2014年1月30日 (木)
良し悪しはべつにして、ひょっとするとひょっとするかもしれない。
安倍クンの強引な姿勢に中韓が反撥しているけど、このままつぎ、そのつぎの首相が同じ姿勢を取り続ければ、向こうの態度に変化が生じるかも。
中国なんか、安倍クンの姿勢を支持するという日本の民意に衝撃を受けていたらしい。
中韓が安保理に訴えてまで靖国・慰安婦をぶり返すのは、日本の右傾化を阻止しようということだけど、それが逆に日本国民の反撥をまねくだけとわかれば、これではマズイと、とくに大国になった中国は考えそうだ。
戦後70年もたって、慰安婦そのものは消滅しかかっているし、靖国もいささかマンネリで、安保理の反応も冷ややかということになると、これではそのうち日本を恫喝するネタがなくなってしまう。
これからはなにか新しいネタを考えなければいけないと、そろそろ向こうの指導者たちも考える時期にさしかかっているんじゃないか。
弱腰だと国内から非難されないように、まだしばらく靖国・慰安婦カードは使うだろうけど、中国あたりはその背後で新しい局面を打開しようとしてもおかしくない。
韓国は?
わかりません。
あの国は中国と日本という大国にはさまれた立ち位置のムズカシイ国で、とりあえず靖国・慰安婦しか打つ手がない状況だから、まだまだしばらくは同じことをいい続けるんじゃないか。
そもそも交渉というのは、一方的にいわれっぱなしではなく、こちらも正面からいいたいことをいうところから始まるのである。
ロシアと中国は国境の島をめぐってガチンコ勝負だったけど、けっきょく交渉で互いに納得する境界線を引いた。
危険な側面もあるけど、戦争を始めるよりはマシなはずだし、現代は国家関係が複雑にからみあって、相手を無視してはやっていけない時代なのだから、これからは日本も一歩もひかずにいいたいことをいってみたらどうか。
ひょっとすると、安倍クンの時代は、戦後秩序が崩壊して、日中のきずなはより緊密になり、新しいアジアの夜明けが始まったということで、後世の歴史家に評価される時代になるかもしれない。
これってたいそうな夢だろうか。
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2014年1月28日 (火)
ロシアがゲイを認めないのがケシカランと、欧米の首脳がソチ五輪をボイコットすると騒いでいる。
五輪というのは首脳の顔を見る場所ではないから、連中が来る必要はぜんぜんないんだけど、それについてロシアの画家レーピンの絵を思い出した。
ここに挙げた絵がそれで、処刑されるオカマたちを描いたものであることは誰にでもわかる。
ロシアって国は帝政時代からゲイやオカマに厳しかったんだなあと思うのはアナタの勝手。
アメリカだってエラそうなこといえるのか。
黒人やゲイの人権が認められるまでに、いったいどれだけの年月が必要だったことか。
最近はちょっと行きすぎみたいな気がするけれど。
いまは逆境のロシアのゲイだって、潜在的なその数はひょっとするとアメリカよりも多いもしれないから (なにしろロシアの女性は強いのだ)、ほうっておいてもそのうちゲイパワーが政権を圧倒するに決まっている。
彼らの支持がなくては大統領もやってられんということになるだろう。
ウン、もうちっとの辛抱だ。
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2014年1月27日 (月)
おー、橋下クンがNHK会長さんの肩を持ってるよ。
いや、わたしだって慰安婦問題に関しちゃ、会長さんや橋下クンと同じような考えだけどね。
でもNHKの会長になったらちっとは物言いに気をつけなくちゃ。
わたしはNHKのファンでもあるんだ。
なんでNHKが好きかというと、民放に比べると落ち着いていて、悪ふざけみたいなところがなくて、女子アナも品がいいし、ニュースでも冷静客観的に見られて、おまけに自民党にきらわれているそうだから。
そんな不偏不党のはずのNHKまでが安倍クン流に加担したら困ります。
しかもこんなふうにハッキリものをいう人が会長になったら目も当てられないです。
いいたいことをいうのは、もうそれしかない朝日新聞や、影響力低下の橋下クンや、ワタシみたいな在野の評論家にまかしとき。
NHKが会長さんのニュースをどう伝えるか、あ、今夜のニュース9が楽しみだな。
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うちのファクスは不調で印字がされない。
そんなファクスのロール紙がにゅるにゅると排出されて、なにやら送られてきたようす。
送られてきたとすれば訃報ぐらいしかないのが、目下のわたしの家庭状況だから、所属する団体に電話してみた。
××さんが亡くなりましたとのこと。
××さんというのは、極端な甘党という以外に、いろいろ物議をかもす変人ということで知られた人で、同じ変人同盟のわたしとはどこか気脈の通じる人でもあった。
へえ・・・・ とわたし。
特別に親しいというわけでもなかったけれど、彼とわたしは歳もそれほど変わらない。
わたしもいよいよ彼と同じような境遇に突入だ。
つまり棺桶に片足つっこんだということだ。
先に死んだ人がうらやましいと思えるこの頃である。
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2014年1月26日 (日)
