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2011年9月

2011年9月30日 (金)

またウッドストック

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「ウッドストック」 が2回に分けて放映されたので、このブログでもつまらない話題の2回目。

この映画には公開当時に入ってなかった映像が、あとからいくつか挿入されている。
キャンドヒートやジャニス・ジョブリン、ジェファーソン・エアプレインの演奏なんて、あとでDVDを買ってはじめて目にした。
ジェファーソン・エアプレインはここで 「アンクル・サム・ブルース」 という曲を演奏してるけど、べつになんてことのない元気のない演奏でちょっと物足りない。
しかし彼らはこの曲を、すこしあとの 「フィルモア・ラストコンサート」 という映画でも演奏しており、このときの演奏はエアプレインから派生した別バンドによる演奏だったので、女傑グレイス・スリックがいないのがまた物足りないけど、そちらの映画ではパパ・ジョン・クリーチという黒人フィドル奏者が加わっていて、すくなくともわたしには 「ラストコンサート」 の中でこの曲がいちばんイカして聴こえた。

いまでもそうなのか知らないけど、わたしが買った版ではDVDに歌詞を翻訳した字幕がついていない。
今回のNHK版ではすべての曲にちゃんと字幕がついていた。
そういうわけで、たとえば映画のラストシーンで流れるCSN&Yの 「ウッドストック」 という曲の意味もわかった。
この曲はウッドストック音楽祭が終ったあとで、この音楽祭をたたえるために急きょ作られたものだけど、たかがロック・バンドの作詩というなかれ、“ぼくらは星くず、いまが黄金期” というフレーズが繰り返されて、あちらには詩人が多いんだなってついつい思っちゃう。

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2011年9月29日 (木)

ウッドストック

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「ウッドストック」 がテレビで放映されて、いまそれを観ながらこれを書いている。
この映画は1969年にニューヨークで開かれた、3日間におよぶロック・コンサートのもようを捉えたドキュメンタリーだけど、音楽だけではなく、いろんな意味で当時の風俗、カルチャーを象徴している映画だ。
いま20代、30代の若者がこの時代のことを知りたかったら、この映画を、この映画だけを観ればいいとわたしは断言してしまう。
しかし、いまとなっては語りつくされたような音楽祭なので、ここでまたわたしがそのいちいちについて解説したって仕方がない。
で、つまらない話題をひとつ。

はじめて観たとき、わたしがいちばん迫力を感じたのはサンタナの演奏で、感心したのはその演奏だけじゃなかった。
映像を観たかぎりでは、手持ちカメラで、広角レンズを使って近距離から撮影しているようなので、画面が切り替わったときカメラマンの姿が映るんじゃないかと興味深々で観た。
どうやって撮影しているのか興味があったんだけど、ところがカメラはぜんぜん映らない。
こうした映画ではできるだけカメラは写さないというのが鉄則なんだろうけど、映像に興味のあるわたしはつまらないことに感心していた。

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2011年9月28日 (水)

長期的戦略

ロシアではプーチンが次期大統領、メドベージェフが首相だそうだ。
これは既成の方針だったんだろうけど、わたしはプーチンが好きだからべつにどうこういう気はない。
ただ、日本ではさっそく北方4島問題が進展するんじゃないかという期待が高まっているとか。
そりゃ無理じゃないか。
一括返還にこだわるかぎり、日本の首相の首が飛ぶか、ロシアの指導者の首が飛ぶかって問題だからねえ。
そんなことより、ある程度妥協して、ロシアと手を組むことのほうが、長期的な政治戦略としては重要じゃないかと、わたしは思っているんだけど。
つまりひとり勝ちみたいな状態で、かってのアメリカみたいに強引な姿勢が目立つ中国に対抗するための、周辺国の包囲網みたいなものが。
あ、わたしもだんだん櫻井よしこさんみたくなってきた。

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2011年9月27日 (火)

1枚の写真

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ネットの中の、たとえばナショナル・ジオグラフィックやニューヨークタイムズのサイトに、ためいきの出るようなすばらしい写真がたくさん掲載されている。
わたしはいい写真を見るのが好きなので、そんな写真を求めてよくネットを徘徊しているけど、ここに載せた写真はたまたま琴線にふれた 1枚。
いまとなっては、どこの誰のホームページから発見したのかぜんぜんわからなくなってしまった写真である。

モノクロだけど、青春のさわやかさや寂しさみたいなものがしみじみと感じられる写真じゃないか。
水平線が傾いているけど、青春というのはたしかに不安定で頼りないものなんだよね。

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ぜんぜん

もういちどイスタンブールに行きたいと、今度はイスラムの勉強も始めた。
ロシア語? 
あれはむずかしいからねえ。
ま、ゆるゆるとやっていくつもりです。

こういうふうにいろんなものに手を出して、ぜんぜんモノにならないのがわたしの欠点。
でもいいんだ。
ロシア語なんて地名や人名が読めればOK。
イスラムもべつに、おおざっぱなところがわかればいいんだし。
と思ったけど、本を読んだらむずかしくって。
武蔵境の駅まえに新しい図書館がオープンしたんで、つぎの土日はあそこにひきこもって勉強しようと思ってます。

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2011年9月26日 (月)

ロシア語

なんとかロシアに行こうと、今度はロシア語の勉強を始めた。
ものすごいドロ縄、あるいは付け焼刃って感じだけど、熱意はあらゆる障害を克服するものである。
やらないよりやるほうがマシじゃないか。

