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2014年4月28日 (月)

個人の勝手

ゴールデン・ウィークでのんびりゆったり。
この場合ののんびりというのは、いい天気なのにすることが何もないという悲惨な状態で、ほかの日なら金融商品は要りませんか、墓石の御用はありませんかなんて電話がかかってくることもあり、おまえはアホかなんて返事をして、すこしはヒマつぶしにもなるけど、連休中はそういう商売もお休みらしく、まったく日がないちにち無聊をかこつしかない。
仕方がないから部屋でブログの更新でもするかってなもんで、前項に続き、古い思い出を引っ張り出して、懐古主義にひたることにする。

543a

海外旅行で中国というと、まず若い女性には人気がない。
現在の上海なんかはかなり先進国化されていて、買い物が楽しいという娘もいるかもしれないけど、わたしがはじめて出かけたころ (1992) は、まだ改革開放がようやく軌道に乗ったころで、路上で人民服の男性に出会うこともめずらしくなかった。
街もごみごみした不潔な印象で、貧民窟みたいな建物があちこちに残っていた。
だから中国は、というのは早い。
作家の司馬遼太郎は、中国の蘇州についてこんな文章を書いている。

 蘇州の美しさの第一は、民家である。
 この古都は、城内に大小の運河を四通八達させている。
 城内の運河は、いずれも狭い。 水に浸っている岸は、積み石で固められている。 その切り石のなかには、あるいは二千年前のものもまじっているかもしれない。
 民家は、運河のふちに密集している。 どの民家も、白壁に暮らしの膏(あぶら)がしみついていて、建てられて何百年も経ている家も多いだろうと思われた。 古びて陋屋になりはてた家ほど美しく、その美しさは、水寂びともいえるようなにおいがある。

作家のいうとおり、美というものは、個人の勝手、他人の自由で、あばたもえくぼになり得るのである。
だから見た目が汚いという理由で中国を敬遠する人の気がしれない。
ましてイデオロギーを持ちだして敬遠する人の気はもっとしれない。

543b

2番目の写真は、わたしがはじめて蘇州に行ったとき、寒山寺のわきで見たレストランである。
運河のほとりにある古い家で、そのへんから足もとのおぼつかない孔乙己 (こういっき=魯迅の小説中の人物) が出てきそうなたたずまい。
なんともいえない風情があって、できることなら店内まで入ってみたかったけど、そのときはパックツアーだったから、ひとりで勝手に寄り道をするわけにはいかなかった。
運河のこちら側からながめただけで、指をくわえてもどってきた。
しかし執念にもえたわたしは、2年後に、こんどは個人旅行でこの店まで出かけてしまったのである。

店内に入ってみたら、壁なんかススけていて、外観よりさらにきたない店だった。
しかし、このいい感じをかもしだしているのは、まさにそのススけ具合なのだった。
わたしは窓ぎわにすわって青島麦酒を飲んだ。
気分からすれば、ヨーロッパあたりの、どんな有名レストランの、どんなワインにもまけない味だったといえる。
また行ってみたい。

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