« 2011年10月 | トップページ | 2011年12月 »

2011年11月

2011年11月30日 (水)

ウォーキング

475

すこし血圧を下げなくちゃいけないようだから、なにか運動でもするかと考えたものの、激しい運動は体にわるい。
太極拳なんかどうだろう。
本場の中国で見たことがあるけど、やっているのはたいていジイさんバアさんだ。
動きもゆっくりしていて、あまりきつそうでもない。
あれならいいだろうと考え、知り合いに話したら、いやいや、太極拳だって終わったあとは汗びっしょりになるんだよとのこと。
びびっちゃって、太極拳も中止、無難なウォーキングをすることにした。

わたしの家からもよりのJR駅は武蔵境だけど、そこまで寄り道をしながらのんびり歩くと1時間少々かかる。
境駅の喫茶店でイップクし、そこからさらに吉祥寺まで4、50分。
これだけ歩くと体がほてってきて、おっ、体脂肪が燃えているなという実感がありあり。
歩くということはすべての運動の基本だし、その割には年寄りにも運動神経のにぶい人にも誰にでもできる運動だ。
だいたい歩けなくなったら旅行する楽しみもないではないか。
わたしにとって、これはとくに大きな問題だ。
そういうわけでウォーキングは世間のジイさんバアさんにぜひすすめたい運動だけど、問題は単調すぎてつまらないということかもしれない。
ウォーキングってそんなにつまらないか。

歩いていると前方からチャリンコで、これ以上短くできないくらい短いスカートをはいた女子高生がくる。
後ろからは、思わず両手でささえたくなるようなむっちりしたお尻の若い娘がチリンチリンと追い越していく。
こんな楽しい景色をながめながら歩いていると、2時間ぐらいのウォークはあっという間だ。
じっさいに手を出してさわったりしたらマズイと思うけど、頭の中で妄想するだけなら、あの谷崎潤一郎も永井荷風もやっていることだ。
もっとじゃんじゃん歩くべし!
あ、わたしはまだまだ若い女の子いつでも来いの壮年だからね。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月29日 (火)

羅生門拾遺

デジタル・リマスター版の 「羅生門」 を観た。
とうぜん何か書かなくちゃと思ったけど、こんな有名な映画についてあれこれいっても仕方がないから批評はしない。

批評じゃないけど、小川のほとりに馬を停めて、京マチ子扮する人妻が憩っているシーンがある。
なにげなしにこの場面を観て、あれ、べルイマンの 「処女の泉」 みたいだなと思った。
そういえば両方ともほとんど森の中が舞台である。
木もれ日が美しいところなんかもよく似ている。
ヒロインが強引に犯されちゃうところまでそっくり。
なるほどと納得してもなにも出てきません。 このブログからは。

昨夜が 「羅生門」 なら今夜は 「地獄門」 だ。
ちょっとワル乗りしすぎじゃないかと思ったけど、こちらもカンヌ映画祭のグランプリだ。
両方のヒロインが京マチ子だ。
とかくの噂もあった人らしいけど、演技派の女優さんとしても本物だった人なのだ。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

ウィキペディア

パソコンでいろいろ調べたりするのが好きな人でウィキペディアを使ったことのない人はいないと思うけど、だいぶ前からそのトップページで寄付のお願いがされている。
お願いをしているのは創設者のジミー・ウェールズであったり、プログラマーのブランドン・ハリスであったりする。
寄付の依頼というと、最近ではやたらいろんな名目のそれが増えて、貧乏人にはとても全部に応じられないというのが本音だけど、ウィキペディアの場合はわたしもちょいとこころを動かされる。

ウィキペディアというのは、世界中のパソコン愛好者によって記事が書き込まれたネット上の百科事典である。
ということは誰でも知ってると思う。
なにしろ有名無名の個人によって書かれた記事だから、中には本気で信じるとマズイというものもあるらしい。
また 「中国」 みたいに中傷誹謗の対象になって、けちょんけちょんの記事ばかりになりかねない事柄もあり、内容について賛否のわかれるものもあるらしい。
あんまり信用するのは危険だよとわたしも揶揄したことがあるけど、そこはそれ、自覚して使えば便利、そうとうに便利なものである。
「AKB48」 なんて項目のある百科事典はなかなかないゾ。