たまたまロシアからもどってきたばかりの知り合いから、洋酒のボトルを1本もらった。
度数は強いけどウオツカではない。 どっちかというとウイスキーみたいな味がする。
なんという酒だろうと悩んだけど、ヒントはラベルに書かれた文字しかない。
ラベルにはいろんな文字が書かれているけど、すべてロシア語なので、どれが酒の名前なのかわからない。
で、かたっぱしから訳してみた。
というと、そんなにロシア語に詳しいのかといわれてしまいそうだけど、じつはロシア語なんてぜんぜんわからないのである。

ラベルに書かれた文字の中に、КОНЬЯКという単語があった。
ロシア語に詳しい人なら、これだけでナーンダというところ。
ひと文字づつ発音をあてていくと、これはコニャーク、つまりコニャックとなる。
いや、苦しい、苦しい。

ロシア語の字引を持っているわけじゃないから、現時点ではいくら勉強したって単語の意味までわかるわけじゃないけど、せめて地名ぐらいは読めるようになりたいものだ。
Москва́
Санкт-Петербург なんてね。

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2011年9月24日 (土)

食は広州に

前項でわたしは潜在的グルメじゃないかと書いた。
それが実践派ではなく、書物を通じてであるのが残念だけど、グルメの話題をもうひとつ。
古本屋で見つけた邱永漢さんの「食は広州に在り」という文庫本がある。
買ったときの値段はせいぜい200円ぐらいだったのに、わたしには数万円の価値がある本だ。
なんで数万円かというと、数万円を払ってトルコやマルタ島に行くのと同じくらいの楽しみをもたらしてくれる本だからである。
グルメでもないくせに料理について書かれた本がおもしろいというのは、釣りはやらないけど開高健の釣り紀行がおもしろいというのと同じことなのである。

この本の最初のほうに、永漢さんの父親の思い出が出てくる。
永漢さんの父親は台湾でも有名な食道楽の人だったそうで、1年中カラスミ(烏魚子=ボラの卵)を切らしたことがなかったそうだ。
この父君のカラスミの食べ方はなかなか凝っていて、まずその薄皮をはぎ、カンカンにおこした炭火の上で、表面は香ばしいくらいに、中は熱くなった程度に焼いて、生ニンニクの薄切りとつけ合わせて食べるのが最高なんて書いてある。
こんな文章を読んでよだれをたらさない人がいるだろうか。

べつのページには冬瓜(トウガン)料理が出てくるけど、冬瓜の頭を切って種を取り出し、中に具や調味料を詰め込んで、あとは時間をかけて気長に蒸すとある。
これを読んでから、散歩のとちゅうに大きく実った冬瓜を発見するたび、ひとつわたしも自宅でこいつを作ってみようかなんて気になってしまった。
なっただけで実践しないのがだらしないけど、ちなみにこの料理は「燉冬瓜盅」というそうである(文字化けしなけりゃいいが)。

この本の中にはほかにもさまざまな料理(もちろん中華料理)が出てくる。
台湾と大陸中国を厳密に分けなければ、邱永漢さんもいわゆる中国人だから、出てくる料理は、蝦子麵、姜葱炒麺、鹹魚、豆油肉、冬瓜荷葉粥、蛋花湯、醤瓜肉餅、杏林春満、大良野鶏巻、東坡菜、醸豆腐などなど、中味のよくわからない漢字だらけの料理ばかりだ。
こうした料理の説明だけではなく、その故事来歴から中国人の精神まで語り、そして読者に食い気をもたらしてしまうのだから、「食は広州に在り」は名著である。
そうした料理を目で、つまり読むだけで、しかもレストランではなく書斎で味わってしまうのだから、わたしも変則的なグルメであることはまちがいないのである。
じっさいに食べなけりゃ意味がないという人もいるかもしれない。
しかしわたし自身は、魚にしても野菜にしても、たいていのものはナマで食べるのが最高と信じているので、やたらに手をかける中華料理は、やっぱり舌で味わうより読んで味わうほうが無難のような気がする。

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2011年9月23日 (金)

釣りとグルメ

わたしは釣りをやらないし、食通 (グルメ) でもない。
そんなわたしと対極にいるのが作家の開高健サンで、彼は本を書くほどの釣りのベテランだし、食べ物についても上品下品なんでも食べるホンモノの食通である。
そんな作家とわたしを結びつけるのはやはり読書だ。
わたしはこの人の 「オーパ!」 や 「もっと遠く」 などの釣り紀行を全部読破したほどの、開高作品愛読者なのである。

この釣り紀行は世界の辺境をめぐる旅の話であり、さまざまな動植物が登場する博物誌でもある。
そういう点では釣りもダメ、食べ物もダメだけど、旅が大好きで自称ナチュラリストというわたしの嗜好と一致するのである。
「オーパ!」 の中に、「一生幸せになりたかったら釣りをおぼえなさい」 という言葉が出てくる。
わたしは釣りの代わりに人一倍の好奇心というやつを持つことで、まあまあ文句のない人生を送っているのだ。
こういう人ってけっこう多いんじゃないか。
書斎にこもりながらも、体中の全触覚がつねに外界のあらゆる方向に向いているって人が。

昨夜のNHK-BSで、開高作品のうち、上記の釣り紀行をなぞるという番組が放映された。
作家本人はとっくに亡くなっているけど、本に描かれたベーリング海の釣りのようすや、獲物を料理する場面をぜひ映像で観たかったので、さっそく録画。
獲物というのはオヒョウ、現地ではハリバット、小説の中ではビースト (野獣) という表現さえされている巨大なカレイである。
なんだ、カレイかというなかれ、こいつの最大のものは3メートルにもなって、ダブルベット・サイズなんていわれ、暴れるとすこぶる危険、散弾銃でとどめをさしてから引き上げたこともあるというから、やっぱり野獣である。

