2013年2月28日 (木)
トレチャコフ美術館の内部は広いので、2時間半ほど観てまわっていいかげん疲れた。
かほりクンも以前知り合いを案内して気分がわるくなってしまったことがあるという。
その気があればロシアにいるあいだにもういちど来ることも可能だから、この日はわたしの好きな絵だけを重点的に観たところで引き上げることにした。

帰りにイコンの部屋を通った。
イコンというのはロシア正教の教会に飾られている宗教画のことだけど、むずかしいことをいいだすと話がものすごく複雑になってしまうから、興味のある人はウィキペディアでも丸写しすればよろし。
ここにあげたのはイコンの見本みたいなもので、これを見ればどんなものか想像はつくだろう。
イコンの部屋を横目にながめただけでいろんなことを考える。
日本にもイコン画家はいた。
司馬遼太郎の「街道をゆく」ではじめてその存在を知った、明治の女流画家山下りんである。
彼女はなんと、明治という男権の時代にサンクトペテルブルクに留学してイコン画を学んでいるのである。
この偉大なる先駆者の素顔、そして作品はネットで見ることができる。
ほかにくだらないことも考える。
イコンというのは、もともとは教会の壁に飾られていたものだから、ひっぱがしてきたのだろうか。
スターリンの廃仏毀釈から救ったということだろうか。
イコンにとって教会の壁に貼りついているのと、美術館に展示されているのと、どちらが幸せだろうかなんちゃって。
わたしはイコンに興味も知識もないので、「三位一体」 という作品 (有名なんだそうだ) をちらりと観ただけで、ほとんど素通り。
ただ、クレムリンの聖堂で見たうす汚れたイコンより、トレチャコフ美術館にあるもののほうが、色彩もきれいで立派なものばかりに思えた。
だから興味のある人にとっては、この美術館のイコンはやはり価値があると思う。
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山や川、湖を描いた風景画の一群がある。
そこでは人間の生活は、せいぜい掘っ立て小屋や、湖の上に浮かぶ小舟や、囲いの中の家畜等で間接的に描かれているだけだけど、これがまたたまらない。

雨にぬれたシラカバの森を散策する人々、教会のあるのどかな村の風景、黄色く染まったシラカバの林とそのまえを流れる小川、ミヤマガラスのいる雪景色、どこまでもどこまでも続くライ麦畑などなど、写実ということに忠実だった画家たちの残した作品は、そのままわたしの空想の世界への扉なのだ。
むずかしい絵画理論やテクニックなんぞは無視して、わたしの魂魄はただもう、ひたすら描かれたロシアの風景のなかをさまよっちゃうのである。

トレチャコフ美術館の収蔵品のなかに 「ミヤマガラスの飛来」 という有名な絵がある。
本来は縦長の絵なので「the rooks have come back」という言葉で検索すれば、縦長作品を見ることができます。
雪景色の中にシラカバが数本立ちならび、そのこずえにたくさんのカラスの巣があるというもので、わたしの好きな絵だけど、どこが好きかという理由をわかりやすく書けるほどの文才がない。
いっしょうけんめい頭をしぼってもいくらかもらえるわけじゃない。
それでぜんぜん関係ないことを書く。
ミヤマガラスというのは日本にもいるらしいけど、わたしが知っている日本のカラスは、ほとんどがまっ黒なハシボソガラスとハシブトガラスで、ほかにはめったに見たことがないけど、カササギやホシガラスぐらいしかいない。
ロシアでは日本のものと同じの、全身がまっ黒なカラスを見たことがないから、この絵に描かれたミヤマガラスも日本のものとは異なる可能性がある。
ロシアではあちこちで頭でっかちの愛くるしいカラスを見た。
もう1種類、それより大きめで、トルコで見たことのある部分的に灰色のカラスがいたようだけど、このどちらかがロシアのミヤマガラスだろうか。
調べてみたら、頭でっかちはニシコクマルガラスというらしい。
ミヤマガラスはどこかべつにいるらしいので、これ以上の詮索はよそう。
この旅では田舎へ行ったおりなどに、あちこちで木々のこずえに鳥の巣を見た。
バードウォッチャーでもあるわたしは、そのたんびに過酷な環境を思い、春を連想させる生命のいぶきを感じとり、「ミヤマガラスの飛来」 という絵のことを思い出したのでありました。
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2013年2月27日 (水)

トレチャコフ美術館にはロシアの一般庶民の生活を描いた作品もたくさんある。
農作業をする農婦、結婚式、お酒を呑み、ダンスに興ずる人々などさまざまだけど、庶民の生活というのはそんなものばかりじゃない。
わたしのいうのは、トレチャコフ美術館の作品ではないけど、サンクトペテルブルクのロシア美術館にあるレーピンの 「ヴォルガの舟曳き」 なんかのことである。
レーピンは庶民の生活をたくさん描いていて、たとえば 「クルスク県の復活大祭の十字架行」 も庶民の生活のひとコマといって過言じゃない。
スリコフの巨大な大作 「モロゾヴァ婦人」 にも、絵の中に無数の庶民が描かれていて、当時の人びとの生活をうかがうよすがになる。
「ヴォルガの」 でもわかるように、当時の下層庶民の生活はそうとうにひどかった。
わたしは日本に帰国したあとで、映画 「レ・ミゼラブル」 を観に行ったけど、この映画の時代背景はサンクトペテルブルクと重なる部分も多い。
映画の中に貧民窟が出てくる。
健康保険や失業保険もないころだから、病気になって路傍で野たれ死にする人間もさぞかし多かっただろうし、そのへんはロシアも例外ではなかったはずだ。

トレチャコフ美術館にある、いまにもぶっ倒れそうな巡礼者たちの絵、ワラの上で寝る貧しい子供たち、荒地を耕す母子の絵などは、それを描くことによって社会の不条理を告発することを知った画家たちの煩悶のすえの傑作だ。
ある意味それらは、王侯貴族の華やかな生活や、聖書や神話のいちシーンや、ナポレオン戦争を描いたものよりはるかに迫力がある。
わたしにとって絵を観ることは、そのまま絵の中へのバーチャル旅行と書いたけど、風景だけではなく、当時のそうした現実を見ることもわたしの関心事なのだ。
関心をもってどうしようってのか。
わたしは他人を啓蒙する資格のある人間じゃないし、自らすすんでボランティアに参加するほどの勇気も持ち合わせてない。
ただのノーテンキな旅人にすぎないから、そこから教訓だとか、他人に対するおせっかいを汲み取ろうとは思わない。
わたしはまもなくロマノフ王朝の、贅を尽くした華麗な宮殿をいやというほど見ることになるけど、その時代の、王侯貴族の生活とは対極にある貧しい生活を見ることも、わたしにとってただの好奇心のあらわれにすぎない。
つまり、右からも左からも、上からも下からも、まんべんなくむかしのロシアという国をながめたいだけなのである。
ずるい見方ではあるけれど、上からの視線だけで名所旧跡をながめ、うわあ、きれいだわあ、ステキー!なんて叫んでいる人たちに、すこしだけ反感を感じているので、ついつまらないことを書いてしまうのである。

水をいれた大きな樽を3人でひっぱる子供たちを描いたベローフの 「トロイカ/親方の弟子が水を運ぶ」 という絵を観て、うーんとドストエフスキー的に考えこんでしまったアナタ。
同じ画家はドストエフスキーの肖像画も描いております。
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肖像画の中にもいくつか好みの作品がないでもないけれど、いちばん素晴らしいのは、やはり19世紀後半から20世紀初頭の絵だ。
ずっと観ていくと、やがてお目当ての部屋に到達する。
たとえばクラムスコイの 「見知らぬ人」 に出会ったときは、逃げた女房に再会したようで足がふるえた。
彼女とは3回目の出会いで、今回ははじめてその故郷で会ったことになる。
このあたりまでくると、おもわず陶然となりそうな名画のオンパレードだ。
歴史のワンシーンを切り取ったもの、ロシアの一般庶民生活を描いたもの、そして雄大なロシアの風景を描いた一連の作品など、近代にめざめた画家たちの作品が理屈ぬきにすばらしい。

歴史のワンシーンを切り取った絵というのは、たとえばここにあげた絵である。
これは、じつはよく知られた有名な絵で、わたしもどこかで観た記憶があるんだけど、トレチャコフ美術館にいるときは絵の背景を思い出せなかった。
ちょいと見にはきれいなオンナの人が、牢獄か精神病院に幽閉されてうめいているように見えたから、わたしはしばらくまえに日本で観た 「皇女ソフィア」 を思い出した。
同じ題材をべつの画家が、ヒロインを思い切り美人にして描いたものかもしれない。
かほりクンは苦しそうに説明をする。
公爵令嬢という言葉や、ややこしい物語を説明する日本語がなかなか出てこないのである。
で、わたしが彼女に替わって説明する (あとで解説書を読んでわかったんだけど)。
よくみると、このオンナの人はベッドの上に立ち上がっており、ベッドの周囲には水が押し寄せている。
これは、あたしはロマノフ王朝の血筋なのよ、あたしには王位を継承する権利があるのよなんていいだして (現代ならDNA鑑定でいっぺんでウソかホントかわかったはずだ)、ふざけたことをいうなと要塞に収容されちゃった公爵令嬢が、洪水で溺死する寸前を描いたものだという。
軽々しく冗談をいえない場面だけど、解説書によるといちばん信用できない伝説にもとづいているというから、こっちも遠慮なくふざけてしまう。
事実よりもロマンチックな空想にふけりたい人にはとても魅力的な絵だし、死の恐怖におびえる女性がなかなかの美人に描かれているので、わたしの好きな絵である。
レーピンの描いた憤怒の皇女ソフィアがベッドの上でつま先立ちしても、あまりロマンは感じられないと思う。
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2013年2月26日 (火)

肖像画はあまり好きではないと書いたばかりだけど、レーピンのムソルグフスキーの肖像画なんか、赤鼻のトナカイみたいで、こりじゃ描かれた当人が気をわるくするんじゃないかと心配になるくらい、常識からはみだした肖像画である。
こういうおもしろい肖像画もあるのである。
「ロプヒナの肖像」 という絵がある。
肖像画にはちがいないけど、この美術館にある王侯貴族の肖像画とひとくくりにしていいものかどうか悩んでしまう、時代を超えた傑作だ。
描いたのはボロヴィコフスキーで、1800年ごろの絵とされる。
手の表現などに古典の影響が残っているけど、顔つきは近代の絵画といってもぜんぜんおかしくない。

