忙しい
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日展の審査スキャンダルが露呈だって。
べつに特ダネってわけじゃないでしょ。
そんなこと、裏のマスコミじゃとっくに知られていたことじゃないの。
長期政権がかならず堕落するように、ある権威が長期にわたってそのギョーカイに君臨すると、堕落するのは当然なんじゃないか。
とくに日展のように、それに受賞することがメシのたねになるようなものは、猟官運動のごとくむらがる輩が出てくることは想像にかたくない。
なんでこういうへそ曲がりをいうかっていうと、わたしは 「書」 については門外漢だけど、ほかにも、たとえば絵画なんか、とくべつに感心するようなものではないくせに受賞しているコンテストが多すぎるからだ。
いや、ヘタってわけじゃない。
それなりの水準に達してはいるんだけど、なんかこうインパクトに欠けるんだよな。
これだけさまざまな技法が発達し、ありとあらゆる作品が氾濫している現在では、ほんとうに独創的な大傑作なんて、なかなか描けるもんじゃないってことはわかるけど。
芥川賞なんかもそうだけど、だいたい美人ばかりが受賞するってのがオカシイ。
日展でも最近は女優とか、他の分野で有名な人が選ばれるのがオカシイ。
これって馴れ合いじゃないのか。
芸術家には変人が多いから、価値ある作品を創造してるという自信のある作家なら、ほかの能無しといっしょにされるのをイヤがって、さっさとわが道を行くだろう。
ナニもわからず、日展で受賞してるからとか、美術館で展示されているからというふうに、権威だけを評価基準にする鑑賞者が多いのも問題だ。
そのへんの鑑賞者が芸術を評価する場合、組織に属さない無名の作家の作品をほめておけばまちがいない (というのがワタシの信念だ)。
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バリ島から帰ってきた。
よし、また紀行記でも書くかって意気込んでみたけれど、やっぱりバリは基本的にリゾートだ。
ハワイといっしょで、旅行者の数知れず、ネット上に他人の紀行記の類もはなはだ多い。
特別にわたしだけの新しい珍妙な体験があるわけじゃない。
なかなか書く気になれないよな。ウム。
ネタをまとめるまで、ほかの話題でお茶をにごしとこ。
部屋の整理をしていたら、箪笥の下敷きにしていた古い新聞が出てきた。
日付をみると1995年の7月5日から7日あたりのもの。
つまりウインドウズ95が発売されて、いよいよパソコン時代が幕開けという年だ。
一面トップに 「新宿と茅場町駅に青酸装置」 という記事があって、トップが逮捕されたばかりのオウム真理教騒動の影響と、その残党がまだ悪あがきをしていたことがうかがえる。
しかし時代の変わり目をいちばん端的にあらわしているのが経済面で、たとえばコダックが富士フイルムを訴えるという記事がある。
世界市場はコダックが押さえているにもかかわらず、なぜか日本だけは富士フイルムが強い。
こりゃなにか裏があるんだろうというコダック側のいちゃもんだ。
アメリカって国はそのころからいちゃもんが好きだったのねって得心できる記事だけど、その後のデジタル革命で両者とも青息吐息、いまやコダックなんて斜陽産業の象徴みたくなっちゃった。
ほかに製造業・サービス業の世界企業番付で、日本の三菱、三井、伊藤忠、住友などの商社が1位から4位を独占、20位までに丸紅、日商岩井、トヨタ、日立製作所、日本生命、松下が入ってるなんて、おいおい、ジョークじゃないのかなんていいたくなる記事も。
これがせいぜいこの20年ほどのあいだのコト。
平家物語や方丈記じゃないけど、諸行無常と栄枯盛衰は世の習いってやつだ。
バリ島にいっしょに行った知り合いの中にも、しみじみと老いを感じさせる人がいるし、周辺には満身創痍の友人もいる。
冷たい秋雨の晩に茶色く変色した古新聞を読むと、わたしもますます後ろ向きの思想にとりつかれてしまいそう。
楽しくないよなあ。
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バリ島からもどったら、このブログの 「衝突する宇宙」 って記事に、どこかのなにがしからコメントがついていた。
それも四つ。
書きようからして2チャンネルあたりに熱心なアホらしいけど、さてどうすべきか。
こんなのをまじめに相手にしていたらこっちの頭まで疑われそうだけど、わたしのブログはカルト思想に憑りつかれた若者に警告を発するという使命を担っているのだ。
こういうアホに反論しておくのも、いちどくらいは必要だろう。
おう、ボンクラオヤジで悪かったな。
「ウン百年前に生きていたらコペルニクスやガリレオを確実にカルト扱いしてたろ」
そうさな。
たしかに、つねにわたしが時代に先んじていたとは思わない。