残念ながら番組の中に釣りのシーンはなかった。
作家が亡くなっているのだからこれは仕方ないけど、そのかわり作家のオヒョウ釣りに同行した調理師が登場して、当時と同じオヒョウの料理 (姿造り!) を再現してみせる。
これはつまり、巨大なカレイの刺身で、観ていてよだれが出てきた。
ひょっとするとわたしも潜在的なグルメなのかもしれない。
たとえばフランス文学やフランス文化にまったく無知なくせに、ワインと料理とブランド商品だけは詳しいなんてミーハーよりは。
わたしに世界中のあらゆる料理を食べる機会を与えてくれさえすれば、わたしもきっと埋もれた才能を発揮できるのにと残念に思ってしまう。
ダメかしら。

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2011年9月22日 (木)

噴火

ちょっと前にNHKテレビで桜島のドキュメントを放映していた。
桜島は元気のいい活火山で、文明(1468)、安永(1779)、大正(1914)と、近年にかぎっても3回も大きな噴火をくりかえしている。
噴火で地震や津波などの大きな被害が出たということもはっきり記録されているのである。
ちょっとデータ不足かもしれないけど、この3回について考察してみると、噴火の周期はほぼ300年から150年だ。
そして大正の噴火からすでに100年ほどが経過した。
最近いくらか不穏な傾向もみられるとか。
この時期に桜島となると、NHKの意図もなんとなくわかってくる。

わたしは桜島をすぐ近くで見たことがある。
例によって自衛隊にいたころだけど、艦(ふね)が錦江湾に停泊したことがあって、わたしは備え付けの双眼鏡で夜どおし桜島の噴火をながめていた。
まっ赤に焼けた大きな岩が宙に舞い上げられ、斜面をごろごろと転がるようすはなかなか美しかった。
美しいけどほめてばかりいるわけにはいかない。

大震災もかならず起きるといわれ、じっさいに起きてしまったけど、東北の震災のような想定外の規模になると、時間的にも間隔は長いし、場所も不特定の要素が大きい。
しかし桜島の噴火は場所も特定されているし、時間的にも震災ほど間があるとは思えない。
にもかかわらず、あいかわらず人間はその周辺に住んでいるのである。
営々と築き上げてきた田や畑、住居、人々の生活が、ある日とつぜんめちゃくちゃになることが100パーセントの確率で予期されるのにである。
そうかといってそこに住むなともいえない。
起きてしまってからでは、また総理の責任だとか、復興だ、財源がなんて騒ぎになるのも目に見えているのだ。
こういうところでは、やっぱり日ごろの貯蓄が大切だと思う。
噴火基金かなんか創設して、ふだんから復興財源を積み立てておいたほうがいいと思うんだけど、行政はちゃんとやってるんだろうか。
そういえば富士山の噴火も近いとか。
日本は火山列島だからな。
火山の数だけ復興基金なんて興していたら、貯金だけで首がまわらなくなっちまうか。
やっぱり噴火してから騒ぐしかないみたい。

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2011年9月21日 (水)

大相撲の2

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翌日に出直してまた国技館へ。
今度は前売りを買ってあるからすんなり入れた。
せっかくだから国技館の中を見物しようと、まず館内をうろうろ。
相撲博物館なんてものがあったけど、そんなものを見始めたら高見盛の取り組みを見逃しそうなので、みやげものショップや相撲茶屋がずらりと並んでいる一画などを観て歩く。
相撲茶屋というのは、観客をマス席まで案内したり、飲食物を席まで届けたりするのが商売だそうで、高砂屋だとか三河屋だとか四ツ万だとか、いかにも伝統のありそうな屋号がついている。
2階席のわたしは茶屋に縁はないし、うっかり利用すると、しきたりだのご祝儀だのメンドくさいことがたくさんあるそうなので、写真を撮るだけにしておいた。

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館内の見物を終えて2階席に行ってみた。
飲食もOKだそうなので、缶ビールとピーナツを持ち込む。 マス席で幕の内弁当を食べたかったけど、イス席では弁当を食べるほどのスペースはない。
わたしの席は2階の最前列だったので、ながめはよかった。 国技館の内部が一望である。
さすがにでっかい。
でっかいのはいいけど、大きなパノラマ画面を見ているようで、しかもお相撲さんが取ったり転がしたりと、動きがあるのはその中心の小さな部分だけなので、すぐに飽きた。

で、持参した双眼鏡でつまらないことを観察する。
テレビを観ていると、本番まえに力士がタオルでぐいっと顔をぬぐうけど、あのタオルはいちいち交換してるのか、だとすればどうやって補充してるのか、ちから水をつけてもらった力士がガラガラペッと水を吐き出すけど、どこへ吐き出しているのか、バケツでも用意してあるのかなんてこと。
じっと見ていると、いちど使ったタオルはそれを使った力士が持って帰るようである。 つぎのタオルはちから水の桶のふたの上に並べてあった。
口に含んだちから水は土俵のわきに丸い菅が埋め込まれていて、そこに吐き出すようになっていた。

この日は中入り前の審判席に、もと横綱の貴乃花が座っていた。背すじをぴんとのばし、座禅を組んでいるように微動だにしない。
えらいもんだと感心していたら、そんな貴乃花のところへ、土俵上から相撲取りが吹っ飛ばされてきたことがあった。
相撲取りも大変だけど、審判も大変である。

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相撲にそれほど興味があるわけではないわたしにとって、この日の取り組みで関心があったのは、まずタレント力士高見盛の一番。
しかし彼は、登場するときは元気がいいけど、あっけなく負けて引っ込んでしまった。
つぎに関心があったのは、ソップ型力士の隆の山とアンコ型力士臥牙丸の対戦。 なにしろ体重差100キロの勝負だから、隆の山が勝つとおもしろかったのに、こちらも順当に負けてしまった。

