2014年3月31日 (月)
しばらく行くと木立のあいだに白い教会が見えてきた。 この写真で見ると新しそうだけど、壁には1529という年代の刻まれたパネルが取り付けられていたから、けっこう古い建物のようである。 そのへんから白いヒゲの神父さんが出てきそうだけど、教会のまえに場違いな乗用車が停められて、現代の神父さんはガソリン車で乗りつけるらしかった。 近くに番小屋みたいな粗末な家があり、番犬の役に立ちそうもない人なつっこい犬が飼われていた。
教会の近くには苔むした石棺の置かれた墓地があった。 石棺はそうとうに古いもののようだけど、そのうちのひとつに新しい花が添えられていたから、教会はいまでも、たまには葬式や婚礼に使われているようである。
柩を地面に置いたままというのはむかしのロシア方式らしい。 すると置かれた当時なら中身もあったのではないか。 遺骸が百年も経つとどうなるのかわからないけど、当時のロシアの人文について、柩の中に貴重な証拠の断片が残っているかもしれず、ナショナル・ジオグラフィックあたりが取材に来そうなものだ。
この教会から、小川のほとりへ下るための遊歩道が作られている。 小川にそって雪の上を歩いていくと、小さな池があって、フナみたいな魚が浮いていた。 夏の写真でみるとこれは養魚池のようである。 自称ナチュラリストとしては、つまらないことばかりに興味を持ってしまう。
やがてモスクワ川のほとりに出た。 堰堤がきちんと整備され、カモやカラスがたくさんいて、餌をやっている人もいる。 このへんまでくると散策している人は多く、観光クルーズ用の船着き場もあり、野良ネコまでうろうろしていた。 片側の丘の上にロケットのようなかたちをした白い建物がある。 これはヴォズネセニエ教会 (昇天教会) という有名な寺院らしいけど、遅い時間になっていたし、そこまで行くのがおっくうで、横目にながめて通り過ぎてしまった。 ったく、なにをしにモスクワへという声がまた聞こえそう。
船着き場のあたりでそろそろ引き上げることにした。 ここからいちばん近いゲートまでのあいだには、売店やバーベキューの施設などがあり、この季節以外なら家族の行楽地にふさわしいところである。 金髪クンがバーベキューの値段を訊いてみたけど、値段が折り合わないというので、ここで食事をしていくのはやめた。
この日もずいぶん歩いたような気がしたので、あとで地図を計ってみたら、公園の中を歩いたのはせいぜい3~4キロぐらいだった。
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市場を見学したあと、コローメンスコエの自然保護公園に向かった。 公園の入口はいくつかあるようで、わたしたちが入ったゲートの近くには、木造建築のでっかいのが建っていた。 ロシア風のログハウスだけど、古い様式であってもけっして古い建物ではなく、むしろ最新の木造ホテルとして使えそうな3階、4階建てほどもある巨大な建物である。
ガイドブックには、コローメンスコエには17世紀の木造宮殿があると書いてあるけど、これがそうかもしれない。 だとすれば、釘を使用していないという理由で、諸外国から 「世界の8つめの不思議」 ともいわれた由緒ある建物だそうだ。 釘を使わないで8つ目の不思議なら、日本にだって同じような不思議がごろごろしているぞと思う。 日本の法隆寺なんかこれより10世紀も古いし、しかもこっちのログハウスは、どう見ても復元された新しい建物だ。
いちおう写真を撮ったけど、新しいというだけでわたしは興味を失ってしまった。 幸いというか、この日は月曜日で休館日だったから、内部の見学はできなかった。 はりきっていた金髪クンはがっくり。
この建物のわきに馬に乗った人物の銅像がある。 後ろから見てピョートル大帝だろうと思ったけど、前から見たら可愛らしい女の子 (男の子?) の顔をしていた。 エカテリーナⅡならおばさん顔のはずだから、ピョートルの娘のエリザベートらしかった。 この像を見るかぎり可愛らしい少女だけど、ウィキペディアによるとけっこうしたたかなところもあった女帝で、出生地はコローメンスコエ、つまりこの公園のあたりになっている。 つまり彼女の生家がこのログハウスなのかもしれない。 なるほどねとわたし。
ログハウスから自然保護公園の中へ歩き出す。 このあたりから見ると自然のままの広大な公園で、見物にはだいぶ時間がかかりそうである。 時刻はすでに4時に近かったから、とちゅうでまっ暗になったら、公園の中には街灯もなさそうだから道に迷いそうだ。 大丈夫ですよと金髪クンはいう。 彼を信頼して歩き出した。
ぶらぶら歩いていくと果樹園らしく、剪定された木々のならぶ一画があった。 いまの季節には果実どころか葉もついてないから、なんの木かわからない。 ロシア人はリンゴが好きだから、おおかたリンゴ園ではないか。 暖冬のモスクワだけど、公園の中は雪におおわれていて、とちゅうで行きかう人もきわめて少なく、ロシアの田舎を歩いているようで気分はわるくない。
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2014年3月30日 (日)
わたしは市場に興味があるので、モスクワでもあちこちで市場をのぞいたけど、そういうところにはことさら移民が多いそうだ。 グローバル化された国家間では、景気のわるい国から景気のいい国へ民族大移動が起こる。 景気のいいときはいいけど、いったん景気がわるくなると、オレたちの仕事を奪っているのはアイツらだなんてことになってしまう。 最近ではほんとうに景気がいいなんて国はあまりないから、移民というのは先進国共通の問題になっていて、ロシアでも例外じゃない。 それがときに排斥運動化して政府を困らせている。
大学の近くにも市場があって、金髪クンもよく自炊材料を買いに行くらしいけど、中国人の店では買うまで帰してくれませんからねという。 さすがは中国商人だなとわたし。 みんな必死で生きているんだよねえ。
しかしわたしが話してみた市場の店主たちは気持ちのいい人が多かった。 ここに挙げたいちばん最初の写真の男性は、中央アジアの少数民族の帽子をかぶっていたから、お国はどちらでげすと訊くと、ウズベキスタンと答えた。 売っているのは中国でもよく見かけた香辛料だけど、壁ぎわにあるのはウズベキスタンの陶器類。 なかなか愛想のいい人で、気持ちよく写真を撮らせてくれた。 でも彼らのアイデンティティをしめす帽子をぬいでしまったのは残念だ。
2番目はみんな手作りだっていうチーズ屋さん。 プラスチックのバケツに入ったジャムや瓶詰もみんな手作りだそうだ。 まだまだ巨大資本が乗り出す商品じゃなく、こういうものはそれぞれの店が独特の味を競っているらしい。
6番目から8番目は魚屋さんで、内陸部にあるモスクワでは干物や加工食品が多い。 7番目は、頭が見えなかったので最初はなんだかわからなかったけど、ひと炙りしたあと塩水に漬けたアナゴのようだった。 8番目の、これ食べてみてと魚の酢漬けを差し出す魚屋のおかみさんは、ウラジオストックからの出稼ぎだそうだ。 彼女なんかさしずめ国内移民てところだな。
9番目、10番目の写真は女の子が喜びそうなお菓子がいっぱいのスィーツの店。 壁にびっしり並んでいるのもぜんぶお菓子。 きれいにパッケージされた箱詰も、これもまだ巨大資本が産みだすお菓子じゃなさそう。
最後のほうはロシアの漬物特集だ。 わたしは漬け物なしでは生きていけない人間であるけれど、難破してロシアに漂着してもこれなら生きていけそうだ。 リンゴの塩漬けまであるのにおどろいた。 おどろいていたら、ひとつ食べてみんさいといって、1個もらってしまった。 味は、うーんというところ。
おお、キムチがあるぜとわたし。 キムチはもう国際料理ですよと金髪クン。 そういえば日本の和食に対抗して、韓国はキムチをユネスコの無形文化遺産に推薦していたっけな。 キムチは唐辛子と白菜があれば、ほかの国でも本物をいくらでも作れるけど、和食の本物は外国では無理だろうと思う。
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2014年3月29日 (土)
ネット・ニュースをながめてみたら、ウソかホントか、またアホな記事が。 見出しが、「『日本は助けない』 発言に韓国高官は絶句。 朴大統領、反日外交のツケ回る」 というもの。 夕刊フジの記事だそうだ。 つまり、慰安婦をめぐる歴史問題や竹島の不法占拠などで韓国に対する感情が最低レベルに落ち込んでいるので、朝鮮半島有事になっても日本は韓国支援に動けない可能性があるということを示したもの・・・・・だそうだ。
韓国が日本の集団的自衛権の行使に待ったをかけてきたのが問題の発端らしいけど、つまんないおどかしみたいなことをいってやがんな。 理由はなんであれ、困ったときに助けてあげるのが友人というもの。 相手の感情をやわらげるには、嚇しよりも情けにかぎる。 憲法9条も事前協議も無視し、アメリカよりも先に韓国を助けてあげて、日本はさすがにおもてなしの国であると思われるほうがよっぽどいいではないか。 自国の有事とあっちゃ、韓国だって集団的自衛権の行使にいちゃもんもつけられまい。
それよりなにより、北朝鮮にいまだに有事を起こす力があると考えるのがオカシイ。 正恩クンの時代錯誤の軍隊なんて、日本にもアメリカにも頼らず、近代装備の韓国軍だけでぶっつぶせるんじゃないか。 すぐに機関銃をぶっ放す北朝鮮のスパイ船なんて、日本の (自衛艦でなく) 海上保安庁の船だけで沈めちゃった。 正恩クンの不運はこれだけに収まらない。 ヘタすりゃ、このときとばかりに軍隊が造反した古代中国の牧野の戦いの二の舞になるおそれもある。 「牧野の戦い」 というのは、横暴のかぎりを尽くした殷の紂王が、いざ敵と戦火をまじえようとしたら、兵隊はみんな相手のほうへ奔ってしまい、闘わずして負けたという故事である。 史記に書いてあって有名だ。
ミサイルをあらぬ方向へ発射するていどならまだしも、現在の北朝鮮に国境越えの実力はないと、わたしは考えています。 このていどでゴタゴタ騒いじゃいけませんなあ、え、夕刊フジ、アンタのことだよ。
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2014年3月28日 (金)
明日は帰国という日になった。 この日も金髪クンがやってくるそうだけど、あちこちひっぱりまわされたくないから午後から出かけることにして、午前中は部屋のドアに 「起こさないでください」 の札を下げ、ほとんどホテルでごろごろして過ごした。 ひとり旅の気楽さはこういうところにある。 なにをしにロシアまで行ったんだという人が、きっといるだろう。 おおきなお世話だ。
やってきた金髪クンと、ホテルのあるアフトザヴォツカヤ駅から、クレムリンとは反対方向で、ふたつ先のカシルスカヤ駅まで出る。 そんなものがあるなんてぜんぜん知らなかったけど、ここにはコローメンスコエという大きな自然保護公園があって、古い教会や木造建築が残っているところだそうだ。 名所旧跡より自然公園を散策するほうがいい。 モスクワまで行って、なんで森や林を見なくちゃいけないんだという人がいたら、うん、そういう人とは話をしたくないねえとだけいっておこう。
コローメンスコエという名前は、ウィキペディアには、むかしコロムナ街道の起点であったことに由来すると書いてあったけど、そんなむかしからロシアに興味があったわけじゃないからよくわからない。 メトロの最寄り駅は、カローメンスカヤかカシルスカヤである。 前述したようにこれはホテルのあるアフトザ駅からひとつ、あるいは2つ先の駅だ。 さらに2つか3つ先の駅まで行けば、前回の旅でかほりクンに連れていってもらった、エカテリーナ宮殿のあるツァリツィノ駅になる。 どうもこちら方面は素朴な風景がたくさん残っている環境保全地域らしいので、街歩きに疲れた人のねらい目かも。
メトロはがらがらと鉄橋を渡った。 地下鉄のはずだけど、カシルスカヤ駅まで行くと列車は地上に出てしまう。 2番目、3番目の写真は自然保護公園の入口と、公園内にあった地図。 公園はカシル駅から徒歩数分だったけど、そのまえにちょいと寄るところが。
