ロシアの旅/恋する熊の歌
サンクトペテルブルクのみやげだよといって、かほりクンにちっぽけな詩集 「恋する熊の歌」 を渡す。
読んでみた感じでは、これはロシアの詩人がまずロシア語の詩をつくり、それをあとからあまり詩ごころをもたない人 (日本人?) が、日本語に訳したものだろうと思っていた。
ロシア語の原詩はどうかわからないけど、日本語に訳されたものは、詩としてはちょっとマズすぎる。
かほりクンにこの詩集を読ませたら、これはロシアの詩人が日本語で書いた詩を、日本人と共同でロシア語に訳したものですという。
まえがきにそう書いてあるらしいけど、そりゃ無理じゃないのと思う。
小説ならともかく、このていどの日本語しか使えない人間にフィーリングを表現できるだろうか。
このていどの日本語というのは、たとえばちょっと前のこのブログで取り上げた詩をひきあいに出すと、もともとの文章はこんなものだ。
生まれてしまったらしようがない。
いずれにしても敵に勝とう。
詩人で生まれてしまったらしようがない。
いずれにしてもいつか詩を書こう。
日本人で生まれてしまったらしようがない。
いずれにしてもいつか神になろう。
これは原文通りだけど、敵に勝とうなんて詩にしちゃあ不穏当だし、神になろうというのも意味がわからない。
有名作家でも文豪でもいいけど、その作品を勝手に添削してさしあげるのはとってもタノシイことだと、江國滋さんがなにかに書いていた。
ここはひとつ、わたしもこの詩を自己流で添削してさしあげよう。
敵というのは人生のことだと解釈して、わたしは勝手に 「いずれにしてもいつかこの人生に勝とう」 と改造してしまった。
「いつか神になろう」 という部分は、靖国神社の影響もあるんだろうけど、キリスト教世界の住人には、日本人の宗教観への無知があるんじゃないかって気がする。
日本人は死んだあと、ホトケ様ならともかく、ふつうは神になるとは思ってないはずだから、ここは日本人の精神に立ち返ろうという意味で、「いずれにしてもいつかそのこころに帰ろう」 なんて言葉にしたほうがよさそうだ。
そんな感じで勝手に直したのが4月5日の 「別れ」 の項にのせた詩だ。
どうみてもわたしの訳のほうがいい (と勝手に思っている)。
添付した画像は 「恋する熊の歌」 のさし絵。
日本の女の子がまだ神秘的な美しさでもって、外国の男たちのあこがれの対象になっている (場合もある) ということを証明するような絵だ。
かほりクンに和服を着せたら神秘的な美しさの見本になりそうだけど、詩集についてはあまりうれしそうな顔をしていなかった。
やっぱりネックレスにしたほうがよかったかしらん。
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