ダ・ウィンチの 「モナリザ」 の場合、『謎の微笑み』 という形容詞だけで語られるのに対し、「ロプヒナ」 の場合は (解説書によると) 『憂いにつつまれた若い女性のはかない美』 とある。
文言はこっちのほうが長いからこっちのほうがエライとか、モナリザは人妻だけどロプヒナは独身だもんなというわけではないけれど、わたしにとって 「ロプヒナの肖像」 は、ダ・ウィンチの 「モナリザ」 と同等か、それをしのぐ魅力を持っている絵なのだ。
この絵も20年以上まえのトレチャコフ美術館展で来日したことがあるかもしれない。
そのときに上野でこの少女を観たことがあったかもしれないい。
ただそのときは、クラムスコイの 「忘れえぬ人」 にかくれて、はっきり観たという記憶がない。
今回の旅でこの絵をじっくり観て、不思議な感覚にとらわれた。
画家は200年も前に死んでしまい、モデルもどんどんおばあさんになって、やがて死んでとっくに土に帰っただろう。
それなのに彼女の美しさだけは永遠にキャンバスに固定されているのだ。
これは人間のたましいがフィルムに焼き付けられたようなものではないか。
絵画のすばらしさってのはこういうことだよなとわたしはつぶやく。
これだけじゃそのへんの名画に対する賛美と変わらないじゃんというアナタに、わたしはあえてよけいなひとことをつけ加えてしまう。
モナリザに口づけをしたいとは思わないけど、ロプヒナならわたしは、そのぽっちゃりした唇にあえて口づけしたいと念願してしまうのである。
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コートを脱いでクロークに預ける。
写真は禁止に決まっているから、カメラはザックの中にしまいこんで、いよいよトレチャコフ美術館散歩の開始。
正面の階段をのぼり、ふたつめの部屋に入ったあたりで、写真を撮っている見学者がいることに気がついた。
え、おい、そんなのありかよというわけで確認してみたら、200P (600円ぐらい) 出せば写真撮影もOKなんだそうだ。
あわてて 1階の受け付けまでもどって、撮影許可用のステッカーをもらってきた。
これをカメラにぺたんと貼りつける。
そういうわけでわたしみたいなド素人カメラマンにも、トレチャコフ美術館の全容を写真で紹介することができるようになったわけだ。
ちとオーバーな言い方だけど。
ただしストロボは禁止なのでご注意。
トレチャコフ美術館は、もともとは富豪のミスター・トレチャコフの蒐集作品から始まったもので、建物もミスターの屋敷だったものである。
館内の壁はたいていがクリームかあわいグリーンに統一され、なかなか気持ちがいい。

順ぐりに観ていくと、最初は肖像画の部屋。
王侯貴族の肖像画はあまり好きではない。
それでも教科書でおなじみのプーシキンの肖像画なんかがある。
プーシキンはアフリカ系の作家ですとかほりクンにいわれたときはおどろいた。
だって、あれはとうろたえたけど、肖像画のちぢれた髪、ロシア人ばなれしたギョロ目などを見ていると、さもありなんと思えてきた。
ウィキペディアにもそのあたりの事情が載っている。
プーシキンをきっすいのスラブ民族のロシア人と信じていた人は、わたしみたいに認識を改めなければならない。
この偉大な作家はやがて決闘で倒れるのだけど、その劇的な場面がまた絵のモチーフになってロシアの美術館をにぎわせている。
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2013年2月25日 (月)

もう20年以上前になるけど、上野の美術館で 「トレチャコフ美術館展」 なる催し物が開かれたことがある。
なんでもそのころ美術館の建物が改築中で、地元のモスクワでは公開できずにいた作品が、ごっそり日本に引っ越してきたというきわめて貴重な美術展だった。
たまたまわたしは偶然の僥倖もあって、この美術展を見ることができた。
当時からロシアにあこがれていたわたしにとって、それはそれは素晴らしいものだった。
けっしてわたしが絵画にくわしいわけじゃないけれど、そこに描かれたロシアの風物は、そっくりそのままあこがれのロシアへのバーチャル旅行だったのである。

そのとき見たクラムスコイの 「忘れえぬ人」 については、その後渋谷の Bunkamura で開催されたトレチャコフ展でも見た。
そのとき同時にいくつかのロシア絵画の名品も観た。
ロシアには有名な美術館として、もちろんサンクトペテルブルクのエルミタージュがある。
しかしそちらが古今東西の西欧の名画をならべているのに対し、トレチャコフ美術館にはほとんどロシアの画家の作品だけがならべられている (ただし、作品の数が増えすぎて、20世紀以降の絵画については、新しくできた新館のほうに集められているという)。
今回の旅でわたしがほんとうに観たかったのは、エルミタージュよりもむしろ、トレチャコフ美術館 (旧館) のほうだったのである。

時代は変わり、ロシアがいまでは新興の成金大国になったとしても、絵画の中では過去という時間が永遠に固定されている。
わたしはもういちどトレチャコフ美術館の絵をこの目で見たかった。
そしてわたしはとうとうその美術館のまえまでやってきたのである。

