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2011年10月 3日 (月)

図書館

武蔵境の駅前に新しい図書館ができたので行ってみた。
オープンしたのは7月だというから、いままで気がつかなかったわたしとしちゃあちょいと手抜かりだ。

館内にカフェまであるので、そこに座ってジンジャエールを飲みながら、ナショナル・ジオグラフィックや写真雑誌、美術雑誌などをのぞく。
飲みながらもすぐ近くにある書架から、雑誌をとっかえひっかえできるのがいい。
しかし団塊の世代はおくゆかしいのだ。
300円のジンジャエールで何時間もねばるほど図々しくないから、早々に自由席に移動した。
それで思ったけど、どうも図書館てところは居心地がわるい。
となりにカワイイ女子高生でも座ると、そっちに気をとられたりして。

やっぱりこころゆくまで本を読もうと思ったら、自宅がいちばんいい。
わたしにとって読書というのは、たんに本を読むというだけでなく、自由な思索にふける行為でもあるので、雑念に気をとられたくないのである。
たとえばのハナシ、わたしの家には図鑑の類がある。
なにか調べようと思ったら図書館に行けば、わが家よりずっと充実した図鑑が備わっている。
調べるだけなら図書館で十分だ。 だいたい図鑑というやつは厚くて場所を取るし、値段も高いのだ。
しかしわたしの場合、図鑑で調べながらも、頭はつねに中空をさまよっている。
小鳥の名前や種類を調べながらも、こころは宇宙や自然界の森羅万象について考えたりしちゃっているのだ。

紀行記や探検記を読む場合もそうだ。
読みながら、こころはいつのまにか時空を飛び越えて、過去をきまよったりしているのである。
そんなときにまわりにカワイイ女の子なんかに座られては困るのだ。
思索や空想にふけるのは、ベッドの上にだらしなくくつろぐか、長っ風呂に入っているときがいちばんいいのである。
というわけで、図書館が身近にあっても、やっぱりわたしの家の本棚をさっぱりと整理しようって気にはなれない。

図書館というのは陳列台とこころえて、じっさいに読むのは自宅(のベッド)にしよう。
そんなつもりで、今日借りてきたのは、最近あまり話題にならず、本屋でもめったに目にしない野坂昭如さんの本。
わたしが若いころの流行作家は、五木寛之と野坂昭如で、上品な五木がいいか下品な野坂がいいかと、よく友人たちと論争したものである。
わたしは野坂派で、その下品さいやらしさが人間真理をついていると、がんこな論陣を張ったものだ。
こんな本を読むとますます女子高生からヘンタイと思われそうだけど、いまどきの若い娘がこの作家の本を読んでいるわけがないから、ま、大丈夫だろう。

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