2013年3月31日 (日)
ネフスキー通りと、血の上の教会に通じる運河が交差するかどに、ゴシック調の重厚な石造りの建物がある。 そうしておくのはモッタイナイけれど、これは本屋だそうだ。 ずっとむかし出版された 「エルミタージュ美術館」 という本を読んでいたら、この近くに決闘前のプーシキンも立ち寄った文学カフェなるものがあると五木寛之さんが書いていた。 残念ながら帰国してから読んだ本なので、そんな店があることにぜんぜん気がつかなかった。
本屋は好きである。 むかしは目的なしに街に出て、ヒマつぶしに困ったときはたいてい本屋に入っていた。 ロシアの本屋にも興味があるから寄ってみた。 売られている本はかならずしも重厚なものばかりではなく、カードやCDの類も売られているTSUTAYAみたいな本屋である。
むかしの中国でやったことがあるけど、かっての社会主義国でモノを買うには、販売係りとレジのあいだを何往復かするというややこしい手続きが必要だった。 現在のロシアはまったくグローバル化されて、日本とまったくいっしょ。 好きな本を手にとってレジに持っていくだけである。
文字ばかりの本はどうせ読めるわけがないから、画集や写真集、マンガなどでおもしろそうなものはないかとながめているうち、日本語テキストや日露会話集をならべた棚で、日本語で書かれたちっぽけな詩集を見つけた。
熊が日本の女の子に恋をするという寓意をこめた詩集で、タイトルは 「恋する熊の歌」、著者はロシア人である。 ちらりと目を通してみたら、こんな詩が目にとまった。
箸は1本でいることができないように わたしはあなたなしでいることができない
じっさいの文章はこの通りではないけれど、著作権をうんぬんする価値があるとも思えなかったし、日本語としてはぎくしゃくしたところがあるので、読みやすいようにわたしの手で勝手に修正してある。 箸はロシア語で×××という説明と、詩の対訳がついていて、つまり日本語を勉強する人のためのテキストなのだけど、この表現はけっこうおもしろいではないか。
モスクワのかほりクンが詩に関心がありそうなことをいっていたことを思い出し、これを1冊みやげに買っていくことにした。
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2013年3月30日 (土)
日本食レストランを出たあと、リーザ嬢は家に帰り、こんどは父親のスレイブ氏が車でわたしを観光に連れていくという。 オーロラ号を観に行きましょうという。
オーロラ号というのは、エイゼンシュテインの映画で有名なポチョムキンとならんで、ロシア革命に功績のあったとされる巡洋艦のことで、現在はサンクトペテルブルク港外に係留され、その功績を記念する博物館となっている。 わたしはむかし自衛隊にいて、軍艦にはいやというほど乗っているから、あんまりその気にならなかったけど、せっかくだから連れていってもらうことにした。
スレイブ氏といっしょに、ロシア美術館のうらのほうの、彼の車を停めてある場所に行ってみた。 車がなかった。 たまたまそこで警察が駐車違反の車を持っていくところだったから、どうやらスレイブ氏の車も持っていかれたらしい。
ロシアでは駐車違反の取り締まりはけっこうきびしい。 写真はモスクワのプーシキン駅前で見た取り締まりのようすだけど、特殊な工具で4つのタイヤをはさみこみ、あっという間に吊り上げてレッカー車で運んでいってしまう。 路面のジグザグ模様は、ここはバス停だというマークだそうだ。
気のドクなスレイブ氏をわきにおいて、わたしは取り締まりのパトカーに興味を持ち、その写真を撮っておいた。 警察官になにかいわれるんじゃないかと冷や冷やしたけど、こういう点でもかっての横暴な、すぐに市民をラーゲリ送りにする警察とはちがってきているようだった。
車がないのでは観光もくそもない。 もうしわけないとスレイブ氏は恐縮していたけど、そもそもわたしへの好意が仇になったわけだから、恐縮するのはこっちのほうである。 わたしは彼に送られて (徒歩で) ホテル・ドルフィンにもどった。
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食事をとることになった。 まずいのは承知だけど、リーザ嬢がどんな反応をしめすか興味があったので、また日本食レストランに入ってみた。 父親のスレイブ氏は日本に行ったことがあるというから日本食も知っているだろうけど、娘はどうだろう。
寿司や刺身を注文し、ついでに日本酒を頼んで、それをほんのちょっぴりリーザ嬢に飲ませてみた。 彼女は健康的な女子大生だから、あら、いけるわって調子でにっこり。 まま、どうぞどうぞとやっているところへ、いきなり父親のスレイブ氏が現われた。
親に見せるにはまずい場面だけど、ここに父親が現われるのは不思議でもなんでもない。 リーザ嬢はあちこちでケータイを使い、現在地を逐一父親に報告していたのである。
それはともかく、ロシア人がまじめな顔をしていると、機嫌がいいのかわるいのか判断しにくいところがある。 このときのスレイブ氏がなにを考えていたのかわからないけど、娘になにか小言をいい、娘はそれに対してちょっと反抗的な態度をとっているように見えた。 いったい何を言ってるのか。 ひょっとすると父親はこんなことをいっていたのかもしれない。
おまえはなにをしてるんだ。 まだ学生の分際で、知り合ったばかりの日本人に酒をすすめられてウレシがってるやつがあるか。 嫁入りまえの身になにかあったらどうするんだ。 これに対して娘のほうはなにいってんの、父さん、ワタシはもう19よ。子供じゃないわ。 ワタシがなにをしようとおおきなお世話よ。
こんなことを言いあっているとしたら責任の一端はこちらにある。 こりゃまずい。 娘のため、そしてわたしのために弁解しようと思ったけど、もちろん英語はすらすら出てこないから、オ酒、少シ、日本カルチャー、なんてわけのわからない言葉をならべてみる。 下を向いてつぎになんていったらいいかと思案していたら、スレイブ氏はとつぜん日本語で 「日本の食事は美味しいです」 といいだした。 父親はぜんぜん日本語が話せないはずだから、おどろいてそっちを見ると、彼は手に日露会話集という小さな冊子を持っていた。 なんだ、そうだったんですか、あははと笑って、お酒の件はなんとかうやむやになった。
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2013年3月29日 (金)
あいかわらず見せたくないものまで拡大しちゃう人のわるいブログです。 今回はサクラとミツマタの花のアップ。 ミツマタの花がどんなかたちをしているか知らない人は、ネットで検索してみてください。
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帰りは通りの北側、つまり陽のあたる側を歩いてもどることにした。 通りのあちこちで古風な石畳を見かける。 これと同じものはトルコのイスタンブールでも見たことがあるけど、絵画的つうか文学的つうか・・・・・・
つぎの写真のアーケードみたいな通りは、陽のあたらない側にあるゴスチーヌィ・ドヴオールという古い百貨店だそうだ。 百貨店にしちゃ華やかさに欠けるけど、それは古いせいで、どのくらい古いかというと1785年創立だというから、日本の三越なみに古い。 このアーケードの下を歩いたはずだけど、そちら側を歩いているときはぜんぜん気がつかなかった。
チョコレート博物館というものがあった。 博物館とは名ばかりで、べつの場所にも同じものがあったから、ただのチョコレート屋らしかった。 わたしが日本に帰国したあと、まもなく2月14日のバレンタインデーだ。 ロシアにも女の子がチョコを贈る風習があるんだろうか。 ないだろうな。
映画館があった。 わたしは自他ともに認める映画好きだから、ロシアの映画館には大きな興味があった。 こじんまりした円形の建物で、建物のまえにやはり彫刻なんか置いてあり、ロビーにはすてきな喫茶店もある。 日本でもミニシアターなんていって、けっこう豪華な映画館が増えているけど、サンクトペテルブルクの映画館をまえにしたら、いくらかひけめを感じなければいけないのではないか。 こちらでは映画館を出たあとも、まだ映画的な、ロマンチックな街並みが続いているのである。
チケットを買って入場まではしなかったけど、ロビーにどこかで見たような映画のポスターが貼ってあった。 去年の年末に米国で封切られたばかりのタランティーノの 「ジャンゴ」 で、キリル文字ではこれで “ジャンゴ” と読むらしい。 わたしにはすこしだけ読める。 そんなことはどうでもいいけど、米国とほぼ同時期の公開だ (日本より早いんじゃないか)。 ロシアをまだ鉄のカーテンの向こうの陰けんな国と信じているアナタ、米ロ間の交流は日本を飛び越えてかっぱつに進んでいるらしいぞ。
館内への入口は階段を上がった2階にある。 2階通路の壁には人気スターのものらしい写真がたくさん展示してあった。 映画好きなわたしだけど、さすがにロシアの俳優にまで詳しいわけじゃないから、どれが誰なのかぜんぜんわからない。 ここに載せた写真には1950年という年号がついているから、そうとうに古い女優さんである。
映画館をあとにしてぶらぶら行くと、道路のはじに画商が絵をならべていた。 キザではあるけど、わたしはこういうものを観るのが好きである。 部屋に飾るのにちょうどいいサイズの、風景画から肖像画、写実的なものからポップアートふうのもの、なかなかすてきな絵もあれば、観光客に売りつけようという魂胆がみえみえの絵まで、いろんな絵がある。 わたしが買って帰りたいと思った絵がたくさんあったことも事実。 にもかかわらず1枚も買わなかったのは、絵をかついで帰るのは大変という事情から。 ま、観ているだけでも楽しかったからそれでもいいんだけど。
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センヤナ市場を見たあと、ひと駅区間だけメトロに乗って、サンクトペテルブルクの目抜き通りであるネフスキー通りにもどった。 リーザ嬢の案内でこの通りをぶらぶら散策する。 ライサさんから、わたしがおかしな旅人で、ただ街をぶらぶら歩きたいのだということが娘にも伝わっていたのかもしれない。 とりあえず目的もなしにぶらぶらである。
ネフスキー通りはほぼ東西にのびているので、陽のあたる側と陽のあたらない側がはっきりしており、正式の番地もそういう区分けがしてあるそうである。 メトロを下りたあと、道路の南側を東に向かったので、まず陽のあたらない側を歩いたことになる。
サンクトペテルブルクを散策していて感じるのは、圧倒的な石の文化ということ。 日本の黒い瓦、白い壁の商家がならぶお江戸日本橋あたりの通りも、かってはそれなり魅力的だったと思うけど、残念ながら日本ではそんなものはとっくのむかしに消滅した。 ロシアでは江戸の商家とたいして変わらない歴史のサンクトペテルブルクの街が、造られた当時のままの威容を保っているのである。
中国の上海も世界遺産になりうる可能性をもっていたにもかかわらず、傍若無人な高速道路はできるわ、新しい様式の高層ビルはできるわで、古い街並みは弾圧されて見るかげもない。 西側先進国の都市はみんな似たようなものと思えば、サンクトペテルブルクの新古典主義都市としての価値はいよいよ高くなる。
オストロフスキー公園なるものがあった。 まん中にエカテリーナの像が立っている。 モスクワのかほりクンにいわせると、エカテリーナという女帝は2人いたそうで、この公園にあったのはそのどちらなのか。 長い裾をひいたドレスの足もとに5人の寵臣をしたがえた、威風堂々の女性の立像だから、これはサンクトペテルブルクで絶対的権力をにぎった2世のほう。 ちなみにエカテリーナは、英語ではキャサリン、フランス語ではカトリーヌとなって、日本でも洋画好きにはおなじみの名前である。
公園の奥には劇場があった。 正面に6本の円柱がそびえ、その上に騎馬の彫刻が跳躍する堂々たる劇場だ。 帰国したあとで調べてみたら、これはアレクサンドリンスキー劇場というらしい。 もちろん昼間っからなにか上演しているはずがないけど、いちおう内部へ入ってチケット売り場のあたりを偵察してみた。
劇場の中には公演予定の劇のポスターが貼ってあった。 よくわからないけどおもしろそう。 館内のジオラマも展示してある。 6階まで観客席があるところは、あとで行くことになるコンサートホールといっしょで、天井桟敷という言葉もこれを見るとよく理解できる。
ぶらぶらとフォンタンカ運河の橋まで歩き、そのあたりで引き返すことにした。 この川ももちろんまっ白に氷結していて、その氷の上に人が歩いた跡がついている。
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2013年3月28日 (木)
この旅に出るまえに、山田実、ゆきよ夫妻共著による 「サンクト・ペテルブルクの異邦人」 という本を読んでみたら、そこにセンナヤ市場というものが出てきた。 ネットで調べてみたら、この市場についてロシア語で「干し草広場」を意味する。 18世紀半ばに市場として整備され、干し草や薪などが売買された。 ドストエフスキーの小説「罪と罰」の舞台となったことで知られる。 なんて説明が見つかった。
バザール、マーケット、市場、なんでもいいけど、わたしはそういうものを見るのが大好きである。 ぜひその市場に行ってみたかったので、リーザ嬢に訊くと、わたしはそんなところに行ったことがありませんという。 どうやら彼女も買い物は今ふうのデパートやスーパーに行くらしい。
地図で調べると、センナヤ市場はわたしの泊まっているホテルから1キロぐらいで、ロシア美術館と反対方向へ行ったところである。 まあ、わたしについてきなさいと、これはモスクワでかほりクンとトレチャコフ美術館に行ったときと同じで、どっちが案内者かわからない。
たぶんこのへんだろうという大きな交差点にさしかかった。 ここを起点にして道路がいくつも延びている。 市場はどこだ。 ここから先は、さすがのわたしにも 「地球の歩き方」 の地図を参照しただけではわからないのである。 えい、山カンでと、適当な道路を選んで歩き出した。
忘れちゃいけない。 この旅のわたしは徹底的にツイているということを。 ものの100メートルほど行ったあたりで、左側の路地を入ったところに門のようなものがあるのを見出した。 これがセンナヤ市場の入口だった。
門をくぐると、両側に衣料品をあつかう小さな商店が軒を接していた。 どうせ万国共通のメイドインチャイナばかりに決まっている衣料品ではつまらない。 わたしが見たいのは生鮮食品、野菜や果物、肉や魚介類をあつかう市場である。
衣料品を横目に、そのへんのお兄さんをからかいながらぶらぶら歩いていくと、右側に大きな建物があって、そのドアのガラスごしに山と積まれた果物が見えた。 これこれとわたし。
お店が建物の中にまとまって入っているという点はわたしの予想と違っていたけど、やはり市場というものは興味のつきない場所である。 野菜果物だけではなく、魚介類、肉、チーズ、ハムなどいろんなものが売られていた。 ちょっと見には近代的なスーパーみたいだけど、買い物に来た奥さんたちが、ねえ、それもうちっと安くなんないのと交渉できるところがスーパーとの違いかも。
うれしがったわたしが思い切り写真を撮ろうとすると、リーザ嬢が小さく首をふって、それはちょっとまずいんじゃないかしらと目くばせをする。 べつにマフィアが仕切っているようすもなかったけど、おかげで遠慮して写真は数枚しか撮れなかった。
最後の写真は、漬けもの屋さんから何かをすすめられて、あら、美味しいわというリーザ嬢。 こうやってつまんで味見できるところもスーパーとの違いだな。 寒いところからいきなり暖かな建物に入ったものだから、レンズが曇ってしまっている。
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ロシア美術館でいちばんの目玉は、すくなくともわたしがここでいちばん観たかったのは、レーピンの 「ヴォルガの船曳き」 という絵だ。 わたしは問題作を重点的に観るつもりで、あるところで監視のおばさんにレーピン?と訊いてみた。 さすがはロシアが誇る大画家で、このひとことだけで、おばさんはアッチと指さした。
レーピンというと、狂えるイワン雷帝から赤鼻のムソルグフスキー、宮殿の御前会議のようすから村の祭礼、庶民のダンスパーティ、死刑宣告を受ける罪人、処刑されるオカマたちなど、ドキュメンタリー・タッチの写実的な絵で知られているけど、ロシア美術館で変わった絵を観た。 くわしい背景は知らないけど、「SADKOと海底王国」 という絵で、ひとりの男が浦島太郎のように、海底でお姫様や人魚に出会うという幻想的な絵である。 へえ、レーピンはこんな絵も描いているのかいと感心した。