いちばん上の写真がトレチャコフ美術館の建物。
2番目の写真はミスター・トレチャコフ。
3番目がクロークのある受付あたり。
以下、館内へと続く。
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歩くのをイヤがるかほりクンを連れて、クレムリンをまわりこむ。
クレムリンはモスクワ川の川岸にそぴえる城塞なので、すぐにモスクワ川の大きな橋に出る。
橋をふたつ越えてから左折すればトレチャコフ美術館ですと、これはかほりクンではなく、わたしが彼女に説明した言葉。
どっちがガイドかわからない。
夏のモスクワではモスクワ川のナイト・クルーズが売りものになっているけど、この季節の川はま白に氷結している。
そのほうがいいかもしれない。
氷がないときはあまりきれいな川ではないそうである。
橋の上からながめるクレムリンの威容はなかなかのものだ。
魚はいますかと訊いてみた。
かほりクンは釣りなんてやらないから、知りませんと答える。
ひとつ目の橋の下流に、帆船のマストのような奇妙な搭が見えた。
かほりクンが、あれは何年かまえになんとかいう外国の建築家が立てたもので、モスクワ市民の評判のわるいものですと説明する。
トレチャコフ美術館が近くなって、ようやく彼女は本来のガイド役にめざめてきたらしい。
ひとつ目の橋を渡ったところで、かほりクンがこっちとわたしの方向を変えさせた。
川はふたすじ、道路は1本で、橋はまっすぐ行ったところにもうひとつしかないはずだから、どういうことかと不審に思ったけど、川沿いの公園のまえに、歩行者専用の小さな橋があった。
トレチャコフ美術館はこの橋を渡って数百メートル行ったところである。
橋のたもとに大型観光バスが数台停まっていたから、これはトレチャコフ美術館を見学する観光客のための橋らしい。
そういえば橋のたもとの公園にどんとそびえているのは、ロシアが誇る有名画家のレーピンの像だった。
この橋の上に奇妙なものがならんでいた。
木の枝にびっしり南京錠をとりつけたようなもので、ほら、日本にもあるでしょう、アレっと、かほりクンはすぐに言葉がでてこない。
つまり神社の願掛けみたいなもので、モスクワの恋人同士がお互いの結びつきを祈って、ここに南京錠をとりつけるのだそうだ。
もうスペースがないってんで、中には橋の欄干に取り付けちゃったものもあった。
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2013年2月24日 (日)
30分ばかり歩いてクレムリンに着いた。
ボリショイ劇場はどこにあるのとかほりクンに訊く。
モスクワ第一の劇場で、この劇場がかかえるバレエ団の日本公演を1年前に観てきたばかりであり、それについてこのブログに書いたこともある。
今回の旅ではバレエもオペラも観る予定がなかったけど、話のタネのつもり。
無理やり歩かされていくらか仏頂面のかほりクンが、こっちですという。
赤の広場やマネージ広場のすぐそばの広場、ロシアにはやたらに広場が多いんだけど、劇場広場というところにそれはあった。
威風堂々とした建物であることは写真をご覧のこと。
平日の昼間からなにか演っているはずがないから、内部は紹介できない。
この劇場についてかほりクンが歴史なんかを説明してくれたけど、帰りにはもうほとんど忘れていた。
なに、帰国してから自分で調べりゃいいさのつもり。
建物の正面に双頭の鷲のレリーフがある。
この紋章についてもかほりクンが説明してくれたけど、詳しいことはすぐ忘れた。
もともとロシア皇帝の象徴として使われたもので、社会主義の勃興とその崩壊によって、双頭の鷲にもいろいろ変転があったらしい。
皇帝制度の否定からはじめたレーニンやトロッキーが、この皇帝の象徴を見てどう思ったかわからない。
しかしさすがの彼らにも、人民のこころのふるさとといえる伝統ある劇場の、そのレリーフを削り取ることだけは考えられなかったらしい。
双頭の鷲は、現代のロシアの国章として復活している。
劇場はロシア語でТЕАТРと書く。
РがRであることを知っていれば、たいていの人にこれがテアトルであることがわかるんじゃなかろうか。
ボリショイ劇場の近くにべつの劇場があったから、あとで名前を調べるつもりで写真を撮っておいた。
帰国したあとの厳正厳密な調査によると、これはマールイ劇場といって、小さい劇場という意味だそうだ。
そういえばボリショイ劇場は大きな劇場という意味である。
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さて、今日はどこへ行こうか。
今日もかほりクンが案内してくれるというので、トレチャコフ美術館から、画家たちのたまり場とされるアルバート通りへ行ってみようと考えた。
スケジュールを詰め込みすぎないかわり、ほんとうに観たいものにはたっぷり時間をかけるというのがわたしのポリシーで、個人旅行のメリットはそういうところにあるのである。
そういうつもりで地図をじいっとながめる。
ホテルからクレムリンまで1キロ半ぐらいで、クレムリンからトレチャコフ美術館まではせいぜい1キロ。
このくらいならわたしのいつもの散歩コースとたいして変わらない。
今日は歩くぞとと決意する。
11時にプーシキン駅でかほりクンと待ち合わせた。
ツキまくっているわたしのために、この日もモスクワはめずらしいくらいの晴天になった。
今日はトレチャコフ美術館まで歩くというとかほりクンはイヤな顔をする。
寒いだから、道がわからないだからと変な言い方で抵抗していたけど、ダイジョウブ、ダイジョウブと聞き流してさっさと歩き出した。
ロシアの女の子も歩くのがキライらしいことがよくわかった。
彼女もとんでもない人間につかまったものである。
写真はいつもかほりクンと待ち合わせをしていたプーシキン・メトロ駅の入口。
駅の近くにはカラオケ店もありました。
kapaoke というのはロシア語でカラオケのこと。
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2013年2月23日 (土)
朝になった。
パンク娘が朝食を部屋にもってきた。
なかなかサービスがいいけれど、考えてみるとこのホテルには食堂もないのだから、部屋で食べるしかないのである。
食事は別料金200P(600円ぐらい)で、内容は写真を参照のこと。
メニューは2種類あって、といっても目玉焼きがスクランブルエッグに変わるていどだけど、とくに注文をつけなければ日替わりになるようだ。
いずれにしても、小食のわたしにはちょうどいい分量である。
娘が食事を持ってきたときお金を渡すのを忘れた。
食事を終えたあとカラの容器を返還するついでにお金を払おうと思ったら、たまたま娘がいない。
そこにいた従業員のおばさんに渡そうとすると、おばさんは大きな声で、レイナー!と娘の名前を呼んだ。
おかげでこのパンク娘の名前がわかってしまった。
当初パンクだった娘だけど、その後はずっときちんとした服装をしていた。
日本からやってきた渋い魅力のわたしを意識してるのかもしれないと、そう思うだけならタダである。
ところで昨夜ホテルにもどってみたら、シーツが交換してなくて、ベッドは出かけたときのままグチャグチャだった。
ロシアの格安ホテルではそのていどが常識らしい。
わたしも家では万年ベッドみたいな生活をしてるから、シーツぐらいでへこたれる人間じゃないけど、ひょっっとするとチップを払わないからこんな仕打ちに遇うのかなと思う。
ロシアはチップのいらない国なので、わたしは今回の旅ではいちどもホテルにチップを置かなかった。
チップを払ってシーツを交換してもらうほうがいいか、シーツはそのままでチップを払わないほうがいいかと訊かれたら、払わないほうが節約になっていい。
若い娘と情事でも楽しんだあとならともかく、なんの、たかが4、5日で。
それでもわたしは心中ひそかに期するものがあり、そのうちフロントのパンク娘にゴマをすろうと決意していたのであった。
わたしの部屋はフロントのすぐとなりだから、ホテルに出入りする客とよく出会う。
客のなかには格安ホテルを求めるかざらないヨーロッパや米国人が多いらしく、たまに彼らと言葉をかわすことがある。
ものすごい美人に出会ったことも何度かあった。
自由旅行さえいつでも許されるなら、このホテルにまた泊まってみたいものを。
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「その夜のホテル」 なんてタイトルを見ると、期待しちゃう人がきっといるだろう。
たわけものめが!
かほりクンとの食事を終えたころには夜の7時ちかくになっていた。
なんといっても相手は若い娘だ。
そろそろ帰ろうというと、かほりクンは、クレムリンの夜景はとってもきれいです、写真を撮らなくていいですかという。
それでまたぶらぶらとクレムリンに引き返した。
なるほど。 ライトアップされて夜景はとてもきれい。
わたしのコンバクトデジカメでもこのていどには撮れるのだという見本をしめす。
ちなみにこの旅で2回、カメラを石畳の上に落っことした。
それでも壊れないのだから、さすがにタフっていう名前はダテじゃない。
そのうち借りていたケータイにMさんから電話がかかってきた。
娘の帰りがおそいのを心配したかほりクンの母親から問い合わせがあり、それがこっちへまわってきたものだ。
お母さんの心配はもっともだけど、クレムリンは夜景がとってもきれいですなんて言い出したのはかほりクンのほうで、わたしが引き留めたわけじゃないのである。
メトロのプーシキン駅でかほりクンと別れたあと、ぶらぶらとホテルにもどる。
机の前でパソコンをにらんでいた例のパンク娘にコンバンワという。
部屋に帰って、この旅で最初の洗濯だ。
1時間ちかくお湯を出しっぱなしにしたら、そのうち出なくなってしまった。
お湯の件は途上国によくあることだから気にしないけど、バスルームに湯沸かし器が設置してあって、これがときどきボオッと大きな音を出す。
ベッドもスプリングが固いと思うことがあり、神経質な人には眠りにくいホテルかもしれない。
わたしは無神経なタチだから、どこでもすぐに安眠してしまう人間である。
ベッドでいろいろ考える。
ものの本によると、ロシアの娼婦は若くて美人が多いという。
イミナさんからも娼婦には注意しなさいとおどかされていた。
そんなわけでこの晩はいくらか期待しないでもなかったけど、どうもその手のオンナの人はこういう格安ホテルの住人には興味がないようで、今回の旅では夜中に電話がかかってきたことはいちどもなかった。
中国ではやたらに電話がかかってきたもんだけどね。
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2013年2月22日 (金)
かほりクンは本もよく読んでいるらしく、××を読んだことがありますかと訊く。
やはり最初はなんの本だかわからなかったけど、そのうちホメロスの 「イーリアス」 のことだとわかった。
わたしは3年前にトルコへ行って、トロイの遺跡を見てきたばかりだよと返事する。
日本の本はなにか読んだことがあるかいと訊くと、井原西鶴がおもしろかったといいだした。
ちゃんとロシア語の翻訳版が出ているそうだけど、わたしですら言葉の接ぎ穂を失いそうな、若い娘が読むにしちゃめずらしい本である。
日本じゃあまり女の子が読む本じゃないけどねえ。
かほりクンは経済学部だというから、ロシア教育相はこの日本の先駆的アナリストを、テキストにふさわしいと判断して、大学の教科書に採用したのかも。
古すぎて政治的に問題が生じることもなさそうだし。
もっと最近の本はと訊いてみたら、世界的ベストセラー作家の村上春樹の名前が出た。
しかしあまりおもしろくなかったそうだ。
だって意味がわからないんだものという。
彼女にもへそ曲がりの傾向があるなと安心したものの、わたしのほうもロシアの文学作品なんてほとんど読んだことがないからえらそうなことはいえない。
ソルジェニーツィンやナボコフなんか持ち出しても、19歳の相手にわかるかどうか。
芸術の国ロシアでは、詩人は尊敬される職業だなんてことをどこかで読んだことがある。
ロシアにはアンナ・アフマートワという有名な女流詩人がいる。
この詩人の肖像画は、あとでエカテリーナの宮殿に行ったとき、現代的に描かれたものを見ることになるけれど、かほりクンは彼女の詩についてもべらべら。
しかし詩だけは、こればっかりは、たとえ言葉がわかったって理解するのはむずかしい。
わたしはアフマートワの詩についてなんの知識もないのである。
フィーリングだからねといってごまかしておいた。
しかしかほりクンが詩に興味があることだけは、サンクトペテルブルクへ行ったあとも忘れなかった。
写真はメトロの駅でのかほりクン。
読んでいるのは詩集ではなく、地下鉄の路線図。
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中華料理を食べながらかほりクンと会話する。
彼女は小さな音楽プレーヤーとベッドホンを所持していて、しょっちゅう音楽を聴いている。
