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2014年3月 5日 (水)

ロシアⅡ/現代絵画

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弁解がましいってのはこういうことである。
わたしはあっちこっちで前衛絵画や抽象絵画がキライということを公言してる。
しかし前衛とか抽象というものは、これなくして芸術のお話はできないというくらい、この世界で重要な役割を果たしているものである。
それがキライということは、おまえには、作品をロバの尻尾で描いたみたいと酷評したフルシチョフなみの理解力しかないのかと誤解されてしまいそう。

だから弁解するんだけど。
前述したナターリヤ・ゴンチャロワさんは、ロシア・アヴァンギャルド、つまりこの国の前衛芸術の旗手だったってことだけど、彼女の生きた時代にはヨーロッパから、フォーヴィスム、キュビスムなど、絵画の新しい流れが怒涛のごとくロシアに押し寄せていたころだから、彼女にはそれに呼応するだけの必然性があった。
わたしもいちおう芸術を愛する者のはしくれだから、わたしがゴンチャロワさんと同じ時代に生きていたら、わたしも一兵卒として彼女の陣営に加わっていたかもしれない。

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でもそういう闘争が熾烈だったのは遠いむかしの話である。
とくに現代の日本では、ありとあらゆる表現や技法が容認され、つけようと思えばいくらでもつく屁理屈でそれが擁護され、ちまたにはモネ、セザンヌからピカソ、ダリまで、ありとあらゆるタイプの絵があふれ、革新という言葉なんざとっくに見失われてしまったように思える。
これは芸術が円熟期に入ったという言い方もできる。
つまり日展でも、書道中心の全日展でも、権威が金で買える時代になったということだ。

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もちろん画家たちはいまでも革新的な絵画に挑戦し続けているのだろう。
しかしわたしはすでに退役した軍人だから、いまさら前線に出ようとは思わない。
わたしはもう学ぶより楽しみの対象として絵を観たい。
絵画の歴史や価値について世間並みの知識はあるつもりだけど、顔がふたつあるピカソの絵を観るために、わざわざ美術館にまで出向きたいとは思わないのである。
わたしが絵画に求めるのは、美しい風景やきれいな女の子であり、そういうものが想像できればそればOKという、つまり “癒し” であって、たまげるような構図やおどろくような色彩ではないのだ。

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弁解はこのくらいにしとこ。
ここに載せた絵は、マンガやアニメの1場面だと思って観ればそれなりおもしろいものもあるけど、円熟の日本から来た旅人にはどこかで見たような絵が多い。
それでも新トレチャコフ美術館をぐるぐる観てまわって、スターリン時代に迫害されたり、体制に協力を余儀なくされながらも、独自に芸術を追求していたロシアの作家たちの、それなりの成果のようなものは感じとることができた。
たとえば4番目、5番目、6番目の絵などは、ソ連もしくはかっての東欧圏以外では考えられないモチーフじゃなかろうか。
あ、右に写りこんでいるお尻は関係ありません。

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最後の2枚は立体芸術だけど、これはまあ、デパートのショーウインドで働きたい人なら参考になるかもね。

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