このブログでも触れたことがある 「トルコのスルタンに反抗的な手紙を書くコサックたち」 という絵を観たときも意外に思った。 この絵は渋谷の Bunkamura でまだ半年前に観たばかりだけど、こんなでっかい絵だったっけ? 渋谷で観たものはもっと小さかったはず。 ひょっとするとレーピンは同じ素材で、大きさの異なるいくつかの作品を描いているのかもしれない。 いずれにしてもロシア美術館にあるのがオリジナルだろう。 大きいだけに迫力も渋谷で観たときより倍増していた。
お目当てのレーピンの 「ヴォルガの船曳き」 は、下級労働者たちの過酷な仕事を描いたものだけど、それじゃ労働者たちはなんでそんなきびしい仕事に従事したのか。 王侯貴族の贅沢な生活をささえるためである。 エルミタージュに象徴されるような超弩級の贅沢をささえるためだ。 そうやってささえた皇帝の宮殿に、自分たちの苦しい生活が絵になって飾られているのだから、こんな皮肉な図式はあまりない。
最後はその 「ヴォルガの船曳き」 に描かれた労働者たちのアップだけど、いずれも無知な庶民というよりは、迫害されている聖人とその信者たちの行進のように見える。 この逆境のなかで平然とパイプをくわえている者さえいる。 怠惰な生活におぼれていた特権階級なんかよりも、崇高ささえ感じられる人物が多いではないか。 あんがいレーピンはそういうものを描こうとしたのかもしれない。
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2013年3月27日 (水)
ロシア美術館にあるのはサロン絵画や歴史大作ばかりではなく、ロマン派や前期印象派などに共通する抒情的なものもあるのだ (後期印象派よりあとの絵もあるけど、わたしの関心外なので無視)。 池のほとりにそまつな舟着き場があり、そこに古風な衣装の女性がひとりで立っている絵、またリンゴやタンポポの花のわきに、後ろ向きの若い娘が佇んでいる絵など、作品についてなんの知識もないくせに、こんな絵を眺めているとほんわりと幸せを感じてしまう。
ある部屋に舟に乗ってあそぶ日本女性を描いた絵があった。 舟のかたちが日本のものらしくないし、ほかにも日本の日常的な光景を描いたにしてはおかしなところがあるから、写真か浮世絵をもとに画家が想像をふくらませた絵のようである。 現在でも日本が登場するハリウッド映画には、この絵以上におかしな日本が描かれる場合があるから、画家をせめる気にはなれない。 彼はヨーロッパの印象派あたりから日本のうわさを聞いて、やむにやまれぬあこがれから日本を描いたものだろうし。
日本の浮世絵が西洋の画家にあたえた影響はと、いきなりナショナリズムに訴える文章になっちゃうけど、ジャポニスムがロシアに浸透したのはいつごろだろう。 ロシアの絵画が西洋の影響を受けることはあっても、ちょくせつ浮世絵を知ったことはなかったみたいだから、この絵を描いた画家も、ヨーロッパの印象派を経由し、遠まわりをして日本に関心を持ったんじゃないだろうか。 小さな島をめぐって、あれはうちの領土だなんてほざくより、日本人の美意識はモネやゴッホやゴーギャンにさえ影響を与えたんだとエバるほうが、よっぽどナショナリズムを鼓舞し、国威発揚に効果かがあると考えるのはわたしだけだろうか。
ほんわり幸せばかりではなく、もうすこしせっぱつまった絵もある。 ロシア美術館のイワン・アイバゾフスキーという画家は、米国のホーマーと同じように海を描いた画家として知られている。 彼の 「第九の波」 という絵は、その悲痛な美しさが、わたしにはジェリコーの 「メデュース号の筏」 を連想させた。 どっちが古いのか。
またつまらんことに興味をもって、調べてみたら、アイバゾフスキーは1817生まれで1900年に死んだ画家、ジェリコーは1791年生まれの1824年死亡だから、ジェリコーのほうが古い。 だから真似した、あるいは触発されたのは、アイバゾフスキーのほうであるとはいわない。 ロシアの画家とフランスの画家が、ぜんぜんべつの発想で描いたっていう場合もあるかもしれないから。 そういえば、一方は極限状況の人間を描いてえげつないのに対し、もう一方は人間なんぞ眼中になしっていう感じの大自然を描き、しかもまもなく希望の夜明けだ。 わたしのいち押しは 「第九の波」 のほうだな。
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つぎにあげたのもサロン絵画といっていい縦3メートル、横はその倍くらいあるでっかい絵だ。 人々の服装からするとどこか中東あたりの風俗画にみえるけど、なにかカワイ子ちゃんがイタズラをやらかして、群衆に警察まで引き立てられていくところのように見えたから、美人にはすぐ感情移入してしまうわたしの気になっていた絵である。
帰国して調べてみたら、ヴァシリー・ポレノフという画家の絵で、タイトルはこれも 「キリストと罪人」 というらしい。 じっさいにこの絵の左のほうにキリストらしい人物も描かれているから、なにか聖書の中の一場面らしいけど、これだけではどんな場面なのかさっぱりわからない。
さらに調べてみたら、このカワイ子ちゃんは不倫をしたのだそうである。 日本やロシアでは、江戸時代もロマノフ王朝のころも、不倫なんてぜんぜん罪にあたらなかったけど、イスラム圏ではこれは死刑に値する重罪だ。 現在でもそういうことはあるみたいで、YouTube には銃殺される女性の映像も載っているし、すこしまえには亭主の暴力にたえかねて実家に帰っちゃった若奥さんが、耳と鼻をそがれちゃったという事件もあった。 どうも女性に厳格すぎるのがイスラムの欠点だよな。
この絵を観て、わたしの意見をいわせてもらうと。 まん中にいて地面を指さしているのが、若い娘をたくさん嫁にかかえた金持ちのじいさんで、右の引き立てられているカワイ子ちゃんはじいさんの嫁のひとりだ。 こんなじいさんを相手にしていたのでは、たまには不倫もしたくなるだろうと、わたしはカワイ子ちゃんに同情してしまう。
カワイ子ちゃんにはおさななじみの、たぶんイケメンの、若い恋人がいた。 彼とたまたま再会する機会があり、もうたまらずに姦通してしまったところ、彼女に横恋慕する男がいて、じいさんにことの次第を密告した。 この絵の中で、カワイ子ちゃんの背後に、歯をむきだして娘の顔をのぞきこんでいる男がいるけど、これが横恋慕男かもしれない。
怒り狂ったじいさんは、ただちに石打ちの刑で娘を処刑しようとしたのだが、たまたま当地に偉大な聖人が行脚してきていることを知り、娘を彼のまえに引き出して、アンタならどう落しまえをつけるかと質問しているのが、この絵だろう (違っていたらゴメンナサイ)。
キリストも困るよな。 こんな難問を持ち込まれて。 法律にのっとって死刑にしてしまえといったのではあとあとの聞こえが悪いし、右の頬を打たれたら左の頬をさし出しなさいといったらじいさんが怒るだろう。 画家もまさかそんなきびしすぎる法律を肯定するつもりで描いたわけではないだろうから、深読みすればこれもロシアの芸術らしく、厳格すぎる政府に抗議するという反体制の意味がこめられているのかも。
けっきょくこの結末がどうなったのかわからないけど、カワイ子ちゃんのその後が気になって仕方がない。
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2013年3月26日 (火)
ロシア美術館にも宗教画から重厚な歴史画、美しい風景画、庶民の生活を描いた作品、そして油絵、水彩画、彫刻、前衛絵画、印象派ふう絵画、古典絵画までたくさんの作品が展示されている。 ここものんびり観てまわったのでは1日がかりだ。
この美術館の作品をいくつかピックアップすると、ブルーロフの 「ポンペイ最後の日」 なんて大作が有名だ。 傑作のほまれの高い絵だけど、大厄災についてはわたしは東日本大震災を見たばかりだし、古代都市が火山の噴火で破滅するさまは、ハリウッド映画で何度か観たような記憶があるので、いまさらたいして感動しない。
トレチャコフ美術館の 「モロゾヴァ婦人」 を描いたスリコフに、「舟の上のスチェパン・ラージン」 という絵がある。 絵を観ただけではじっさいの状況はわからないけど、蜂起したもののこてんこてんにやられちゃったコサックの親分が、ふてくされて舟で下っていくところみたいにみえる。 そのふてくされぶりがおもしろくて注目した。
「民衆の前に現われたキリスト」 というイワーノフの絵も有名だけど、これは筆調が正統派すぎてキライ。 正統派でも好きなのは、これは帰国してからロシア美術館の絵をいろいろ検索して見つけたジーミラドフスキという画家の作品である。 細密な写実主義で歴史や文学の一場面を描いた作品で、こういうのはサロン絵画というのだそうだけど、もう正統派も正統派、まっとうすぎて価値を見出さない人もいるくらいの絵で、これこそハリウッドのスペクタクル映画の1場面そのものである。
でもなぜかわたしはサロン絵画のいくつかが気にいってしまった。 感心しないといったりキライといったり、また好きといったり、このへんは分裂症ぎみの文章になってしまうけど、同じような傾向の絵でもわたしには好き嫌いがあってしまうのだ。
ものの本にサロン絵画について、最近では再評価の機運が盛り上がっていると書いてあった。 サロン絵画というのは映画の一場面にほかならないから、最近のCG映画全盛の風潮の中で、往年の名画をなつかしむ人たちが増えているのが原因ではないかとある。 そういわれると納得。
最後の絵は 「キリストと罪人」 というジーミラドフスキの絵だけど、ソドムの市のような、あるいは現代のどこかの国のような、乱交や売春、買春、不倫、同性愛がまん延した街にあらわれたキリストが、うーん、こりゃなんとかしなくちゃいけないなと思案しているところ(らしい)。 こんな絵を観ていると、「ベン・ハー」 だとか 「十戒」だとか、「クレオパトラ」、「スパルタカス」、「天地創造」 なんて大作映画がつぎからつぎへと思い出されてしまう。 わたしは絵を観ながら、ぜんぜんべつの世界を想像しているんだよね。
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ネフスキー通りから血の上の救世主教会に向かって運河づたいに歩くと、そのとちゅうにロシア美術館がある。 ここも扉がひとつで、注意してないと通り過ぎてしまうくらい入口は小さい。 もっともわたしは裏口から入ったのかもしれない。 運河とは反対側にもっと立派な入口もあるようだ。
入口は小さいくせに、一歩館内に足を踏み入れると、もう改札のあたりからコリント式?(この写真で見るかぎり、わたしにはイオニア式にしか見えないけど) の列柱が立ち並び、その落差にあれまあと叫んでしまうくらいである。 ここもエルミタージュと同じように、かっては宮殿だった建物をそのまま美術館に流用しているのだそうだ。
エルミタージュが西欧の名画を中心に集めているのにくらべると、ロシア美術館はトレチャコフ美術館と同じようにロシアの絵画を中心に集めた美術館である。 モスクワにはロシア美術専門のトレチャコフ美術館と、西洋美術専門のプーシキン美術館があり、サンクトペテルブルクには西洋美術のエルミタージュ、ロシア美術のロシア美術館があって、ちょうどバランスがとれている。 わたしはサンクトペテルブルクではぜひロシア美術館も観たかった。
入場料を払って服をクロークに預け、2階にあがると、すぐ見通しのいい廊下にぶつかった。 左のほうを見ると前衛というか、モダーンというか、そんな絵画が展示されている部屋のようで、右のほうはもうすこし古そうな絵である。 で、右に向かうことにした。
こっち方向の最初の部屋にはイコンが、いや、いわゆるイコンではなく、縦長の、もっとモダーンな宗教画がならんでいた。 まあ、古けりゃいいってもんでもない。 教会の中にも近代的な建物はたくさんあるのだから、こういう宗教画でなくちゃ具合がわるいってこともあるだろう。 古いイコンは古い教会 (と美術館) にしか居場所はないのだ。
さらにとなりの部屋に行く。 やはりわたしは入口をまちがえたようで、この順序でいくと絵画の歴史を逆にたどることになってしまった。 つまりどんどん絵が古くなるのである。 べつに絵画の歴史を勉強しようってわけじゃないからなんだっていいけど。 リーザ嬢とならんでいる木彫のヌード作品はまだモダーンのうち。
リーザ嬢はなかなか協力的で、写真を撮られてもそれほどイヤな顔をしない。 絵もステキだけど、彼女もステキだから、これはありがたい。
館内のあちらこちらで、見学に来ているロシア人の学生、小中学生たちに出会う。 絵を観ることは過去の歴史を直視することだから、子供の教育にはなかなかよろしい。 学校のようすをうらやましそうにのぞきこむ貧しい少年を描いた絵なんかは、ぜひ現在の子供たちにも観てほしい絵だ。
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2013年3月23日 (土)
所用ができたので、明日から2、3日ブログもお休みです。 帰ってきたあとは、ロシア美術館やセンヤナ市場、オーロラ号、サプサン号の乗車記、リーザ嬢に日本酒を呑ませた、かほりクンと再会した、パンク娘をくどいたなんて話が続きます。 だらだらと、まだぜんぜん終わりそうにないロシア旅行ですが、乞う、ご期待。
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ようやく夜が明けたころ、部屋の窓から外をながめてみた。 すぐ下にグリボエードフ運河が見え、正面に5階建ての石造りのビルが見える。 ビルの煙突から煙なのか湯気なのか、白いもやもやが立ち上っている。 なんとなく 「サンライズ・サンセット」 という歌が鼻からこぼれてしまう。 そういえば 「屋根の上のバイオリン弾き」 というミュージカル、あれもロシアが舞台だよな。
この日は10時にスレイブ氏が迎えに来ることになっていた。 10時ごろブザーが鳴ったのでドアを開けたら、赤いダウンジャケットにジーンズ姿の若い娘が立っていた。 誰だっけ。 見おぼえのない顔なのでまごついていると、相手のほうからライサのと挨拶をした。 そうか、昨日ライサさんの家でちょっとだけ紹介された、娘のリーザ嬢かと思い当たった。
父親がなにかの用事で来れないのだそうで、この日はリーザ嬢の案内であちこち見物して歩くことになった。 彼女もまだ19歳だというけど、モスクワのかほりクンに比べると、ずっと健康的な女の子である。 だいたいロシア美人というと、なぜかわたしはバレリーナのような柳腰の美女 (若いころは) を想像してしまうんだけど、彼女は米国型の美人、つまり西部劇の主役でもつとまりそうな健康美人である。 どうやらわたしの幸運はどこまでもついてまわっているらしかった。
問題があるとすれば、やはりわたしの英語が通じないことだ。 彼女にかぎらず、ロシアの若者には英語ぐらい通じる場合が多いみたいだけど、さすがに日本語はマイノリティである。
言葉の問題はあるものの、この日にリーザ嬢が父親の替わりにやってきたのは、わたしが歩きたいんですということを強調したせいかもしれない。 両親とも歩くのはニガ手で、若くて健康で、まだいくらでも歩けそうなリーザ嬢に、おまえ代わりに行ってきなさいといいつけたのかもしれなかった。
彼女はくわしい説明もせずに先に立ってずんずん歩いてゆく。 くわしい説明をしてもどうせわからないと割り切っているようである。 彼女はわたしより背が高く、とうぜん歩幅も彼女のほうが大きいから、ついて歩くのは大変だ。
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2013年3月22日 (金)
ライサさんと別れて、この日はいったんホテルにもどった。 フロントのキャンデス・バーゲンちゃんに、なんか冷たい飲み物ありますかと訊くと、なにもありませんとあっけらかん。 ここは格安ホテルだからホテル内に売店もないのである。 ため息をつきつつ、ライサさんにもらった紙パックのジュースがあったことを思い出し、フロントわきのキッチンにあった冷蔵庫に入れさせてもらう。
このあと洗濯をしているうち夜の7時ごろになった。 部屋でのんびりしているだけでも腹は減る。 買い物ついでにぶらぶらとエルミタージュまで往復してくることにした。