そして××を知ってますかという。
米国の歌手らしいけど、彼女の英語が流暢すぎてさっぱりわからない。
何度かたずねて、セリーヌ・ディオンやホイットニー・ヒューストンであることがわかった。
わたしの世代とは活躍した時代が異なる歌手ばかりだから、知らんねと答えると、おおげさにおどろいて、えっ、知らないんですか、こんな有名な歌手をという。
わたしだってビートルズやストーンズならいくらでも知ってるんだけどというと、じゃあディープレッドを知ってますかと訊く。
彼女の口ぶりからすると、かなり古いロックグループらしいけど、そんな名前は聞いたことがない。
ディープパープルってのなら知ってるといってみたら、パープルもレッドも同じですという。
んなバカな。
このこと自体はどうでもいいことだけど、現在のロシアでは若者たちのあいだで、米国の歌もよく流通していることがわかった。
米国歌手のCDは自由にいくらでも買えるそうだ。
こんな話をしているうち、わたしはかほりクンがあまり感情をおもてに出さない娘であることに気がついた。
好きな音楽や本のことなら、それなり楽しそうな顔をするけど、全体としておしとやかで無口という印象である。
いったいロシア人というものは、あけっぴろげで、喜怒哀楽をからだ全体で表現する人が多いんだけど、彼女はそうではない。
それが日本人の血のせいかどうかわからないけど、この先もわたしは彼女がなにを考えているのか、往々にして悩んでしまうことがあった。
写真は、うーん、これがかほりクンであると断言はしない。
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かほりクンの案内でレストラン街というところにたどりついた。
日本でもよくある、いろんな国の料理店が両側にずらっとならんだ通りである。
日本食はロシアで大人気だそうで、もちろん日本レストランもある。
なにを食べようかと思ったけど、わたしの好きなものは和食か中華で、そのほかの外国料理はたいていキライである。
だいたいナイフとフォークってのもイヤなのである。
で、中華料理を食べることにした。
せっかくロシアに行ったのに中華かいという人もいるだろうけど、かほりクンにとってはめずらしい食べものだろうから、ロシアの少女がどんな反応を示すかという、これも好奇心の一例だ。
料理店ではもちろんコートをクロークに預ける。
コートを脱いだかほりクンを見て、わたしはむかし中国の上海で知り合った少女を思い出した。
2人ともほっそりした体型で、髪の毛こそロングかショートの違いはあるものの、大きめのセーターみたいなものをはおり、細身のジーンズをはき、どこかはかなげな風情がある。
こんな場面に出くわすとわたしは不思議な気持ちにさせられる。
わたしはときどき思うんだけど、人生というものは、同じ人間が役割を変えて何度も登場する舞台劇みたいなもんじゃないだろうかって。
上海の少女がロシアの少女になってふたたび現われたのかもしれないと。
画像は左が上海の少女で、右がかほりクン。
上海の少女については知り合ったのがもう20年前のことだからOK、かほりクンについては顔を披露するのはマズイかなといまでも迷っているのだ。
中華料理店で注文したのはギョーザや麻婆豆腐で、いい気になって北京ダックまで注文してしまった。
かほりクンにはわたしほど好きキライがないようで、みんな美味しいといってぱくぱく食べていた。
豆腐はロシアでも売られているそうだけど、固くてまずい。
北京ダックについては、これをまずいという人は、肉食系にも草食系にも、イスラム教徒にさえいないんじゃないだろうか。
おかげでホテルにもどってから残金を数え直したことも事実。
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2013年2月21日 (木)
そろそろだぞって、あちこちで花のつぶやきが聞こえてきます。
みんなむずむずしてんですね。
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空腹になったのでどこかで食事をすることにした。
そのためにあちこちで車道を横切ったけど、感心するのはロシア人ドライバーのモラルの良さ。
どんなところでも横断者がいれば、かならずその手前で停止する。
これだけは徹底している。
駐車違反やスピード違反や、警察官の不法行為さえ多いとされるこの国で、このモラルの良さはなんなのか。
つらつら理由を考えてみたけど、雪やアイスバーンが多いこの国では、すこしでも無理をすると停まれない場合があって、人間を轢きかねないという意識があるのかもしれない。
モラルのよさには感心したものの、街で見かける車は汚い。
とにかく汚い。
毎日が雪どけ道だから仕方ないけど、ベンツもジャガーもワーゲンも、ロシア製のポンコツカーもみんなまっ黒で、このあたりにはまだ格差は感じられない。
モスクワではどの車も昼間ライトをつけっぱなしだ。
モラルについては逆の場合もある。
ロシアはレディファーストの国であるということを、どこかのガイドブックで読んだことがある。
ぜんぜんそんなことはない。
メトロに乗ってもデパートのエレベーターでも、みんなわれ先に乗り込んでゆく。
男性が女性に席をゆずるシーンなんていちども見なかったし、メトロでは軍人みたいな大男が、まわりのおばさんおばあさんたち眼中になしって感じで、座席にふんぞり返っているのも見た。
やっぱりじっさいに行ってみなけりゃわからないことは多いのだ。
これはたまたまメトロの中で見た光景だけど、ひとりのおじさんがさっと座席に座り、自分の横へ帽子を置いてしまった。
そこへ着ぶくれしたおばさんがやってきて、帽子をどかしてちょうだいとかなんとかいったのだろう。
おじさんがしぶしぶ帽子をどけると、このロシア流オバタリアンのおばさんは、すきまにぐりぐりと大きな尻をねじこんだ。
おじさんはうらめしそうな顔でちらりちらりとおばさんの顔をみていた。
というだけの話だけど、じっと観察していたわたしは無性におかしかった。
上の写真はメトロの中。
これはたまたますいている時間帯で、ラッシュ時はもっと悲惨。
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もういいやと、トロツカヤ搭の門から外へ出た。
ここから赤の広場に向かって歩くと、マネージ広場という、びっしり敷き詰められた石畳の広場に出る。
まわりには古そうな建物がいくつもならんでいる。
ここからクレムリンの城壁にそってゆるやかな坂を上ると赤の広場だ。
このゆるやかな坂は軍事パレードのさい、戦車やミサイルが通る道らしいから、人間を自認する人は、かたわらの建物のあいだにあるヴァスクレセンスキー門から入ってもかまわない。
いちばん上の写真が、これはべつの日に撮ったものだけど、人間のための門である。
その門の手前の路上に、観光客が踏んづけてよろこんでいた、大理石の円盤が埋め込まれている。
赤の広場は赤軍の閲兵式 (軍事パレード) などで有名なところだけど、わたしが想像していたほど広いところではなかった。
広さでいえば、とても中国の天安門広場にはかなわない。
できたのは天安門広場のほうがあとだし、独裁者というものは自分の権勢をほこるために、国民を集めて一席ぶつのが大好きである。
国民の数はロシアより中国のほうが圧倒的に多いから、入れ物が大きいのはとうぜんかもしれない。
赤の広場でいちばん目立つのは、得体のしれない大きなドームだった。
なんですか、あれはと訊くのもはばかれるような、白い巨大なドームである。
かほりクンの説明は要領を得なかったけど、ドームですっぽりおおって、何か工事をしているらしかった。
そのあたりにレーニン廟があるはずだから、新しく公開するために改築工事をしていたのかもしれない。
死せるレーニンはまだまだ観光客誘致のために、ひと肌もふた肌も脱ごうって根性かも。
ほかにいまの季節に目立つのはアイススケート・リンクだ。
お金をとって人を遊ばせる遊戯施設で、これもモスクワの冬の風物詩らしい。
とっても料金が高いです、あれではふつうの人はとても入れませんとかほりクン。
じっさいに滑っている子供たちも、ほんの少しだけいたけど、現在のロシアの新興成金の子供だろうか。
赤の広場でクレムリンの城壁に相対するのがグム百貨店だ。
これもべつの日に撮ったものだけど、とても現代の世界のデパート様式とはいえない建物だから、古い革袋に新酒をつめたみたいで、使い勝手はどうなんだろう、ネット環境なんか整備されてんのかしらと、よけいな心配をしてさしあげてしまう。
あとでのぞいてみたら、中身は表参道ヒルズみたいにブランド商品の店ばかりだったので、いっぺんでいやになって入ってみなかった。
ドームとスケートリンクのあいだを抜けると、広場の正面に、カラフルな玉ねぎをいくつも載せた特徴的な寺院がそびえている。
これは写真などでおなじみのワシリー寺院(ボクロフスキー寺院)で、とにかくクレムリンのあたりでいちばんよく目立つ寺院だ。
派手さもここまでくると現実離れしていて、メルヘンチックでアラビアン・ナイトのお城みたい。
中を見たいですかと訊かれたけど、広場をつっきるだけで、わたしはもうだいぶくたびれていたから、写真を撮るだけでいいですと、こういうのが個人旅行の便利なところだ。
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2013年2月20日 (水)
聖堂広場には4つの聖堂以外にもいくつかの教会や宮殿がある。
かほりクンがある教会のまえで、英語の説明表示板をさして、ここはなんだかわかりますかという。
説明の中にヴァージンロードという言葉があったから、これは、あれですね、つまり結婚式をするところでしょう。
ロシア人も教会で結婚式をするんですかと訊いてみた。
いいえとかほりクン。
いまでは専用の結婚式場で結婚するほうが多いのだそうだ。
教会で結婚をするということは神さまに宣誓することになります。
というかほりクンの説明をこちらで勝手に解釈すると、離婚大国のロシアでは、宣誓したくせに離婚となると、神さまのメンツをつぶすことになって、それははなはだまずいということらしい。
そういえばかほりクンも聖堂に入るときはかならず胸のまえで十字を切る。
聖堂、教会はみんなロシア正教のものである。
ロシアまで行く余裕のない人は、神田のニコライ堂や函館のハリストス正教会が参考になります。
聖堂の内部はほとんど写真撮影が禁止で、おかげでは建物以外に撮れたのは、鳴りそうもない鐘の王様だとか、いちども発射されたことがない大砲の王様だとか、ロクでもないものばかり。
トルコや欧米に行って感じるのは、日本人とは比較にならないくらいの信仰心の厚さだ。
無神論者のわたしには、これがいいことなのかわるいことなのかわからない。
この世界で人間が殺し合う原因の大部分は、宗教に原因があるといっても過言じゃないのだから。
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クレムリンには世界遺産クラスの聖堂がたくさんある。
代表的なウスペンスキー大聖堂、イワン大帝の鐘楼、ブラゴヴェシチェンスキー聖堂(ああ、また舌をかみそう)、アルハンゲルスキー聖堂の4つは、それぞれが100メートルもはなれていない場所にかたまっているので見学するには便利だ。
このうちウスペンスキー大聖堂は、かって東京で「ロマノフ王朝展」が開かれたとき、聖堂の内部を大画面の超細密カメラでとらえた映像に感動したことがあるので、わたしがいちばん見たかったもののひとつ。
ところがこの日は火曜日で、この聖堂だけは休みなんだと。
けしからんとロシア政府の仕打ちにいきどおったものの、まだモスクワには何日も滞在する予定だから、また来ればいいんだと考えて、ほかの聖堂を見てまわることにした。
じつはこの文章は帰国してからガイドブックの写真と照らし合わせながら書いたもので、見学しているときはウスペンスキー以外、どれがなんという聖堂なのかぜんぜん知らなかった。
名前なんか知りたいと思ってないから、そんなものにこだわる必要はないのである。
ロシアにはイコンという宗教画の伝統もあるけど、そっちのほうの知識もないし、興味もない。
ただどの聖堂も、てっぺんに金ピカの玉ねぎをそなえ、内部はタトゥーみたいに壁画だらけであることだけはわかる。
頼りない感想だけど、わたしの名所旧跡に対する関心はそんなものだ。
またこのへそ曲がりめと思われてしまいそうだけど、ある種の人々への反感もあるから、そう思われてもかまわない。
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博物館を出たあと、ゆるやかな坂を上っていくと、遠くにもうもうと煙をあげた工場が見える。
あれは火事ですか、それとも火力発電所ですかとかほりクンに訊くと、セントラルヒーティングの湯を供給する工場ですという。
なるほどと思う。
ながめてみると煙を上げている工場はあちこちに見える。
冬のきびしいロシアでは、生活保護や国民皆保険や介護保険にもまして、ぜったい必要なセーフティ・ネットが暖房だ。