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2014年3月27日 (木)
モスクワ大学の見学を終えたころにはそろそろたそがれが近づいていた。 雀が丘のほうから大学に近づいたときは、静かな場所にあると思っていたモスクワ大学だけど、最寄り駅のウニヴェルシチェート駅のあたりは、けっこうにぎやかな繁華街である。
大学から出たところに空飛ぶ円盤のような奇妙な建物が見えたので、金髪クンに、あれはなんだいと訊くと、ボリショイ・サーカスですという。 うわさには聞いていたけど、こんなところにあったのか。 いちどは観てみたいと思っていたんだけどねといったら、金髪クンはさっさと切符を買ってきてしまった。 600ルーブル(1800円ぐらい) の席だったけど、なに、入ってみて、すいていれば勝手に席を替わってもわかりませんとのこと。 じっさいには劇場は中心のくぼんだ円形で、後ろの席からも見晴らしがいいから、無理して前のほうに出る必要はなかった。 双眼鏡を持っていたわたしは、最後まで後ろのほうに坐ったままでいた。
のっけから、女優でもつとまりそうな8頭身、9頭身の美女が、うすもののドレスにレオタード姿で、数十メートルもの高さに吊り上げられる軽業である。 子供たちはそのスリルに感心し、おとなのわたしは彼女の魅惑的なボディに感心する。 パリのショー・クラブ 「クレイジーホース」 には紳士淑女が押し寄せるそうだけど、サーカスだってエロチックな要素は必要だ。 もっとも鼻の下をのばしているのはわたしだけで、まわりはきゃあきゃあ叫ぶ人間のヒヨコばかりってのが、雰囲気的にだいぶちがうけど。
最近は映画でもテレビでも刺激的な映像があふれているから、大人のわたしにとって軽業はちともの足りない気がした。 しかしこちらはコンピューター・グラフィックではなく、生身の人間が演じているのだから、すなおにおどろく演技もいくつか。 3メートルもある1本足の竹馬に乗った演技者が、空中高く1回転して、ぴたりと着地点へ。 こんなのってオリンピックだったら満点の演技じゃないかい。 回転する鉄パイプでできた車輪の上を、宇宙服みたいな衣装の演技者がゆっくり歩いて渡る演技もあった。 まるで彼の周辺だけ重力が消滅したようである。
軽業の合い間に男女のピエロが滑稽な寸劇をする。 さすがはロシアというわけで、女性ピエロもふくめて、バレエの素養のありそうな軽やかな動きの演技者ばかりである。 そんな華麗な演技をカラフルな光と影が彩り、音楽はオーケストラとロック・バンドが交互に担当する。 洗練された光線ショーとしても魅力的である。
とちゅうに休憩時間があった。 円形のホールではみやげもの屋や飲み物の店が出て、子供たちはアイスクリームを食べ、わたしはヨーグルトを飲んだ。 日本の大相撲とちがってビールは置いてないみたい。
最後はステージにネットを張りめぐらせて、なにが始まるのかと思ったら、トラやライオンがぞろぞろ10頭以上も出てきた。 肥満ぎみで動くのがメンドくさそうな連中ばかりだから、あんまり迫力がないけど、子供たちは大喜びだ。 自称ナチュラリストとしては、白いトラが出てきたのにちょっと興味をひかれた。 ホワイトタイガーは希少種だそうだけど、モスクワにはたくさんいるみたい。 最後から2番目の写真は、調教師がライオンにまたがって、こっちからあっちへひらりと飛ぼうとするところ。
最後の写真は出演者全員による華やかなフィナーレ。 ボリショイ・サーカスは、今回の旅でわたしが体験したゆいいつのエンタティンメントだ。
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2014年3月26日 (水)
学生食堂でなにか食べていきませんかと金髪クンがいう。 そりゃおもしろいと、行ってみたら入口に行列ができていた。 わたしみたいなおじさんが並んだのではマズイだろうと、いちどは遠慮したけど、日本から視察にきたエライ先生だといって、金髪クンが先頭の学生に話をつけ、列に割り込ませてもらってしまった。
最後の写真はこのときの食事である。 わたしはベジタリアンだから野菜主体で、右上のビニールでくるんであるのはパン、手前左側の白いペースト状のものはジャガイモをすりつぶしたもの。 すぐに腹のへる若者ばかりだから、メニューの中にもちろん肉料理もある。 あまり上等に見えないけど、栄養はありそう。 値段はかならずしも安くありませんと金髪クンはいう。 彼が材料を仕入れて寮内で自炊をしているのは、学費節約のためだそうだ。 やっぱりこういう青春がうらやましい。
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学生寮を見たくないですかと金髪クンが訊く。 見たい見たいとわたし。 寮へ入るためには、入口でパスポートを提示して許可証を作らなければならない。 入口にはブルドックのような警備員がいる。 ノーテンキで平和な顔のわたしは問題なく通過。
がたぴししたエレベーターを上がると、ソファの置かれた部屋があって、ここは両親や知り合いが訪問してきたとき懇談するところですと金髪クン。 かたわらの部屋は寮母さんが詰めているところだそうだ。
寮母さんというのは学生の親代わりで、ものすごい実力を持っているらしい。 金髪クンの彼女が家庭教師のアルバイトをしたとき、業者に給料を払ってもらえなかったことがあり、寮母さんに直談判をしてもらったという。 外国から来た女子学生が、街の両替屋でお金をごまかされたときには、寮母さんが怒鳴り込んでお金を取り返してきたそうだ。
そんな寮母さんのひとりと記念写真を撮った。 さぞかし怖そうな人かと思ったら いいのかしら。 わたしといっしょに写真を撮ったら、この人の奥さんがやきもちをやかないかしら、と冗談をいっていたそうだ。
正直にいわせてもらうと、寮はけっしてきれいな建物ではない。 基本的にはコンクリートだからガタピシするわけじゃないけど、廊下なんかひと昔まえの日本の木造アパートみたいで、はだかで騒ぐ北大の学生寮みたいにバンカラな感じ。 でも学生の本分は学問をするところと考えれば、日本の学生みたいに、学生寮をホテルかマンションと間違えているところよりはいいと思う。 そういう贅沢を支える親の気持ちを代弁して。
この大学の寮はおおむね個室だけど、部屋はせまい。 金髪クンの部屋の窓辺には野菜の鉢がならべてあった。 べつに寮生の使えるキッチンがあって、金髪クンは自炊もしているそうである。 男女の部屋は別々でも、それほど厳格に仕切られているわけではなく、同じフロアに男部屋、女部屋がある。 べつの部屋から金髪クンの恋人という若い娘も顔を出した。 うらやましい青春である。
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2014年3月25日 (火)
先日録画した 「スラムドッグ・ミリオネア」 という映画を観た。 インドのスラム街に生きる少年が主人公で、こういう映画を観ると、ぬけぬけと天下泰平なロシア旅行について書いているのがイヤになってしまう。 しかし乗りかかった船からとちゅうで下りるわけにもいかないし。
この日は日曜日で、モスクワ大学では 「数学の日」 という催し物をしていて、部外者でも自由に校内に立ち入れることになっていたから、家族連れや子供たちがホールで積み木や数学ゲームをしたり、臨時の本屋が出ていたりして、校内はたいそうにぎわっていた。 廊下に寝転がってスマホをいじっている学生もいて、このへんの青春はだいぶアメリカナイズされている。
建物の内部は、総じてロシアにあるほかの建物といっしょで、クラシカルで重厚であるが、よく見るとあちこちガタついているといった感じ。 現在の大学の建物がつくられたのは1953年だからやむを得ないのかも。 いないと思うけど、もしもモスクワ大学についてもっと知りたいという人がいたら、ウィキペディアを見るヨロシ。 もうすでに大学に縁のないわたしだけど、ロシアの大学の全容をあきらかにすべく、写真を撮りまくった。 ここでそれを2回に分けて紹介してしまう。
最後の写真は廊下の突き当たりに置かれていた銅像で、その仰々しさから大学創設者のミハイル・ロモノーソフという人かもしれない。 それでネットでロモノーソフについて調べてみたら、肖像画とこの銅像はぜんぜん似てないし、彼はナポレオンのロシア侵攻よりもまえの人だから、服装もちがうような気がする。 ま、だれだっていいけど、うす暗い場所に放ってあって、最近の学生はこの人物にあまり関心がないような感じ。 日本だって大隈重信に関心のある早稲田の学生がいないのと同じか。
大学の校内には売店、喫茶店、レストラン、郵便局、病院、みやげもの屋などなんでもアリで、学生相手の旅行会社まであるそうである。
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2014年3月24日 (月)
モスクワ大学の建物にはびっくりする。 ロシアにはモスクワのボリショイ劇場や、サンクトペテルブルクのイサク聖堂のような大きな建物があるけど、モスクワ大学の大きさはハンパじゃない。 わたしは雀が丘の展望台のほうから近づいたけど、いくら歩いても歩いても近くならない感じ。 円柱の足もとにいる人間が豆つぶのように見える。 あとで調べたら、モスクワに7つあるスターリン様式のビルの中でも最大の建物なんだそうだ。
モスクワ大学を見学したくないですかと金髪クンに訊かれ、わたしは一も二もなく返事をした。 見たい、見たい。 モスクワ大学は日本の東大に匹敵するロシアの国立大学で、観光名所なんかよりわたしはこういうところが見たいのである。 金髪クンはこの大学の学生寮に住んでいるのだ。
歩きながら、モスクワ大学について即席のレクチャーを受ける。 どっちが大学の正面なのかわからないけど、雀が丘の反対側のほうがにぎやかだという。 こちら側は雀が丘まで公園のようになっていて、大学を背にして雀が丘の先をながめると、一直線上に救世主ハリストス聖堂がのぞめる。 そうなるように計算をして建てられているのだそうだ。
金髪クンの説明の大半はすぐに忘れてしまった。 だから大学について、創設年月日、敷地の広さ、学部と学生数や教授の数、卒業した著名人など、そんな下らないことを知りたい人は例によってウィキペディアを参照のこと。 そんなことよりも、ここではどっちかというと脱線したレクチャーについて書く。
大学には外国からの留学生も多く、中国の学生なんか娼婦買いに精を出しているそうである。 失脚した重慶市の薄熙来書記のせがれが、アメリカで美女をはべらせ、フェラーリを乗りまわしていたことはよく知られているけど、成り金大国の中国のぼんぼんたちがせっせと散財しているらしい。 だから中国人は、と文句をいっても始まらない。 日本のぼんぼんたちだってバブルの最盛期には同じことをしていたにちがいないのだ。
そういう学生が将来国を背負って立つ人材に育つかどうかは疑問だけど、大学のほうにもそういうろくでなしの寄付をアテにしてやってる部分があるんじゃなかろうか。 以前の旅でガイドをしてくれたモスクワ大学の学生であるかほりクンは、ロシアの大学は入るのはやさしいけど、卒業するのがむずかしいですといっていた。 つまり親が金をつぎこめば、入れる余地だけはちゃんとあるというのがモスクワ大学なのかも。 そういえばすぐに学位や博士号を乱発するアメリカにも、ずいぶん頭のわるそうな学生を引き受けているところがあるみたい。
あとで学生寮に入ったとき、この部屋には日本からきた留学生が住んでいますといわれ、激励のために挨拶をしてみた。 髪をもしゃもしゃにした学者ふうの若者で、娼婦あさりなんかしそうもないタイプ。 親御さんがこのブログを読んでいたら、ご安心をといっておく。
最後の2枚はにぎやかな方側から見た図書館の建物と大学本体。 どっちから見ても形は変わらない感じ。
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2014年3月23日 (日)