いまではウィキペディアの利用者は、毎月4億2200万人に達し、世界で5番目に人気のあるウェブサイトですとのこと。
感心するのは、のぞいてみればわかるけど、このサイトは広告を取ってないことである。
ネットというのはビッグビジネスのチャンスがごろごろしているところで、ウィキペディアが広告を取れば、創設者は大金持ちになっていたことだろう。
なぜそれをしないかということは、ジミー・ウェールズによる寄付のお願いの中に書いてある。
で、わたしも千円ぐらい寄付しようかと・・・・・ いや、ケチじゃない。千円で十分だ。
なにしろ4億2200万人だから、その 1パーセントの人が千円寄付したってハンパな額じゃない。
ただネットでクレジットカードを使うのに抵抗を感じるほうだから、わたしの場合まだもたもたしているのである。

| | | コメント (2) | トラックバック (0)

2011年11月28日 (月)

大人の対応

読売巨人軍が清武もと代表を訴えたって。
まるで子供のケンカだよな。
こういうときは、あいつもなかなかいうじゃないかと鷹揚にかまえて、オレもすこしは口をつつしむかって反省するのが大人の対応。
もちろん代表のクビはそのまま。
明治の政治家、実業家には、こんな子分をうならせるような大物がたくさんいた。
最近の日本人はどんどん小粒になってるぞ。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月25日 (金)

NHKの体質

000_3

NHKの料理番組に、胸元の大きく開いた服にエプロン姿のグラビアアイドルが出演していたことが分かり、放送総局長が謝罪とのこと。
へえ。
いいじゃねえか。
ったく、なんてつまんないことを騒いでるんだ。
料理番組や外国語会話教室に、胸もとばかりか、ミニ、ボディコン、網タイツの美女がどしどし登場したってそれがなんだというんだ。
再放送してくれ、わたしも観たい。

ずっと以前、NHKの中国語会話で中国語を勉強していたとき、講師のきれいな女性の口もとのアップが出てきて、それがじつにイロっぽく、録画して何度も観た。
おかげで勉強がはかどったって実績がある。
NHKではこりゃまずいと思ったらしく、次回からアップがなくなってしまった。
バカ者めが。
無粋で強圧的でファシズム的な体質は変わってないな。 視聴料返せ。

※画像はネットで見つけたそのグラビアアイドル。
料理番組にこういうものがドーンと出てきていけないって法律でもあんのか。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月24日 (木)

談志

立川談志が死んだって新聞テレビが大騒ぎだけど、ワタシ、この落語家にぜんぜん興味がない。
やはり談志に興味がなくて、オレってどこか変なのかなってお悩みのあなた。
談志を無視するこのブログをこころの柱に、力強く生きればよい。
あなたは孤独 (ひとり) じゃないのだ。
というのは、ひょっとするとわたしに対するなぐさめかも知れないなと思う今日このごろ。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月23日 (水)

読売新聞

わたしは朝刊夕刊をとるいまどきめずらしい新聞の購読者だから、他の新聞販売店からしょっちゅうねらわれている。
昨日は読売新聞が入っていた。
こんなものを入れてくれと頼んだおぼえはないけど、なんとかして一度は読ませて、読売の素晴らしさを体感させて、あわよくば契約してもらおうという魂胆らしい。
ま、タダより安いものはないから、いちどは目を通してみた。

先日死刑囚全員の死刑が確定したオウム真理教の事件は、読売のスクープによってその陰謀がとん挫したといいたいようである。
それはいいけど、いま話題になっているナベツネと清武GMのごたごたについてはひとことも触れてないじゃないか。
そのくせ巨人に行きたいからといって日本ハムを蹴っとばしたなんとかいう選手の記事は大きい扱いだ。
大王製紙の御曹司が巨額の金をばくちに費やしたのも、部下が上司に逆らえないという企業の風土がいけなかったわけなのに、読売でも絶対権力者に逆らえないという萎縮した風土が見てとれる。
新聞社たるもの、こういう事件こそ、たとえそれが身内のものであっても、大々的に取り上げなければいけないのではないか。
連載マンガも朝日の 「ののちゃん」 に比べるとぜんぜん毒がなくってつまらない。
ふざけるな、読売!
わたしが新聞の契約を変更することは、こと読売に関しては未来永劫にありえないのだ。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月22日 (火)

蟷螂食蝗

474

散歩しながら見つけた光景。
カマキリがイナゴを美味しそうに食べているところだ。
じっさいに美味しいかどうかわからないけど、たぶん美味しいのだろう。 イナゴは人間でさえ食べるくらいだから。
一句浮かんだ。
 ≪かりかりと蟷螂蝗の顔を食む
似たような句が御大・山口誓子さんにあったような気がしないでもないけど・・・・・・

| | | コメント (2) | トラックバック (0)

血圧

昨日の夕刊にウクレレ漫談の牧伸二さんの記事。
彼は2002年に脳内出血で倒れて、それ以来現在もリハビリ中だそうだ。
倒れたときの状況について語っているんだけど、自分で異常を感じとって、タクシーで自宅に帰り、救急車を呼んでもらってそのまま入院したとか。
あまり楽しくない記事である。
じつはわたしにも似たような経験があるから人ごとじゃない。