しかしコペルニクスやガリレオの理論が宇宙のしくみに矛盾しないもので、世間のほうが合理的でないとわかれば、さっさと新しい理論に乗り換えただろう。
現在でもまだバカバカしい理論にしがみついているアンタとはわけが違うんだよ、おい。
コメント中に、例によってべつのホームページのアドレスが並べてあり、これさえ読めば自分の説が正しいことを証明できるといわんばかり。
なげかわしい。
そういうことを自分の頭で考えたことがあるのか、えっ。
わたしはカルト宗教の機関紙も読んだことがあるけど、ようするに世間にゴマンとある文献の中から、自分たちの主張に合致しそうなものを集めただけじゃないか。
こういうのをこじつけというんだが、おまえの頭は飾りものか。
誤植は直しておいたぞ、このあほんだら。
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寒いと思ったらもう10月の後半か。
いまだに夏向きのスタイルで寝起きしてりゃ、そりゃ寒い。
そろそろ布団を一枚増やさないと。
Tシャツに短パンてのもまずいよな。
それはさておき。
ハーマン・メルヴィルの 「白鯨」 はわたしの大好きな海洋小説である。
これを映画化したのがジョン・ヒューストン監督の同名映画だ。
名監督のヒューストンとしては、意気込みがカラまわりしたような映画だけど、それでも腐っても鯛、捕鯨船が港を出港するシーンがいかにも男の世界って感じですばらしい。
荒くれ男たちが人海戦術でアンカーを巻き上げる。
舵をにぎった男が 「世界をまわるぞーっ」 と叫ぶ。
船はゆっくりと、前途多難を象徴するようなうす曇りの外洋へ出ていくのである。
小説や映画とはぜんぜん関係ないけど、わたしはまもなくバリ島ってところへ出かける。
家や家族に縁のない男の、ゆいいつの生きがいなんだから、文句をいわれても困る。
まあ、帰朝報告をお楽しみにっていいたいけど、ハワイといっしょで、ロクなもんじゃないような気もするなあ。
そこは南緯8度22分9秒。
わたしが赤道を越えるのは生まれて初めてだ。
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今朝の新聞に “デザイナーベイビー” って聞きなれない言葉が。
なんでも遺伝子操作で希望どおりの子供を産む技術が考案され、米国では特許を取得したんだそうだ。
これを活用すれば、たとえば青い眼、茶色い眼の子供を産み分けるのも可能らしい。
赤い眼とか緑色の目なんてのも可能かどうか知らないけど、とにかくトンビが鷹を産むようなことが可能になるらしい。
さっそく飛びつく親もいるんだろうなあって考える。
自分が胴長短小のくせに、モデルみたいな体型の子供を産めるなんて。
すばらしい技術と思えなくもないけど、成長した子供がコレってほんとにおれの親かいなんて思わなきゃいいが。
だいたいそんなことをしようとするアホな親が、頭のいい子供を産める(製造できる)のかどうか。
子供のかたちを自由にデザインできるようになると、日本人というのはブームに影響されやすい人種だから、半沢直樹みたいなガキが巷にあふれるんだろうなあ。
けだし見ものだな。
もうちっと長生きするか。
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先日、若い女性たち2組の会話を、すぐ近くで聞くことがあった。
すっげえな、今どきの娘たちはといいたくなるくらい、2組とも話し方がざっくばらんで、まるで男の子の会話みたい。
新聞連載「ののちゃん」で、あるていど知っていたつもりだけど、いまどきの子は、ったく。
女性にはあくまで清純とおしとやかを期待する旧式のわたしは、いっぺんで絶望した。
絶望した理由は、世代の断絶もあったかも。
すぐまえにいるワタシのこと、もう男と認めてないのかなって思わせられたせいかも。
最近の男子が草食系になるはずだ。
あんなのを相手に子作りにはげもうって気にはならんよ。
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BSの 「岩合光昭の世界ネコ歩き」 という番組が好きである。
ネコも好きだし、これは世界各地の紀行番組にもなってるのがいい。
そういうわたしだけど、飼うのはちょっと。
都会のアパートの住人の悲哀だというだけでなく、わたしじゃ面倒みきれないということがある。
ネコを4匹も飼っていた知り合いのおばさんの家では、ネコのトイレなんてものを用意し、オシッコ吸収剤をしょっちゅう取り替えていた。
ネコが病気になると目の色を変えて病院に連れていく。
あげくに保険がきかないと文句をいう。
ずぼらなわたしにはとても真似できない。
さいわい階下の部屋の住人が、毛のながい高そうなネコを飼っている。
そのネコと、彼の親友らしい眼の不自由な白黒ネコが、しょっちゅう家のまわりをうろうろ。
いい子、いい子と、そいつらに声をかけて、たまにはフライドチキンのかけらを食わせたりして、飼い猫代わり。
