2011年10月31日 (月)
この土日は、安い刺身を買ってきてイッパイやるという、そんなささやかな庶民的幸せをかみしめつつ、読んでいたのは図書館から借りてきた川本三郎サンの 「今ひとたびの戦後日本映画」 という文庫本。
川本三郎サンというと、最近では右翼雑誌SAPIOに連載中の映画批評を読むくらい。
そちらはあんまり感心しないけど、これはどうも最近の映画にまともな批評に値しないものが多いってことらしい。
アホらしい映画でもいちおうもっともらしい批評をしなくちゃいけない批評家にこそ同情すべきだったのだ。
今回、借りてきた本はなかなかおもしろかった。
「青い山脈」 や 「東京物語」、「羅生門」、「浮雲」、黒澤明、小津安二郎、成瀬己喜男、原節子、高峰秀子、京マチ子なんて名前に愛着を感じているので、そういう名前がぽんぽん飛び出してくるだけで楽しい。
ことわっておくけど、わたしはそんな映画をリアルタイムで観たっていうほど年寄りじゃないからね。
なかでも 「羅生門」 に出演していた京マチ子についての見立てなんかナルホドと思わせる。
彼女は戦後の日本にあらわれた最初のハリウッド型女優、オッパイが大きく、腰のくびれたグラマーなんだそうだ。
そういう彼女だから 「赤線地帯」 では、マンボズボンの現代的なはすっぱ娘を演じてまことにさまになる。
そんな彼女が、一方では 「羅生門」 で古風な日本女性、それこそ平安時代の女性でも演じることができた。
わたしは古いビデオやDVDで彼女を観て、いい女優さんだなと思っていたから、ナルホド、ナルホドと川本サンの意見に賛同してしまう。

「羅生門」 では男を狂わせる魔性の女という解釈もナルホドである。
この映画では彼女をレイプする山賊、縛られたままそれを見つめる亭主という2人の主要人物が登場するけど、この2人の役柄は終わりまでぜんぜん変わらないのに、京マチ子だけは、見る人によって貞淑な人妻から、亭主をうらぎる悪妻、最初は抵抗するくせにすぐその気になっちゃう本能むきむきのオンナなど、ひとりで演じわけてみせる。
添付した画像は映画のワンシーン。
オネガイ、捨てないでーって袖にとりすがっているけど、こういうのが危険なのである。
京マチ子は映画の中で同性からズベ公だとかパンスケなんてののしられ、「あにおとうと」 の中では兄貴役ととっくみあいのケンカまでしているそうだ。
さいわいなことにわたしは、ここに挙げた古い映画は、テレビで放映されたものをみんな録画して持っている。
そういうわけでこの週末は、片目で文庫本を読み、もういっぽうの目で古い日本映画を鑑賞し、京マチ子という女優についてしみじみ思う日々でありました。
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2011年10月28日 (金)
今朝は古新聞の収集日で、昨日までの新聞はごっそり持っていかれてしまった。
昨日の夕刊にちょっと気になる記事、ブログのネタになりそうな記事があったのに、そういうわけであらためて参照することができない。
以下の記事には間違いや誤解もあるかもしれない。
今年の7月に亡くなったSF作家の小松左京さんについての記事である。
遺憾ながらわたしは読んでないけど、この人の書いた 「日本沈没」 は、震災や原発事故をいろんな面で予測したものであるそうだ。
左京さんは好奇心の旺盛な人で、さまざまな分野で専門家顔負けの知識を持ち、地震の原因とされるプレートテクトニクス説なんかにも詳しかったとか、阪神大震災で高速道路が崩壊することを予知していただとか、日本人は天下泰平になれて、先祖代々つちかってきた災害の恐怖という遺伝子を、どこかへ忘れてきたのではないかという指摘もしていたそうである。
なるほどとうなづける部分は多い。
しかし、新聞記事の最後はこう結ばれていた。
左京さんはけっして希望を捨てなかった。
人間には宇宙がある。未開発の広大な宇宙がある。
まだまだ絶望するべきじゃないってことのようであるけれど、よかれあしかれ、彼はSF作家なのだ。科学の申し子なのである。
原発事故を予測できても、原子力の利用まで否定できただろうかと、作家が生きていれば訊いてみたい気がしてしまうのである。
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2011年10月27日 (木)
世界人口がまもなく70億に達するというニュースもあれば、あいかわらず少子高齢化が問題だなんて記事も。
いったいどっちだ、どっちが人類にとって幸せなんだと悩んでしまう。
ということで、むかし読んだ本の内容を紹介してしまおう。
このブログでも何度か登場願っているSF作家のアイザック・アシモフの啓蒙書なんだけど。
いまから30年ぐらい前の世界では人口増加が人類にとって大きな脅威だった。
なんとかして人口を減らさなければ人類に未来はないと、多くのまじめな科学者、知識人が考えていた。
人口が減れば多くの問題が解決するだろうということは、ちょっと考えてみれば小学生にでもわかることである。
人口が減れば食料問題は解決するし、住宅問題も解決する、車が減るから道路の渋滞なんてこともなくなるではないか。
環境の破壊も汚染も減るだろうし、資源の浪費、たとえばマグロを取り過ぎだなんて騒ぐこともなくなるだろう。
人口が減れば福祉や医療サービスの経費も減る。経費が減る一方で、ひとり当たりのサービスは充実するってことである。
土地や資源があまっているのに戦争なんかする人間がいるだろうか。
ようするに人間同士の軋轢の原因になっている諸問題のほとんどが解決するように思えてしまう。
人口が減ったって、生産力が落ちるわけじゃない。
わたしが幼いころ、田植えなんていうと一家親戚が総出でやっていたもんだけど、現在ではひとりかふたりの人間が機械を使ってすませてしまう。
家を建てるというと、わたしも見たおぼえがあるけど、やぐらを組んで10人ぐらいの土方が、おっとちゃんのためならエンヤ、おっかちゃんのためならエンヤと土台固めをしていたもんだけど、それもいまでは建設機械を使って短時間に少人数でやってしまう。
技術や機械の発達で、現在はむかしほど生産活動に人手を必要としない時代なのである。
だから人口が減れば、人々はみんな大きな家に住み、ゆたかな食べ物を享受し、仕事のあい間には余暇を楽しむ。未来はバラ色に思えてしまう。
それなのに少子高齢化で人口減少が問題になっている現在も、わたしたちの生活はぜんぜんバラ色じゃない。
それはいったいどうしてか。どかこ、なにかが間違っているんじゃないだろうか。