NHKの新しい会長さんが失言。
この人の経歴を調べてみると、体育会のちょっとそそっかしい人物像が浮かび上がる。
三井物産の副社長まで上りつめた人だそうだけど、おそらく自分の仕事になんの疑問も持たず、猪突猛進で仕事はバリバリ。
アイツはできるということで同期の出世頭。
しかし社長になるにはちとおっちょこちょい。
で、副社長止まりで、系列会社の社長に転身(させられちゃって)、そのうち人間よりもその立ち位置を尊重する政治家あたりからNHK会長の声がかかる。
なにしろそういう人だから、べつに政治哲学も歴史の教養もあるわけじゃない。
発言も考えも世間の趨勢に右へ習えするだけで、あっというまに馬脚をあらわしたというか。
どうもそんな気がするねえ。
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2014年1月24日 (金)
やだねー。
もっぱら通信用に使っているノートパソコンの画面が、勝手に明るくなったり、暗くなったり。
まだウチのパソコンは自分でものを考えるまでには進化してないはずだから、これは故障の前ぶれかも。
調べてみたら、このノートは買ってから3年経過。
ウチのパソコンの平均寿命からすると納得できなくもないけど、現在はほかにもお金のかかる用事が山積みなのでイタイ。
もともと安いパソコンなんだけどねえ。
いま買い替えるとすると、このパソコンの減価償却は月に2200円ぐらいだから、レンタルで借りたと思えばいいか。
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2014年1月23日 (木)
なんかオモシロイ話はないかと夕刊をながめた。
大きな見出しは、都知事選の告示とマー君がヤンキースと契約ってこと。
もうしわけないけど、両方ともあまり興味がない。
なんかほかにおもしろそうな話題はとみると、広告だか記事なのかわからない派手なページに、スカートかパンツかなんて記事が。
こっちのほうがすこしオモシロイけど、それだけ。
ここにレギンスなんて聞きなれない言葉があるので調べてみたら、これはモモヒキのことだった。
まん中へんのページに 「現代を映す英国アート」 って大きな記事。
大きいはずで、この展覧会の主催にはウチの新聞も名を連ねていた。
アートに興味のあるわたしである。
しかし紹介されているのはゲテモノみたいな作品ばかりで、わたしの知っているポップアートよりさらにヒドイ。
10代、20代、30代のころならまだしも、最近のわたしがアートに求めるのは癒しだから、こんなものを見せられると目をおおいたくなってしまう。
ま、怒れる若者たちはまだ健在だなと、最近生きがいを感じられないわたしとしては、ビートルズの時代をなつかしむくらいが関の山。
※添付した画像は、怒れるおじさんが小手先の加工をした落書きアートだ。
どこかステキな芸術作品に見えないか。
見えないだろうなあ。
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2014年1月22日 (水)
わたしは筋金入りの死刑容認派である。
世のなかには私利私欲のために、このうえなく残忍な方法で殺人をおかす者もいるのだ。
殺された人の無念さを想像すると、とても死刑を廃止しようって考えになれない。
これは理屈じゃなく、人間としての感情だ。
そんなわたしだけど、他の信者の裁判の証人に立ったオウム真理教の中川智正死刑囚については、その信念がぐらぐら。
新聞やテレビが語るところからすると、真摯に反省しているようにみえる。
もちろん反省したからカンベンしてやれってわけじゃない。
わたしは自分が頭がイイと勝手に思っているけど、中川死刑囚がわたしより頭がいいのは世間も認めるところだろう。
なんといっても彼は大学の医学部を出ているのだ。
世間知らずの若者だった彼は、私利私欲というよりも、(おそらくは) 現実社会を見つめ、人生に悩み、解決策を得られないまま、あやまった道に帰依して大罪を犯すにいたった。
死刑の判決を受けて、刑務所で考える時間はありすぎるくらいあっただろう。
いったいどんなことを考えたのか。
わたしより頭がいいはずの彼が、自己を見つめなおし、なんらかの結論にいたって証人尋問の場に立ったのだとしたら、その思索の軌跡を知りたい。
彼を処刑するのは残念な気がしてしまう。
死一等を減じるかわりに、国外追放、中東やアフリカの難民キャンプでボランティア活動30年を命ずるなんてわけにいかないものか。
まよいから覚めさえすれば、彼のような人間は・・・・・ 飢餓や病に苦しむ人たちにとって、この地球にとって・・・・・ まだまだ使い道はあるんじゃないか。
そんなことをわたしが考えたって仕方がないのである。
これはまず第1に被害者の遺族が考えるべき問題だけど、事件からすでに20年ちかい歳月が流れた。
肉親を殺されたそのうらみつらみは、まだ純然たるものなのだろうか。
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2014年1月21日 (火)
先輩の耳がイカれちゃって入院手術をするのだそうだ。
これを聞いてなつかしい?思い出がよみがえってきた。
わたしもむかし耳の鼓膜再生手術なんてものをしたことがある。
ダイビングをやりすぎて、もともとあまりよくなかった鼓膜に穴があいてしまったのだ。