まだ人々の往来ははげしいからなにも不安はない。 外国のひとり歩きは危険だと信じている人がたまにいるけれど、そういうときはまず往来を観察すればよい。 たちまち強盗に遭うような危険な街なら、そもそも若い娘がひとりで歩けるわけがないではないか。 わたしの安全度の目安は、若い娘がひとりで歩いているかどうかなのである。
ネフスキー通りのつきあたりにある旧海軍省の建物までいき、そのままエルミタージュの前まで出て、宮殿広場の夜景をながめる。 サンクトペテルブルクの街も、夜になるとライトアップされてとてもきれいである。 そんな街を、知り合いもなく、ひとりでぶらついていると、しみじみと喜びがこみあげる。 これは孤独を愛する人にしかわからないことだろう。 しみじみ。
ネフスキー通りをぶらついて、てきとうな時間にホテルにもどることにした。 ホテル・グリフォンはカザン聖堂からグリボエードフ運河にそって数百メートル歩いたところにあるんだけど、そのとちゅうに小さな橋がかかっている。 この橋は銀行橋といって、歩行者専用の小さな橋のくせに、両はじに神話の怪獣グリフォンの像があって、なかなか貫禄のある橋だ。 グリフォンは黄金を守る怪獣だそうだから、銀行橋か、なるほど。 ※橋の写真は昼間撮ったもの。
この晩は対岸のほうをつたい、銀行橋を渡ってホテルにもどることにした。 橋のすこし手前にコンビニみたいなちっぽけな商店があったので、ここでビールとおつまみを買う。 言葉は通じなくても、手ぶりだけでも缶ビールぐらいは買えるものだし、なにしろコンビニだから値段も不当であるはずがない。
この店はホテルから200メートルぐらいしか離れておらず、街をぶらついたあとちょいと寄るのに好適な場所にあるから、これから3日間、毎晩のように立ち寄ることになってしまった。 缶ビールとおつまみで至極満足して、部屋で、あ、またしみじみと喜びが。
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2013年3月21日 (木)
食事を終えて、この日はもう解放されたかったけど、ライサさんはこれだけではもうしわけないと思ったのだろう。 市内にあるふたつの聖堂を見学していくことになった。
わたしが泊まっているホテルは、カザン聖堂のすぐ近くということはすでに書いた。 カザン聖堂についての説明はほどほどにしておくけど、サンクトペテルブルクに来て、しかも毎日そのまえを通っていて内部を観ないわけにはいかない。
外観はかなり特徴的な寺院である。 いちばん上の写真はこの晩に撮ったものだけど、なにかを抱きかかえるように腕をのばした形をしている。 ガイドブックによると、ロシア正教会としてはめずらしくカトリックふうなところのある教会だそうだけど、そういわれると、ロシア正教の教会というより、どこかの国の国会議事堂みたいなかたちである。 あとに述べる血の上の教会やイサク聖堂が博物館扱いなのに対して、ここだけは現役の教会であるそうな。
ライサさんに案内してもらって入ってみた。 彼女も聖堂に入るまえにかならず胸のまえで十字を切る。 日本人で無神論者で、そのスジの人間でもないわたしは、十字も仁義も切らないけど、そういういいかげんな人間はイスラム圏では人間以下とみられるそうである。 人間以下のせいかどうか、わたしはあつかましく何枚か写真を撮ってしまった。 写真撮影は禁止なんてガイドブックに書いてあったんだけどね。
内部が金ピカなのはほかといっしょである。 残念なことに、モスクワでたくさんの聖堂を観て、サンクトペテルブルクでも豪華な宮殿を観たわたしは、もうすでにこのていどでは感心しなくなっていた。 似たような寺院はマルタ島やイスタンブールでも観たことがあるしねえ。
そのままホテルにもどって午睡をしたかったけど、これだけではもうしわけないというライサさんに、つぎに血の上の救世主教会に連れていかれてしまった。 血の上とはおだやかじゃないけど、ここはアレクサンドル2世が暗殺された場所に建てられた教会なんだそうだ。 この教会はわたしのホテルとカザン聖堂をむすぶ線の延長上にあって、なんというか、クレムリンのワシリー寺院と同じ、装飾過多の、魔女のお城みたいな建物である。
もちろんライサさんはここでも胸のまえで十字を切る。 ロシア人の信仰心が厚いことはよくわかるけど、わたしが知っているかぎり異教徒のイスラム人も同じくらい敬虔な信仰心を持っている。 持っていないのは、そ、日本人くらいかもね。
内部は、ここも金ピカ壁画天井画がてんこ盛りだけど、やはりなみたいていの豪華さではおどろかなくなっていた。 それよりホテルにもどって昼寝がしたかった。 せっかく外国に行って、こいつはナニをしてるんだという人もきっといるだろう。 いいじゃないの、わたしはもともと名所旧跡ってもんはニガ手なんだし。
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エルミタージュを出て、ライサさんと食事をすることになった。 日本食を食べさせたら彼女がどんな反応を示すか興味があったので、日本食レストランに入ってみた。 街を歩いているとよく看板を目にするから、サンクトペテルブルクに日本食レストランはかなり多いようである。 ネフスキー通りにある店に入ってみると、中途半端な時間であるにもかかわらず、若い娘の2人連れがむしゃむしゃとなにか食べていた。
ロシア語はわからないけど、メニューは写真入りだ。 はじめからずっとながめていくと、いちおう寿司や刺身もある。 ほかに日本にこんなものがあるのかいといいたくなるような不思議な料理もある。 値段はおどろくほど高いわけでもない。
わたしは遠慮なく寿司や刺身を注文した。 注文をとりにきたのはロシア人の娘だった。
やってきた刺身を食べて、べつにおどろくような感想があったわけじゃない。 寿司も刺身もまずかった。 日本にあるいちばんまずい回転寿司よりさらにまずい。 わたしは日本で、けっして極上じゃないけど、刺身が大好きでしょっちゅうそういうものを食べているのだ。 チーズや野菜の具をのせた、いわゆる西洋ふうの寿司なんかとても食べられない。 ライサさんは焼肉をのせたチャーハンみたいなものを食べていた。
ここでわたしはライサさんにいいたくないことをいわなくてはならなかった。 ライサさんはわたしを案内していろんなものを見せるために、仕事を休み、車を用意し、目いっぱい詰めこんだスケジュールを組んでいるらしい。 これではツアーとあまり変わらない。 そこでわたしとしては (遠慮がちに)、そういう案内は不要です、わたしは街をぶらぶら歩きたいんですといってみたのである。
わたしの話を聞いてライサさんの顔がだんだん悲しそうなものになってきた。 彼女にしてみれば、けっして若くないわたしが、歩いて観光をしたのでは大変だというので、車を用意してせいいっぱいの歓待を予定していたところが、わたしのほうでそんなものは要らないというのである。
これはむずかしい問題である。 ふつうの人なら、おとなしく相手におまかせして、車で運んでもらうだろう。 ところがわたしはふつうの人ではないのである。 わたしは変人のせいか、こういうことはしょっちゅうある。 仲間と旅行に行っても、わたしひとりだけ好みが違うということが。
融和ということを優先する人ならば、自分ひとりが我慢すればいいんだと割り切るだろうけど、一生にいちどかもしれないロシア旅行で、我慢して他人のスケジュールに身をまかせるべきか。 美しいライサさんを苦しめるのは本意じゃないし、うーん、ほんとハムレットの心境だよな。
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2013年3月20日 (水)
3時間ほとでエルミージュをあとにした。 それっぽっちかいという人がいるかもしれない。 もちろんエルミタージュをすべて、もれなく観ようと思ったら、1日では足りず、2日3日の日数が必要だということは知っている。 しかしこのときのわたしは、美女軍団の中に放り込まれて、どれでもいいから好きなのを好きなだけ連れていきなといわれた男の心境だ。 そんなことをいわれても、本気になって全部を相手に頑張ろうなんて男がいるだろうか。 そんなに時間があるわけでもないし、とりあえず自分の好みをつまみ食いして満足してしまうくらいが、ふつうの男にはやむを得ないことである。
機会があればエルミタージュをもういちど訪問したいけど、さて残り少ない時間と貯金で、そんな機会があるだろうか。 わたしたちが帰るころ、入口にいくらか行列ができていた。
エルミタージュを出ると、宮殿広場になにやら人だかりが。 行ってみたら、軍服を着た一団が野戦食堂を開いて見物人に食事をふるまっていた。 軍服といっても今ふうではなく、第2次世界大戦のころのものだったから、正規の軍人ではなく、なにかのボランティアたちらしかった。
今回の旅で、わたしは日曜日にサンクトペテルブルクにいることにこだわった。 土日はいろんな催し物が開催されることが多いから、そういうものをぜひ見たいと思ったのである。 この宮殿広場の野戦食堂も、翌日になると影もかたちもなかったから、わたしの作戦勝ちだ。
まずそうだったから食事は遠慮したけど、ここではいろんな小銃、短機関銃をじっさいに持つことができる小火器の体感コーナーがあった。 持つだけだから “体験” ではなく “体感” である。 小さな女の子まで銃をもってよろこんでいた。 ナショナリズムはこの世代から養わなければいけないのかもしれない。
わたしもそのうちのひとつを持ってみた。 バラライカとよばれたロシア軍の短機関銃 (正式名称は PPSh-41) である。 わたしが持ったとき、それほど重いと思わなかったけど、これは弾が入ってないからで、ドラム型弾倉に71発の弾丸が入るそうだから、フル装填ではかなり重かったことだろう。
なにしろ第2次世界大戦のころの銃だから、現在でもこんなものを使っている国はないだろうと思っていたら、最近キナくさい朝鮮半島で、北朝鮮の軍隊がいまでも使っていることがわかった。 モノ持ちのいい国だなあと感心したけど、じつはロシアの火器は丈夫で長持ちということで定評がある。 カラシニコフなんか現在でも世界中のゲリラに愛用されているくらいだし。
銃にまつわる話はさておいて、わたしの中には平和主義者とガンマニアが並立しているので、ここでは思わずむははというところ。 このわたしのサイン入りの写真が欲しい人は一報を。
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2013年3月19日 (火)
エルミタージュには印象派以降の絵画も多いんだけど、このあたりにくると、アカデミックを脱却してさまざまな個性が発揮された時代なので、見分けやすい絵ばかりである。 セザンヌなんか遠くのほうからでもわかってしまった。 モネもゴッホもゴーギャンも、その作品の特徴は西側諸国でむかしからマスコミや出版物でたっぷり紹介されているから、見たことのない絵でもわかってしまうのである。 たとえばタヒチ時代のゴーギャンの絵を、他人の作品とまちがえる人がいるだろうか。 エルミタージュにゴーギャンの絵は多く、しかもタヒチ時代の絵ばかりで、これは圧巻。
あんまり好みじゃないんだけど、印象派の部屋をすぎると、ピカソやマチスの部屋になってしまう。 世間ではこれら前衛とされる絵もひじょうに人気があるらしく、ピカソの青の時代の 「訪問」 なんか、ガラスケースの中に展示されていた。 また 「ダンス」、「音楽」 といった巨大なマチスの絵が、ひと部屋を独占している部屋もあった。 これだけの作品が集められたのは、シチューキン、モロゾフなんていう収集家の炯眼と財力によるものだったそうだ。 まだ印象派が世間に認められるまえに、こうした収集家はすでにその価値を認めていたってことだけど、うーん、これは一種のバクチだよな。
日本では 「松方コレクション」 というものが知られていた。 戦前の鉄鋼財閥だった松方幸次郎が、金にあかせて欧州の名画を買いあさったその成果である。 ところが彼が集めた名画は、戦前の世界恐慌で松方自身が左まえになって散逸したり、日本政府の無理解のおかげで国内に持ち込めず、外国に保管しているあいだに火災で焼失したりと、さんざんな末路をたどった。 それでも松方の野望は、日本国民に近代の絵画の現物を見せたいというもので、かろうじて残った名画が今日の上野の国立西洋美術館のもとになるのだから、彼の道楽もけっしてムダになったわけじゃない。
ところで名画を集めるくらいだから、松方はすぐれた批評眼をもっていたのかというと、オレは絵なんかぜんぜんわからないよってことを豪語していたそうである。 数百億円を絵の収集につぎこめるくらい財をなした人物が、その一方ですぐれた批評眼を持っていたということはあまりないのがふつうだし、オレが死んだらゴッホの 「ひまわり」 を棺桶に入れてくれなんてアホな実業家もいたくらいだから、松方が名画を収集できたのも、どうやらすぐれたスタッフや友人によるところが大きいようだ。
ロシア人の場合、子供のころから芸術に対してきびしく育てられているから、炯眼の金持ちは日本より多かったかもしれないけど、それにしたってまだ世間の評価が確定してない時点で、名画を見極めるのはむずかしいことである。 エルミタージュの地下には、ハズレだったっていう絵ばかりを集めた部屋もあるんじゃないだろうか。 大金をつぎこんでせっせと絵を集めたロシアの富豪たちのほとんどは、革命で国を追われ、異国で指をくわえたまま死んだそうだ。
世界中の絵画ファン垂涎のまとの印象派以降の絵を観て、わたしはまたいろんなことを考えてしまう。 いったい絵の価値というのはなんだろう。 わたしは印象派の作品を否定するわけじゃないけど、革新というものが価値であるならば、それはいつか別のものに取って代わられて、それ自体が古くさいものになってしまう。 反面、たとえばトレチャコフ美術館の項でふれた 「ロプヒナの肖像」 のような美しい女性の絵は、いつになっても (少なくても) わたしにはステキなものに見える。 わたしは歴史をぐるりとなぞって、ようやく本来の道にもどってきたところかもしれない。
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エルミタージュでレンブラントを見逃してしまった。 おまえはアホかといわれてしまいそう。 ぜんぜん観なかったわけじゃない。 「イサクの犠牲」 という絵をなんとなくながめて、これが聖書の中の1場面であることは一目瞭然だから、これはアノと思った記憶があるし、帰国してから写真を整理していたら、「放蕩息子の帰宅」 もちゃんと撮ってあった。 だからぼんやりしていて、描いた画家の名前にまで思いが到らなかったということらしい。
どうしてレンブラントに無関心だったのかということを、つらつら考察してみた。
まず旅に出るまえに、エルミタージュには古今東西の名画が山のようにあると聞いていた。 どっちかというと純粋ロシア絵画だけに重点を置くことにしていたわたしは、ムダな抵抗ということで、エルミタージュの収蔵品について深く勉強してなかった。 エルミタージュのレンブラントというと、上記の 「放蕩息子」 や 「イサク」 がよく知られている。
ただソ連時代、エルミタージュの絵画は鉄のカーテンの向こう側にあって、他の欧州の絵画に比べると西側に紹介されることが少なかった。 ひとつ例をあげると、エルミタージュにルーベンスの絵で、まだつい最近、日本にいるときなにかのポスターで見たことのある絵があった。 絵の出来からすれば、これはルーベンスの代表作のひとつであると思われる。 へえ、これはエルミタージュにあったのかいと感心し、帰国してからその絵のタイトルを調べようとした。
ところがわたしがいつも頼りにしているウィキペディアにもこの作品は載ってない。 かたっぱしから図録にあたって、英語のタイトルは The Union of Earth and Water であることがわかったけど、日本ではなんというタイトルになっているのだろう。 図書館まで出かけて調べて、ようやく 「天地と水の結合」 であることがわかった。 これもエルミタージュの絵画が西側に紹介されることが少なかったことの証明かもしれない。
もうひとつは、エルミタージュにあるレンブラントは、それを収集した王侯貴族の好みもあったのかもしれないけど、神話や聖書の1場面を描いたものが多い。 彼の傑作 「夜警」 や 「デュルプ博士の解剖学講義」 のような、当時の現実社会や風俗を描いた作品は、エルミタージュには少ないのである。 これはわたしの好みとはちと違うのだ。
レンブラントの描いた肖像画は、エルミタージュにたくさんあるらしいけど、残念ながら、肖像画はほかの画家の作品もたくさんあるので、現地にいるときはとくに気をひかなかった。
