓石代わりにしてもらうか。
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2011年7月27日 (水)
鳴り物入りの映画を観た。
BSで放映された 「誰が為に鐘は鳴る」。
べつに鐘が鳴るから鳴り物入りってわけじゃなく、文豪ヘミングウェイの原作を、渋いゲイリー・クーパーと美しいイングリッド・バーグマンの共演で映画化したってあたりのこと。
これがほんとうに文芸大作なら鳴り物入りって表現は失礼だけど、とりあえず録画してみた。
なにしろ2時間半もある長尺なので、とてもすなおに観ていられるほど時間がない。
早送りでざっとながめてみた。
ナニ、この映画。
初めから終わりまでゲリラが岩山を走りまわるだけじゃん。
設定としてはスペイン内戦のときの、フランコ軍と反ファシズム勢力の闘いを描いているんだけど、大作といえるほどお金がかかっているようには、とても見えない。
撮影も全部アメリカですませたようで、スペイン人をインディアンに変えれば、そのまま西部劇としても観られそう。
スペインだったらやっぱりフラメンコや闘牛ぐらい出してくんないと。
どこかお金のかかっていそうなところを探してみた。
旧式の飛行機が3機飛んできて爆撃するシーンがある。
敵の装甲車もろとも橋を爆破するシーンがある。
飛行機3機ぐらいじゃアメリカ映画としちゃお金をかけたうちに入らないだろうし、装甲車も橋もどうも模型らしい。
お金かけりゃいいってもんでもないけど、「戦場にかける橋」 なんかを想像しちゃった当方としては、ちと寂しいよなあ。
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2011年7月26日 (火)
わたしのおさななじみのKさん (女性) は、生きることに意欲的な人である。
寝ているのは死んでいるのと同じことだといって、寝るのも惜しんで生きているらしい。
彼女が男だったら代議士か社長にでもなっていたかもしれないけど、女に生まれてしまったせいで、しかもいまみたいに女性が活躍できる時代の人ではなかったので、その意欲も十分に発揮できてないようなのが気のドク。
わたしは彼女とちがって寝るのが大好きだ。
おかげで昼寝しすぎて、ここんところブログでもふれたい時事問題がたくさんあるっていうのに、たとえば中国の高速鉄道事故やテレビのデジタル移行だけど、なんか頭がぼうっとしちゃって、いろいろ調べたり確認するのがめんどくさい。
いいかげんなことを書いているようで、けっこうわたしのブログは頭を使っているんだからね。
中国の高速鉄道の事故。
あっという間に穴を掘って埋めちゃって、もう翌日には知らん顔をして列車が走っていた。
これはいったいどういうことか。
日本では鉄道事故があると、事故車両は重要な証拠物件なので、徹底的に調査をするのがアタリマエ。
鉄道先進国を自称しはじめたばかりの中国じゃ、なかなかそうはいかないらしい。
おおかた鉄道建設の責任者が手抜き工事がバレるのが怖くて、なにしろあちらじゃへたすると銃殺だから、大慌てで証拠隠滅を図ったんだろうとは、中国人自身も考えているらしい。
中国の鉄道省スポークスマンは、(穴掘って埋めることは) うちが決めたことではない。わたしも現地で初めて知ったなんて発言している。
鉄道のような規模の大きなインフラ事業じゃ、関係者の数も、ワイロをもらった不届き者も多いだろうし、国家のメンツもある。
それでもまた車両をほじくり出しているところをみると、どうやって落とし前つけるか、どうも内部が調整のために (ようするに国民をいかにごまかすかってことで) 混乱しているようだけど、そのうち何人かが処罰、つまり銃殺されることになるんじゃなかろうか。
この事故じゃ中国でもネット上に非難が殺到しているそうだ。
そんな中に 「日本の技術を盗んでないことが証明された」 なんてのがあったって。
あはは。 あちらにもユーモアを解する人がいるんだねえ。
テレビのデジタル移行については、うちのアナログ放送はまだ映るぞ。
そんな馬鹿なって?
