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2012年1月 5日 (木)

もののけ

泉鏡花の 「高野聖」 は、旅の坊さんが山中で物の怪に出会う話である。
鏡花って人は 「婦系図」 や 「歌行燈」 なんて作品から、江戸文芸の影響を受けた純日本的な作家と思われているみたいだけど、「高野聖」 を読んだとき、わたしはちょいとバタ臭いものを感じた。
魔女が男をたらしこんで、たらしこんだ男を動物に変えてしまうという話は、西洋には童話や神話や小説にたくさん例があるのに、日本ではあまり聞いたことがなかったから。

わたしはひとりで山歩きをするのが好きである。
しかし物の怪なんぞに出会いたくない。
相手が妖艶な美女なら会ってみたくないわけでもないけど、ブタやウシにされるのは嬉しくないもんで。
それでも今回の百尋の滝行きでは、心中ひそかに思うところがあった。

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百尋の滝に行くためには日原街道の川乗橋というところから林道に分け入る。
この街道の上流にもうひとつ橋があって、何年か前にわたしの友人がそこから飛び降りた。
彼が死んでからそろそろ10年になる。
ちょっととくべつに親近感を抱いていた男だったから、わたしはいまでもときどき彼に会いたいと思う。
あいにく人間というものは、死んだ人間とは絶対に会えないことになっている。
そんなことはわかっているけど、わたしはひとりで山を歩いているとき、ふと死者が前方の木立のあいだにぼんやり立たずんでいるような気がすることがある。
ネコやサルだって年をとると神がかり的になるそうだから、もう若くないわたしだって、ひょっとすると霊だとか物の怪に敏感になっているんじゃなかろうか。

百尋の滝の近くをまだ友人の魂魄がうろうろしているものならば、ちょうどいい機会だ、ひとつあいつとむかし話でもしようと考えるかもしれない。
現代社会はお化けや亡霊にとってひじょうにキビシイものがあるから、高尾山だとか御岳みたいににぎやかな山では相手も尻ごみしてしまうだろう。
だからわたしは今回もひとり登山にこだわったのである。

林道を歩いているとき、前方を向いているときは何もないのに、なにかの拍子に横を向くと、後ろに誰か立っているような気がした。
ふり向いても誰もいない。
そんなことが何度もあった。
わたしは確信するんだけど、やはり死んだ友人がそこに立っていたようだ。
ただし、わたしの修業が足りないのか、まだ彼我の境の壁が高すぎるのか、意思の疎通を図るところまではいかなかったのではないか。

無神論者のわたしがこんなことをいうのはおかしいかもしれない。
もちろん魂なんて存在しなくてもかまわない。
ただ、「嵐が丘」 で恋人の墓をあばくヒースクリッフが、えりもとに恋人の息吹を感じたように、わたしはロマンとしてそういうことを想像するのが大好きなのである。

※添付した写真は、むかし撮った百尋の滝。
写っているのは友人たちだけど、ここに写っている彼らは全員が健在です、念のため。

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紅白視聴率 最高はSMAP48.2%
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投稿: 紅白視聴率 最高はSMAP48.2%_355047 | 2012年1月 5日 (木) 10時21分

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