ただひとつ、帰国してからぜんぜん記憶にないのを残念に思ったのは 「ダナエ」 という絵だ。 これはすっぽんぽんのオンナの人が、ベッドで、さあいらっしゃいと誘っている絵で、ゴヤの 「裸のマハ」 に匹敵するくらい官能的な、つまりイヤラシイ絵である。 しかもオンナの人の顔が、なぜかそこだけなまなましく現代的で、よけいイヤラシイ。 この絵を観て発情しちゃった人がいて、ダナエを自分だけのものにしようと絵に硫酸をかけてしまったというから、イヤラシさもハンパじゃないのである。 いまではなんとか修復されたらしいけど、顔だけ違和感があるほど現代的というのは、修復に手ぬかりがあったのかもしれない。 見たかったなあ。
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2013年3月18日 (月)
スペインは欧州でほとんどロシアと正反対の位置にある。 遠いからっていうわけじゃないだろうけど、スペインの3大巨匠、ゴヤ、ベラスケス、エル・グレコの絵は多くない。 ベラスケスの絵はつまらない男を3人描いたもので、この美術館の看板にはなりそうもない。 ゴヤや、いま日本でも個展が開かれているエル・グレコについては、なかなかいい作品があるけど、いかんせん数が少なすぎる。 わたしの希望ではスペイン絵画にももうすこしお金をつぎこんでほしかったなってところだけど、オメエのための美術館じゃないっていわれてしまうかしらね。
それほど有名じゃないけど、スネイデルスという画家の描いた 「魚屋」、「八百屋」 などという絵が、自称ナチュラリストの当方としてはおもしろかった。 たてのサイズが人間の身長ほどもある横長の絵だけど、画家の複雑な精神状態の発露のように、ごちゃごちゃぐちゃぐちゃと、魚もしくは野菜・果物が台上に積み上げられている絵である。 台の下にはオットセイまでがいて、見学に来ていたロシア人の子供たちも大喜び。
エルミタージュにはもちろん風景画もある。 しかし画家がロシアに限定されてないから、風景も欧州各地にまたがっていて、わたしみたいに絵画の中を散策しようって人には、まず場所を特定しなくちゃいけないから不便である。 なんでロシアに来てパリやフランダースの景色を観なくちゃいけないのか。 歩いているうちエジプトのミイラの石棺や、ローマの石のレリーフ、日本の鎧にまで出くわしてしまった。 こういうものはやっぱりその国で観るほうがエエ。
ほかにもたまたま目についた絵はたくさんある。 帰国したあとでいろいろ調べて、もういちど観たいと思った絵もたくさんあるけど、すべてあとの祭りだ。 また機会をうかがってエルミタージュを再訪するしかないのである。
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しっかりした信念のもとに見学したわけじゃないから、どうもだらしない感想ばかりだけど、古代絵画の部屋があった。 古代といってもアルタミラの洞窟壁画やクレオパトラの壁画ではなく、もっとずっと時代をくだった、せいぜいダ・ヴィンチ以前といったあたりの絵で、もちろんわたしはそんなものには興味がないから素通りしようとした。
ちょっと待て。 ここには彫刻も並んでいる。 いずれも具象的な、はだかの男女のなまめかしい肢体である場合が多くて、ひじょうに魅力的ではないか。 アントニオ・カノーヴァの 「三美神」 なんて、薄モノがきわどいところまでしか隠してないし、お尻のかたちがステキと思わない男はいないんじゃないだろうか。 視線がイヤラシイといわれそうだけど、産業廃棄物みたいな前衛彫刻より、ミロのビーナスのほうがわたしはずっと好きである。 ※ここに載せた画像は大理石の彫刻ですからね、念のため。
ダ・ヴィンチももちろんある。 赤ん坊を抱いたマリアの絵があったけど、赤ん坊がかわいくない。 エルミタージュにあるダ・ヴィンチは、わたしにはラファエロや、同時代の画家の作品と区別がつかなかった。 これはソ連時代にあまり紹介されてないせいかも。
マルタ島で 「聖ヨハネの斬首」 という代表作を観たカラヴァッジオの 「リュートを弾く少年」 があった。 楽譜まできちんと描きこんだ細密さには感心するけど、人物が少年なのか少女なのか、そのへんがはっきりするまでは批評は差し控えたいと思う。 どうもこの時代の神話や聖書の場面を描いたオールド・アカデミックな絵はニガ手なので、できるだけ足早に通り過ぎることにする。
ある部屋でルーベンスの 「天地と水の結合」 という、H2O(=水) みたいなタイトルの絵に出会った。 ルーベンスといえばすこしまえに日本でも個展が開かれたばかりで、そのときどんな絵だったっけかといちおう調べてみたら、すっごく肥満気味のヌードを発見して、どうもわたしの好みじゃないなってんで、けっきょく個展も見過ごしてしまったといういわくつきの画家だ。 おお、この絵の現物はエルミタージュにあったのかいとすこし感激。
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2013年3月17日 (日)
エルミタージュは過去に革命や大火、大戦中には戦災にまきこまれている。 名画や彫刻などは戦争や内乱や革命のようなゴタゴタがあると、破損されたり行方不明になってしまう場合が多い。 幸いなことにレーニンもトロッキーも芸術を保護することだけは忘れなかった。 芸術にとってもっとも不遇な時代に、それらが国家によって保護されたということは、ロシア人の見識の高さの証明なのだろう。 世の中には自分たちのイデオロギーに合わないという理由で、人類の世界遺産をダイナマイトでぶっ飛ばしてしまう原理主義者もいるのである。
大火や戦火の被害については、ロシア人はメンツを賭けて修復した。 修復には莫大な費用がかかっただろう。 それをすこしでも取り返すために、なんでロシア政府は外国の観光客をどんどん受け入れないのか。 ツアーだけではなく、どうして自由旅行を受け入れてくれないのか。 と思ったけど、これは日露の政治問題かもしれない。 わたしは格安ホテルでイタリア人客に出会ったことがあるから、自由旅行が許されてないのは日本人だけかもしれないのだ。 やっぱりプーチンに手紙でも書くか。 愛国主義者の安倍クンに、ロシアに対してはもうちっと妥協したほうがいいんとちゃうかと、そっちのほうの提言が先か。
ぶらぶらと装飾過多の部屋から部屋へ。 展示されている絵画や彫刻以外にも、ここでは室内装飾や天井画、床のタイル、モザイクなど、ありとあらゆるものが一級の芸術品といっていいから、美術品の入れ物である建物自体も芸術なのである。 そして建物を置く場所、つまりサンクトペテルブルクの街そのものも、世界でただひとつの新古典主義様式をもつ芸術的な街である。 芸術を愛する人にとって、こんなに幸せを体感できる場所はないんじゃないだろうか。
いちゃもん、いや、問題を指摘するのが得意なわたしのこと、いま世界の潮流になっているバリアフリー化はどうなるかと考えてしまう。 建物そのものが美術品であるエルミタージュでは、むやみやたらにエレベーターやエスカレーター、スロープなんかをこしらえるわけにはいかない。 そうかといって身障者の方々の中にも、ぜひエルミタージュをその目で観たいという人がたくさんいるだろう。 これはむずかしい問題だな。 月面探検車のように、人間を乗せたままあらゆる場所を観てまわれる、電動車椅子の完成が待たれる。 いや、けっしてわたしが階段を上がったり下りたりしてくたびれたからいうわけじゃないんだけどね。
見学しながら歩いていると、ブラインドのかかった窓があった。 ブラインドなんかかけられると、のぞいてみたくなるのがわたしの悪いクセだ。 すきまからのぞいてみたら、すぐ下に氷結したネヴァ川が見え、対岸に火のついたふたつの塔が見えた。 これはヴァシリエフスキー島にあるロストラの灯台塔というものらしい。
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中庭を通り、KACCA (チケット売り場) で入場料を払って、エルミタージュの館内に入った。 入場料は400Pで、これは1200円ぐらい。 チケットはライサさんが買ってくれたけど、払ったのはわたしだ。
昼の11時半ごろで、まだそれほど混雑しておらず、まったく渋滞なし。 例によってクロークにコートを預ける。 そんなものは要らないと思ったけど、ライサさんはあっという間に音声解説器を借りてきてしまった。 英語の解説だったからさっぱりわからないのに。
入ってすぐに、池田理代子さん好みのとてつもなく華麗な階段がある。 あ、池田理代子さんというのは 「ベルばら」 の原作者だかんね。
これは 「大使の階段」 というのだそうだ。 各国の大使がここを通ってロシア皇帝に拝謁することになるんだけど、なにごとも最初が肝心だ。 ロシア人を田舎者とあなどる諸外国に対して、そのど肝を抜き、畏怖せしめ、心胆を寒からしめようというのだから、これでもかこれでもかと見栄を張りまくっているのは当然である。 でも、いわゆる成金趣味とは異なる、装飾といい、色の配置といい、すこぶる上品な見栄だから気にはならない。 階段のあちこちに彫刻が配置されているけど、薄ものをまとった徹底的に具象的な女神像なんかが多くて、これも観ていてこころがなごんでしまう。
エルミタージュは、じつはひとつの建物ではなく、ロマノフ王朝の冬宮、小エルミタージュ、旧エルミタージュ、新エルミタージュ、エルミタージュ劇場という5つの建物から成っているのだそうだ。 のだそうだというのは、帰国してからものの本で知ったので、現地にいるときはあまりの華麗さに目がくらくらしてしまって、何がなんだかさっぱりわからなかった。
これらの中でいちばん大きいのが宮殿広場に面した冬宮で、すべての建物は内部でつながっているから、うろうろと見学しているうちに、わたしはいくつかの建物の中をさまよっていたらしい。 3番目の写真は旧エルミタージュへの入口にある孔雀石の置物。
「ピョートル1世の間」 という部屋がある。 部屋の中に神がかり的美女とならんだピョートル大帝の肖像画がある。 わたしは勉強していたおかげで、ピョートル大帝の肖像だけは、どこで出会っても、あっ、これはピョートルだとわかるようになっていた。 鼻下にひげをたくわえた偉丈夫で、たいていは実物以上に立派に描かれているようである。
つぎからつぎへとあらわれる華麗な部屋をぜんぶ写真で紹介したいところだったけど、なにしろ照明の不十分なところで、手持ち撮影だから、大半はピンボケで使い物にならなかった。 ここに添付した写真で、なんとかピントが合っているのは、そのへんの手すりだとか台座にカメラを乗せて動かないよう固定して撮ったものである。 またニェットおばさんに文句をいわれないかとハラハラしていた。
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2013年3月16日 (土)
サンクトペテルブルクをとりあげた 「世界ふれあい街歩き」 というテレビ番組を観ていたら、夏のエルミタージュには、そのまえに広がる宮殿広場を横切るほどの長い行列ができていた。 絵を観るためにロシアに行くなら、なんといっても冬にかぎる。 今回の旅ではエルミタージュはもとより、トレチャコフ美術館もロシア美術館もぜんぜん混雑していなくって、余裕をもって鑑賞するのにちょうどいいくらいだった。 ツアーでもなんでもいいけど、絵を観るためなら冬がイチ押しと断言しときます。
さて、エルミタージュだけど、ここにはダ・ヴィンチ、ラファエロ、レンブラント、ゴヤから、マネもモネもセザンヌも、ゴッホ、ゴーギャンも、マチス、ルオーまで、およそありとあらゆる世界の名画が集まっている (そうである)。 ロシアに行って、どうしてフランスやイタリアやスペイン、オランダその他の国の絵画を観なくちゃいけないのだ。 ということで、わたしはエルミタージュの見学に、ぜひというほど熱意があるわけじゃなかった。 ロシアで観たいのは、どっちかというとロシア絵画の収集で知られるトレチャコフ美術館やロシア美術館のほうなのである。
あ、またヘソ曲がりが始まったなといわれてしまいそう。 そういわれたくないから、もちろんエルミタージュも見た。 ホテル・グリフォンに移動したその日、ライサさんに案内してもらって、ルーヴルとならぶ欧州きっての有名美術館への旅の始まりだ。
ホテルからエルミタージュまでは徒歩15分ぐらいである。 サンクトペテルブルクの中心をつらぬくネフスキー通りをネヴァ川に向かっていくと、正面に金ピカの針のようにそそり立つ塔が見える。 針のような建物はこの街に似つかわしくないように思うけど、これは旧海軍省の建物だそうだ。
海軍省のすこし手前でちょいと右折してアレクサンドルの門へ。 この門の由来や縁起、誰がなんのために造ったのかなど知らないけど、写真を見れば特徴はわかる。 屋根つきのアーケードみたいなもんと思えばいいか。 1枚目の写真で、奥のほうに見える半円形のアーチがアレクサンドルの門だ。 2枚目、3枚目はそのアップで、やたらに彫刻が多い。
アーケードをくぐると目の前にどーんとだだっ広い空間がひろがる。 広場のまん中にずんとアレクサンドル1世記念柱がそびえ、その向こうに、白とうすいグリーンのエルミタージュが横に広がっている。 エルミタージュの時代、建物には高さ制限があったそうで、高さを競うというバカな風潮はサンクトペテルブルクにはない。 おかげで街の空は広々としていて、すこぶる気分よし。
エルミタージュの様式は、ロシア・バロックということだそうだけど、詳しく知りたい人は勝手に調べること。 他人のブログばかりアテにしてはいけない。
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2013年3月15日 (金)
ナタリー・ホテルに泊まったのはひと晩だけで、翌朝はサンクトペテルブルクの格安ホテルに移動である。 格安といっても1泊が7000円ぐらいで、名前はグリフォン(=GRIFON) という。 これはどういう意味かと思ったら、ギリシア神話の中の、ワシの翼をもったライオンという怪獣のことだった。 ここに3泊して、支払いのトータルは6,850P。
場所はカザン聖堂からグリボエードフ運河という、幅10メートルくらいの運河づたいに、ネフスキー通りと反対方向へ4、500メートル歩いたところで、ここもモスクワのホテル・カレトニードボルに似た、入口はドア1枚というホテルだった。 階段を上がった4階にフロントがあり、そこまでエレベーターがないところもよく似ている。 ただフロントにはモスクワの格安ホテルよりちゃんとしたデスクがあって、わたしが行ったとき女優のキャンデス・バーゲンみたいな美女が坐っていた。 美女は日替わりで変わるようで、バーゲンちゃんのつぎの日はオードリー・ヘプバーンみたいな娘だった。
宿泊手続きはいっしょに行ったライサさんがやってくれたから、わたしは何もする必要がなかった。 朝食はフロントのわきにある小さな食堂でとることになっているという。
部屋もきれいで、きれいすぎるくらいで、なにも文句をつけるところはなかった。 ベッドはダブルサイズだし、広々としたバスルームにちゃんと湯船もあった。 室内を見るかぎり、これでは格安ホテルとはいえない立派なホテルである。 だんだんわかってきたけど、ビルの中のワンフロアかツーフロアを改造しただけで、エレベーターもない中堅ホテルが、ロシアにはたくさんあるらしい。 わたしにしてみれば安いということが最優先なので、なんだっていいけれど。
ちょっと意外だったのは、ロシアでは外国人旅行者の管理がきびしく、観光旅行をするためには、招待状をもらうかバウチャー手配旅行をするかしか方法がないと聞いていた。 バウチャー旅行の場合は、その書類に宿泊先のホテルと滞在日程が記載されていて、ホテルに宿泊したときに宿泊証明のカードをもらい、それを出国のときに検査されるそうである。 それほど管理が厳重なはずなのに、サンクトペテルブルクのホテルではやけに簡単に手続きがすんだ。 わたしがバウチャー旅行でなく、個人的に招待してもらう形式の旅行だったせいかもしれないけど、帰国のさいの空港でもめんどうなことは何もなかった。
これなんだよと、わたしはロシアの外務省に提言してしまう。 すべての外国人がかんたんに旅行できるようになれば、観光資源の豊富なロシアに観光客はいま以上に押し寄せ、ガスや天然資源に頼らずともこの国の外貨準備高はどんどん増加するだろう。 ああ、もう、プーチンに手紙でも書くしかないか。