さっぱりわかんないんだよねえ、デジタルとアナログの違いが。
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2011年7月25日 (月)

先日、BSでひさしぶりにおもしろい映画を観た。
「恋愛睡眠のすすめ」 といって、なんかウディ・アレン映画を連想させるようなタイトルなので、たいして期待もせずに途中から観たら、これがリチャード・レスターとビートルズの映画みたいで (そうとう古いね)、新感覚のスラップスティック喜劇みたいなところがあり、ひじょうにおもしろかった。
あわてて録画ボタンを押したけど、残念ながら冒頭の 1/3ぐらいを録画しそこなってしまった。
ストーリーは、おくての若者がアパートの隣室にすむきれいな娘に恋をして、勝手な妄想にふけるというものだけど、そんな深刻なものじゃなくって、妄想というのがダンボール製の安っぽい品々や、人形アニメと合体したノーテンキなもの。
マンガみたいなすっとぼけた映画だけど、どこかほのぼのしていて、わたしはこういう映画も好きである。
この映画の中にどこかで見たようなフランス女優が出てくる。
団塊の世代ならジェーン・バーキンをすぐに思い出すところだけど、映画は2005年製だから、彼女がそんなに若いはずがない。
調べてみたらシャルロット・ゲンズブールといって、これだけでピンときたけど、バーキンと歌手のセルジュ・ゲンズブールの娘だった。
バーキンとゲンズブールは、例の、アアッとかウウッとかいう声ばかりの卑猥な歌で一世を風靡した夫婦である。
なるほどと思ってみると、お母さんほど美貌じゃないけど、娘の顔は母親と父親を足して2で割ったという表現がぴったり。
わたしはどっちかというと彼女の友人役の女優さんのほうが好みなんだけどね。
あちらでもやっぱり親の七光りというやつは強力らしい。
いい映画だけど、最近の映画なんで監督も他の出演者の名前も知らないし、こんなことぐらいしか書くことがないのが残念。
とりあえず市販されているDVDを買うことにしようっと。
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2011年7月22日 (金)
「ロシアの論理」を仕事のあい間に読んでいて、いま80ページあたりまできたところ。
プーチンはいい指導者だ、ロシア人はあんな指導者をもって幸せだと思う。
それにひきかえと、また愚痴になっちまう。
自民党政治に決別するとかなんとかエラそうなことを言っていた民主党が、政権をにぎったとたんに自民党とたいして変わらないことを始める。
いや、始めざるを得ないのか。
破産してもおかしくない国の将来を考えると、誰がやったって政治の方向性、とりうる手段にそんな極端な違いがあるとは思えない。
そんならいっそのこと、国会で民主的な話し合いをぐずぐずだらだら続けるよりも、誰かがプーチン式剛腕でどしどし物事を進めたほうがエエのとちゃうか。
鳩ポッポくんがまだマニフェストの修正に異論をはさんでいるようだけど、彼は自分がマスコミに取り上げられるのは、発言が揶揄すべき対象である場合だけという事実にぜんぜん気がついてないらしい。
最近、どこかの国でなんとかいう賞をプーチンに与えるとか与えないとかいう騒ぎがあった。
与えないという人たちはプーチンを独裁者であるとけなす、つまり例によって西側の価値観でしかものを見ない人たちのことらしい。
プーチンの手腕とその政治の結果を理解している人にとって、そもそもそんな賞に興味はない。わたしもそうだし、たぶんプーチンも同じだろう。
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2011年7月21日 (木)
そのうち絶対にロシアに行ってやろうというので、いろいろ旅行書を読んでいるんだけど、階下の金髪クンから「ロシアの論理」という本がまわってきた。
ロシアの現状と未来を知るのに好適な本のようだから、熱心に読み始めたけど、60ページほど読んだ段階では、わたしのプーチンに対する見方を肯定する内容。
それはいいけど、本を読むのが60ページで停止したのは、これからやることがあるから。
山仲間のキャンプに参加していろいろ友人たちと議論したところ、迷惑メールというのは受け取ったほうも金を取られるそうで、そんなことはぜんぜん知らなかったわたしは大慌て。
なんだか知らないが、わたしのところにはどさどさと迷惑メールが来るのである。
ケータイのセキュリティを強化しなくちゃ。
しかしそんなことより、なんで発信したほうからだけ金を取るようにしないのか。
そうすりゃ迷惑メールなんていっぺんでなくなるだろう。
少なくとも、そういうものをぜんぜん読まないわたしのような人間のところへは、出しても無駄だっていうんで発信しなくなるだろう。
そんな簡単な理屈もわからないのか、電話会社は。
儲かればなんだっていいというんだな。弁明してみろ、弁明を。
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2011年7月20日 (水)

わたしたちの仲間には公害問題に関心のある者が多いので、行ってきました、栃木県の足尾鉱山。
というと聞こえがいいけど、じっさいは古い登山仲間による恒例のサマー・キャンプ。
たまたま目的地の近くに足尾鉱山があったので、いまでは観光コースになっている鉱山をついでに見学してきたというワケ。
添付した上の2枚の写真は鉱山で撮ったもので、2枚目はうちのメンバーが安来節を踊っているわけではありませんヨ。

3枚目、4枚目は宿泊したログハウスふう施設でのもの。
例年どうり、オンナっ気抜き、野郎どもばかりの酒池肉林?の宴というわけであります。
てめえたち手作りの山賊料理に、焼酎・ビールが、そんなに飲めるものかというわたしの意見もものかわ、台風に降り込められて外出できないもんだから、翌朝までにはきれいにさっぱりとなくなっちまって、わたしがひとりで飲もうと思っていたバーボンまで、あれよあれよという間に空になったのでありました。
くそっ。来年はバーボンの追加だ!