ようするに人口が減っているのに、システムだけは旧態依然で、その典型が年金システムだけど、そういうものが昔のまんまだからいけないんじゃないか。
発想を転換し、まったく新しい改革をなしとげれば、ほんとうに未来はバラ色なんじゃないかと、未来をしょってたつ不遇な若者たちに提言しておく。
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2011年10月26日 (水)
秋の日はつるべ落としとはよくいったもの。
わたしは年金暮らしの後期高齢者ではないから、毎日ちゃんと仕事をしてるけど、ただもう無為に日常が過ぎていくばかりで、なかなか仕事というものに意義を見出せない。
やはり意義あることというのは、旅行に出かけているとき、趣味にひたっているとき、仲間とお酒を飲んでいるときぐらいしか見出せないものなのだ。
なにか意義あることをしなくちゃと思って、録画してあるテレビ番組なんか観てみたけど、べつにブログのネタになるようなものもない。
先日録画した小津安二郎の 「秋刀魚の味」 については、やっつけ仕事で書くにはおそれ多い。
うーんと考えて、そうそう旅行社から書類が送られてきてたっけなと思い出す。
なんでも円高で燃料サーチャージ代が減額となりましたので、差額をお返ししますだって。
うれしいけど書類を書くのがメンドくさくてほうっておいたもの。
こいつをようやく仕上げて、やっと今日は意義あることをしたなって大満足、いや、小満足。
どうもわたしにはラテン系の血がまじっているらしい。
ラテン系というのはのんきな者が多く、たとえば彼らがいますぐにといった場合、6、7時間後になることはザラ、明日中にはきっとといった場合、1週間後になるのが当たり前、ほんの先っぽだけでいいからといった場合、ずぶっと奥まで入れられてしまうからオンナの人は注意しなさいって、これは開高健さんの本に書いてあったことだけど。
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2011年10月25日 (火)
古い写真をひっくり返していたら、中学校の同窓会の写真が出てきた。
なつかしい顔ぶれだけど、18歳で郷里を出てボヘミアン的生活を送り、しかも付き合いのわるいわたしのことだから、最近は中学の同窓会なんてものにとんと無縁で、女性たちの名前なんぞほとんどおぼえていない。
ただ、この中にひとりだけ忘れようとしても忘れられない女性がいる。
彼女とわたしは生まれたときからとなり同士の家に住み、それこそおままごとの時代から小学校、中学まで、お手手つないで育った仲だった。
いわばわたしの初恋の相手といっていい人である。
群馬の片田舎で、はるかむかしのことだから、まだまだ自然がいっぱいで、森も小川もすべてがわたしたちのものだった。
ああ、そんな時代!と、嘆息のひとつもこぼれ出る。
彼女はこの写真の中では、ひとりおいてわたしのまん前にいる。
中学時代、学級委員をつとめるほど優秀な人だったけど、家庭の事情から早くに高校を中退し、18歳で他家に嫁いでいった人だった。
わたしはその噂をよそで聞いた。
初恋というものはなかなか成就しないものである。
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2011年10月24日 (月)
やれやれ。
長い人生でいろいろと悲惨なものを見てきたけど、YouTube で見たカダフィの死の瞬間もそのひとつ。
第二次世界大戦でのムッソリーニやルーマニアのチャウシェスクのように、逃げ遅れた独裁者の末路の典型で、悲惨としかいいようがない。
わたしが観た映像では、血まみれになったカダフィらしき人物が、大勢の兵士によってトラックのボンネットにかつぎあげられる場面から始まっている。
このときカダフィは顔の血を自分でぬぐっているから、拘束されたときまだ生きていたことはまちがいがない。
その後、兵士らにこづかれたり、拳銃を向けられたり、もみくちゃにされたまま、混乱の中であとはどうなったのか神のみぞ知る。
映像の中では、殺すな、殺すなという声も聞こえるそうだけど、激昂した民衆にとりかこまれて、助かる余地はまずなかったと思われる。
ミステリー・ファンなら、かっての部下で、反カダフィ陣営に寝返った者が、口封じのために殺したとかんぐるかもしれない。
ケータイでも映像が撮れる時代だから、これからも独裁者の悲惨な末路がネット上に氾濫するんじゃあるまいか。
つぎはどこか。
極東アジアのあの国じゃないかと思うけど、「偉大なる首領さま」 は首尾よく中国にでも脱出できるだろうか。
まごまごしていると、かっての部下に射殺されないともかぎらないぞ。
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図書館でヴェリコフスキーの 「衝突する宇宙」 という本が目にとまった。
なんとなく科学の本という感じだけど、科学とはぜんぜん関係がない。
はっきりいって読む価値のない本である。
読むまえから読む価値がないと断言できる本もめずらしいけど、ま、ふつうの人は読む必要がない本である。
わたしがこれに目をつけたのは、以前SF作家のアイザック・アジモフがこの本を攻撃しているのを読んだことがあるからだ。
アシモフだけじゃない。わたしが知っているかぎり、科学者のカール・セーガンもこの本を攻撃していた。
まっとうな作家や科学者から攻撃されるくらいだから、それだけでロクな本じゃないことはわかるけど、わたしは攻撃される側の言い分も読んでみようというキトクな人間なのである。
また、SF小説として読むとおもしろいという話も聞いたことがある。
「衝突する宇宙」 は、アメリカの精神分析医イマヌエル・ヴェリコフスキーが、過去の文献をやたらめったらひっくり返し、それをやたらめったら引用して、まったく新しい宇宙生成の理論を構築しようとしたものである。
正規の科学者からはぜんぜん相手にされてない理論だけど、アメリカはカルト宗教が多いところで、たとえば宇宙は神様が作った、人間はアダムとイヴから始まったなんてことを本気で信じている人も多いから、そういう方面の主張と合致する部分もあり、本もだいぶ売れたらしい。
この精神分析医さんの理論によると、おおむかし、木星から飛び出して地球の近くをかすめた巨大な彗星が、地球の引力に捉えられ、ナニがなにしてなんとやらで、やがて現在の金星になったという。
ナルホドと感心してしまう人は、カルト宗教の影響を受けやすい人だから、この本をゼッタイに読むべきではない。
マユツバとしても壮大すぎる天文学的事変であるから、こんなことがおきたのは何億年もむかしのことかと思うと、ヴェリコフスキーにいわせれば、せいぜい4千年から5千年まえのことだそうである。