5日目からは金髪クンが街を案内してくれることになった。 彼ははりきって、宇宙飛行士の博物館へ行きましょう、ルブりョフの家、トルストイの家、プーシキンの家は見たくないですか、例のオスタンキノ・タワーには登ってみたくないですかなどと、やたらにくたびれそうなところばかり推薦する。 こんな若いモンにつきあっていたら殺されてしまう。 作家の家なんか見たって仕方がないじゃん。 そんなものは本を読めばすむことだ。 ロシアの作家にあまりなじみのないわたしは、それよりもねという。
モスクワには雀が丘という景勝地があって、そこには森や林があるそうだから、ひょっとするとロシアの田園風景のようなものが見られるかもしれない。 そういうところへ行きたいんだよといってみた。 彼は納得できない顔をしていたけど、そこへ行くことになった。
雀が丘へ行くためにはメトロのヴァラビヨーヴィ・ゴールィというややこしい名前の駅に出なければならない。 これが雀が丘という意味なんだそうだ。 そういわれてみると、この駅名の響きは小鳥の声を思わせる。
この日は雀が丘のあたりをぶらぶらするだけで終わりにするつもりで、のんびり出かけ、とちゅうの駅で金髪クンと落ち合って、ヴァラビ駅に着いたのは午後になっていた。 着いておもしろいと思ったのは、この駅はモスクワ川のま上にあったこと。 ホームのま下を、この季節としてはめずらしいことに、凍ってない大河がとうとうと流れているのである。 駅舎も近代的で、ソ連時代の名残りをひきずるほかの駅とはちがっていた。
駅を出ると目の前は雪におおわれた山の斜面である。 もっとも雪も山もたいしたことはなく、遊歩道が造られ、散歩するモスクワ市民もいた。 山の上にはスキーのジャンプ台も設置されている。 斜面を登るのは息が切れるけど、わたしはこういう場所が好きなのであまり苦にならない。 ガイドブックにはリフトがあると書いてあったけど、そんなもの最初からアテにしてなかった。
登りきったところに大きな道路があり、そのわきが雀が丘の見晴台だった。 ながめると眼下に湾曲したモスクワ川が流れている。 その向こうにはスポルチ駅前のスタジアムや、行ってきたばかりのノボデヴィチ修道院や墓地が見える。 クレムリンはよく見えない。 左前方に高層ビルが乱立した一画があり、これは幕張メッセや汐留ニュータウンのような新都心になるべき地域だそうだ。 中国みたいに古い建物を一掃して新しい街をつくる国もあるけど、街全体が美術館のロシアではそれはもったいない。 べつの場所に新しい街をまとめてつくるのはいいアイディアである。
雀が丘からはナポレオンもモスクワ市街をながめたそうだけど、それはモスクワが焦土になる前だったのか、あとだったのか。
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2014年3月22日 (土)
ホテルで夜中に目がさめてしまった。 買い置きのカップラーメンを食べたけれど、なかなか美味しい。 パッケージを見たら、これは韓国産だった。 日本もがんばらないと、かっての世界を股にかけた商社のお株は韓国に奪われてるなと思う。
ラーメンを食い、スーパーで買ってきた安物のコニャックをちびりちびりやりながらいろいろ考える。 わたしの旅では観光もさることながら、ぼんやりしている時間がやけに長い。 ぼさっとしてないでさっさとあちこち観て歩きやがれと、わたしの紀行記を読んで、まっとうな人なら思うんじゃないか。 夜になったらボリショイ劇場に観劇に行くとか、ライブハウスに一杯ひっかけに行くとか、美人で有名な娼婦でも呼べばいいのにといわれそう。 でも飛び込みで劇場に行ってもチケットなんか買えそうもないし、ライブハウスまでメトロでわざわざ行くのもメンドくさいし、娼婦なんてソチに出払っているみたいだし。
というわけで、部屋でぼんやりしていることが多いのである。 ぼんやりしてないときは、ワープロで旅の記録を整理したり、洗濯をしたりする。 それじゃ日本にいても同じじゃないかといわれそう。 しかし、それでもわたしは満足なのだ。 同じひきこもりでもロシアでひきこもりというのは愉しいではないか。
マキシマパノラマは無料で無線LANが使えることになっている。 到着した翌日に iPodでやってみたら、パスワードを要求され、めんどくさいからやめてしまったけど、帰国の前日に金髪クンがやってきて、また試してみた。 彼が部屋ナンバーを打ちこんだら、それだけでホテルのWi-Fi につながってしまった。 世界はますますせまくなっているのだ。 つぎに外国へ行くときは本格的な無線LANの準備をしていって、あちらからブログの更新をしようと思う。 こんなことをしていれば、ホテルの部屋にひきこもっていてもぜんぜん退屈しないぞ。
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2014年3月21日 (金)
ウチの新聞は日本を代表するマスコミの雄だけど、それを読んでいるとロシアとウクライナが一触即発みたいで、ロシアの非道ばかりがめだってしまう。 ホントにそうなのか、またヘソ曲り流で冷静に記事を分析してみる。
今朝の新聞の国際面に 「包囲するロシア軍を見つめるウクライナ兵」 という写真が載っていた。 これを撮影したのは日本人の記者らしい。 外国人記者がのこのこと出かけていって写真なんか撮れるところをみると、現地はそれほど緊迫しているようでもない。 ウクライナ兵のひとりの胸もとに縞々シャツがのぞいているけど、これはロシア軍の官給品と同じものである (写真)。 ロシアとウクライナってもともと仲がいいんだよなって思わせる。
インタビュー記事もあって、ウクライナ兵の奥さんが 『基地のそばにアパートを持っているので、できれば (クリミアに) とどまりたい』 『クリミア自治政府のために働くならいいが、基地がロシア軍になるのは抵抗がある』 なんていっている。 どうにもならないならどっちでもいいやという感じで、あまり切羽詰まったようすでもない。
ロシア軍の狙撃で死んだウクライナ兵がいるとか、ウクライナの艦船に手投げ爆弾が投げ込まれたって事件もあったらしいけど、その後が派手なドンパチになったって話も聞かないから、たんなる事故だった可能性もある。
プーチンは 「人民の自決の原則」 にもとづく合法的行為だといい、米国やEU (日本も) は侵略だという。 でもEUの中でも本気で怒っているのはわずかで、尖閣をクリミアみたいにいつか自国領に編入したいと考えている中国なんか煮え切らない態度。 現状の世界秩序を変更するのはケシカランなんていってたら、北方四島はいつになっても返ってこないから、日本だって旗幟を鮮明にしにくいよな。 いや、日本の場合は、尖閣については現状維持で、北方四島の場合はなにがなんでも返還だなんて、ぜんぜん言い分が一本化されてないんで、よくワカラナイ。
ひとつ注目しなくちゃいけないのは、やっていることは強引な手段であるかもしれないけど、それでもプーチンがいちおう原則論を持ちだして、理屈立てでことを推し進めていることだ。 ロシアは国際関係を重視するグローバル国家であり、北朝鮮のような常識の通じない国じゃないということなんだろう。
プーチンが編入しようとしているのはクリミア半島だけで、他の地域まで侵攻しようという気はないみたいだし、ウクライナのほうでももともとタダでロシアからもらった土地だから、そのていどで済むならと、紛争の拡大を抑えることに専念しているようにみえる。 国民の手前あとにひけないオバマ君が経済制裁だなんていうと、ロシアも対抗して米政府関係者に制裁だなんていいだして、おたがいに馴れ合いみたいな騒ぎになっちゃって、針小棒大に騒いでいるのはウチの新聞と、それを読まされる日本人だけみたい。 読売新聞も1面トップにしてるのかどうか、わたしゃ読売を読んだことないからわからないんだよね。
モスクワに住むわたしのロシア人の知り合いは、夏になるとおばさんの住んでいるウクライナを訪問するんですなんていっていた。 ほんとうは仲がいいものを、他人がゴタゴタいうことか。 え、朝日新聞、おまえのことだよ。
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知り合いが入院したので見舞いに行ってきた。 食べ物はダメなようだから、花でも差し入れてやろうと思い、花屋に寄っててきとうな花を物色した。 最初は鉢植えの花にしようかと思った。 ところが店の人間が、鉢植えは “根づく (寝づく)” といわれて、病人にきらわれる場合がありますという。 そういうこともあるのかと切り花にしたけど、あとでウーンと考えてしまった。
入院というのは退屈なものである。 鉢植えの花というものは楽しいものだ。 最初はつぼみだったものが、つぎからつぎへと開花する。 しばらく水をやらないでいるとだらりとなり、水をやるとまたしゃっきりとする。 それがあまりに正直なので、こいつも生きているんだなと実感できる。 退屈をまぎらわすには好適なのである。 切り花じゃそうはいかない。 いっときながめるにはきれいだけど、それだけで、あとは変化がないからすぐ飽きる。 やっぱり鉢植えにしておけばよかった。 そもそもわたしは世間の迷信なんて信じないへそ曲がり人間ではないか。
ここに載せた写真は、ウチの台所に置いてあるものですが、ホント、たくさん花をつけちゃって。
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トレチャコフ美術館のまえの道をクレムリンのほうへ向かうと、モスクワ川の支流が流れていて、その橋の上に 「鍵の木」 があるはずである。 鍵の木というのは恋人同士がいつまでも関係が続きますようにと、日本の願掛けみたいに木の枝にびっしりと南京鍵をつけちゃったもので、1年前の旅行のさいに見たことがある。 最初の写真が今回のソレだ。
鍵の木を見たついでに、救世主ハリストス聖堂を見て、そのあとクレムリンまで歩きましょうという話になってしまった。
鍵の木のある歩行者専用の橋から、モスクワ川にそってぶらぶら歩くと、車道のある大きな橋があり、さらにその先にまた歩行者専用の橋がある。 このへんはなんだかガード下みたいで、治安のわるい国だったらあまり夜は歩きたくないところだ。
それでも歩行者専用の橋に上がると、そこからはけっこう人通りは多い。 この橋のつきあたりに救世主ハリストス聖堂 (ハリストスはロシア語でキリストのこと) がそびえている。 新トレチャコフ美術館を見学に行ったとき、例のロクでもないピョートル大帝記念塔の向こうに見えた寺院で、ノボデヴィチ墓地に行こうとしたとき、クロポトキン駅のまん前にそびえていた金ピカの寺院である。
メトロの駅側からみるとたいしたことはないくせに、この橋のほうから見る威容はなかなかのものだ。 しかも夜はライトアップされてとてもきれい。 橋の上からはクレムリンも見える。 恋人とふたりで散策するには絶好の場所だから、彼女といっしょの金髪クンはいいけど、わたしはなんかお邪魔ムシ。
あとで行くことになるモスクワ大学からも、直線で見通せる位置にあるくらいだから、モスクワで最大級の格式をほこるハリストス聖堂であるけれど、スターリンの時代に宗教弾圧にあって、この聖堂も大厄災をこうむった。 当時の映画フィルムに爆破される教会の映像があって、わたしも見たおぼえがあるけど、それがこの聖堂だったのである。 一時この聖堂はこの世から完全に抹殺され、瓦礫の山になっていたのだ。 再建されたのはソ連崩壊のあとの2000年である。
聖堂の下から見上げると、壁に聖人や天使などの彫刻がならんでいる。 かっての聖堂の重厚さも忠実に再建されたらしい。 いくら再建が忠実であったにしても、この晩はもう遅い時間だったから、中に入ってみるわけにはいかない。
入ってみる機会がなかったものはほかにもある。 聖堂からクレムリンに向かって歩いていくと、円柱をつらねた重厚な建物があった。 プーシキン美術館ですと金髪クン。 ロシアまで行ってよその国の絵画を観ても仕方がないというので、ぜんぜん見学の対象にしてなかったところである プーシキン美術館展というものがすこし前に日本でも開催されたけど、とくに観たい絵がなかったからそれも観に行かなかったくらい。 またモスクワに行く機会があり、ヒマだったら行ってみることにしよう。
この夜はメトロの駅で若い2人と別れた。