こういう手術はやはり権威あるお医者さんがいる病院がいい。
それで (とくに名を秘す) 某大病院に出かけた。
しかし、ああしかし、わたしみたいな世間的に有名でもないし、生きていてもあまり人類に貢献しそうもない人間が、そんなエライ先生自らの執刀を望むほうがムリだったのだ。
鼓膜を再生するためには、頭蓋骨の一部をパカッと開かなければいけないという。
聞いただけで、気のよわい人なら失神しかねないオソろしい手術だ。
しかもそれを局部麻酔でやるのだ。
つまり執刀中の医師の会話も聞こえてしまうのだ。
まな板の上の鯉ってのはこんな具合かと観念して手術を受けた。
頭蓋骨を開くためには、まずドライバーみたいなものでまわりに穴をあけるらしい。
ガンガンという衝撃が伝わってくるけど、勢いあまって脳ミソまでつらぬくことはないのだろうかと不安になる。
どうも新米の医師の練習材料にされているようだ。
ダメじゃないかという先輩医師の叱責の声が聞こえる。
なにがダメなんだろうとますます不安になる。
そんなこんなで手術中は生きている気がしなかったけど、現在無事でいるのだから手術は成功したといっていい。
というわけではない。
それ以来、わたしの左耳は完全に聴こえなくなったのである。
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2014年1月20日 (月)
沖縄で移設反対派の市長が再選てニュース。
ウチの新聞は沖縄県民の民意が証明されたと大よろこびだ。
でもなんか釈然としない。
たてまえときれいごとだけが問題の焦点になっているように思えてしまう。
ぶっちゃけたハナシ、沖縄県民のほとんどが、ほんとうに基地がなくてもいいと考えているのだろうか。
これって名護市だけの民意じゃないのか。
つまり沖縄全体の民意としては基地がなくては困るけど、名護市だけにかぎれば、ウチに来られちゃ困るってことなんじゃないか。
総論賛成、各論反対ってやつで、本土の都市がどこもゼッタイに基地なんか引き受けたくないと考えているように、同じ状況が沖縄県内でも繰り返されているってことじゃないのか。
そう考えれば全体を統括する県知事が賛成し、局部を統括する市長が反対というのもべつに不思議じゃない。
新聞はいかにも沖縄県民に同情しているようなことを書くけど、それなら県外移設のキャンペーンを張って、沖縄の基地は全廃し、東京に基地を引き受けろと運動するほうがいい。
そんなことをしたら沖縄県民どころか、日本の国民の総意を敵にまわすということを、新聞はちゃんと心得ているのだろう。
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2014年1月18日 (土)
人間には与えられた人生というものがあるんじゃないか。
たとえば最近の若者にスマホが大人気で、持ってないほうがアホみたい。
この風潮についてじいっと考えてしまう。
わたしはパソコンならけっこう使うほうだけど、スマホは使う気になれない。
スマホもパソコンも同じようなものだといわれるけど、そろそろ老眼ぎみのわたしは、あんな小さな画面で文字を打ち込もうって気になれないのである。
これは、つまりスマホっていうのはわたしの世代のものではなく、次世代のものということじゃないか。
そう考えるとほかにも、最近はわたしの世代に与えられたわけではない文明の利器が多すぎる。
ツィッターやフェイスブックなんか、書き込まれた文面をながめると、これが同じ日本人かといいたくなるようなアホ丸出しの文章ばかり。
いまの若者をひっくるめてアホよばわりするのはまずいような気もするけど、これもやっぱりわたしのほうが時流からずれてきたって証拠じゃないか。
つまり人間には、彼が生きるべき時代というものがあらかじめ準備されていて、それ以後の時代を生きようってのは無駄な抵抗なんじゃないか。
もちろん年配者や後期高齢者でもスマホやSNSを使っている人はいるだろう。
ここではそういう悪あがきをする人たちと議論はしない。
わたしにとってパソコンというものは、メールの読み書きや美味しい店を探すものではなく、創造本能を満足させるものでなくちゃいけないのである。
わたしはときどき思うんだけど、わたしが次世代の、つまり現代の若者であるならば、コンピューターでアニメーションを作ってみたかった。
パソコンの性能はどんどん上がっているから、そのうちひとりぼっちのオタクでも、部屋でこつこつと個性的なアニメを作れる時代が来るかもしれない。
いや、もう来ているのか。
同じことを考える若者は多いとみえて、YouTubeなどをみると、個人もしくは少人数のグループで制作したようなショート・アニメがたくさん見つかる。
彼らは幸せな時代に生まれたと思わないわけにはいかない。
いまからでも勉強すればいいじゃんという人もいるかもしれないけど、老眼のわたしにゃもう無理だし、パソコンに金をつぎこむよりほかにやっておきたいことがたくさんある。
ここにならべた画像は、知り合いの結婚式のビデオのために、わたしが制作したタイトル・アニメ。
My Loveという文字がするすると出てくるもので、パソコンを熟知していれば誰にでも作れる簡単なアニメだけど、わたしもこういうことが大好きなオタクなのである。
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2014年1月16日 (木)