彼は証拠としてノアの方舟の大洪水や、モーゼが紅海をまっぷたつにしたというハナシなど、聖書やさまざまな文献の記述を持ち出すので、人類の歴史以降の事件にしないと都合がわるいのである。
このていどならわたしにだって反論できるぞと、期待をもって読み始めた本だけど、じっさいには年代数字や事実を確認しにくいむかしの事件の引用ばっかりで、粉飾された決算みたいに本質がつかみにくい。
そんなものを分析しているほど、わたしはヒマじゃないし、そもそもアシモフほど聖書や西洋の古典に詳しいわけじゃないから、粉飾のひとつひとつに反証を加えることもできない。
まごまごしていると、キツネに化かされたみたいに、わたしもいつのまにかそんな理論にとりこまれてしまいそうなので、あわてて本は書架に返した。
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2011年10月22日 (土)
カダフィが死んでリビアが民主的な国になるかは予断をゆるさないけど、許せないことならほかにもある。
国連人権高等弁務官が、カダフィは拘束されたあとで殺されたのではないか。 だとすれば人権無視で問題だなんていっている。
でもねえ。
そんなことは民主主義の先進国とされている米国だってしょっちゅうやってることでしょ。
ついこのあいだも他人の家に強引に押し入って、のんきにテレビなんか観ていたビンラディンを、問答無用で射殺して、死体まで持ち帰っちゃったのは、あれ、アメリカじゃなかったっけ。
しかも大統領がテレビに出演して、やったぞ、殺したぞとお祭り騒ぎまでやって。
そんなのありか。
ダブル・スタンダードだよ、え、おい。
大国にさからえないっていう弁務官の立場もわからんじゃないし、弁務官事務所の役割も理解しているつもりだけど、なんか無力感を感じてしまうよな。
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熊本への旅では、参加メンバーの中に現地に知り合いがいる者がいて、その知り合いのMさんという人に連絡をとったら、なんとスポーツカーでやってきてくれました。
オープンのスポーツカーに乗ってみたいと思っていたわたしは、好機とばかり便乗させてもらって、撮った写真がコレ。
いちどこういうカーグラフィックみたいな写真を撮ってみたかったんですよね。


Mさんの案内で、2番目の写真は大観峰からの眺め。
といっても曇り空でロクな写真が撮れなかったので、若い娘さんの写真でお茶をにごしてます。 すこしは眺めのよさもわかるかしら。
3番目は阿蘇の噴火口。
この写真を撮ったあと、風向きが変わったてんで、危険・退避のアナウンスがあって、わたしたちも右往左往。


4番目は池山水源という名所。日本の名水百選にも選ばれているきれいな湧水です。
5番目は、ジャーン! 宿屋の食い放題焼肉なのだ。
もちろん食べきれず残した。 残したものはどうなるんだろう。 心配だな。
飢えた地球人も多いのにと、つい国際問題に目が向いてしまうのがわたしのわるいクセだ。
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2011年10月21日 (金)
熊本といえば熊本城である。
熊本城は縄張り (築城) の名人といわれた加藤清正が、豊臣時代に築いた堅固な大城で、明治になってからの西南戦争では難攻不落の本領を発揮したこともあるそうだ。
現在では国の特別史跡に指定されているそうであるから、名所旧跡なんてものにあまり関心がないわたしでも、いちどは観ておかないと話にならない。
そういうわけで熊本訪問のついでに見学したんだけど、いや、想像以上にでっかい城で、だいぶ疲れた。
いちばん上の写真は、熊本城のうち、オリジナルの木造建築がよく残る宇土櫓。
2番目は難攻不落をよく物語る射撃台。
塀と石材をつらぬく板の上に横板を置いて、その上に立った射手が塀の外の敵を射撃するのだそうだ。
翌日は熊本県から大分県まで足をのばして、滝廉太郎の 「荒城の月」 のモチーフになったとされる竹田の岡城跡にまで行ってみた。
こちらは残念なことに石垣しか残ってないけど、そういうわけで今回の旅は城めぐりみたいなもん。


ところで、例によってへそまがりを言うわけじゃないけど、「荒城の月」 のモチーフになっとされる城はほかにもいくつもあるそうである。
これだけ有名になり、しかも作詩家、作曲家の言質もあいまいだと、あっちこっちからいろんな説が出てくるのは仕方がない。
まず歌詞のほうだけど、つくったのは明治の詩人・土井晩翠で、モチーフになった城については仙台の青葉城、会津若松の鶴ヶ城だなんて説もあるそうである。
曲のほうでも、竹田の岡城以外にもこっちが本家だなんて城があるそうだ。
確かな証拠がないかぎり、そして古い歌の場合そんなものはない場合が多いから、こういうものは早い者勝ちであり、すこしでも作詩者や作曲家に縁のある土地で、さっさと歌碑を建ててしまったほうが由来を独占できるのである
もちろん岡城にも立派な歌碑がある。
どの城かなんてせんさくよりも、感動してほしいのがこの歌の歌詞である。
美しい七五調で起承転結の4つの部分に分かれた歌詞のうち、3番のたたみかけるように韻を踏んだ部分を聴くと、ワタシ、いつも思わずうっとりしてしまう。
いま荒城の夜半の月 変わらぬ光誰がためぞ
垣に残るはただ葛 松に歌うはただ嵐
いまどきの若いモンにはちょっとむずかしいかもしれないけど、さすがに古典や漢詩を駆使できた明治の知識人の作であるなと思う。
3番目の写真は岡城跡のこけむした石垣。天上影は変わらねど、栄枯は移る世の姿っていう歌詞のまんま。
4番目は 「荒城の月」 の歌碑。あっちこっちにあるそうですよ。
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2011年10月20日 (木)
このブログにもたまに登場する古い友人のKさんをを訪ねて、ちょいと熊本まで出かけてきた。
当人はあいかわらず元気そう、奥さん、おばあちゃんも元気そうなので、それにはここでふれない。

おどろいたのはKさんの家の環境のすばらしさ。
上の写真は、Kさんの家のベランダからながめた阿蘇の夕景色。
この写真じゃ見えないけど、この右側にギザギザの山容をもった根子岳も見える。
下の写真は、わたしたちが泊まった、いまどきめずらしい古風な宿。
和風畳敷きで床の間、かもいつき。
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2011年10月15日 (土)