この翌朝、さっそく食堂へ行ってみた。 わたし以外に父と息子らしいふたり連れ、そしてひとり旅らしい女性の先客がいた。 キッチンのかたすみにパンやハム、チーズ、飲み物などが置かれていて、どれでも好きなものをとって食べていいようになっている。 さらにフロントの美女がなんとかかんとかという。 なんでもOKなんていいかげんな返事をしておいたら、目の前で目玉焼きを作ってくれた。 これだけでもまったく味気ない食事とはいえない。
交通の便からすれば、このホテルからエルミタージュまで徒歩15分ぐらい。 モスクワ駅までも2キロぐらいだから、サンクトペテルブルクのほぼ中心にあるといってもさしつかえがない。 ああ、ロシアよ、おまえはなぜ日本人に自由旅行を許してくれないのだとまた叫んでしまう。
写真はホテルの入口と室内のようすとフロントと食堂で、向こうむきでお仕事中なのがバーゲンちゃん。
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エカテリーナの夏の離宮を見学したあと、ホテルにもどるのかと思ったら、そのままライサさんの家に連れていかれてしまった。 彼女の家は離宮から車で10分もかからない。 やはり集合住宅形式のアパートで、建物はそれほどでなくても、室内はやっぱりきれいである。 きれいどころか、家具調度品、飼われているネコ、そして小さいながらも自家用車を所有している点から推察すると、ロシアでは中流以上の家庭じゃないだろうかと思ってしまう。
旦那さんのスレイブ氏は若いころ船乗りだったそうで、日本にも行ったことがあるといい、コウベ、ヨコハマなどの地名をあげてみせた。 古いアルバムも見せてくれ、そこには日本人とならんだチョビひげの若者が写っていた。 なるほどと答えたものの、わたしの英語は彼らにほとんど通じないのである。 スレイブ氏も日本語は話せない。 わたしはこの旅に英語の電子辞書を持参していたけど、それはホテルに置き忘れていた。
食事は美味しかった。 西洋料理はニガ手でなんてことをやたらにあちこちで吹聴していたおかげで、その情報がイミナさんからライサさんにも伝わっていたのかもしれない。 ライサさん手作りの料理の中に、ピーマンに挽肉などを詰めた料理があって、うーん、どうやってナイフとフォークで食べようかなと思案していたら、ライサさんがどこかから割りばしを持ってきてくれた。
そのうち長髪に無精ひげという、今ふうの若者が部屋に顔をのぞかせた。 息子ですとスレイブ氏。 つぎにきれいな娘が顔を出した。 娘ですとスレイブ氏。 ライサさんの家族は、旦那さんと息子、娘、ロシアンブルーが1匹の、4人プラスワンである。 息子はデニー、娘はリーザで、米国人みたいな名前を持っていたけど、ここでは全部仮名にしてあるからせんさくは無用だ。
家族や家の中の写真は載せるわけにいかないので、食後のデザートの写真と、スレイブ氏にだっこされたネコちゃんだけ。
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2013年3月14日 (木)
わたしが夏の離宮に行ったのは冬だったからいいけど、あとで述べる琥珀の間が復元されてから、夏のシーズンはもうれつに混雑して、ツアー客優先、個人では入場できない場合もあるという。 行列にならぶのが大キライなわたしは、寒くても冬のほうがいい。
ライサさんに先導されて、宮殿内部に足を踏み入れて、これはもう、なんというか、さすがにへそ曲がりのわたしも、うわぁと歓声をあげるしかなかった。 あまりの豪華絢爛さに、なぜか無性に笑いがこみあげてしまうくらい。
わたしはロシアが好きで、プーチンも好きだけど、だからといってお追従をいうとか、義理人情でものをいわなくてはいけない理由はなにもないのである。 だからこれは本音も本音、こころの底からのおどろきなのだ。 それは言語につくせぬ豪華さで、言語につくせないのだから、やっぱり写真で見てもらうしかない。 4枚目と5枚目は前述したパンフレットからの写真である。
ある部屋は食堂らしかった。 食堂といっても白いテーブルクロスにおおわれたテーブルや、その上に整然とならべられた食器類など、やはり細緻な美しさに満ちていている。 ただ、肝心の食事をつくる厨房は見学コースになかった。 エルミタージュを取り上げたテレビ番組を観たことがあり、そういう日の当たらない場所は意外と地味だったから、コックたちの服やレンジ周辺も金ピカなのかどうかはわからない。 あるとすればとうぜんダブルベッドかトリプルベッドであるはずの寝室もなかった。
おもてから見える部分は徹底的に美しい。 こんなきれいなところでする食事はきっとのどを通らないと思うし、夫婦生活なんかも落ち着いて励めないだろうなあと、下々の身としてはつい考えてしまう。 粗相したら洗濯代だけでも大変だ。
こんな装飾過多の部屋が、とちゅうで疲れてぐったりするくらい続いているのである。 そのきわめつけが 「琥珀の間」 だ。 壁いちめんが琥珀 (コハクってなんだという人はウィキペディア参照のこと) でおおわれているという、むちゃくちゃ豪華な部屋である。 第二次世界大戦ではサンクトペテルブルクはドイツ軍に蹂躙され、この琥珀もみんな盗まれてしまったという。 ドイツもセコイ。 復元にいたるまで、琥珀の間には聞くも涙の変遷の物語があったのだ。
琥珀の間に入ってみた。 これが写真を撮らずにいられようか。 じっと接近してカメラをかまえていたら、うしろからコラコラと。 ほかの部屋はかまわないけど、この部屋だけは写真撮影が禁止なんだそうだ。 ソ連時代のロシアには、いたるところにニェット (ダメ) おばさんというのがいて、観光客や外国からの取材記者とトラブルを起こしていたそうだけど、それはまだ健在だったのである。 仕方がないから、最後の琥珀の間についてもウィキペディアの写真を拝借してしまった。 このブログはやたらとウィキペディアのお世話になっていますんですが、いちおうその記事の真偽のほどは確認してますからね。
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ナタリー・ホテルに到着したその日のうちに、もう閉館まであまり時間がなかったから大急ぎで、ホテルから近いエカテリーナの宮殿を見物した。 ホテルから宮殿まで直線距離にすれば、せいぜい5、600メートルだ。
ライサさんの車で宮殿の横のほうから近づく。 宮殿ちかくの、住宅街の中の道路上に車を停めたけど、これは厳密にいうと駐車違反かもしれない。 ぶらぶら建物のあいだをぬけていくと、ど派手なBMWが停まっていた。 こんなものは宮殿とはなんの関係もないけど、とりあえず紹介してしまう。
ツァールスコエ・セロー (現在はプーシキン市) にあるエカテリーナの宮殿は 「夏の離宮」 と称され、たぶんこれがあるがゆえだろうけど、夏にこの街はめちゃ混みになるそうである。 わたしが行ったときはがらがらだった。 閉館まぎわだからではなく、冬ならたいていこんなものらしい。 この離宮は 「おろしあ国酔夢譚」 の主人公・大黒屋光太夫がエカテリーナに謁見したところだそうだから、日本からの観光客にはとくに関心のあるところかもしれない。
さて、この旅でわたしがロマノフ王朝の宮殿を見るのは、夏の離宮が最初になるけど、それはいったいどんなものか。
ここにひとつのパンフレットがある。 夏の離宮に入ったときもらったものだけど、ここに宮殿内外の写真が載っているので、パンフレットの写真とわたしが撮った写真をならべて説明することにする。
まず2枚目から5枚目まではわたしが撮ったもので、雪におおわれた宮殿は白と青の涼しいカラーに塗られ、冬にみるとまさに雪の女王の宮殿にふさわしい。 屋根の一か所には、例によって金ピカのたまねぎがいくつか。
わたしは住宅街に接した横のほうから離宮に近づき、建物内部を一巡して、その前面にある公園のほうに出てきた。 これだけでは住宅街のまん中にある宮殿という印象で、まわりもあまり起伏のない平坦な土地のように見えたけど、帰国したあとでグーグルの衛星写真を子細に検分してみたら、南側に大きな池があり、西側はずっと大きな森になっていることがわかった。 5枚目の写真はグーグルの航空写真で、中心部の直線と半円形の建物が宮殿で、○印はライサさんが車を停めたあたり。
つぎの3枚の写真は、パンフレットに載っていたべつの季節の宮殿である。 池の中には小さな島があり、エカテリーナが宮殿を造ろうと考えるのももっともなくらい風光明媚なところのようで、時間があれば宮殿の周囲も十分に散策する価値のあるところのようだった。
最後の写真は森のある側の、つまりこれが正門なのかもしれないけど、250年まえのある冬の夜、舞踏会が開かれるというので、森の奥からシャンシャンと3頭立てのトロイカがやってくる、そんな光景が目に浮かんでしまうようなステキな門である。
ステキなことばかりじゃない。 離宮を見学していて困ったことは、わたしの英語がぜんぜんライサさんに通じないってことだった。 これまではわたしだって、小学校高学年か中学校低学年ていどの会話能力はあると信じていたのに、相手も英語を勉強中のロシア人ということもあって、どうやらわたしの英語は小学校低学年以下みたい。 コマッタ。
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2013年3月13日 (水)
出迎えにきたのはライサさんとその旦那さんだった。 彼らに車で連れていかれたのは、この夜に宿泊予定の・・・・ たしかプーシキン・ホテルと聞いていたけど、ホテルでもらった宿泊カードではナタリー・ホテルという名前になっていた。 このホテルのあるあたりはツァールスコエ・セロー (=皇帝の村、現在はプーシキン市) といって、ロシアへやってくる観光客にはちっとは知られたところである。 ただ、サンクトペテルブルクの南30キロぐらいのところにあるから、ちょいとエルミタージュまで散歩ってわけにはいかない。
モスクワの格安ホテルに比べると、ナタリー・ホテルは建物ひとつがまるまるホテルで、玄関もフロントもちゃんとしたものがあるから、けっこう贅沢なホテルといえる。 まわりの環境も木立の多い住宅街という感じで、成城学園か田園調布みたいなところである。 一泊の料金はシングルルームで3000P (9000円ぐらい) だった。 夏になるともっと値上がりするものと思われる。
かってのロシアではホテルに宿泊するさい、一時的にパスポートを預けるシステムだったらしいけど、今回はそんなことはいちどもなかった。 モスクワの格安ホテルでも、ちょっとコピーを取っただけでパスポートはすぐに返ってきたから、こんな分野でもロシアのグローバル化はどんどん進んでいるようだ。 むしろパスポートを預かるなんてのは、中国や東南アジアあたりの客に対して、日本のほうがやってるんじゃなかろうか。
宿泊手続きをすませたあと、2階の回廊をつたって別館に案内された。 部屋は別館の3階で、廊下をぐるぐるまわってちょっとわかりにくい。 外へ出るときはいちいち本館のフロントまで行かなくても、別館からちょくせつ出られる。 こちらにも美女がひかえた出入り口があるのである。
翌朝の8時に朝食に行ったときのことを書いてみる。 朝の8時というとまだまっ暗だ。 このホテルにはちゃんとした食堂があって、無口な男が2人、それもべつべつの席で食事をしていた。 つまりわたしを含めると、3人の男がべつべつの席でぼそぼそと食事をしたわけだ。 こんなことならモスクワの格安ホテルのほうがよっぽど好感が持てる。
食事を終えて部屋にもどり、鍵をがちゃがちゃやってみたがドアが開かない。 たまたまべつの部屋から出てきた娘が、アンタの部屋は3階よと教えてくれたなんてことはどうでもいいことだけど、きれいな女の子だったからつけ加える。 部屋の窓からながめると、木立ちをすかして近所にある教会が見えた。
2番目、3番目の写真は、これは翌朝撮ったもので、ナタリー・ホテル。 3番目は別館で、2階建てにみえるけど3階建て。 6番目は窓からの景色で、木立ちの向こうに教会が・・・・・ わかるかなあ。 最後は別館出入り口の女の子。
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バスに乗るときイミナさんが運転手に説明しておいてくれたはずだけど、道路ぎわで工事をしているような、妙に雑なところでバスを降ろされてしまった。 200メートルほどはなれたところに人々がごちゃごちゃと集まっているのが見える。 誰かが迎えに来ているとしたらそのへんの気がしたので、そこまで旅行バックをごろごろとひきずって歩いた。
メトロの駅があったから、その出口から近いファーストフードの店のまえにたたずんでみた。 悲しいことに、こちらは迎えの顔を知らないのだから、できるだけ目立つ場所に立って、相手が見つけてくれるのをじっと待つしかないのである。
誰もやって来ない。 いろんな人が目の前を通り過ぎるのに、誰ひとりとしてわたしに声をかける者がいない。 つめたい風がひゅうと吹き抜ける。
さて、どうしよう。 借りたケータイで、教わった手順どおりにイミナさんに電話してみたけど、なぜかつながらない。 どうしよう。 番号はわかっているのだから、そのへんの店に入って、店の人間にかけてもらう手があるなと、いろんなことを考える。 こういう点ではロシア人は親切だから。
30分ほどしたころ、向こうのほうからこちらへ駆けてくる女性がいるのに気がついた。 あれがそうかもしれない。 いや、彼女はわたしの近くの別人めがけて駆けてくるのかもしれない。 そうだったらうれしそうな顔をするのもみっともないしと思う。 その女性はわたしに微笑みかけているように思える。 しかし人違いだったら微笑みかえすのもおかしいしなあと、どっちにでもとれる曖昧な微笑みを浮かべる。
とうとう彼女はわたしの目の前までやってきた。 息せき切った感じで、××サーンとわたしの名をいうではないか。 これがわたしを迎えにきたライサさんという女性だった。 わたしがやっと窮地を脱した瞬間である。
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2013年3月12日 (火)
田舎道を飛ばすこと1時間で、ようやくバスは交通量の多い幹線道路に出た。 ここは3車線の道路だった。 片側3車線ではなく、両側で3車線である。 なんだか変則的な道だなと思っていたけど、そのうち3車線の走り方がわかってきた。 3車線のうち、まん中の1車線は追い越し専用で、それは1キロごとにこっちの車の追い越し車線、対向車の追い越し車線に交代するのである。 これは厳格に守られていて、こっちに追い越し車線使用の権利がある部分以外では、こっちの車はけっして追い越しをしない。 そのかわり追い越しの権利部分になると、早い車はいっせいにおそい車の追い越しにかかる。 それでもここで観察したかぎりでは、ロシア人は日本人ほど短気ではないようだ。
とちゅうで1回だけドライブインに寄った。 腹がへってないから食事をする気はなかったけど、いちおう車を下りてみた。 すぐに着ぶくれした女性が寄ってきて、いくらかめぐんでくれという。 めぐまないでいると、今度はべつの車のドライバーに話しかけていた。 こういうのも現在のロシアの格差社会が生み出した必然の結果だろうか、それとも気楽なアルバイトというのだろうか。
ドライブインでトイレを借りようかと思ったけど、それほどもよおしているわけでもなかったし、ロシアのトイレは、これはもうなんというか、筆舌に尽くしがたい汚さということを椎名誠さんが書いていたので、遠慮した。 もっともプーチンのロシアになってからはそんなことはなくなったみたいで、わたしはこの旅でそんな悲惨なトイレに出会ったことはいちどもない。
バスの運転手が食事を終えて出てきたところで、その運転テクニックに感動していたところだから、写真を撮っておいた。 背中に紅海ダイビングなんとかというロゴの入った赤いジャンパーを着た若者だった。
幹線道路に出てからは見るべきものは多くない。 サンクトペテルブルクに着くまでに、すくなくとも2台の大型トレーラーが横転しているのを見たくらい。 サンクトペテルブルクが近づくと、道路標識に英語の表記もあらわれる。 街の上空に着陸態勢の旅客機がゆっくり飛んでいた。 目的地は近いけど、さてこの後のわたしの運命は・・・・・・
1番目の写真はわたしの乗ったバス。 2番から4番目まではドライブインで見た光景。 5番目の写真でトラックのまえを歩いているのが物乞いの女性で、ごっつい、高そうな毛皮のコートを着ているのだ。 赤いジャンバーはドライバー君。