わたしは同じ変人同盟の盟主たる小泉クン(もと総理のほう)が好きだけどねえ。
なんだかこのごろはすこし血迷ったかって気がしないでもないな。
今日は新聞に週刊文春と新潮の広告が載る日だけど、都知事に立候補したホソカワ、マスゾエ、応援団のコイズミらをみると、週刊紙の報道が正しいなら、いやあ、日本は不幸な国だねえと思ってしまう。
でもフランスじゃ大統領が不倫をして、事実婚の奥さんが入院したって。
政治家ってのはもともとそういう人種なのかしら。
それともこれが人間のほんらいあるべき姿なのか。
このていどでぼやくほうがおかしいのかねえ。
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2014年1月15日 (水)
健康診断の結果が届いた。
なんか自慢してるみたいで、こんな調子だからますます嫌われるんだよなと申し訳ないけど、ずらりと勢ぞろいしたA評価のあいだに、CやDがぽちぽち。
Aというのは、どこにも異常はありません、恐れ入りましたという評価だから、健康であるというお墨付きみたいなものである。
D評価がふたつばかり。
このうちのひとつは血圧で、しかしここ3年ばかり高止まり、ということはとっくに承知しているし、いま以上に健康のための努力ができるとも思えないから無視。
もうひとつは脂肪代謝というやつで、なんか悪玉コレステロールが多いらしい。
よく知らないけど、これは太りすぎってことじゃないか。
でも見た感じはけっして太っているほうじゃないし、体重はここ3年で若干減る傾向があるし、減らすための努力がいま以上にできるとも思えないから無視。
あっちのほうだって、若い女の子たちの駅伝なんか観て興奮してるんだから、まだまだ涸れるにはほど遠いんじゃないか。
あいかわらず現在進行形で、憎まれっ子世にはばかっております。
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2014年1月14日 (火)
安倍クンがアフリカ詣でだ。
あのへんでは中国が影響力を増しているってんで、こんなところでも対抗心をむきむき。
アフリカ諸国も大喜びで歓迎だ。
さすがは先進国・日本の首相だなんてウレシがっちゃいけない。
アフリカの国も馬鹿じゃない。
こういうときは日中を天秤にかけて、両方からむしれるだけむしろうという魂胆だ。
けっして日本を尊敬しているわけじゃないし、安倍クンの魅力ってわけじゃないんだけどねえ。
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だれがなんといっても花の少ない季節である。
自然観察園ではロウバイ、スイセン、そして節分草がようやく3つか4つ咲き始めたところ。
仕方がないから花モドキでごまかすことにする。
花モドキというのは、たとえばここに挙げた写真だけど、その、つまり、去年の花や果実のミイラとでもいうか。
色気に乏しいのが欠点だけど、造花やドライフラワーだと思えば、なんとか我慢して鑑賞できるのではないか。
枯れ木も山のにぎわいともいうし。
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2014年1月13日 (月)
うしろ向きに生きているわたしが、ときどきさらにうしろをふり返ることがある。
そんなときには宮沢賢治の童話や谷内六郎さんの絵が恋しくなる。
つまり郷愁ってものに魅かれるわけだ。
そういうわけで昨日は横須賀まで出かけた。
この街の美術館には谷内六郎さんの絵が常設で展示されているのである。
しかも、かって海上自衛隊にいたことのあるわたしにとって、横須賀のあたりはなつかしい思い出がごろごろしているところなのだ。
美術館のある観音崎にも思い出があるけど、その当時の景色がその当時のままであるはずは、もちろんナカッタ。
肝心の谷内六郎さんの絵を美術館で観るのに、いくらか不安があった。
谷内さんの絵でいちばんよく知られているのは週刊新潮の表紙に使われた連作で、こういうものは印刷されるとお役御免だから、そもそもほかの絵画のように芸術作品として描かれたわけではない。
マンガの原画などもそうだけど、印刷されたあとが作品なのであって、印刷されるまえはスクリーントーンや印刷指示の書き込みなど、作品以前のアラが目についてしまう場合がある。
しかも谷内さんの絵は、なにも知らない人が見たら、小学生が描いたのかいと誤解しかねない単純な水彩画がほとんどだ。
ひょっとすると原画を観てもがっかりしてしまうだけかもしれない。
じっさいにはどうだったのかつうと
がっかりなんかしなかった。
ほとんどがどこかで観た絵だけど、過去に観たものはすべて印刷後のものばかりだから、うす暗い館内で、きちんと額に入れられた原画はやはり芸術作品だった。
このあたり、わたしの谷内さんへの思い入れはただならぬものがあるから、つい入れ込みすぎかもしれない。
なんだってかまわない。
マンガだろうが落書きだろうが、こころをしめつけるようなものがあれば、それはわたしにとってかけがえのない芸術なのである。
わたしは谷内さんと思い出を共有しているのだ。