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2014年3月20日 (木)
環状線と2号線を乗り継ぎ、あっという間にホテルにもどって、部屋に入ると床の上にフロントからの連絡用紙が置いてあった。 留守中にあなたの友人から電話がありましたとのこと。 そちらからの連絡を待っていますということで、電話番号が書いてある。 はて、誰だろう。 いっしゅん美少女ガイドのかほりクンかと考えたけど、彼女はソチのほうに行ってるはずである。
かほりクンでないとすれば、可能性のあるのはもうひとりの友人だ。 かってわたしのアパートの階下に住んでいた金髪クンが、モスクワに里帰りして3年になる。 彼にモスクワを訪問することを伝えてあったから、電話の主は金髪クンにちがいない。
こちらから電話してみると、聞き覚えのあるあきらかな声で、元気ですかという。 やはり金髪クンで、あとで部屋に遊びに来るという。 夜の7時ごろになりますけどいいですかというから、OKといっておいた。
夜になって、彼は恋人だという若い娘をいっしょに連れてきた。 すでに観光には遅い時間だったから、この日は3人で連れだって晩メシを食うことにした。 ホテルのまわりにはいい店がないから、メトロでトレチャコフ美術館に近いノヴォクズネツカヤ駅まで出て、美術館の近くの店に入った。 ここは観光客が多いからいろんな店があるのである。
金髪クンの案内でレストランに入ったのが夜の8時ごろ。 門から建物の玄関まで距離があって、青山、西麻布ふうな雰囲気の店だったけど、そろそろ店じまいの時間だそうで、客はわたしたちだけだった。 店の名前に 「カザン」 という言葉が入っていたから、あとで調べてみたら、この名前はロシア連邦に属するタタールスタン共和国の首都のことで、タタール文化の中心であるとかなんとか。
タタールというと、「タタールの軛 (くびき)」 なんて言葉があって、わたしにはモンゴル系の民族みたいな印象がある。 モンゴル系の料理ならとうぜんヒツジの焼肉だ。 金髪クンも、この店ではヒツジの串焼き肉が美味しいですという。 なんでもいいやとわたし。
若い2人のために、おじさんがワインをおごるからといってみた。 注文してみたら、ありませんという。 ビールはと訊くと、それもありません。 なんだなんだ! ここはイスラムの店かあとわめく (腹の中で)。
帰国したあと、ウクライナとロシアのあいだでトラブルが生じて、クリミア・タタールなんて言葉が出てきた。 タタールという民族はかなり複雑で、イスラムに帰依したのもいるらしい。
けっきょくノンアルコールのまま、羊の串焼き肉とチャーハンみたいなものを食べた。 それなり美味しかったけど、お酒がないんじゃ退廃した資本主義国の住人向きの店じゃない。 金髪クンは酒を飲まない人間だから、最初からこの店を目当てにしたらしい。 もう遊んでやんないぞ、コノ。
食べ終わってトレチャコフ美術館のあたりをぶらぶらした。 美術館の通りはライトアップされてとてもきれい。 ふだんこのブログに自分の写真は載せないようにしてるんだが、ここで1枚だけ、美術館とミスター・トレチャコフとともに撮った写真を載せてしまう。
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2014年3月19日 (水)
空港から市内にもどってきて、つぎにメトロでレニングラード駅に行ってみることにした。 老骨にムチのわたしだけど、まだ旅への情熱は失われていない。 もういちどロシアに来れるものなら、こんどはまたサンクトペテルブルクに行ってみたい。 サンクトペテルブルクに行くにはサプサン号という新幹線を使えば、モスクワから4時間だ。 サプサン号が発車するのがレニングラード駅なのである。
前回の旅ではこの駅から、知り合いの知り合いが住む田舎の町まで出発したし、サンクトペテルブルクからもどってきたとき、美少女ガイドのかほりクンに迎えられたのもこの駅である。 ただし、そのときは夜だったり、他人に先導されてせかされたりで、景色なんか見ている余裕がなかった。 で、今回は自分でサプサン号の切符を買えそうかどうか、その下見のつもり。
もう地下鉄はお手のものだから、ベラルーシ駅からメトロの環状線でかんたんにコムソモーリスカヤ駅に移動した。 コムソ駅はレニングラード駅のま下にあるのである。
コムソ駅から地上に出ると、いちばん最初の写真がそれだけど、なんか裏口に出たようで、すぐかたわらにガラス張りのきれいなホームがある。 これがサプサン号のホームだった。 新幹線の開通は2009年で、さすがにホームも新しい。
すこしはなれたところにベラルーシ駅で見たのと同じ、建物もない簡単な駅のホームが見える。 2番目の写真がそれで、緑色の屋根をした改札の建物の背後に、ビニールハウスみたいな半円形のホームがのぞいている。 ここにはレニングラード駅、ヤロスラヴリ駅、カザン駅と3つの駅が集まっていて、建物がないのは在来線専用のヤロスラ駅らしい。 庶民的でおもしろそう。
メトロ駅の正面側に出てみた。 えらくにぎやかなところである。 駅前にはトラムも走っており、すこしはなれたところには高架を走る列車も見える。 景色の中にどーんとスターリン様式のビルもそびえている。 道路の反対側にあるのがカザン駅で、駅前広場に面して大衆デパートみたいなビルもある。
レニングラード駅はメトロ駅のすぐとなりにあって、古風な様式の建物だけど、クリーム色の塗装がやけに新しく見える。 中へ入ってみた。 切符売り場もすぐわかった。 べつに混雑しているようすもないから、これなら自分でちょくせつ駅に出向いても切符を買うのはむずかしくないようだ。
満足して、しばらく駅前広場でぼんやりした。 まわりに知り合いがひとりもいないという状態は、わたしにすてきな解放感を与えてくれる。 また英国の女性紀行作家クリスティナ・ドッドウェルの文章を思い出してしまう。 彼女は軟弱なわたしに比べると、はるかにタフな女性で、異国の森の中でひとりでキャンプをしているとき、しみじみと幸福感を味わうと書いていた。 しみじみ・・・・・・ さっさと観光に行けという声が聞こえてきそう。 おおきなお世話さ。
この日の目的は達したので、すこし早いけど、いったんホテルにもどることにした。
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2014年3月18日 (火)
ベラルーシ駅の券売機でチケットを買って、空港行きエクスプレスのホームへ出ようとしたら警官に制止された。 融通のきかない感じの若い警官である。 でも見かけによらずなかなか親切で、時刻表を取ってなにやら説明してくれた。 発車15分前までホームに入れないらしいということが、なんとなくわかった。
1番~3番目の写真はエクスプレスのベラルーシ駅と切符売り場など。 4番目の写真はレシートではなくて、これがチケット。
エクスプレスは30分に1本の割で出ているから、待つ時間はそれほど長くない。 ホームには赤いエクスプレスが停まっていたから、いちばん近い入口から乗り込んだ。 座席は足がのばせるくらい広い。 これはひょっとすると座席指定のグリーン車みたいな車両に乗ってしまったのではないか。 そういえば改札もなかったしなあと不安になる。 なんの、検札が来たらワカリマセンといって、べつの車両に移動すればいいやと無責任に考える。
走りだしてしばらくは団地ばかりの景色だ。 線路のわきに、芸術的といえなくもない落書きばかりのレンガ塀が続く。 どっちかというと見たくない景色である。
エクスプレスに乗っている時間は35分ぐらいだけど、最後の10分間ぐらいにようやく見るべき景色がひろがった。 凍りついた大きな川がふたつあって、そのうちのひとつは運河らしく、船着き場や停船中の貨物船なども見えた。 空港の近くになると、シベリアのような荒涼とした原生林も、ほんのちょっとだけあらわれる。 市内をぶらつくにしても観たいところはあまりないから、こんな景色が見られただけでも空港を往復する価値はあった。
検札はいちども来なかったから、とうとう最初の席に座りっぱなしだ。 改札は空港のほうにちゃんとあったから、切符は必要だけど、景色を見るために往復するだけならタダで行って来れたかも。
エクスプレスの空港駅から空港まで、すべて建物の中で、近代化されたショップやレストランのあいだを15分ぐらい歩く。 これから先はパスポートや航空券が必要という場所で引き返すことにしたけど、ついでだからとちゅうにあった両替店で日本円を両替してみることにした。 じつは前日も市内の両替店で両替しようとしたのだけど、レートが芳しくなかったのでやめたのである。 空港でのレートは、2万円を両替すれば、エクスプレスの往復料金がまかなえるくらい市内とは差があったから、やっぱり空港まで行ってみる価値はある。
帰りに確認してみたら、エクスプレスの指定席車両は最後尾の1両だけで、座席は本革シート、入口に女性車掌が立っているのが一般車両との差別だった。 一般車両でも座席がゆったりしていたのは、ようするにロシア人と日本人の足の長さの違いらしい。 ロシア人の身長にあわせてあれば、日本人にはきっとゆったりした感じになるにちがいない。 メトロはせまいけど、地下鉄ができたころのロシア人は足が短かったのだろう。
行きも帰りもエクスプレスの同じ側に座ったから、帰りは別の景色をながめることになる。 モスクワ市内の近くまでもどってきたとき、左側の遠方にスカイツリーのような塔が見えた。 この日も曇り空で、てっぺんが雲にかくれていたけど、距離からするとそうとうに高い搭のようである。 しかしガイドブックには、モスクワにこんな搭があるということがひとことも書いてない。
調べてみた。 これはオスタンキノ・タワーといって、540メートルの高さがあるテレビ塔だった。 世界一高いという記録を保持していたこともあるそうだけど、それはソ連時代の話で、その後火災になったり、施設が使えなくなったりで、ガイドブックに紹介がないのはこれが原因らしい。 こんなものに上ってみたいと思わないから、遠方からながめただけで満足。
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2014年3月17日 (月)
モスクワに到着して4日目は空港へ行ってくることにした。 今回の旅では帰国の日も、わたしひとりですべてを処理しなければならない。 空港までの道順をあらかじめ知っておくと、なにかと心強いものだ。 というわけで下調べをしておくことにしたのである。 交通費がもったいないという人もいるかもしれないけど、どっちにしたってどこかへ観光に行くことになるのだから、列車に乗って空港まで観光に行くと思えば同じことである。
ガラガラガシャーンとすごい音をたてて列車がやってきた。 モスクワの地下鉄は、環状線がいくらかマシという程度で、あとは軒なみオンボロ列車だ。 ただ、ここでもロシアの製品は安くて壊れないという原則は通じていて、車両はたぶんソ連時代から使われているんじゃなかろうかと思える無骨なもの。 最近はかってのニューヨークの地下鉄のように、落書きがされている車両も増えてきた。
ベラルーシ駅でメトロを下りて、駅のまわりをうろうろしてみた。 駅舎はうすいグリーンの古風な建物だけど、メトロの駅舎がふたつ、空港と直結するエクスプレスや在来線の駅舎もあって、駅前広場は交通がはげしく、喧騒のまっただ中って感じ。 4番目の写真は在来線の駅らしく、改札もホームもないかんたんな発着場になっていて、これなら駅前広場からそのまま列車に乗ってしまえそう。 外国にはこういう駅がたくさんある。 切符なんか車内で買えばいいってことらしい。
ベラルーシ駅の周辺にはレストランや商店が軒を接して、カーネル・サンダースさんのお店もある。 ただ、いかにもロシア風の、けっして洗練されてるとはいいがたい店が多く、それがかえって歩きまわるにはおもしろいところである。
前回の旅でホテル・カレトニードボルからこのあたりまで散策に来たはずだけど、そのときはどこでどう間違えたのか、駅前広場に到達できなかった。 そのとき近くにあった露店の市場で、愉快な親父の写真を撮ったおぼえがある。 親父に手渡すつもりでわざわざ写真を持ってきたのに、どうしてもその市場が見つからない。 そのうち同じ道を歩いていることに気がつき、とうとう市場を探すのは断念した。
