ご利益
近所の有名なお寺にいく。
初詣じゃない。
写真でも撮りに行くかってなもんで、お賽銭の用意はしてないのである。
歩きながら考える。
宗教というのはなんだろう。
たかが宗教と日本人なら考えたくなるが、これが世界では数万の人びとを殺戮し、無数の難民をつくる元凶なのである。
初詣に行くと、みんな神妙な顔でお賽銭を上げている。
お賽銭を上げると、4、5日たってあきらかなご利益があるのだとしたら、あるいはお賽銭を上げないとあきらかな天罰でも下るものなら、みんな先を争って神社仏閣にお参りするだろう。
しかしこのあきらかには確証がない。
わたしは宝くじを買ったことがないけど、友人にいわせると買わなきゃ当たらないそうだ。
お賽銭も同じことで、上げなきゃご利益の下りようがないからみんな上げるのだろうか。
近所のお寺に行くのに、こんなゴタクを考えなくてもいいのだが、そこまで歩いて2、30分かかるから、そのあいだ脳みそを使わないのはもったいないのである。
しかしご利益も天罰も、お賽銭に関係なく、ランダムに人々の頭上に下るように思える。
宝くじを当てた人が信心深いという統計はないし、信心深い人でもある日とつぜん大津波に襲われて死ぬことがあり、この確率は信心深くない人が溺れて死ぬのとあまり変わらないと思う。
それなのになんでお賽銭を上げるのか。
つまり宗教というのは、当たるも八卦のバクチみたいなもんだろうか。
敗けると思ってバクチをする人間はいない。
ご利益があるかもしれない可能性に賭けて、みんなお賽銭を上げてんだろうか。
いやいや、そうではあるまい。
ようするにこれが人間社会の慣習だからだ。
むかしからずっと続けていることだから、とりあえずやっとけってなもんだ。
それに、彼女を誘うのにパチンコへ行こうというのではマズいけど、初詣に行こうといえば断われる娘はなかなかいない・・・・からかも。
これじゃあ今年も惰性で生きる日本人の習性はそのまんまで、流されるままというわたしたちの生き方は変えられそうにない。
未来に待ちかまえているものが戦争だとしても、それを避けるすべはない。
そう考えているうちにお寺に着いた。
新年早々、あいかわらずアホなことを。
写真は新年0時30分ごろの深大寺。
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