空を写す水田、火の粉をまきちらす機関車、医院の赤い電灯、氷と染め抜いた茶屋の旗、火の見やぐらと夕焼け、さかさにのぞいた望遠鏡、西洋の教会やレンガ工場に感じた不安、畑のまん中に屹立して孤独や永遠を感じさせるポプラの木、たそがれどきに黒いシルエットになった竹やぶが人のかたちに見えるとか、その他その他、この人が描いた心象にまでつきぬける風景は、みんなわたしの思い出の中にもある。
自慢にはならないけど、子供時代にいじけっ子だったわたしは、そうした風物を見るこころまで谷内さんと共有していたかもしれない。
谷内六郎館の窓から、半透明のスクリーンごしに東京湾がのぞめる。
その向こうを汽船がひっきりなしに通過していく。
誰が考えたのか知らないけど、あるいはたまたまの偶然かもしれないけど、このスクリーンごしの風景がそのまま谷内六郎的世界でおもしろいと思った。
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2014年1月12日 (日)
今日は出かけなくちゃいけないけど、しっかり録画機をセットしていく。
都道府県対抗の女子駅伝があるのである。
じつはわたしは女子マラソンの隠れたファンなのだ。
べつに隠れなくったっていいんだけど、日ごろからスポーツ嫌いを公言しているし、またイヤラシイ目で観てんだろうという輩がいるから隠れるのである。
このレースにはまだ中学生や女子高校生も出場している。
マラソンに中・高校生ってのは有利だよなと思う。
オリンピックのマラソン選手なんかみていると、体重を落とすためにそうとう無理しているらしく、みっともないくらいガリガリに痩せている選手もいる。
本来あるべき姿をねじまげて勝とうとするのだから、けっして健全な行き方とはいえない。
これが中・高校生になると、まだ脂肪がついておらず (ついている子もいるが、そういう子はマラソンに出場しないから)、ムリしなくてもそのままの体型で出場できる子が多い。
去年のこのレースを観ていたら、1区に出場していた高校生なんか、まだ子供みたいな体つきだったけど、登り坂でも牛若丸みたいにすいすいで、3区に出場していた4人ゴボウ抜きの中学生も、天然自然のままで木の枝みたいにスリムだった。
ひょっとすると彼女らの、ランナーとしてのピークはここ数年かもしれない。
まあ、無理して、女性としての魅力を放棄してまで勝たなくていいと、わたしならそう忠告してしまうけどねえ。
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2014年1月11日 (土)
土曜日は・・・・・ ゆっくり風呂に入るチャンス。
ふだんだって入ろうと思えば入れるけど、ほんとうにのんびりした気分で入れるのはやはり土日である。
熱めの湯にどっぷりつかり、文庫本を読む。
そのうち汗のつぶがひたいにプチプチ。
それでも我慢してとうとう文庫本1冊を読み終えた。
風呂から出てさっと血圧を計る。
おおおっとビックリ。
いつも危険水域にあるはずの血圧が、わたしの年令の標準より下がった!
下の数値も100を切った(大幅に)。
つい不安になってもういちど計りなおしてみた。
ん、まちがいない。
(注)あまり急激な血圧降下はキケンという説もあるようなので、他人にはお薦めしません。
だからいわんこっちゃない。
わたしって健康なのよね。
あとは規則正しく運動を続けて、この水準をなんとか維持すればいいだけのハナシ。
でもいちばんむずかしいのがそれなんだよな。
わたしが砂漠のベドウィンみたいな生活をすれば、まったくなんの問題もなくなるはずなんだけど。
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2014年1月10日 (金)
不条理な現代社会に背をむけて、あいかわらずノーテンキな話題に走っちゃうけれど、ヒマなおりにいろいろ海外旅行について考えている。
行ってみたいところは数々あれど、先立つモノがないのが欠点だ。
でも机のまえで考えているだけならタダである。
フランスにももちろん行ってみたい。
旅行会社のパンフレットには、よくモンサンミッシェルの写真が出ている。
海辺に張り出した古城で、フランス旅行の目玉といっていい観光名所らしい。
観たいけど混雑してんだろうなあと、なにしろあのフランスのことだから躊躇してしまう。
むかし 「エル・シド」 というアメリカ映画があった。
スペインを舞台に、イスラム勢力とキリスト教徒たちの戦いを描いた歴史劇だけど、この中にモンサンミッシェルによく似た海辺の古城が出てくる。
1961年の映画なのでまだCGなんて便利なものはないし、スケールの大きさからして、セットではなく、どこかに実在する本物の古い城を使って撮影されたようである。
もちろん映画では、城の外観と内部はぜんぜんべつの場所にあるものを組み合わせて使うことがよくあるし、当時の米国映画ではこんな大規模なセットでも平気でこしらえたかもしれず、そのへんが微妙だ。
モンサンミッシェルに匹敵する名所になりそうなこの古城は、現実にどこかにあるのだろうか。
現存するものなら、はじめてこの映画を観たころから訪ねてみたいと思ってんだけどね。
物語の設定ではスペインのバレンシアになっているので、ネットを駆使していろいろ調べてみた。
するとよそ様のブログで、バルセロナから200キロ離れたバレンシア州にある 「ペニスコラ城」 というのが、映画の撮影に使われた古城であることがわかった。
この付近は欧米ではまあまあ知られたリゾートらしいけど、日本の観光ツアーはあまり寄らないみたいである。