1年半ほどまえにとつぜんひどいめまいを感じて、友人の車で病院にかつぎこまれたことがある。
病院では脳溢血をうたぐったようだけど、検査してみたらべつにそんな気配はなかったようで、入院もしないでその晩のうちに自宅に帰ってきてしまった。
ただ、そのときに血圧を測ったら200もあった。
わたしはそれまですこぶる健康、血圧なんて気にしたこともないから、200ってのは高いんですかとのんきなことを訊いていた。
高いなんてもんじゃないそうである。
牧伸二さんの記事にも、倒れたとき血圧が200を超えていたとある。

そこでつらつら、そのころなにか血圧を上げる原因があっただろうかと考えてみた。
味噌汁をがぶがぶ飲んだくらいで、ほかに生活に大きな変化があったおぼえはない。
しかもそれ以来なんともない。
血圧も、いくらか高めだけど、ほとんどそれ以前の数値にもどってしまった。
すると安心して、当初は塩分取りすぎなんかに注意したものの、最近ではまた食生活ももとの木阿弥である。
それでももう1年以上、血圧は横ばいのままだ。
血圧が上がる理由はたくさんあるけど、ある日とつぜん急上昇して、また下落するってのはなにが原因なのだろう。
株なら格付け会社の評価ひとつで上がったり下がったりするみたいだけど。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月18日 (金)

選別

山口文憲サンの 「香港・旅の雑学ノート」 というのはふざけた本である。
ふざけた本だけどとってもおもしろい。
おもしろいけど、こういうふざけた本は図書館には置いてないのだ。
で、いまいろいろと思案中。

わが家の書籍を整理しようなんて思い立ったのは、最近よく武蔵野市の図書館を利用するようになったせいもある。
図書館にある本を自宅にも置いておく必要はないのである。
ただ、わたしは雑念にとらわれながら本を読むのがキライなので、本気で本を読むためにはやはり自宅の本を手放せないなんてことを、このブログに書いたことがある。
それはそうだけど、そんなことをいっていた日には、いつになっても部屋の中が片付かない。
そこでこころを鬼にして、少しづつ書籍の大粛清を敢行中なのだ。

わが家には図書館に置いてない本もある。
そういう本まで捨ててしまうと、あとで読みたくなったとき不便だから、ネットで図書館にある本を検索して、図書館とわが家の両方にある本を重点的に処分することにした。
名作、古典の類はだいたい図書館にもあるから、そういうものはまっ先に処分してしまう。
あとに残るのは必然的に、ふざけた本、有名でない本、青少年の教育によろしくない本も図書館に置いてないから、そういう本ってことになり、上記の山口サンの本もその1冊だ。

取捨の選別をするためにいろいろ調べてみたら、さすがは図書館、ないだろうと思った本でもたいていは置いてあるようである。
「酒について」 という本がある。
これは英国の作家が書いた呑ン兵衛のための本で、ついつい酒がはかどっちゃいそうな楽しい本だ。
楽しいのはいいけど、あまり教育によろしくなさそうだから、こういう本は置いてないだろうと思ったら、ちゃんとあった。
「子供たちは森に消えた」 って本がある。
これはソ連崩壊のころロシアで起こった猟奇殺人のてんまつを描いた本で、変態傾向の人が好みそうな本だから、とうぜん図書館にはないだろうと思ったら、これもあることがわかった。
やけになって、マンガなら置いてないだろうと、たまたま家にあったみつはしちかこの 「小さな恋のものがたり」 なんて検索してみたら、これもあった!
なんでそんなマンガが家にあるのかということについては、そこはそれ、悲しくも数奇な物語があるのだが、それはまた別の機会に書くことにしよう。

こんな本ばかり並べると、おまえの家にはロクな本がないではないかといわれてしまいそうだけど、これはあくまで図書館になさそうな本ばかりを並べたものだからね。 誤解なきよう。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月17日 (木)

転換期

電子書籍に抵抗のあるわたしだけど、つい先日、ひたひたと押し寄せるその荒波を感じる出来事が。
わが家にはアナログ版の広辞苑があった。
うちにあった本の中では、牧野富太郎の植物図鑑についで、まくら代わりに使えるくらい厚い本だった。
それがついにご臨終である。
正確にいうと可燃物ゴミとして出しちゃったってことなんだけど、どうしてそうなったのか。
やっぱりネットのせいだよな。
広辞苑は電子版を持っているので、本のかたちのそれはほとんど使わなくなってるし、動物植物について調べるのもネットのほうがお手軽だ。
そういうわけでこの2冊は枕を並べてゴミになっちゃったわけなんだけど、そんなくらいならオークションにでも出せばという人がいるかもしれない。
広辞苑についてはともかく、牧野版の植物圖鑑なんか、ネット上で中古品が 1万円なんて値がついてたぞ (いまどきモノクロの図鑑が売れたかどうか知らないけど)。