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2014年3月16日 (日)
今日は
ひじょうに暖かい。 なにか新しい花でも咲いてないかと、のそのそ散歩に出かけてみた。 もう大沢村に越してきてから20年ちかくなり、しかもそのあいだ毎年のように花の観察をしているから、いまさらわたしにとってめずらしい花なんか咲いているはずがない。 それでも申し訳ていどに花ふたつ。 去年の写真でごまかしたりしてません。
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ノボデヴィチ墓地を見学したあと、ホテルにもどった。 この日も朝10時から午後5時ごろまで、歩きっぱなし立ちっぱなしだ。 最近のわたしはなにか用事がなければこんなに歩いたりしない。 好奇心につき動かされているときのわたしは疲れを知らない人間なのだ。 そう考えていたけど、さすがに老骨にムチ打つという感じで、あごをいくらか前方に出していたようだ。
ここでまたチップについて書く。 外国へ行く場合、あらかじめこれについてその国のやり方を研究しておくことは必要である。
じつは部屋にもどったら、ベッドはちゃんと整えてあったけど、よく見るとコーヒーカップが洗ってなく、前夜の飲み残しのペットボトルもそのまま。 これは、ひょっとするとチップを置かなかったせいかもしれない。 ガイドブックにはロシアはチップ不要の国と書いてあるのに、まえに泊まった日本人でチップを置いた馬鹿がいるのではないか。 こういうことが重なれば、日本人は気前がいいという評判がたち、日本人が泊まればとうぜん部屋の担当は期待をしてしまう。 期待してそれが裏切られた場合の憎しみは筆舌に尽くせないものがあって、それでこんな仕打ちになるのではないか。 こんにゃろめ。
漱石の 「坊ちゃん」 みたいに最初に気前よくチップを払うと、それからは毎日払わなければならない。 なにがなんでも払わないという前歴をつくることは必要だ。 これしきのことでめげてたまるか。 コーヒーカップは洗面所で自分で洗えばすむ話ではないか。
わたしがチップを親の仇みたいに考えているのは、これがマニュアル通りの海外旅行をして喜んでいる日本人の象徴みたいに思えるからだ。 誰もかれもが旅行というものはこういうものだと信じて疑わない。 欧米人がチップを置くのはそういう社会に生きている者の義務であって、彼らだってそれをめんどくさいと思っているのである。 日本に来た欧米人がホテルで、部屋の清掃やベッド・メイクに、いちいちチップを払ってるなんて聞いたことがない。 海外に行くとチップ制度が当たり前と信じている日本人がいて、しかもたいていは日本を代表するような平均的庶民である場合が多いから、アホなことをしてるなと思うわたしは払わないのである (払うべき国ではちゃんと払います)。
たいそうなゴタクを述べてしまったけど、チップについて、あとで入ったレストランで、これははっきりわかるいやがらせをされたこともある。 料金が985P (ルーブル) だった場合、千ルーブルに半端の5P硬貨をそえて、お釣りを10P紙幣でもらうということは誰でもよくやることだ。 ホントはお釣りなんかどうでもよかったのだけど、いっしょに行った友人が、ボクが5P持ってますなんていいだして、そういうわけで1005P払ったら、お釣りが使い道のないような小さな硬貨でじゃらじゃらと返ってきた。 こんにゃろめ。 この場合はケチな友人がわるいのかも。
ホテルの部屋にはでっかい液晶テレビがある。 でも、テレビはほとんど見なかったし、ケータイなんか最初から持っていかなかったから、ルパング島の小野田寛郎さんみたいなみたいな生活だ。 せっかくロシアに行ったのになにやってんだという声が聞こえてきそう。 おおきなお世話さ。
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2014年3月15日 (土)
ソ連を崩壊させたと、現在ではロシアであまり人気のないゴルバチョフ大統領の、奥さんだったライサさんが亡くなったのは1999年のこと。 いちいち調べなくても墓石にそう刻まれている。
彼女はあまりおもてに出てこない共産圏のファーストレディとしては、例外的に積極的な人で、旦那に随行して公的な行事や外国訪問などに参加し、日本にもやってきたことがある。 わたしの頭の中にはきれいな人だったという記憶が残っている。
その後の彼女の運命は歴史の荒波にほんろうされた。 クーデターの勃発で自分の生命まで危険にさらされ、エリツィンの登場、旦那の失脚、そしてきわめつけはソ連邦の崩壊だ。 ソ連が崩壊したのは1991年のことである。 彼女に責任があったわけじゃないけど、祖国が音をたてて崩れていくさまを、彼女はいったいどんな気持ちでながめたのだろう。
その後のライサさんについては、わたしはもう死亡のニュースでしか知らない。 葬式で旦那のゴルバチョフはあたりをはばからずに号泣したそうだ。 その気持ちはわかる、よくわかる。 彼女の墓のかたわらに乙女の像が立っている。 そのはかない顔つきがライサさんの墓にふさわしい。
ライサさんの死後もロシアの変貌は続く。 わたしの世代はレーニンの革命こそ見なかったものの、ロシアの歴史のかなり重要な部分を目の当たりにしたことになる。 AKB48の女の子たちは、わたしと同じ時代の生きものとは思えないんだけど、ライサ・ゴルバチョフについては、まちがいなく同じ時代に生きた人だと思う。 この墓の下に、書物や絵画や映画ではなく、わたしがこの目で見たり聞いたりした、ロシアの歴史の断片が眠っている。 そう思うのはあまりに感傷的にすぎるだろうか。
そういうわけで帰国の日、こんどはロシア人の友人の金髪クンを誘って、もういちどライサさんの墓に出かけてしまった。 彼女の墓のわきで (わたしが彼に) 説明していると、かたわらのヒノキの枝がかすかにゆれた。 ほら、亡くなった人がわたしと話をしたがっているよというと、風ですよと金髪クン。 あなたは神さまや死後の世界を信じない人なのに、どうしてそう思うんですかと訊く。 そりゃそうだけど、つまり文学的なでっちあげってやつだな。 熱海の海岸にはお宮の松ってのがあるよ。 その人が実在したわけじゃなくても、そういうものを空想して楽しむのは、日本人の文化だ。 話があらぬ方向に脱線しかかっているけど、ロシアや欧米ではそういう話はあまり聞いたことがない。 風なんか吹いてなかったぞ。
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2014年3月14日 (金)
最初の写真はわりあい目立つところにある2人の人物の墓で、2、3番目はもうすこし接近したそのふたつの墓。
男性の像は Юрий Никулинといって、ロシアで有名なエンターテイナーらしく(顔写真が彼だ)、この名前で検索すれば、YouTubeで生前の演技を鑑賞することができる。 バレエのレリーフが刻まれた墓石は、彫られた名前と死んだ年がちょっとちがうような気がするけど、ウィキペディアによれば1998年に亡くなった、ガリーナ・ウラノワという有名なバレリーナのものらしい。
以後ずらりと目についた墓の写真をならべる。 ほんとうはここに載せきれないくらいユニークな墓がたくさんあったんだけどね。 科学者、音楽家、タレント、政治家などの墓が多く、そのものずばりの故人の胸像や、その功績がひと目でわかるよう配慮したもの、その思想を反映させたような墓石が多い。
5番目の写真はごらんのとおり音楽家のもので、日本ではあまり知られてない、すくなくともわたしは知らなかったボゴスロフスキーという作曲家のもの。 6番目は落書きではなく、ちゃんと墓石に彫られた文字で、なんでも有名な数学者の墓らしい。
以下さっぱりわかりません。 11番目はコートをひっかけたハンサムな男性で、自己顕示欲の強い人らしく、いまでも花束が絶えないから映画俳優だったのかも。
14番目の天変地異に遭遇したような墓に葬られているのは、世界を破壊したいと考えていたアナーキストか、体制転覆をくわだてていたロック・アーチストだったのか。 まだ墓石の用意できてないものもあるから、いまでも墓は増え続けているようだ。
16番目は日本でもおなじみの政治家のもの。 スターリンの記憶なんてほとんどないから、不気味な生首みたいなフルシチョフは、わたしがものごころついて最初に知ったロシアの政治家だった。 そのつぎは、この墓地でいちばん目立つエリツィンの墓。
最後は大の日本びいきだったチェロの巨匠ロストロポーヴィチのもの。 テレビや雑誌、CDで彼のことをよく知っていたから、つい、お元気ですかと声をかけたくなってしまった。 相好をくずした地下のマエストロが、ああ、また築地の寿司が食べたいねと返事しそうな気がする。 わたしは死者が墓の下に眠っているとは思ってないから、すべて自作自演の空想なんだけど、それでもこんな空想にひたっているのは楽しい。
いったい墓ってなんだろう。 変人で皮肉屋のわたしはまた考えてしまう。 日本のある鉄道系財閥の創業者は、でっかい墓をつくって、子子孫孫ばかりか、自分の会社の社員にまでお参りを強要した。 みずからの栄華を末代まで誇ろうという気だろうけど、こうなると墓はその人の不名誉を記念する碑ということになってしまう。 墓なんて生きている人たちのなぐさめになるだけで、死んだ人のためにあるとは思わないし、エジプトのピラミッドでさえぼろぼろに風化していることを思うと、永遠の墓なんてあるわけがない。 この地球全体が自分の墓だと信じるほうが、気宇壮大なわたしにふさわしいではないか。 そう勝手に決め込んで、だからわがものである地球をよく見ておこうと、せっせと旅に出るのである。
『強い者も弱い者も、美しい者もみにくい者も、富める者も貧しい者も、いまは同じ、すべてあの世』 これは映画 「バリー・リンドン」 のラストクレジットの一節で、サッカレーの言葉だそうだ。
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観光客が修道院からちょくせつ墓地に入る門はないようで、その正門は壁にそってずっと横にまわったところにある。 警備はかなり厳重だ。 ここでも (たぶん) ノーテンキで無害な顔をしたわたしには、なにも問題はなかったけれど。
中に入ってノボデヴィチ墓地をじっくりながめてみよう。 門を入ってすぐ気がつくのは、レンガの壁いちめんに取りつけられた黒い小さな石板で、ほとんどに故人の顔写真がついている。 壁の有効利用というやつで、これがあるゆえに葬られている人の数はものすごく多い。
写真をひとつひとつながめてみる。 たとえば3番目の女性の顔。 若いきれいな人である。 彼女の生前のいちばんお気に入りの写真を使ったのかもしれないけど、これを見ているといろいろな思いがこみあげてくる。
彼女の人生はどんなものだったろう。 古くさい髪型からして、彼女が生きていたのはおそらくソ連の時代。 それでもこの名誉ある墓地に名前が刻まれているということは、地位も家庭も満ち足りた人生だったのだろう。 ロシアの現在を知らないまま死んだとすれば、それは彼女にとって幸せなことだったのか、不幸なことだったのか。
ノボデヴィチ墓地はさながら彫刻の森である。 箱根や美ヶ原にある彫刻の森のように、彫刻というものは美術館のコンクリートの部屋の中に置かれるよりも、自然や移り変わる四季の変化の中に置かれたほうが、芸術としての価値を高めるものだとしみじみ思う。
門を入ってすぐのところで、この墓地の地図が売られていた。 いくらと訊いたら100ルーブルだという。 高そうな気がしていちどはことわったけど、考えてみたら300円だ。 引き返して1部購入した。 この日に墓を見物していたのは、ロシア人もしくは欧米人の若者グループがひと組と、あとは夫婦や家族などのロシア人が数組で、地図はほとんど売れてなかった。
この地図によると著名人の墓だけでも250人を超える。 もちろん日本人が知っているのはこのうちの数パーセントだろうけど。 この日のわたしには、墓地に着いてから地図に書かれたロシア語の故人名を翻訳して、ひとつひとつの場所を確認するヒマがなかった。 だからおおざっぱに目についた墓だけを2回にわけて紹介する。