近いうちにゴヤ展が開催されるので、彼の絵のおさらいでもしようと武蔵野プレイス (図書館) にいく。
ところで画集だとか美術書はどこにあるのか。
探してみたら、それは地下2階にあった。
まずいことに地下2階は、若い人のためのコーナーっていうものになっていた。
そんなところへわたしみたいなおじさんが入っていいものか。
しかし大きく立派な画集はそこにしかないのだから、やむを得ず入るしかない。
入ってみると、そこで本を読んでいるのは純粋な少年や清純な乙女ばかりである。
こういう場でゴヤの 「裸のマハ」 なんて絵をながめていていいものだろうか。
しかもくいいるように真剣にながめちゃっていいのだろうか。
女子高生の刺すようなまなざしを背中に感じて、おちおち絵をながめていられなかったぞ、おい。
図書館の配置にいちゃもんをつけたいね。
画集とか写真集なんてものは、どこかすみっこにアダルト・コーナーってものを作って、ビニール袋をかぶせて陳列するように。
ところでワタシ、明日から3、4日お出かけです。 ブログもそのあいだお休みします。
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図書館で借りてきた野坂昭如を読む。
ひさしぶりに読んだこの作家の作品が 「真夜中のマリア」。
野坂小説中の傑作とされている (かどうか知らないけど) 作品である。
この小説の中に親父のオナニーを目撃する息子のエピソードが出てくる。
息子が親父に、誰を想像しながらカイテいたの訊くと、親父は平然として真由美ですと答える。
あの子も近頃だいぶ女めいてきましたねと続く。
真由美というのは息子の、まだ女子高生の妹で、ということは親父にとってじつの娘で、これじゃあ近親相姦になってしまう。
この小説はこんな近親相姦だとかホモ、レズ、変態、乱交、ヤク・パーティ、男色を試してみる主人公、処女を見分ける老人、葬式パーティで死人をおもちゃにするフーテン仲間、親子どんぶりを味わっちゃう義母、他人の情事をのぞき見するのが大好きな祖母など、むちゃくちゃなセックス餓鬼のオンパレードだ。
当時の人気作家、芸術家なども実名で揶揄されていて、ちとハチャメチャであるものの、これが70年前後の風俗、リベラルな意識であったことも間違いないのである。
連載されていたのは平凡パンチ、挿絵は当時人気のあった伊坂芳太良であることも、この小説のアバンギャルドぶりを物語っている。
ふと思ったけど、スタンリー・キューブリックがこの原作を読んだら、「時計じかけのオレンジ」 より先にこっちを映画化してたかもなんて。
いまどきこんな過激な小説が若者のオピニオンになることがあるんだろうか。
わたしは野坂昭如のファンなので、昨今の若者にもぜひお薦めしたいところだけど、この小説をいきなり文学少女の女子高生なんかに読ませるのは、いくらなんでも乱暴である。
やはり野坂文学に挑戦しようという若者に対しては、「火垂るの墓」 あたりを薦めておくのが無難かもしれない。
マトモな人間であるわたしはそう考えたけど、いやいや、この小説にも描かれているように、いまどきの女子高生ならこれしきのことで動じることはないかもしれないとも思う。
ひとつ、図書館でとなりに座ったミニの女子高生あたりに感想を訊いてみたいところだけど、やっぱりヘンタイと思われるだろうなあ。
この作家の作品にはほかに、アダルト業界の住人たちを描いた 「エロ事師たち」、詐欺師たちを描いた 「ゲリラの群れ」、映画 「おくりびと」 に先立つこと40年以上まえの 「とむらい師たち」 など、常人の知らない裏の社会を描いたものが多い。
あらためて作家の豊富な知識、そしてとめどなく流れ出る妄想力に感心してしまう。
もちろんここに挙げた作品は、野坂文学の一面でしかないことも百も承知だけど。
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2011年10月14日 (金)
イランの映画で 「運動靴と赤い金魚」 という映画がまた再放送された。
1997年の映画だから最近の映画ではない。 わたしが市販されているこのDVDを買ったのもかなり以前の話である。
映画の内容は、家が貧しくて運動靴を買ってもらえない兄妹が、1足の靴を交互にやりくりしているうち、マラソン大会で優勝者に賞品として靴が出るということを聞きつけ、お兄さんの大奮闘ってことになるもの。
スポ根ものというより、兄妹愛をほのぼのと描いたたわいない話なんだけど、じつはストーリーなんかどうでもいいのである。
おもしろいのは、イランの小学校のようすや家庭でのありさまなど、子供たちのふだんの生活がくわしく描かれているところだ。
イスラムの国では徹底的にキリスト教制度を否定しているので、十字架はご法度、赤十字社は赤新月社となって三日月をマークにしていることはご存じのとおり。
学校も日曜日ではなく、イスラム安息日の金曜日が休みだそうだ。
学校では小さな女の子までみんな肌をみせないユニフォームで、マグナイと呼ばれるずきんをかぶっているけど、これがなかなか可愛くていい。
このブログではイスラム女性の美しさをしょっちゅう賛辞してるけど、さすがに栴檀は双葉よりかぐわしく、イランの女性は小学生のころからもうカワイイのである。
例によってわたしは背景にも注目していた。
さしあたってイランに出かける予定のないわたしには、映画はそのままバーチャルな海外旅行である。
この映画では市中の靴の修理屋、むかしながらの自家製パン屋、八百屋、ゴミの回収屋、路地で遊んだり家で宿題をする子供たち、どこにでもあるような家庭内のトラブルなど、ふつうの観光旅行では見られないイランの庶民の生活がよくわかる。
また、お父さんが家で大量の角砂糖を作っている場面があって、イスラムの人びとは酒を飲まないから、これは宗教ごとの集まりで出す紅茶に使うものだそうだけど、異文化のそんな変わった風習をみるのも楽しい。
イランというと、つい抑圧的な国というイメージだけど、さすがに小学校ではそんなことはなくて、子供たちは親や社会、国家から大切にあつかわれ、教育制度も欧米先進国にまけないくらい充実しているようだ。
家族のきずなの強いことや、どことなくのんびりした生活ぶりなども、なんて幸福な国なんだと思えてしまうくらいである。幸福にもいろいろあるものだとあらためて考えてしまう。
イスラム圏の映画だから、くっついたのはっついたのっていう刺激的な部分はぜんぜんないけど、そんな映画氾濫の昨今からすれば、これは傑作といわないまでも、じつに幸福な気分にさせてくれる佳作だと思う。
