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2014年7月31日 (木)

カヤの外

作家の邱永漢さんが 「邯鄲の夢」 について書いていた。
邯鄲の夢というのは中国のむかし、ひとりの青年が栄華をきわめる夢をみるが、夢からさめてみると、眠るまえに火にかけた粟がまだ煮えてなかったといもので、人生のはかなさ、栄華のむなしさを象徴する説話だそうだ。
ただしと、永漢さんは書く。
自分だったらこんな話を聞かされても、ひるまずに、やはり栄華栄達をめざすだろう。
じっさいに体験してみなければ実感として理解できっこないというのが中国人の考え方だそうだ。

中国で最高指導部のメンバーだった周永康という政治家が、現指導者の腐敗追求のあおりをくらって失脚したらしい。
権力者が変わればたちまち標的にされるおそれがある (北朝鮮なら機関銃で蜂の巣だ) にもかかわらず、どうしてあの国の人間は現世の利益を追い求めるのか。
もちろん捕まるのがコワイといって悪いことをしない悪人はいないだろうけど、中国の場合は、栄華をきわめ尽くした人間ほど、権力者が変わったときに臭いメシを食う確立が高いのだ。
あの国で栄華というと、たいていは汚職や無法がつきまとっていることは、本人もよく自覚していることだろうし。

それでも栄華を実感したいという輩があとを絶たないのは、王朝時代の科挙の制度がいまでも生きているってことかもしれない。
科挙のもとでは、本人がそれなりの地位に登れば、一族郎党ともに栄華をきわめるってことで、栄華の規模がケタ違いなのだ。
そのかわり本人が失脚すれば、一族郎党もおなじ運命である。
だんびらや機関銃が使われなくなったというだけで、中国は4000年前の政治システムがいまだに続いている世界遺産の国なのだ。

もちろんこの騒動でもって、今度の中国の指導者はなかなか正義を愛するなんて思っちゃいけない。
新しい政治家には新しい護摩のハイがたかるのは間違いがない。
ひょっとするとこの権力闘争の激しさが、健全な政治のひとつのあり方かもしれない。
おごれる者はいつかかならず蹴落とされ、どんどん交代して、独裁政権の内部浄化をすこしは果たしているみたいだから。
一般庶民は、もち、カヤの外。

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