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2014年3月13日 (木)
お墓が好きだなんていうと、また、この変人がといわれてしまいそう。 でもお墓が好きって人はほかにもいるんだよ。
わたしは墓地へ行くのがいつも好きだった はじめは遊びに栗拾いに それからこころをかきむしる墓碑銘を読みに (中略) 初めの信じやすい衝動にうらぎられて わたしはもう墓碑銘を読まない 墓石の上には茶色の栗の実が音をたてて落ちている ああ 栗の実を拾う少年はいまどこに しかしわたしはまた墓地にいく 昔のように 古い塀づたいに歩いていけばほぼその中ほどに 忘れられたひとつの墓が見つかる
これはずっと前にも引用したことがある、1984年にノーベル文学賞を受賞したチェコの詩人ヤロスラフ・サイフェルトの作品だ。 あの世なんて信じてないわたしだけど、お墓は亡くなった人を思い出し、自分が故人になったつもりで、人生の悩みや疑問について自問自答できる場所なのだ。 墓碑銘が読めればもっと楽しいはずだけど、それはちとムリ。 でもロシアの墓地は彫刻美術館みたいなところがあって、さまざまな意匠をこらした墓石をながめているだけでも楽しい。
おかしな道を教えられて迷ったものの、どうにかノボデヴィチ修道院にたどりついて、ところがまたそこで失敗。 墓地は修道院の外、南側の壁に接していると、ガイドブックにそう書いてある。 だからわたしは修道院には入らず、壁にそってぐるりとその周囲をまわってみた。 修道院のかたわらに雪の積もった平地があって、冬に見ると畑でもあるのかなと思ってしまうけど、夏の写真で見るとこれは池のようだった。
池のまわりに遊歩道がある。 ぼんやり歩きながら思索にふけるにはいいところで、チャイコフスキーもここで 「白鳥の湖」 の構想を練ったそうだ。 しかし墓なんかありそうもない。 子供を遊ばせていた奥さんに尋ねると、修道院の正門のへほうを指してなんとかかんとか。 さっぱりわからないから、すこし先で散歩していた老人にまた訊いてみた。 見つからないのも当然だった。 壁の外側にあるとばかり思っていたけど、墓そのものも壁に囲まれており、この壁は修道院の壁とつながっているから、知らない人間には墓も修道院の内側にあるように見えてしまう。 壁の外側をいくら探しても見つからないのは当然だった。
上の写真は、手前の赤レンガが墓地の壁、白い塔から先は修道院の壁ってことになる。 下の写真は墓地の入口。
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2014年3月12日 (水)
震災からまる3年である。 ウチの新聞だけを読んでいると、震災の復興は遅々として進まず、まだまだ問題が山積みだ (と思わされてしまうところがコワイ)。 ウチの新聞の今朝のオピニオン面に復興コーディネーターという人の意見が載っていて、冷静、客観的な目でながめれば、日本の復興は外国人などに賞賛されるほどのスピードで進んでいるとある。 ウチの新聞がごたごたいっても、わたしだって政府はまあまあよくやっているほうだと思う。 ウチの新聞もたまには、文句ばかりいって、なんでもすぐに自分の希望する方向で解決するのが当然と考える国民のほうに問題があると、はっきりいったらどうだ、はっきり。 ウチの新聞だって客商売だからそれはムリか。 ウチの新聞は反体制を標榜しているから、このままでは、なんでもかんでもオーバーに悪く書くんだろうと思われてしまって、これはやっぱしお互いにマズイでしょ。 ウチの新聞でおもしろいのは、いしいひさいちサンとしりあがり寿サンのマンガだけではないか。
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じつはこの日、はじめてノボデヴィチ墓地に行ったときは、あまり興味がないというので修道院を無視して、まっすぐ墓地に向かってしまった。 あとでロシア人の友人に会ったら、彼はそんな墓地は見たことがないという。 東京人がかならず東京タワーに上ったことがあるわけじゃないのといっしょだ。
それじゃわたしが案内するからといって (どっちがロシア人かわからない)、帰国日の午前中にもういちど墓地を訪ね、そのさい修道院もじっくり見学した。 それでちょっと順序が逆になるけど、ここでノボデヴィチ修道院の写真と報告。
この修道院については古色蒼然としたお寺で、見学している人もほとんどおらず、みやげを売る店もなく、まだ観光ずれしていない印象。 金色の玉ネギが遠目には立派だけど、そばで見るとボロっちいというロシアの寺院の例外ではなく、5番目の写真をみると教会の入口の柱に補強の鉄骨を入れてあるのがわかる。 プーチンも頑張っているけど、まだまだ経済大国の恩恵は、こんなお寺にまで届いてないようだ。 もっともお寺のほうでは無欲恬淡、行雲流水の精神を遵守しているらしく、入口で、どこで料金を払うのかねえと思案しているうちに、わたしたちはいつのまにか境内に入ってしまっていた。 知らんぞ。
外から見るだけで十分だから、いちいち寺院内の建物の中まで入ってみなかった。 境内にはりっぱな墓があり、黒い石棺が地面の上に置かれていた。 エライさんの墓らしいけど、りっぱな石棺だから中味が気になる。
この寺院はもともと女子修道院として造られたらしいから、修道女というものが今でもいるなら、ぜひそれを見たかった。 修道女はいろんな映画に登場するけど、たいてい魅力的に描かれているものである。 たまたま境内の水たまりでカラスが水浴びのまっ最中で、数人の観光客を案内していた修道女の服装のオンナの人が、あらぁという調子で足を止めてながめていた。 色の白いカラスはめずらしくないけど、行水をするカラスはめずらしいらしい。 それはともかく、修道院内にいまでも修道女というものが現存することがわかった。
境内は写真撮影が禁止らしいけど、監視もいないくらい素朴なところだから、わたしはついつい写真を撮ってしまった。 友人にいわせると、そんなわたしを見て、ロシア人が、あっ、カメラ使ってるといっていたそうだ。 注意されるんではないかと心配したら、そのロシア人の観光客もカメラを持ち出していた。
どうもしまらない見聞記だけど、わたしはこういうお寺に、写真を撮る以外の興味はあまりないのである。 詳しく知りたい人はまた自分でウィキペディアを参照のこと。
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2014年3月11日 (火)
腹がいっぱいになって元気になったので、最初に予定していたノボデヴィチ墓地に行ってみることにした。 地図をながめると、墓地はメトロでスポルチーヴナヤという駅まで出ればよい。 路線図を見ると、スポルチ駅はメトロの1号線で、この路線の駅というと、アルバート通りからはクロポトキンスカヤという駅が近い。 そこまでせいぜい6~700メートルぐらいだから、また歩くことにした。 歩きながらクロポトキンというのは、たしか日露戦争のときのロシア側大将だったよなと思い、あとで確認したら似た名前の思想家がべつにいることがわかり、駅名としてはそっちのほうがふさわしいみたいである。
アルバート通りからクロポト駅までは、またなんてことのない通りである。 なんてことはないといっても、建物はみんな古風な様式だから、ぶらぶら見て歩いて退屈はしない。 かたわらの建物の半地下になったフロアに、小粋なカフェやレストランがあったりする。 左手の道路の分離帯が公園になっていて、ボートをこぐ人の彫刻があったけど、どういう意味なのかわからない。
クロポト駅のそばに行ってみたら、すぐそばに金ピカ玉ねぎの救世主ハリストス聖堂がそびえていた。 アルバート通りのほうからこの寺院に接近すると、にぎやかな通りに面した派手な寺院というだけで、見なくてもかまわないようにみえたから、このときは無視してさっさと地下鉄に乗ってしまった。 4番目の写真の駅名はクロポト駅のもの。
わたしにとって金ピカの寺院よりお墓が優先だけど、いったいそれはどういうものなのか。 モスクワにはノボデヴィチ修道院という世界遺産があって、それに隣接する墓地にはたくさんの有名人が葬られている。 ツアーがここに立ち寄ることはあまりないようだけど、けっこう観光目的で訪問する人は多いようだ。
ごろごろとメトロに乗って、なにしろ3つ目の駅だから、スポルチ駅にはすぐ着いた。 ちなみにスポルチーというのはスポーツということらしく、駅の正面の高速道路と鉄道のガードをくぐった先に大きなスタジアムがある。 大きいけどボロで、ただいま修復工事をやっているそうだ。 5、6、7番目の写真はスポルチ駅とその周辺、スタジアム。
駅前でそのへんにいたおっさんに、修道院はどっちですかと訊いてみた。 ロシア人は親切だから、とうぜんこのおっさんも親切で、と思ったのがそもそもの間違い。 ああ、それはとおっさん。 こっちへ行って、あそこを左へ曲がって、そのまままっすぐだ。 ところがあとでわかるけど、これがまるっきり逆方向。 おっさんのカン勘違いやマチガイでない証拠に、修道院は反対方向に歩いて10分もかからないところだった。 ノボデヴィチ修道院はこの地域を代表する名所であるから、地元のロシア人が知らないはずがない。
おかげで駅から、つまらない団地のあいだの道を抜け、東西南北すべての方向に向きを変え、何度も別人に道を尋ねて、ようやくノボデヴィチ修道院にたどりついた。 8、9、10番目の写真は歩きまわってくたびれた団地の景色で、すこしのことにも先達はあらまほしきことかなという徒然草の一節を思い出す。
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2014年3月10日 (月)
ドフトエフスキーみたいにむずかしい顔をしたまま赤の広場を散策し、つぎにアルバート通りへ向かった。 新宿のホコ天みたいな通りで、観光客に人気のある通りだけど、冬に行っても見るべきものはない。 そんなことはわかっているけど、ほかにアテはないし。
赤の広場からアルバート通りまで、せいぜい1キロくらいだからまた歩くことにした。 国立図書館のわきを入ると、しばらくはビルのならぶ丸の内のオフィス街みたいなところで、観光ポイントでもないふつうの通りである。 こういうところをぶらぶら歩いていると一般のロシア人になったみたいで楽しい。
そのうちメトロのアルバツカヤ駅のわきに出た。 この駅を起点にして新旧のアルバート通りが放射状にのびている。 ホコ天になっているのは旧のアルバート通りのほうだ。 とはいうものの、冬のこの季節には似顔絵描きもパフォーマーも出てないし、わたしに興味のあるものはあまりない。
大きな建物があった。 シェークスピアの劇なのか、オペラなのか、「オテロ」 を上演しているから劇場なんだろう。 銅像があった。 ピョートルじゃないことは確かだけど、誰のものかわからない。 ドラゴンという名のタトゥー屋さんがあった。 マルタ島でも見たことがあるけど、欧米やロシアではTATTOO屋さんはおおっぴらな商売だ。 前回の旅で見た記憶のある、大きな壷をころがしたレストランも。
通りで
露店の古本屋が店を出していた。 むかしのわたしは街に出るとかならず本屋に寄っていたほうだから、店頭で子供向けの絵本をぱらぱらとひろい読みしてみた。 店主にヒゲを生やした山男みたいなおっさんがいたから、どうですか、景気はなんて会話をしてみたかったけど、こういうとき言葉が通じないのはつらい。 ロシアもそのうち、わたしのキライなBOOK-OFF形式の古本屋に席巻されることになるだろう。
アルバート通りを往復してくたびれただけで、ぜんぜんおもしろくなかった。 このままホテルにもどってひと眠りしようかなんて考えてしまう。
腹がへったのでファーストフードの店に入り、ハンバーガーを食べた。 窓ぎわに坐っておもてを通る人をぼんやりとながめる。 こちらの店のまっ正面にダンキンドーナツの店がある。 ダンキンなんて英語らしからぬ名前だから、てっきりわたしは日系の店かと思っていたけど、このブログを書くために念のため調べてみたら、もともとは米国資本の店だった。