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2011年7月18日 (月)
新聞の投書欄をながめていると、皮肉とユーモアを愛する当方としては、なかなか興味のある投書にぶつかることがある。
他人の意見のあげ足をとるのは本意じゃないけど、たとえば今日の投書欄。
大学の教員という人が、原発事故について
「原子力災害は他の災害に比べて決定的に異なる性格をもつ」
「それは(災害を受けた土地が)復興できないことである」 と書いている。
つまり放射能は長期にわたって地表を汚染し、除去することができないといいたいらしい。
しかし、この投書はさらに続けて
「広島、長崎を経験した国民として、いまこそ核の恐ろしさを再認識すべきだ」 と書く。
わたしは若いころ、広島の原爆ドームを見学したことがある。
当時からすでに広島の中心部には人々が住んでいた。
原爆がさく裂し、黒い雨が降ってから、ものの20~30年ばかりで、街の中心部にすでに人間の生活が復興していたのである。
だからこの投書には矛盾した箇所がある。
投書のもうひとつはビジネスコンサルタントという人のもので、この人はドイツのメルケル首相の政治判断の早さと比べて、菅首相が4カ月もたってから脱原爆宣言をしたのが遅いと非難の論調。
そしてこの投書は
「わが国の原発問題は、詳細な検証と国民的議論をへて決定されるべき」 だと続く。
詳細な検証と国民的議論なんかしていたら、決定なんか4、5年先になってしまうだろう。
この投書氏は、菅首相の宣言が遅いと非難しておきながら、自らはさらに果てしない決定の先延ばしをいってるのである。
うーむ。
朝日新聞はヒトがわるいから、わざとこういう矛盾した投書を載せて、読者をニンマリさせることを狙っているのかもしれない。
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こんなことを書くとメーカーから名誉棄損で訴えられるかもしれないけど、事実だからあえて実名で書く。
1年半ほどまえにプリンストンというメーカー製のパソコン・モニターを購入した。
買ったときの値段が、量販店で22,800円。
安物だけどわたしの仕事には十分だ。
ところがこれが1年と3カ月ぐらいで壊れた。
ぶつけとか水をこぼしたとかいうわけじゃない。ホントにある日、とつぜん何も映らなくなったのである。
1年間の保証期限が切れたと同時に壊れたようなものだけど、仕方がないので修理に出した。
修理見積もりが出て、なんと修理代が24,000円だという。
おいおいおいである。
わたしだって、保証期限が1カ月でもすぎれば、ただで修理してもらえるとは思ってなかった。
しかし、修理代のほうが買ったときの値段より高いんじゃ、新品に買い替えろといわれてるようなものじゃないか。
おとなしく修理代を払ったら、わたしは2年間にそのメーカーのモニターを2台買わされたのと同じことになる。
これ、サギとちがうか。
メーカーとしての責任も矜持もないのかとわめきたいけど、ま、なに言ったってムダだろうな。
わたしたちはそういう社会に住んでいるのだ。
メーカーも購入者も、とにかく値段の安さだけ、つまり安物商品だけを要求している大量消費社会だ。
消費者センターに訴えたって、こういう社会ではそういうことは起こり得る。運がわるかったねえですまされちゃうだけだろう。
ヘタすりゃ、そんな安物を買うほうがわるいなんていわれそう。
そう考える物わかりのいいわたしだけど、立腹だけはおさまらない。
モニターをメーカーにつっ返して、要らねえや、そんなもん、持ってけ、ドロボーって叫んでうさを晴らすしかないか。
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2011年7月15日 (金)
なんかブログのネタはないかと新聞に目を通していたら、ありました。
朝刊に 「ニュースがわからん!」 というQ&Aコーナーがあって、屋久島で増えすぎた観光客を規制する提案が町議会に出されたところ、観光業への打撃を理由に否決されたという記事。
自称ナチュラリストのわたしとしては、こういう事件こそおおいに騒がなければいけない。
否決の理由というのが
『規制をすると年間9千人が枠からはみ出し、宿泊費やガイド料など2億3千万円以上の損失が出る』 からだそうだ。
ということは、屋久島を訪れる観光客はひとり平均2万5千円ぐらい使うってことだね。
なんでもむかし (2000年)、屋久島を訪れる観光客は2万9千人ぐらいだったのが、2010年は9万人になったんだそうだ。
その9万人のうち、9千人が来なくなると大打撃だっていいたいらしい。
ちょっと欲が深すぎるんでないの。
屋久島みたいな小さな島で、観光客9万人が8万人になるってことがそれほど打撃なのかい。