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世田谷区の民家からラジウムが見つかって、迂回だの立ち入り禁止だのと大騒ぎ。
なんかおかしいよな。
10年間だか20年間だか、それ以上なのか知らないけど、それだけの期間ほったらかしにされていて、人間も環境もなんらの痛痒を感じてなかったものが、見つかったとたんに大騒ぎだ。
日本中が放射能ってものに過敏になりすぎているみたい。
もうちっとおおらかに生きないと、空から人工衛星が落ちてきたりするこの惑星では、逃げるところなんかないんですからね。
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2011年10月13日 (木)
録画機のハードディスクに 「ボンネビルのスピード野郎たち」 という番組が録画してあった。
録画直後に冒頭の部分だけを観てみたところ、髪の毛を黄色にそめた75歳のおじいさんが、ソルトレイク・サーキットで、手作りの車を駆ってスピードレースに挑戦していた。
なるほどね、老後を趣味のレースに賭けるおじいさん、そういう番組かと思っていたんだけど、今日あらためて全編を通して観た。
ソルトレイクは米国のユタ州にある干上がった塩の湖で、まっ平らな土地が 10数キロにわたって続くところから、よく車のスピード記録挑戦に使われる場所である。
ここで年に 1回開催される車好きのお祭り 「ボンネビル・スピードレース」 には、全米から大勢のスピード狂が集まってくる。
レースといっても、これは複数の車が同時に走って速さを競うのではなく、1台づつのタイムアタックだ。
カテゴリーもロケットみたいな特注車から、市販されている車の改造車、手作り自動車、オートバイまでさまざまのクラスがあり、さらに排気量や燃料の種類によるクラス分けもある。
黄色髪のおじいさんが参加していたのはビンテージ・クラスといって、わりあいのほほんとした速さのクラス。
楽しそうだなと思いながら観ていたら、この番組の中にオートバイ部門に挑戦する20歳と 17歳の姉妹が出てきた。
なかなかきれいな娘2人だけど、オートバイは排気量無制限クラス、つまり1000ccもあるでっかいバイクである。
彼女らはお腹にタトゥーでバイクのピストンを描いているくらいの筋金入りのスピード狂。
それはいいけど、そんなバイクでぶっ飛ばして、ケガでもしたらどうするのか。
じっさいにこの番組の中にも、派手に転倒するバイクの映像もあったくらいだから、これじゃ彼女らのお母さんは娘がレースに出ることに反対しないのだろうか。
ところが娘がスピード狂ならお母さんも負けず劣らずのスピ狂だった。
娘が近所でバイクの練習をするシーンがある。
ラフなTシャツを着ているもんだから、風圧で胸がはだけてしまう。
お母さんは飛び出していって、胸もとのしまった自分のシャツと交換させるのである。
じっさいのレースでは、事故を見ていくらかびびっちゃった娘に率先して、自ら走ってはっぱをかける。
そんなモーレツ母さんの後押しもあって、この姉妹が出した記録は時速299キロと300キロ。
高校生の女の子がそんなスピードを出すかよと、男の参加者たちもあきれていたけど、これだからアメリカ人はとかアメリカの文化は、なんて理屈はいわない。
すなおに、もろ手を上げて、すげえなあと感心してしまった番組でありました。
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2011年10月11日 (火)
今日のテレビで放映されたのは韓国映画 「トンマッコルへようこそ」 って作品。
世間じゃ韓流ブームだそうだけど、わたしはその逆をゆく。
どうにも韓国映画が好きになれないのは、そのスタイルが (日本映画もそうだけど) ますます米国の映画に似てきてるから。
「トンマッコル」 にしても、ストーリーは米軍のパイロット、韓国軍、北朝鮮軍の兵士らが、ありえない平和な村に迷い込んで鉢合わせするというもの。
ストーリーだけ聞いてるとおもしろそうだけど、ちょっと冒頭の部分を観てみたら、CGと派手なドンパチ、全体としてどこかアメリカ映画の軽薄さがただよっていて、ヤッパリという感じ。
ヤケになって早送りで観たけど、早送りしたってなにしたって、アホらしい映画はアホらしいまんまだ。
せめて背景に茅ぶき屋根の民家や荒れ果てた耕地でも出てきて、まだ貧しかったころの、韓国の原風景でも観られれば価値があるのに。
そう考えて、そうかと思い当った。
そういう人は現在の北朝鮮映画を観ればいいのではないか。
さいわいあの国では金さま親子が映画好きだそうだから、中には傑作もあるんじゃないか。
たまたま 「プルガサリ」 みたいな映画に当たっても、背景になっている街や村を観ているだけでいろいろモノ思うこと多々だと思う。
そう考えて探したら、北朝鮮に行って写真撮ってきた人のサイトを見つけた。
http://hamusoku.com/archives/3444465.html
いかなる韓流映画よりも現在の北朝鮮はおもしろそう。
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2011年10月10日 (月)
ミステリーの結末をあきらかにするのはルール違反である。
そんなことは百も承知だけど、以下に述べる映画については、ひじょうに地味な映画で、テレビ放映されることもリバイバル上映される予定もぜんぜんなさそうだから、みんなバラしてしまう。

ずっとむかし、たまたま入った映画館で 「シナのルーレット」 というヨーロッパ映画を観た。
シナは “支那” のことで、このタイトルとヨーロッパ映画というキーワードだけで、なんとなくミステリーかサスペンス映画だなと思ってしまった。
映画はじっさいにミステリー映画だったから、なかなか秀逸なタイトルじゃなかろうか。
よく知らないけど、「シナのルーレット」 というのは、ふた組に分かれたグループが、たがいにヒントを出しあって特定の誰かを当てるというゲームらしい。
むかし人気のあった 「私は誰でしょう」 というテレビ番組みたいなもんか。
じつは映画についてなんの予備知識もなしに、ただわたしのお気に入りのアンナ・カリーナという女優さんが出演していたから、ふらふらと映画館に入ってしまったのである。
映画のなかに中学生くらいのませた少女が登場して、彼女が狂言まわしのような形で物語は進行する。
ほかの登場人物は少女の両親、両親のそれぞれの不倫相手、家庭教師、別荘の管理人をしている母と息子などである。
この少女は屈折していて、ひじょうに意地がわるい。
原因は父親と母親がともに不倫をしていることなどもあるのかもしれない。