無責任だけど、きちんと責任をとれないことを自覚しているから、動物は飼わないことにしているのである。
それはともかくとして、ネコってのはわがままな動物かと思っていたら、イタリアには主人の墓参りをするネコ、ブラジルのほうじゃ刑務所に脱獄道具を運ぶネコまでいたそうである。
えらいねえとすなおに感心してしまう。
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今朝の新聞のオピニオン面に、「世界は広がったか」 ということで3人の論客が意見を載せていた。
ツィッターやフェイスブックといったSNSがどうのこうのと、とりあえず世界経済や所得格差に関係ないみたいで、つまりどうでもいいような意見ばかりなんだけど、評論家という人の意見の中にピカリと光る部分が。
彼はいう。
自己を表現するならブログ、フェイスブックはコネを作りたい人の異業種交流会、ツィッターは愚痴を語る場所、LINEはいじめ世代のためのツールだって。
2チャンネルについては書いてなかったけど、これよりさらにひどいものになること請け合い。
このへんはわたしもつねづね感じているところで、だからわたしはブログにしか興味がないし、新聞記事のこの部分だけはさんぜんと輝いてみえるのである。
最近フェイスブックとツィッターからのお誘いがしきりなんだけど、ぜったい入ってやらないからな。 コノヤロ。
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ターナーに失望したあと、もう一軒の美術館に寄ってみた。
美術館というより映画好きの聖地というべきところ、京橋にある国立近代美術館フィルム・センターである。
映画好きのわたしのくせに、これまでいちども入ってみたことがなかった。
行ったことがなかったのは、なんだかやけに中途半端なところにあるからである。
こういうものは上野の山のほとりか、北の丸公園か、六本木ヒルズの中にでもあればいいものを、これは丸の内・京橋のオフィス街の、それもはずれみたいなところにある。
なんか映画に関するいわれのある場所かと思って調べてみたけど、ぜんぜんそんなものはなさそうだった。
今回は、たまたまここでチェコの映画ポスター展というものをやっていて、おもしろそうだったので出かけてみたのである。
フィルム・センターはビルの七階にあった。
入ってみると巨大な映画カメラや、めずらしいモノクロ映像が見られるモニターや、古い日本映画のポスターがべたべた。
ざっと一巡するだけで、フィルム時代の日本映画史をなぞることができる。
カメラの技術的なことにはあまり興味がないけど、アニメの原点のような戦前の動画映像が観られたのはおもしろかった。
チェコという国は、その映画の製作国の意向おかまいなしに、独自のポスターを作ってしまう国らしく、どれもこれも映画のポスターというよりアートの一種みたいである。
展示されていたポスターは80あまりだけど、映画好きのわたしにも、書かれている文字を読まないで、なんという映画なのか当てられたのはせいぜい10枚ぐらい。
ここに添付したのは、右側がジェーン・フォンドヴァ、いや、ジェーン・フォンダの 「バーバレラ」 であることは絵を見ただけでわかるけど、左側はサッパリ。
説明を読んでみて、ようやく 「甘い生活」 であることがわかった。
ふつうなら出演のアニタ・エクバーグをまん中にあしらうべきところ、これはまた大胆な。
一事が万事この調子だから、遠くのほうからながめて、あれはなんのポスターかと当てる楽しみがある。
どのポスターもチェコのデザイナーが独自の解釈で映画の内容を表現したってことで、街角の壁や電信柱に貼るには惜しい芸術的なポスターもあったけど、中には 「理由なき反抗」 みたいに、当てられる人がぜったいにいそうもないムチャな解釈もあった。
ここの見学者はいかにもデザイナー志望らしい若い女の子が多く、いや、ターナーに比べれば見学者はまったく多くなく、館内は不気味なくらいがらがらだったから、ひとり静かに思索するのにふさわしいところである。
ここでホラー映画の特集をやられたら、これはコワイ。
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さわやかな秋晴れにひきこもりでは仕方がないというので、昨日は都心まで出かけてきた。
観たい映画も催し物もとくにあるわけじゃなかったから、さしあたって目標がない。
総武線に乗って途方に暮れているうち、上野の美術館がターナー展をやっていることを思い出し、あまり熱意がわかないけど、とりあえずそれを観に行くことにした。
ターナーというと漱石の 「坊ちゃん」 の中に名前が出てくるというのが有名だ。
しかし有名な作家をけなすのが得意なわたしのことである。
今回の展覧会はぜんぜんつまらなかったとしかいいようがない。