もともとは3万人ぐらいだったのなら、4万、5万でもオンの字と思えないのかしらねえ。
貴重な自然が理由で世界遺産に選ばれて、おかげで観光客が激増したのなら、その自然を守ることが第一で、町の収入の1/9が減るからなんてことはつぎのつぎの問題だって考えてくんないものかねえ。
規制なんかあると屋久杉を見たいって人には不便になるかもしれないけど、そのかわりハイヒールやスカートで登山しようなんて人はいなくなって、ほんとうに屋久島が見たい、屋久杉が見たいって人にはかえって便がよくなるかもしれないゾ。
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2011年7月14日 (木)
いつもテレビ (NHK) や新聞 (朝日) だけ見ていたのでは、政治の裏側なんてなかなかわからないものだ。
たまには週刊誌 (朝日、新潮、文春のどれか) を読むと、そういう部分がよくわかる。
最新の週刊新潮を読んでいたら、菅クンもいよいよ脱原発解散に打って出るのではないかという観測記事があって、総選挙になったらどうなるこうなると野次馬的にさわいでいた。
海江田クンには手ごわいライバルが出現するかも、しかも才色兼備の女性候補だとか、当の議員の写真がないのが残念だけど。
都知事になれなかったそのまんま東も地下でうごめいているらしい。
宇宙人の鳩山クンは、さんざんむしられたあげく今回は落選だろうと、国民にとって幸せな観測も。
小沢ガールズがどうなるかという記事もあって、不倫をしたぽっちゃり型のA議員は今度はダメだろう、国会で転倒しマンションから墜落したM議員もダメ、もとキャバクラ嬢のO議員はむずかしい、田中美絵子チャン (彼女だけチャンづけなのは、たんなるわたしの自発的衝動である) はひょっとするとなんて書いてあった。
いろんなのがいるんだねえと、あらためて感心する。
それにしたって、いまの時期に辞めろ辞めないってのもヒドイが、いまの時期に選挙ってのもそうとうにヒドイ。
国民にとっては民主党に恨み骨髄のお灸をすえるいい機会かもしれないけど、ああ、しかし、民主党に替えていったいどこの政党に投票すればいいってのか。
お灸をすえたい政党ばっかりじゃないか。
いっそのこと、自衛隊にクーデターでも起こしてもらって、日本もミャンマーみたく、しばらく軍政でも布いてもらうか。
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2011年7月13日 (水)
散歩コースのとちゅうに水車がある。
かって同じ場所にあった水車を復元したものだそうだけど、夏の暑い日にこれがコットンコットンと音をたてて回っているのを見るのはなかなかいいものだ。
しかるに、最近それが回っているのを見たことがない。
6月の田植えの季節にも回ってなかったようだから、いったいぜんたいこの時期に回らないでいつ回るんだとわめきたくなってしまう。
この水車は川の流れよりもだいぶ高い位置にあるから、水の供給に難があるようだ。
川の水が届かないなら水道でも井戸水でもいいから流したらどうなんだ。
と、わめいたところで、わたしはまたもや思索の深みにどっぷりと沈んでしまうのである。
水道でも井戸水でも、それを流すためにはポンプが要る。電気が要る。
するとこの節電の風潮の下では、はなはだ肩身のせまい思いをしなければならない。
水車を管理する市当局としては、世論に逆らうなんてことはとてもできそうにないのである。
しかし、どうせ水車なんだから、そのくらいの電気は自分で起こしたらどうなんだ。
自分で発電した電気でポンプを回し、水道水か井戸水をどんどん流し、これでいつまでも回り続けるなら、いま流行りの自然エネルギーのお手本だ。
永久運動装置というのは物理的に不可能とされているそうだけど、ここには川の流れが介在しているからやみくもに無謀な企てともいえないんじゃないか。
そのさい、せっかくの水車の風情をこわすのもナンだから、できるだけ見えないように発電装置をとりつける。
全部の電力供給が無理なら、一部だけでも水車発電を使えば、これはハイブリッド水車ということになって、節電派もなんとか納得するだろうし、欧米から視察団が来るかもしれない。
暑いせいで頭がパープーになったわけじゃないけど、やっぱり暑いときこそ水車のまわる音が恋しい。
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2011年7月12日 (火)

うちの近所の里山にいく。
ここには田んぼがあって、6月に田植えされたイネの苗がすくすくと育っている。
そんなイネの上をもうトンボが飛びはじめた。
わたしはイネの根もとをのぞきこんで、ちょっとさびしいなと思う。
わたしの生まれ故郷は関東平野の北のはずれで、子供のころはとにかく水田の多いところだった。