この旅でいくつかの民家に泊まったとき、住人に尋ねてみたけれど、ほとんどの家に最初からお湯のパイプが埋めこまれ、費用を払うのどうのという以前に、暖房だけは無条件で供給されているようだった。
アル中でも母子家庭でも、とにかく家の中にさえいれば、最低限いのちをつなぐことはできるらしいのである。
社会主義から民主主義、そして格差社会になっても、これだけは変わらないんじゃあるまいか。
大戦中にはこのセーフティ・ネットが断絶したこともあった。
タフなロシア国民はそうした試練にも耐えたけど、平和時においては、ロシアの指導者の指導者たる所以は、お湯を供給し続けられるかどうかにかかっているのであろう。
そういうわけで、もうもうと煙 (湯気) をあげる工場は、ロシアの冬の風物詩になっている。
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2013年2月19日 (火)
ボロヴィツカヤ門から入ってすぐ左側に、武器庫とダイヤモンド庫 (博物館) がある。
かほりクンはとうぜんのように、ここに入っていきますという。
正直いって武器にもダイヤモンドにも興味はないんだけど、美少女のおすすめでは拒否もできない。
受付でコートを預ける。
これは劇場やレストランでもいっしょで、ほとんどの場所でクロークにコートを預けることになっている。
建物の内と外で極端に温度のちがうロシアでは、屋内でコートを着たままということは考えられないから、これはどうしても必要なことなのだ。
博物館や宮殿では靴にビニールのカバーもしなければならない。
毎日が雪どけ道のロシアでは、これも必要。
博物館自体にはあまり興味がないと書いたばかりだけど、かほりクンは勉強してきたらしく、なかなか説明もくわしかった。
しばらくまえに日露友好協会あたりから、日本の大学生グループの案内を頼まれたことがあるそうで、そのときの勉強がまた役に立っているのかもしれない。
ショーケースの中に、古い貴族の衣装やよろいかぶと、貴金属品などが展示してある。
ベルばら時代の女性衣装で、腰を思いきりしぼったものがあった。
苦しそうなんてかほりクンがいうから、日本の和服も苦しいよといってみた。
子供のころ、日本にいた彼女は和服を着たことがあるそうである。
そういえば色白の彼女には和服も似合うだろうなあと考える。
どこかで見たような帽子が展示してあった。
あ、これはアレクサンドル・ネフスキーが戴冠式のときにかぶったものですねと、ついわたしの映画方面からの知識が顔を出してしまう。
ごてごてした馬車など、悪趣味としか思えないものもある。
写真撮影はいっさい禁止なので、それをひとつも紹介できないのが残念だとは思わない。
武器といい、ダイヤモンドといい、わたしに縁のないものばかりではないか。
写真でなにも紹介できないから、ヤケクソで、この日の朝、ホテルからプーシキン駅へ行くとちゅうでみた、有名なロシア人歌手の銅像でも紹介しておくことにする。
この2枚はべつの日に撮ったものだけど、ソ連時代に反体制的な歌をうたった歌手らしく、いまでも足もとに花束が置かれていたりする。
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クレムリンに肉薄した。
クレムリンという言葉はよく聞くけど、これは中国の西安にあるような、かっての城郭都市のことである。
西安は長方形の城郭だが、クレムリンは三角形で、規模ではとても西安に太刀打ちできないし、日本の皇居にくらべてもずっと小さい。
城壁のすぐ下はタイルがしきつめられたきれいな広場になっていた。
正面に馬に乗った軍人の銅像が立っている。
服装からしてナポレオン時代ではなく、革命以後の軍人である。
銅像の足もとにジューコフとかいう名前が刻まれていたから、第二次世界大戦で活躍したソ連軍の元帥のものらしいけど、あまり信用されても困るから、たぶんそうだろうとしかいわない。
この銅像の背後に火が燃えていて、銃をかかえた衛兵が行ったり来たりしている。
城壁の下にはひつぎのような形をした石碑がずっと並んでいた。
それぞれにロシア語が書かれているから、直観で、これは無名戦士の墓ですねといってみた。
かほりクンのいわく。
これは大戦中に激戦地になった都市の名前です。
都市の名前なんか飾ってどうすんだと、腹のなかで思う。
若者の愛国心を鼓舞するため、大戦中の記憶を薄れさせないために、ロシアはなかなか苦労しているようだ。
日本に帰ったら安倍クンに教えてやらなくちゃ。
レーニン廟を見たいですかとかほりクンが訊く。
革命家レーニンの遺体が永久保存してあるところだけど、死んだ人を見ても仕方がないというので、わたしは中国では毛沢東の遺体も見たことがない。
ロシアは社会主義を放棄したんじゃなかったっけか、そんなもん、さっさと土に埋めちまえというのがわたしの意見。
そのほうが、たぶん死者のためにもいいだろう。
昭和も遠くなりにけりの今日このごろでは、レーニンも悲惨な戦場もとくに感銘を受けるものではないから、かほりクンの説明を軽く受け流して、クレムリン内部に向かうことにした。
城内に入るための門はいくつかあるみたいだけど、わたしたちが向かったのはボロヴィツカヤ搭で、この門から入るためには、城壁にそって、レーニン廟や赤の広場と反対方向に進まなければならない。
このブログで何度も書いておりますが、クレムリンについてもっと詳しく知りたい人は、自分で勝手にネットで調べてください。
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2013年2月18日 (月)
色白の美少女かほりクンは、いくらかイントネーションのおかしい日本語で、今日はどこへ行きたいですかと訊く。
そうですねえ、やっぱり最初はクレムリンかな、ウスペンスキー大聖堂や赤の広場も見たいですねといってみた。
あらかじめの調査では、ホテル・カレトニードボルからクレムリンまではせいぜい1キロ半ぐらいだから、このくらいだったらぜひ歩きたいところだったけど、彼女はメトロで行きますという。
クレムリンに行くためのメトロ駅はプーシキン駅といって、作家のプーシキンにちなみ、ホテルから徒歩で10分ぐらいのところである。
ひとりで歩くために、わたしはメトロについても研究していた。
地図と首っぴきならなんとかなるだろうと安易に考えていたけど、これはけっこう大変だ。
そのあたりの事情はあとで書くことにして、とりあえずごろごろとひと駅区間だけ乗ってメトロをおりた。
地上に出ると、天気は冬のモスクワにはめずらしいほどの晴天になっていた。
このあたりで早くもクレムリンの赤い城壁が目にとびこんでくる。
城壁めがけて歩いていくと、かたわらにクリーム色の、ギリシアのパルテノンのような円柱をならべた建物があって、これがわたしの大学ですとかほりクン。
彼女はモスクワ国立大学の1年生である。
この大学は入学するのがひじょうに難しい学校だそうだ。
入学するのも難しければ、卒業するのも難しいという。
日本の大学とはだいぶ違いますねとわたし。
ロシアの学校のしくみなんて知らないけど、かほりクンに聞いた話によると、まず11年間はずっと同じ学校で学び、その後は彼女のように大学に進んだり、軍人や社会人になったり、それぞれの進路を選ぶことになるのだそうだ。
私立の大学はないのですかと訊くと、あります、でも人気がありませんという。
人気がない理由が、ある日とつぜん大学がなくなってしまうことがよくあるからだという。
これは経営者が夜逃げするってことだろうか。
モスクワ大学の校内はがらんとしていたけど、これは夜逃げのせいではなく、いまは冬休みだからだそうだ。
かほりクンは将来、日系企業で働きたいという希望をもっていて、ビジネスをするために英語、日本語、中国語、韓国語など習っているそうである。
寝るのは好きだけど1日5時間ぐらいしか寝ていません。
勉強しないと卒業できません。
入学してからとちゅうで挫折していなくなった生徒がこれこれしかじかと。
かほりクンの話を聞いていると、彼女はハワイのモルモン大学の生徒のような、きわめて純粋でまじめな学生らしい。
まだ19歳というからやむを得ないかも。
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モスクワでMさん夫妻にいつまでお世話になるわけにはいかない。
翌日から自分ひとりで行動しなければいけないのだけど、そのためにイミナさんが日本語のわかるガイドを紹介してくれた。
日本人とのハーフで、両親が離婚したあと、ロシア人の母親といっしょにモスクワに住んでいる女の子だそうだ。
顔は日本人みたいだよと、これはイミナさん。
ハーフというと、つい土屋アンナみたいなのを想像してしまうけど、イミナさんがちょっと意味深長な言い方をしたのが気になる。
ま、期待しすぎるとロクなことがない。
丸いメガネの小太りの女の子だったらどうしよう。
どうしようったってどうしようもないのだから、がっかりしないよう、あまり期待しないことにした。
翌朝、待ち合わせ場所に行ってみた。
待ち合わせ場所は、ホテルの近所にあるアイススケート・パークの正門のまえだ。
11時に待ち合わせ、20分まで待ったけど誰もこない。
Mさんに電話して相手に問い合わせてもらったら、道がわからなくって遅れているのだそうだ。
頼りないガイドである。
あらためて待ち合わせ場所にいくと、すらりとした若い娘が立っていた。
これがガイドをしてくれるハーフの娘で、背はわたしよりいくらか高いくらい。
ロングヘアで色白の、なかなかの美人である。
その顔をじっと見ているうち、むかし観た映画 「ロミオとジュリエット」 のオリビア・八ッセーという女優さんを思い出した。
いずれにしてもこんな美少女にガイドしてもらえるなんて、これも今回の旅の幸運のひとつ。
この美少女は日本語の名前を持っているけど、このブログで実名を明かすのははばかれるので、これ以降は “かほりクン” と呼ぶことにする。
写真は女優のオリビア・八ッセーのもので、イメージ的にはこんな感じ。
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2013年2月17日 (日)
無事にホテルに落ち着き、Mさん夫妻が帰ってしまったあと、わたしはさっそく近所に買い物に出かけた。
外国のホテルに泊まった場合、備えつけの石けんはロクなものがないし、わたしは洗濯もしなくちゃいけないから、いつもまず石けんを買うことにしているのである。
ホテル・カレトニードボルでは、部屋は通常のがちゃりとまわすタイプの鍵だけど、廊下から階段のある場所まで、そして建物から外へ出るために2個所のドアがあって、ここを開閉するためにはカード型キーを使う。
もう暗くなっていたけど、ぜんぜん危険は感じなかった。
夜道でも車の往来はけっこう多いし、まだ若い娘だって歩いているのだ。
外国に行くとやたらに警戒してしまう人がいるけど、あらかじめの調査、現地での状況判断に誤りさえなけれぱ、そんなにおそれる必要はないと思う。
注意しなくちゃいけないのは、外出のさいパスポートを忘れないことである。
この点についてはMさんからも注意されていた。
ロシアの警官のなかには、小遣い稼ぎでチェックをやっている者もいるそうで、Mさんも以前パスポートを忘れて、警察までしょっぴかれたことがあるそうである。
ただ、わたしの感覚ではそうした警官の横暴はすこしづつ改善されているような雰囲気もある。
わたしはこの旅でいちどもパスポートを見せろといわれたことがなかった。
ぶらぶら歩いていたら24時間営業のドラッグストアがあった。
ずけずけ入っていって、店のおばさんに石けんアリマスカと訊いてみた。
ここではじめてわたしは、この国では簡単な英語でさえ通じないことを知る。
SOAPと紙に書いてみたけど、相手は首をかしげるばかりである。
しかしこういうとき、むかしとった杵柄、マンガ家をこころざしたのは無駄じゃなかったのだ。
わたしは女の子がシャワーを浴びている絵をさらさらと描き、その手ににぎっているものを、これが欲しいのだといってみた。
うんとうなづいたおばさんが持ってきたのはスポンジだった。
なるほど。
こんちくしょう!
絵に泡をつけ足して、ようやく手にした石けんを持ってホテルに帰る。
やれやれ。
添付した写真は、買い物の帰りに見かけた看板。
ほんのすこしだけロシア語をかじったことのあるわたしだから、この女性の名前はイリナ・スルツカヤであることがわかる。
同名のフィギュアスケート選手もいることだし。
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うちの近所の野川公園刑務所です。
わるさをするカラスたちが収容されています。
先日行ってみたらトンビだかなんだか知らないけど、1羽の猛禽類まで入れられていました。
なんでワシまでと、なさけない顔して。
まぬけなやつ。
大丈夫かねえ。
ちゃんとエサはもらえてんだろうか。
いっしょに入れられているカラスを食べているふうでもなかったけど。

