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2013年4月21日 (日)

ロシアの旅/思い

115a

ボルシチをご馳走しますといって、かほりクンの母親が台所に向かいはじめた。
かほりクンのほうはTシャツとトレパンに着替え、ひょっこり台所へやってきて、パンにバターを塗り、1枚はわたしに、もう1枚は自分でむしゃむしゃ。
ときどきオーディオで大きな音で音楽を鳴らして母親に文句をいわれたりしてる。

こんなありさまを見てうーんとわたしは考えこんでしまった。
これはいったいなんだろう。

自分はキッチンのテーブルに坐っている。
窓の外は雪だけど、室内はほかほか。
女房が目の前で調理をしている。
年ごろの娘はラフな格好で、ヘッドフォンをかぶったまま室内をうろうろ。
足もとにはネコがじゃれつく。

ささやかだけど、これはそれなり幸せな亭主の典型みたいじゃないか。
かほりクンといっしょに動物園に行ったとき、わたしは彼女に父親の夢をみさせているんじゃないかと思ったけど、じつは夢をみさせてもらっていたのはわたしのほうじゃないのか。
結婚しない、家庭は持たないというのはわたしの信念だったけど、一方でこういう家庭にあこがれる気持ちがぜんぜんなかったわけじゃないのである。
いま目の前にあるのはそれじゃないのか。
旅の最後になってこんなほんわり体験をしたっていうのは、やっぱりツキだろうか。

115b

わたしは考えこんでしまう。
幸せな亭主の気分を味わうなんて、これがこの旅における最後で最大の幸運かもしれない。
これじゃあ、この旅のツキはほとんど神がかり的といっていいんじゃないか。
わたしは誰かの手のひらの上で踊っているんじゃないか。
いったい人生というのはなんなのか。
わたしはいったい何者なのか。

こんなことを書くと、どこかの新興宗教みたいになってしまうけど、わたしは合理主義者だから、わたしぐらいそういうものに縁のない人間はいないのである。
無神論者のわたしになんでこんな幸運が。
わからない。 いくら考えてもわからない。

いくら考えても答えの出そうにない問題を考えるのは時間のムダだ。
わたしは哲学者じゃないし、そんなものになれそうもない。
ただ自分の人生をふりかえると、その後半になってからひとりで世界を旅することに熱中し始めて、大陸中国でも不思議なくらいの幸運にめぐまれたような気がする。
労多くして益のないまま人生の終わりをむかえてしまう人もいないわけじゃないけど、わたしの場合、その終幕ちかくになって、ようやく帳尻が合ったように思えてしまうのである。

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