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2013年9月30日 (月)

わがよき友よ

ちょっとした確執を抱いたまま、わたしの友人が遠くへ去った。
かりに彼の名前をY君ということにしておこう。
彼はいまごろは、おそらく沖縄行きフェリーの中だろう。

確執の原因はわたしの傲慢にあるらしい。
Y君は写真が好きだ。
写真についてはそれなり一家言をもっているといっていい。
わたしも写真は好きだけど、それについてなかなかうるさいほうなので、彼の写真について保留的な見解をもたざるを得なかった。

いったいおまえは他人の写真について、ごちゃごちゃいえるほど写真がうまいのかといわれると困るけど、じつはわたしも若いころ、プロの写真家になろうという大望をいだいたことがある。
しかしプロのものすごさを知るにつけ、とってもわたしみたいなずぼらな男につとまらない職業であることを自覚した。
すなおに自覚したくらいだから、わたしみたいに謙虚な男はいないはずだし、同時に自分がけっして写真が上手だなんて思ってないことも明白なんだけど。

ただ、いまでもいい写真を観るのは好きだ。
ナショナル・ジオグラフィックや報道写真展などの傑作写真を見ると、いい絵画に出会ったような気分になってしまう。
手前ミソだけど、写真というものの本質もあるていどわかっているとうぬぼれている。
写真はもちろん芸術だし、わたしの芸術を見る目はひじょうにきびしいのである。
だから写真家にはなれなくても、批評家のはしくれにはなれるのではないか。

そんなはしくれとしてY君の写真をみると、どうしてもベタ誉めしにくいところがある。
わたしの友人の中にはホメ殺しといいたくなるくらい、安易に彼の写真をほめまくる人間もいた。
まずいことにY君はおだてられると調子に乗ってしまうタイプだ。
それはまずいと思うけど、そういうとかならず、プロじゃないんんだからムズカシイことをいわないでと返事される。
ごもっとも。
わたしは彼の写真については沈黙を守ることにした。
彼がわたしを嫌ったとしたら、原因はそんなあたりにあったのだろう。

わたしは芸術に関しては妥協しようと思わない。
しかし誰にでも、どんな作品にでもきびしいわけじゃない。
熊本のKさんのリトグラフをひと目見て、すばらしい作品だと認めたのは、すくなくとも友人たちのあいだではわたしだけだった。
よい作品ならそれを認めるに、けっしてやぶさかではないのである。
Y君の写真でも、それを評価するのに個人的感情をさしはさんだおぼえはない。
だいたい個人的感情でいえば、Y君ほど愛すべきキャラはいなかった。
彼を海外旅行やパソコンの仲間に引っ張り込んだのはわたしなのだ。

彼が去ったあとでこんな弁解がましいことをいっても仕方ないんだけど、最近のわたしは何をいってもムダだという気持ちと、挫折した夢の苦い感慨が入り混じって、もうどうでもいいやという気分。
どうせおたがいに人生の終着点は近い。
わたしはいちいち自己弁護をするのにくたびれた。
わがよき友よ、無事で行け。
またそのうち、きみの新しい土地で会おうじゃないか。

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