童貞消失
前項でくだらないことを書いているうちに、ふと疑念が生じた。
三四郎は福岡県の真崎村出身の学生である。
福岡にかぎらないけど、むかしの地方の農村には “よばい” という風習があった。
うらやましいと思うのは早計で、当時の若衆組 (青年団みたいなもの) が、これについても、身勝手なことはさせないようにきちんと取り仕切っていたそうである。
若い男が発情期になると、先輩が、おまえもそろそろいいんじゃないか、今夜はおハナ坊のところへ行ってこいと、童貞消失のための段取りを整えてくれる。
当時は娘のほうも、やたらにセクハラだなんて騒がないだけの器量をもっていたから、これは想像だけど、古風なモラルにしばられていたはずの明治の男の童貞率は、ソドムの市みたいに乱脈をきわめる現代より、ずっと少なかったのではないか。
「三四郎」 の時代にはすでによばいという風習がすたれていたとしても、なんたってまだ赤線があった時代だ。
芸者の廃業と童貞がいっきに増えたのは、赤線廃止にも大きな原因があったと、これはわたしの勝手な想像じゃなく、文献にもそう書かれている。
先輩が先輩風を吹かして、後輩をそういうところに連れていく余裕はたっぷりあったはずなのに、なぜ三四郎は童貞なのか。
ここで考えるんだけど、漱石は熊本で教べんをとっていたことがあるから、ふつうなら三四郎をそのあたりの出身にしそうなものだ。
しかし九州でも熊本や鹿児島となると、伝統的に尚武の気のつよいところで、先輩の後輩に対する面倒みのよさで知られるところである。
三四郎がかりに熊本の出身なら、上京前にすでによばいに送り出され、童貞を失っていたと考えるほうが無理がない。
だから福岡の真崎村なんて聞いたことのない田舎を持ち出したのは、そのあたりの学生なら、設定が童貞でもおかしくないという漱石の深慮遠謀かもしれない。
こういう小説上の作為でないとすれば、三四郎がいいうちの坊ちゃんで、幼いころから勉学を強要され、よばいなどという下賎なしきたりに染まらなかったということも考えられる (じつはこれがいちばん可能性が高いんだけど)。
漱石とならびたつ文豪・森鴎外の 「ヰタ・セクスアリス」 にもよばいが出てこないけど、この本は明治の作家がかなりあけすけに性的体験をつづった本であるから、作家がそれを体験していればとうぜん記述があっておかしくない。
じつは鴎外は田舎の若衆たちから隔離された、いいうちの息子だったのである。
だからやむを得ないにしても、三四郎はそれほど名家の息子に思えないんだけどな。
またアホなことを考えたけれど、三四郎が童貞か否かで、この小説の展開は大きく変わったはずである。
そっちが読みたい。
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