水田にはおびただしいカエルが生息していた。
どのくらいおびただしいかというと、いまの都会の子供たちには想像もできないだろうけど、1平方メートルに5、6匹ぐらいの密度といったらいいだろうか。
わたしたちはよくザリガニ釣りにも行ったけど、餌なんか何も持っていかない。
田んぼでカエルを捉まえて、それを地面にたたきつけ、体をばらばらにして、その足を餌にすれば間に合ったから。
そのくらい、カエルなんていくらでも捉まえることができたのである。
カエルの足でザリガニを1匹釣り上げれば、今度はサリガニをばらばらにして、その尻尾を餌にすることもあった。
いま思うと残酷なことをしたものだけど、当時の子供たちにはまったくふつうのことだった。
だからわたしは田んぼを見るたびにおびただしいカエルのことを思い出してしまう。
残念ながらうちの近所の田んぼにはカエルは生息してないようだ。
ザリガニはいくつか見受けられるようになったから、近所の里山でも生きものはすこしづつ回復しつつあるようだけど、両生類の復活はまだまだむずかしいようだ。
カエルのいない田んぼというのはさびしいものである。
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2011年7月11日 (月)

こう暑いと耐久訓練みたいなもんだけど、くじけずに散歩にいく。
今年の野川 (固有名詞である) にはじつに魚影が濃い。
コイやナマズはすぐにわかるけど、10センチぐらいの大きさの魚がたくさんいて、こいつの正体がわからない。
たまたま釣りをしているおっさんがいたから、ナニが釣れますかと訊いてみた。
オイカワだねという返事である。
オイカワならこのブログの2007年7月23日の記事で紹介したことがある。
水中の小魚を陸上から写真に撮るのはむずかしいけど、やみくもにシャッターを切ったらなんとか 1枚、形のわかるものが撮れた。
たしかに以前紹介したオイカワにまちがいないようだ。
ま、このサイズの魚が全部オイカワというわけじゃないんだろうけど、とにかく今年の野川は魚の数が多い。
いつだったか、熱帯みたいにカラフルな魚ばかりなら、うちの近所ももっと楽しくなるのになんて書いたことがあるけど、数だけはサンゴ礁なみというところか。
おっさんの釣りをしばらく見ていたけど、入れ食いみたいな状態で、針を投げるたびに魚がわらわらと集まるのが上からよく見える。
釣れすぎておもしろくないのか、おっさんは早々に竿を収めてしまった。
野川で釣りをする人はあまりいないし、持って帰って晩飯のおかずにしようって人もいないから、魚のほうもだいぶ緊張感に欠けるようである。
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2011年7月10日 (日)

日曜日の新聞は書評が多いけど、その中に 「読みたい古典」 というコラムがあって、今日のそれはハーマン・メルヴィルの大海洋小説 「白鯨」。
読者の感想と、このブログで 「あまり好きじゃないけど」 と書いたばかりの池澤夏樹サンの解説をまじえたコラムである。
池澤サンの解説は妥当なものだし、この小説が読みにくいというのも、まあ、ふつうの読者にはその通りだろう。
コラムの中では池澤サンも、英語圏の作家でさえ当惑をおぼえた小説であるといって、サマセット・モームの言葉を取り上げている。
わたしは 「白鯨」 と同時にモームのファンでもあるので、これにひとこと付け加えると、当惑をおぼえた「白鯨」を、モームは 「世界の十大小説」 のひとつに数え上げているのである。
わたしの場合、まだ小、中学生だったころに、まず子供向けの雑誌に連載されていた 「白鯨」 を読み、もうすこし上級に進んでからは、当時からはげしいロマンチストであったせいか、あるいはやみくもに海にあこがれていたせいか、わりあい順調にステップアップすることができた。
この小説には本題とは関係ないエピソードや、聖書・古典からの引用が多く、また船乗りたちのリアルな生活の描写と、神話のような寓意性に満ちた主テーマが錯綜していて、難解といえばたしかに難解。
こういう本を読む場合、まずいちばんおいしい部分を食べ、あとはヒマをみて、徐々にその他の部分をかじっていくという読み方がふさわしい。
大人向けの 「白鯨」 として、わたしがまず読んだのが阿部知二の訳本で、その素晴らしい訳文にいっぺんにとりこになってしまった。
このとき小さな海鳥のむれが、まだ口をひらいている深淵のうえを、叫びながら飛びまわった。深淵の険しい側面には悲しげな白浪が打ちつけた。それからすべては崩れ、海の大きな屍衣は、五千年前にうねったと同じようにうねった。
この五千年前というのはノアの方舟時代のことだそうだ。
阿部知二の訳本には (文庫本のほうにも) イラストがついている。