ふだんのわたしはファーストフードなんかめったに食べないから、こういう店に不慣れである。 食べ終わったモノはどうするのかとガードマンに訊くと、そこに捨てろという。 指摘されたダストボックスに小皿の中身を空けていたら、よこせといってそれをガードマンがひったくり、小皿ごとボックスに放り込んだ。 モスクワではまだプラスチックの分別収集はしてないのか。
腹がいっぱいになったら、またつぎの目的地に向かう気力がわいてきた。
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2014年3月 9日 (日)
モスクワの写真をながめていると、ときどき変わったかたちの派手な寺院の写真にぶつかる。 これはクレムリンのまん前にあるワシリー寺院、別名ポクロフスキー大聖堂だ。 ユネスコの世界遺産で、その美しさにまつわる伝説もあるそうだけど、にぎやかで騒がしいイメージで、遊園地にふさわしい、どう見たって日本人の感性には合いそうもない寺院である。
それでも前回の旅で見逃したから、今回は見学してみることにした。 入れるのは11時からで、わたしが着いたのはその5分前だった。 やはり入口でオープンを待っている欧米人観光客数名いて、わたしが入ったのは5番目くらい。
無神論者にはどうもこういう観光名所はニガ手である。 欧米の観光客のなかには、入口できちんと十字を切る者もいるけど、そんな作法は知らないし。
建物の大きさからすると内部は想像していたよりせまかった。 屋根の上に玉ネギがいくつも並んでいるのが特徴だけど、見学できるのは1階だけ。 壁いちめんが壁画やイコンや、ごてごてした装飾におおわれているのはロシアの他の寺院といっしょ。 わたしは15分で写真を撮り終え、見学を終えてしまった。 入ったのは5番目でも、出てきたのはトップだったかも。
お寺だから内部は暗い。 ストロボは禁止で、三脚も商用目的と思われそうだから使えない。 写真を撮るには不利な条件ばかりだけど、なにくそ、わたしはこういう逆境に強いカメラマンなのだ。 ずらりと並べたワシリー寺院の写真、興味のあるお方は虫メガネでどーぞ。
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翌日は朝の8時にバイキング形式の朝食をとり、その後部屋でのんびりと夜明けの街をながめながら、さて今日はどこへ行こうかと考える。 1年まえにクレムリンや赤の広場は見物ずみだから、今回はもうどうでもいいやと思う。 でもほかに何がなんでも見たいところがあるわけじゃないし、せっかくロシアに来てクレムリンを観ないってのもなんだから、いちおう表敬訪問のつもりでそのあたりをぶらぶらしたあと、ひとつノボデヴィチ修道院の墓地にでも行ってみるかと考えた。 この墓地はロシアの有名人がたくさん葬られていることで知られていて、お墓の好きなわたしがぜひ見たいと思っていたところだ。 そういうつもりでぶらぶらと出かけたのが10時ごろ。
じつはクレムリンという名のメトロ駅はない。 ホテルのあるアフトザ駅から、3つ目のチアトラーリナヤ駅がクレムリンの最寄り駅になる。 ほかにもクレムリンのあたりには3つの地下鉄路線が入り込んでいて、ピブリオチェーカ、アホートヌィ・リャト、プローシャチ・レヴォリューツィなどという舌をかみそうな名前の駅がある。 日本の銀座みたいに、地上に出てみなければ、自分がどこにいるのかわからないってやつだ。
地上に出てみると、ちょっとはなれたところにクレムリンの赤い壁が見え、場所を移動してみたらボリショイ劇場がすぐとなりに見えた。 このていどでもいちど歩いたことのある場所だから、すぐに自分のいる場所の見当はついた。 わたしが地上に出たのは新ボリショイ劇場の横にある出口だった。
ボリショイ劇場の円柱のあいだをぶらぶら。 はなれてみると豪勢だけど、近くで見ると円柱の根もとなんかヒビが入っていて、雑だなあとつまんないところに感心する。 ごらんのとおり、赤の広場に雪はほとんどない。
赤の広場をうろうろする。 ヴァスクレセンスキー門の前にある、これがロシア全道路の起点という円形の標識を、外国のお上りさんが踏んづけてよろこんでいた。 願い事をするとかなうんだそうだ。 前回来たときは広場のまん中に大きなドームがあって、レーニン廟でなにか工事をしていたけど、今回はむき出しだ。 でもレーニンに関心がないのはわたしもモスクワ市民もいっしょ。 廟の前に設置された冬季限定のアイススケートリンクは、客があまりいない点も含めて、前回と同じ。 冬のロシアの美点は、観光客が少なくて、ホント、のんびり歩けることだ。 マトリョーシカをならべたみやげもの屋さんも手持ち無沙汰。
トイレでも借りようかと、グム百貨店にも入ってみた。 建物は石造りのクラシックだけど、中身は表参道ヒルズみたいにブランド商品の専門店ばかりだから、わたしなんぞに縁のある場所じゃない。 建物の正面に120という数字のついたリボンがかけられていた。 創立120年という意味だとしたら、ロマノフ朝最後のニコライ2世が権力についたころじゃないか。
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2014年3月 8日 (土)
くたびれてマキシマパノラマ・ホテルにもどることにした。 この日はけっきょく新旧のトレチャコフ美術館見学だけで終わってしまったけど、それでも朝の10時から午後の4時まで、ほとんど歩きっぱなし、立ちっぱなしだ。 それでもメトロの移動方法もわかってきたし、初日としてはまあいいほうじゃないか。
帰りはトレチャコフスカヤ駅からノヴォクズネツカヤ駅まで地上を歩いた。 ノヴォクズ駅は円形の建物で、前回の旅ではこのあたりで、美少女ガイドのかほりクンと、ウクライナ料理を食べたおぼえがある。 今回はひとりなので、そんなところで食事をする気にもなれず、さっさとホテルにもどることにした。
ホテルのあるアフトザヴォツカヤ駅までもどり、駅の周辺をぶらぶらしてみた。 このあたりは観光ポイントからはずれているらしく、観光名所や気のきいたレストランはありそうもない。 幅の広い道路を横断するには、メトロに乗るための地下通路が横断歩道をかねていて、どちら側の出口にもごちゃごちゃした小さな店が集まっている。
ホテルと道路をはさんで反対側にある24時間営業の店で、バイキングのイラストがついたデンマーク産の缶ビールと、おつまみのソーセージなどの買い物をする。 夜中に空腹で目がさめるかもしれないから、カップラーメンも買っておいた。
買い物袋を下げたまま、駅近くのファーストフードの店に入った。 メニューのわきに数字が書いてあるから、この番号をいって注文すればいいだろうと思ったら、この数字は値段だった。 ロシアまで行ってファーストフードかいとなげく人もいるかもしれないけど、ひとりで高級レストランに入ってもしようがないし、わたしの旅はグルメや買い物とは縁のないものなのである。
ここに載せた写真は、最初がホテルからながめたメトロのアフトザ駅のあたり。 2番目、3番目はわたしの行きつけの、24時間営業のコンビニみたいな店。 4番目はデンマーク産ビールで、5番目はファーストフード店。
部屋でビールを飲みながら今日いちにちの記録をまとめる。 ロシアではオリンピックをやっていたみたいと、それにまったく関心のないワタシ。 テレビをつけてみたら、デンマークの動物園でキリンがライオンの餌にされたとのニュース。 不条理なこの世界ではそういうこともあるだろうと、すこしこころを痛めただけで、あまり深刻に考えもせずに部屋でごろごろ。
マキシマパノラマでは無線LANがタダで使えることになっているので、持っていた iPodでいろいろやってみたら、パスワードを要求されてしまった。 わざわざフロントに訊きにいくほど熱意があったわけでもないから、この晩はそれっきり。
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2014年3月 7日 (金)
2014年3月 6日 (木)
新トレチャコフ美術館には近代以降の絵が集められている。 と聞くと、なんとなくわけのわからない抽象絵画ばかりじゃないかと思ってしまう。 そんなことはないのである。 わたしも意外だったけど、あるコーナーには写実的、具象的な絵が展示してあって、なかなかすてきな水彩画もあった。
ほとんどが聞いたことのない画家の作品で、さすがにレーピンやクラムスコイ、ポレノフなどのスタイルはないけど、印象派の影響を受けたような美しい風景やきれいなオナゴの絵もあり、バーチャル感覚でロシアを旅したいと考えているわたしをなぐさめてくれそうな絵だ。 スターリン時代の軍人の肖像画や、共産党のプロパガンダに同調した労働賛歌みたいな絵もあって、体制に迎合することでしか作品発表の機会を持てなかったロシアの画家たちの苦労がしのばれてしまう。
ここに載せたものはほんの一部だけど、そんなことを考えながら、新トレチャコフ美術館の絵をじっくり観るのはけっこう楽しいことである。
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2014年3月 5日 (水)
弁解がましいってのはこういうことである。 わたしはあっちこっちで前衛絵画や抽象絵画がキライということを公言してる。 しかし前衛とか抽象というものは、これなくして芸術のお話はできないというくらい、この世界で重要な役割を果たしているものである。 それがキライということは、おまえには、作品をロバの尻尾で描いたみたいと酷評したフルシチョフなみの理解力しかないのかと誤解されてしまいそう。
だから弁解するんだけど。 前述したナターリヤ・ゴンチャロワさんは、ロシア・アヴァンギャルド、つまりこの国の前衛芸術の旗手だったってことだけど、彼女の生きた時代にはヨーロッパから、フォーヴィスム、キュビスムなど、絵画の新しい流れが怒涛のごとくロシアに押し寄せていたころだから、彼女にはそれに呼応するだけの必然性があった。 わたしもいちおう芸術を愛する者のはしくれだから、わたしがゴンチャロワさんと同じ時代に生きていたら、わたしも一兵卒として彼女の陣営に加わっていたかもしれない。
でもそういう闘争が熾烈だったのは遠いむかしの話である。 とくに現代の日本では、ありとあらゆる表現や技法が容認され、つけようと思えばいくらでもつく屁理屈でそれが擁護され、ちまたにはモネ、セザンヌからピカソ、ダリまで、ありとあらゆるタイプの絵があふれ、革新という言葉なんざとっくに見失われてしまったように思える。 これは芸術が円熟期に入ったという言い方もできる。 つまり日展でも、書道中心の全日展でも、権威が金で買える時代になったということだ。
もちろん画家たちはいまでも革新的な絵画に挑戦し続けているのだろう。 しかしわたしはすでに退役した軍人だから、いまさら前線に出ようとは思わない。 わたしはもう学ぶより楽しみの対象として絵を観たい。 絵画の歴史や価値について世間並みの知識はあるつもりだけど、顔がふたつあるピカソの絵を観るために、わざわざ美術館にまで出向きたいとは思わないのである。 わたしが絵画に求めるのは、美しい風景やきれいな女の子であり、そういうものが想像できればそればOKという、つまり “癒し” であって、たまげるような構図やおどろくような色彩ではないのだ。
弁解はこのくらいにしとこ。 ここに載せた絵は、マンガやアニメの1場面だと思って観ればそれなりおもしろいものもあるけど、円熟の日本から来た旅人にはどこかで見たような絵が多い。 それでも新トレチャコフ美術館をぐるぐる観てまわって、スターリン時代に迫害されたり、体制に協力を余儀なくされながらも、独自に芸術を追求していたロシアの作家たちの、それなりの成果のようなものは感じとることができた。 たとえば4番目、5番目、6番目の絵などは、ソ連もしくはかっての東欧圏以外では考えられないモチーフじゃなかろうか。 あ、右に写りこんでいるお尻は関係ありません。
最後の2枚は立体芸術だけど、これはまあ、デパートのショーウインドで働きたい人なら参考になるかもね。