どうも欲のないのが欠点のわたしだ。
いま部屋の中を整理しようと考えているので、これからも貴重な書籍、物品が路上に放り出される可能性大。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月16日 (水)

ブレードランナー

Br1

「ブレードランナー」 がテレビで放映された。
わたしが何か書くと思った方。 もうしわけないけど、ワタシ、この映画好きじゃない。
原作も読んでないし、読んでいたとしても大幅に改造されているみたいだし。
ハリソン・フォードもキライ。
関係ないけど、ロイ・シャイダーもキライ。
わたしのこころの中には、スピルバーグやルーカスやコッポラなんて連中の映画に拒絶感があるみたいだ。
リドリー・スコットだって、歴史に残るような傑作ひとつも作ってないでしょ。
メイキングまで放映すんな!

昨夜録画した番組では 「アメイジング・ボイス」 って番組が秀逸、米国のゴスペル教会がめっちゃ迫力。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月15日 (火)

ゴヤ展

003a

今回は版画についてはほとんど無視してしまったけど、大きな絵だけを観ていて気がついたことをひとつ。
堀田善衛の 「ゴヤ」 という理屈っぽさそうな本を読んだことはこのブログにも書いた。
そこではゴヤの最初の奥さんだったホセーファ・バイユーという女性の肖像画 (上の画像) について、子供を何人も生んで所帯やつれしているとか、おとなしく家庭を守った女性のうらみ節みたいなものが見てとれるとか、いろんなことが書いてある。
ところが近年の見解では、この絵は、じつは最初の奥さんではないとされているという。
となると堀田さんの本は大幅に修正を余儀なくされてしまう。
といってもこの本がつまらないというわけじゃ、決してないけれど。

だいたいわたしは 「ゴヤ」 を読んだ当初から疑問に思っていた。
たとえば有名な 「カルロス4世の家族」 という絵があり、堀田さんはゴヤが国王をまぬけづらに、お妃をいじわるそうに、息子は能無しに描いたなんて書いているけど、ホントに絵を観ただけでわかるのか。
これってあとづけの意見じゃないのか。
わたしはこれまでの人生で、いじわるそうな人が意外と親切だったり、まじめそうな会社員が会社の金を使いこんだり、人は見かけによらないという実例をたくさん見てきた。
だから絵の中の静止した人物を観ただけで、とてもその人となりまで断定することはできない。

Goya002

「フェルナンド7世」 という肖像画もある。 カルロス4世の息子のその後を描いたものである。
人間の本質を見抜くことにたけた偉大な画家のゴヤは、彼をチビで間抜けで執念深い人物に描いたと、堀田さんは書く。
しかしわたしたちは後世の人間だから、じっさいのフェルナンドって人がどんな人だったか知っている。
彼は王政復古をめざし、自由主義者を弾圧した愚劣な王というのが歴史的評価である。
だから堀田さんはその通説にしたがって文章を書いたんじゃないか。
下の画像はフェルナンド7世の絵だけど、なんの予備知識もなしに、これが間抜けで執念深い人間だと断言できる人がいるだろうか (そういわれればそう見えなくもないけど)。

人間の評価なんてみる人によってぜんぜん変わってしまう。
山本周五郎は従来悪役とされてきた仙台・伊達藩の原田甲斐を、「樅の木は残った」 で正反対の忠臣として描いた。
ゴヤ展で、画家の奥さんであるとされていた絵がそうではないと知ったとき、わたしはあらためて通説にしたがうのは危険だと思ってしまった。
またへそまがりといわれてしまいそうだけど、わたしのいわんとすることは、世間の常識やエライ人の意見などを丸のみにするのは危険だということなのである。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月14日 (月)

着衣のマハ

002a

観てきました、国立西洋美術館でゴヤ展を。  『着衣のマハ』 を。
今回のゴヤ展では、マハの絵以外に、 「気まぐれ」 や 「戦争の惨禍」 など版画作品が多かった。
もちろんこうした作品をぬきにしてゴヤは語れないけれど、正直いって絵画を守るために照明を落とした館内で、ハガキより二まわり大きい程度の版画を観るのは、そろそろ老眼ぎみのわたしにはひじょうにつらかった。
画集などでゴヤについて勉強していたわたしにとって、ほとんどがどこかで観たことのある絵ばかりなのもつらい。

