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2014年7月 4日 (金)

西表島/自然とわたし

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わたしの郷里は北関東の地方都市で、むかしそのあたりでは養蚕をしている農家が多かった。
わたしの親戚でも、一年のある特定の時期には、天井裏部屋みたいなところでカイコがたくさん飼われていた。
わたしはたカイコ棚にならんで首をふる白いカイコたちと、しきつめられた桑の葉の一種独特な臭いをはっきりおぼえている。

たくさん飼っていると、中には病気のもの、具合のわるいものが出てくる。
そういうカイコはなさけ容赦なく選別されて、庭の池に捨てられる。
池には大きなコイがたくさんいて、カイコを投げ込むと、われ先にとひしめきあってそれを呑みこんでしまう。
小さな池だったけど、季節になるとショウブが黄色い花をつけ、その根もとあたりに体に斑のあるライギョがひそんでいるのが目視できたりした。
たぶんウナギやナマズも棲んでいたと思われる。
水面に小さな魚の群れが泳いでいたり、ミズスマシ、アメンボ、ゲンゴロウなどもいた。
ほんの10平方メートルもないような池に、ありとあらゆる生きものが棲んでいて、弱肉強食という自然の摂理を、たぶん江戸時代あたりから繰り返していただろう。

なんで江戸時代かというと、つまりわたしの郷里の原型が固まったのがそのころだと思うからだ。
北関東のワラぶき屋根の農家とそれを取り囲む水田の配置は、江戸時代から昭和の前半あたりまで、ほとんど変わらずに連綿と続いていて、親戚の庭にあった池もそのころからあったんじゃないだろうか。

わたしはそういう時代をなつかしむ。
自然の輪廻を人間が断ち切ることなしに、すべてが混然一体となっていた時代を。
田中冬二の詩世界のような、古い素朴な日本の農村を。

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でも、古いむかしをなつかしむのはわたしだけじゃない。
わたしたちはひじょうに変化の激しい時代を生きているので、人生の前半と後半で環境が激変した人はたくさんいるはずだ。
合理性とスピードと競争原理が幅をきかすこのコンピューター社会から、いっときでも水面に浮かび出て、ひと息つきたいと考える人は少なくないにちがいない。
前半の人生に郷愁を感じないという人がいたら、たぶんその人は人生に揉まれて、感受性をすりへらしてしまった人なのだろう。

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今回の旅の紀行記はこれで終わりだけど、わたしの中では現代の奇跡のような西表島に対する畏敬の念がふつふつ。
どうせトシがトシだから、いつまでひとりで海外旅行はできっこない。
これからは海外旅行よりも西表島に入りびたってしまおうかと、本気で考えるくらいなのである。

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