2階席には外人の客もちらほらしている。
欧米人は格闘技に体重差があるのはケシカランといって、すぐにクラス分けをしたがる人種だから、隆の山と臥牙丸の対戦なんてどう思っていたのかしら。
わたしの背後に大声で応援しているおじさんがいて、取組表を見ながら、つぎはタマヒドリかなんていっているのが聞こえた。
タマヒドリじゃなくてタマアスカ (玉飛鳥) でしょうと教えてやりたかったけど黙っていた。

中入り後になると、土俵下でつぎの出番を待つ幕内力士は、みんな敷布団みたいに大きな座布団に腰をおろしている。
この布団はそれぞれの力士に専用のものがあるらしく、取り組みの合い間に付け人がえっさえっさと運んでいた。

そのうち場内が大歓声になった。
全勝の稀勢の里と巨漢把瑠都の対戦で、この日いちばんの大取り組みである。
懸賞がたくさんつくかと思ったら、そうでもなくて、懸賞がいちばんついたのは横綱白鵬の取り組みだった。
白鵬のほうは横綱が強すぎてあまりおもしろくない一戦だったから、やはり稀勢の里のほうにたくさんつけるべきじゃないのかとすこし不満。
そんな稀勢の里も負けてしまい、大きな番狂わせもなく、角界一のハンサム力士琴欧州もこの3日まえから休場だし、ちょっぴり不満を残したままわたしの大相撲観戦はおしまい。

※写真は上から、わたしの席からのながめ。 行司さん。マス席。 幕内力士の土俵入り。 ソップ型。

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2011年9月20日 (火)

大相撲の1

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いま大相撲の9月場所が開催中。
かわいそうに、不景気や日本人横綱大関の不在で国技館はがらがらだそうだ。
わたしは誰が勝ったの負けたのなんてことにはあまり興味がないけど、大相撲というものをいちど観てみたいと思っていた。
こういうミーハーには今場所なんか最適かもしれない。 がらがらなら行き当たりばったりでも入れるんじゃないか。
というわけでこの連休は、生まれて初めて大相撲観戦である。

相撲にたいして興味はないけど、子供のころ雷電なんていう講談本を読んでおもしろがったり、栃錦×若乃花の熱戦をテレビで観たことをかすかにおぼえているから、ま、わたしも平均的日本人というか。
もちろん国技館に入ったことも、生の相撲を観たこともいちどもない。
むかし歌舞伎を観に行ったことがあって、行くまえは歌舞伎なんてものに興味はなかったのに、行ってみたら、江戸の名残りというか、歌舞伎座の独特の雰囲気に感心したことがある。
そういう人間だから、大相撲からもきっと変わった体験ができそうな気がした。

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出かけたのは 18日の日曜日。
国技館は両国駅まえから徒歩 1、2分だけど、あにはからんや、入口に行列ができていた。
行列はふたつあって、ひとつは当日券を求める人の列、もうひとつは・・・・・ これなんだろう。
どうやら国技館に出入りする関取衆を見よう、写真に撮ろうという人の列らしかった。
本番まえの相撲取りは、ハイヤーかなんかで地下駐車場にすべりこむんじゃないかと想像していたわたしには意外だったけど、これはこれで楽しそうである。
しばらくながめていたら、タクシーに相乗りしてやってくる相撲取りや、もう取組が終ったのか電車で帰る相撲取りもいて、下っ端は大変なんだなあと思う。
そのうち見たような関取が出てきた。
お、高見盛だよと、いっしょに行った知り合いに耳打ちする。
ほかにも名前はわからないけど、どこかで見たような関取が出たり入ったりして、本場所中の国技館周辺はなかなかおもしろいところだ。

パンフレットをながめると、国技館には 1階席と2階席があり、1階はすべてマス席、2階はイス席になっていた。
マス席には3つのランクがあって、土俵近くの最高級席は 11,300円だ。
わたしの親戚にはこの席に座って、テレビにも映ったと自慢していた人間がいたけど、ひとりならともかく2人で行った場合、貧乏人の当方としてはこんな席に座れるもんじゃない。
2階のイス席もランクは3つで、こちらは8,200円から3,600円まである。
値段が高いことはよくわかったけど、相撲協会は末端のふんどしかつぎまで含めればそうとうの人数を養っているはずだから、文句をいうわけにもいかない。

がまんできないのは当日券の行列で、列は遅々として進まない。 これでは3時から入場するつもりで来たのに、隆の山の取組なんか終わってしまうではないか。
知り合いと相談して、どうせ連休中なのだから、前売り券を買っておいて翌日に出直そうということにした。
あとでわかったけど、この日は今場所で2回目の満員御礼だったそうだから、この作戦は正解だったようだ。

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2011年9月16日 (金)

卓見

週刊新潮に 「菅見妄語 (かんけんもうご)」 というエッセイが連載されている。
これがなかなかおもしろい。
おもしろいというのはわたしの場合、反権力的で皮肉がいっぱいということになるんだけど、今週のそれにこんなことが書いてあった。
『欧米人は帝国主義時代より、有色人種を汗水たらして働かせ、自分たちはその上前をはねることで楽して豊かに暮らす、という狡猾な生き方を実践してきた』
『アフリカ人やアラブ人には鉱物資源や化石資源を採掘させ、南米人には農産物を生育させ、アジア人には工業製品を製造させ、自らは投資や金融を通してその上前を・・・・・・』
そんなやり方はとっくに破たんしているのに、と文章は続く。
卓見である。
いささか極論みたいな部分もあるけど卓見である。
わが意を得たりという感じがする。
わたしは欧米、とくに帝国主義アメリカのやり方にふつふつとたぎる怒りを抑えられないでいる人間だから、もしアメリカに生まれていたら、まちがいなくイスラムに感化されて人間爆弾にでもなっていたところだ。
どういうわけか日本に生まれちゃったおかげで、ヤッターマンなんか観て喜んでいるような、ノーテンキでだらしない人生を送るばかりである。
もうホント、幸せなんだか不幸なんだか。
北朝鮮の金政権が崩壊するのと、アメリカがギリシアなみに財政破たんするのと、どっちが早いかというのが目下のわたしの関心事。