そういうわけで版画は無視することにして、さてマハのことだけど。
「裸のマハ」、「着衣のマハ」 のマハってのは、女性の名前かと思っていたらそうではなかった。
これは小粋なスペイン娘という不特定多数をさす言葉だそうで、日本でいうところの小町娘みたいなもんらしい。
有名な 「黒衣のアルバ公爵夫人」 という絵で、夫人が着ている黒い衣装はマハの衣装、つまり当時のいきな女性たちの外出着だったそうである。

002b

「着衣のマハ」 は、寝間着みたいなもんをまとったオンナの人が、いつでもOKよって感じでソファに横たわっている絵である。
この絵には 「裸のマハ」 という姉妹絵があって、そちらでは同じポーズで同じソファに横たわったすっぽんぽんのオンナの人が、うっふーんと誘惑するように微笑んでいる。
わたしとしては、もちろん裸のほうが観たかったけど、今回はプラド美術館で貸してくれなかったようだ。
貸さない理由は、美術館の目玉がふたついっぺんに留守になってはまずいということ以外に、いまの日本じゃ大事な絵が放射能に汚染されたら困るという風評被害によるものかもしれない。
このふたつの絵は並べてナンボの絵なので、片方だけじゃ片手落ちなんだけど、まあ、このさいだから仕方がないか。

これが描かれたころのスペインでは、ヌードの伝統のある西洋なのに、なぜかまっ裸の女の人ってのは描いちゃいけなかったそうだ。
だから着衣のほうのマハについては、官憲に踏み込まれたさいのカモフラージュとして描かれたって説がある。
そんな事情はともかく、実物のマハの絵を近接して老眼鏡でながめると、たんねんに細部まで描きこんだというより、自在な筆さばきでささっと仕上げた、ラフな職人仕事という感じがしてしまう。
それがメガネをはずしてはなれて眺めると、とたんにみごとな美人画になってしまうのだから、これはやっぱりベテラン画家のわざだなあと思う。

「裸のマハ」 がエロチックな絵であることは論を待たないけど、想像力の豊富な人にとっては、着衣のほうもなかなか、あるいはそれ以上にエロっぽい。
裸のほうのマハは、(顔はともかく) 体のほうは成熟した女のそれなので、童貞の少年が観たら恐怖を感じることがあるかもしれないけど、着衣のほうはそれぞれが勝手に衣装の下のカラダを想像できるのがいい。
服を着ているおかげで、まだまだつぼみの処女の肉体かもしれないなんて勝手に想像することもできるわけだ。
ふざけた意見で申し訳ないけど、なんせワタシ、かたっ苦しいお話は好きじゃないもんで。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月13日 (日)

花ふたつ

473a

最近花の写真が少ないとなげいている人は、あまりいないと思うけど、今日はひさしぶりに自然観察園までぷらぷら。
そろそろ目につく花も少なくなる季節である。
それでも後家のふんばりみたいに黄色い花がかたまって咲いていた。
アワコガネギクって花らしい。知らなくてもかまわない。わたしも知らなかった。
ほかにツワブキの黄色い花も。
花に罪があるわけじゃないけど、わたしはツワブキって花はあまり好きじゃない。

473b

ほかに、たまたま見つけたのはリンドウである。
いくら自然観察園でもこんなものがやたらに咲くわけはないので、これは人工的に植えたものだろう。
もっとも、厳密にいえば、自然観察園の中に純粋に野生の花なんてひとつもないのではないか。
ま、散歩しながら、めずらしい花をまとめて見られるんだから文句はいわないけど。
上の画像はアワコガネギク、下はいわずもがな。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月12日 (土)

ゴヤ

01a_4 前項の記事は、じつは近いうちにゴヤの 「着衣のマハ」 という絵を観にいくつもりなので、その伏線のつもりだった。
絵を鑑賞するにはその絵の背景について知っておいたほうがいいのである。
そういうわけで、下調べのつもりで図書館に行ったら、堀田善衛の 「ゴヤ」 という、とっても理屈っぽそうな本が目についた。
ぶ厚い文庫本で、しかも4冊に分かれている。
ネットで調べたら、この本を読んで感動した人が、ほかに大江健三郎の本も読んでいるという記事を見つけたから、それだけで読む気がなくなったけど、理屈っぽいことにまちがいがなさそうだ。
理屈っぽい本はキライである。
しかし下調べなんだからとちょいと目を通してみた。
たちまちひきこまれてしまった。
つらつら考えてみると、おもしろい本がいい本とはかぎらないけど、いい本がおもしろい本であるというのは真理らしい。