へそ曲がりのわたしは、こういうところへ行ってみたい。
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2014年1月 9日 (木)
横浜のほうでは強姦の容疑者が捕まったけど、わたしもまた捕まってしまった。
赤信号無視だそうだ。
わたしはぜんぜんそう思わないんだけど、最近の警察はマニュアル一辺倒で、ぜったいに勘弁してくれないのである。
こんちくしょうめ。
ここから先の屁理屈は反社会的要素がありますので、ご注意をとことわったうえで。
どうも最近こういうポカが多いようだ。
しかし自慢じゃないが、わたしが免許をとって4、50年、そのあいだ他人をまきこむような大きな事故はひとつも起こしてない。
しかもそのへんのおばさんみたいにトロトロ走っているわけではなく、こないだなんか40キロ・オーバーで捕まってしまったくらい。
凶器が走っているようなもんじゃないかと心配する向きがあるかもしれないけど、交通法規には原則忠実で、モラルもマナーもまずまず、運転適性検査はいつもほめられるくらい高得点だ。
それなのになんでポカが多いのか。
うーんと、冷静に考えてみた。
最近のわたしはますます生きることに懐疑的になっていて、駆け足で人生を走り抜けたいという気持ちが強く、それがあせりを産んでいるのかもしれない。
つい先日のこのブログでは、「自殺の薦め」 なんて記事を書いたことがある。
あれは、じつはわたし自身のいつわらざる心境である。
今回の違反自体は深刻なものではないけど、死への願望はつねに持っているから、こういうことが引き金になる可能性はないわけじゃない。
折も折、ネット・ニュースにこんなものが。
『ベルギーで最高齢アスリートとして親しまれてきたエミール・パウウェルスさんが、安楽死を選択し、家族や友人たちとシャンパンで乾杯をした後に旅立った』
パウウェルスさんは95歳で、末期ガンに冒されていたというから、死ぬ理由、それも満足して死ぬ理由があった。
彼にくらべればわたしなんかほんの子供みたいなものである。
しかも因果なことに、体はかなり健康なほう。
去年の暮れの健康診断の結果はまだ来ないけど、せいぜいまたガセネタの胃ガンくらいが関の山だろう。
ただ、あいかわらず血圧は常識はずれの高止まり。
はたしてこのままでいいのかと悩んでしまう。
薬を服用して長生きをしても、肝心の生きがいは湧いてきそうもないし、元気なうちにさっさと自らのリセットを試みるほうが、半身不随なんてことになるよりマシじゃないか。
夏目漱石=49、森鴎外=60、芥川龍之介=35
彼らが死んだ歳である。
わたしはもうすでにおつりが来るくらい生きてきた。
そのうち免許停止になるだろうけど、でもまあ、取り消しまでいくにはまだ時間がある。
わたしには2つばかりやり残したことがあるし、リセットはいつでもOKなのだから、まあ、アセっても仕方ないか。
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2014年1月 8日 (水)
知り合いがパソコンの買い替えを考えているんだそうだ。
他人が口を出す問題じゃないんだけど、彼はけっしてパソコンのベテランというわけじゃない。
使用目的も文書や書類の作成、写真の整理ぐらいがいいところだと思う。
これなら安い製品に 「オフィス」 と画像処理ソフトを入れれば十分だ。
わたしの周辺には、パソコンは国産品で高価なものがいいと、いまだに信じている輩が多く、こういう問題になると、メモリは多いほうがいい、ハードディスクは大きいほうがと、やたらに口ぞえするから困ってしまう。
しかもベテランを自称する人にかぎってそういう傾向がある。
貧乏人のわたしはそんな傾向が大キライだから、中国製の安いパソコン、安いソフトで、たぶんほかの誰よりもややこしい仕事をしてお手本をみせているのに、馬の耳に念仏だ。
パソコンは高価なものを末永く使うのではなく、安価なものを、どうせそのうち壊れるんだろうぐらいのつもりで使うのがエエ。
そういうことを当人に忠告したいけど、彼がこのブログを読んでいるかしらねえ。
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2014年1月 7日 (火)
夕刊のまじめな記事を読んでいたら、奈良県にあるキトラ古墳の石室に描かれた壁画について書かれたものがあった。
学術的な記事だからムズカシイ言葉が出てくる。
どのくらいムズカシイかというと、パソコンでは変換できず、IMEバッドを使っても出てこない漢字が使われているのである。
そんな言葉について話しても仕方がないから、この記事で思い出したべつの話。
むかし中国の洛陽という古都を旅したとき、古墳博物館というところで、庭に奇妙な石像が並んでいるのを見た。
あとでブログになんでしょうねえと書いておいたら、親切に教えてくれる人がいて、十二支じゃないですかという。
そういえばそのとおり。
よく見るとイノシシ、イヌ、ニワトリ、サルなどが順に並んでいる。
これほど明白なことに気がつかなかったわたしもそうとうにボンヤリだけど、それはまあさておいて、白昼の静寂のなかで見た獣頭人身の怪獣は、ダリの絵のような超現実的な風景だった。
今日の夕刊の記事というのは、キトラ古墳に描かれた同じ十二支の獣頭人身について。
その怪物たちが持っている器物について。