父親の別荘で勢ぞろいした彼らは、雨に降りこめられて退屈しのぎにシナのルーレットというゲームを始める。
その最中にいじわるな少女は彼らの秘密をつぎつぎに暴露していくのである。
全員の秘密がどんなものだったか、ひとつひとつまでおぼえていないんだけど、たとえば別荘の管理人をしている老婆は、息子に詩作の才能があることを誇りにしているのに、少女はづけづけと宣告する。
そんなのウソよ、彼の詩なんてみんな盗作じゃないのと。
これが図星だから始末がわるい。
こうやってその場の全員に疑心暗鬼と相互不信の気持ちを生じさせ、じりじりと絶望的状況に追いこんでいくのである。
やがて屋敷の中に銃声がひびく。
誰かが自殺したらしいのだけど、考えてみると映画のラストでは、登場人物のほとんど全員に自殺する理由がある。
いったい自殺したのは誰なのか。
それをあきらかにしないまま映画は終わってしまう。
つまりこの映画では観客もゲームの参加者なのである。
これは傑作だと思ったわたしは、後日、そのころあこがれていた彼女を誘って、もういちど観に行くことにした。
彼女が誘いに応じたかどうかは秘密だ。 くそ、当ててみろ。
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2011年10月 9日 (日)
ここんところ政治ネタが少ないのは、どじょう宰相のおかげ。
どちらに対しても、そのとおりです、考慮しときますっていう首相が相手じゃ、いちゃもんをつけるネタもありようがない。
困っている自民党と同じ状態です。

で今回もまたテレビや映画のお話から。
海外旅行や辺境を旅するテレビ番組がどんどんたまると書いたばかりだけど、そんな中に 「世界の山岳鉄道/中国・成昆鉄道」 という番組があった。
なんとかいう男性俳優が、中国の成都から雲南省昆明まで列車で旅をするもので、観ているとグリーンの無骨な列車、駅のたたずまい、人々の服装などが、なんだかわたしが熱心に中国を歩きまわっていたころによく似ている。
で、調べてみたら、この番組は10年ほどまえに放映されたものの再放送だった。
それならわたしの旅と合致するからさもありなんだ。
ただし、わたしは成昆鉄道というのに乗ったことはない。
番組の中に楽山という街が出てくる。
この街のはずれには楽山大仏という、山をけずって彫られた高さ71メートルの巨大な仏像がある。
見た感じはあまり美的なセンスを感じない大仏だけど、なにしろ中国最大 (世界最大とも) の仏像なので、それだけで最近は日本からの観光客も多いようだ。
わたしもこの大仏には思い入れがある。
96年に公開された、いや、公開されたらしい中国映画に 「變臉/この櫂に手をそえて」 という作品があった。
らしいというのは、この映画が映画館で公開されたかどうか知らないからである。
わたしが観たのはテレビで放映されたものだった。

變臉は 「へんめん」 と読む。
これは中国に伝わるユニークな奇術のことで、顔につけたマスクを目にもとまらぬ早さですり替える老人と、その伝統奇術の跡取りとして買われた不遇な少女の物語である。
跡取りはほんらい男の子に継がれるものだったのに、ひょんなことから老人が買い取ったのは女の子で、そこから悲喜劇が生まれるのだけど、これは当時中国の農村に根強かった男尊女卑の考えを改めさせるというプロパガンダ映画であったかもしれない。
ちなみにこの老奇術師を演じたのは、NHKの中国語教室や、「大地の子」 ってドラマに出演していた中国の名優・朱旭さん。
女の子は無名の、しろうとだったっていう説もあるけど、舟の中で逆立ちをしてみせるあたりはただ者じゃないから、ほんとうに中国雑技団のアクロバットのこころえがあるらしい少女だった。
映画は、いいトシこいたおじさんのわたしに涙をぽろぽろ流させるというまれにみる感動作で、その中にこの楽山大仏が出てくる。
主人公の女の子が大仏の足もとでたわむれる場面があるだけなんだけど、なにしろ映画が感動的だったから、大仏そのものもわたしにのこころに深く刻まれてしまった。
映画はフィクションで、少女ももちろん架空の人物である。
にもかかわらず、わたしはいつか大仏の足もとに立って、これがあの少女が立っていた場所かと、しみじみ感傷にひたってみたいと思うのである。
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2011年10月 8日 (土)

録画機の中に映画がどんどんたまってしまうと書いたけど、映画ばかりじゃない。
わたしは海外旅行や辺境というものに関心があるので、いきおいそういうテレビ番組を録画することが多い。
つい最近もBSで 「長江・天と地の大紀行」 という番組が放映された。
これはなんとかいう若い作家が、中国の長江流域をその源流から河口までたどる、3回シリーズの紀行番組である。
こういう番組はめずらしくないけど、随所に見られるモーター・パラグライダーの空撮映像がステキである。
この第 1回目にチベット族の少女が出てきた。
彼女はシャングリラ (この地名についてはもういちいち触れない) の景勝地で、民族衣装を着て観光客に写真を撮らせる仕事をしていた。
わたしも中国の青海省というところを旅したことがあって、そういうモデルの少女に出会ったことがある。
ただ彼女が職業としてそういうことをしているとは思わなかったので、写真を撮ってお金を払わずに帰ってきてしまった。
※上の写真がわたしからお金をもらいそこねた娘。 下のガキどもはそういう点はっきりしていて、おじさん6元ちょうだい、6元、6元としつこかった。
私事はさておいて、この番組の最終回に、1回目の旅で知り合ったチベット族の少女を上海に招待するシーンが出てきた。
少女は飛行機の旅や大都会というものを知らないので、ぶったまげという設定だけど、このへんでまたわたしのヘソ曲りがむくむく。
これってやらせじゃないのか。
いまどき、いくら中国の奥地だって、旅客機も高層ビルも (知識として) 知らない娘がいるのかね。
わたしは自分でも映像に凝ったことがあるから、やらせについてはわりあい理解のあるほうだと思っている。
しかし、チベットの奥地 → 遅れている → 文明を知らない。
ブッシュマンじゃあるまいし、こんなステレオタイプな見方をされると文句のひとつもブチたくなってしまう。
この少女にしたってシャングリラで観光客相手にモデルをしていたのだ。
観光客がどこからどうやって来たか知らないはずはないだろう。
チベットとはちょっと方向がちがうけど、わたしは甘粛省にある天祝チベット自治県というところで、田舎の小さな町にネットカフェが少なくとも2つあるのを発見して、たまげたことがある。