出所がよくわからないけど、米国で出版されたこの本についていた版画の転載のようで、これがまたなかなか味わいのあるものである。
つい最近になって、また無性にこの本が読みたくなり、あわてて本屋に走って、つい別の作家の翻訳本を買ってしまった。
するとこのイラストがないってんで、翌日また、わざわざ阿部知二版を買いに行ったのだから、わたしも無駄なことをするものだ。
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2011年7月 9日 (土)
近所の公園で見かけた女の子である。
ぜんぜん関係のない、赤の他人の娘だけど、いまどきこんな写真はなかなか撮れない。
というのは、よそのおじさんが幼女にカメラを向けると、すぐに警戒する親がいるからだ。
失礼な。
世間にそんなに変態ばかりがごろごろしていてたまるか。
と書こうとしたけど、考えてみると世間に変態は少なくないような気がする。
とくに現代では、小さな女の子をひとりで遊ばせるのは、トラのいる森へ子供を放つようなものになってしまった。
だから親御さんが心配する気持ちはよくわかるけど、かわいい女の子をみるとすぐに写真に収めたくなるわたしのような人間には不都合な世の中になったものだ。
きれいな花や景色を写真に収めたいという人がいるように、かわいい女の子がいれば写真に撮っておきたいというのが人情ではないか、という理屈は通らない時代になってしまった。
しかし、この女の子の写真については誰からも文句はくるまい。
彼女が順調に大人になったとすれば、すでに子供がいて、いや、孫がいたって不思議じゃない歳のはずだから。
つまりこの写真は、見ず知らずのおじさんがよその女の子の写真を撮っても、文句をいわれることのなかった時代の記念碑みたいなものなんである。
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2011年7月 8日 (金)
まったく、どいつもこいつもヤキがまわったかといいたくなるのは、日本の宰相と九州電力。
宰相のほうは経産相にも愛想をつかされちゃうし、九電のほうもそうとうに認識不足。
菅クンに対しては、ま、とことんまでやりなせえというわたしの主張もこころなし元気がない。
鉄面皮の菅クンはさておいて、九州電力のほうだけど、ウィキリークスの例を持ち出すまでもなく、現代はリークの時代である。
言い方が悪ければ情報共有の時代とでもいうか。
ほんの少数の人間で綿密に裏合わせをしたならともかく、不特定多数にメールでお願いをして、それがバレないと思ったのだろうか。
このご時世に会社が斜陽になったりつぶれたりしたら困るというんで、社員のほうで勝手に忠誠心を発揮したのかもしれないけど、あまりにお粗末だよな。
かえって足をひっぱることになっちゃって、かって難攻不落の安泰企業といわれた銀行が、バブルの後は大学生の就職先ベストテンから陥落しちまったように、国策企業の電力各社もいよいよたそがれか。
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2011年7月 7日 (木)
都知事の石原クンがいいことをいってる。
小笠原に飛行場?
船があるからいいじゃないか。
日本にひとつぐらい、船でしか行けないところがあってもいい。
昨日のテレビに、がっかりしている飛行場誘致運動をしていた島民が出てきた。
飛行場がほしいというのが島民の総意なのかどうかわからないけど、なんでそんなものが欲しいのだろう。
急病人が出たときなどは、いまでも自衛隊の飛行機が飛んでくれるんじゃないか。
わたしは25年以上も前に小笠原に行ったことがある。
あそこには南島という信じられないくらい美しい島があって、アーチ型にくりぬかれた岩の洞門があり、そのすぐ下に小さな砂浜があった。
その波打ちぎわに30センチぐらいのニザダイの仲間が集まっていて、波が寄せてくると(なにしろ縦に平べったい魚なので) こちら側にバタンと倒れ、波が引くと今度はあちら側にバタン。
その気になれば手づかみで獲れちゃうんじゃないかと思ったくらいだ。
南島を歩いていると足もとに穴があいていて、手をつっこむとミズナギドリの仲間にちょくせつさわることができたし、サメ池という入江ではサメといっしょに泳いだこともある。
またマグロ根とよばれる岩礁では、ダイビングをして、ほんの6、7メートル先を巨大なイソマグロが回遊していくのを見たこともある。
いまでもそのころの状態が残っているかどうか知らないけど、小笠原の豊富な自然はまさに驚異的だった。
わたしは外部の人間だから、飛行場なんかいらんと強く主張はしない。
飛行場を誘致したいという島民の考えは、それさえあればもっと便利になる。 便利になれば、たとえばホテルをたくさん建てて観光客もどっさり増えるし、島民の雇用も増える、仕事がないからといって内地へ出稼ぎにいく必要もなくなるし、豊富な漁の獲物を築地に直行させることだってできる。