おしまいはひさしぶりのカワセミ君。
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この日の業務を終えたらしいボディコン娘が、身支度をしてさっさと帰ってしまったあと、小部屋からもうろうとしたまなざしの若い娘が出てきた。
たまげた。
彼女はフリルのついた赤いミニスカートに鼻ピアスのパンク娘だった。
寝ているところを起こされたらしく、わたしが英語や日本語で話しかけても、アハンアハンと鼻で返事するだけで、わかっているのかわかってないのかさっぱり。
彼女を見てMさんもあっけにとられていた。
Mさんはいつもかなり高級なほうのホテルに泊まる人だから、こんなフロントがこの世に存在することすら信じられないんじゃないか。
仕方ないです、とりあえず2日は我慢しますとわたし。
こんなホテルでもモスクワで格安ホテルを探す人には貴重だろうから、ホテルのホームページを書いておこう。
www.kdvorhotel.ru
ロシアでは外国人が国内を旅行する場合、到着しましたという手続きを3日以内にしなければいけないんだけど、これの代行をパンク娘にお願いして700ルーブル(2100円ぐらい)。
なお、これ以降ルーブルはロシア語のPで表記することにする。
この旅のあいだの為替相場は、おおむね1Pが3円見当。
Mさん夫妻がわたしを置いて帰ってしまうと、わたしはいよいよ敵陣に取り残された兵士の心境だ。
ちょっとさびしかったけど、そのうちむらむらと痛快な気分がわいてきた。
これが旅というものだ。
これまでも中国の奥地でさんざんな宿に泊まってきたではないか。
まだまだ日本の奥地にだって、これよりひどいザコ寝の山小屋はいくらでもある。
なんといってもわたしは日本の貧乏人なのだ。
一泊6000円ていどのホテルにこれ以上のものを期待するほうがおかしいのだ。
じっさいに2日間このホテルに泊まっているうち、わたしの気持ちには大きな変化が生じた。
たとえばフロントのパンク娘もよくみるとなかなか可愛いところがある。
朝食を持ってきてもらったときなどに彼女と挨拶をかわすうち、だんだん家族的雰囲気を感じるようになってきた。
こういう感じは5つ星なんてホテルじゃぜったいに味わえないものにちがいない。
そういうわけでこの格安ホテルがおおいに気にいったわたしは、あとで追加延長をして、ロシアの旅の冒頭にまず4泊、サンクトペテルブルクから帰ったあともここに4連泊してしまったのである。
このパンク娘の素顔は、とりあえず一部分だけを紹介しておき、ここではホテルの窓から見えるトッテモつまらない景色を紹介しておこう。
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2013年2月16日 (土)
心臓がパンクしそうな5階までやっとたどりつくと、またドア、インタフォンだ。
やっとのことでドアの内側に入るとそこは通路で、その一部のひっこんだところに机がひとつ。
これがホテルのフロントだったけど、ああしかし、こういうものもフロントといえるのかどうか。
机の上にパソコンがひとつ、そのまえに客に対するサービスとして、いつでもコーヒー、紅茶が飲めるよう給湯器が置いてあるだけである。
フロントあたりを見ただけでもう逃げ出したくなったけど、とりあえず2日間は予約してしまったのだから、そのあいだだけはがまんするつもりで、机に座っていた黒いボディコンの、インテリっぽい娘に宿泊手続きをお願いする。
イミナさんとボディコンが手続きをしているあいだに、わたしとMさんで部屋をのぞいてみた。
小さい部屋に無理に押し込んだようなダブルベッドひとつ、ほかにテレビや衣装棚などで、人間の歩くスペースはほとんどない。
バスルームとトイレは狭いうえにシャワーしかなかったけど、これだけはきれいでべつに文句をいうほどのものではなかった。
これはひょっとすると連れ込みホテルかもしれませんねえ。
ロシアの男女がその気になったとき、まさか1万、2万もする高級なホテルに行くわけにもいかないでしょう。
わたしは上海でもこんなホテルを見たことがありますなどと廊下でMさんと話していると、ボディコンがフロント?のとなりの小部屋をすこしあけて、中に向かってなにやら話しかけた。
この後の状況からすると、わたしは帰るわよ、あとはオネガイとでもいっていたらしい。
後ろからのぞくとベッドに横になった若い娘の大胆な太ももが見えた。
添付した写真は、昼間ながめたホテル・カレトニードボルの玄関(右側の建物についているドアがそれ)と、路地入口に設置されたわびしい看板だ。
3番目が、これがホテルのフロント!
4、5番目はとってもきゅうくつな室内とバスルーム。
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2013年2月15日 (金)
いつまでナターシャさんの部屋にいすわっているわけにはいかない。
この日のわたしは、日本であらかじめイミナさんが予約してくれたホテルに移動することになっていた。
両親の家を去るとき、万一のためにとイミナさんが、ロシアで使用できる携帯電話を貸してくれた。
メトロを乗り継いで、Mさん夫妻とホテルに向かう。
この日もイミナさんの家で昼食をとったり、とちゅうで両替をしたりしていたおかげで、そろそろ暗くなる時刻だった。
ツヴェトノイ・ブェリヴァールという舌をかみそうな名前の駅でメトロを下りた。
ホテルの名前は Karetny Dvor Hotel。
名前の意味がわからないけど、番地は Maly Karetny Street というところになっているから、もともとは人名らしい。
日本語でどうやって表記したらいいのかもよくわからないけど、ネットには 「カレトニードボル」 と表記されたものがあるから、この名前でいくことにしよう。
日本人が泊まるところとしては、モスクワでもめずらしい格安ホテルである。
ロシアの格安ホテルというのはどういうものだろう。
たしかこのへんのはずだと、イミナさんがうろうろ。
さがしても見つからないのはもっともで、彼女が想像しているホテルは、独立した建物に立派な車寄せがあり、きちんとしたフロントが完備、ボーイや守衛がいるようなところなんだけど、ぜんぜんそうではなかった。
路地の入口にわびしい看板が出ていた。
看板を頼りに路地を入っていくと右側の建物に扉がついている。
この扉が押しても引いても開かない。
インタフォンで呼びかけたらようやく開いた。
写真が路地とホテルの扉だ。 つまりこれがホテルの玄関なのだ。
入ってすぐに殺風景な階段があって、かたわらの壁に、ホテルは最上階ですというプリンターで打った張り紙が。
エレベーターもないので、重い荷物をかかえてえっさえっさ。
これは香港式だなと思う。
地価の高い香港には、雑居ビルの 1、2フロアだけを改造したホテルがたくさんある。
ただ、香港のほうはエレベーターぐらいついているのが普通なんだけど。
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市場をぶららしていると、あちこちでネコを見かけた。
日本のネコとちがってみんな寒冷地仕様で、雪の上を平気で走りまわっていた。
またおそろいの防寒着で雪かきをしてる人たちもいて、これはどうもお役所から派遣されている人たちらしかった。
中のひとりにお国はどちらでげすと尋ねたら、ウズベキスタンだと答えた。
ロシアでもきつい、きたない、危険の3K職場は外国人労働者によって支えられていて、それが一部のロシア人と摩擦を起こしているという、昨今の世界の潮流どうりの状況があるらしい。
3人のうち、いちばん左のおっさんは有名なロシアのアルコール依存症の人で、写真を撮ったらビール代をせがまれてしまった。
しかもあとでスーパーの中でふたたび出会い、今度はウオツカ代をせびってきて、イミナさんに、あなたのような人は国の恥ですなんてどやしつけられていた。
最後の写真は市場の近くにある近代的なスーパーで、ロシアでもいまやこっちのほうが隆盛。
小さな市場は衰退する一方らしい。
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2013年2月14日 (木)
小さな市場の第2弾は魚屋さん。
天然冷蔵庫のロシアの魚屋ではかちんかちんに凍った魚が多いけど、コイだのマスだのナマズだのといった生ものもある。
最後の写真にはイクラが見えます。
ほれ、よく見るとちゃんとикра(=イクラ)と書いてあるでしょ。
写真についてはそれほどけんのんでもなかった。
イヤがる人もいるけど、ええ、かまわんよという人も多い。
トルコのように愛想のよすぎる国もあるけど、ロシア人の反応はほかの国とあまり変わっていなかった。
生鮮食品の写真を撮って、KGBが派遣した衛生関係の役人の視察と思われやしないかって心配してたんだけど、そういうこともなかったみたい。
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明るくなってみんなが起きてきたので、あらためてMさん夫妻とともに買い物に出かけることにした。
近所に小さな市場があるということで、わたしはそういうものを見るのが大好きなのである。
今回の旅では出発まえにMさんから、写真を撮るときは注意してくださいといわれていた。
なにしろマフィアの仕切ることで有名なロシアの市場だから、うかつに写真なんか撮って、切ったの張ったのって騒ぎになっても困るということのようだ。
ただこのマフィアというのはエリツィン時代の話だから、いまではもうすこし安全になっているかもしれない。
いちばん上の写真が市場のようす。
マッチ箱みたいに小さな店が軒を接していて、それぞれが専門店。
こういう市場は日本以外のたいていの国にある。
かってのロシアというと物不足で、デパートに行っても何もないというのが有名だったけど、現在ではまるっきりそんなことはない。
世界はどんどん変わっているのである。
上から2番目はお茶屋さん。
日本のお茶もありますかと聞いたら、芸者の絵が描かれたお茶を出してきた。
つぎの4枚は八百屋さん。
写真の下部がにじんでいるのは、寒いところから急に暖かい場所に入ったせい。
6番目はボルシチの材料になる赤カブ。
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2013年2月13日 (水)