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2011年9月14日 (水)

ヤッターマン

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日本映画専門チャンネルという放送局がある。
よくわからない。
放送局といってもちゃんと建物があって、いろいろ仕事をしているところなのかどうか。
そのチャンネルの番組を録画してみたらぜんぜんコマーシャルがない。
このチャンネルはケーブルテレビに加入しているとタダで観られるのである。 どうやって金を儲けて経営を成り立たせているのか。

タダなんだからそのへんはあまり詮索しないことにして、録画したのは日本映画の 「ヤッターマン」。
大人が観るような映画じゃないけど、出演している深田恭子がとっても魅力的で、その衣装がきわめて刺激的なので、以前からテレビで放映しないかなとねらっていたもの。
たまたまこれが日本映画専門チャンネルで放映されることがわかった。
で、観ようとしたら映らない。
日本映画専門チャンネルだけじゃなく、CNNも映らない。
ケーブルテレビに文句をいったら、◯◯が□□になってましたということで、すぐに映るようになった。
最近ケーブルテレビへの関心を失っていたこっちがわるいけど、だいぶしばらく、映らないのにお金を払っていたことになる。
損した。

さて映画 「ヤッターマン」 だけど、コンピューター・グラフィックてんこ盛りで、巨大なロボットや背景のセットなど、えらくお金がかかっているように見えなくもない。
ストーリーなんかまるっきり、何がなんだかわからなかったけど、スラップスティック喜劇として観られなくもないかなと好意的な判断をするのは、バットマンみたいな恰好の深田恭子のおかげ。
悪役の彼女が悪役らしからぬカワイイ声で叫ぶのがおもしろくて、深田恭子を観ているだけで退屈しなかった。
たまにはこういうノーテンキな映画もいいもんだ。

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2011年9月13日 (火)

霧社事件

あいかわらず新聞に、政治家ってのは日本のことをまじめに考えているのかいといいたくなる記事が目立つけど、今日の朝刊のかたすみに台湾の霧社事件が映画化されたという記事。
わたしが解説しなくても、霧社事件についてはウィキペディアにも載っているし、わたしが愛読する司馬遼太郎の 「街道をゆく」 にも詳しい記述がある。
これは、わりあい親日的と思われていた占領下の台湾で、台湾の原住民が日本に対して蜂起・反乱を起こした事件なんだけど、ウィキペディアの記述と 「街道をゆく」 を併読すると、ちょっと混乱する部分がある。
「街道を」 のほうは原住民に同情的な文章がめだつけど、ウィキペディアのほうはもうすこしジャーナリスティック。
いまとなっては何が真実で何がウソなのかよくわからない。
日本は台湾統治に誠実にあたったほうだと思うけど、もちろん日本の役人の中にはケチな人格の人間もいただろうし、原住民のほうはアメリカ・インディアンのように、ほんのちょっとしたことにも敏感に反応する誇り高い人種だったようだ。
事件の原因はそういう人間同士がたまたまぶつかって引き起こされたような気がしてしまう。

こんな事件が映画化されるってことは、また反日運動のひとつかなと思ったけど、中国との関係が微妙な台湾政府は、日本との関係を荒立てる気はないらしく、これは歴史を参考に、台湾人がみずからを顧みようとしている映画だといっているらしい。
こちらとしてもそうあってほしいやね。

このことを調べていたら、「サヨンの鐘」 というエピソードにぶち当たり、戦争中にこれが渡邊はま子によって歌われた歌謡曲になっていることがわかった。
そんなことは初耳だったけど、YouTube をのぞいたら、ちゃんとこの歌まで聴けることがわかった。
http://www.youtube.com/watch?v=G54YpWBhp3I
たぶんSP盤レコードからの音源なんだろうなあ。
日本では発売されなかったレコードだってことで、いやもう、YouTube おそるべし。

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ザリガニ

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魑魅魍魎をもうひとつ。
なんか水から顔を出したエイリアンみたいだけど、じつはこれ、泥水の中から顔を出したザリガニです。
田んぼの中には、大きさが人間ぐらいあったらそうとうにコワイという小動物がたくさんいます。
トンボの幼虫のヤゴなんか、餌をとらえるとき口が前方にガバーっと飛び出してきて、ほんとエイリアンなみ。
あんなのと同じレベルの生きものでなくて、よかった、よかったと心底思ってしまいます。

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2011年9月12日 (月)

ヤモリ

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わが家に棲息している魑魅魍魎のひとつ。
ずっと前から紹介しようと思っていたんだけど、なかなか写真に撮るチャンスがなかった。
昨日の日曜日、ベランダにいたのを発見。
こういうのがキライという人もいるでしょうけど、目がくりっとしてじつに愛らしい動物です。

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2011年9月11日 (日)

どんぐり

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森の中を、彼女にふられて失意中の若者みたいにうつむいて歩いていると、落ち葉のあいだにドングリが落ちているのを見つける。
失意の若者であるから、ついドングリの運命について考えてしまう。

