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2012年6月 4日 (月)

イスタンブール/旅に出る

旅に出る。
いい身分だねえと皮肉られてしまいそう。
世間には、それどころじゃない。
ダンナと別れ、小さな子供をかかえ、明日の生活に追われる人もいるだろう。
認知症の母親をかかえ、介護と自分の生活でてんてこまい、海外旅行なんか夢のまた夢という人もいるだろう。
そういう人に対しては申し訳ない気持ちでいっぱいだけど、お気楽な生活をしているわたしは、きっといつかその報いを受けるにちがいないから、うらやましがる必要はアリマセン。

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人間なら誰でも歳をとる。
自分の体力のおとろえは、ある程度まで自分でわかるものである。
3年前の自分の足ではこのくらい歩けた。
今年の自分の足ではこのくらい。
だとすれば3年後には、そのあいだにジョギングでもして足腰を鍛えようという気でもおこせば別だけど、たぶんこのくらいになっているだろうという予測はつく。

もしもあと数年で、自分の足では歩けなくなると考えたとき、人間はいったいどうするだろう。
もちろん、旅なんかに興味はない、家で家族といっしょにいるのがいちばん幸せだという人もいるだろう。
そういう平和で小市民的な人々はここでは無視して、放浪癖のある人、それが普通なら歳とともに衰退するはずなのにぜんぜん衰退しない人、いくつになっても少年のこころを持った精神的未熟児の人、つまりわたしみたいなタイプの人にお尋ねしたいのだけど、あなたならどうする。
西行や芭蕉ならどうしただろう。
元気なうちにすこしでも多く旅に出ようと考えるのではないだろうか。

人間はせっせと働いて老後に備えるべきだという人が多い。
老後というのはなんだろう。
人生とはいったいなんなのか。
せっせと働いて小金を貯め、いつかかならず来るはずの寝たきり生活に備えるのか。
元気なうちに思いきりやりたいことをして、あとは野となれ山となれでいくか。
アリとキリギリスの話って、ほんとうに真理をついているんだろうか。

悩みつつ、わたしもいつか人生の後半をむかえてしまった。
この長寿社会で、かりにわたしが100歳まで生きるとしたら、わたしの人生はまだまだ先があるという考えもある。
しかしその大半を、腰がイタイ、心臓がワルイ、目がショボショボ、足がガクガク、自分の足で歩くこともままならないで送るとしたら、そんな人生になんの意味があるだろう。
だいたい仕事もできなくなって、国民年金や健康保険を浪費するために生きていたんでは、あとから来る若いもんに迷惑だ。
結婚をせず、子供もつくらなかったわたしは、切実にそう感じている。

わたしはこれまでの人生で、わたしよりずっと苦労をしてきたと思える友人が、病死したり自殺したりしたのを見てきた。
まじめに働き、家庭のために粉骨砕身の努力をし、ようやくひとかどの人生を築きあげてきた人が、一瞬の津波ですべてを失った現場も見た。
これでは運命というのはまったくランダムなもので、幸せも不幸もあらゆる人間に平等におとずれるという確信を持たざるを得ない。
せっせと老後にそなえた人間が、かならず幸せな老後を送れるとはかぎらないのだ。
だから元気なうちにせっせと遊んでしまうのだというのは、危険で反社会的な考えであり、そう考えるに至った自分の精神に忸怩たる思いがいっぱいだけど、それに対して弁解もへ理屈をいうこともしない。
わたしにはもう時間がないのである。

これまで何もできなかったわたしが、いまさら世間のお役に立つようなことができるとは思わない。
運命という大河をただ無為に流されるだけの人生を送ってきたわたしは、残りの人生を、やはり無為に流されていくしかないのである。
そんなわたしがゆいいつ生きがいを感じるのが旅をしている瞬間だ。
だからわたしは旅に出たい。
そのかわり、審判の日なんてものがあるならば、そのときはすべての罪を肯定して、あまんじて罪に服そうと思う。

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