変換できない漢字が使われているのはこの器物の名称である。
しかし変換できないんだからどうしようもないでしょと、わたしが開き直り、古い思い出なんかひっぱり出したとしても、どこからも苦情はこないと思われる。
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せちがらい世の中にほのぼのとする話題。
新聞をながめていたら、ベトナムの格安航空会社が機内で水着ショーだそうだ。
モデルさんばかりではなく、客室乗務員まで脱いでしまうらしい。
航空当局ってトコからの罰金覚悟でやってるんだそうだけど、こういう話題はいいよな。
仕事が不景気でもなんとなくなごんじゃう。
日本にも就航を予定しているそうなので、そのあかつきにはぜひこの飛行機に乗ってみたいねえ。
でも日本の当局は野暮のきわみで有名だからなあ。
むかし中国にはじめて行ったころ、あの国ではようやく売春が合法、いや、売春が死刑にならなくなったころで、でもさすがに人前でヌードやシロクロ・ショーなんてのは論外で、イロっぽい見せものというと水着ショーばかりという時代があった。
上海で知り合った某大企業のエライさんに連れていってもらった会員制クラブ (みたいなところ) で見たのもやはり水着ショーだった。
あんまりあけすけなものはまだ当局がうるさいけど、ファッション・ショーなら文句はあるまいと、歓楽を旨とするギョーカイの人たちが考えついたものらしい。
こちとらは外国に行くと、庶民的なもの、下品なもの、人間的なものに関心があるほうだから、なるほどねと、中国の進化発展ぶりをこういうところからもしみじみと感じたのでありました。
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2014年1月 6日 (月)
正月の新聞にも大きな広告が出ていたけど、ストーンズの来日公演。
見たいよなあ。
かって在籍していたミック・テイラーも参加だっていうから、彼のギター・プレイも見てみたい。
そう考えて、そうか、YouTube があるじゃんと思い当った。
いいことかわるいことか知らないけど、ここにはストーンズの映像があふれている。
調べてみたらまだ去年のライブの映像もあった。
テイラー君も参加しているようだ。
ようだっていうのは、かっての貴公子然としたテイラー君が、なんかもっそりしたおっさんになっちゃって、これがアノ・・・・ タバコをくわえたまま悠然とギターを弾いていたテイラー君かいとにわかに信じられないせい。
チームワーク優先なのか、あまり彼らしいギターも聴けないし。
つきものが落ちちゃうぞ。
※使用前と使用後みたいな写真はテイラー君だ。
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2014年1月 5日 (日)
観てきました、映画 「ゼロ・グラビティ」。
原題はただのグラビティで、ゼロをつけると無重力ということになる。
ただし、ちょいとしたSFファンなら知っているとおり、人工衛星がまわる宇宙空間に無重力ということはありえず、これは本来は無重量とか自由落下とよばれる状態のことをさす。
でもここではとりあえず世間に膾炙した 「無重力」 ということで話をすすめよう。
どうせアホな映画だろうと予想したことは、このブログに書いた。
観終わった感想をいわせてもらえば、まともな映画といっていいものだった。
つぎからつぎへと危機がおそうけど、それをご都合主義だなんていっていたら、そもそも映画が成り立たない。
最近のアメリカ映画を観ていると、大爆発で吹き飛ばされた主人公が、つぎの瞬間にはもう起き上がって飛んだりはねたりなんて場面がよくある。
え、脳ミソや腹わたに損傷を受けなかったのかよとヤジを入れたくもなる。
そういうデタラメな映画にくらべれば、この映画のスリルやサスペンスは、そういうことがあってもおかしくない範疇にあり、わたしはまあいいんじゃないかと納得してしまうのである。
宇宙技術に関してはすでに多くの蓄積を持ち、現実にスペースシャトルを飛ばし、SFファンも多いアメリカのことだから、さぞかし凝り性の大勢のスタッフが、太陽はあっちで地球の反射光はこっちだから、光りの当たり方はこうなる、宇宙ヘルメットのゴーグルには地球が写りこまなくちゃ、なんてやたらに細部にこだわり、無重力の世界ではあれはこうなるはずだ、これはこうなるはずだと議論をたたかわせつつ映画を仕上げたにちがいない。
ヘタにいちゃもんをつけると、かえってこちらの無知をさらけだすことになりかねない。
そこへ最新のCG技術が加わって、無重力状態の映像は文句のつけようがないものになった。
漆黒の宇宙空間をただよう飛行士の孤独感もまずまず。
でもまあ、「2001年宇宙の旅」 のような、何度も観たくなる映画でもない。
それでももういちどだけは観てみたい気もする。
この映画は 3D映画なんだけど、たまたまわたしが観にいったとき、まん中へんの席が空いてなくて、はじっこのほうに坐らせられてしまった。
これではほんとうの意味で立体感を楽しめないのである。
もういちど、こんどはまっ正面からこの映画に向き合ってみたい。
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2014年1月 4日 (土)
ウチの新聞が年頭の特集で 「脱・主流派宣言」 だそうだ。
エライ!