ドングリの親であるブナ科の木はおびただしいドングリを地表にばらまくけど、このうちのいったいどれだけが無事に発芽できるだろうか。
発芽したとして、そのうちのいくつがちゃんとした樹木にまで成長できるだろうか。
タラなんて魚は数百万個の卵を産むそうだけど、そのうちのいくつが親にまで成長できるだろう。
華僑という人たちがいる。
住みにくい中国をはなれて海外に活路を求めた人たちで、中には成功して故郷に錦をかざった者も少なくない。
しかし、一将功なって万骨枯るのことわざ通り、ひとりの成功者のかげでいったいどれだけ多くの中国人が異郷に朽ち果てただろう。

失意中の若者はロクなことを考えない。
ますます悲観論者になって、するとますます女の子に相手にされず、ますます落ち込むのである。
若いころのわたしみたい。

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その後の話

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このブログの本年6月6日の記事で、大震災のさいに有名になった1枚の写真についてふれたことがある。
がれきの中で道路にへたりこんで泣きじゃくる女の子をとらえたものである。
おそらく一瞬のうちに家や家族を失って、途方にくれているんだろうと思ったけど、この写真の後日談が今日の朝日新聞の夕刊に載っていた。
泣きじゃくる女の子については、わたしの想像ほどひどい状況じゃなかったようだ。
彼女が失ったものは、家と飼い犬で、家族はみんな無事だったらしい。
彼女は現在元気で働いており、将来は動物の世話をする仕事につきたいと考えているそうだ。
ほのぼのとする話ではないか。

前々項で朝日新聞はケシカランと書いたけばかりだけど、わたしが新聞の夕刊までとっているのは、こういう朝刊からもれた記事が読みたいからなんだよ。
まあ、せいぜい頑張りなさいな、朝日サン。

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2011年9月10日 (土)

おふざけ

なんとかいう大臣さんが、今度は新聞記者に 「放射能をつけちゃうぞ」 とふざけたらしい。
はじめて大臣になって舞い上がっちゃったのか、もともとノーテンキで楽しい人だったのか。
新聞はたちまち問題視だ。
新聞がちょいと火をつけると、なにしろ常識がハバをきかせ、政治家に謹厳実直な姿勢ばかりを要求する国だから、たちまち世論が沸騰してしまう。
そんな大騒ぎするようなことかいと思う。
おふざけの好きなわたしには、政治家は冗談もふざけてもいけないという風潮がますます広がり、窮屈な全体主義が蔓延しているみたいで気味がわるい。

むかし中国の田舎の街に行ったとき、警察官に尋問されたことがある。
警察官の中にたまたますごい美人の婦警さんがいたので、わたしは 「中国のこんな田舎にあなたのような美人警察官がいるとは思わなかった」 といおうとした。
残念ながらそんな冗談をすらすらといえるほど中国語に堪能でなかったので、のどまで出かかった言葉が発せられることはなかった。
発していたら、ふざけるなで、わたしはそのまま強制収容所にたたっこまれていたかもしれない (なにしろ中国だから)。
こういうおふざけは、相手がカタブツだからこそおもしろいんだけど。

いまは震災や原発事故、だめおしの豪雨災害まで起こっちゃって、いろいろ大変な時期なのだ。 大臣がふざけている場合か。
という声がかまびすしいけど、ユーモアを愛する当方としては、あまり楽しくない社会になりつつあるなあと思ってしまう。

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2011年9月 9日 (金)

朝日新聞

夕刊を読んでいたら、なんとかいう大臣が原発被災地を視察して、死の街のようだと発言したという記事。
記事は 「この後問題になる可能性がある」 と結ばれているけど、この発言のどこに問題があるのか。
人っ子ひとりいないから死の街と表現しただけで、それのどこがいけないのか。
わたしゃこの大臣についてぜんぜん知らないし、弁護してやる義理もないけど、言葉じりをとらえてなんでもかんでも問題にしようとする新聞の姿勢のほうが腹が立つ。
新聞がマッチポンプであることをまざまざと証明する記事だ。
いいかげんにせんかい、え、朝日新聞、おまえのことだよ。

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雑草の季節

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いい天気になったので、ひさしぶりに自然観察園までぶらぶら。
野川のほとりにはこれでもかというくらい、名もない草が生い茂っている。
いや、名前はあるんだろうけど、人間の役に立たないという理由で、その他大勢の範疇に入れられているかわいそうな植物たちである。
じっとながめてみると、単子葉植物のうちの、イネやススキ、ネコジャラシの類だけでも10種類以上はありそうだ。
9月のこの時期はまさに雑草の季節といえる。

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そういう雑草が人間の背よりも高く茂っていて、いま今年なん度目かの刈取り作業中。
俳句や短歌のほうではいろいろ雰囲気をかもすのに効果的なものだけど、作業をする人たちにとっちゃ、刈っても刈っても根絶できないにくたらしい植物だろう。
作業のかたわらを歩くと、甘い草いきれが鼻をつく。
草いきれを甘いと感じるってことは、人間も草食動物のなれの果てなんだなと思う。
たぶんウシやウマも甘い香りを感じてるんだろう。
草のあいだを歩くとイナゴやバッタがひょいひょいと飛んで逃げる。
三鷹市の里山計画はいろんなところでちゃくちゃく進行中。

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2011年9月 8日 (木)

