湯沢温泉/結末
「雪国」 は過去に2度ほど映画化されている。
わたしの部屋にもテレビから録画したそれがあったはずだと、帰京してからDVDをひっかきまわしてみた。
見つけたのは岸恵子(駒子)と八千草薫(葉子)の1957年版。
参考のために観てみた。
映画は文芸作品としては、まあわるくない出来。
文章で描かれたものを視覚化してくれた功績は認めなくちゃ。
ただ、たいていの場合、原作と映画化された作品は異なるのが当たり前だ。
ましてこの作品の場合、原作はなにがなんだかわからない結末なので、そのまま映画化したのでは観衆が納得しない。
それで映画は一般大衆にも納得できそうな結末になっている。
そのために原作者からいちゃもんをつけられたって話は聞かないから、これは川端康成さんも合意の上の結末なのだろう。
でもこれでもって 「雪国」 のストーリーをうんぬんする気にはなれないな。
『雪国を訪れた男が、温泉町でひたむきに生きる女たちの諸相、ゆらめき、定めない命の各瞬間の純粋を見つめる物語』
『愛し生きる女の情熱の美しく哀しい徒労が、男の無情に研ぎ澄まされた鏡のような心理の抒情に映されながら、美的に抽出されて描かれている』
これはウィキペディアの説明だけど、ちょっとオーバー。
女たちといっても記憶に残るのは駒子と葉子だけだし、島村もナレーターみたいな感じで、本気で駒子を愛しているのかどうかも疑わしい。
「雪国」 を読んでいて、ふと夏目漱石の 「草枕」 を思い出した。
ちょっと唐突な場面で終わっているところが共通しているけど、こちらはぴしゃりと決まった俳諧趣味的なオチであって、それが読書家にとって気持ちのよい余韻を残す。
ところが 「雪国」 で残ったのは、美味しいものをとちゅうまで食べて止めたみたいな欲求不満ばかりだ。
薄情な男に徒労に終わる愛を尽くす女を描いた小説といわれるかもしれないけど、島村はそこまで情け知らずとも思えないし、わたしなら無理やりハッピーエンドの結果を考えることだってできる。
この先は読者が勝手に想像してくださいってことだとしても、どうも不親切な小説だ。
というのがわたしの 「雪国」 の感想。
名作を冒涜するのかといわれても、返す言葉がありません。
湯沢温泉からの帰りは上越新幹線にした。
わたしが新幹線なるものに乗るのは、17年ぶりである。
「雪国」が書かれた当時、急行で7時間かかっていた区間を、いま新幹線は1時間半で走ってしまう。
同時に情こまやかな芸者、行きずりの客の部屋に押しかけてくるような芸者、のいた時代も隔世のものになってしまった。
たとえわたしに宝くじが当たったとしても、こうした日本的なものに逢う機会はもうないだろう。
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