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出迎えの不安さえなければ、バスの旅ほど素晴らしいものはないといえる。 ようやくひとりになれた、自分の旅が始まったという爽快感が背すじをかけめぐる。 まわりはシベリアもかくやと思わせる白銀の世界で、荒涼とした原野、シラカバや針葉樹の森の連続だ。 わたしに話しかける人間はひとりもいないから、そうした風景に身をゆだね、ぼんやりと陶酔していてかまわないのである。
若いころに冬の北海道オホーツク沿岸を、ひとりで旅したときの気分がよみがえってきた。 あのときもひとりだった。 数十年をへて、いまもひとり。 ぜんぜん進歩がないけど、もしも通常の人間なみに進歩があったとしたら・・・・・ わたしがロシアに来ることはぜったいなかったと思う。 人間が通常の生活をおくるためには、家のローンだとか子供の学費だとか、いろんな金が要るから、貧乏人のわたしには先立つモノがないってことになるのである。
バスは8~9人乗りぐらいの小さなバンだった。 客はわたしと幼児を含めて6人で、とちゅうから1人増えた。 これだけならどこにでもある平和なバスである。
ただ、例によってバスの運転手が飛ばすのにはまいった。 カーブだろうがなんだろうが、ぜんぜんスピードを落とさない。 道路は2車線だけど、除雪してあるのはほとんどまん中の1車線分だけだから、対向車がある場合は双方の車が道路のはじの、固まった雪の上に片足を乗せて走ることになる。 それでもバスの運転手はスピードを落とさない。 相手が乗用車ならまだしも、大型トラックの場合は、せまいすきまにやみくもに突っ込んでいく感じ。 見ていて尻のあたりがむずむずした。
それでもわたしは自分の幸運を信じていた。 帰国して3週間ほどして、エジプトで熱気球事故があり、数人の日本人も亡くなった。 気球は毎日飛んでおり、無数の気球がこれまでに何百回、何千回となく舞い上がっているだろう。 そのうちのひとつがたまたま墜落したってことは、乗っていた人にとって不運だったとしかいいようがないけれど、いつか誰かが死ぬことになっていたのなら、それに選ばれた人が運に見放されただけなのだ。 しかしわたしは、なぜかこの旅ではめちゃくちゃにツイているのだ。 ゼッタイに事故なんかに遭うはずがないという確信みたいなものがあった。
そのうち、ある場所で左側に広々とした平地を見た。 どうやら雪におおわれた湖らしく、氷を割って釣りをしている人たちがいた。 あの雪原の上を歩いてみたいとノーテンキに思ってしまう。
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2013年3月11日 (月)
ママさんの家のあるボロヴィチという町は、モスクワとサンクトペテルブルクとの中間あたりにある。 だからわたしがバスに乗るのは、サンクトペテルブルクまでの行程の半分だけでいいのだけど、それでも4時間かかるという。 これは今回の旅の最大の関門かもしれない。
わたしは大陸中国でも何度か長距離バスに乗ったことがあるけど、バスの時間はあまりアテにならない。 中国では6時間といわれて9時間かかったバスもある。 ロシアだって同じようなものかもしれない。
サンクトペテルブルクでは、ライサさんというイミナさんの友人が迎えに来てくれることになっているけど、そんなに順調にいくだろうか。 だいたいバスの発着場というものは、乗る人、着いた人、見送りの人、そういう人にモノを売る人、関係ない人等でごった返しているのがふつうだ。 そんなところで首尾よく相手がわたしを見つけてくれるだろうか。 見つけてもらえなかったら、あるいは出迎えがとつぜん病気にでもなって迎えに来れなかったら、わたしはひとり寂しく異国の街かどにたたずんでいるしかないのである。 そのうち不良の少年たちに取り囲まれ、手に持った荷物をふんだくられる、そいつを追いかけるうちスーツケースも持っていかれる。 そんなみじめな状況ばかりが脳裏をちらちらする。
勝手にしやがれ。 くよくよしても仕方がない。 わたしは自分の幸運に賭けることにした。
ここに写っているバスはわたしが乗ったものではありません。
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朝、そろそろ全員が起きてきたのに、ヴァーゴ爺さんだけがまだベッドの中だった。 本人はもう目をさましていたけど、ベッドから出てこない。 家のぬしがいちばん遅いなんてと奇妙に思った。
金髪クンが、ちょっと体調がわるいらしいんですよという。 呑みすぎたのか、まあ、年寄りだからなと考え、わたしは寝ている老人にひと晩やっかいになった謝礼を渡そうとした。 じつは昨夜ダンスを踊って肩を脱臼しちゃったんですよと金髪クン。
なにしろひさしぶりに客人があったものだから、喜んだヴァーゴ爺さんは、わたしとMさんが寝たあとも、女性たちと夜中まではめをはずして騒いでいたのだそうだ。 そのさいイミナさんとダンスを踊り、腕をひっぱられて脱臼したというのである。 そうとうに痛そうだったけど、わたしに心配をかけたくないので黙っていてくれと頼んでいたんだと。 なんてこころやさしい人なんだと思ったけど、わたしはこれからママさんの家にもどり、昼ごろにはサンクトペテルブルクへ出発しなければならないのである。
明るくなったら救急車が来るよう手配をし、まだ暗いなか、わたしたちは迎えにきたタクシーでヴァーゴ爺さんの家をあとにしなければならなかった。 痛みでうめいている老人を置いていくのはとってもつらかった。
ママさんの家につくと、サーシャ君が待っていて、また会えることを期待してますよという。 彼はこのあとすぐに学校へ行ってしまったから、これだけをいうためにわたしを待っていたらしい。
ママさんの家にもどったあと、寝不足のMさん夫妻はまたすぐ寝てしまった。 わたしはサンクトペテルブルクへの旅の準備である。 なにか食べておいたほうがいいでしょうと、ママさんはわたしひとりのために簡単な昼食をつくってくれた。 わたしがそれを食べているあいだ、ママさんはすぐわきに坐ってじっと見つめている。 いくら見つめられても会話ができないのだから、居づらいったらない。 そのうち金髪クンが交代して、じつはママさんはあなたがひとりで食事をするのが寂しいだろうというので、そばについていたんですよという。 わたしにはそんなこころづかいをされた記憶は生まれてからいちどもない。
昼ちかくなった。 サンクトペテルブルク行きのバスは午前11時発である。 わたしは全員に送られてバス停に行った。 ママさんがわたしにむかって、あなたの旅の無事を祈ります、あなたがまたこの地にもどってこられるよう祈っていますという。 これに対してわたしは、別れるのがとてもつらいですというしかなかった。
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2013年3月10日 (日)
サウナのあとは宴会になり、みんなで飲み食いしているとき、ひとりのおばあさんが訪ねてきた。 この人は近所に住んでいるヴァーゴ爺さんの知り合いで、金髪クンにいわせると老人の恋人だそうである。 頭にスカーフをまき、写真ではわかりにくいけど、カーディガンの下にはくるぶしまで隠れるようなスカートをはいていた。 わたしは感動して思わずさけんでしまった。 この人は古いロシアの農民そのままの格好をしています。 わたしはロシアの農村で、ロシアの農民に出会うのが夢でした。
ロシアの農民はさまざまな絵画に描かれている。 たとえばここに添付したグラバーリの 「三月の雪」 という絵を見ればわかるけど、頭をスカーフで覆い、長いスカートをはくというのが女性の典型的なスタイルだ。 寒ければこれにカーディガンのようなものをはおる。 つまり、このときあらわれたおばあさんのスタイルそのまんまである。
もうひとつ。 ここに挙げたグラバーリの絵の中で、農民の女性は長い柄の両側に、天秤にしたバケツをぶら下げている。 ヴァーゴ爺さんの家に、ハンガーのような奇妙なものがあったので、金髪クンにコレはなんだいと尋ねてみた。 硬い木でできたもので、肩にのせると、ちょうど首を迂回して両肩でバランスが保てるようになっている。 これは左右にバケツをぶら下げて、水汲みに使うものですと金髪クンはいう。 4番目の写真がそれで、絵の中で描かれているものとまったく同じものではないか。 この旅では、むむむ、ほんとうにわたしの見たいものがなんでも見られてしまう。
いいかげん飲み食いしたあとで、全員で村はずれまで花火を打ち上げにいった。 もう夜の10時ごろで、あたりはまっ暗、そんな中を大のおとなたちが着ぶくれしたままわいわい行くのだから、はたから見ると異様な光景だったかもしれない。
以前マルタ島へ行ったとき、ガイドさんから、この島の人びとは花火が大好きで、年に1回の花火で大散財をしますなんて話を聞いたことがある。 日本人も夏になると各地で花火大会をするけど、それ以外の場所や時期には、とくに花火が好きだとは思えない。 ロシア人は夏冬の季節を問わず、とても花火が大好きなようだ。
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このブログの2010年7月に、わたしはシャガールと谷内六郎さんを比較して、谷内さんの描く心象風景は、わたしもかって共有していたなつかしい日本の農村が多いから、作品にも共感を感じるけど、シャガールの描く風景はぜんぜん見たことがないから、共感を得ることはむずかしいと書いたことがある。
シャガールはロシア出身の画家である。 このたびのロシア旅行でヴァーゴ爺さんの田舎を訪ねて、あまり目立たないけど、わたしはシャガールの絵に描かれたロシアの村の特色というものを見出した。
サウナの帰りに村の家々をながめると、板の塀でかこった家が多い。 シャガールの絵にも、この板塀はくりかえし描かれている。 シャガールは故郷を追われたユダヤ人で、生涯を通じてそのなつかしい故郷を思い描いた画家であるから、教会や耕地や家畜とともに、板塀でかこまれた農家も忘れられない思い出だったにちがいない。
なんだ、ただの板塀か。 そんなものはヨーロッパに行けばいくらでもあるという人がいるかもしれない。 しかしわたしは生まれてこのかた日本人なのである。 日本の農村には、珊瑚の石垣や玉石の石垣はあっても、板塀でかこまれた農家が普遍的光景になっている場所はないはずだ。 だからわたしはシャガールによって描かれた農村の、なんでもない板塀に、するどく反応してしまったのである。
ヴァーゴ爺さんの田舎で、ようやくシャガールの絵が理解できたような気がした。 彼の絵にそうしたふるさとを思う感傷がなかったら、わたしはいまでも彼を、たんなるポップアート作家ぐらいにしか考えていなかったと思う。
やがてヴァーゴ爺さんの村にも月が出た。 望郷の画家の脳裏にはいつもこんな光景があったんじゃないだろうか。
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2013年3月 9日 (土)
もうTシャツ1枚でOK。 ぶらぶらと散歩にいく。 昨日も行ってきたばかりだから、新しい花が咲くはずもないけど、石垣の水抜き穴の中からこっちをにらむヘビ1匹。 こいつが入るには小さすぎる穴なので、どうやって入ったのか、中でどうやって向きを変えたのか、それとも尻尾から入ったのだろうかと悩んでしまう。
さらに行くと水抜き穴からでれっと顔を出しただらしないのがもう1匹。 ナニ考えてんのかねえ。
そこからすこしはなれた穴の中には、例によってぺたんとはりついたヤモリ1匹。 ヘビに食べられなけりゃいいけど。
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ひとわたりヴァーゴ爺さんの家を見せてもらったあと、金髪クンと、あとから到着したMさんの3人でサウナへ入りにいく。 なんでこんな田舎にサウナがあるのかと不思議に思っていたけど、行ってみたらこれは村人が作った共同浴場のようなものだった。 木造の、いかにも手作りといった感じのログハウスである。 ロシアや北欧の国々の人たちはサウナが大好きなのだ。
ヴァーゴ爺さんの家からサウナまで百メートルぐらいだけど、それでもいちいち防寒装備で行かなくてはならないから大変である。 わたしはロシアの農民がはくような、ひざまであるフェルト製の長靴を借りた。 いちばん上の写真がそれだけど、これでわたしもいっぱしのロシアの農民みたい。
サウナの方式もきわめて原始的。 小屋の中に大きな窯があり、内部に熱せられた大きな石が入っていて、そこへ柄杓で水をぶっかけるだけである。 それだけでじゅうっと湯気が立ち上がり、それを3、4回繰り返すと屋内は猛烈に熱くなる。 Mさんはむかし、このサウナに入ったあと、すっ裸で雪の上を転げまわったという。 共同浴場だから女性とは交代で入ることになっていて、あとからイミナさんとママさんも入りに行ったそうだ。
小屋に入ってすぐのところに、マキを積み上げた脱衣場があるので、そこで服をぬぐ。 じゃんじゃん熱くしろってわけで、金髪クンが水をぶっかけると、湯気が上って、ものの数分で汗がだらだら。 サウナの壁に束にしたシラカバの枝がかかげてあった。 これで熱した体をびしびし叩くと健康にいいんだそうで、わたしと金髪クンもおたがいに股間などを叩きあった。 叩かなくっても、わたしはもともと健康なんだけどね。
サウナ内部の写真を撮るのには苦労した。 なにしろ外は厳寒の土地で、いきなり暖かな小屋の中に入るのだから、いっぺんでレンズが曇ってしまう。 わたしのカメラはハワイでも使用した防水カメラだったから、まだよかったのかも。
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タクシーに乗って田舎道を走ること20分ぐらい。 到着したのは、こんどこそ本物の素朴な農村だった。 じつはこのとき訪れたのは、金髪クンの親戚だという農家で、ヴァーゴというおじいさんの家だった。 このおじいさんの家の近くにサウナがあるというのである。 しかし、こんなところにサウナ?と疑問を感じてしまうような寒村だった。
ヴァーゴ爺さんは農家にひとり住まいである。 息子や娘がいるとしても、核家族化していて同居はしていない。 老人が田舎で孤立するという、日本でもよくある図式だ。 ひさしぶりにお客さんがやってきたというので、よろこんだ彼は金髪クンをしっかり抱きしめていた。 わたしは初対面だから、コンニチワと挨拶する。
サウナはともかく、こうしたロシアの農家というのは、わたしにとって本当に興味のつきない対象なので、ここでヴァーゴ爺さんの家をくわしく紹介してしまおう。
まずいちばん上がヴァーゴ爺さんの家。 村ではいちばん大きい家だそうで、写真ではそう見えないけど、かなり古い農家である。 2番目の写真で、金髪クンとクリスマスツリーの背後にあるのはとなりの家。 6番目の、黒い大きなドラムカンみたいなのはストーブ。 ストーブは最近新しく作ったものだそうだけど、さすがにこのあたりではセーフティネットも完備していないので、薪ストーブである。
古い農家らしく、8番目は地下の物置き、9番目は屋根うらの物置き部屋という具合にいろんな部屋があって、最後の写真は地下室から出てきた金髪クン。 かってはウシやニワトリも飼っていたらしい。 トイレも拝見したけど、水洗じゃなかったとだけはいえる。
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2013年3月 8日 (金)
鉄橋を見物したあと、サーシャ君は用事があるからと帰宅してしまい、わたしと金髪クンはサウナに行くことになった。 ロシアのサウナってどんなところかと興味があったけど、なんだか唐突で、なんでそんなところに行くのかよくわからない。
橋を渡ったところにスポーツセンターのような建物があったから、それがそうかと思ったら、金髪クンがこれからタクシーに乗っていきますという。 ということで、この旅ではじめてロシアのタクシーに乗ることになった。 交通渋滞の激しいモスクワ市内では、よく完備したメトロのほうが便利だというので、かほりクンはいちどもタクシーを利用しなかったのである。
ロシアのタクシーにはメーターがついておらず、事前に値段交渉をするのだそうだから、なれない観光客が乗るにはそれなりの覚悟が必要である。 もっとも、このときは金髪クンにおまかせだからなにも問題はなかった。
やってきたタクシーはロシア産のポンコツ車だったけど、けっこうよく走る。 タイヤはスパイクタイヤである。 舗装をがりがりひっかいてだいなしにするから、日本では禁止になったタイヤだ。 しかしスタッドレスより安心感は大きい。