それでも会場の東京都美術館は、もう一寸刻みでしか歩けないくらい物好きでいっぱいだった。
どうしてつまらなかったかというと、わたしは絵を観ると、つい想像をふくらませて、その描かれた風景の中をさまよってしまうタチである。
そういう目的では、たとえばロシアの画家たちの、具象的な絵はひじょうに具合がよかった。
ところがターナーの絵は、どこか曖昧模糊とした部分があって、描かれた風景を想像しにくいところがある。
たまに想像できても、ただの風光明媚な観光地みたいなところじゃ、歩いてみようって気にならない。
似たような傾向の絵として、ターナーの 『死人を海に投げ込む奴隷船』(上) と、わたしがロシアで観てきたアイバゾフスキーの 『第九の波』(下) をくらべてみよう。
ターナーのほうが進歩的な絵に見えるけど、アイバゾフスキーのほうが場所や状況を想像しやすく、波のようすもはるかに本物らしく、迫力や感動も 『第九の波』 のほうがずっと大きい。
でも 『奴隷船』 なんかまだマシなほうで、ターナーの絵を間ぢかにながめると、その大部分は平坦で、刺激にとぼしく、わたしには古い教本どおりの絵にしか見えなかった。
ある場所にモネの 「印象・日の出」 みたいな絵があったけど、説明を読んでみたら未完成の作品と書いてあった。
これじゃあ前衛というわけにもいかない。
夏目漱石が英国に留学したのは明治26年(1893) のことである。
これはフランスで印象派の活躍がピークに到達した直後ぐらいだから、留学先が仏であれば、漱石は絵画の革命をその目で観ることができたはずだ。
そしたら彼はのちのち、モームの 「月と6ペンス」 みたいな小説が書けていたかも。
残念なことに英国ではまだまだ旧弊なアカデミズムが幅をきかせていたから、漱石はターナーの絵あたりを感心してながめているしかなかった。
そもそも漱石の青年時代は、油絵なんてまだめずらしいものだったはずである。
日本画や浮世絵しか知らない人間が、タイムマシンに乗っていきなり西洋の油絵世界にワープしたら、興奮して、やたらに感動してしまうこと請け合いだから、漱石が「坊ちゃん」の中で、どうです、教頭 (赤シャツ)、あの松の枝ぶり、まるでターナーじゃありませんかと野だいこにいわせても不思議じゃないのである。
しかしわたしは漱石よりずっとあとの人間で、ターナー以降の印象派も、前衛や抽象絵画も、現代の落書きみたいな絵も知っている。
こういう人間がターナーを古いとしか思えなくても、また不思議じゃないのである。
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いいことか悪いことかわからないけど、YouTubeにはまるごと1本の映画がアップされていることが多い。
中には日本未公開の映画や、思わぬ掘り出し物もあるので、映画好きのわたしにはありがたいことである。
ロシア映画で 「ブレスト要塞(BREST FORTRESS)」 という映画を観た。
YouTubeで見つけた映画だから、日本語字幕も吹き替えもなく、日本未公開なので予備知識もなにもない。
2時間以上ある戦争映画なんだけど、まずタイトルの意味がよくわからなかった。
冒頭にロシアの地方都市らしい、野山にかこまれたのどやかな町と市民の生活の描写がある。
この町には軍隊もあって軍人たちもたくさん住んでいる。
この軍人たちの服装がなんとなくダサくて、アラビアのロレンスのころのトルコ軍を連想させたから、第一次世界大戦のころが背景なのかと思ってしまった。
そのうち飛行機や戦車をくりだして、ドイツ軍がこの町に攻め寄せてくる。
こちらはもう、ナチス・ドイツの軍服であることが一目瞭然だから、これは第二次世界大戦の話であることがわかった。
映画は攻めるドイツ軍と、町を守ろうという住人たちの攻防を描いた、いかにもロシアらしい一種のプロパガンダ映画だった。
軍服からしても彼我の武力の差は歴然としていて、最後に町は壊滅する。
激しい戦闘のあいまに家族愛や若い男女の恋愛などの牧歌的シーンが挿入され、最後は町から脱出した少年兵が夕日の平原を遠ざかっていくというよくあるパターンだ。
しかしまあ、戦争映画としては出来は悪くない。
CGが多用されていても、アメリカ映画でないというだけで、どこか手作りみたいな雰囲気さえ感じられてしまう。
少年兵が遠ざかっていったあと、映画は現代にカットバックして、どーんと巨大な石のモニュメントが現われた。
それでわかった。
もういちどロシアに行ってみたいわたしは、ロシアだけではなく、その周辺のウクライナ、コーカサス、ベラルーシなどについて調べたことがあり、この石のモニュメントに見覚えがあったのである。
「ブレスト要塞」 のブレストというのはベラルーシにある都市の名前である。
ここは独ソ戦の初期にドイツ軍と激しい戦闘があったところとして知られており、石のモニュメントはその戦争の記念碑として建てられたもので、いまでは観光名所になっているのだそうだ。