さくらチャン

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プロゴルファーの横峯さくらの親父というと、娘の七光りで参議院議員におさまっている人だけど、週刊新潮に書かれたとおりだとしたらそうとうにワルのようである。
あまりワルだワルだと書かれるので、この人が週刊新潮を名誉棄損で訴えた。
ところが最近になってその訴えを取り下げたそうで、よろこんだ新潮はここぞとばかり書きまくる。
書かれていることが真実なら (どうも真実らしい)、即刻辞めてほしい議員さんだけど、まあ、そのへんは、参議院にあまり興味のないわたしとしちゃ事態の成り行きをながめるしかない。
気のドクなのは不肖の親父のとばっちりをうけて、新潮に写真が載っちゃった娘のさくらチャン。
しかもパンチラの写真だもんね。
週刊新潮もあくどいじゃないかといいにくいのは、この写真のさくらチャンがなかなかイロっぽいから。

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2011年9月 7日 (水)

楼蘭の美女

世界の三大美女というのがある。
クレオパトラと楊貴妃と楼蘭の美女である。
3番目の美女はわたしが勝手につけ加えたものだけど、なんでそんなことをしたかっていうと。
わたしが持っているもうひとつのブログはシルクロードの紀行記が大半をしめる。
そのブログに、やはりシルクロードに凝っているらしい人からトラックバックがついた。
この人も中国の新疆ウイグル自治区で楼蘭の美女を見てきたようで、その美しさを手放しで賞賛している。
あんまり手放しされると、ついいちゃもんをつけたくなるのがわたしの性格だ。

楼蘭の美女とは何者か。
彼女はタクラマカン砂漠の一隅、ロブノール湖畔に存在した古代都市・楼蘭の遺跡から発見されたミイラで、およそ3800年前の人物とされる。
三大美女のうち、まえの2人については、存在そのものは確かでも、残された絵や彫刻はすべて後世の作で、じっさいに彼女らがどんな顔をしていたかということは想像の域を出ない。
ところが楼蘭の美女は、現代のわたしたちがそれをじっさいに見ることができるのである。
できるといってもなんせミイラ状態であるから、どっちかというとホラー映画の主役がふさわしく、これを美女とみなすのはそうとうの想像力がいる。
博物館で楼蘭の美女と対面してきたわたしも、彼女が美女であることを信じるけど、これはロマンチックな願望も半分くらい入っているのである。
現実を直視してみよう。

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遺跡から、当時としては最大限に丁重な葬られ方で発見されているところからして、彼女が女王か権力者の妻であったことはまちがいがない。
とすれば美女であったこともほぼまちがいないと思われる。
容姿については 「眼は深く、鼻は高く、髪は黄褐色。明らかにヨーロッパ系の人種である」 というのが定説だ。
鼻すじがとおっているのは事実だけど、目は深くというのはハテネ。
ミイラというのは眼孔が落ち込むのがふつうだから、典型的日本人のわたしだってミイラになれば欧米人なみにほりの深い顔になるんじゃなかろうか。
ほっぺただってずいぶんこけるはずだから、鼻すじだって生前よりもいくらか高く見えるかもしれない。
太めの人だって、ミイラになれば、なんせ日干しなんだから生前よりずっとスマートになるに決まっている。
楼蘭の美女の死亡推定年齢は40代であったとされる。
当時の平均寿命からすると、これはそろそろ老人であるといってもおかしくない。
これらをかんがみると、彼女は土屋アンナや滝川クリステルよりかは、エヴァ・ガードナーのような大年増というほうが適切である。

ついでにいうと、ハリウッド製のスペクタクル史劇の影響で、古代都市というとギリシアやローマみたいに壮大なもの想像してしまう人がいるかもしれないけど、そんな昔の辺境の砂漠に石組みの巨大な建築があったはずがない。
日本でいえば卑弥呼の時代もそうだけど、当時の都市なんて、村に毛がはえたていどのもんじゃなかったろうか。
パゾリーニの 「アポロンの地獄」 という映画を観ていたら、じつに素朴なギリシアの古代都市が出てきて、これは予算がないからじゃなく、これがじっさいだったんだろうと目からウロコが落ちた思いをしたことがある。
ロマンは大切だけど、科学は冷徹に判断しなくちゃ。

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2011年9月 6日 (火)

馬に乗るということ

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うちの近所には大学の馬術部の馬場があって、先日そのわきを通りかかったら、きれいなお姉さんがはっし、はっしとウマを駆っていた。
アイロンのかかった乗馬ズボンに長靴スタイルで、背すじをぴんとのばしてウマを駆っているところは、お上品で、ちょっと教本に忠実すぎるみたいで、ウマに乗っているんじゃなく乗せていただいているという感じ。
それでも大学というのは東京大学だから、彼女は才色兼備のオンナの人ということになるようだ。

かっては米国の俳優サンは、男も女もウマに乗れることが必須だった。
最近ではウマよりも宇宙船やタイムマシンの操縦が不可欠のようで、乗馬のニガ手な役者さんも増えているらしい。
そのうち西部劇の乗馬シーンもCG (コンピューターグラフィック) ってことになるのかしら。 カンベンしてよねえって感じだけど。
わたしがかって中国の辺境で見たカザフの若者なんて、はだかウマにまたがって急発進、急停車というお下劣な乗り方をしていて、さすがは騎馬民族の末裔という感じだった。
やっぱりウマはこうでなくちゃ。

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でも、うらやましい。
じつはわたしも中国を旅していたころ、あちこちでウマに乗ったことがあって、人の背丈のゆうに倍の高さから見下ろす景色は、なかなか爽快なものだということを知っているのである。
日本でもベンツやBMWに乗って得意そうな人をよく見かけるけど、ウマの爽快さにはとても及びません。
あ、下の写真は、顔にぼかしがはいってますけど、中国でウマに乗って得意満面のワタシでござんす。

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2011年9月 4日 (日)

ザリガニ

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散歩をしているだけで植物や動物の盛衰を感じることがある。
この時期になると、むかしは川のほとりにキクイモの黄色い花が満開だった。
べつの年にはセイタカアワダチソウやアレチウリという外来種の植物がもうれつに繁茂したことがある。