冬のロシア(モスクワやサンクトペテルブルク)に行きたいと考える人たちが、いちばん心配するのは、どのくらい寒いのか、どんな服装を準備すればいいのかということだろう。
わたしの場合、最後の数日など、ロシア人でさえ今日は暖かいとおどろくほどの気温にめぐまれたから、これにうまく答えるのはむずかしい。
今回の旅で、わたしはいちばん上にアウトドア専門店のフードつきコートを着ていった。
これはダウンジャケットほどじゃないけど、いくらかダウンが入っている。
丈はももの上までくらいだから、ちょっと短めで、足はほとんどカバーしてくれない。
それでもこれは耐寒装備としてはかなり優秀な服で、わたしはこれを着ているかぎりまったく寒さを感じなかった。
しかしコートにも上等下等いろいろあるから、コートひとつで大丈夫と言い切るわけにはいかない。
万一の用心のために持っていったダウンジャケットは、いちども着ないまま余計な荷物になっただけだった。
コートの下には、まず半そでの肌着、さらにユニクロのヒートテックを重ね着し、そして上からトレーナーを着た。
この程度にしておかないと、室内に入ったとき耐えられないほど暑くなってしまう。
たいていの屋内はTシャツ1枚でもOKなくらい暖かいから、コートの下は薄着にしておいて、コートを脱いだときさっと薄着になれる態勢にしておいたほうがいいのである。
下半身はパンツ、ヒートテックのタイツ、そしてコーデュロイのズボンだけだった。
これだけで、今回いちばん寒いと思ったサンクトペテルブルクのトロイツキー橋を渡ったときも、それほど寒さを感じなかった。
寒い場合にそなえて雪山用のオーバーズボン (キルティング製でズボンの上に重ねばきするもの) も用意していたけど、いちども出番なし。
こちらの雪は乾燥していて、雪のためにズボンがびしょぬれになることはないから、ロシア人もふつうの服装のままで、雪が降ったからといって傘もささない。
頭は、寒いときは耳までかくせる厚手のニット帽で押し通した。
あまり寒けりゃあちらで毛皮の帽子でも買おうかと思っていたけど、べつに問題はなかった。
ふつうは襟巻きが必需品だろうけど、それよりも最近スノーボーダーなどに愛用されているネックウォーマーが (わたしのものはべつに高価な品物じゃなかったけど)、襟巻きみたいにぐるぐる巻きつける必要もなく、かんたんでひじょうに効果的だ。
手袋も、いちおう重ねてはめられるよう2セット用意していったけど、重ねて着用したことはいちどもなかった。
つねに使用した手袋は、アウトドア専門店で買ったもので、そんなに高価なものじゃない。
ただし風や雪に遭うと手先はそうとうにこごえるから、寒さによわい人はポケットに携帯カイロでも用意しておくといいかも。
靴は、わたしは登山用の完全防水トレッキングシューズに、厚手の靴下をはいて、むしろ暑すぎたくらいだった。
でもトレッキングシューズにも高価なもの、安いものなどいろいろあるから、安物の運動靴でいいとはいえない。
だいたい一般観光客が長時間外気にさらされることはあまりないだろう。
ただし、とくに女性はそうかもしれないけど、わたしと同じ服装でも寒いと感じる人もいるだろうから、やっぱり防寒装備についてうまく説明するのはむずかしいのである。
服装についてはいつものわたしの旅の通り、できるだけ身軽にいきたいというスタイル。
下着と靴下は4セットぐらい準備をして、しょっちゅう洗濯をしていたけど、ズボンは2着だけ、トレーナーやコートは2週間まったく同じものを着っぱなしだった。
文句あっか。
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日ごろ怠惰で有名なわたしだけど、見知らぬ外国へ来ておそくまで寝ていることはできない。
イミナさんの実家で朝早く目をさました。
わたしが独占して寝ていた部屋にはパソコンがあったから、わたしはナターシャさんの部屋に寝かされていたらしい (アルト君の部屋はワンフロア上である)。
たまたまMさんも起きてきて、散歩に行くかいという。
ぜひと答え、防寒着に着替えていっしょにマンションの外に出た。
ほかの人たちは、イミナさんのお母さん以外はまだみんな寝ているようだった。
マンションの外に出てみたのは、Mさんは散歩ではなく、タバコを吸うためだった。
散歩に行くのはわたしひとりで、それでは帰ってきたとき建物に入れないおそれがある。
マンションはオートロックで、3桁の数字ボタンを押さないとドアが開かないのである。
帰ってきたときにこの数字を押すんだとMさんが教えてくれた。
わたしは数字をすぐに忘れる人間だから、メモ帳に書きとめた。
外はまだ暗い。
この季節、モスクワで夜が明けるのは9時ごろ (現地時間) である。
寒さはきついけど、ひとりで夜明けの町をぶらぶら歩くのはとても楽しかった。
しかし散歩はこれからイヤっというほどすることになるのだから、ここはさっさとはしょって、わたしの失敗について話すことにする。
マンションに帰ってきて、建物に入るために3桁の数字を押そうとした。
ところがまだ暗いうえに、押しボタンの数字がすり減っていてよく読めない。
これでは建物に入れない。
ロシアに到着早々、わたしはモスクワ郊外の団地で凍死してしまう運命だったのか。
ドアのまえでもたもたしていたら、たまたま戸外で雪かきをしていたおばさんが寄ってきて、何ヲシテイルノカといったようである。
窮状を訴えると、なんだ、そんなことかと、わたしの替わりにボタンを押してくれた。
ロシア人は無愛想にみえても、とても親切であることがよくわかった。
建物に入ってエレベーターに乗ったまではよかったけど、ここでまたはたと困惑。
イミナさんの両親の部屋は10階建ての10階のはずだけど、たしかアルト君の部屋がワンフロア上のはず。
上にまだ部屋があるということは、ひょっとするとわたしの聞きまちがいで、両親の部屋は9階だったのかも。
で、いちおう9階まで行ってエレベーターのまえの通路をのぞいてみた。
しかしエレベーターまえの通路なんてものは、イロ気も目印もない殺風景なコンクリートである場合が多く (ロシアでも例外ではないのだ)、どうもよくわからない。
ただ床にしいてあった段ボールがちょっと記憶にないような気がした。
そこで10階にも行ってみた。
たまたま心配顔で部屋の外に出ていたイミナさんのお母さんにばったり出会ったからよかったもの、そうでなかったらわたしは部屋にも入れず、しばらく9階と10階のあいだを行ったり来たりしていたはずだ。
あとで聞いたらワンフロア上のアルト君の部屋はあとから作ったものだという。
ロシアの住宅構造はよくわからない。
最後の写真は、ようやく明けてきたマンションからのながめ。
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2013年2月12日 (火)
酒も野菜もおいしいけど、ロシア語なんてさっぱりだから、ふつうなら居心地のわるい席になるところである。
ところが今回の旅に、わたしは音楽プレーヤーの iPod を持ち込んでいた。
しかもこの中にビートルズからロック、ジャズ、クラシック、日本の演歌などの音源と、自分で撮った写真、ショートフィルムなどをつめこんであった。
宴席であらためてアルト君を紹介されたけど、じつは彼はプロの歌手である。
彼の恋人という娘もやはりプロの歌手で、あとでわたしは彼らがデュエットで歌っている映像を見せてもらうことになる。
そうですか、わたしも音楽が好きで、ロックがどうの、ジャズがこうのと話し合っているうち (もちろんイミナさんに通訳してもらって)、わたしは彼らとすくなからぬ意気投合ができたのである。
ロシア人というと、抑圧的な社会主義政権のもとできゅうくつな生活を強いられているんじゃないかと思っていたけど、アルト君はモルジブに遊びにいったことがあるといって、海水パンツ姿の写真を見せてくれた。
添付した上の画像はアルト君と恋人。
わたしが撮ったものではありません。
そのうちこの場に、ロングの銀髪に飾り鋲のついた黒いローウエストのジーンズという、すごい派手派手系の女性が飛び込んできた。
これはナターシャさんといって、イミナさんの身内にあたる人で、彼女もプロの歌手である。
ここの家は音楽一家なんだよとMさんがいう。
いまはM夫人におさまっているイミナさん自身も、かってはステージで歌っていたというから、わたしはテーブルで野菜をかじっているだけで、複数のロシア人ミュージシャンと仲良くなれてしまったのだ。
ナターシャさんは YouTube に映像を載せている。
信じられないという人は・・・・・ うーん、自分で載せているくらいだから、ここでその映像を紹介してもかまわないだろう。
つぎのロシア語を YouTube にコピー・アンド・ペーストすれば彼女の映像が見つかるはずだ。
Наталья Савина
ナターシャさんにはあとでサイン入りのCDをいただいてしまった。
下の写真はCDのパッケージから。
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2013年2月11日 (月)
この晩はひさしぶりに帰省したイミナさんの歓迎会だ。
わたしはべつに歓迎されるいわれのない金魚のウンコだけど、いちおう宴席に連なることが許された。
テーブルに料理がならべられる。
白パンと黒パン、チキン、ハム、チーズ、果物、手作りのボルシチなどとともに、わたしの目をひいたのは生野菜の豊富さである。
写真でごらんのとおり、葉っぱものも生でむしゃむしゃ食べる。
つねづね野菜好きを公言しているわたしには大歓迎というところだけど、ロシア人はトマトやキュウリを、ドレッシングも使わずにまったく生でかじるらしい。
すいません、ソレっていって、わたしは卓上にあった塩をさらさら。
そしてもちろんウオツカが出る。
わたしはまあまあ呑ン兵衛のほうだけど、際限なくいっきに飲み干すというロシア式乾杯のやり方を知っているから、ちょっと戦々恐々としていた。
あの椎名誠さんでさえ、ロシアでは急性アルコール中毒でへばっているのである。
でもお酒の呑めないMさんと、たまたま調子がわるいというアルト君がいたおかげで、乾杯はほどほどで終わった。
イミナさんのお父さんは日本に何度も行っているそうで、焼酎が好きだそうである。
下の写真はパプリカの断片でもって、おれ、スターリンだぞっておどけるお父さん。
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モスクワに到着して第1夜はイミナさんの実家に泊まることになっていた。