うん、行ってみたいけど、無理だろうな。
こんな映画を観ているより英語の勉強でもすればいいものを。
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春樹クンがノーベル文学賞をのがしたそうだ。
わたしはノーベル賞の欺瞞と欠陥も知っているので、がっかりするこたぁないですよと彼をなぐさめてしまう。
逆にいえばノーベル賞、ことに平和賞や文学賞に権威なんぞはぜんぜんないのだから、そんなものに一喜一憂するほうがおかしいというこということなんだけど。
ノーベル賞はもらってなくても、世間にはこころに残る文学の傑作はたくさんある。
そういう本がどうして最近は見当たらないのか。
一例をあげると、英国の作家サマセット・モームの 「お菓子と麦酒」。
わたしは最近部屋の整理をしていて、処分すべき本を選択していたら、その中にこれがあった。
手垢のつきぐあいや、そこかしこのアンダーラインなどから、一時は熱心に読んだ本であることがわかる。
その後しばらく忘れていたけど、処分するまえにまた目を通してみた。
この本の中にロウジーというひじょうに魅力的な女性が登場する。
彼女はある男性と結婚しているのだけど、べつの男たち、あるいは小説の語り手であるワタシとも浮気をする奔放な女性である。
こういう女性をしみじみと魅力的にしてしまうのは、やっぱり作家の力量だろう。
この小説はモーム自身をモデルにした語り手が、彼女にまつわるさまざまな過去をふりかえるというもので、過去と現在がしょっちゅう交錯して、読みやすい本とはいえない。
そのかわりいったん取りついてしまえば、これほどじっくり読める本もあまりない。
モームという作家の本領は、見栄やモラル、名声や地位など、ようするに世間の大半の人たちが価値を見出すものをこきおろすところにある。
「お菓子と麦酒」 でもモーム・スタイルがいたるところにあふれているけれど、それ以外にも過ぎ去りし時代への追慕というロマンにも満ちていて、これは彼の小説の集大成的な作品であると思う。
彼自身も、80歳になったときの記念出版に 「人間の絆」 や 「月と六ペンス」 ではなく、この作品を選んだそうである。
ロウジーはもともとの亭主をすてて、べつの男とアメリカへ渡り、そのまま小説の表舞台から姿を消す。
もともとの亭主のほうは作家として出世をして、物語はとりあえず亭主のほうを軸に先へ進んでいく。
じっさいには回想の部分が多く、小説のキーポイントでもあるヒロインの出番が完全になくなるわけではないけれど、最後の最後になって、思わず本を取り落とすようなあざやかなどんでん返しがある。
わたしはそれをここで書きたくてたまらないんだけど、わたしに説明できるのはこれが限度だ。
これ以上はネタバレになるから秘密なのだ。
読んでごらんなさいといっても、とっつきにくそうな本だからねえ。
今回ノーベル賞をのがした春樹クンも、そんな賞よりもっと文学史に残るような魅力的な女性をつくりだすことに専念してもらいたいものだ。
添付したのはルノアールの絵で、わたしにはモームの創造したヒロインがこんな女性だったように思えてしまうのである。
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今朝の新聞に五輪招致に成功した日本のプレゼンテーション活動の総括みたいな記事が載っていた。
高円宮の久子さんという人の果たした役割が大きかったとある。
わたしはオリンピックなんかどうでもいいという人間だし、原則として、他人がなにしようと大きなお世話でしょという立場なので、皇室がそういうことに加担していいのかという論争には加担しない。
ただ、皇室にはほかにもこういう仕事の適任者はたくさんいて、たとえば秋篠宮家の紀子さんなんかもすてきに品がいいから、五輪の招致ぐらいお安い御用だったかもしれない。
皇太子妃の雅子さんだって、宮内庁がやかましく管理しようとしなければ、もともと結婚前はそういう仕事につきたかったそうだから、水を得た魚のごとくだったかも。
こうしてみると、タレントはけっして少なくないのに、つくづく宮内庁ってところは、その才能を埋もれさせる名人だなと思ってしまう。
高円宮の久子さんをみると、スマートで繊細そうで、微笑みは気品を絵に描いたような人だから、彼女がフランス語・英語で一席ぶてば、ノックアウトされる委員も多かっただろうし、安倍クンの発言をデタラメと思わせないだけの説得力があったかもしれない。
プレゼンテーターとしては完璧じゃなかったかという気がする。
調子にのって、つぎのつぎのつぎあたりに、また五輪を招致しようとするかもしれないけど、もういちど久子さんに御足労願おうっても無理だろうなあ。
そのころには皇室ももうすこしグローバル化されて、個人の自由と尊厳が発揮できるようになっていればいいんだけど。
久子さんの娘?