いまから6年まえのことだ。
現在のわたしたちにとって真のおどろきは、文明を知らない人間の存在よりも、ボツアナの近代企業で働くアフリカ人の娘や、パソコンを使うチベット族の少女の存在じゃないか。
まごまごしていると日本人のほうがそうとう遅れているといわれてしまうぞ。
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2011年10月 7日 (金)
録画機の中にどんどん映画がたまってしまう。
観る時間がないのに、いちおう録画しとけってことが多すぎるからである。
アジア・フィルム・フェスからの 「デリー6」 という映画を観た。
知る人ぞしる映画大国インドの映画だけど、米国帰りの青年が故国インドでいろいろカルチャー・ショックに遭遇するという、能天気なミュージカルじゃなくけっこうまじめな映画である。
主人公の独白から始まって画面の色調まで、のっけから哲学的雰囲気がふんぷんなので、積極的に観ようって気になれないのが難点だけど。
見どころはインド人が撮った本物のインドの情景と、滝川クリステルみたいなえらい美人の女優さん。
現代のインドが舞台だから、パソコンを使ったテレビ電話が出てくるし、テレビでは月ロケットの打ち上げ実況もやっている。
そんな近代的な面もあるくせに、棄民とされるカースト制度の最下層に属する女 (これがまた美人なのだ) も出てくるし、いまだに強権をふりまわしワイロを要求する警察官、そしてむかし椎名誠もおどろいていたけど、インドの女性はいまでもみんな伝統のサリー姿だ。
とにかくインドというのはなにがなんだかわからない国なのだ。
米国帰りの青年のおどろきは、たぶんはじめてインドへ行く日本人のおどろきでもあるだろう。
インドは暑いからと敬遠していたわたしもインドへ行ってみたくなった。
映画では、しまいに魔物の迷信におびやかされ、それが民族対立の騒動に発展したりする。
つまりこれはそういう映画、近代的でグローバル化されたインドが抱える現状や矛盾を告発する映画なのだ。
そう考えるとそれほど哲学的っていうほどの映画でもないし、わたしのキライなCGもところどころに使われているみたいなのが気にくわない。
わるい映画とはいわないけど、インドが舞台の映画では、わたしにはデヴィッド・リーンの 「インドへの道」 のほうが、まだ奥ゆきやゆとり、詩情というものがあってエエと思う。
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2011年10月 6日 (木)
ジョブズさんがお亡くなりになりました。
彼が変人同盟の最上部にいる人なら、わたしは末端に属する者。
彼はわたしの所属するパソコン同好会に、特別出演したこともありますんで (勝手に写真を使わせてもらっただけだけど) 親近感を持ってました。
つつしんで哀悼の意を表します。
ブログを簡単な追悼文ですませるのは、けっしてネタ切れではありませんヨ。
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2011年10月 5日 (水)
「アイス・カチャンは恋の味」 について付け加えると、ヒロインを演じた女優さんはアンジェリカ・リーという。
別に中国名を持っていて、こちらは李心潔である。
英名と華名を持っている女優さんは香港、台湾にも多い。
最近みたいに国境をまたいで活躍する女優や歌手が増えてくると、わたしみたいに中国通のつもりでも、漢字の名前だけじゃ男なのか女なのかわからない場合があるから、これは国際化に対応したものだろう。
わたしはぜんぜん関心がないから知らなかったけど、監督、出演者などはけっこう役者や歌手として有名な人たちばかりだそうだ。
リーさんについていうと、彼女の出自はマレーシアだというから、マレーシア人であることは間違いなさそうだ。
しかしこの国はもともと華僑の多いところで、国民の3割が中国系、しかも政治的に発言力が大きい。
華僑というのは基本的なアイデンティティは中国にあっても、ほんらい国籍なんかにこだわらず、自主独立の風をもつ人たちである。
あまり映画の内容と関係がないけれど、「アイス・カチャン」 を観ていて、ついマレーシアの複雑な国内事情について考えてしまった。
マレーシアから独立したシンガポールも華僑が作った国である。
ようするに数でおとる華僑が、不満をおさえかねて独立しちゃったのがシンガポールだ。
アンジェリカさん、もしくは李さんもたぶん華僑の末裔なんだろう。
だから映画の中で彼女が演じる、腕力が強くてケンカっ早いヒロインはぴったりなのだ。
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2011年10月 4日 (火)

いつのまにかまたアジア・フィルム・フェスティバルの季節だ。
内情はよく知らないけど、アジアの、映画制作もままならない国に、NHKがわたしたちから集めた視聴料を出資してやって、貧しい芸術家たちを支援しようっていう試みらしい。
それはそれでいいことだ。
過去にもあったけど、このフェスから、ベトナム映画 「ニャム」 みたいな思いもかけない秀作が出現していることも事実なのだから。
今年のフェスの作品の中に、「アイス・カチャンは恋の味」 という映画がある。
アイス・カチャンというのはかき氷のことだそうだけど、あまりおもしろそうじゃないタイトルである。
それがテレビで放映されたので、録画しておいた。
ぼうーっとした若者の初恋の思い出を描いた映画で、あまり頭がよさそうでないこの若者が監督した映画だというから、ちょっと意外。
意外なことはもうひとつあって、これは深刻な内容をユーモアとペーソスでくるんだ、そうしょっちゅうはお目にかかれない傑作だったこと (とわたしは思う)。
しかし、ストーリーを説明するのは簡単だけど、淡くせつない観念的な感情については、どうやって文章で説明したらいいだろう。
考えているうち頭がいたくなって、どうせ一文になるわけでもないブログなんだしと、そんな努力は放棄することにした。
ちとずるいけど、以下の文章でがまんしてもらっちゃおう。
この映画を観終わってから考えた。
ここ 10年か20年のあいだに、このくらいジーンときた映画があっただろうかと。
あったかもしれないけど数は多くない。
最後の別れしなにヒロインが涙をみせるかどうかはともかく、べつべつのおもわくを抱えた登場人物たちが通りで鉢合わせする場面や、最後に主人公とヒロインがほんのすぐそばで交差しながら、相手に気がつかずに雑踏の中に消えてゆくなんて設定は、ほろ苦い青春映画としてなかなか気がきいている。