島はもっともっと豊かになれるということだろう。
そういう気持ちはよくわかるんですけどねえ。
エラそうな言い方になっちゃうけど、豊かさというのはいったいなんなのか。
わたしは小笠原と同じころ沖縄にも行ったことがあるけれど、いまの沖縄にはすでにそのころの面影はない。
いま、沖縄の海が美しいという人はむかしの沖縄を知らないのである。
沖縄のサンゴ礁が衰退している原因はあれこれいわれているけど、わたしはぜったいに人間が増えすぎたからと断言してしまう。
その轍を踏まないでほしいのである。
美しい海とおびただしい野生の動物たちにかこまれて生活していることは、最高の豊かさなんだと考えてほしいのである。
写真は小笠原・境浦の沈船・濱江丸。
25年以上も前の写真なので、現在はもっと崩壊がすすんでいるはずだけど、グーグルの航空写真を見てみたら、まだ海底に船のシルエットだけは残っていた。
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2011年7月 6日 (水)
ウイスキーを炭酸水で割ってハイボールを作る。
どうせ薄めてしまうんだから高いウイスキーを使うのはモッタイナイというので、安いウイスキーである。
具体的にいうと某メーカーの 「富士山麓」 という酒だ。
自分で作るんだから遠慮はしない。
ウイスキーと炭酸水の割合は1対1である。
これを昼間から飲んでいささか酩酊状態。
不謹慎なっていう人がいるかもしれないけど、現代の日本人は、昼間仕事をして夜になると寝てしまう人ばかりじゃないのだ。
通常とはまるっきり正反対の生活をしている人もいるのである。
なんでこんなことを書いたかというと、今日は新聞にもおもしろいネタがないし、暑くてブログなんか書こうって気になれないのだ。
ハイボールを飲みすぎて、今日はブログお休みですってのはいいアイディアである。
これからも時々使おうっと。
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2011年7月 5日 (火)
夕刊で池澤夏樹って作家サンが、菅クンは 「ぎりぎりまで居座ればいい」 と書いている。
これだけ紹介したのでは、また誤解する人がいるだろうから、作家に対して気のドクだ。
この作家は朝日新聞ご用達の大江健三郎サンみたくなりつつあるようで、わたしはあまり好きじゃないけど、この文章の趣旨はわたしの考えに似ている点もある。
かんぐれば、この政局の混乱というのは、ようするに電力政策の転換に対する、産業界、官僚、自民党による抵抗じゃないのかという意見は、わたしもそう思っているのである。
メディアも創意工夫のかぎりをつくして首相の悪口をいうけど、そんなことはどうだっていいじゃないかと池澤サンはいう。
わたしもそう思っている。
政治家の好き嫌いなんかいいだしたらキリがない。
政治家なんてどうせロクなもんじゃないと決めつけて、とにかく仕事をやらせることである。
現在は仕事すら満足にできない状態じゃないか。
ざっくばらんな言い方も、わたしはけっしてキライじゃないけど、政治家ってのはべつに偉くないんだからねと書こうとしたら、夕刊を読むころにはもう仕事を放り出していた。 復興相の松本クン。
なかなか仕事まで行かないよなあ。
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2011年7月 4日 (月)

ようやく新しいパソコンでブログ用の画像を処理できるようになり、待機中だっためずらしい写真をアップできるようになった。
あまり気持ちのいい写真じゃないかもしれないけど。
先日、散歩をしていたら、ネコが川岸のコンクリートの間をうかがっていた。
なにかいるのかなと近づいてみたら、一匹のヤマカガシが頭かくして尻かくさずの状態。
わが家の近所で見かけるのはほとんどシマヘビで、ヤマカガシはめずらしい。
体表に赤い斑点をちらしたなかなかきれいなヘビである。
このままほうっておいたらネコとヘビの死闘が始まるかと思ったけど、わたしの視線を気かにしたのか、そのうちネコはどこかへ行ってしまった。
残念。コブラ対マングースなみの迫力のあるドキュメンタリーが撮れるかもしれなかったのに。

ヤマカガシはじっとしていて動かない。
いくらか短気の気のあるわたしは、相手が行動を起こしてくれないとつまらないというので、尻尾をひっぱってみた。
ヘビというのは大変である。
なにしろ頭と尻尾がだいぶ離れているうえに、体がくねくねと曲がっているから、せまいところに入りこんでいるときなど、誰かがうしろのほうでちょっかいを出しているなと思っても、ふりむいてすぐに尻尾のあたりを確認するわけにいかない。