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2014年3月 4日 (火)
火曜日の夕刊には文芸・批評というページがあって、南三陸町出身の歴史社会学者の山内明美さんや、作家の池澤夏樹サンが文章を寄せている。 両者の言い分はごもっともで、わたしなんぞが口をはさむものではない。
それよりページの下のほうに出ていた林美佐子サンという詩人の詩がおもしろい。 老紳士に身をまかせちゃった若い娘の心境をうたった詩で、わかりやすい言葉でつづっていながら、きわめて官能的。 わたしも男の立場から、いつもこんな妄想にふけっているから、いたく感銘を受けてしまった。
女性が話題のニュースだと、つい、どんな顔をした人なのかとつまらないことに興味をもつのがわたしの欠点だ。 夕刊に林サンの写真も出ていて、それによると理知的な美人である。 ホントにそうなのかとほかの写真を探してみたら、まだ写真がネットに載るほどメジャーじゃないようで、しかも同姓同名の人間が多いとみえて、どれが彼女なのかさっぱりわからなかった。
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西側新聞を読むと、米ソふたたび冷戦かなんて記事が。 ロシアがウクライナに侵攻したのかどうなったのか知らんけど、これではまるでオバマ君が本気で怒っているように聞こえてしまうではないか。 ケリー国務長官サンなんぞは、このままではロシアはG8に残れないだろうなんて。 ちょい待ち、G8ってなんだ。 これは主要先進国、もしくはそれに準じる国が集まって、いろいろな国際問題を討議するもので、そもそもメンバーをはずすとか除名するとかって性質のものじゃないはずだ。 たとえばいまや世界の経済大国である中国を除名してG8が成り立つのか。 だから西側は馬鹿ばっかりというんだよ。
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ゴンチャロワさんが主役の展示会のほうは、なんでもアリという感じで、アヴァンギャルドな芸術に興味のある人にはそれなりおもしろそうだ。 しかしわたしにとって作家や作品になんの知識もないし、現代絵画に興味はないし、そもそも写真も撮れないのでは、あまりおもしろいと思えない。 わたしはさっさと常設展のほうへ移動した。
新トレチャコフ美術館で、わたしの知っているのはシャガールとカンデンスキーぐらい。 知っているということと、好きとか興味があるということは同じ意味じゃないんだけど。
シャガールの絵はよく知られた浮遊する恋人同士を描いたものである。 伴侶を得たばかりのシャガールが、その幸せな気分を表現した絵であるなんて解説をどこかで読んだ気がするけど、この絵からはそんな雰囲気は間接的にしか感じられない。 色彩が地味で、男女の顔があまりうれしそうでないというのが原因かもしれない。 考えてみると、わたしだってモスクワに来て嬉しくてたまらないのに、歩いているときはどっちかというと苦虫をかみつぶしたような顔をしている(と思う)。 シャガールって人も本心をあけっぴろげにしないタイプだったのかもしれない。
わたしが観たとき、シャガールの絵は2点しか展示されてなかった。 どこかに収蔵されているのかもしれないけど、とくべつに関心があるわけじゃないからどうでもよかった。 カンデンスキーも一瞥しただけで終わり。 興味のないものに知ったかぶりをしても始まらないし。
ここでは新トレチャコフ美術館の館内と上記の2人の絵だけを紹介して終わり。 しかしこのあと弁解がましいことも述べなくてはならない。
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2014年3月 3日 (月)
ウクライナが政情不安だ。 西側の新聞を読むかぎり、他国を侵略するロシアがわるいとの論調ばかりだ。 ウチの新聞も西側の新聞だから、内容は似たりよったりだ。 あのあたりの情勢はそんな一辺倒な見方のできないところなんだけどねえ。
ロシアとウクライナの関係は、アメリカとカナダみたいなものだ (とロシアは思っていた)。 そんなウクライナ (カナダ) がもうロシア (アメリカ) は嫌いといいだしたら、ロシア (アメリカ) だって慌てるに決まっている。 クリミア半島にはロシアの軍事基地がある。 ウクライナがロシアから造反したら、軍事基地も使えなくなってしまう。 のど元にあるキューバにミサイルが持ち込まれようとしたとき、アメリカは断固としてこれを阻止した。 冬も凍らない貴重な海軍基地をロシアだって死守しようとするだろう。 そういうロシアの立場も理解しなくちゃ。
いまんところ無茶な騒動にはなってないみたいだから、もうすこし様子見だ。 またテロだなんだって騒ぎになったら、そりゃ外国から入りこんだ過激派が仕組んだことにちがいない。 それを考えると、ロシアがクリミア半島の軍事基地から武器を持ち出したのは正しい。
ロシアとウクライナはいつまでも仲よくしてほしい。 西側は馬鹿ばっかりだから。 わたしがロシアの肩を持つのは、プーチンが好きってこと以外に、ロシア文学、映画などの重要な背景になっているウクライナが、わたしが訪問するまで平穏であってほしいからだ。
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本家のトレチャコフ美術館にくらべると、新館は人気がないはずだから、すいているかと思ったらチケット売り場には行列ができていた。 なんか個人展みたいなことをやっていて、作家の身内や親戚・知人・芸術愛好家や、誘われたから仕方がないって人たちが押し寄せていたらしい。
入口の看板を無理に翻訳してみたら、これは 「東と西のはざまで」 という展覧会らしかった。 主役はナターリャ・ゴンチャロワさんて人らしいけど、そのあたりはよくわからない。 でっかい看板の写真を載せておくから、ロシア語に堪能な人は勝手に理解しといて。 個人展といっても、作品を見たかぎりでは、さまざまなタイプの大勢の作家の作品が展示されていた。
わたしはここでも写真OKのステッカーを購入し、バシャバシャ写真を撮ろうとした。 モスクワを訪問する日本人は多くても、このときこの場にいあわせた日本人はあまりいないだろうから、この展覧会を取材したのはわたしだけかも。 するとまたブログのアクセスが増えるのではないか。 そんなことを考えていたら、ニェットおばさん (ソ連時代にロシアに生存していた、なんでもダメというおばさん) が近づいてきて、撮影してはいけませんという。 こっちへ向かってのっしのっしと近づいてくる黒いスーツの女性がそれだ。
だってとステッカーを見せると、撮っていいのは2階の常設展だけですという。 仕方がないから会場をうろついて、作品でなければいいんじゃないかと、壁に並べてあった作家の顔写真らしきものをこっそりパチリ。
この写真の女性はH.C.ゴンチャロワさんといって、今回の展覧会の主役らしい。 なかなかの美人であるけれど、彼女についてわたしはなにひとつ知らない。 で、またいろいろ調べてみた。 ネットで見つけた記事に、1881年生まれのナターリヤ・ゴンチャロワという前衛芸術家について書かれたものがあって、これがどうも彼女のことらしい。 ナターリャなら名前のイニシャルはNになるはずだという人がいるかもしれないけど、ロシア語のHは英語のNである。 活躍したのは戦前だからかなり古い人ってことになる。 そういわれてみるとこの写真で彼女がかぶっている帽子は、禁酒法時代のフラッパー・ガールのものだから、たぶん本人にまちがいないだろう。
つぎの写真の、顔にペイントの原始人みたいなのも同じ女性のようである。 芸術家の中には頭をモヒカン刈りにしたり、絵の具を身にまとって裸でカンバスの上を転げまわったり、好んですっとんきょうな行為にふける人が多い。 戦前からすでにこんなことをして喜んでいたということは、ロシアでもどこでも、むかしから芸術家というものは変人が多いということの証明なんだろう。
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2014年3月 2日 (日)
ロシアの絵画や彫刻を集めたトレチャコフ美術館には、べつに新館というものがある。 作品を蒐集しすぎて入れ物がいっぱいになり、やむを得ず近代以降の作品はそっちにまとめたんだそうだ。 現代絵画や抽象芸術のキライなわたしは、前回の旅で新館のほうを無視してしまった。 今回は、どうせ今日はいちにち美術館まわりで過ごそうというつもりだから、散歩がてら新館のほうも見てくることにした。
新館は旧館からのんびり歩いて20分ぐらい。 「地球の歩き方」 を参考にしながらモスクワ川のほとりに出ると、ディズニーランドがふさわしいようなピョートル大帝の記念碑というものがそびえている。 この塔はべつの都市に建てられるはずのものが、そっちで評判がよろしくなく、モスクワに持ち込まれたってハナシだけど、持ち込まれたモスクワだって困るよな。
川岸からこの記念碑をながめると、そのずっと向こうに金ピカの救世主ハリストス聖堂が見える。 ハリストスというのはロシア語でキリストのこと。 この聖堂もスターリンの廃仏毀釈によって災難をこうむったそうだけど、あとで訪問することになるから、ここではくわしいことは省略。
この記念碑と聖堂をのぞむ川ぞいが公園になっている。 3番目の写真は新トレチャコフ美術館からながめたこの公園。
公園にはたくさんの彫刻が置かれていた。 ロシアでは街のあちこちにたくさんの銅像やモニュメントが設置されているけど、それはそれでいい景色だ。 しかしここにあったのは、日本の芸者の像もあるくらいだから、ロクなもんではない。 美術館のわきにはガラクタみたいな彫刻が無造作にならべてあって、どうやら集めすぎた作品の保管場所に難儀しているようだった。 ひょっとすると将来価値が出るかもしれないからって、秀作凡作の選別もせずやみくもに集めた結果かもしれない。 あとで所有者から苦情がきても困るから、勝手に粗大ゴミにするわけにもいかないし、巻いて畳める絵画とちがって、彫刻の処置は芸術大国の泣きどころかも。
新トレチャコフ美術館はこの公園の中にあって、見た感じは美術館というより、日本のどこかの県庁の庁舎みたいな建物である。 建物の前ではカーリングの遊技場ができていたけど、やっている人はひとりもいなかった。
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2014年3月 1日 (土)
イコンに興味はない。 ということで、前回の旅でもイコンはほとんど無視。 あっ、イコンというのはロシア正教会の壁に飾られている平坦な宗教画のことだかんね。 いちばん上の画像は、有名な 「三位一体」 というイコンの一部だけど、無神論者のわたしにとって、古くさいばかりで、芸術的にもあまりおもしろいものじゃない。
そう思っていたけど、どうせ時間はたっぷりあるんだしというわけで、今回の旅ではトレチャコフ美術館のイコンの間もじっくり見学してみた。 ここに載せたのはわりあい新しい時代のイコンだけど、これを観てちょっと認識を改めた。 平坦な、つまり2次元的な絵には相違ないけど、はて、これはどうやって描いた(制作した)のだろう。
衣装は完璧にパターン化され、質感、立体感などを徹底的に無視しているくせに、顔だけは写真のようにリアルで異質だ。 これならモダンアートといっても通るんじゃないか。 イコンに尊厳も敬虔な気持ちも感じるわけじゃないけど、技法についてはつい興味を持ってしまう。
このあと訪問する新トレチャコフ美術館や、サンクトペテルブルクのロシア美術館で、いちばん下の写真のようなもっとモダーンなイコンを観たことがあるから、現代の画家たちの中には、いまでもイコンを開発制作している者もいるらしい。 わたしの興味はこのあたりまでだけど、さらに興味をもつ価値はある。
P.S. カトリックのほうではあまりイコンという言葉は使われないみたいだけど、ちょっと前にスペインで猿にされた気のドクなキリストの絵があった。 あれもイコンの一種かも。
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