運転手の技量はたいしたもので、というよりこれが普通なのか、雪道のカーブなんかわざとタイヤを滑らせるような、いわゆるドリフト走行というテクニックを使う。 ずるーっと後輪が滑っているのがわかるけど、わたしが日本で乾燥した道路を走るのとまったく変わらないスピードなので、モンテカルロ・ラリーに参加した車のナビをつとめている感じである。 旅行保険には入っているし、どうにでもなりやがれという心境で、ひたすら感心していた。
このロシアのタクシーの映像を50秒くらいのショートフィルムにしてあるので、興味のある方は以下からドーゾ。http://www.youtube.com/watch?v=yV76UaRB1YM&feature=youtu.be
映像がうまく見られない場合は、russian taxi 001 という言葉を YouTube で検索してください。
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昼ごろになって全員が起きてきたあと、昼食をいただき、みんなで歓談しているとき、この村にはめずらしい橋がありますという話が出た。 日本の錦帯橋や大月の猿橋みたいなものかと思い、見たくありませんかと訊かれたから、ぜひと答えた。 徒歩30分ぐらいだというから歩くことにした。
いっしょに行くのは金髪クンとサーシャ君である。 ちなみにサーシャというのはアレクサンドルの省略形だそうだ。 かのネフスキーも仲間うちからはサーシャと呼ばれていたのだろうか。 鉄橋を見たついでにサウナに入りに行くというから、下着の着替えだけを持参することにした。
3人で村の中を見物しながらぶらぶら。 とちゅうに家具工場があって、建物のまえに巨大な椅子が置かれていた。 まあ、これはべつにおもしろくない。
教会があって、なにやら大勢の人たちが行列していた。 日曜礼拝みたいなものでもあるのかと思ったら、これはなんとかいう尊い聖人の遺骨が地方の教会を巡回していて、この日はたまたまこの教会にやってきており、それを拝みに来た人たちの行列だそうだ。 ならんでみようかと考えたけど、時間がかかりそうなのでやめた。 尊い人の遺骨っていうのはどんなものか見たかったけど。
道路のとちゅうに木造の古そうな民家があり、窓ガラスを通して白いレースのカーテンがのぞいている。 家人の気持ちがしのばれるし、冬の夜にペチカをかこんで家族が団らんしているさまが目にうかぶ。
ペチカはいいけど、この村では火事で燃えた家の跡をいくつか見た。 田舎の1軒屋にもすべて暖房用の湯のパイプが行きわたっているわけじゃないから、こういう家ではペチカやストーブを使う。 アル中が多いとされるロシアでは、これはとっても危険なことである。 火災のことを考えると、やはり暖房用にお湯を供給してしまうほうがいいんじゃないだろうかと、ロシアの防災対策についてよけいなことを考えてしまう。
またひとつ教会があった。 白いきれいな教会で、雪の中の白い教会だから、アンデルセンの童話に出てくる雪の女王の屋敷みたいである。 こちらは安息日なのか、いつもそうなのか、誰も集まっていなかった。
小さな公園があり、戦没者を供養するための炎が燃えていた。 こんなものをひとつひとつ紹介してもしようがないけど、村の雰囲気はわかるだろう。
歩いているのは楽しかったけど、橋はおもしろいものではなかった。 ただの鉄橋で、そんなに古いものとも思えない。 橋のたもとにいわれを記したパネルが貼り付けてあったけど、読めないし、読んでみようとも思わなかった。 パネルの写真を載せておきますんで、読める方はどうぞ。
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2013年3月 7日 (木)
ボリショイ・バレエの芸術監督が硫酸を浴びせられた事件。 続報によると、なんか怨恨や内部トラブルが原因らしい。 監督が白鳥の湖の主役を希望するバレリーナに対して、鏡を見ろ、どこがオデッタなんだと暴言を吐いたんだとか。 こりゃ女の子に対するセリフじゃないよな。 これじゃあバレリーナも怒ります。 わたしだっていちど女の子に向かって吐いてみたいセリフだけど、勇気と根性と、そういう資格がないからいえないのである。
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出勤時間帯らしく、勤め人らしい人たちがバス停でバスを待っていた。 バス停のちかくに市場があった。 小さな屋根をつけた、ほとんど露店といっていい店が、せいぜい十軒ぐらいというところ。 わたしはこういうものに興味があると力説しているけど、ここがこの旅で2回目の市場見物だ。
かちんかちんに凍った魚が売られていた。 あったかそうな毛皮の帽子をかぶった店主のおばさんに、写真撮っていいですかと訊くと、ダメだという。 しかしこのダメは日露平和条約が結ばれてないせいではないらしく、それほど強固な拒否反応とは思えなかったから、おばさんが客と話しているとき、横からこっそり撮影してしまった。
とうぜんのように蜂蜜もある。 蜂蜜屋のおやじさんはなかなか愛想がよかった。 つまりロシア人の反応もほかの国と同じで、写真をダメという人もいれば、かまわんよという人もいるのである。 わたしの場合、自分でいうのもなんだけど、どっちかというとノーテンキな顔をしているらしく、あまり相手に警戒感を与えないってこともあるのかも。
ほかに衣料品を売る店もあって、売られている毛糸は100Pで、300円ぐらい。 朝市というほど活気はないし、なんかやたらにイヌが多かった。
これ以外に近代的なスーパーもある。 最後の写真がそれだけど、このスーパーに入ってみた。 じつは散歩をしていて手が冷えたので、店の中に入ってしまえば寒いということはぜったいにないのだから、暖をとるためだった。 小さな店だったけど、酒から食品、家庭用品などなんでもそろっていて、このへんは日本のスーパーと変わらない。
わたしはアルメニア・コニャックのファンだから、日本で買うのとどのくらい値段がちがうものか調べてみた。 スーパーの棚に置かれていた3年もののアララトが3千円ぐらいで、あまり日本と変わらない。 サンクトペテルブルクへ行ったら、こいつを1本買って、部屋でちびりちびり呑もうと考える。
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昨夜は列車の中であまり眠れなかったから、ママさんの家でみんなひと眠りした。 わたしは3時間ほどで目をさましてしまった。 いつもは寝すぎるくらいよく寝るくせに、はじめての土地ではのんびり寝ていられないのがわたしの性癖だ。 で、またひとりで散歩に行くことにした。 ママさんのお母さんがドアの鍵を貸してくれた。
こういうとき注意しなくちゃいけないのは、道に迷わないようにすること。 とくに団地のようなところでは、似たような建物が多いからすぐにわけがわからなくなる。 わたしはしっかりとママさんの家を記憶した。 ママさんの部屋の窓には、その外側に小鳥のエサ場がこしらえてあった。 ハトやスズメがたかっているのが目印になりそう。
建物を出てすぐに公園があり、そのあたりにカラスやハトが群れていた。 とくにカラスがおもしろい。 頭でっかちで、胸のあたりが灰色で、どうみても日本のカラスとはちがう。 モスクワのかほりクンは、あれはカラスじゃありませんといっていたけど、ゴミ箱のまわりでゴミを漁っていたしねえ。 カラスでないならゴミを漁らないでほしい。
10分もあるくと、荒涼とした田舎景色のながめられる町はずれに出た。 そのあたりでぼんやりと遠くの森をながめた。 森は雪におおわれ、いまにもクマやトナカイが出てきそう。
わたしは北海道のオホーツク沿岸を、夏と冬に旅したことがある。 冬のオホーツク沿岸は人跡まれな、そのへんから野生動物が出てきそうなくらい荒涼としたところに見えるけれど、同じ場所を夏にながめると、よく耕作された農地のひろがる人文のゆたかな土地にしか見えない。 このロシアの町も、いまでこそ積雪期だから荒涼とした風景に見えるけど、夏に来ればきっと豊かな農村なのにちがいない。 夏に再訪したいなと切に思ってしまう。
この町についてわたしのヘタな文章で紹介するより、写真で見せるほうがわかりやすい。 しかも簡単だ。 ということで2回にわけてこのときの散歩である。
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2013年3月 6日 (水)
駅には、まだまっ暗な早朝であるにもかかわらずタクシーがならんでいた。 しかしわたしたちには、イミナさんの知り合いという男性が迎えにきていたから、ほとんどのタクシーがあぶれたわけだ。 ほかに下りる客もあんまりいなかったし。
荷物をぎゅうぎゅう押し込んで出発する。 まわりはシベリアのタイガもかくやと思わせる黒い森、よくみると雪におおわれた銀の森である。 どこをどう走っているのかわからないけど、ほとんど対向車のない街道を4、50分は走っただろうか。 車が停まったのはボロヴィチという小さな町の中の、団地ふうの集合住宅のまえだった。
Mさん夫妻は家の中から出てきた人たちと抱き合って久闊を叙しているけど、わたしはそれをぼんやりみているしかない。 家の中に案内された。 イミナさんの両親の家もそうだったけど、建物の外観はおそまつでも内部はきれいである。 ここで家の主人に紹介された。 といってもこの人のことをくわしく紹介するわけにはいかない。
この家の主人は女性だけど、じつは名前や職業をいえばいっぺんでわかってしまうほど、地元では有名な人なのである。 しかしこれからしばらく、このブログの主要登場人物になるのだから、まるっきり触れないわけにもいかない。 仕方がないから以降は “ママさん” というニックネームで話をすすめよう。
ママさんにはひとり息子がいる。 サーシャ君といってかわいい顔をした高校生だけど、なにを食べたらそんなに大きくなるのかといいたくなるくらい、健康的に育った若者だ。 ほかにママさんの母親という人も同居していた。 家族についてはこのくらいにしておこう。
さっそく歓迎会が始まったけど、まだ夜明け前なのである。 呑んで騒ぐわけにはいかない。 写真はこのときご馳走になったロシアふう肉マンと、ママさんの家のある住宅だけ。
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2013年3月 5日 (火)
おぼえているだろうか。 このブログにも何回か登場した、わたしのアパートの階下に住んでいた金髪クンのことを。 彼がロシアに里帰りして1年半がすぎた。 その後あまり便りがなかったので気になっていたけど、今回の旅でひさしぶりに再会することができた。 彼もいっしょに田舎に行くそうである。 彼は日本語がわかるから、わたしにとって頼もしい助っ人だ。
列車はレニングラード駅を深夜の1時に出発する個室寝台で、列車の旅の好きなわたしにとって大きなよろこびである。 ま夜中なので景色が見えないのは残念だけど、このあとサンクトペテルブルクからモスクワにもどるとき、もういちど列車に乗る機会はある。
駅で出発まえに写真を撮った。 ちょっと緊張した。 ソ連時代に外国人が駅の写真を撮ったら、まちがいなく逮捕・ラーゲリ行き、よくって国外退去処分だ。 でも大丈夫だったから、ロシアはこの面でもだいぶグローバル化されているようだ。 駅というのは人生の縮図みたいなところがあるので、市場とならんで、外国でわたしがもっとも見たいもののひとつなのである。 駅ホームのようすは添付した写真のような感じ。
個室寝台といっても中国の旅で何度も乗ったことのある4人用個室だ。 わたしたちはMさん夫妻と、金髪クン、わたしの4人だから、ちょうどいいはずだったけど、乗り込んでみたら先客がひとりいた。 事情をよくしらないわたしが、ズドラストヴィーチェ (ロシア語である) と挨拶すると、すぐにうちとけた。 なにか農業関係の指導員をしている人だそうだ。 タブレット端末を持っていたから、ロシアがおくれている国だと思っている人は認識をあらためたほうがいい。 日本人の顔にぼかしが入っていてもあまり気にしないこと。
親切な人だったけど、車掌のはからいで彼は部屋を移動してしまい、わたしたちはようやく個室を占領することになった。 といっても深夜なのでべらべらおしゃべりしているわけにもいかない。 わたしはさっさと上段ベッドによじ登って横になった。 まんじりとしたわけでもないけど、目的地まで4時間半ほど。 到着した駅では、停車時間が1分しかないというので、もう最初から荷物をまとめておくしかなかった。
最後の写真は、まだ暗いころ到着した目的地のオクロフカ駅だ。 石川啄木の 「さいはての駅に下り立ち雪あかりさびしき町にあゆみ入りにき」 という歌にふさわしい駅である。 街頭の灯りをすかしてみると、ダイヤモンドダストがきらきらと降りそそいでいるのがわかった。
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この晩は夜行列車で田舎にあるイミナさんの親戚に行くことになっている。 荷物をまとめて部屋で待機していると、夜の10時半ごろ、アルト君の車でMさん夫妻が迎えにきた。 このまま駅に行くのかと思ったら、そのまえにアルト君に食事をさせるということで、あるレストランに立ち寄った。
かってのロシアでは大半の店がそうだったらしいけど、食事だけではなくダンスホールになっている。 歌手のアルト君もここで働いたことがあるのだそうだ。
わたしたちが行ったとき、男性歌手がステージで歌っており、そのまえで2人の若い娘が腰をくねらせて踊っていた。 ステージの背後には大きなスクリーンがあって音楽にあわせた映像が流されている。 踊っているのはただの客ですかと訊くと、そうだという。 欧米の女の子が踊っているのはけっこうサマになるから、ディスコでショーガールが踊っているのを見ながら食事するようなものだ。
ここで奇妙なものを見た。 ひとことでいうと水パイプなんだけど、きれいな容器に長い菅がついていて、黒人のボーイがそれを注文した客のまえで、まずひと息かふた息吸って煙をはきだし、客に吸い口を渡す。 わたしたちの中に注文する人はいなかったけど、各テーブルにその容器が置いてあったから誰でも注文できるらしかった。 なんだ、水パイプかというなかれ。 そんなものがじっさいに使われているのをみたことがないわたしには、なんか禁酒法時代の違法クラブにまぎれこんだみたいな雰囲気である。
食事を終えて駅に向かう。 わたしたちが出発するのはレニングラード駅だけど、正面にヤロスラヴェリ駅というべつの駅がある。 どちらも古典的スタイルの建物で、ライトアップされていてひじょうに美しい。 でも美しい駅の写真はないのだ。 急げ、急げとせかされて写真を撮ってるヒマがなかったもんで。
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2013年3月 4日 (月)
お金の両替も無事にすんだから、安心してホテルにもどり、このあと夕方の5時すぎまでうだうだとすごしていたけど、眠れそうにもないので、夕食でも食べてこようと部屋を出た。
かほりクンとデイトするときはプーシキン駅で落ち合うのがつねだけど、わたしが泊まっているホテル・カレトニードボルの近くにはもうひとつ、このホテルにやってきたときメトロを下りた、ツヴェトノイ・ブェリヴァールという舌をかみそうな名前の駅がある。 この駅のちかくもなかなかにぎやかだから、そのへんを歩いてみることにした。
ホテルを出るとすぐ近所にわびしい灯りのついた店があった。 こういうレストランもわるくないと思ったら、室内では若い娘が数人で針仕事をしていた。 作りかけのウエディングドレスなどが見えたから、オートクチュールらしかった。
メトロのツヴェトノイ駅の周辺にはレストランやカフェも多い。 駅近くの歩道上に、オープンカーに乗り込もうという男性の銅像が設置されていた。 どんな意味があるのかわからない。
とりあえずクレムリン方向だと思うけど、ぶらぶら行くとにぎやかな交差点があって、交差点ぎわの公園の塔の上にも誰かの銅像がある。 銅像は、ネフスキーからロック歌手のものまで、やたらにたくさんあるから、とくべつに関心をひいたもの以外はいちいち説明しない。 どうせわからないんだし。
そのへんで今度は通りの反対側を歩いてもどることにした。 とちゅうにギターを看板にした店があったから、ライブハウスかもしれないと思い、ちょっと寄ってみた。 4枚目の写真がその店で、半地下になったCDや歌手のプロマイドを売る店だった。
ところがこの店にはさらに奥に部屋があって、そこがライブハウスになってた。 店の売り子に聞くと演奏は夜の8時からだという。 部屋をのぞくと演奏家たちが準備のまっ最中だったので、サンクトペテルブルクからもどったあとで行ってみようと思う。 最後の写真もその店で、右側の階段の奥がライブハウスになっている。