この本のおかげで、ゴヤの時代がどんなものであったかよくわかった。
ゴヤといえばスペインを代表する偉大な画家だけど、当時のヨーロッパでは画家というのはたんなる職人で、仕事はもっぱら肖像画、つまり現代の記念写真屋みたいなもんだったそうである。
そして彼の生きた時代のスペインはそうとうイカれた国だったらしい。
政治的には、世界に植民地をもっていた栄光の時代は過去のものとなり、ろくでなしの国王とその息子、ナポレオンの仏軍、国内の自由主義者などが入り乱れて、まさに激動の時代といってよかったそうである・・・・・・

当時のスペインの王侯貴族たちのあいだには、日本の平安貴族のようなフリーセックスがまん延していたらしい。
やんごとなき貴婦人たちも、手近にいる男なら誰だっていいって具合で、若いころの自画像ではあまりモテそうな顔をしていないゴヤも、他人の奥さんであったアルバ公爵夫人と浮名を流しているくらいだ。
添付した画像の上は若いころのゴヤ (左) と熟年のころのゴヤ (右)。
しぶい熟年のころならともかく、若いころのゴヤならわたしのほうがイイ男だ。

01b_3 これだけならゴヤは、たまには貴族の奥さんともねんごろになっていたモテモテの宮廷画家ってところだけど、彼の偉大さはそんなめぐまれた境遇にあまんじることなく、やがて 「1808年5月3日」、「気まぐれ」、「戦争の惨禍」 などを描いて、人間の愚劣さ、残酷さを告発し、その本質にせまる画家に脱皮したところにある。
しかしそんなことはたいていの人が知っている。
わたしがゴヤを好きなのは、添付した下の画像、「我が子を喰らうサトゥルヌス」 という絵だけど、こんな絵を食堂にかざってよろこんでいたというから、彼もまた変人同盟の名誉会員の資格のある人だと思うからなのだ。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月11日 (金)

モジリアーニ

Mo

1枚の絵がある(ふたつの絵をひとつに合成してある)。
モジリアーニの絵である。
傑作である。
なんてことは誰でも知ってるし、わたしも知ってる。
雑誌やポスターや、ラーメン屋の壁に貼ってあるカレンダーなんかで、この画家の絵を見たことのない人はまずいないだろう。

しかし、画家や時代背景について何も知らなかった若いころ、はじめてこの絵を見て、首の長い女性をへんてこりんなプロポーションだとか、瞳が描かれてないせいで冷たい絵だなと思ったくらいで、わたしは特別に感心しなかった。
わたしの若いころの60年代から70年代というのは、新ルネッサンスというべき時代で、スタンダードな油絵ついては、ほとんどあらゆるテクニックがきわめ尽くされていたこともあるし、世間にはグロテスクな、お化けみたいな女性像がめずらしくなかったってこともある。

しかし、ここで絵を見るさいの姿勢について所感をいうんだけど、人はなんの予備知識ももたずに絵画の鑑賞ができるものだろうか。
すこしは絵画といものに関心があって、読書好きの人なら、いつかしぜんにモジリアーニという人の生涯を知ることになるだろう。
だてにトシをとっていたわけじゃないから、わたしの場合もそのうちこの画家のデータが蓄積されていくことになった。
それと同時に彼の絵に対する評価も変わっていった。

モジリアーニというの人生については、いまでは多くの人が知っている。
貧困と病いと飲酒という芸術家の理想?みたいな生き方をした人である。
ジャンヌ・エビュテルヌという女性といっしょになり、彼女をモデルにした傑作をいくつも描き、本人は36歳で病死した。
彼の死にはおまけがあって、ジャンヌが2日後に後追い自殺をした。
つまり、モジリアーニの絵には純愛というドラマチックな要素がついてまわっているのである。

このことを知ってからは、わたしの目にはこの絵はひじょうに暖かい、人間味あふれるものになった。 傑作であるとも思うようになった。
そりゃ感傷的すぎるという人がいるかもしれない。
だけど、どうだろう。
モジリアーニが豊かな家庭のお坊ちゃんで、莫大な遺産を相続して、美人の奥さんをもらい、株式投資かなんかをやりながら、まるで絵に描いたような幸福な人生をまっとうした人だとしたら、彼の絵がこれほど評価されただろうか。
たぶん半分ぐらいは評価が下がっていたんじゃないだろうか。

こういう態度は絵画を鑑賞するうえで邪道だという人にあえてさからわない。
わたしがいいたいのは、絵を観るときは、その絵の背景をよく勉強してからにしたほうがいいということである。
そうでないと、ダヴィンチの絵の前で、おお、これがモナリザかいと感激した政治家と同じことになってしまう。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月10日 (木)

