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2012年1月 3日 (火)

山尺

「山尺=やましゃく」 という言葉がある。
じつはわたしが勝手にこしらえた造語なので辞書には出てない。
どういうことかというと、山での距離は平地の距離とはちがうということである。

たとえば富士山、ご存じのとおり3776メートルの山である。
五合目から登ってもまだ残りが・・・・・ かりに2000メートルあることにしよう。
この2000メートルというのは垂直の高さであり、人間が歩くのは斜面であるから距離はもっと長くなる。
どのくらい長いかというと、直角三角形の斜辺であるから・・・・・ 斜辺を出す計算方法は知っているけど、富士山の傾斜角なんて知らないから省略だ。
おおざっぱに4000メートルということにしとけ。

4000メートルというと4キロだ。
わたしはよく家から武蔵境駅まで歩くけど、これがおそらく4キロぐらいじゃあるまいか。
なんだ、たいしたことないじゃないかと思うのは気が早い。
平地を歩くのと山の斜面を歩くのではわけがちがうのだ。
わたしは富士山に登ったことがあるけど、武蔵境まで歩く距離の3倍ぐらいあるように感じた。

これが 「山尺」 である。
じっさいの数字ではなく、山に登っている人が感じる距離のことである。
これは個人差があって、たとえばわたしが富士山の八合目か九合目あたりを息も絶え絶えに登っていると、そのわきを短パンですいすいと駈けていく狂人がいる。
ああいう連中にとって山尺はもっとずっと短くなるはずだ。
年齢もかかわってくる。
若いころ3時間で登った山が、距離が変わったわけでもないのに、歳をとると4時間になる。
山尺が変わったのである。
登山のスタイルにもよる。
大勢でわいわい騒ぎながらの登山では、そもそも山尺なんか感じている余裕がない。
山ばかりじゃない。
武蔵境までなんてことないじゃないかと歩くわたしも、そのうちだんだん同じ距離がおっくうになってくるにちがいない。
山尺は平地でも感じるものなのである。

わたしはひとり歩きの山登りが好きで、奥多摩あたりでも平日に登ると、まるで周囲4、5キロに人間なんかひとりもいないんじゃないかと思うことがある。
いくら平日でも奥多摩あたりの山で、それだけの範囲内に登山者がひとりもいない状況というのは考えられないと思うけど、これも山尺のなせるわざだ。
孤独な登山者が静謐な山に登っていて感じる距離、これも山尺なのである。

わたしの山尺はずいぶん増大したような気がする。
いま奥多摩あたりに行ってみれば、若いころに感じたよりも世界ははるかに広くなっているんじゃないか。
というわけで、「山尺」 を感じるために奥多摩に出かけることにした。
次項をお楽しみに。

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