あれはどうも人間がガラっぱちだから・・・
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もうすぐバリ島に行く予定なので、例によっていろいろ調べている。
バリ島といったらリゾートである。
しかしわたしが高級ホテルで美女をはべらせて、洋酒の杯をかたむけるなんてことを想像してはいけない。
もちろん環太平洋経済連帯協定(TPP)の後始末に関係があると思われても困る。
しばらくまえにテレビでバリ島の紀行番組を観たら、名物の棚田が出てきた。
棚田は日本にもたくさんあって、自然景観の保全や生態系の維持などに貢献しているけど、あちらではライステラスといって、田んぼを見たことがない欧米人観光客にけっこう人気があるらしい。
田んぼというと郷愁を誘われるものである。
バリ島の棚田は日本のそれより自然が豊かなようで、以前録画したテレビの紀行番組のなかにも、子供たちが夜になるとタウナギを獲りにいくシーンがあった。
夜間に子供たちが連れだって田んぼへ出かけていき、懐中電灯で照らして、じっとしているタウナギを鉄バサミでばしっと鋏んで捉まえる。
子供のころわたしも田んぼへドジョウをつかみに行ったことがあるので、こんなシーンを見るとひじょうになつかしい気持ちがした。
ただし、わたしの田舎 (北関東) にはドジョウならたくさんいたけど、タウナギなんて見たことがない。
タウナギというのはアナゴやハモ、あるいはウツボを小型にしたみたいな淡水魚で、日本では沖縄以南の温暖な土地に棲息しているらしい。
おもしろい。
わたしがはじめてタウナギを見たのは中国においてである。
中国の市場はカエルだのスッポンだのザリガニだの、郷愁あふれる天然の食材がいっぱいで、自称ナチュラリストのわたしには興味のつきない場所だった。
ここでバケツの中にうろうろにょろにょろ、ひと盛りいくらで売られていたのがタウナギだ。
なにしろはじめて見た生きものだから、最初は海のものとも川のものともわからなかったけど、バケツのわきに解体されたタウナギの骨がうず高く積まれていて、中国では食材としてなかなか人気があるもののようだった。
できあがった料理を写真でみると、どぜう鍋とあまり変わらないから、きっと美味しいにちがいない。
最近の日本ではドジョウでさえ、おいそれと田んぼで見られなくなった。
カエルもいないし、ゲンゴロウ、タイコウチ、ミズカマキリなんて水生昆虫もそうである。
バリ島にはそんな絶滅危惧種がごろごろしているらしい。
今回は団体ツアーだから、夜の田んぼへタウナギを探しに行けるかどうかわからないけど、わたしの目的はあくまでそういうところにあるのである。
美女に誘われても、たぶん行かないと思う。
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ソチ五輪をひかえたロシアで、聖火の火が消えちゃって、あわててライターで点け直したんだそうだ。
いいねえ、このおおらかさ。
でたらめなところ。
先日のこのブログでも書いたけど、放射能の汚染水を日本海にどばどばのロシアだ。
こういう国じゃ風評被害なんて起こりっこない。
またべつの日のこのブログに書いたけど、CHEKA (秘密警察) の恐怖政治に堪えた国民だ。
すべては神のおぼしめしと、ちっとやそっとじゃ動じないその精神がスキ。
ああ、またロシアに行きたい。
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凄惨な映画を観た。
ロシアの映画で、タイトルはЧекист、英語にすると Chekist(チェキスト) となる。
ロシア語翻訳システムで訳したら 「非常委員会員」 と出てきたけど、さらに調べてみたら、これはレーニンによって設立された秘密警察 (CHEKA) の要員のことだった。
CHEKAはそもそもは反革命分子を弾圧するためにつくられた組織だけど、やがて弾圧の範囲を広げ、知識人、貴族、ユダヤ人、軍人、聖職者、そして彼らの家族などかたっぱしから逮捕し、ほとんど裁判もなしに処刑することとなった。
外国人に道を教えただけでスパイとして処刑された人もいたという。
つまりその後の共産主義国で繰り返される粛清のお手本を示したわけだ。
カラー映画だけど画質はあんまり鮮明とはいえないから、最初はかなり古い映画かと思った。
しかしCHEKAはソ連崩壊のころまで存在していたというから、その残虐ぶりを描く映画がソ連時代に制作されたはずがない。
映画について知りたいとき、わたしはすぐにネット上の映画データベースに当たることにしているけど、この映画については日本では公開されたことがないらしく、日本のそれに記載がなかったから米国のデータベースに当たってみた。