サクリファイス

00s_5

タルコフスキーはわたしのニガ手な監督のひとり。
なんでかって、とにかく暗い。
クラすぎるのである。
初期の作品 「僕の村は戦場だった」 も暗いけど、これはまあ、ちゃんとしたストーリーがあって、内容も暗い作風がぴったりっていう映画だったからがまんできるけど、だんだん観念的なひとりよがりの作品が多くなってきた。
閉口。

今日放映されたのは彼の晩年の作品 「サクリファイス」。
レンタルビデオで観たことがあるけど、冒頭からもうやたらに暗い。
暗いばっかりでさっぱり意味がわからない。
わかろうと努力する以前の問題で、最後まで観ようって気にぜんぜんなれない映画だった。
こういうのを芸術映画だってもてはやす人も多いらしいけど、映画なんだからまず観たいという気をおこさせないようなものは、それだけで失格じゃないか。

それでもこの映画で得たものがひとつ。
タイトルバックに流れるバッハの 「マタイ受難曲」 のアリアである。
わたしはこの曲をこの映画ではじめて聴いたんだけど、その絶望的なまでに悲しい旋律にいっぺんでとりこになってしまった。
こんなすてきな音楽があったのかと教えてくれた映画。
「サクリファイス」 についてはそれしかない。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月 8日 (火)

にあんちゃん

001

録画してあった 「にあんちゃん」 を観る。
はるかむかし、先生に引率されて、ションベン臭い映画館で観たおぼえがあるけど、内容はほとんどおぼえていない。
それで映画を観ながら、ネットであらすじ、背景などを調べてみた。
この物語は佐賀県にある入野中学校 (今の肥前中学校) に通っていた貧しい兄妹を描いたものだそうで、その学校のホームページに 「にあんちゃん」 の説明がある。
映画を録画してない、本も読みたくないという人は、このホームページの記述がわかりやすくていいから読んでみたらどうか。
http://www2.saga-ed.jp/school/irino-es/nian/nian-jr.html

じつはわたしは、左翼イデオロギーや貧乏生活を押し出したような映画が好きじゃないけど、これは高度成長期、そして産業エネルギーが石炭から石油に代わるころの、不安定な炭鉱労働者たち、その家族を描いた社会派映画である。
しかし描かれているのは悲惨なことばかりではない。
小学生の兄妹が川で水浴びしたり、トロッコでボタ山に登ったり、走っているバスはなつかしいボンネットバスだしと、まだ牧歌的といえる夢のような時代がそっくりフィルムに固定されているのである。
昭和34年の映画だから、団塊の世代にとっては、例によって当時の風物になみだがちょびる。
主人公の女の子は在日朝鮮人だそうだけど、貧乏にまけないけなげな姿勢や、この時代にはまだ現代のような陰湿ないじめがなかったようなのが救いだ。

それにしても映画に出てくる貧乏な家庭の家の中のようすは悲惨につきる。
わざわざ映画用に強調したわけではなく、当時はこんな家庭がいくらでもあったのだろう。
NHKのゲゲゲの女房にこの時代の貧しい家庭のようすが描かれていたけど、そっちはどことなくウソっぽいのに比べ、この映画の貧乏というのは本物だ。
高度成長のかげにはこんな悲惨な労働者たちがいたのだと、現代だからこそ観てほしい、知ってほしい物語ではないか。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月 7日 (月)

むしられる

整備に出してあった車を引き取りにいく。
わたしの家からディーラーまで、徒歩で30分ほど。
ぶらぶら住宅街を歩いていったら、そのへんの住人が不審そうな顔でわたしを見る。
そういえば昼間っから手ぶらで歩いているよそ者はわたしぐらい。
昨今の人は近所の幼稚園、スーパーに行くにも自家用車だから、歩いて移動する人間というのは不審人物ってことになるらしい。
ったく、おおきなお世話だ。

ディーラーでは、ショックアブソーバーからオイルが漏れていますってんで、5万円もとられた。
むしられているなあと思う。
わたしは会計事務所からさえ、もう少し税金をゴマかしたほうが、いや、もう少しちゃんと必要経費を申告したほうがいいでしょうといわれるくらいのずぼらだけど、やっぱり出費はイタイ。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月 4日 (金)