スーパーに顔をつっこみ、この晩はビールとおつまみのチーズ、別の売店でクリームパンを買ってもどった。 ビールの栓抜きを借りようとしたけど、フロントに誰もいない。 大きな声でレイナー!と呼ぶと、例のパンク娘が豆鉄砲をくらったハトみたいな顔であらわれた。 栓抜きを借り、わたしは今夜サンクトペテルブルクに行き、4日後に帰ってくるよといってみたけど、アハン、アハンというばかりで、わかっているのかわかってないのかあいかわらずさっぱり。
このアハンというのは Yes という意味で、べつにロシア人だけではなく、アメリカ人も電話の受け応えなんかでやっているアレだということが、その後わかってきた。
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そろそろいいだろうと、そのあたりの両替商に飛び込んだ。 写真でごらんのように、赤いネオンでドルとユーロのその日のレートを表示しているのが両替屋。 街の中のいたるところにあるけど、日本円のレートまで表示している店は少ない。 両替屋では不安だという人は、もちろん銀行でもOK。 両替屋に入ってくる客の目的は、強盗でもないかぎり決まっているから、紙幣を見せさえすれば、言葉が通じなくてもなんとかなる。
ところがドルとユーロ以外は両替できませんという。 べつの店でも同じことをいわれ、こりゃヤバいなと思いつつ、さらに3軒目へ。
半地下になったどこかうさんくさい店である。 階段を下りたところに人相のわるいガードマンがいる。 カウンターは、刑務所の面会室みたいなのがたったひとつで、内側に太ったおっさんが座っていた。 おそるおそる、ここで日本円を両替できますかと訊くと、おっさんはうんとうなづいた。 レートは前回よりもいいくらいだった。 もしかすると日本では安倍クンが早くも馬脚をあらわして、また円高に振れたのかもしれないと思う。
いずれにしても両替できて安心して、帰りに今度はちゃんとした銀行でもういちどチャレンジしてみることにした。 正規の銀行と私設の両替商のちがいは、銀行のほうはガラス張りでピカピカで、女の子がたくさん働いていることのようだ。 もうひとつ、行内でぼんやりしていると、すぐに行員が近づいてきて、何か用事ですかと訊くこと。 これこれしかじかでと説明すると、順番チケットを発券機から取るよういわれる。 こんな機械が置いてあるところもそうかもしれない。
自分の順番がきたので、別室になってる窓口へ入ってみた。 お金のやりとりはものものしい。 防弾ガラスの下のほうに小さな窓があり、そこに小さなケースがついている。 ケースをこちらに引き寄せてお金を載せると、係りはそれを自分のほうに引き寄せる。 これでは拳銃強盗も手の出しようがない。
ここでもレートに文句はなかった。 ところが、受け取ったお金を封筒に入れていると、係りが、あっ、いまの、それ返してという。 なにかまちがえたのかと思い、いったんお金を返してみた。 相手は電卓をがちゃがちゃやって、今度は5000Pぐらいのお金を寄こした。 冗談じゃない、ダメだ、こんなのとつっ返すと、また電卓をがちゃがちゃ、べつの行員もやってきて、いっしょにがちゃがちゃ。 けっきょく最初の金額をそのまま寄こした。 なんだ、コレ。
ここで不思議なのはパスポートも提示する必要がなかったことだ。 これはいったいどういうことだろう。 たぶんわたしがいいかげんであるように、ロシアの銀行もいいかげんなのだろうと考える。
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2013年3月 3日 (日)
冬のモスクワを散策していると、毛皮のコートを着た女性たちに出会う。 毛皮のコートなんてハリウッドの女優さんみたいで、さぞかし高いんだろうなあと、貧乏人の当方としては心配になってしまう。 日本でも女の子が無理して成人式に和服を買ったりするけど、和服なら金がなければ無理して買う必要はない。 しかしロシアではこれは女性の必需品だ。 街をぶらついているとき、あちこちで物乞いをしている老婆を見たけど、彼女たちも毛皮のコートを着ていた。
いったい毛皮のコートというのはいくらぐらいするのかと、もちろん必需品としてのロシアでの価格を調べてみた。 モスクワに住んでいる日本人女性のブログによると、毛皮にはミンクやフォックスを使った高価なシューバと、羊の皮を使ったわりあい安価なドゥブリョーンカというのがあって、シューバのほうは日本円で30万から90万円ぐらいするとあった。 やっぱり高いと、この日本人女性もぼやいている。
そんなミンクのコートを着て、おんぼろバスに乗り、そのへんのスーパーで買い物をするのがロシアの女性だそうだ。 べつのサイトには、春になるとバーゲンをするので、モスクワの女性たちはその機会を利用して買うのだという情報も。 バーゲンでもけっしておどろくほど安くなるわけではなさそうである。
わたしのガイドをしてくれたかほりクンはまだ学生だから、典型的なドゥブリョーンカで、それでもえりや手首にはふさふさした毛がついていた。 値段はやはり十数万円はするらしい。
服装に厳格なイスラム圏でも、男っていうのはかなりいいかげんだけど、女性がロシアに住むのはやはり大変だ。 そんな女房や恋人をもったロシアの男も大変だ。 日本の場合、和服は高価だということでどんどんすたれていったけど、ロシアの場合は、なにしろこれに命がかかっているのだ。 WWFの目もきびしいし、植物繊維や合成繊維が毛皮の代用になる日が来るのだろうか。
雪のクレムリンの続き。 1、2、3枚目の写真はベム百貨店とそのあたり。 とにかく圧倒的な石の街である。
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お金の両替にいくことにした。 ここまでにわたしがお金を両替したのは、モスクワの格安ホテルに入るまえ、ツヴェトノイ・ブェリヴァールという舌をかみそうな名前の駅近くでやったきりである。 このときはイミナさんがいたし、ちゃんとした銀行だったから、ややこしい手間はかかったものの、べつに問題はなかった。
こんどはそれを自分ひとりでやろうというのである。 この日はかほりクンに会う予定はなかったから、彼女に頼むことはできないし、Mさん夫妻が迎えにくるのは夜である。 まあ、いいヒマつぶしだと考え、両替がてらもういちどクレムリンを見てくることにした。
この日は冬のモスクワではとうぜんのような陰うつな日で、ときおり灰色の空から雪が舞い落ちていた。 でもこれがほんとうの冬のロシアみたいで、一過性の旅人であるわたしはけっして憂うつではない。
クレムリンまで歩いて30分で着き、正規の銀行ではないけど、街のあちこちに両替商の看板が出ていることは知っていたから、とりあえずそのへんにあった両替屋に飛び込んでみた。 受付の娘がだまって手にした札を見せる。 12時から14時まで休みだそうだ。 まだ業務開始まで40分ちかくある。
仕方ないから2日前にかほりクンといっしょに見物したところを、今度はひとりでぶらぶらしてみた。 ひとりで歩くのは望んでいたことであるから、かえってありがたいくらいである。 ここでそのおりの写真を2回に分けてずらりとならべる。 ボツにするのも惜しいもので。
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2013年3月 2日 (土)
翌日は朝食をすませたあと、かほりクンとの約束はないので、ホテルの部屋でのんびりする。
この日は深夜に、Mさん夫妻といっしょに、イミナさんの田舎の親戚に出発する予定になっていたけど、部屋は明日の昼まで借りる契約にしてあった。 ちょっともったいないけど、怠惰なわたしにとって、昼にチェックアウトして深夜まで途方に暮れるよりはいい。
そんなわけでベッドでごろごろしていたら、Mさんから電話がかかってきた。 田舎に1泊したあと、わたしひとりでサンクトペテルブルクに行くことになっていて、あちらではイミナさんの知り合いがわたしの面倒をみてくれるそうである。 その知り合いが仕事を休み、車であちこち案内してくれるそうなので、いくらか多めに謝礼を用意しておいたほうがいいでしょうというのが電話の主旨だった。 困ったことになったなと思った。
謝礼自体は想定の範囲内だけど、どうやら相手はわたしが訪ねるのを手ぐすねひいて待ち構えているらしい。 わたしにしてみればホテルの紹介と、帰りの列車の手配ぐらいしてもらえばいいつもりでいた。 ひとりで街をぶらぶらしたいというのがわたしの本音で、あんまりガチガチに予定を組まれたのでは自由旅行の意味がないではないか。 しかし相手は好意でしてくれるのだから、むげに拒否もできない。 うーむとハムレットの心境である。
それはそれとして、謝礼のことを考えると、いま手持ちのルーブルだけでは足りなくなりそうだったので、またいくらか両替をしておこうと思う。
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ガイドブックをみると、アルバート通りは歩行者天国になっていて、いろんなパフォーマンスが演じられたり、似顔絵描きなどが出ていたりするところだという。 原宿のホコ天みたいなところらしい。 おもしろそう。
というわけでトレチャコフ美術館を見学したあと出かけてみた。 メトロのアルバーツカヤ駅で下車し、地上に出ると、ふたまたに分かれた新旧アルバート通りの根もとである。 歩行者天国になっているのは旧アルバート通りだ。
正直いってあまりおもしろくない。 時期がわるかったのかもしれないけど、ビラ配りがいたくらいで、パフォーマンスなんか誰もやってなかった。 道路の両側にもそれほど個性的な店がならんでいるわけではない。 ある場所に木造の民芸レストランみたいなものがあった。 営業してなかった。 路地の奥に変わった看板が見えたから、ライブハウスでもあるかと思ったけど、かほりクンの説明では質屋だそうだ。
みやげもの屋に入ってみた。 日本人みたいな顔をした女の子が、英語や中国語や日本語をかたっぱしからならべてコンニチワという。 あなた日本人かと訊くと、中央アジアのなんとかいう国の出身だという。 ロシアも多民族国家である。 この店の名前は Onegin という。 名前なんかあげても仕方ないけど、たまたま店でもらった名刺が残っていたもので。
ある場所に盛大に落書きされた壁があり、芸術性を感じたというとオーバーだけど、おもしろかったから写真に撮っておいた。 かほりクンが、これはなんとかいう亡くなったロック歌手をしのんで、ファンが書いたものですという。 こういうしのび方はわるくない。
道路のまん中で絵が売られている。 なかなかいいものもあるし、一見して観光客相手の見栄えばかりがいい絵もある。 わたしはこの旅に出るまえに、郷里で版画家になっている古い友人に会ってきたばかりだから、彼へのみやげ話のつもりで版画作品をひとつ買っていくことにした。
添付した下の画像がアルバート通りで買ったものだけど、銅版画 (エッチング) である。 買ってから売りぬしの口上を聞いてみた。 彼は古くなったスクラップブックを持ち出して、これを見てくださいと制作工程の写真を見せてくれた。 絵の表面をさわってみればインキが盛り上がっているのがわかりますと。 つまり、この作品はむかしながらの手作り版画であるといいたいらしかった。
この日の観光はこれで終わり。 かほりクンのガイド契約は2日間だったけど、まだどこか見たいところはありますかというから、トレチャコフ美術館にもういちど行ってみたいし、メトロの駅も芸術的でおもしろそうだしなあと返事したら、サンクトペテルブルクから帰ってきたらまた案内してあげますという。 こんな美少女が相手ならひとりでぶらぶらするより楽しいから、お願いしますといって、この晩はホテルにもどった。
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2013年3月 1日 (金)
かほりクンのような美少女に案内してもらえるだけでもありがたいのに、道々彼女のそぶりを見ていると、わたしがはぐれてないか、段差でつまづかないかと、ひじょうに気を使ってくれていることがわかる。 こんな年齢差のある若い娘に気を使ってもらうなんて、生まれてから現在までいちども経験がないし、これからもぜったいにありそうにない。 不遇なおじさんとしては感謝感激あめあられである。
道を歩いていると、よく道路のわきにぴらぴらしたテープが張られていることがある。 かほりクンが危ないから注意してくださいという。 このテープはこのわきの建物で雪おろしをしているから注意しろというしるしだった。
冬のモスクワではとうぜん建物の屋根に雪が積もる。 雪の重みでつぶれるようなやわな建物はないにしても、積もった雪を放置しておくと、それは凍りつき、やがて軒にせり出してくる。 これは大変危険というわけで、雪おろしをするのである。
クレムリン散策のおりにこの国のセーフティネットにふれたことがあるけど、これも国家の重要な任務のひとつだろう。 個人の家なら雪おろしは家の住人がやるだろうけど、4階だ5階だという高い建物になるととても個人では手におえない。 高層ビルの窓ふきのように、これはもうプロの仕事だ。
トレチャコフ美術館に行くとき、とある建物で雪おろしをやっていた。 写真を撮ろうとしたら屋根の上の男性が手をふった。 この余裕はとてもしろうとには真似できないことである。 ロシア人もなかなか愛想がよい。
熱心に雪おろしをしている割には、道路にそんなに雪がうず高く積まれているわけでもない。 寒冷の地とはいっても、日本の上越や北陸ほど雪の量は多くなく、さらに雪上車はひと晩中活躍しているし、朝になるとあちこちでおそろいのユニフォームの男たちが雪かきをしているのである。
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トレチャコフ美術館を出るころには午後の4時ちかくになっていた。 腹はへってないけど、わたしひとりの都合ばかり考えているわけにいかない。 かほりクンに何か食べるかいと訊くと、この近くにわたしの知っているウクライナ・レストランがありますという。 彼女は以前この近所、トレチャコフ美術館の近くに住んでいたのだそうだ。 ウクライナ料理なんてもちろん知らないのだから、なんでもいいやとそのレストランに行ってみることにした。
かほりクンの祖母はいまでもウクライナに住んでいて、夏になると彼女も母親といっしょにそこを訪問するそうである。 ウクライナ、コーカサスなんて地名は、ロシアとともに、わたしにロマンチックなあこがれを感じさせる響きをもっているので、うらやましいと思う。
トレチャコフ美術館から近いメトロ駅の周辺がちょっとにぎやかな通りになっていて、くだんのレストランはそこにあった。 入口でコートを預かってくれたのは民族服の娘たちである。
わたしはワインを注文した。 かほりクンが、しょっぱいワインにしますか、あまいワインにしますかという。 しょっぱいワインというのは聞いたことがないけど、辛口ということらしい。 もちろんそれにした。 かほりクンは甘ったるいグレープジュースみたいなものを飲んでいた。
イミナさんの実家で赤いボルシチを食べたけど、かほりクンは緑色のボルシチがありますという。 なんでもいいや (どうせロクなものじゃないだろう) と、それを注文した。 ほかにワレニキという水餃子のようなものを頼んだ。 スライスした黒パンにはラードとニンニクのペーストを塗って食べる。
ほかになにか食べますかというから、メニューをながめてみた。 これはナニ?、あれはナニ? と質問して、ウサギ料理があることを知った。 鰻 (うなぎ) ではなく、兎 (うさぎ) である。 ウサギなんて日本ではあまり食べられてないような気がする。 うまいのかまずいのかわからないけど、西洋料理なんてなにを食べても美味くないにちがいないから、どうせならってことでこれを注文してみた。
出てきたのは肉のかたまりに白いソースをかけたもの。 使いなれないナイフとフォークで食べようとすると、骨がまともにナイフに当たり、硬くて切れない。 見かねたかほりクンが、かたまりをひっくり返して肉をはずしてくれた。 なんだか介護をされている老人になったような気分である。 食べた感想をいわせてもらえば、ぱさぱさして美味くない、無理して食べたいものではないということになる。
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