最近これらの種にむかしほどの勢いがない。
セイタカアワダチソウやアレチウリの評判はよくないけど、キクイモのほうは鑑賞用としてもわるくない花だから、無粋なお役人さんが駆除したとも思えない。
どうも自然のままにしておいても、植物の勢力範囲はしょっちゅう交代するものらしい。

原因はいろいろあるんだろうけど、しろうとのわたしが想像するのは、作物でも連作できない植物があるように、繁茂しすぎた植物は自らの勢いで自らの生活環境を破壊してしまうんじゃないかということ。
たとえばその植物にとくに必要な地中の養分を失わせてしまうとか。
その植物が少なくなると、また必要な養分が蓄積されて、いつかまたその植物の出番がくるってことじゃなかろうか。

動物では、ヘビやナマズも去年はしょっちゅう見かけたのに、今年はあまり見ない。
ヘビが1年で死ぬはずはないから、去年たくさんいたのなら今年もいなくちゃいけないはずである。
動物の場合は地中の養分は関係ないから、こいつらの勢いがなくなった原因は餌の不足や天敵の増加が考えられる。
しかしうちの近所にヘビの餌になるカエルが、去年だけとくべつに多かったような気もしないし、ナマズの天敵もあまりいそうにない。
そういうわけで動物の盛衰については原因がよくわからないんだけど、今年大きな顔をしてのさばっているのはザリガニだ。

原発の影響か台風の後遺症か知らないけど、今日の散歩でたまげた。
ほたるの里の稲田の近くに小さな流れや水たまりがあって、そこに今年はやたらにザリガニが多い。
水たまりなんてザリガニの養殖場みたいである。
増えすぎてケンカをするようで、はさみが片方しかないのも何匹かいた。
どうしてこんなに増えたのか、原因はいくつも考えられるけど、こいつは田んぼのやっかいものなので、対処法を考えよう。

ザリガニはゆでると、当然といえば当然だけど、エビと変わらない味がする。
ザリガニはホタル (の幼虫) の天敵だから、いくら獲っても市役所から苦情が来るはずがない。
つかまえて、こいつをつかまえるのはスルメの足が1本あればいいので、エビグラタンの材料にしてもいいし、縁日の夜店で子供のオモチャとして販売したらどうだろう。
ウルトラマンのバルタン星人みたいだから、そんな名前をつければヒット商品になるかもしれない。
不景気のおりだ。元でいらずのこんな商売、誰かやる人はいないかしら。

写真のザリガニは横になってるけど、死にぞこないってわけじゃなく、これが彼らの甲羅干しのスタイル。

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2011年9月 2日 (金)

創作衝動

わたしは作家じゃないから無責任に言ってしまうけど、世の中には、名前はよく知られているのに、書いた本がぜんぜん売れない作家というものがいる。
たとえば芥川賞をもらった××や朝日新聞の御用作家といわれている○○などと、日本にもこういう作家は少なくないようだ。

そんな作家を描いた 「創作衝動」 という抱腹絶倒の短編が、皮肉屋のサマセット・モームにある。
主人公は年増の、あまり美人といえない女流詩人なんだけど、彼女が書く詩は世評が高いにもかかわらず、とても作家としてのメンツを保てるほどの生計の足しにならない。
つまり売れないのである。
そんなわけで彼女の生活は、もっぱらしがないサラリーマンの夫に依存することになる。
高名な詩人と、しおれかけたような中年亭主の組み合わせがまずおもしろい。

英国の話だから家庭で開くパーティなんかも出てくる。
彼女はあまり気にかけてないが、パーティの費用も全部亭主が出しているのである。
パーティに集まるのは詩人のとりまきの文学仲間や出版関係者などで、話題もけっこう高尚なものが多い。
彼女はそんなメンバーの中で女王然とふるまっているんだけど、もちろん彼女の本は売れないのである。

ある日、しがない亭主が家政婦と駈け落ちしてしまう。
ここではじめて女流詩人は、自分の生活がぜんぶ亭主に依存していたことを悟るのである。
彼女は亭主のところへおしかけて家にもどるよう懇願するんだけど、平凡きわまりない生活を生き生きと楽しむ亭主の家庭を見せつけられて、すごすごと退散する。
しかし、こんな事件が創作衝動となって、彼女は新しい小説を書く決意をするのである。
「創作衝動」 の最後は、計算され尽くしたしまらないセリフで終わっているんだけど、それがまたおかしい。

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2011年9月 1日 (木)

献金

ネット・ニュースを見たら、前原クンにまた外国人からの献金が発覚だと。
その額100万円というからちょっとびっくりしたけど、よく読んだら6、7年で100万円程度だそうで、月額にすると1万2千円から1万4千円ぐらい。
これじゃみみっちくて、特ダネだとほめる気にもなれない。
献金の事実よりも、献金相手に対して利益供与をしたかどうかが問題なんだって、新聞社にお説教したいくらい。
こういうのは自民党あたりが仕組んだリークとちがうか。
自民党のセンセイたちは、オレは潔白だと言い切れるのかしらね。

それにしても政治家ってのはおいしい商売だなと思ってしまう。
わたしなんか汗水たらさなけりゃ、ほかにお金の入ってくるアテはぜんぜんないのに、政治家になるとあっちこっちから無償の援助があるらしい。
政党交付金を受け取らないことで知られる共産党も、献金はどうなんだろう。
やせ我慢をして潔癖を売り物にしている共産党も、最近は機関紙が赤字で困っているらしい。
だからじゃんじゃん赤旗を取ってやれっていう同情論もあるけど、これだってかたちを変えた献金でしょ。

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