ケンカっ早いヒロインもすてきだし、あまり清潔とはいえない華人住宅や水上生活者の町並みなど、随所に見られるマレーシアの風物もわたしにとって、なかなか興味あるところだし。
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2011年10月 3日 (月)
武蔵境の駅前に新しい図書館ができたので行ってみた。
オープンしたのは7月だというから、いままで気がつかなかったわたしとしちゃあちょいと手抜かりだ。
館内にカフェまであるので、そこに座ってジンジャエールを飲みながら、ナショナル・ジオグラフィックや写真雑誌、美術雑誌などをのぞく。
飲みながらもすぐ近くにある書架から、雑誌をとっかえひっかえできるのがいい。
しかし団塊の世代はおくゆかしいのだ。
300円のジンジャエールで何時間もねばるほど図々しくないから、早々に自由席に移動した。
それで思ったけど、どうも図書館てところは居心地がわるい。
となりにカワイイ女子高生でも座ると、そっちに気をとられたりして。
やっぱりこころゆくまで本を読もうと思ったら、自宅がいちばんいい。
わたしにとって読書というのは、たんに本を読むというだけでなく、自由な思索にふける行為でもあるので、雑念に気をとられたくないのである。
たとえばのハナシ、わたしの家には図鑑の類がある。
なにか調べようと思ったら図書館に行けば、わが家よりずっと充実した図鑑が備わっている。
調べるだけなら図書館で十分だ。 だいたい図鑑というやつは厚くて場所を取るし、値段も高いのだ。
しかしわたしの場合、図鑑で調べながらも、頭はつねに中空をさまよっている。
小鳥の名前や種類を調べながらも、こころは宇宙や自然界の森羅万象について考えたりしちゃっているのだ。
紀行記や探検記を読む場合もそうだ。
読みながら、こころはいつのまにか時空を飛び越えて、過去をきまよったりしているのである。
そんなときにまわりにカワイイ女の子なんかに座られては困るのだ。
思索や空想にふけるのは、ベッドの上にだらしなくくつろぐか、長っ風呂に入っているときがいちばんいいのである。
というわけで、図書館が身近にあっても、やっぱりわたしの家の本棚をさっぱりと整理しようって気にはなれない。
図書館というのは陳列台とこころえて、じっさいに読むのは自宅(のベッド)にしよう。
そんなつもりで、今日借りてきたのは、最近あまり話題にならず、本屋でもめったに目にしない野坂昭如さんの本。
わたしが若いころの流行作家は、五木寛之と野坂昭如で、上品な五木がいいか下品な野坂がいいかと、よく友人たちと論争したものである。
わたしは野坂派で、その下品さいやらしさが人間真理をついていると、がんこな論陣を張ったものだ。
こんな本を読むとますます女子高生からヘンタイと思われそうだけど、いまどきの若い娘がこの作家の本を読んでいるわけがないから、ま、大丈夫だろう。
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2011年10月 2日 (日)
隆の山といえば、ついこのあいだ生まれて初めて大相撲を見に行ったとき、その日の大一番のひとつに登場した相撲取りである。
まだようやく幕内に上がったばかりの力士だけど、典型的なソップ型 (やせっぽち) 力士で、それが幕内最重量の臥牙丸と対戦したのだから、これは見ものだった。
じっさいの勝負は大一番というにはもの足りなかったけど、勝負はつねに番狂わせとはかぎらないから仕方がない。
週刊新潮に、この隆の山に愛人と隠し子がいたという記事が載っていた。
そんな他人のスキャンダルばかり追求して、どこがおもしろいんだと、まゆをひそめる輩がいるかもしれない。
そういえば新潮社には、かって 「フォーカス」 という写真週刊誌があって、わたしはそれも欠かさず愛読していたものだ。
友人の中には、あんなスキャンダル雑誌のどこがいいんだと、あからさまに軽蔑の目を向ける者がいた。
わたしはそうは思わなかった。
同じ写真週刊誌の 「フライデー」 にはたしかにそういう傾向がある。
しかしフォーカスは違っていた。
フォーカスには強者に対する批判精神が充満していたと思う。
役者やタレントがくっついたのはっついたのというニュースはどうでもいいけど、事実フライデーに比べればフォーカスにはそういう記事は少なかったけど、政治家や企業のトップのスキャンダルはどしどし報道すべきなのである。
権力を笠に着た人間が、その職権を利用してキレイな姉ちゃんを囲うなんてことは、ワタシにはとっても関心があることなのである。
早いハナシ、わたしたちがたまたまどこかで権力者の腐敗や違法行為を知りえたとき、フォーカスはそれを告発するいい受け皿だったわけである (いまならインターネットがある)。
一方でフォーカスには弱者に対するあたたかいまなざしが存在していた。
たとえばわたしがよくおぼえているのは、フランスで若い娼婦2人が将来を悲観して自殺したという記事。
フォーカスの記事には、世間のかたすみで誰にもかえり見られないまま死んでいった弱者に対するあわれみの気持ちがあふれていた。
だからわたしは、フライデーは金を出してまで買おうって気にならなかったけど、フォーカスだけは欠かしたことがなかった。
今回の週刊新潮の隆の山の記事でも、スキャンダル報道の側面はあるけれど、全体としてどこかあたたかい視点が感じられる。
バカをみる役割は鳴戸親方だけにまかせるというオチが非常によろしい。
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2011年10月 1日 (土)
9月9日のこのブログで、なんとかいう大臣が原発被災地の街を 「死の街」 のようだと発言したこと、それのどこが問題なのかと書いたことがあるけど、昨日の新聞で池上彰さんが同じようなことを書いていた。
池上さんは朝日新聞に月に 1度くらい、もっぱら新聞を叱責するコラムを持っていて、政治や社会ではなく新聞自身の問題を取り上げている。
わたしのブログとちがって、こちらは記事も長いし、内容もずっと詳しい。
ここでは新聞は、「死の街」 をなんとかしなけりゃいけないという重要な問題より、とりあえず大臣の発言を取り上げて騒ぐという、安易な道を選んだんじゃないという指摘である。
池上さんだけではなく、世間にも、新聞社内部にも同じような意見が多かったという。
そうだそうだと喜ぶのはやめておくけど、やっぱりわたしの考えも捨てたもんじゃないと思う。
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