ようやくわたしを確認したやっこさん、そろりそろりと尻尾をひっこめて、不安そうな顔でこちらを見る。
なにしろ、ネコやヘビ以上に残忍なのが人間という動物である。
中国なんかではヘビはザルに入れられてひと山いくらで売られているくらいだ。
しかしわたしはヘビを食べるほど残忍なほうではないから、ちょっかいはほどほどでやめておいた。
やめてよかった。
あとでネットで確認したらヤマカガシは毒ヘビだという。
こいつの毒は血液の凝固をさまたげるというから、最近流行りの、血液をさらさらにするっていうサプリメントに使えるんじゃないか。
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2011年7月 2日 (土)
注文してあるパソコンがいつになっても届かないので、今日はヒマつぶしに録画してあった映画を観た。
ここんところNHKのBSは、世界の辺境みたいなところの映画特集で、具体的にいうと前々項でとりあげた 「幸福の赤いバス」 はレバノンの映画、「運動靴と赤い金魚」 はイラン、「天空の草原のナンサ」 はモンゴル、「チベットの女イシの生涯」 はチベット、「胡同 (フートン) のひまわり」は中国の北京が舞台である。
厳密にいうと、この中にいまでも辺境といえるような国はひとつもないけど、日本人からみるとなんとなく辺境みたいな国ばかりだ。
「胡同のひまわり」 には毛沢東や紅衛兵が盛んだった、まだ改革開放以前の中国も出てくるので、これもまだ発展以前の国の映画といっていいんじゃないか。
わたしは世界の現状についておおいに関心があるほうだから、こういう映画を観ていると、内容もさることながら、背景の風景、建物の様式、人々の服装だとか、走っている車のメーカーなんかに目がいってしまう。
どの映画も最近のアメリカ映画みたいなせせこましいものではないので、ゆったりと観ていられる点は同じ。
中には感心できない映画もあったけど、そんな映画でさえ、観るべきところは多い。
イランの小学校じゃ小さい女の子もみんな肌をみせない制服だとか、お、レバノンにもトヨタのヴィッツが走ってらあ。 へえ、モンゴルにもヤク (毛牛) がいるんだねえ。 おっ、チベットの病院にも点滴があるじゃないかなんて、物語に関係ない部分がやたらにおもしろい。
チベットの映画なんか、これは過去と現代が交互にあらわれる映画なので、とうとうパソコンまで出てきてしまった。
じつはわたしは中国の青海省などを旅したことがあって、田舎の小さな町にもネット・カフェがあることぐらい知っているし、どっちかというと世界各地の事情にはくわしいほうだと思っているんだけど、それでもチベットにパソコンというといささかの感慨アリ。
みんなグローバル化されてんだねえと、こうした映画によって世界の現状を知るのは楽しいことである。
ところで待てど暮らせどわたしのパソコンは届かない。
待ちくたびれて夕方ひと眠りしたら、どうやらそのあいだに宅配が来たようで、ドアに不在連絡票がはさんであった。
ドアのチャイムぐらい鳴らせよ、おい。
そういうわけで今日はとうとうパソコンをセットすることもできません。
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2011年7月 1日 (金)
昨夜、テレビをつけたら、ヒゲをつけると夏目漱石そっくりの俳優が漱石を演じている番組が目にとまった。
とちゅうから観てとちゅうで切ったのでよくわからないけど、黒いネコがうろうろしていたから、「吾輩は猫である」 がテーマの番組であることだけはすぐにわかった。
この中でノイローゼぎみの漱石に、高浜虚子が小説でも書いたら気晴らしになるかもしれませんよと勧める場面があった。
これは有名なエピソードで、「猫」 という小説ははそもそも気晴らしに書かれたものであり、それが漱石の名を高め、やがて彼が小説家に転向するきっかけになったことはよく知られている。
考えてみると、わたしのブログも同じようなところがある。
わたしにとってはブログを書くということが絶好の気晴らしになっていて、これがために深酒におぼれることもなく、鬱がますます進行することもなく、とつぜん街の中で奇声を発して裸で走りまわったりすることもないですんでいるんじゃないかと思う。
ブログを開始したのは07年の6月だから、分量にしたってそろそろ 「吾輩は猫」 に迫るんじゃなかろうか。
ヘタクソな文章であることは百も承知だけど、いいたいことをブチまけていると、ぐーんと溜飲が下がる気持ちがする。
ただ、わたしは朝日新聞をけなすことに生きがいを感じている男なので、漱石みたいに朝日新聞からお呼びがかかるってことは絶対になさそうだ、うん。
そこまで慢心しちゃおりませんですよ。
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