あちらの映画データベースによると、1992年のロシア映画だった。
これはゴルバチョフが失墜して、ソ連という体制が崩壊した直後である。 ナルホド。
凄惨な映画というのはこういうことである。
主人公は人々に処刑の判決をくだす、冷酷なCHEKAの査問官である。
彼は短い尋問だけで、ほとんど即決で死刑の判決を下す。
逮捕された貴族の母親が、なにかのまちがいです、この子はまだ18歳の学生なんですといって、自分の娘を彼のまえで裸にしてしまう。
色仕掛けでもなんでもいいから、とにかく娘の命を助けたいという一心だろうけど、査問官はまゆひとつ動かさずに、「連れていけ」 という。
処刑される人々は地下室に連れ込まれ、5人ひと組になって、男も女も関係なく、全裸にされたうえで射殺される。
死体はまるで屠殺された家畜のように、足をロープでゆわえられ、さかさ吊りのまま地上に引き上げられてトラックに積み込まれる。
映画はこうした場面もリアルすぎるくらいリアルに描く。
査問官の冷酷ぶりは、映画の中で、彼が性的に不能だったのが原因と語られるけど、処刑の現場に立ち会う彼はしだいに精神に異常をきたしていく。
このあたり専門の批評家なら、殺人システムの下で、宗教とイデオロギーと生命の尊厳のはざまで崩壊する人間のたましいがなんとかかんとかと説明するんだろうけど、単純な脳細胞のわたしはそういムズカシイことはいわない。
いってもいくらかもらえるわけじゃあない。
見応えのある映画で、終わったあとで厳粛な気持ちになった映画とだけいっておこう。
PS. 画質のわるい映画と書いたけど、じつはわたしが最初に観たのは、ダビングを何回も繰り返したあとのものだったらしい。
その後、この映画についてはオリジナルらしい鮮明な画質の映像を観た。
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あっちを叩けばこっちが顔を出す。
東電の現状はモグラ叩きの様相だ。
金は天下のまわりもの、水は大地のめぐりものってわけなので、放射能を含んだ水をせっせと貯めこんでいたら、日本の表面ぜんぶにタンクを設置しても追いつきゃしない。
ここはひとつ、古いものから順番に削除、つまり排水しちまおうなんて、パソコンのメール方式でも取らないことにゃ収まらない。
むかしのロシアでは原発の汚染水や、汚染された作業服なんぞはみんな日本海に廃棄していたそうだ。
1ミリシーベルトでも厳重に管理という日本の目のまえで、ロシアの船がそういうものをどばどばと放り投げているって図は、こりゃマンガだな。
いまでもそういうことをしてるかどうかしらないけど、たぶんやっていそうな気もするけど、このおおらかさがうらやましい。
今日の新聞によると、もはや救いようのないガン患者みたいな東電から、まだしゃあしゃあとして寄付金をもらっている自治体があるんだそうだ。
自治体にしてみれば、危険なものを引き受けたのは、もちろんそれが狙いということだろう。
なるほどね、ごもっともと、全体が困っても各部はおかまいなしっていうのは、どんなに財政がひっ迫しても担当省庁の予算はできるだけたくさん分捕ろうという大臣みたいで、これが日本的体質なんだよな。
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街へ出たついでに図書館に寄ってみたら、ナショナル・ジオグラフィックの今月号が出ていた。
写真では定評どころか権威さえ生じているこの雑誌が、今月はズバリ、「写真の力」 という副題つき。
写真に関心をもつすべての人に読んでほしい特集である。
これを読めばなにかテクニックが身につくってわけではないだろうけど、写真というものの本質について啓蒙されることはあると思う。
この特集の中に最近のデジタル・ブームにふれた個所がある。
コンパクトなデジカメやスマートフォンによる素人の写真が花盛りで、ネットで個人が写真を発表できて、ヘタウマやウマヘタが混然としてくると、どんな写真がすばらしいのかプロも困惑してしまう。
困惑している人は、たまにはこの雑誌の写真を観ることだ。
むかしわたしに向かって、いい写真もわるい写真も個人の主観の問題だからといったバカがいたけど、いい写真というのは現実にあり得るのである。
今回の記事でおもしろかったのは、米国人の顔のアップをずらりとならべた特集。
米国では現在でもさまざまな民族が流入していて、いろんな血が入り混じっているから、米国人の顔はどんどん変化しているということの実証であるらしいけど、むかしの免許証の写真みたいな、色気もなにもない不細工な顔がずらりとならんでいるのは壮観だ。