わたしなんかずっとむかしから脱主流派だ。
ものごころつくころからそうだった。
脳ミソと性格と家庭環境からして、主流派内で競争しても勝てっこないと悟って、さっさと主流派を離脱した。
ウチの新聞が正しいなら、今年は非主流派の時代かもと期待してしまう。
でも同じ新聞の今日の be面じゃ、スプツニ子さんという足が長くて美貌で、日英のハーフだというオンナの人が取り上げられている。
彼女はマサチューセッツ工科大学の助教授だそうだから、いわゆるリケジョ (理系女子) である。
やる気むんむんで、これはもう主流派の最たるものみたい。
あいかわらずウチの新聞は、主張と内容が食いちがってるなと思う。
※写真はネットで見つけたそのリケジョだけど、たまげるなっていうほうが無理か。
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2014年1月 3日 (金)
このブログの前項で、なんで初詣をするのか、どうしてお賽銭を上げるのかと、日本中の神社仏閣を敵にまわすようなことを書いた。
気の小さいわたしはたちまち反省する。
というより帰宅して部屋でじっくり考えて、なにしろ今年も正月早々ヒマなので、むかし見たこんな光景を思い出した。
奥多摩あたりだったと思うけど、ある村でおじいさんが、孫だかひい孫だか、晴れ着をきた女の子の手をひいて、民家のうら山のちっぽけな祠にお参りをしていた。
これはなかなかいい景色である。
子供も孫もいないわたしでさえそう思う。
こういうのが弥生のむかしから連綿と続いてきた、よい意味での日本人のしきたりであり、伝統なのだろう。
こういうものは廃れさせるものではない。
ちょっと残念だけど、日本人のこういううるわしいしきたりが続いているあいだにも、戦争や災害や個人の災難は降ってわいていた。
どうも人間の信仰心と災厄とはぜんぜんべつの問題らしい。
だからご利益なんてものは期待せず、みんながやっているからオレもでいいのではないか。
それによってこころのかたすみにちょいとした幸せな気分が生まれるなら、それで十分なのではないか。
こう考えれば、無神論者のわたしにも、初詣やお賽銭がけっして無用なものとは思えなくなる。
奥多摩で見た老人と幼女のなつかしさはどうだろう。
アホなことはいってみても、たとえば谷内六郎さんの絵をこよなく愛するわたしは、やはり日本の旧来の美徳にしみじみ感じ入ってしまうのである。
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2014年1月 1日 (水)
近所の有名なお寺にいく。
初詣じゃない。
写真でも撮りに行くかってなもんで、お賽銭の用意はしてないのである。
歩きながら考える。
宗教というのはなんだろう。
たかが宗教と日本人なら考えたくなるが、これが世界では数万の人びとを殺戮し、無数の難民をつくる元凶なのである。
初詣に行くと、みんな神妙な顔でお賽銭を上げている。
お賽銭を上げると、4、5日たってあきらかなご利益があるのだとしたら、あるいはお賽銭を上げないとあきらかな天罰でも下るものなら、みんな先を争って神社仏閣にお参りするだろう。
しかしこのあきらかには確証がない。
わたしは宝くじを買ったことがないけど、友人にいわせると買わなきゃ当たらないそうだ。
お賽銭も同じことで、上げなきゃご利益の下りようがないからみんな上げるのだろうか。
近所のお寺に行くのに、こんなゴタクを考えなくてもいいのだが、そこまで歩いて2、30分かかるから、そのあいだ脳みそを使わないのはもったいないのである。
しかしご利益も天罰も、お賽銭に関係なく、ランダムに人々の頭上に下るように思える。
宝くじを当てた人が信心深いという統計はないし、信心深い人でもある日とつぜん大津波に襲われて死ぬことがあり、この確率は信心深くない人が溺れて死ぬのとあまり変わらないと思う。
それなのになんでお賽銭を上げるのか。
つまり宗教というのは、当たるも八卦のバクチみたいなもんだろうか。
敗けると思ってバクチをする人間はいない。
ご利益があるかもしれない可能性に賭けて、みんなお賽銭を上げてんだろうか。
いやいや、そうではあるまい。
ようするにこれが人間社会の慣習だからだ。
むかしからずっと続けていることだから、とりあえずやっとけってなもんだ。
それに、彼女を誘うのにパチンコへ行こうというのではマズいけど、初詣に行こうといえば断われる娘はなかなかいない・・・・からかも。
これじゃあ今年も惰性で生きる日本人の習性はそのまんまで、流されるままというわたしたちの生き方は変えられそうにない。
未来に待ちかまえているものが戦争だとしても、それを避けるすべはない。
そう考えているうちにお寺に着いた。
新年早々、あいかわらずアホなことを。
写真は新年0時30分ごろの深大寺。
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