彼女の実家は10階建てのマンションの10階にある。
ケチをつけるわけじゃないけれど、外見はマンションというより、ひと昔まえの日本の団地みたいな建物だ。
ソ連時代の建物らしく、外観やドア、エレベーターはかなり無骨で洒落っ気がない。
わたしははじめて中国に行ったころ、よく見かけた市街地の集合アパートを思い出した。
こういう建物は国家が国民の住まいをゼッタイ的に保証していた社会主義時代の遺物なのだろう。
部屋の広さは、変則的なところもあって説明しにくいが、日本の3LDKというところだろうか。
台所はそこで10人ぐらいのパーティでもひらけるほどのスペースがある。
ベランダは家の主人がいろいろ手を加えて改装してあった。
建物は大ざっぱでも、内部はそれぞれの家族がせいいっぱいお洒落をしていて、なかなかきれいである。
ここにイミナさんの両親とアルト君(このとき不在だったもうひと組の母子)が暮らしている。
ほかにひとり、きれいな娘がいて、台所仕事を手伝っていた。
これはアルト君の恋人で、彼らは両親の部屋のひとつ上のフロアに同居しているのだそうだ。
ひとつ上のフロアと聞いて、ん?と思った人もいるかもしれない。
わたしはそのときにはまだぜんぜん不思議とは思わず、あとでちょっとした失敗をした。
イミナさんの父親は丸太ん棒みたいな腕をした、とっても愉快な人だった。
お母さんはちょっと体の具合がわるいとか。
両親について触れるのはこのくらいまで。
写真はマンションの近所と、洒落っ気のない建物、エレベーターまわり。
あとの2枚は朝になってから撮ったもの。
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2013年2月10日 (日)
モスクワのシェレメチェヴォ空港で出迎えてくれたのは、イミナさんの親戚にあたるアルト君という若者で、日本ではあまり見たことのないスズキの大きな四輪駆動車に乗っていた。
この車に荷物を積み込んでスタートし、すぐに高速道路へ上がった。
あまりうれしくないけど、雪道・アイスバーンであるはずなのに、みんな平気でぶっ飛ばす。
アルト君も飛ばす。
そんなわたしたちの車をさらに追い越していくドイツ車もいる。
じっと観察してみると、走っているのはトヨタ、ニッサン、マツダにホンダなどの日本車はもとより、ドイツ車、フランス車、イタリア車など、やたら外国の車ばかりである。
さすがは成金大国ロシアだけど、そんな輸入車のあいだを、ときどき箱型の汚い車がとろとろと走っていて、それはジグリーと呼ばれるロシアの車だそうだ。
そしてあちこちでやたらに渋滞している。
まだ交通のインフラが国の急成長に追いついていないようだった。
わたしはまわりの景色に注目した。
意外というか当然というか、モスクワは日本とあまり変わらない近代都市だった。
イスタンブールのように新旧入り混じった街を期待していたんだけど、高速道路の上から見たかぎりでは古い建物なんてひとつも見えない。
いたるところに車やブランド商品の大きな看板があり、大きなショッピングモールがあり、赤々と輝いたマック (マクドナルド) のネオンも見える。
それでも、モスクワの市街地であるにもかかわらず、針葉樹やシラカバの森があちこちにある。
シラカバは高原に生えるのがふつうだから、やっばりここは寒いんだなと思う。
そんな市街地の森にもリスが住んでいるという。
4、50分走って、高島平や多摩ニュータウンのような、高層の集合住宅がならぶ町に到着した。
雪がしんしんと降っている。
いつもこんな天気ばかりですかとイミナさんに訊くと、ええ、そうよという。
ここはモスクワだからってことである。
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2013年2月 9日 (土)
Mさん夫妻とわたしがアエロフロートでロシアに向けて旅立ったのは1月の20日。
なんといったっていちばん寒い時期のロシアである。
去年もこの時期にツアーに参加しようとしたら、寒いので人が集まりませんと、はっきりそういわなかったけど、たぶんそういう理由でツアーが中止になってしまったくらい寒い時期のロシアである。
防寒装備には金をかけた。
防寒コートのほかに、予備のダウンジャケットまで旅行バッグに詰め込んだ。
ほかにもユニクロのヒートテック上下や、登山用トレッキングシューズ、そして携帯コンロなど、がっちりと保温対策をかためた。
これだけ固めりゃナポレオンやドイツ軍を撃退した冬将軍にも負けないってぐらい。
行くまえにMさんから希望を訊かれたので、モスクワとサンクトペテルブルクだけはどうしても見たいといっておいた。
するとイミナさんの計らいで、そのいずれの場所でも彼女の知り合いで、いくらか日本語もしくは英語のわかる人がガイドをしてくれることになった。
わたしはロシア語はもちろん、英語も最近じゃ小学生の低学年なみだから、これはおおいに助かった。
さらにMさんからロシアの田舎を見たくないですかともいわれた。
わたしは大陸中国でも、わざわざレンタル自転車を借りて田舎を見てまわったくらい田舎の好きな人間である。
それでぜひと答え、Mさんの田舎の親戚にも同行できることになった。
出発まえの幸運だけでもこれだけある。
アエロフロート機はなつかしいシベリアのアムール河をこえてゆく。
わたしは3年まえにトルコに行ったとき、やはり眼下にひろがる雪におおわれた、タイガとよばれる針葉樹の森をながめたことがある。
母なるロシア・・・・
わたしは日本の関東地方のちっちゃな町の生まれだけど、いまやそうつぶやいても不思議でないところまできた。
ところで午後1時に離陸したアエロフロートだけど、モスクワまで10時間、最後までほとんどまっ暗になることはなかったぞい。
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2013年2月 8日 (金)
今回のロシア旅行ではたくさん人たちのお世話になった。
そういう人たちのことをブログに書くとき、ふつうなら仮名にするんだけど、どうしようかしらと悩んでしまう。
なぜかというと、お世話になった人の中には、YouTube に実名入りで映像を載せているプロのロシア人歌手もいるのである。
こういう人の名前を仮名にしたらかえって失礼だ。
だいたい、わたしに親切をしてくれた人たちに対して、感謝の意をあらわすのに、仮名というのはどんなものだろう。
ぎゃくにぜったいに実名で書かれては困るという人もいる。
とくに日本で仕事をしている人の中には、ブログに名前を出されたくない人もいるだろうし、うかつなことを書くと、この1月から2月にかけてのその人の行動をべらべらしゃべることになってしまう。
わたしはこの旅で、忘れえぬ存在になったある少女のことを書こうと思っているけど、彼女もあまりくわしく触れられるのはイヤがりそうだ。
そんなこんなでいろいろ悩んでしまう。
それで仮名と実名、ニックネームなどをごちゃまぜにすることにした。
さしさわりのありそうな人は仮名にし、べつにかまわないと思える人は実名をそのまま載せた。
実名から糸をたぐれば、これが誰なのかわかってしまうそうな微妙な人もいるけど、ロシアまで行って糸をたぐろうって人はあまりいないだろうし、そこまでして個人情報を知ったって、得になるようなことはなにも書いてないから、ま、無益なことはやめたほうがいい。
まず冒頭にMさん夫妻のことが出てくる。
夫妻がどんな人なのか、ぜったいにくわしく触れないけど、ひとつだけいえるのは、いわないと話にならないのは、Mさんの奥さんはイミナ (仮名) という名前のロシア人で、わたしはたまたまこの夫妻と知り合い、夫妻がロシアに里帰りをするさい、お願いして、特別に金魚のウンコみたいにくっついていくことしてもらえたってことである。
そういう方法でもなければ、わたしにはロシアの個人旅行なんて夢のまた夢だったのだ。
今回の旅はこの夫妻の尽力によるものだから、わたしの旅は誰にでもできるものではない。
わたしは幸運だったのだ。
そしてこの幸運は旅の最後までついてまわるのだ。
写真は正真正銘のロシアのネコ。
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2013年2月 7日 (木)
またカラスかいといわれてしまいそう。
仕方がないでしょ。
なかなか文章がまとまらないので、埋め草のつまり。
こうみえても、わたしもバードウォッチャーのはしくれだもんね。
ロシアには日本のものよりひとまわり小さなカラスがいます。
全身がまっ黒でないところはトルコといっしょだけど、こっちのほうが頭でっかちで可愛いところがある。
あとで知り合うことになる女の子にいわせると、カラスじゃありませんてことだけど、そういわれるとそんなふうにも。
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2013年2月 6日 (水)
おお、いったいロシアはどうなったと疑問に思う人もいるかもしれませんが、昨日は留守にしていたあいだに、なにか花でも咲いてやしないかと、いつもの散歩コースへ。
出発まえには寂しかった自然観察園では、福寿草や節分草、蝋梅などが咲き始めていました。
水仙は今年も少なめ。
なんでもいいけど、わたしの好きな季節の開始です。
そんな花たちのはらわたまで見せちゃうブログもいよいよ盛況です。
上から節分草×2、福寿草×2、水仙×2です。
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2013年2月 5日 (火)
やっと帰国しましたけどね。
ロシアではあまりいろんなことがありすぎて、書くことも多すぎる。
どうやって整理したらいいんだと、いま頭を悩ませています。
この画像はトレチャコフ美術館で観てきたクロムスコイの 「忘れえぬ人」 だけど、彼女と再会するのは3回目。
今回ははじめて、彼女のふるさとでの再会になります。
この絵についてはこのブログに、過去に 「忘れえぬ女」 なんて表記したこともあったけど、トレチャコフ美術館で買った日本語の解説書に 「忘れえぬ人」 と表記されていたので、そっちにならうことにします。
じつはこの絵が今回ロシアの旅を端的に象徴してるんだけど・・・・・
ま、紀行記のほうはゆるゆると。
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