2代も3代も混血が続くと、どこのナニ人なのか本人にもさっぱりわからなくなるだろう。
それでもお役所にはいちおうナニナニ人と届けなくちゃいけないらしい。
現在進行形で民族がこれほど活発に入り混じっているのは米国くらいじゃないか。
つくづくこの国は特殊な事例の実験台であることよと思ってしまうけど、マイノリティーが増えれば貧乏人が増え、貧乏人が増えれば彼らの声が大きくなって、医療保険改革法も成立するかもしれないし、金持ちの味方の共和党はますます先細りだから、ま、いい傾向かもしれない。
米国のお役所がしちめんどくさくなって、書類から国籍や民族を書く欄を削除したら、そこではじめてこの実験は成就したといえる。
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突発性痴ほう症ってのもあるかもしれない。
わたしが見たのは白昼の幻想だったのかもしれない。
最近はなんかそういうことが多いみたいで。
先日、川の中にたくさんのザリガニの死骸を発見して、なんだ、伝染病でも流行ってんのかと思ったものだけど、あれははたして現実なのか。
今日また確認に行ってみた。
夢でも間違いでもなかった。
やはりあちこちにザリガニの死骸が点々と。
いちばん多いのは東八道路にかかる御狩野橋から、水車小屋に近い飛橋にかけて。
このあたりは、人間が獲って捨てたにしては多すぎるくらい、ザリガニのホロコースト的惨状だ。
いったい原因はなんだろう。
だいたい、ほたるの里の田んぼの水路にザリガニが多いのは知っていたけど、野川の中にこんなにたくさんいるとは思っていなかった。
川になにか毒物でも流れこんだにしては、他の動物が死んでないのが不思議。
これはSFかオカルトだなと思いつつ、ずっと下流まで歩いてきたら、ある場所にザリガニの死骸がまとめて放置されていた。
これはどうみても人間のしわざである。
ひょっとするとホタルの幼虫に害をなすザリガニの、大規模な掃討作戦でもあったのかもしれない。
駆除したものの、戦争直後はいざしらず、いまどきの人はこの貴重なタンパク源を食べることを知らないから、もてあましていたずらに川の中に捨てたのかもしれない。
まだ納得できない部分もあるけれど、うん、原因はそんなところだろう。
なんにせよ、ザリガニにとっちゃ迷惑なハナシだ。
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40°+ 40°= 40°
まちがいではありません。
コレって酒の度数。
40度のバーボンと40度のジンをブレンドしても、度数はやっぱり40度。
水で割らないからやっぱり40度。
そんなものばかり最近は飲むくせがついて、これじゃあそのうちアル中になるかもね。
もっとも量的にはそんなに多くないし、いまのところ禁断症状も出てないみたいだから大丈夫 (と思う)。
ジンはカクテルベースとしてよく知られているくらいだから、ウイスキーと混ぜたって不思議じゃないだろうけど、わたしの場合はほかのものを一切加えない。
たまたまキッチンのテーブル上にあったバーボンを、ほかになにもないから混ぜ合わせてみたという意味も理由も不明なもの。
ようするに山賊飲みとでもいいますか。
ジンそのものは薬草の香りが強くて、はじめは飲みにくいと思っていたのに、馴れるとこの香りが病みつきになる。
カランコロンと氷を入れたジンのストレート飲みが、いまのわたしのもっぱらの飲み方。
グラスがどうのこうのといいません。
愛用しているのはワイルドターキーの景品としてついてきた、ずん胴の、つまり湯飲み茶碗みたいなかたちのグラス。
このグラスがなかったら、ほんとうに湯飲み茶碗で飲んでいたかもしれない。
なんか脱力系の話題でもうしわけありませんけどネ。
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ここ3日ぐらい、うちの近所でも国体が開かれてにぎやかだ。
わが家に隣接する大沢グランドではソフトボールの試合をやっている。
最近はどんな競技にも美人選手がいるし、以前に観た実業団の試合ではバッテリーが金髪女性だった。
おまけにソフトボールというと短パンがまぶしい。
それでサンダルをつっかけていそいそと出かけてみた。
ソフトはソフトでも、このかいわいのグランドでやっているのは男のソフトボールだった。
なんだなんだ、男のソフトボールなんてあるのかと、知らなかったのはわたしだけか。
がっかりして部屋にもどって、録画してあったドキュメンタリー優秀賞の番組を観たけど、こっちのほうがおもしろかった。
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