山田紳さん

001

ヨーロッパではギリシャに端を発した金融問題が、あっちを叩くと今度はこっちって具合に、もぐらたたきの様相を呈している。
とりあえず日本の、末端の小市民である当方としては、ただただ見守るのみ。
それにしても今朝の新聞に載っていた山田紳さんの時事マンガはおもしろかった。
国民投票という大きな荷物をかかえてよろめいているギリシャのパパンドレウ首相を、大勢のG20メンバーがささえている絵だけど、はじのほうで日本の野田首相が、日本も円高に介入していろいろやってますんで、こっちも協力してチョウダイとオバマ大統領にお願いしているところ。

こういうのはそのものズバリ、絵を見せれば一目瞭然だから、マンガを転載しようかと思ったけど、また著作権がうるさそう。
そうかといって絵を見せないで絵のすばらしさを吹聴するにも限界がある。
新聞の時事マンガなんて新鮮さが命なのだから、発表されて時間がたったあとなら、そんなにうるさくいわなくってもいいじゃんと勝手な解釈で、一部だけ、ほんの一部だけ紹介してしまう。

わたしは朝日新聞専属の時事マンガ家の中でも、山田紳さんの絵がとくに好きである。
そのペンタッチと、このマンガでも大勢の人間を描きながら、メルケル、サルコジ、顔が半分しか見えないベルルスコーニさん、下のほうで腕組みして様子見の胡錦濤さん、横顔だけのわが宰相と、ごちゃごちゃもつれているほかの人物も、それぞれが誰なのかちゃんと識別できるのがおもしろい。いや、すばらしい。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月 3日 (木)

やらせ口コミ

今朝の新聞に、ネット上の 「やらせ」 書き込みについての記事が載っていた。
口コミ情報ってものがあるけど、あれってけっこうやらせ、つまり意図的な宣伝のためにやっているものが多いからご注意ってこと。
ひどいのになると、やらせ専門の業者までいるそうだ。
だからいわんこっちゃない。
世間にはレストランや料亭なんかについて、やたらに自分の意見を吹聴したがる輩が多いけど、ものの味なんて個人によってさまざまなんだから、エラそうにいっぱしのグルメを気取るのはやめてほしいもんだね。
わたしは自分の味覚が他人とだいぶ異なっていることを自覚しているから、他人の口コミなんか気にしないクチだ。 性格も疑り深いし・・・・・

今日は吉祥寺まで行ってL.L.Beanをのぞいてきた。
この店は外資系のアウトドア専門店だけど、サービスがこまやかなのでわたしの愛用している店だ。
以前、この店の通販で革靴を買ったことがある。
靴を通販で買うのはむずかしい。
最初注文したものはぜんぜんサイズが合わなかった。
仕方ないから交換してもらうために、また梱包して送り返した。
新しい靴が届いたけど、今度は縦はちょうどいいのに横はばがせまい。
また交換してもらおうとして、うーんと考えた。
こりゃアメリカ人と日本人の足の構造によるんじゃないか。
横はばをちょうどいいサイズにすると、今度は縦がぶかぶかってことになるのかも。
むかし自衛隊にいたころ、支給された靴が合わないと不平をいうと、軍隊では足のほうを靴に合わせるんだと乱暴なことをいわれたことがある。
そんな故事を思い出し、靴の交換はあきらめることにして、足のほうをならすために2、3回はいて外出してしまった。
L.L.Beanのほうから電話がかかってきて、あの靴はどうしましたと訊く。
これこれしかじかで、我慢してはくことにしましたといったら、そんなことはありません。 いちど試してくださいと交換をすすめる。
2、3回はいてしまいましたけどというと、それでもかまいませんという。
交換してみたらほぼ満足のいくもので、メデタシ、メデタシだった。

この一件以来、L.L.Beanのサービスに感心して、アウトドア用品はここで買うことにしている。 質のわりには高価でないのもいい。
こんなことを書くと、わたしがお金をもらってそんなことを書いているんだろうと、やらせを疑う人がいるかもしれない。
しかしわたしは自分のブログの宣伝なんかしたことがない。
見てくれる人もかぎられている口コミに業者がお金を出すかどうか、それが 「やらせ」 かまじめな情報なのかを見極めるひとつの手段なのだ。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

2011年11月 2日 (水)

なまける

先日、知り合いに出会ったら、カラダの調子どうと訊く。
いやあ、元気いっぱい。 若い女の子を紹介してほしいくらいと答えたら、相手は意気消沈して、オレは心臓がわるくて。
月にいちどは病院に通っているんだという。

気のドクだけど、わたしが元気なのは事実。 どこもわるくないのも事実。
なんでこんなに元気なのか。
つらつら考えてみたが、よく寝るからじゃないか。
今日なんかもよく寝すぎてブログ書いている時間がないくらい。
つまり、今日のこの記事は、ブログをなまける言い訳になっているのですヨ。

| | | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2011年10月 | トップページ | 2011年12月 »